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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」展 

国立新美術館で開催中の「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠」展を拝見してきた。
ヴェネツィア派ときたら見ないわけにいかないと気負いこんで行ったのだが、意外と空いていたので拍子抜けした。
同じ館のダリ展に人が流れたのかと思ったが、あれこれ観て回っているうちに、展覧会自体がいまいち求心力を欠くことにも理由があるのかもしれないと感じられてくる。
まず、会場が広いわりに出品点数が57と少なめである。狭い空間にこれでもかという数の絵を押し込むより、このほうが展示作法としてはましに決まっているのだが、寂しい気もする。
名高いアントネッロ・ダ・メッシーナの「受胎告知の聖母」は甥(アントニオ・デ・サリバ)による模作が、ティツィアーノのヴィーナスは工房作品が出品されており、物珍しく感じられるものの絵としての完成度にはやや疑問が残る。
一応「受胎告知」が展覧会全体の目玉であるはずのティツィアーノの作品だが、それ以外で出品されていたのは聖母子が1枚のみ、工房によるヴィーナスを勘定に入れても合計3作にとどまる。
ティツィアーノではなく次世代のティントレット、ヴェロネーゼ、ヤコポ・バッサーノらをヴェネツィア派の全盛期として位置づけるとともに、マニエリスムやバロック寄りのものとして把握することもできそうな彼らの作品をあくまでも「ルネサンス」という枠組の中で見ようとする構成には、異論を唱えたくなる人もいそうである。ヴェロネーゼやバッサーノの聖ヒエロニムス像はもちろんすばらしいものだが、いかんせん地味だし、ことに華やかな群像で知られるヴェロネーゼの場合は、彼の持ち味が存分に発揮される画題とも思われない。
肖像画は12点に上るが、作者も人物もさほど有名ではない作品などは、後世に生きる我々赤の他人にとっては、それ自体がよほどの傑作なのでないかぎりそう意味深いものではないのだから、もっと割合を減らしてもよかった。
意図した結果とはいえどう見ても青が多すぎるドメニコ・ティントレットの「キリストの復活」や、ティツィアーノの先例にならいつつ、すでに記号と化したヴェネツィア派の様式的諸特徴をそつなくまとめあげたというだけのパドヴァニーノの神話画(「オルフェウスとエウリュディケ」・「プロセルピナの略奪」)などを眺めていると、時代を下るにつれて画家が小粒になってくるという印象は否めない。
しかし見方を変えれば、よそいきの姿でない、等身大のヴェネツィア派絵画を概観することのできるよい機会だったとも思える。
それだけに群を抜いて際立つことになるのは、サン・サルヴァドール聖堂の「受胎告知」における晩年のティツィアーノの途方もない天才である。
「燃えても焼き尽くすことのない火〔IGNIS ARDENS NON COMBURENS〕」という銘文そのまま、闇を切り裂いて滝のように流れ落ちる黄金の光と、何重にも分厚く絵具を塗り重ねられた大天使の羽は、人間の知らない、摩訶不思議な物質の非物質的言語を語る。表現力が高いなどというものではない、ティツィアーノには表現しかないのである。なにしろ、鑑賞者の目をまっさきに射る最も明るい部位は、マリアではなく、顔が陰に隠れたままの天使の右頬なのだ。「燃え上がるような」「色彩の錬金術」という決まり文句には、少しの誇張も嘘もない。主題などどこ吹く風とばかりの奔放さで繰り広げられるこの色彩の乱舞は、いかなる画集や複製画よりも雄弁に、ティツィアーノが「画家の王」であるゆえんを得心させてくれる。

category: 展覧会

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ジャン・ジュネ『判決』 

「それを別の語で、あるいは同じ語でも別の文で繰り返さなければならない」(注1)。―« Cela doit être répété au d’autres mots, ou les mêmes dans d’autres phrases ».

それ自体が同じものの繰り返しを告げる、どうしようもなく意味の稀薄なこの文を思い出したように繰り返しながら、『判決』の頁はぶつぶつと呟かれる繰り言のようにあてどなく続いていく。本文の傍らに印刷された注釈のような、しかし注釈のようにはたやすく意図が読めない、世界史を縦横に貫く無数の反抗的な形象について説く活字たちの存在にもまして不可解なのは、言うまでもなく本文そのものだ。
牢獄や囚人を彩る華麗な修辞の数々、それはジュネらしさという型に押し込んで安易に理解した気になる読者への誘惑のようでありながら、この本においては、司法官と犯罪者との間のひそかな共謀、馴れ合いを通じて懲罰の意味が無化されるという、法秩序へのまじめな皮肉につながっていく。判決は言い渡されてそれで終わりというわけにはいかず、刑に服する犯罪者の身体によって書かれる必要がある。ということはまた、そこには変奏や歪曲の必然性、不可避性もあるということだ。いくら読み進めても一向に方向性の見えてこない、純粋に修辞だけでできているのではないかと思わされるほど徹底的に意味を削ぎ落とされて薄片のように軽くなった文たちは、この洞察のまさに身体であり、いかなる内容豊かな雄弁にもまして雄弁に、この洞察の真理を上演している。
そして、法秩序の空洞化を背景に浮上してくる新たな事態とは、「私」の存在の無意味さであり、あるいはむしろ、出生以前から潜在的なものとして存在していたという「私」の、徹底的な運命愛である。

以前には―知らない女の陰部から出てくる以前にと言っているのではなく、ずっと以前にということだが、―以前に私はいったいどこにいたのか。形なく、存在しないも同然の私が存在していた。それにしても、どのようにして、どこに? ふたりの迷える人物の性交を待ちながら、私は日の目を見るのを待った、それにしてもその前は? 私はずっとむかしから存在したのか。永遠そのものに属したのか。私はいた、そして私はいなかった。無から生まれた。私は魂ではなかった。私の不在が存在したのか。おそらく! 飛ぶことも、ひらひら舞い上がることもなかった。かといって動かぬものでもなかった。そして私は私自身を―いや私自身をではなく―すでにジャンと呼んでいた。昼夜があり明暗があった。私は待ち、何も待ってはいなかった。なぜなら……ある不在から、太古からの私の空しい待機から出てきたものにすぎなかったから。どんな言葉を書いてもいいが、もはやどの言葉もけっして疑いの影さえ投げかけはしないだろう。(注2)




(1)ジャン・ジュネ『判決』(宇野邦一訳、みすず書房、2012年)25頁以下。
(2)同書37-38頁。

category: ジュネ

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カール・シュミット『大統領の独裁』 

ワイマール憲法第48条の第2項には以下のごとき二つの文章が書かれ、大統領への非常権限の付与について定めていた。

 もしも、ドイツ国家(ライヒ)において、公共の安全と秩序がいちじるしく攪乱されるかあるいは脅(おびや)かされたばあいは、ライヒ大統領は、公共の安全と秩序を回復するために必要な措置を講じ、必要とあれば武力を用いて干渉できる。この目的のために、ライヒ大統領は、第114条、第115条、第117条、第118条、第123条、第124条と第153条に定めた基本的人権の全部あるいは一部を、一時的に停止できる。(注1)

カール・シュミットが1924年に「大統領の独裁」を発表した際、最も一般的だった解釈によれば、第二文は第一文に限定を加えるという性格を有するもので、大統領が一時的に停止できる人権―具体的には、個人自由の不可侵権(第114条)、住居不可侵権(第115条)、通信の秘密(第117条)、表現の自由(第118条)、集会の自由(第123条)、結社の自由(第124条)、財産権の保障(第153条)―を列挙することにより、暗にそれ以外の諸権利については手出しできないことを意味しているのだという。
しかし、当時の実際の運用はこのとおりでなく、大統領は、単に七つの基本権の停止にとどまることなくそれを踏み越える措置、とりわけ執行権の譲渡による、各邦からライヒへの権力集中などを、必要に応じて実施してきた。
そのような現状に鑑みつつ、シュミットは通説に異を唱える。すなわち、第二文の「この目的のために」とは、「武力を用いて介入するために」でもなければ「必要な諸措置をとるために」でもなく、「公共の安全と秩序の回復のために」である。したがって、第二文は第一文に従属しつつ限定を加えているわけではない。もちろん、第一文における措置の中に、第二文が述べている諸基本権の停止を含めて考えることは可能だが、その場合も結局、第二文の意味するところは、「もしも大統領が諸基本権を停止させたいなら、その範囲はしかじかの基本権にのみ及び、それら以外には及ばない」ということに尽きており、そもそも基本権の停止という措置を選ぶことなく大統領にいかほどのことができるのかについては、何も限定してはいないことになる。
ここにおいてシュミットは、個々の憲法規定の効力を停止することなく、単に規範を逸脱することの可能性を提示する。

効力を停止するとは、棚上げし除去することである。ところでしかし、事実上の措置という形で、規範―憲法規定というのは規範である―を無視し、具体的な事例で規範を―効力を停止するのではなしに―逸脱する、ということが可能なのである。〔中略〕法的な規定に違反する者は、それを棚上げするのではなく、効力を停止するのでもない。犯罪人は、刑法の基礎になっている規範に違反し、それを逸脱し、それをふみ破るが、これらはいずれも、規範の効力を停止するわけではない。他方、同様に、権限によって例外を認められる者も、規範の効力を停止するわけではない。このことの法論理上の特殊性は、例外の典型的な事例である恩赦において、もっとも明確となる。すなわち、恩赦を行なう者は、刑法上および刑事訴訟法上の諸規範について例外を設けるわけであるが、これの効力を停止しようなどとは考えもしない。むしろ、例外は、規則のもつ力を保証すべきものなのである。それどころか、例外は、その逸脱する規範が、変わることなく通用し続けることを、前提としている。棚上げすることなく侵害し、効力を停止することなく逸脱するというのが、例外という概念の構成要素なのである。ところで、第四八条第二項にでてくるのは、例外であり、現行法を侵害する非常事態の諸措置、合法的に認められる例外なのである。(注2)

規範の効力を停止することなくしかもそれに逸脱する横紙破りの実例としてさりげなく挙げられた犯罪という不穏な語、またそれとは対照的な、神の奇蹟にも似た恩赦というもう一つの実例、そして例外こそが規範の威力を証明するという逆説的な主張―ここには、ナチスへの迎合によって悪名高いシュミットの民主主義嫌いやカトリック思想とともに、例外の理論家としての顔が露骨に現れている。
要するに、第48条第2項は、その第一文ではライヒ大統領にいかなる措置をもとりうる権限を付与し、加えてさらに第二文ではいくつかの(七つの)基本権を停止する権限を付与しているというだけであって、前者を後者が限定していると考える必要はない。いかにも、もし大統領が基本権を「停止」したいなら、その場合には第二文で挙げられたもの以外の基本権を停止できないことは確かだが、そもそも第一文によって、停止ではなく単に「侵害」する―つまり例外を設ける―という措置を選ぶ自由も、彼には認められているのである。

 それゆえに、第四八条第二項の正文からして、ライヒ大統領が、あらゆる必要な措置をとる一般的な権限と、そして、挙示されている特定の基本権の効力を停止する特別の権限をもつ、ということが明らかになる。限定が妥当するのは、特別権限にかんしてのみである。すなわち、ライヒ大統領が基本権の効力を停止させようとするばあいに、挙示による制約を受けるのである。ふつうに行なわれている解釈が、第一文全体に及ぼそうとしている限定に対しては、この線に沿って限定を加える必要がある。効力を停止することにかんしてだけでなく、憲法条項に触れるすべての処置にかんして、この挙示から法的制約を構成しようとする試みは、もっと厳密に考察した正文にてらし合わせていうなら、すべて詭弁なのである。(注3)

シュミットはついで自らの主張を裏づけるべくワイマール憲法の成立史をたどり、さらに国家緊急権、主権者たる君主の地位、国民議会の主権独裁等との区別を通じて、結局のところ第48条第2項にもとづく大統領への権限付与は、憲法制定後に発足した法治国家の内部で生じる非常事態に対応するための、委任独裁の一種であると定義する。といっても、第5項―「詳細は、ライヒ法律によって定める」―が約束する細目規定がいまだ実現しておらず、法の欠缺状態が続く間は、それに応じてこの独裁も全般的な、無制限なものであり続ける。


(1)田中浩「大統領の独裁とワイマール共和国の崩壊」、カール・シュミット『大統領の独裁』(田中浩・原田武雄訳、未來社、2002年第8刷)、236頁。
(2)同書30-31頁。
(3)同書34-35頁。

category: カール・シュミット

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SAZ『この快楽がすごい!』 

サークル「SAZ」のsobaさんがまたやってくれた。
5月1日のコミック1で出す予定と告知されながらも20日遅れて21日に店頭販売の運びとなった、『この素晴らしい世界に祝福を!』のサキュバス本『この快楽がすごい!』は、時間をかけただけあって本当にすごい。

アニメ版第9話に出てきたサキュバスのお店のお姉さんと欲望に正直なカズマの組合せで、となれば頁のほとんどを性行為そのものが占めている無駄のない構成は予想通りである。
武田弘光的な女性の表情の崩し方をよく研究した上でその成果を男性の顔に活かすという独自の路線や、姿勢に多少の無理が生じるのは承知で女性の顔の正面性を維持する工夫など、見どころを数え上げればきりがない。指で自ら女性器を左右に押し広げる仕草も、みやもとゆうあたりならともかく、この人の漫画では目新しい。
特に男性の描き方からは、高すぎない鼻をはじめあっさりとした顔立ちに加えて、陰茎の血管の強調、やや胴長で腰や太腿の筋肉が目立つ体つきなど、最近の定番をしっかり摂取している様子がうかがえる。それに、陰毛を描かないのは相変わらずながら、それゆえの視覚的不自然さを気にしてか、それとも品位の点でためらいがあったのか、ともかくいままであまり描いてこなかった「種付けプレス」についても、上乃龍也の『エロい娘って思われちゃうかな♡』あたりを参考にしたのではないかと思しき1コマがあり、まことに頼もしいかぎりである。
気合を入れて描いた絵の立派さだけでなく、開幕早々無意味に揺れるお尻といい(アニメでもそんな感じだったのう……)、再戦をねだるカズマに快く応じるときの笑顔といい、何気ないコマにまでいちいちサキュバスの底抜けの善人ぶりがにじみ出ていて、それがまたなんとも言えず笑える。「カズマ様そんなに/緊張なさらないで/ください/楽しい快楽の時間を/たのしみましょう♡」という台詞は、「楽」の字(概念)が三度も出てきて明らかに多すぎるはずだが、この作品に限ってはぴたりとはまっているようで、特に気にならない。
たぶん『立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は18禁』以来の収穫であろう本作において、sobaさんの藝風は、朗らかな笑いと妥協のないエロティシズムの融合という点で、いよいよ完成された自在な境地に達しつつあるようだ。いやむしろ、バロックの天井画のように際限のない高揚を可能にしてくれる、魔法の気流をつかんだのかもしれない。
不思議なのはいまだに単行本の音沙汰がないばかりか商業方面での活動が途絶えたままであることで、イシガキタカシのようにコミックゼロスあたりで短期集中連載をするか、いまだとコミックエグゼもよさそうに思えるのだけれど、こればかりは部外者が気をもんでも仕方がない。意図してかどうか、絵柄はワニマガジン風に近くなってきた印象がある。例によって例のごとき幼馴染の若女将だの、鰐禍大学水泳部の後輩だのといったありがちな話をこの人が描くさまはあまり想像できないが、それはそれで見てみたいようでもある。

category: 同人誌

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ボードレール『ボードレール批評3 文芸批評』 

5月中はうんざりするほど忙しくて、いろいろと後悔させられることが多かった。
大量のCDの代金の請求が一挙に来たので苦しい取捨選択を迫られたばかりか、絶望してメールチェックを怠ったせいで一件だけ遅れて請求が届いた本命を買い損ねてしまい、コミティアではみやもとゆうのサイン入り単行本を買い逃し、博麗神社例大祭では伊東ライフの新刊セットを買いそびれ、若冲展には結局行けずじまい、おまけに必要があって部屋をあちこちひっかきまわしている間に本の塔が崩れて一部に傷みが生じるといった具合で、わりと本気で死にたくなった。忙しいなりに充実していればまだ救いもあるが、そうではないのでやりきれない。

ボードレールは『悪の華』(1857年)の詩人として名高いが、批評家でもある、というかもともとは批評家として知られていた。
ちくま学芸文庫版の『ボードレール批評』全4冊のうち、第3冊めの「文芸批評」の巻に収められた文章は、対象が直接彼自身の創作活動に関わってくる分野であるだけに、詩人としてのボードレールを理解する上でも大切であろう。
今日なお読むに堪えるフローベール論の古典としては最古かもしれない『ボヴァリー夫人』の書評、「この書が火傷を与えるとなら、それは、氷が火傷を与えるようにでしかあり得ぬ」や、「G・サンドはド・サドに劣る」などの鮮烈な殺し文句(注1)を含む「『危険な関係』に関する覚書」、あまり理屈っぽい言葉遣いではないのにいかなる理論的分析よりも深くポーの作品の本質に食い入り、なるほどポー体験を通じてボードレールは我々が知るような彼自身になったのだと思わせてくれる「エドガー・ポー、その生涯と作品」および「エドガー・ポーに関する新たな覚書」、自分より20年近く長生きすることになる先輩詩人が「歳月から新たな力を引き出し、絶えず繰り返される奇蹟によって、墓場にいたるまで若返り続け、力を強めていく人間たちの一人」(注2)であると見抜いた、「わが同時代人の数人についての省察」の中の「ヴィクトール・ユゴー」論などが秀逸なのは当然だが、一篇だけ選び出すとすれば「テオフィール・ゴーティエ」(1859年)だろうか。
劇評家としてのゴーティエをもてはやしても詩人としての彼については何も知らぬ卑俗な公衆への批判、あるいはむしろ痛罵から始まり、個人的な会見の思い出(とりわけ、「辞書を読むことを好むか」という試験のような問いかけと、自分がそれに合格したのだという、選ばれた者としての自負)、1830年頃のロマン派文学の全般的な状況とそこに颯爽と登場したゴーティエの位置づけ―彼こそがロマン派に「笑いおよびグロテスクの感覚」をもたらし、ついで「もっぱら〈美〉にのみ向けられる愛」を確立した(注3)―、そして探究の対象が異なるのに応じて必要とされる精神的能力も異なるという哲学的原理から導き出される、詩の目標は美以外ではありえないという主張、さらにその主張の証明のために引用されるポー論(「エドガー・ポーに関する新たな覚書」)の断片と、前半ではかなり多岐にわたる内容を理路整然と説いてきたボードレールは、後半に入ると、ひたすら美への愛だけに生きるという点で比類なく純粋な作家としてゴーティエを定義し、そこからまずは彼の文体、ついでより特殊な、小説(ロマン)と短篇小説(ヌーヴェル)という二つの分野における彼の仕事ぶりを論じ、さらに美術批評における多大な功績に説き及んで、元来フランスの国民性は美よりも真を好んできたし、社会の改良を最大の関心事とする共産主義的な情熱の流行が独創的な才能の芽を摘んできただけに、この功績はひとしお称賛に値するものであったことに注意を促す。ゴーティエの詩篇についての概観に続いて最後を締めくくるのは、貴族的な高雅さゆえにいささか当代のフランス社会から浮き上がってしまう、「完璧な一文学者」(注4)としての彼の肖像に捧げられた混じりけのない敬意である。

美よりも真を好み、共産主義的な道義熱に血道を上げてきたフランスは、これまで他国に誇れるほどの詩人を輩出することがなかった―そして、ユゴーとゴーティエが登場するに及んで、ようやくこの嘆かわしい状況に終止符が打たれた―という認識はなかなか面白い。現代人から見れば奇異にも感じられるが、考えてみれば、ボードレールその人のほかにフランスの詩人として我々が思い浮かべる顔ぶれは、マラルメやランボーやヴァレリーやアンドレ・ブルトンなど、多くが彼以降の世代であるし、サン‐シモンやフーリエ、プルードンらのそれぞれに個性的な社会主義思想も、やがてマルクス主義による批判の結果めっきり影が薄くなってしまうとはいえ、当時はかなりの影響力を持っていたのだ。
また、随所に挟まれるゴーティエ以外の文学者についての見解も、「一言にしていえば、バルザックにあっては、各人が、門番女たちさえも、天才を有するのだ。すべての魂たちが、口もとに至るまで意志を充塡した火器なのだ」(注5)など、一つ一つが実に的確で興味深い。

質量ともに傑出しており、熱に浮かされたような神経の昂りが目立つポー論や、水っぽい感傷と道徳的お説教で膨れ上がったユゴーの『レ・ミゼラブル』を、およそボードレール自身の資質からすれば受け容れがたいはずなのに、ただの一度もぼろを出すことなく論じきった書評などから察するに、彼の批評にはどうも対象の性質に染まりがちな傾向があるようだ。多彩な内容を盛り込みながらもそれらを釣合のとれた全体へと破綻なくまとめあげたゴーティエ論の見せる晴朗さもまた、そのことの例証ではなかろうか。
しかしこの晴朗さは、ただで手に入ったわけではない。それは、お得意の辛辣な諷刺や、ほとんど自傷的ですらある凄惨な語彙の使用を今回は控える一方で、くどくならない程度にフランスの文学史や国民性などの一般的な背景についての説明を織り交ぜ、あるいはさらにポー論からの引用という手法に訴えることで、諸能力とその対象の排他的な対応関係の理論に根拠と説得力を持たせる―等々の、一連の操作によって達成されたものである。
ここでは、ボードレールは彼我の近さをはっきりと意識しており、その上でそれを同一性へと鍛え上げつつ、ゴーティエの高みへと自分をも押し上げようとしているようだ。対象が何であれほかならぬそれを表現するために最も的確な語を見出すことができるという長所に着目してゴーティエの文体を論じた以下のくだりからは、そのことが如実にうかがえる。

 〈美〉に対するこの熱情にかくも立派に奉仕する道具、すなわち彼の文体のことだが、それについて恥(はずか)しからぬ語り方をするためには、私も同じような資力(てだて)に恵まれていなくてはかなうまい―あの、決して不意を衝かれることのない、言語についての知識、その紙葉が神々しい息吹に動かされて開く時は、まさに正しく適当な語、唯一の語をほとばしり出さしめる、あの豪華な辞書、つまるところ、各(おのおの)の線、各の筆触をその自然の場所に置いて、いかなる機微(ニュアンス)をも漏(もら)すことのないあの秩序感覚を、恵まれているのでなくては。この驚嘆すべき才能にかてて加えてゴーティエが、普遍的な照応関係と象徴関係(サンボリスム)という、あらゆる隠喩の目録(レパートリー)に他ならぬものに対する、無際限の先天的理解力を合せもつことに思いを致すならば、彼が絶えず、誤つことも疲れることもなく、神に創られた世界の諸物象(オブジェ)が人間の眼差しの前にとる不思議な態度を定義し得るということが、首肯されよう。語の中、言の中には何かしら聖なるものがあって、われわれがそれを化して偶然まかせの遊戯となすことを禁ずるのだ。ある一つの言語を巧妙に駆使するとは、一種の降霊の呪術を行うことである。その時まさしく色彩は語り出す、顫(ふる)え響く深い声のように。もろもろの記念建造物(モニュマン)は立ち上り、深い空間を背景に浮び出る。醜と悪との代表者たる動物たちと植物たちは、曖昧なところのない顰(しか)めっ面を明確に作り上げる。香りはそれに照応する思念や思い出を誘発する。情熱は永遠に同様であり続けるその言語を、ささやいたり、わめき立てたりする。(注6)

ボードレールはたしかに、当初は謙遜気味の筆致で、まるで自分はゴーティエ並みの秩序感覚には恵まれていないかのようなことを書いている。だが、それに続けて言及される普遍的な「照応関係(correspondance)」と「象徴関係(symbolisme)」の概念は、まぎれもなくボードレール自身の美学的信条であり、しかも、一つの対象のために的確な語を見つけてくる秩序感覚の働きとは微妙に異なる、それよりも複雑なものを指しているはずである。もちろん、これはこれでゴーティエの長所とされてはいるが、しかし当面の文脈からすれば、やや脱線しているようだ。この脱線を正当化するには、ゴーティエの文体への信仰告白が、つまりは、そもそも自分が文学者として修練を積む上で、いかにそれを読むことが有益であったかを強調することが必要である。

テオフィール・ゴーティエの文体の中には、人の心を奪い、驚かす的確さがあって、それは、賭事において深い数学的知識によって生み出されるああした奇蹟を思わせる。私がきわめて若かった頃、初めてわが詩人の作品を味わった時、的確に置かれた筆触、真直(まっすぐ)に加えられた一撃というものの感覚が私を身ぶるいさせ、感嘆の念が私の中に一種の神経的痙攣を生じさせたことを思い出す。少しずつ私は完璧さというものに慣れて、うねうねと波打ちきらびやかなこの美しい文体の運動に身をゆだねたのであった。夢想にふけっても心配ないほど確(たし)かな馬に乗った人のように、あるいは、羅針盤の予知するところではない天候のもろもろを物ともせぬほど堅牢な船に乗って、自然がその真髄を発揮する刻々には造り出す誤りなき華麗な舞台装置(デコール)を心ゆくまで眺めることのできる人さながらに。これらの先天的能力、かくも念を入れて涵養された諸能力のおかげで、ゴーティエはしばしば(われわれがみな見たところだが)、とある新聞の事務室で、ありふれたテーブルの前に坐って、批評にせよ小説にせよ、何かしら、非の打ちどころのない完成の性格をそなえたものを即興的に書き上げ、それが翌日には、執筆の早さと筆蹟の美しさが印刷所の植字工たちの間に驚きをまき起したのに劣らず、読者たちの間に快楽をよびさましたのだった。文体および制作にかかわるいかなる問題をも解決するこの迅速さは、彼がかつて会話の途中で私の前に洩らした厳しい格言、彼がおそらく自らの常住の義務としていたであろうところのあの格言を、思わせはしないであろうか―「ある一つの観念がいかに微妙、いかに思いがけぬものと仮定されるにせよ、それに不意を衝かれるような人間は誰しも、作家ではない。表現し得ぬものは存在しない。」(注7)

若き日のボードレールは、ゴーティエの文体の的確さ、完璧さにまず驚かされ、ついでそれに慣れなくてはならなかった。慣れる、とはつまり、その文体の中に入り込んでそこで成長することであり、馬や船に乗るときのように、文体の運動に身を委ねて運ばれていく感覚を学ぶことであり、究極的には文体の存在を忘れることである。優良な乗り物がそうであるように、ゴーティエの文体にも、安心して夢想に耽ったり、外の景色に目を奪われたりしていられるという特長がある。しかし、この透明性という特長は、はたしてここで書き手が伝えねばならないこと、すなわちゴーティエの文体の的確さというものと、すんなり結びつくものだろうか。
先の脱線の場合もそうだったように、どうやらボードレールの考察はゴーティエ文学の敷居を踏み越えて、もっと一般的な真理、すなわちおよそ言語表現なるものが必然的に他者性を呼び込むという事態を、期せずして探り当ててしまっているようだ。表向き対象として選んだものとは違う何か別のもの(観念や感情)を喚起するという「一種の降霊の呪術」であること、あるいは危なげなく進む乗り物のようにその存在を忘れられ、それ自体は読者の注意から逃れて姿を隠すこと、こうしたことが文体に卓越性をもたらすのだとすれば、そこにはまた、ポー論に劣らぬ、このゴーティエ論のすこぶる個人的な性格を重ね合わせることが可能なのではないか。
少しずつ当初の驚きや当惑が鎮まるとともに、慣れが生じる。ゴーティエの文体に沈潜し、昼も夜もそれと一緒に暮らすようになり、ついにはその存在すら意識しなくなる。と、ある日ボードレールは、自分が単なる一読者の立場から知らぬ間に移動を遂げ、師と同じく、言葉を操作し配置する者の側に位置していることを見出すのである。ゴーティエを経由することで、ボードレールは彼自身へと導かれたのだ。「ある一つの観念がいかに微妙、いかに思いがけぬものと仮定されるにせよ、それに不意を衝かれるような人間は誰しも、作家ではない。表現し得ぬものは存在しない」という最後の格言の出典が、誰でも手に取ることのできる公刊された著作ではなくて私的な会話であったことを思い起こさせる、さりげない但し書きも―我々読者はもっと前の頁でもこの格言と出会っていたので(注8)、今回は二度めの遭遇である―、そう考えてくると意味深長なものがある。
ゴーティエへの称讃がめぐりめぐってひそかな自讃につながるゆえんは、そもそもこの論考がどう始まっていたかを確認すれば察しがつく。すなわちボードレールは、自分には敬意の大きさに釣り合うだけの的確な表現の能力がないかもしれないという危惧から筆を起こすのである。

 感嘆の念にもまして厄介な感情というものを私は知らない。みっともなくないやり方で意を表すことの難しさという点で、それは恋慕の情に似ている。妙(たえ)なる感情の求めて已まぬところに応(こた)え得るほど十分に色彩豊かな、もしくは十分微妙なニュアンスを帯びた表現というものを、どこに求めようか? 世間の思惑への顧慮は、あらゆる種類の事柄における災禍であると、たまたま私の眼の前にある哲学書に書いてある。だが、世間の思惑への卑しい顧慮などが私の当惑の起源であるとは思って欲しくない―この困惑は、私の主題とするところのものについて十分高貴に語ることができないのではないかという惧(おそ)れの他には起源をもたない。(注9)

この危惧の念にもかかわらず、結局はそれなりに長い、そして我々後世の人間から見ても非常に完成度の高いゴーティエ論を現実に書くことができたということは、つまりはこれがただの杞憂にすぎなかったということになるし、ひいては、ゴーティエの長所としてボードレールが強調する、融通無碍な言語表現の能力は、そのままボードレールその人にも帰することができる長所だということになる。
もう一つ、この冒頭の段落において見逃せないのは、「世間の思惑への顧慮」を歯牙にもかけずに一蹴する、気位の高さだろう。なぜなら、論考の終りに近いある段落では、ボードレールはゴーティエにもこれと同じものを求めながら、それとは裏腹な最近の彼の態度を説明するのに少々苦労しているようだからだ。

 おそらくはこの、誰にまれ他人を説得したり矯正したりはできぬという同じ絶望ゆえにであろう、近年われわれは、ゴーティエが一見弱気になって、そこかしこで、〈進歩〉殿下ならびに全能なる〈産業〉妃殿下に若干の頌(ほ)めことばを呈するのを、時おり見てきた。かくのごとき場合、あまりに急いで彼の言を額面通り受け取ってはならないし、これこそまさに、軽蔑は時として魂をあまりにも善良にする、と断ずべき事例である。けだしこの際彼は、自分の本当の考えは自分のためにとっておいて、軽微な譲歩(薄明の中でも目のよく見える人々にだけ見分けられる程度のもの)によって、彼は万人と、あらゆる詩に対するあれらの専制的な敵〈産業〉および〈進歩〉とさえも平和に暮したいのだと、表明しているだけのことなのだ。(注10)

ゴーティエがともすれば当代のフランス社会から精神的に孤立しがちであることは、ボードレールから見れば彼の栄誉を示すものであり、そのかぎりで望ましいことなのだが、実は当のゴーティエは、ここに書いてあるとおり、必ずしもそこまで過激な考えの持ち主ではないようだ。とすれば、論考全体を締めくくる以下の一文も、いかにも混じりけのない最大級の敬意の表明には違いないとはいえ、その背後には、将来ゴーティエが変節してこの敬意に値しない存在になってしまうのではないか、それもほかならぬ彼自身の弱気のせいでそうなるのではないかという憂慮と、どうかそうならないでくださいという懇願、励まし、あるいはひょっとすると威嚇を隠しているものとして読むことが可能かもしれない。

私としては、『死の喜劇』や「クレオパトラの一夜」や「死女の恋」や『トラ・ロス・モンテス』や『イタリア』や『気まぐれと蛇行』やその他かくも多くの傑作の著者が、これまで彼がそうであったところのもの、つまり、過去における最大の作家たちと肩を並べる者、やがて来るべき者たちのための模範(モデル)、無知と物質とに酔いしれる時代にあっていよいよ稀な一個のダイアモンド、すなわち完璧な一文学者のままでいてくれるのを見る方が、好(この)ましい。(注11)

ボードレールのゴーティエ論の面白さは、このように自分と対象との資質の近さにひどく執着した結果として、相手をほめることが自分をほめることにも通じるという逆説ばかりか、その逆説の彼方に彼我の資質の違いをも浮き彫りにしてしまったという点に存する。結局のところゴーティエは、ボードレールほど強気な態度で社会を見下し、開き直って自らの孤立を誇ることのできる類の人物ではなかった。それほど腹が据わってはいなかったということか、はたまたそれほど自暴自棄ではなかったと評すべきか。その違いは、今日における両人の名声や人気の差―日本語版のゴーティエ全集は、いまだに存在しない―をもたらした直接の原因ではないにせよ、どこかでその原因とつながっているはずである。

翻訳はなにしろ阿部良雄の仕事であるからして、悪かろうはずがない。いまどきの翻訳物にはなかなか望めない、やや古風な気品と風格があり、しかもそれが決して自然なものでも余裕の産物でもなく、社会からつまはじきにされ、追いつめられた者のとめどない呪詛や憤怒や苛立ちの声に根ざしているかのように感じられるのが、まさにボードレールである。
あまりに訳者と原作との相性がよいせいか、まれにはもう少し読みやすさを考慮してほしい頁もある。例えば、「わが同時代人の数人についての省察」の中の「ペトリュス・ボレル」論を参照すると、こんな文章に出くわす。

 私はといえば、たとえそこに滑稽なものを感じようとも、正直に白状するが、この不幸な作家に対して常にいくばくかの共感を抱いてきたのだ、その出来損った天才、野心と不器用さでいっぱいの天才が、綿密な下書き、夕立ちめいた閃光、異様な扮装におけるにもせよ声におけるにもせよ、何かしらあまりにも奇異なものによってその生来の偉大さが損(そこな)われるていの人物をしか産み出し得なかったこの作家に対して。(注12)

基本的にボードレールの散文はマラルメあたりと比べればよほど奇をてらう傾向が少ないとはいえ、それでもときにはこのように、語彙の氾濫がやや文法的な骨格を見えにくくすることがある。原文はどうなのだろうか。

Pour moi, j'avoue sincèrement, quand même j'y sentirais un ridicule, que j'ai toujours eu quelque sympathie pour ce malheureux écrivain dont le génie manqué, plein d'ambition et de maladresse, n'a su produire que des ébauches minutieuses, des éclairs orageux, des figures dont quelque chose de trop bizarre, dans l'accoutrement ou dans le voix, altère la native grandeur.(注13)

こうして両者を読み比べてみると、阿部の翻訳の忠実さに驚かされる。一文の中に« dont »が二回も出てくるあたり、いかにも勢いに任せて言葉をつなげていったという感じのする原文を、あえて二文に分けたりせずにちゃんと長めの一文に訳しているばかりか、日本語としては異例ながら、「私はといえば、〔中略〕この不幸な作家に対して常にいくばくかの共感を抱いてきたのだ、〔中略〕この作家に対して」という風に、動詞(「抱いてきたのだ」)の位置が文末でないのも、どうやら原文の構造を(ということは、とりもなおさず観念の順序を)尊重した結果であるようだ。強いて注文をつけるとすれば、「人物」が文中の他の要素とどういう関係にあるのかがわかりにくいので、その点は改善の余地があるかもしれない。つまり、「異様な扮装におけるにもせよ声におけるにもせよ、何かしらあまりにも奇異なものによってその生来の偉大さが損(そこな)われるていの人物」が一つのまとまりを作るということ、そしてそのような「人物」もまた、「出来損った天才、野心と不器用さでいっぱいの天才」(主語)が辛うじて「産み出し得」た(動詞)とされるものの中に数え入れられるのであり、つまりは「綿密な下書き」と「夕立ちめいた閃光」に続く、第三の目的語であるということ、こういったことがこの訳文ではややわかりにくい。一つの改善案としては、「綿密な下書きや、夕立ちめいた閃光や」という風に「や」を付け足した上で、「人物」という訳語を―原語の« des figures »は複数形であることからも明らかなように、ボレルその人ではなくて彼が創造した架空の人々を指すことに着目して―、例えば「作中人物たち」に改めることが考えられる。

最後にぜひとも見ておきたいのは、やはり「わが同時代人の数人についての省察」の中の、「テオドール・ド・バンヴィル」論の結びである。以下の二段落には、おそらく批評家としてのボードレールの特異な才能が凝縮されているからだ。

 ベートーヴェンは、人間の内面の空の中に雲のように積み重なる憂愁(メランコリー)と癒し得ぬ絶望との諸世界を揺り動かすことを始めた。マテューリンは小説において、バイロンは詩において、ポーは詩と分析的小説において、前者はアルフレッド・ド・ミュッセによってかくも唾棄すべきやり方で模倣されたその冗漫さとその饒舌にもかかわらず、後者はその苛立たしいほどの簡潔にもかかわらず、いずれも情熱のもつ瀆神的な部分を見事に表現した。彼らは、あらゆる人間の心情に住みついている潜在的なルシフェルの上に、輝かしく、目も眩(くら)むばかりの光線を投げたのだ。私の言いたいのは、現代の芸術には本質的に悪魔的な傾向があるということだ。そしてどうやら、人間のそうした地獄的な部分、それを人間はわれとわが身に説明しては快を覚えるのだが、それは日に日に増大してゆくのであって、あたかも〈悪魔〉が、家禽肥育人のひそみにならって、より滋味に富む食糧を自分のために得ようとして裏庭で人類に根気よく餌をやって肥らせつつ、人工的なやり方でその部分を肥大させることに興じているかのようなのだ。
 だがテオドール・ド・バンヴィルは、そうした血の沼、そうした泥の深淵の上にかがみこむことを拒む。古代の芸術さながら、彼は、美しい、楽しい、高貴な、偉大な、韻律(リズム)ゆたかなものしか表現しない。だからして、諸君は、彼の作品の中に、不協和音を、魔宴(サバト)の調子外れの音響を聞くことはないだろうし、また敗者の復讐にほかならぬ皮肉の啼(な)きわめく声をも聞きはしないだろう。彼の詩句の中では、すべてが、逸楽さえもが、祝祭と無垢の様子をおびている。彼の詩は単に哀惜、郷愁であるのみならず、天国めいた状態へのきわめて意志的な回帰ですらある。この観点からしてすなわち、われわれは彼を、この上もなく勇気ある本性の変り者(オリジナル)と見なすことができる。悪魔的(サタニック)ないしロマンティックな雰囲気のただなか、呪詛の合奏のさなかで、彼は大胆にも、神々の恵み深さを歌い、完璧な古典主義者たらんとする。私はこの語がここで、その最も高貴な意味、真に歴史的な意味に理解されることを望む。(注14)

我々は、『悪の華』の中のある種の作品、すなわち破壊衝動や、血みどろの凄惨な事件や、当時の性的禁忌に抵触するような主題を歌った詩篇、そしてとりわけ瀆神的な詩篇を読んで、ボードレールのことを悪魔的な詩人と呼ぶ。それは別に間違いではないし、意識のある水準では、彼自身これらの詩の背徳性に生々しい戦慄を覚えていたのだろうと思うが、いましがた引用したくだりは、ことがそれほど単純ではないことを教えてくれる。ボードレールの見解では、悪魔的な傾向は彼の時代の諸藝術全般において日に日に増大してきたもの、つまりは流行なのであって、何も彼一人の独創ではない。独創といえば、むしろこのような時代にあって悪魔的なものに背を向け、ひたすら古典的な抒情詩の喜ばしい響きを奏で続けるバンヴィルにこそ、優れた独創性を認めて然るべきだということになる。
我々が詩人としてのボードレールの生来の個性の発露だと思いがちなものが、彼自身の認識では必ずしもそうではなく、そこにはもっと冷静で理知的な計算も働いている可能性があること、他方で批評家としての彼は、自分の作品とはまるで正反対の傾向をも正当に評価することができる、開かれた審美眼の持ち主であること、こうしたことを思うにつけても、ボードレールを理解することの意外な難しさを痛感させられる。いまだに彼の仕事が我々にとってどこか謎めいたものとしてあり続けているとすれば、たぶんそれは、彼が切り開いた空間から我々がまだ脱け出ていないからではないか。


(1)『ボードレール批評3 文芸批評』(阿部良雄訳、ちくま学芸文庫、1999年)75、77頁。
(2)同書240頁。
(3)同書189、191頁。
(4)同書218頁。
(5)同書203頁。
(6)同書199-200頁。引用に際して、原文中の傍点が付してある語句を太字の表記に改めた。以下の引用文においても、基本的には同様である。
(7)同書200-201頁。
(8)同書185頁。
(9)同書177頁。
(10)同書217頁。
(11)同書217-218頁。「完璧な一文学者」は、原文においても太字の表記である(傍点は付されていない)。
(12)同書259頁。
(13)Charles Baudelaire, « Réflexions sur quelques-uns de mes contemporains: Pétrus Borel », in Œuvres complètes, t. II, texte établi, présenté et annoté par Claude Pichois, Paris, Gallimard, « Bibliothèque de la Pléiade », 1976, p.155-156.
(14)『ボードレール批評3 文芸批評』(前掲書)281-282頁。

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