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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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C87の戦利品(補遺) 

振り返ってみれば結局昨年(2014年)のエロ漫画界は近年にない豊作だった。
試みに、特に顕著な存在感を放っていた単行本を刊行された順に列挙してみると、以下のような感じになる。
なお、発行日については奥付の記載に準拠しているので、店頭に並び始めた日は当然もっと早い。

天太郎『Melody』(コアマガジン、1月11日)
なるさわ景『放課後の三月ウサギたち』(ヒット出版社、2月27日)
紙魚丸『QUEENS GAME』(コアマガジン、3月14日)
BENNY'S『オトコのコプレイ』(メディアックス、4月10日)
DISTANCE『じょしラク!』(ワニマガジン社、4月20日)
龍炎狼牙『まやかし艶舞帖』(富士美出版、5月5日)
藤ます『君がため心化粧』(ワニマガジン社、5月20日)
師走の翁『アイブカ!(仮)』(ヒット出版社、5月23日)
豆『ミルク*クラウン』(茜新社、5月30日)
Cuvie『Yummy!』(富士美出版、6月10日)
もずや紫『白黒♥ロワイヤル』(エンジェル出版、6月17日)
柚木N'『姉キュン!』(茜新社、7月10日)
まばん『発情ラヴァーズ』(茜新社、7月10日)
Cuvie『色めく彼女』(ワニマガジン社、7月30日)
世徒ゆうき『アラルガンド』(ティーアイネット、8月15日)
無望菜志『NTR2』(ワニマガジン社、8月18日)
水龍敬『貞操観念ZERO』(コアマガジン、8月23日)
いとうえい『花のさえずり』(ワニマガジン社、9月10日)
すがいし『たべざかり』(ワニマガジン社、9月10日)
へんりいだ『はつこいりぼん。』(ワニマガジン社、9月30日)
鈴木狂太郎『戦車コレ』(ヒット出版社、10月23日)
A-10『GIRL? NEXT DOOR』(ワニマガジン社、10月30日)
六角八十助『せっくすのしくみ』(ワニマガジン社、10月30日)
みやもとゆう『発情乙女カタログ』(マックス、11月1日)
エレクトさわる『神曲のグリモワールII』(キルタイムコミュニケーション、11月6日)
或十せねか『Brandish6』(キルタイムコミュニケーション、11月6日)
上田裕『よい子はしちゃダメ!』(茜新社、11月10日)
F4U『好奇心はネコをもアレする』(ワニマガジン社、11月20日)
イシガキタカシ『僕はあなたにワンと鳴く』(ワニマガジン社、11月30日)
新堂エル『純愛イレギュラーズ』(ティーアイネット、12月5日)
高津『王様アプリ』(ティーアイネット、12月19日)
ReDrop『ヒメパコ』(ワニマガジン社、12月20日)
胃之上奇嘉郎『奉仕委員のおしごと』(ワニマガジン社、12月28日)

以上、改めてみるとなんとも豪華な顔ぶれである。定評ある実力者が満を持して放つ数年ぶりの作品集あり、注目を集める新人の初単行本あり、手練れの同人作家の参戦あり、といった具合に内実が多様なことにも驚かされる。
特に十月の後半から年末にかけては、一体どうしたのかと思わされるほどの狂い咲きである(もっとも師走の翁と同じく、新堂エルやReDropも私の好みからは外れているのだけれど、それだからといって無視することはできない)。
ちなみに、私が一番気に入っているのはみやもとゆうの『発情乙女カタログ』で、ひところは毎晩寝る前に読んでいた。こういう楽しみ方が作者の意にかなうのかどうかわからないが、読むと安らかな気持ちで眠りに就くことができるのだ。
しかも嬉しいことに、この怒涛の勢いは今年に入ってもまだ続いている。雪路時愛の『おねだりせーし』は年末にはすでに店頭で買えたもので、個人的には『発情乙女カタログ』に次ぐ昨年のお気に入りとなったのだが、奥付によると正式な発行日は1月5日である。これを先駆として、以後年が明けてからも岡田コウの『Aサイズ』(2月6日)、アシオミマサトの『発情メソッド』(2月28日)、関谷あさみの『僕らの境界(ライン)』(3月10日)、三巷文の『こんなこと』(3月30日)、なるさわ景の『はげませっ!エッチアガール』(4月10日)、そして佐々原憂樹の『少女フィリア』(5月10日)と、見逃せない単行本が続々と上梓されてきたのだ(注1)。
あと、犬星と稍日向の名前を再び成人向け雑誌で見かけるようになったのも実にめでたい。本人の自覚はどうなのか知らないが、井ノ本リカ子もだんだん調子が戻りつつあるようだ。

他方で同人誌のほうも相変らず活況を呈しており、あだやおろそかにできない。特に今月(五月)は各種の即売会が目白押しで、いろいろと収穫があった。しかし、それについて何か書く前に、書店委託で買った昨年末の冬コミ(C87)における新刊に触れておくのが順序だろうと思い直したので、今さらにもほどがあるとはいえ、そうすることに決めた。

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まずはサークル「Lv.X+」(柚木N')の『ヒトヅマ姉』である。姉弟ものは私も好物だが稀少なので、こういう良作を描いてもらえるのはありがたい。しかし、この場合は題名のとおり嫁いで人妻となっているわけで、欲張って二兎を追おうとした結果いまいち姉らしさを活かしきれていないようなもどかしさも感じる。逆説的ながら、姉弟という設定さえあればそれだけで舞い上がって有頂天になってしまう、作者の業の深さはその分ありありと伝わってくるのが面白い。総じて手や男性器など肉体の末端部分が心もち小さすぎるためか表情に乏しかったり、男の服装が妙に野暮ったく見えたりするのはいつものことだが、見方次第ではそれもかえって生々しさの印象を倍加させているようだ。
それと、サークル「NANIMOSHINAI」(笹森トモエ)の『サキュバステードライフ』もよい。この人は、商業での活躍は知っていたが、同人活動に関しては、だいぶ以前の博麗神社例大祭で気になりはしたものの結局立ち読みだけで済ませてしまい、それ以来すっかり忘れていた。ところが、どうやらあまり私が興味を持っていなかった『氷菓』や『ラブライブ!』の二次創作を通じて大いに研鑽を積んできたらしく、いままで見逃していたのは残念至極である。ただしこの本は二次創作ではない。内容は、一見大人しそうだが実は並外れて性欲の強い、はちきれんばかりに豊満な体型の女の子によって気弱な少年が干からびる寸前まで吸い尽くされるというもので、つまりは商業作品と同様の趣向である。また、筋書のみならず絵柄に関しても、あまり引き出しの数は多くないようだが、その代わり自分が描きたいものをひたすら追求している観があり、これはこれで好もしい。なかんずく脂肪の多い女体のしっとりした色白の肌の質感は他の漫画家と比べたときに明らかに目立つ長所であるし、その上に小刻みな動作がこれ見よがしの大袈裟な身振りの回避とあいまって、現実感と卑猥さを高めている。強いて注文をつけるとすれば、人体の厚み、および各部分の間の釣り合いや連結にさらなる自然な安定感を与えるべく、いま以上に骨格(特に骨盤と肩甲骨)に留意する余地があるのかもしれない。

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お次はサークル「Digital Lover」(なかじまゆか)の『DL-艦娘総集編』である。言わずと知れた同人界の生ける伝説のような存在だが、大昔の名高いラグナロクオンライン本はともかく、それ以降は、掛け値なしに名作と呼べる一連の黒猫本(もちろん、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の黒猫だ)を例外として、何となく敬遠してきた。増えすぎた読者の期待に律儀に応えようとするあまり安全運転に終始し、その時々の流行に乗じながら結果的に判で押したような代わり映えのしない本を惰性で量産するようになった……とまで断じる気はさすがにないが、どこまで作者が原作に愛着や思い入れがあるのか、正直首を傾げたくなる時期が続いていたのだ。
しかし、艦隊これくしょんに関しては、どうやらいささか事情が違うようだ。今さら指摘するまでもなく、このゲームの二次創作を試みる場合に避けて通れないのが、原作では空白のままになっている提督の存在をどう処理するかという問題であろう(その点を十分理解しないまま、無理にこの問題を回避しようとすると、アニメ版のように袋小路に追い込まれてにっちもさっちもいかなくなってしまう)。もっとも実際の作例を見ると、主役はあくまでも艦娘そのものだからか相方を務める提督に関してはごくあっさりとした描写で済ませているサークルも多いし、別にそれでも不足はない。だが、「Digital Lover」の同人誌の場合は、原作における空白をよいことに、提督がほとんど名実ともに主人公と呼んでもよさそうな存在感を授けられている。といってもこの提督は百戦錬磨の頼もしい名将などではなくて、ただただ女(たち)の野放図な欲望に仕える一方の、愛玩動物のようなものでしかない。何よりもまず、彼は見目麗しい、あどけない美少年であらねばならない。そして、飛び級するほどの卓越した知能に恵まれた天才児でもあらねばならないが、それでいて実際の演習では頭の固さゆえに惨めな敗北を喫して自尊心を粉々に打ち砕かれねばならず、そこにつけこんだ艦娘たちによってたかってさんざん弄ばれ、性的な辱めを受けねばならない。もちろんこれに恐れをなして逃げ出すようであっては困るわけで、したがって彼は年端もゆかぬくせに性欲旺盛かつ精力絶倫でもあらねばならず、全員を一人残らず満足させるまでは休憩もそこそこに奮闘し続けてくれねばならない……という調子であり、これだけ多くの「ねばならない」(当為)が打ち重なって一揃いの束をなしているところが、他のサークルには見られない「Digital Lover」ならではの特色であると判定できる(たぶん、このサークルが東方Projectや『ラブライブ!』の二次創作に手を出してこなかったのも、これほど自然な形で理想的な少年を登場させるのが難しいからではないか)。要するに、男性の身でこの世界に参入して女性たちから愛されるためには、こまごました以上の注文を全て満たす必要があり、そうでない者には資格が与えられないのだ。
この観点からすれば、視覚を封じられた状態で淫らな神経衰弱を強制された提督が、ようやく艦娘ごとに異なる性器の形を判別することが可能になり始めるとともに「みんな違う」という認識に至るくだりなどは、「『Digital Lover』の同人誌など、どれも同じだろう」と思っている男性読者への痛烈な皮肉として読めぬこともないし、その他にも注目に値する頁は数多い。中でも、このままではさすがに体がもたないからとせっかく「休日」を設けたにもかかわらず抜け駆けしてきた大和と結局ことに及んでしまうばかりか、思いのほか早く訪れた射精の直後に―「充分、満足/させられ/なくて・・・・っ」という理由で―開口一番謝罪を口にするという言動が端的に示しているように、提督自身がすっかり男娼同然の立場になじんでしまい、それに対する違和感を覚えなくなっているのは、冷静に考えると結構怖い(しかも、その謝罪の台詞たるや、「すまない」でもただの「ごめん」でもなくて「ごめんなさい」だ。司令官としてあるまじき卑屈さではないか)。いま大和について「抜け駆けしてきた」と書いたけれども、これは一種の言葉のあやで、正確ではない。実際には、なんとかして提督を誘惑してやろうと思い思いの工夫を凝らす他の艦娘たちと比べて、彼女の挙動からはその種のいかがわしい底意がまるで感じられないからだ。世間周知の掟によれば、いずれ劣らぬ魅力的な恋敵が大勢いる中で意中の相手の好意を手に入れたいという場合、本来なら相応の努力を払う―夏目漱石風に表現するなら、自分を愛させるべく何らかの技巧を駆使する―必要があるはずである。しかるに、たまたま提督が夜の庭に一人でいるところを見つけたというだけで、しかもその提督はまさにあいつぐ誘惑の数々に流されまいと決心したからこそこうして屋外に難を避けているというのに、結局抑えがたい性欲の疼きに負けた彼の自発的な寵愛を労せずして独り占めできるという、大和にしてみればなんとも幸運すぎるこの成行きは、「Digital Lover」版の艦これ世界を支配する節理が優先しているのは、はたして男性と女性、どちらの側の都合であるかを雄弁に教えてくれる(ちなみに、この総集編以後の作品においては、一転して提督が能動的な意志を発揮し、持ち前の優秀な頭脳を活かして全ての艦娘たちと次々に夫婦水入らずの濃密なケッコン初夜を過ごす、というなんとも前途遼遠な企画が始まったかに思えたのだが、それでは普通すぎるというのか、それともまだまだいじめ足りないということか、近作『D. L. action 94』ではまたしても受け身の立場に連れ戻されている。しかしいずれにせよ、提督が艦娘に奉仕するという構図には変わりない)。それにしても、一応分類上は男性向けであるはずの作品でこういうところにやけに力がこもっているのを見ると、感嘆しつつもつい本格的なBL同人誌を期待してしまうのは私だけだろうか。たしかいまの絵柄に安定してからは『超執刀カドゥケウス』の本(二冊)くらいしかなかったと思うが、出色の出来栄えになるのは目に見えているのだから、弱虫ペダルでも刀剣乱舞でもホモマス、もといアイドルマスターSideMでも何でもよい、もう一度BLを描いてはくれないものだろうか。
最後は、サークル「enuma elish」(ゆきみ)の艦これ本『Little by little』で、こちらも提督の存在感が大きい。といっても「Digital Lover」流の涼やかな美少年とは対照的な、筋骨隆々たる巨漢である(もしかすると、以前『キルラキル』の同人誌で描いた蟇郡苛の容姿から思いついたのかもしれない)。年齢はたぶん、二十代の半ばから後半であろう。表紙を見れば彼と駆逐艦たち、特に天津風との関係が主眼であることは一目瞭然であり、圧倒的な体格の差ゆえに閨房での営みが凄惨すれすれの迫力を帯びることは早くも予想がつくが、それでいて肝心の二人の顔つきはわからない。二次創作と原作との線引きをわきまえつつ、本を手に取る者の興味を惹きつけて否が応でも中身を知りたい、読んでみたいと思わせてしまう―なにしろ、読者が表紙を見ている時点ではまだ、素裸で軍服も何も着ていないこの魁偉な大男が本当に提督なのかどうかも定かでないのだ―、心憎いばかりの配慮である。
もちろん、表紙がもたらすこの鮮烈な印象は、本文そのものを読み始めても失速してしまうようなことはない。期待を裏切らぬ、いやはるかにそれ以上のみごとさである。なるほど、単行本『カノ♥バナ』(2010年)の頃から惚れ惚れするような達者な演出の腕前は冴え渡っていたわけだが、当時と比べてもエロ漫画としての完成度は確実に増している。むやみと人物に接近しすぎず、やや距離を置いて全身ないし半身像を収めたコマが多いのは相変わらずだが、それに加えていまでは随所でえぐい角度から局部を拡大して見せてくれるようになったし、表情も仕草も動作も、どれ一つとして血の通っていないもの、おざなりに描かれたもの、念入りな解読に値しないものがなく、つねに高い密度を保ちながらおそろしく流麗に推移していく様には感嘆させられるほかない。それ自体は細すぎず太すぎず、決して小うるさい自己主張に走ることがないままあくまでも中庸を守る優美な線が、形態の立体性の確立と維持という一貫した方針のもとで、硬いはずのもの(例えば提督の肉体)には丸みを持たせ、柔らかいもの(例えば、雪風や時津風の肢体)には堅牢さを授けながら、両者が一体となって作り出す運動を、写実性と記号性の狭間を縫うように、ほとんど曲藝じみてさえいる巧みさでありとあらゆる視点から追いかけていく(しかもそれでいてこの巧みさは単なる技術の誇示には終わらず、いついかなるときにも文脈上の必然性を伴っているのだ)。誰しも、このようにして有無を言わさぬ一つの全体が一見やすやすと構築されていく過程を前にしては、まるで魔術に魅せられたように、息を呑んで見入るほかになす術を知るまい。
それに、性行為そのものだけではなくて、そのための背景を提供している鎮守府における衣食住、および登場人物たちの性格や互いの間の関係を丁寧に描いてくれるのもこの人らしいが、こと艦これの場合はもともと戦いと無関係な部分が穴だらけであるだけに、そのような作風が以前の商業作品―つねに一話ごとの紙数の制約を考慮する必要が伴う―はもとより、これまで同人誌として発表してきたFateや『化物語』等の二次創作と比べてもいっそうのびやかで間然するところがない、十全な総合を達成しえているようだ。たとえ意地悪な目であら探しをしたところで、せいぜいお洒落すぎるとか、もっと猥雑さが欲しいとかの苦しまぎれの難癖しか思いつくまい。複雑な要素があまりにもそつなくすっきりとまとめあげられ、きれいに調和しているものだから、かえって一見地味そうな印象が生まれてしまうのだ(注2)。もちろん肝心の天津風と提督の情交といえども例外ではなく、当初は読者の眼前で進行していたのに、いつの間にか翌朝部屋の掃除をしながら会話を交わす大淀と間宮の二人による回想(想像)という枠組の中に、ふわりと軟着陸するかのように滑り込んでしまう。いわば結局は現在形ではなく過去形で、直接話法ではなく間接話法で読者に伝えられるわけで、作中最高の山場を築いてくれるはずだと期待して読み進めてきた人は、若干肩すかしを食わされた気分になるかもしれない。なるほど、一般に性交がたどるとされる、緊張が高まったあげくの爆発的な放出という成行きを根底から壊すほどの冒険が見られるわけではないが、そのような緊張感の放出にも、ここでは一貫して慎重な制御が寄り添っているのだ。この水際立った手際のよさは、技術の働きをあからさまに意識させることはないまま、我々読者を作中世界から隔てる外なる枠を、つい昨晩実際に起きたばかりの諸場面の再構成に携わる回顧という内なる枠に似せてしまうばかりか、ある意味でそれの拡大版にしてくれる。それだけに読んでいる間はこれが虚構だという事実すらうっかり忘れてしまいそうになるが、結末近く、春の穏やかな風に舞い散る桜の花びらを描いたコマに至って、ここと同じ暖かな空気が、表紙(色つき)はおろか、先立つ本文の頁における夜の室内(白黒)にすら行き渡っていたことにはたと気づくとき、我々は一篇の漫画を描くという行為がどれほどまで一つの世界の創造でありうるかを知り、驚きと喜びを新たにするのだ。
たぶん、艦隊これくしょんと最も幸福な出会いをした、最も相性がよいサークルがここだろう。あまりのすばらしさに、持っていなかった昨年の夏コミ(C86)の本(『The Last Order』)も迷うことなく買ってしまった。ちなみに、主に天龍と長門に焦点を合わせたそちらの本に出てくる提督は外見に関するかぎり全く印象が異なり、せいぜい十代後半の少年で、体つきもごく普通である。してみれば、『Little by little』における甚だしい体格の差は、やはり計算の産物であり、意図的に狙ったものだったのだ。


(1)ここで言及した作品はもちろんどれもすばらしいのだけれど、強いて気になる点を指摘するなら、アシオミマサトの『発情メソッド』の中にトイレで事に及ぶ話があったことか。単なる私のわがままかもしれないが、これだけはいただけない。小中学校が舞台の長篇ならばともかく、避けられる場合にはなるべく避けてもらいたいと思う。そういえば藤ますなど、他のエロ漫画家も同様の趣向に流れることがあるのはなぜだろう。漫画家の仕事は基本的に自宅でするものだろうから、想像力が多忙を強いられると、手っ取り早く二人きりになれる閉鎖的な異界の一番身近な例として、まっさきに厠が思い浮かぶようになるのだろうか。
(2)余談だが、竹村雪秀のサークル「チョットだけアルヨ。」にも似たような事情があり、突出した上手さのせいであべこべに割を食っているのではないかという気がする。

category: 同人誌

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C87の戦利品 

凍え死にしそうな二日目の雨にはほとほと閉口したが、総じてコミックマーケット87の成果は満足が行くものだった。
直前まで事前の下調べを重ねて頒布物の内容をできるだけ具体的に把握することに努めたのが第一、地図を見て行くべきサークルの位置に印をつける際、いままでのように赤一色ではなくて赤と青の二色を使い分けた上、とりわけ重要なサークルに関しては鉛筆の線で囲むことで、自分にとっての優先度をなるべく忠実に反映してくれるような順路を追求したのが第二、この二つの工夫がかなり功を奏したのだ。
それだけに、買って損したという同人誌は一冊もない。
ただ、中でも特筆に値するものとなると、自ずと限られてくる。

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まずはサークル「cake maker」(崎由けぇき)の『キリト君がシノンちゃんに雌にされる本。』である。以前即売会で見かけるたびに買っていた「Lucia」と同じサークルで、しばらくご無沙汰していた。それが、今回たまたま調べてみると、サークルとしては参加しないが委託で新刊を出すというので、鼻息を荒くして買いに走った次第である(本当に走ったわけではない)。内容は題名のとおりの竿本…もといSAO本で、自信家のキリトがシノンの股間に生えた自分よりもはるかに立派なライフルで身も心もすっかり骨抜きにされる様が、なんとも背徳的でたまらない。肝心の性行為の情景が申し訳程度で短かったり、まだ人体の立体感や遠近感の表現が安定しなかったりと、漫画としてはところどころ疑問も残る仕上がりなのだけれど、表紙を見れば一目瞭然、少女とは似て非なる、あくまでも女装少年としての魅力(胸元と股間)を抜け目なく強調する淫靡な衣装と、しっとりとした水気をはらんだ悩ましくも肉感的な太ももは、作者が本気になりさえすればどれほどの出来栄えが期待できるかを如実に教えてくれる。幸い続篇の予定もあるようだ。

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それから、サークル「Appetite:」(べにたま)の、『N.B.Ping』という架空の風景画集がよい。実は、去る11月23日のCOMITIA110は、私にとっては、こことお隣の「caramelo」の二つのサークルが目的のようなものだったのだが、信じられないことに地図上に印をつけ忘れて結局両方とも行かずじまいだったのである(帰宅後にようやく気づき、天を仰いで己の粗忽さを呪った)。もっとも、巻末のあとがきによると、実際にはその時点でまだ制作中だった本を晴れてこの年末のコミケで発行する運びとなったものらしく、その意味では昨日訪ねるのが正解だったことになる。一応RPGのごときファンタジー物として分類できそうだが、色彩も物も、ごてごてと余計な要素を盛り込もうとしていないのが心地よい。雪景色にせよ山や遺跡にせよ現実から乖離しすぎず、人物(旅人の少女)も読者からつかず離れずの絶妙な存在感に自足している。見る者がまるで自分もそこの空気を吸っているような気になれるというのは、この手の本の中では結構貴重な点だと思う。いまのところこのサークルの本で持っているのはこれだけだが、ごく個人的な要望としては射命丸文の空の旅を見てみたい。なるほど、思い切りよく崖から飛び降り、長い長い自由落下を経て巨木に積もった雪の上に無事着地するに至った顛末を描くのに巻頭から実に四頁を費やしているあたり、いたずらに飛翔の夢を見たがるというよりは、文字通り地に足の着いた想像力が作者の持ち味なのであろうけれど、だからこそこういう堅実な想像力が重力に縛られぬ自由な翼に対しては一体どう反応するかも気になろうというものだ。

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好むと好まざるとにかかわらず、同人業界の絵はその成立ちからして、漫画と、したがって登場人物というものと、切っても切れない縁がある。それは、風景画の場合であれば、あくまでも何らかの筋書きに背景を提供するものとして、濃密な物語性の気配を漂わせている(西洋の風景画ももとをただせばそういうものだったはずだが、だんだんと物語的なものから自立してきた経緯がある)。しかしその一方で、漫画家である以上に、あるいはそれ以前に画家であるというような人の漫画であれば、絵は筋書きへの従属を潔く受け入れはせず、両者の間の潜在的な緊張関係が作品それ自体の内部で露呈することもままある。サークル「ヘルメットが直せません」(大出リコ)の『鈴谷がただひたすらに甘やかしてくれる本』は、そのあたりの事情をうかがうための好例だ。ここの同人誌は、一目見ただけで「ああこの人の絵だ」とわかる、つるりとした丸っこい輪郭、人形の顔つきを思わせる大胆な単純化と血の通った表情の両立、小道具やらロゴやら細かいところまで行き届いた遊び心……等々の魅力に負けて毎回買ってしまうのだが、絵そのものがあまりに完成されているためか、以前は正直なところ話の内容があまり記憶に残らないことが多かった。ところが、C81の『ピースフル★ワールド』あたりから、だんだんとそれが変わってきたように思えるのだ。絵柄に拮抗するだけの充実した、重厚な話になったのか、といえばそうではない。むしろその反対に、うわべは相変わらず能天気かつ他愛ないお話を装いながら、実はそれがもはや取り返しのつかない破局―ただ暗示されるのみの、先行する破局―によってもたらされた帰結であることを最後に明かすことで、漫画の絵は黙々と筋書きに奉仕するのが当然だという我々の思い込みを揺さぶるようになったのである。こうして絵柄は、いわば筋書きに対して面従腹背の関係に立つことになるのみか、そもそも大きすぎて筋書きの側の容量では対応しきれず、いかなる脚本家も持て余すほかないような出来事の後ですらなお残るものとして、この上なく厳かに君臨する(注1)。淡々と世界を客観的に把握して表出する絵の力は非情にして中立的で、それだけに日頃は目立たないが、だからこそ全てが失われた後には頼みの綱ともなるのだ。ドゥルーズならば、折り畳みによって形成される「外『の』内」、「外の作用としての内」とでも述べるところだろうか(注2)。
今回の『鈴谷がただひたすらに甘やかしてくれる本』も、読み始めた当初は、怠け者でだらしない提督と呆れながらもけなげに彼を支える秘書艦の鈴谷に焦点を当てて鎮守府の一日を描いたというだけのありがちな話に思えるがさにあらず、頁数が少ないこともあり、じきに意外な真相が明らかになる。どうやらこの提督は、多大な貢献を通じて戦争を勝利に導いたものの、あいにくその過程でほとんどの艦娘を失った上に自身も歩行や会話がままならぬ廃疾の身となり、終戦後のいまは名目ばかりの閑職を与えられ、めったに訪れる者もいない病室で寂しい毎日をすごしているらしい。鈴谷が口にする、「……提督は/ちょっとくらい/泣いたって/いいんだ」「……あなたが/がんばったから」「あなたと/みんなが/すっごく/がんばった/から―」「今、/この海はね」「平和/なんだよ」という涙を誘う台詞は、退役後の提督(というより元提督だ)の処遇をめぐって彼の代わりに憤る別の台詞―「……連中も/薄情なもん/だよね」―とあいまって、まるで何事もなかったかのように日々の営みを平穏に繰り返す海と青空と海鳥に要約される、自然の世界の全体を、人為的な、とはいえ個人の力量ではどうあがいても抗いようのない制度がもたらした、すさまじい理不尽に対する慰めとして引き合いに出している。この場合、世界あるいは自然に寄せるこの信仰が、そのまま同時に絵画藝術への信仰でもあらねばならないことは、開巻の時点では青空が、そして結末の時点では水平線の(おそらくは意図的な)省略(注3)ゆえに空と溶け合った海が、いずれも横長の窓枠で囲われているという事実から明らかだ。海鳥をわずかな例外としてそこに何も現れることのない、徹底的に空虚な―最終的には海と空との境目すら消失するほどに空虚な―世界、それは、もはや敵艦どころか親しい者も存在しない白々しい世界であるが、四角い枠といういたってつつましい装置による最小限の象りの働き(形象化)さえあれば、絵がこれをしも「平和」に変えてのけるのには十分なのだ。枠が与えられるということは、ラカンが『精神分析の倫理』においてこれこそ任意の仕方で満たしうる始原的な空虚を導入する最初のシニフィアンであり、最初の藝術作品であると主張したような、あの壺の形成に等しい(注4)。そのときこの底知れぬ空虚は、どんな喪失を経験した者にもこうるさく干渉するようなことはないが、代わりにいかなる悲哀も―そのほかの人間的な諸感情と同様に―造作なく吸い上げては無限の彼方に拡散させてしまう。

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絵の上手なサークルといえば、「70年式悠久機関」(おはぎさん)も忘れてはならない。従来のふたなりエルフとか艦これの漫画に関しては、もちろん抜群にすばらしいのは否定できないけれども、いまいち絵柄との相性という点でしっくりこないものがあった。しかし、今回の『ランプ魔神に願うこと』は、『アラビアン・ナイト』風の華麗な世界を舞台に繰り広げられる可憐で初々しい少年少女のまぐわいであり、この絵柄でやる必然性がありすぎるほどある(なぜかカンボジアのアンコール・ワットやキリスト教のゴシック様式の教会などが混じっているのはご愛嬌だが、悶絶するほど美しいので何の問題もない。なんなりと、好きにしてください)。
主人公の少年は愛くるしい優男で、一見女性的な容姿から予想されるとおり、性格も柔弱で受け身に徹している。もちろん芯に秘められた強さで決めるべきところは決めるのだが、しかし身勝手に独走するようなことはなく、自らの欲望の追求と達成が、自ずからつねに周囲の他人の幸福の実現と歩調が合うようになっている。人助けのためなら我が身の危険は一切意に介さないという極端な自己犠牲の美徳に代わって、近頃虚構の世界でよく見かけるようになった調和型の主人公というわけであり、これに加えて魔神の力添えで彼が妊娠させた女性の願いが叶うという設定と、表紙からも明らかなように誰か一人の存在感が突出することのない、スルタンのハーレムを意識した複数の女性との合歓は、三者あいまって、演説のような押しの強い主張こそないが極上の繊細さや巧緻さを味わうべき絵柄の魅力を存分に引き出してくれる。片時も休まずしなやかに躍動し続ける線と、いかにも中東や南欧らしい鮮烈な明暗の対比(一部ジャワの影絵芝居を真似たと思しい頁すらある)、そして性別や年齢の違いを超えて主たる登場人物たち皆が共有する、あの独特な瞳の輝き―それは、無数の切子面を具えた宝玉のように深々と光を吸い込んでは、複雑に屈折させて再び送り返してくる―から嫌でも気づかされるのは、ここでは他の全てをさしおいてまずは様式それ自体が脈動の中から特有の統一性を汲み上げつつ、一匹の生命体として呼吸していること、また、ついでその生命が登場人物たちに行き渡るのであり、その逆の順序を思い描くのは正しくないということだ(実際、各人物の肉体における起伏、特に乳房や男性器のような性感帯の強調は、通常のエロ漫画であれば至って自然であるはずなのに、この本ではかえっていたずらに輪郭のなだらかさを損なう場違いな措置に見えることさえ少なくない)。それに、小さな魔神を杯の精液風呂に浸らせたり、卑猥な台詞が満載だったり、前立腺を責めたりと、心なしかエロ表現自体もいつも以上に意欲的な気がするのが楽しい。何より、頁を眺めているだけで自分まで目の感覚がぐんぐん研ぎ澄まされ、いままでちっとも見えなかったものがはっきり見えるようになったかのような体験ができる。これは稀有の快感だ。こんなものが読めるなんて、本当に生きていてよかった。

ほかに、18禁関係では「しぐにゃん」や「Ash wing」(まくろ)や「不可不可」(関谷あさみ)や「夜☆fuckers」(ミツギ)、それに三冊目の『魔法少女総集編』が出た「絶対少女」(RAITA)などのサークルが、いずれもますます凄味を増していて、空恐ろしくなってくるほどだ。一方、サークル「SAZ」のガンダムビルドファイターズトライ本『ふみなレディ』(soba)は、ほわほわした風情が好ましいものの、ちょっとどっちつかずで焦点が定まらない印象もある。作者が善人すぎるのか急ごしらえなのか、事情は知らないが、凌辱もののはずなのに陰惨さはない(注5)。やはり、胸の大きな大人のお姉さんに甘え放題、甘やかされ放題という作風においてこそ、表現上の節度や品位への配慮も十分に効果的でありうるのではなかろうか。それにしても、見開き2頁を短冊形に四等分して連続的な事態の推移を表すなど、まだ試みたことのない表現を開拓しようとする姿勢には感心させられる。ガンダムで面白かったのは「紅茶屋」(大塚子虎)が出したGのレコンギスタのアイーダ本(『FORTY SIX』)で、例によっていきなりサディストの素質に目覚めたベルリの強引な要求に、これまた例のごとくいきなりマゾヒストの素質に目覚めたアイーダがいきなり屈服してしまうという、笑ってしまうほどのいきなり尽くしなのだが、こういう作風は原作があまりあっけらかんとしていては生きてこないし、人物の心身がある程度大人びていることが前提となる。その意味で、ビルドファイターズトライではなくてGのレコンギスタという作者の選択は―そもそも写実寄りの画風からしても、また以前ガンダム00の同人誌を作っていたという行きがかりからしても当然かもしれないが―、自分の漫画の持ち味を客観的に認識しているという点で興味深いし、艦これの同人誌よりもずっと相性がよさそうに思える。「紅茶屋」の同人誌は一連の俺妹本もよかったし、それ以外にも『電波女と青春男』や『まよチキ!』など、概してライトノベルが原作だと質が高くなるようだ。たぶん、男性の側に割合大きな存在感が付与されている分、いかにも好青年という爽やかな外見と、それとは対照的に力ずくで女性を屈服させたがる強引な言動との落差が目立つことが主たる理由なのだろう。今回の本もベルリの主体性が好ましい方向に働いており、私がいまのところこのサークルの最高傑作だと思う、まおゆう本の一冊目『Secret Love』(C83)に迫る出来栄えである。それに絵柄はもちろん高水準であり、わけても、表紙のアイーダのまなざしと腰つきのいやらしさは、一目見れば忘れられない印象を残す。それほど手の込んだ絵ではないのにひどく煽情的で、さすがと評するほかない(注6)。
商業誌に軸足を置いて活躍する漫画家の中では、前に買い逃したDr.P(「オシリス」)とアシオミマサト(「MUSHIRINGO」)の本が買えてよかったが、柚木N'(「Lv.X+」)ともずや紫(「CASMANIA」改め「MOZUCHICHI」)の新刊が、お財布と相談しているうちに完売してしまったのは残念だった。どちらも人物の体型がいよいよ生々しくなりつつある。特に後者の、肉付きのよいばるんばるんでだるんだるんな女体を二人分も乱舞させることで、なるべく余白の発生を防止しつつ、過度の下品さや暴力性に走らずに表現の強度を高める周到な配慮からは、見習うべきことが多いのではないか。あと、心残りなのはサークル「SHIS」(Zトン)の『ではのしろめぐり』(「出羽の城巡り」の意)と、サークル「醤油をこぼすと染みになる」のフルーツ醤油本を買わなかったことだ。こういう、ちょっと変わった情報系同人誌の楽しみというのも捨てがたいが、なにぶん当方も城に熱中していた時期があって前者の本にはこれといって目新しい知識を見出さなかったのと、後者は取り上げられている対象自体が今後当分は自分の生活に縁がないと思えたので(注7)、結局どちらも見送ってしまった。まあ、書店委託なり次の即売会なり、購入の機会はまだあるはずだから、気長に構えてゆっくり待つとしよう。


(1)とはいえ、『ピースフル★ワールド』における、地球を、つまり読者にとっての馴れ親しんだ(heimlich)環境を、親しみのない(unheimlich)ものとして外から眺めさせる異化的な視線、および『稗田65535』(第十一回博麗神社例大祭)における、人名と数字の融合や、形見としての書物の継承などの着想から察するに、挿絵の担当者として関わった日日日の小説『ギロチンマシン中村奈々子』からの影響が、存外無視できないのかもしれない。というよりも、家族(特に母子関係)の問題系が前面に押し出されることがない分、「ヘルメットが直せません」の同人誌には、ある点では日日日的な想像力の特質を本家の小説よりもかえって明晰に見せてくれるようなところがある。
(2)ジル・ドゥルーズ『フーコー』(宇野邦一訳、河出文庫、2007年)178-179頁。
(3)正確には、完全に省略されているわけではなく、一応薄いトーンの境界線という形で残っているのだが、もちろんこれは手書きで引いた線と比べればずっと存在感が希薄だし、それに真中が四分の一ほど途切れている。
(4)ジャック・ラカン『精神分析の倫理(上)』(小出浩之・鈴木國文・保科正章・菅原誠一訳、岩波書店、2002年)180-184頁。
(5)もっとも、近年ではエロ同人の世界でもお手軽さが求められるようになった分、「希有馬屋」(ところで、『ワルプルギスの夜』は完結しないんでしょうか……)や「沙悟荘」や「super:nova」などのサークルがお手本を示しているような、確かな構成力と極限の繊細さが必要とされる丁寧な凌辱ものはあまり見られなくなった気がする。
(6)もっとも本文については、強弱のない、生気が乏しい輪郭線とその内側のやけに念入りな陰影表現とが不釣り合いであるとか、少し角度が変わるだけで顔立ちが不安定になってしまうとか、その気であら探しをすれば問題点もいろいろと思いつく。
(7)ただし、この本の趣旨は、フルーツ醤油とは決して初めてその名を聞く人が想像しそうなゲテモノ調味料ではなく、しごくまっとうで興味深い醤油の一種であることを実際に確かめてみることにある。

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SAZ『蜂色豊艶』 

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サークル「SAZ」のsobaさんの進化が止まらない。
もうだいぶ以前になるけれども、夏のコミックマーケット(C86)の18禁部門の中でも、個人的にはここの『蜂色豊艶』が断然よかったのだ。
『好色豊蘭』、『艶色豊満』に続く三冊目の食蜂本だけあって、さすがに手慣れている…と思いきや、そうでもない。
といってももちろん不器用というわけではなくて、むしろ、つねに惰性を排して新しいことを試みようとする、その姿勢こそが一貫したものとして強く感じられる、ということである。
登場人物の描き方でそれが顕著なのは、当然ながらみさきちこと食蜂操祈その人である。前作で吹っ切れたのかどうか、胴体はすらりと長く伸び、乳房は洋梨のような末広がりの釣鐘型になるという具合に、ますます大人のお姉さん化が進行しているようだ(大きいだけのおっぱいならまだしも、これだけの重量感はなかなかに得がたい)。しかしながら、一番違いがはっきりしているのは目ではあるまいか(ちなみに『好色豊蘭』以来、まぶたはずっと二重である)。表紙を見れば一目瞭然、緩やかな弧を描くように両目のまなじりがしどけなく垂れ下がり、瞳も潤みが増している。ここまでやりたい放題に表情を蕩けさせてしまうとさすがに彼女らしくないような気もするけれど、それだけ恋人に心を許しているということだろう。なんとも微笑ましくて、見ているこちらもついにやにやしてしまうのが抑えられない。それに合わせてか、線も特に後半に入ると極細の精緻なものになっている。
おそろしいのは、sobaさんの場合、このように同じ人物の描き方が一冊ごとに異なるといっても、他方でその一冊の中ではあくまでも破綻のない統一性、あるいはむしろ整合性が保たれているという事実である。単に数か月の時間が経ったから自ずと画風が変化したというわけではなくて、ちょうど作曲家がハ長調とかト短調とかの調性を選択するのと同様、そのつど採用すべき様式を見定めた上で、その一冊は丸ごとほかならぬ当の様式の探究にあてることに決めているからこうなるのではないか。
それに、主役はもとより食蜂だが、男性(当麻)の側の表情にも適度に注意を払っているのがよい。もちろんこれがよいというのは私の個人的な感じ方だし、その点はさておくとしても、一般論であるからには例外も認めたい。ことに、総集編『天草模様なEX%』の巻頭を飾る書き下ろし漫画では、一頁丸ごと女性の全身が占めるという状態が見開き二頁にわたって続くが(下の図を参照のこと)、あれは、コマ割りと頁の分割という漫画にとって最も基本的な構成上の原理を、ともに女体の性的な緊張と弛緩の律動そのものから発生せしめようとした(そしてそれに成功した)ものというのが私の理解である(その証拠に、右頁では「一頁=1コマ」という等式が成立しているのに対して、左頁に入ると右上では早くもすでにコマへの区画が始まっている)。性器に局限されない女性の「補足的な(supplémentaire)」享楽―ファルスの彼方の、不可能的にして非全体的なる、〈他者〉の享楽―について語りながら、ラカンは聖テレサがいましも天使に矢で貫かれようとしている恍惚の瞬間を捉えたベルニーニの彫像に言及していたが(注1)、それと同じくこの特殊な事例においては、ある意味で、性器における男女の結合は、実は決定的ではないはずなのだ。しかしそういう記念碑的な場合を除けば、基本的には男性の反応がきちんと描かれるほうが、この人の写実的な作風に似つかわしいと思う。

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いずれにしても、とても繊細なのに、その繊細さがもっぱら構図や姿態や表情などの工夫のために費やされていて、病的に神経質な域には迷い込むことがないよう意図的に調節している気配が頼もしい。性愛の陶酔感にせよ作中人物の情熱にせよ、表現の強度そのものは平均をはるかに上回っていながら、それと同時に他方では、余裕があり、良質の遊び心がある。表現とはすなわち客観化であるから、そのかぎりでこれは当然のことかもしれないが、動機としてひとしお強く感じられるのが、個人的な野心とかいわゆる表現意欲以上に、むしろ底抜けの善良さであるという点は独特ではないか(余談ながら、似たような頼もしさは最近のしぐにゃんにも感じる)。
もう一つ、筋書の面でありがたかったのは、屋外でのデートからいったん帰宅して、ちゃんとシャワーを浴びた上で性行為を始めていることだ。何を当たり前のことを、と思われそうだが、エロ漫画の世界ではこれが結構当たり前でない。他の漫画家であれば、シャワーはともかく、帰宅しないで店や公園などのトイレでことに及ぶという設定を選んでいた可能性もあるからだ。そして、これが私は大の苦手なのである。街中でお金のかからない個室を求めればそうなってしまうのも無理はないけれど、あそこはどう考えても意中の異性と一緒に長居したいような場所ではない。台詞の中で「肉便器」とか口走る程度ならまだかまわないが、それ以上の具体性はごめんこうむりたいのだ(注2)。もっとも、『蜂色豊艶』でシャワーを浴びるのは食蜂だけで、どちらかといえばお色直し(制服から体操服に着替えている)の意味が強そうである。もともとsobaさんの漫画の男性には不思議と清潔感があるので、それはそれでよい。狭義の清潔さ以上にここで目立つのは、何かをするときに踏むべき手順をおろそかにしないという意味の潔癖さである。
ただ、全体として考えるとこの潔癖さがいくぶん冗長さにも通じている感じがする。実際、例えば待ちきれなくなった当麻が浴室にいる食蜂に襲いかかるように構成したところで問題はなかったはずだし(体操服の出番はその後に回せばよい)、むしろそのほうが切迫感が出てよかったのではないか。そうなっていないのは、流されがちなお人よしという彼の性格上の特徴を意識した結果かもしれない。しかし、もっと後の頁で、性交中に体位を変えるときの二人の動作までわざわざ描こうとしているのは、さすがに細かすぎるというか、逆にぎこちなく思える。元来漫画の筋の組立てにおける自然さというものは、必ずしも連続する各場面の間の継ぎ目を逐一見せることを要求するわけではない。むしろ、『立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は18禁』や『すきとおるそら』のように、頁をめくるといきなり男根が乳房の間に埋まっているとか、そういう省略による不意打ちの効果を狙ったほうが得策ではなかろうか。この、「頁をめくるといきなり…」という演出はそれ自体としては珍しくないものの、sobaさんや他にはすがいし(サークル「Maniac Street」)など、生真面目でとことん丁寧な絵柄の、それでいておよそ読者を威圧するような、不穏で凶暴な要素とは縁のない人が使ってこそ本来の迫力を発揮するはずである。それはちょうど、コリント前書第15章55節に由来する「死(し)よ、なんぢの勝(かち)は何処(いづこ)にかある。死(し)よ、なんぢの刺(はり)は何処(いづこ)にかある」(注3)という聖句の扱いが、ヘンデルの『メサイア』の第三部第6曲とブラームスの『ドイツ・レクイエム』の第6曲(「怒りの日」に相当する)では大きく異なり、前者における二重唱は物憂げな問いかけに終始しているというのに、合唱の嵐が聴く者を道連れにして荒れ狂う後者においては、焦燥感に満ちた深刻な闘争から晴れやかな修辞疑問文(死が克服されたことへの確信)への移行を示す鮮やかな転調によって、この聖句そのもののただなかに意味上の分割が刻みつけられるようなものだ。つまりは、一つの聖句と別の(次の)聖句との間ではなくて、あえて「もっと手前に」切れ目を持ってきたということである。ブラームスの優柔不断さは彼の作品のあちこちにうかがえるし、そういうところが好きでないという人もいそうだが、この『ドイツ・レクイエム』の第6曲は、交響曲第2番の第2楽章などと並んで、果断でない作者のためらいからかえって絶大なまでの劇的な切断の効果が生じうるという興味深い例だろうと思う。

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何やら口はばったい注文のようなことまで書いてしまって気が引けるけれども、こんなのは『蜂色豊艶』の驚くべき達成を前にして、どう批評してよいものやら見当もつかないまま苦し紛れにできた負け惜しみのようなものにすぎない。知覚の経験を通じて開示される我々の身体のあり方を正しく理解するために参照すべきなのは、物理的対象ではなくて、むしろ藝術作品であるとメルロ‐ポンティは主張した。それはなぜかといえば、「一篇の小説、一篇の詩、一幅の絵画、一曲の音楽は、それぞれ不可分の個体であり、そこでは表現と表現されるものとを区別することのできないような存在、直接的な接触による以外にはその意味を手に入れることはできぬような存在、現に在るその時間的・空間的位置を離れないでその意味するところを放射するような存在である」からだ(注4)。このように、身体と同じく、生ける意味の結び目として要約不可能な複合性を示しうるところに藝術作品の本領があるのだとすれば、作品の内部に現れる身体の描写というものが持たねばならないはずの特権も自ずと明らかになる。なるほど、『蜂色豊満』における人体はなによりもまず視覚的な存在であるが、そこには同時に触覚的な価値も否定しがたく伴っているし、さらには壮麗なまでのその猥褻さ―享楽する身体の誇示―それ自体において、「身体的視による魂の制御〔la régulation de l'âme par la scopie corporelle〕」(注5)というラカン的な「バロック」の定義を例証するかのような精神性にも事欠かないからである(周知のとおり、感官に直接訴える華麗な装飾性と力強い躍動感を特徴とする17世紀のバロック美術の発展は、プロテスタントの勃興に対してカトリック教会が巻き返しを図ったとされる、いわゆる対抗宗教改革運動から切り離せない。当時を代表する彫刻作品であるベルニーニの聖テレサ像のように、神秘家の法悦そのものがほとんど性的な陶酔に近づくという現象は、裏を返せば、感覚的な世界がそのままで神のいや増す栄光に与るということでもある)。

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とりわけ注目に値するのは、上の頁における左手の描き方である。大体、快楽の極みで身悶えする女性の肉体を写実的に描く場合、手(腕)をどう処理するかというのは割と難しい問題ではなかろうか。まるで万歳しているように見えてしまってはいささか間が抜けているというものだし、それに画面の外に追いやるのでは根本的な解決にならない。できれば画面の中に腕全体を収めつつ、しかも自然さが損なわれないような工夫が必要になるわけだ。その点、この頁における左手のように、二の腕がその奥にある前腕に重なって隠してしまう(したがって、腕全体を画面の中に収めながらも長さは半分に減らせることになる)というのは、実に巧妙で鮮やかな解答である。一番手前の女性器から、腰、および胴体を経て、しっかりとシーツをつかむ指先に至るまでの視線の動きを反省してみれば誰でも気づくように、ここでは漫画を創作する上でコマ割りに劣らず大切な原理、すなわち遠近法(短縮法)の原理が、痙攣する女体そのものから生成せしめられているのだ。
もはや人の手が描いているという当たり前の事実さえうっかり忘れてしまいかねない、誰のものともしれぬ至福と善意の塊のようなこういう作品の後で、一体どんな進化を作者がみせてくれるものやら、想像するだに空恐ろしくなる。

ほかに18禁同人誌で今回よかったものとしては、サークル「んーちゃかむーむー」(雪路時愛)の『提督、愛してます。2』と、サークル「PKグリッスル」(井雲くす)の『加賀としたい108のケッコン生活』の二冊を挙げたい。前者はあどけない少年提督を愛宕が誘惑してこれでもかとばかりに甘やかす(主におっぱいで)内容で、こじれすぎた母性愛が妙な方向に爆発してしまったような趣がある。狂気とまでは行かないけれど、ちょっと普通でない過剰な甘味の盛り込まれた溺愛ぶりで、たじたじとなってしまう(こういうの、大好物です)。
後者は題名どおり、提督の視点から加賀とのケッコン生活を108の情景に分けて羅列したもので、はっきりした筋書はない。目次の代わりなのか、開巻早々いきなり見開きで各場景に対応する願望がずらずらと箇条書きになって出てくるのに圧倒されてしまうが、それ以降は、絵の仕上がりが適度に荒削りで無駄がないせいもあり、軽快に読み進むことができる。爬虫類か両生類の生態を見ているようなどこか非人間的な雰囲気があるのはいつものことだが、ここではそれがほどよく抑制され、もっぱら笑いを喚起するように働いているのが面白い。よい意味で肩透かしを食わされた気分になる。個々の情景はもちろんエロ関係の妄想が多いとはいえ、中には料理を作ったり、小さい子たち(暁や雷)を寝かしつけたりと、いかにも所帯じみた内容のものもあるのが微笑ましい。全体を通してみると、しっかり者で冷静な加賀と比べて、叱られてばかりいる提督のどうしようもない変態ぶりが際立つが、実は根底に揺るぎない信頼関係があり、その上でもっとよく相手のことを知りたい、喜ばせたいという一心で彼がいろいろと馬鹿な行動に走るおかげで、加賀の魅力が存分に引き出されているのがわかる。大体、夫婦の生活というものは、いつも華やかな出来事ばかりあるわけではないし、変に取り澄ましたり取り繕ったりしても長続きしないものである。そう考えると、恥も外聞もなく欲望丸出しで加賀にまとわりついては、ちょっとしたことでいちいち怒ったり笑ったりさせてくれるこのだらしない提督が、割れ鍋に綴じ蓋というものか、にわかに彼女にとっては理想的な夫かもしれないと思えてくる(一見地味で派手さがないのによく見れば味わい深い絵柄も、この感想を助長する)。だが、油断は禁物である。なんと、この本の結末で加賀は戦いに敗れ、海底に沈んでしまうのだ。賛否両論ありそうな終わり方だが、ここまで提督の立場から加賀への一途な愛情を描いてきた作者が、その勢いのまま独占欲を抑制できなかった結果と思えば納得がいく。少なくとも私は、加賀の同人誌といえばもうこのサークル以外に考えられなくなってしまったほどだからだ。


(1)Jacques Lacan, Le séminaire XX: Encore, Paris, Seuil, 1975, p.70-71.
(2)ただし、佐伯の『奴隷さん』みたいに、同意の上でSMの一環として排泄関係のあれこれに挑戦するのは必然性があると思うから、個々の作品ごとに柔軟に判断していきたい。
(3)『文語訳 新約聖書 詩篇付』(岩波文庫、2014年)398頁。
(4)メルロ‐ポンティ『知覚の現象学 1』(竹内芳郎・小木貞孝訳、みすず書房、1985年第20刷)252頁。
(5)Jacques Lacan, Le séminaire XX: Encore, op. cit., p.105.

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コミティア109の戦利品 

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諸般の事情によりいまだかつてないほど少ない所持金で臨むはめになったので、今年の夏のコミケ(C86)は実に苦戦した。欲しい本を目の前にして五百円を出そうか出すまいかと頭を悩ませるのも我ながらいじましくて情けないかぎりだったが、「貧すれば鈍す」のことわざどおり、懐が寂しい分心に余裕がなくなって、いくつかのサークルに事前の下調べが行き届かなかったのは痛恨の極みである。特に、佐々原憂樹(サークル「tete a tete fragile」)の参加をきれいさっぱり失念していたのはつらい(頒布物はそんなに本格的なものではなくて8頁のコピー本だったようだが、麻薬のような陶酔感と中毒性のあるあんな線を描ける人はそうそういるとも思えないから、読める機会はできるだけ逃したくない)。
というわけで、サークル「ラノベ作家休憩所」の『救世小説。』に入っている日日日の短篇「ランドセルヘドロ」のことやら、帰り道で見かけた『Free!』のコスプレ集団が、コスプレと名乗るのがおこがましいほどのお手軽すぎる扮装のくせに(髪型を整え、服を脱いで海パンを履いただけ)惜しげもなくみごとな裸体をさらしてくれるので突っこむ気力も失せてしまったことやら、サークル「萌え緑」の同人誌が相変わらず東方Projectのギャグ本としては日本屈指の面白さであることの再確認やら、さては緋鍵龍彦(サークル「KEY TRASH」)の帰還やら、いろいろと興味深い話題はあれど、この負け戦の記憶がもう少し遠のいてくれないことにはそれらについて検討する気にはなれない。そういえば待機時間の間ずっと読んでいたのは深沢七郎の『笛吹川』(講談社文芸文庫、2011年)だったので、これは武田勝頼の呪いかもしれぬ(本当は、やけに面白かったので小説の外部への注意が相対的に散漫になってしまっただけです)。

それはさておき、今日はコミティア109があった。貧乏なのは相変わらずだが、一日だけの即売会であることもあってコミケよりは気兼ねなく散財できるのをよいことに、今回はそこそこ自由に買い物ができたのが嬉しい。
まずは画集である。大体、確たる筋書のある漫画同人誌というものは、制作日数や紙数に制約がつきまとうという事情のせいかもしれないが、ともすればどこかで読んだことのあるようなお話になりがちだという問題がある(ただし、もともと話の筋は申し訳程度でかまわないエロ同人誌は、この場合関係ない)。それでも漫画を本業としているほどの手慣れた人なら、絵柄そのものやちょっとした細部(コマ割りや台詞まわし)に自ずと宿る魅力的な個性のおかげで、筋書が類型的でも大して気にならないで済むわけだが、そのあたりは個々の読者との相性の問題にもなってくるし、吟味を重ねればぜひとも手元に置いて繰り返し何度もひもときたいと思うような本の数は必然的に絞られることになる。その点、「cooo/la」、「帝国少年同人会」、「neutroon」などのサークルの本はいずれも画集(に準じるもの)で、下手に見覚えのある話を何冊も読み漁るより、ときにはこういうお洒落で洗練された絵を眺めながら漠然と空想を膨らませるのも楽しいな、と思わされる。

もっとも、筋書のある漫画作品で勝負するサークルの中でも、「あらむぎ」(戸塚こだま)と「スター書房」(msm)は、そもそもこの二つを今回の主たる目当てにしていただけに、私にとっては別格である。とりわけ前者の『ニコチューウィッチーけむり』は、水木しげる風のとぼけた味わいのある絵柄や―個人的には大歓迎だが、実際には「風」どころかあからさまな模倣に見えることも少なくないので、このまま一般の雑誌などに進出できるかどうかはわからない―、「ニコチュー」(ニコチン中毒者)の女子大生が襲いくる怪人に煙草の魔力で立ち向かう、というやさぐれた設定もさることながら、一見華やかでお気楽な大学生活のいわば裏道に相当する混沌に満ちた世界と、そこに渦巻く鬱積した葛藤や確執や倦怠感に注がれる視線が冴えている。悪者を倒してそれで終わり、という単純さに陥らぬ点は第1巻と同じく本日買った第2巻にも認められるところで、むしろ軽い頭痛のごとく後を引き、脂汗がにじみ出てきそうな息苦しい感じが残る。一度読んだだけでは何が何やらわかりにくいという意見もあるかもしれないが、この得体の知れぬ後味の悪さは、まさに煙草のもたらすそれに近いのではないか(喫煙者でない私には確信が持てないが……)。巻末の怪人図鑑(これがまたやけに凝った作りである)には、作中でラクダ怪人キャロメロンがおかしなタイミングで吼えたり泣いたりしていたことのさりげない種明かしとして、気が抜けるような説明が出てきたり―「全身からトゲを生やせる怪人。/ただし、生やすとき自分もかなり痛い。/トゲだらけになって抱きしめる攻撃も、/外れると自分がもの凄く痛い」とのこと―、「星霊院老衰(せいりょういんろうすい)」などというどこかで聞いたような名前も出てきたりで、思わず苦笑を誘われる。そういえば舞台となっている大学の名も「みやこ大学」である。作者は京都大学に縁のある人だろうか。
「スター書房」の『BOW-WOW-MUM』(これは去年出た本なので、新刊ではない)は、母親が徐々に犬になるという奇病にかかってしまった少女の悩みを描いている(犬とは限らないが、人間が動物に変わる病気が流行っているらしい)。となれば、姿形が変化しても家族の絆は変わらない、というありきたりの人情話に落ち着いてしまいそうで、というか作者は実際そこに着地させようと思い定めていそうなのに、そのようないかにもできすぎた家庭喜劇の成行きをかき乱しかねない不穏な要素が、おそらくは意図せずしてそこかしこに散りばめられる結果になっているのが面白い。薄れゆく記憶を立て直すべく鏡の前で懸命に自分の名前を思い出そうとする母親が、娘に答を言われてしまって怒り狂う瞬間の表情は皮肉にもすでに人間のものではなくなっているし、娘は娘で、そんなたちの悪い悪戯のことを謝るわけでもなく、まるで母親の薄弱な記憶能力につけこむように、ただ気持ちを切り替えて「『なかった事』にする」だけなのだ(このときの彼女の表情も、どこかしら狂気じみている)。気まずい授業参観を経て、喧嘩別れの後で一応和解はするものの、とれてしまった両耳をチアガールの手にするポンポンよろしく両手(前足)にぶらさげて娘と一緒に二足歩行で家路につく母親の姿がとても犬には見えなかったり、結局治療の方法は最後まで見つからないままだったりと、こちらもなかなかに釈然としない読後感を残す作品である(これは褒めている)。たぶん、病気の遠因は母親に対する日頃のつっけんどんな態度だという設定が隠れているというか、この病気そのものがそのような態度の招く軋轢の寓意なのかもしれないと思うが、その点が明示されないことで奇妙さが増している。

しかし、予期せぬ最高の収穫はサークル「ぱらり」の『食獄』である。1センチばかりの分厚い同人誌で、これだけでも一体何ごとかと思わされるが、内容も大変すばらしい。豪華客船が難破し、見捨てられた灯台のある無人島に漂着した六人の男女が、しばらくは料理人のフリオがその中にいたおかげで、というよりも食事については専門家である彼に一任しようという最年少のリゲル少年による提案のおかげで、それなりに文明的な食生活を享受するものの、やがてこれまたリゲルが予言したとおり、季節の変化とともに食材が手に入らなくなり、次第に飢えが彼らを苛むようになる。となれば、行き着く先は凄惨な人肉食の光景であることはたやすく予想がつくはずだが、そうは問屋が卸さない。
たしかに、これはまがうかたなき食人の漫画である。ただし、大岡昇平の『野火』や武田泰淳の『ひかりごけ』などの偉大な系譜に連なりつつ、そこに新しい視点を持ち込む画期的な作品なのだ(なお、以下の文章ではやむなくこの作品の核心に関わる機密に言及せざるをえなかったので、未読だがこれから読んでみたいという方はここで引き返すのが吉です)。

ある日の朝、運悪く灯台から落ちて事故死を遂げたミノアの亡骸を前に、リゲルはフリオに彼女を料理してくれるようせがむ。葛藤の末にようやくそれを引き受けるフリオだったが、災難はそれだけでは終わらず、以後ある者は人肉を拒んだあげく衰弱死を遂げ、ある者は病死し、ある者は自殺するという形で、おのおのがリゲルに渡された紙とペンで思い思いの手記を残してから次々と世を去り、後に残った者たちに食糧を提供することになる。そして、とうとう二人だけになってしまったある夜、リゲルはフリオを灯台の頂上に誘い、そこで自分を殺して食べてはどうかと言い出すのだ。なぜ彼はこんな願い事をするのか。この悪魔的な誘惑の動機は一体何か。本人の説明を聞こう。

「…この島は/平和だった」
「皆すこやかに/テキパキと/死んで行き…」
「どんな残虐な/光景も」「心を蝕むような/飢えも無かった。」
「それは/あなたが調理場に/立っていて/くれたからだよ。」
「さあ/フリオさん。」
「この肉は/そのお礼さ。」

しかし、料理人への感謝というこの説明は、まだ真相の半分でしかない。というのも、なぜ料理人というものがリゲルにとってそれほどありがたい存在なのか、という謎が残っているばかりか、島の季節の変化についての彼の知識や、ミノアの亡骸の前で躊躇なく人肉食を提案できた理由も依然として謎めいているからだ。実は、彼は他の五人とは別の豪華客船から、彼らよりも一足先に、母親と一緒にこの島に漂着しており、灯台にあった保存食が尽きた後は、先に亡くなった母の死体から食いちぎった生肉で辛うじて命をつないでいたのだ。束の間の文明的な食生活の享受の後で、まだ年端もゆかぬ少年であり、それだけに他の誰よりも優れた食材たりうるはずの自分を恩人であるフリオに食べてもらいたいという一見突飛な望みは、こうして思いがけなくも、自暴自棄的な破滅願望に近い罪滅ぼしという性格をあらわにする(こうした心境が、リゲル自身の口から直接語られるのではなくて、あくまでも出来事の推移を通じて読者各自に悟らせるよう、暗示されるにとどまっている点は特筆に値する)。
とはいえ、どうやらリゲルは貧しい母子家庭の出身である自分が料理人になるきっかけを与えてくれた兵士の息子らしいことに気づいたフリオは、そもそも年長者としての責任感からしても、とてもこのような申し出を受諾するわけにはいかない。結局、期せずしていまわの際にリゲルの母が口にしたのと同じ「よい恵み」という決定的な言葉で少年を落ち着かせることに成功した彼は、あべこべに自分の亡骸をリゲルに食べさせてやる覚悟とともにペンをとり、島での経験から知りえたかぎりの人肉の調理方法を「穏やかな顔で書き続ける」のだった……。そして、この顔が本当にすばらしいのである。慈悲をたたえた温顔だと言われればそう見えないこともないが、到底それだけにとどまらぬ、もっとはるかに酷薄で凄絶な、鬼気迫る雰囲気は隠しようもない。一応、自分が考えた料理を他人に食べてもらえるという、料理人に特有の喜びを反映した表情ではあろうが、それがこんなにも妖しい悪魔の微笑になるまで突きつめられた例は前代未聞ではないか。誇張でなく、背筋が凍って総毛立つようだと感じる。しかも、ここまでお膳立てされながら、リゲル少年は結局フリオの遺骸に手を出すことなく、彼の死から十数日後に、問題のレシピへの感謝をしるしてから「僕は確かに幸福なのです」という文章で終わる手記を書き残して自身も餓死してしまうのだ。

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いわゆる極限状況を用意し、そしてその中で食うか食われるかの野蛮で醜い争いを刺激的に演出しさえすればよいという安直な思惑が透けて見えるような、世の中にあふれかえる凡百の食人ものとは、この作品は一味もふた味も違う。知的で、気品があるのだ(だから余計に怖い)。もちろん、その理由は主としてリゲルとフリオの二人に、あるいはむしろ、頼りになりそうな年上の仲間がいるのだから、今度こそいかに飢餓が自分たちを追いつめようとも決して文明の秩序を忘れまいとする前者の決意と、できるかぎりそれに応えようとする後者の料理の腕前とに求めなくてはならない。
人間の尊厳が何よりも文明ないし人為的な技術にかかっているというこの認識は、つねづねハイデガーの技術批判も大いに傾聴に値するが、自分の性に合う美学は技術を軽視しないヘーゲルやドゥルーズのそれだと思っている私にとっては我が意を得たりという感じだし、その上で倫理的な抑制がどうしてもその技術の行使を思いとどまらせるという逆説的な結末は、迂回を経ている分だけ単なる技術批判よりも充実しているのはもちろん、ことが尊厳に、すなわち倫理学の分野における自足性の概念の代表者に関わるという点からしても納得がいくものであろう。文明によって、あるいは技術によって初めて、いずれ自分を食べるはずの誰かのために万全の調理方法を前もって冷静に教えておくことができるほど我々は親切ないし献身的でありうるという事実は、その残酷さにおいてすでにそれ自体として比類なく崇高なのであり、ほとんど人間の領分を越えた侵すべからざる威厳の源泉なのだ。それを目の当たりにするとき、我々は驚嘆と感謝の念に打たれるが、もはやその者に手出しすることはかなわないし、ましてや実際に食べることはできまい。まるでこの点を立証しようとするかのように、他の三人の場合とは異なり、フリオとリゲルの手記は、ようやく島にやってきた救助隊によって六人の遺体が発見されてから間もなく闇に葬られてしまう。持てるかぎりの知恵と経験を注ぎ込んでフリオがひとたびは手記の中で完成させたはずの人肉調理法は、結局実行に移されることがないばかりか日の目を見ることすらかなわなかったのだ。しかしながら、この結果は文明の営為の自足性、ないし自余の一切(自然)に対する高貴な独立性を損なうものではなくて、むしろそれを成就するものとして考えるべきではないか。私としてはただ、ミノアを除く残りの全員―一人は画家である―が何らかの手記を残して死んでいるという多少強引な成行きからは、これもまたペンと紙を使った一つの技術であるには違いない漫画の制作という行為への遠回しな暗示を読みとってよいのではないか、という憶測を書きつけてお茶を濁すほかない。手記という物質的な支えが燃やされたところで、それを書いた者の手によってそれが書かれたという同語反復的な事実は永遠の真理として確立されたままだからだ。一体どこでか―もちろん作品(『食獄』と名づけられたこの漫画)の中で、である。

ここで改めて、『食獄』は一つの漫画作品であるという、あまりにも当然すぎる事実に立ち戻ってみよう。絵柄は強い自己主張があるわけではなく、むしろあっさりとしていて奥ゆかしい。隅々までとことん描き込んだ稠密さが売りの画風とは対照的であり、特に勢いが求められる場面では線の少なさゆえに一見殴り書きのような観を呈することが弱点といえば弱点かもしれないが、筋の進行を遅滞させることがない点で、このような長篇にはむしろ適しているのではないか。それに、全体的な印象は淡々としているようでも、内実は決して一本調子でなく、微妙な起伏や強弱の使い分けに細心の注意が払われていることが伝わってくるので、少しも眺めていて退屈な気分にさせられることがない。片時も休まずコマごとにめまぐるしく切り替わるしなやかな構図の妙は筆舌に尽くしがたいほどで、よくできた映画のカメラさながら、臨機応変に近づいたり遠のいたりを繰り返しつつ、景色から物へ、物から人へ、人体の一部分へ、さらに人々の動作の連鎖へと、自由自在に往還を重ねるばかりか必要に応じて時間の隔たりさえ軽々と飛び越えてしまう。そしてこのような視覚上の配慮が、単に変化をつけるというだけの意味しかない遊びに終わっていないのもよい。ことに、船内の食堂で豪勢な料理に舌鼓を打つリゲルと皿洗い中のフリオの姿とを交互に描くことで、あたかも同じ船に乗っていた二人が同じ遭難事故に巻き込まれたかのように読者に錯覚させてしまう冒頭の仕掛けはまことに鮮やかに決まっているし、それ以後も、落下の瞬間にミノアの顔に浮かぶ、これで皆が当座の食糧に困らなくて済むと言わんばかりの安らかな微笑みや、もはや船乗りたりえない己の不甲斐なさと恋人に会えない寂しさから、絶望して我が身に刃物を突き立てたハロルド(漁師で、臨時の船員だった)が、息を引き取る寸前に自らの血で赤く染まったフリオの手に口づけするのを見て、なぜかリゲルが歯ぎしりとともに浮かべる苛立った表情―まるでフリオへの同性愛的な思慕に由来する嫉妬が表に現れたようで思わずどぎまぎしてしまうが、この苛立ちは、実際にはどうも彼自身が死んだ母親の指にかぶりついたときの嫌な記憶がぶり返した結果らしい―など、うっかりしていると読み過ごしてしまいかねない繊細な工夫の数々が次々に登場しては、入り組んだ陰影を添えて物語を豊かにしてくれる。なおまた、人物たちの背中(後姿)が描かれる頻度の高さは、おそらく他の漫画と比べたときに誰しも認めざるをえないはずの顕著な特徴であり、そしてこれが、我々読者からは独立したところで、彼らが当事者としてほかならぬ自分たち自身の経験を生きているという印象を確かなものにしてくれるのである。
しかし、こういったさまざまな演出のもたらす経験の多層性は、文明というものの人為的であるかぎりは避けがたい脆弱性、ないし非現実的で虚構的な性格に登場人物自身が気づくためにあるようなものだ。なんとなれば、せっかくリゲルが料理人としての自覚を奮い立たせようとして首に巻いてくれたスカーフをほどいてしまったフリオは―ついさきほどまでは、まるで自分を料理して食べるようしきりに彼を誘惑する少年の心理的な攻勢を反映するかのように妖しく咲き誇っていた季節外れの花々が、いっせいに萎れてしまうという幻想的な光景の中で―、こんな身も蓋もない台詞を言い放つからである。

「馬鹿を」「言わないで/下さい。」
「こんな何も無い場所で/なにが料理人ですか。」
〔中略〕
「リゲル君あなたも」
「こんな/ちっぽけな島で」
「一体何になろうと/言うんです。/その体を/差し出してまで」
「一体何が/したかったんです。」
「リゲル君。/あなたは何にも/なれやしません。」「ここには何もかも/足りないのです。」
「あなたに/できることは」
「ただ/生き延びる/ことだけです。」

明らかに、ここでのフリオは、これまでこの島でリゲルが主導してきたような、料理を軸とするいわば「文明ごっこ」を、行き場のない現実的な窮状をごまかすための単なる欺瞞にすぎないものとして批判する立場にあり、そのような虚構を虚構として率直に認めるよう迫っている。
とすれば、彼は虚構に対立する現実的なものの使徒なのだろうか。いや、フリオがリゲルを正そうとするのは、おそらく虚構の用途、あるいは方向づけに関してのみである。身勝手な後ろ向きの贖罪を優先して虚構に従属を強いながら、我々をおぞましい罪(母の亡骸を、それも生肉のまま食べてしまうこと)に走らせた自然の脅威(飢餓)の中で自己完結的な滅亡に身を委ねるのではなく、代わりにそのような脅威と戦い、それを出し抜けるだけの力と叡智を他者に授けるために、ほとんど文字通り自分自身の心血を注ぎ込んで虚構それ自体に絵空事でない現実性を持たせること―フリオが独自の人肉調理法を通じて教えてくれるのは、このような献身が人間にはできるということであり、ひいてはそれができるような何者かへの変身の必然性である(もっともこの何者かが、なおも人間というありきたりな呼び名に甘んじる存在かどうかは定かでないが)。このときこそ、文明の技術は単なる遊戯的な性格を脱して、残酷さという代償と引き換えに無から有を生ぜしめる創造の奇蹟へと結実するのだ。先に私が「文明の営為の自足性、ないし自余の一切(自然)に対する高貴な独立性」と書いたのは、あえて実行するまでもなく空腹をものともしない境地に我々を導いてくれるこの奇蹟の効力を、結末におけるリゲルとともに我々読者も学んだからにほかならない。そのような高貴さは、ちょうど献身が自他の間の隔たりもしくは距離を肯定することであるように、自然に対する人間の関係が手段の介在とともに直接性を失うことを前提としている。そしてこのかぎりで、献身と高貴さの両立は別段奇異なものではない。いわば、両者は間接性という起源を共有しているのであり、あるいはむしろ、ともに起源(自我もしくは自然)から離反を遂げるものであるというほかならぬその点において同類なのである。かつて「抵抗行為と芸術作品とのあれほどにも密接な関係」に注目したドゥルーズが、「抵抗行為には二つの面があるのです。すなわち、抵抗行為は人間のものであり、そして、それはまた芸術の行為でもあるということです。抵抗行為だけが死に抵抗するものなのですが、それは、芸術作品のかたちをとることもあれば、人間たちによる闘争というかたちをとることもあるということなのです」と主張したことの意味を、このようにして我々は実地に学ぶことになる(注)。
もう一度、フリオの禍々しい微笑を見てみよう。我々がそこに見出す一種魔的な(dämonisch)満足は、神をも恐れぬ不敵な創造者だけに許された特権ではなかろうか。こんな表情を浮かべながら漫画を描いている人がいたとすれば、それはさぞかし畏怖すべきことであろうが、『食獄』はたぶんそういう稀な作品の一つなのである。

(注)ジル・ドゥルーズ「創造行為とは何か」(廣瀬純訳)、『狂人の二つの体制 1983-1995』(河出書房新社、2004年)194-195頁。

category: 同人誌

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SAZ『艶色豊満』 

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4月29日はCOMIC1☆8の日だった。
コミケ同様、これといって統一的な主題のない即売会なので、こうなるとどうしても艦隊これくしょんが多数派を占めることになるのは時勢というものだ。
サークル「夜★FUCKERS」(ミツギ)の『チン守府のナカ休み』は、拘束されて身動きの取れない提督を艦娘たちが入れ代わり立ち代わり延々と責め続けるという内容で、男が情けなくいじめられる姿を見るのが楽しいという人にはうってつけである。ここしばらく『境界線上のホライゾン』の同人誌で追究していた点蔵とメアリの純愛ものもよかったが、明瞭さを多少犠牲にしても体の一部を極端に拡大していやらしく強調する行き方―この人の漫画を読んでいると、「このコマは一体?…あ、わかった。舌と舌が絡み合ってるのね」という類の視覚的な戸惑いを感じることが少なくない―をそのまま持ち味として活かすには、こういう一見地味で陰湿な、いかにもという変態的な作風のほうが向いている気がする。
サークル「ありすの宝箱」(水龍敬)の『RAA―特殊慰安戦艦榛名―』は、日本の敗戦を機に、艤装を外されて国営慰安所(Recreation and Amusement Association)で働き始めた榛名が主人公であり、同胞女性の貞操を守るための最後の奉公と思えばこそ自ら盾となって進駐軍の兵士に身を任せようと決めたのに、世間からは感謝されるどころかあべこべに蔑視を浴びて悩む彼女の葛藤を通じて、日頃の「ヤリマンビッチ」的な作風の背後に身を隠してきた(そうでもないか…)知識人・水龍敬の素顔を垣間見ることができる。元来性行為は何も付け足さなくてもそれ自体が比類なく劇的な強度に満ちた体験でありうるのだから、したがって虚構作品においても何はさておきそのようなものとして表象されるべきだという信条を持つ私としては、こういう社会派のエロ漫画は必ずしも好みではないが、会場にひしめく艦これ系同人誌の中でも挑発的な問題提起でひときわ異彩を放つ力作だったのは間違いない。

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サークル「PKグリッスル」(井雲くす)の『空母ノ花嫁』は大変すばらしい。商業誌・同人誌の別を問わず、どこか山椒魚のような両生類のぬめっとした質感に通じる非人間的な人物のたたずまいや、いまにも崩れそうな柔らかい豆腐を思わせる簡潔な輪郭線の蠱惑的な風情が面白く、かねて私とは別様に世界を見る視線の実例としてこの人の漫画は珍重していたのだが、今回は細かい書き込みが増え、入念な陰影法で立体感を出したり、下着の湿り気を強調したり、はたまたえげつない構図で局部に肉迫したりと、比較的広く受け入れられやすそうな写実寄りの絵柄になっており、ほかにも瞳をハート型に描くなど、さまざまな工夫の跡がうかがえる。もっとも、なんと入江亜季の『乱と灰色の世界』の二次創作、しかも絵柄も雰囲気も異様に原作に近くて完成度の高いエロ同人誌(『珊瑚と桃色のせかい』)も以前出ていたので、もともとかなり器用というか、その気になれば何でも、どんな風にでも描ける人なのだろう(唐突に子供の落書きのような粗さに走っては読者の脱力と笑いを誘うという手法も、それを裏づけている)。この変化がはたして一過性のものか、それとも商業活動にまで及ぶ転機を画する性格のものかはわからないが、少なくとも提督とケッコンカッコカリした加賀の初夜という内容の真剣さには、このくらいの重厚さが似つかわしい。しかしいくら全体的な絵柄が正統派に近づいたといっても、冬(C85)に出た前作『感隊が出撃します♡』と比べると、加賀の顔立ちが変わってぐっと扁平になり、両目が細くなった上に目と目の間隔が開き、口も小さなおちょぼ口になるという具合に、いかにも大和撫子という趣を見せてくれるあたり、やはり一筋縄ではいかない(実は、本文を見ればそれほど大きく変化しているわけではないのだが、表紙を比較するかぎりでは結構な違いである。それに、肌の色も白さが増しているようだ)。もっと癖のない美人のほうが好きだという意見もありそうだが、こと言動にふさわしい容姿の加賀らしさという点では、目下これ以上の同人誌を私は知らない。取り澄ました日本人形のようなこの無表情があるからこそ、ひとたびそれが崩れた後で彼女が乱れに乱れる様子もいっそう映えるというものだ。

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※サークル「PKグリッスル」の『感隊が出撃します♡』(左)と『空母ノ花嫁』(右)

艦これではないが、サークル「SAZ」のsobaさんによる『艶色豊満』が私にとっては今回の真打ちである。『とある科学の超電磁砲』の食蜂操祈本として、冬(C85)の『好色豊蘭』に続く二冊目であり、それだけに彼女の描き方がいっそう確信に満ちているのは明らかで、この人にしては大掛かりで息の長い倒叙法の使用ともあいまって、ある種の余裕さえ感じさせるのが頼もしい。これを見るかぎり、昨年の『柳生振感』(COMIC1☆7)あたりから始まったと思しい絵柄の模索は一段落を迎えたようだ。明暗法や線の強弱のつけ方は堂に入ったものだし、細部の精緻さは決して全体の統一を乱すことがない。例えば、開巻早々読者を不意打ちする下の頁を見るがよい。なるほど、このくらい克明に、しかも美しく写実的な乳首を描ける人は他にもいるかもしれない。だが、それが頁全体の中で然るべき地位に然るべく落ち着いていて、女性の全身の見え方がみじんもそのために破綻や動揺をきたす気配がないのはこれこそ特筆に値することで、その点を考慮に入れさえすれば、他の同人誌の中からこれに匹敵する候補を挙げるのはとたんに難しくなってくるはずなのだ。

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また、幸いにしておっぱいへの本格的な関心も復活しつつあるようである。というよりも、あとの楽しみとばかりに慎重を期して、絵柄が安定するまで自主的に延期していただけなのかもしれないが、その辺は憶測しても仕方のないことだ。それに合わせてか、前作(『好色豊蘭』)と比べるとちゃっかり食蜂が大人のお姉さん化しているのには思わず笑ってしまう。基本的な描き方に大きな変化はなさそうなのだが、骨盤や腹筋の強調に伴って心もち胴体のくびれが目立つのと、睫毛が長く、濃くなったことに加えて、それ自体としては丸っこい作りの目を頻繁に細めたりつぶったりする仕草にも原因があるらしい。胴体に関しては、あまり細長くしすぎると中学生らしさが失われそうだが、そもそも設定上は当麻と同じくらいの身長があるはずだから、これはこれでよい。考えてみれば、前作において胴体が寸詰まり気味に見えたのも、多分に遠近法の効果に由来する印象だったようだ。また、睫毛と目に関する新たな試みも、ともすれば不真面目に見えかねない彼女にどう自然な表情を持たせるかという、およそ食蜂の同人誌を作ろうとする者であれば誰しも避けて通ることができない問題と真摯に向き合った結果として、高く評価せざるをえない。それが、揉むとこれまた中学生らしからぬ極上の柔らかさで指に応えてくる乳房と一体になると―ついでながら、この乳房も、ちゃんと胴体からじかに生えているように見えるのが実によい。文字通りとってつけたような不自然さが欠片もなく、胸を大きく描きたがる漫画家にありがちな陥穽を免れているのだ―、100点満点中41081(ヨイオッパイ)点くらいはつけないと申し訳ないような、トロトロのふわふわになる。ぐうの音も出ない。

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もっと凶悪で、下品な作風のほうが興奮するという意見もありうるかと思うが、この甘さや優美さは決して生半可な腕で作り出せるものではない。仮にどこかの美大かデザイン学校でエロ漫画の創作講座を開くとすれば、まっさきにsobaさんを講師として招くべきだと思わされる、そういう性質の模範的な安定感があるのは否定しがたいからだ。そのつもりで、『艶色豊満』をいわば教科書として読もうとすれば、一体いくつの教訓を引き出してくることが可能なのか―それは例えば、コマの進行につれて女性の表情の推移を追うことで快感の昂進を表現する場合は、単調さを避けるとともに因果関係を一目瞭然にするために、体(首から下)に何が起きているのかがわかる描写を間に適宜挟みながら段階的に顔を拡大していくべし、というものかもしれないし、あるいはまた、余白を利用して膣内の男性器の運動を描く際には、持ち主の動作と方向を一致させるべし、というものでもありうる―、到底私には見当もつかない。
もちろん講座などという語は冗談のつもりなのだが、それらの教訓が言語化を許すということ、つまり現にこうしていちいち命題の形で抽出することができるという驚くべき事実がなければ、そんな冗談はそもそも思いつきさえしなかったはずだ。当然ながら、言語における知識の伝達可能性という条件が満たされないかぎり、一般的な教育は成立しえない(藝術教育の不可能性とはいかないまでも、困難さと特殊性はここに起因する)。この自明の理を逆転して、およそ言語において伝達可能なものは知識をおいてほかにない、と考えてみよう。そうすれば、いわゆる主知主義とはおよそかけ離れた『艶色豊満』の一見能天気そうな頁の背後に、いかに豊かな知性の鉱脈が控えているか、察しがつこうというものだ。

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一方で「メンデルスゾーンはもっとも悲劇から遠い作曲家だろう」(注1)と書き、そしてその点に恋愛における自らの理想に共通する一種の弱々しさの気質をほのかに感じとっていたらしい哲学者ウィトゲンシュタインは、他方でこの作曲家に特有の晴朗さと裏腹の、到底孤高とは評しがたい表現の不徹底性に対して物足りなさをも覚えていたらしく―彼によれば、「メンデルスゾーンは峰ではなく、高原である」。そして「メンデルスゾーンは、周囲のすべてが陽気なときにだけ、陽気である人間に似ている」という(注2)―、それゆえ彼の目には同じ路線を歩みながらもいっそう妥協を知らず、「欠点のないメンデルスゾーン」として映ったブラームスのことを、ことさら敬愛していた節がある。

ブラームスは、メンデルスゾーンが中途半端な厳しさでやったことを、手抜きしないで厳しくやっている。あるいは、しばしばブラームスは、欠点のないメンデルスゾーンになる。(注3)

今日、時代の近い独墺系の作曲家ではブルックナーやマーラーの人気がブラームスを凌駕している観があるのは、彼らの強烈に偏った個性ゆえであり、より正確には両者とも巨大な管弦楽の迫力を存分に活用しながら、一方(ブルックナー)は文明以前の荒々しくも荘厳な大宇宙の律動を鳴り響かせ、他方(マーラー)は逆に私小説的な七転八倒の中で極度に個人的な情念の世界を赤裸々に表出し続けたことが主たる原因だろうと思えるが、双方の音楽にあまり共感できなかったらしいウィトゲンシュタインが(注4)、あくまでも古典的な絶対音楽の理念に忠実たらんと志し、伝統的な形式を自覚的に踏襲しつつ煮えたぎる激情をその枠内に封じこめようと努めたブラームスには、「ブラームスの音楽における思想のつよさ」・「ブラームスの圧倒的な能力」(注5)等々の、おそらく最大級の賛辞を寄せていることは興味深い。思うに、この「能力」という語からは、いわゆる有能さという意味に加えて、ブラームスの悠揚迫らぬ作品が「ここぞ」という大詰めの一瞬を除けば曲中のどの瞬間においても聴く者に感じさせる貫禄の印象、つまり、一度に全てをやろうとする性急さへの用心深い警戒と表裏一体の自己抑制の態度に由来する、作曲家はまだ十分な余力を残しているという印象を説明しようとする意図を読みとってもよいのではないか。
私自身はこの三者の中でブルックナーを一番好むが、それはそれとして同様の賛辞は、『艶色豊満』におけるsobaさんにもあるいは妥当するのではないかと感じる。中庸ではあっても凡庸ではなく、重厚にして鈍重ならず、柔和にして柔弱ならず、ましてや弛緩や投げやりとは最も縁遠いところが、いかにもブラームス的だからだ。ここには、自然界に横溢する非人間的な力の数々に突き動かされるまま、盲目的にそれを作品へといわば翻訳する以外になす術を知らぬ原始的な自我のあり方を克服するところにのみ自ずから生じる無私の気品があるが、しかもそれはいまだ、なりふりかまわぬ露悪趣味に走ってでも自我の存在を声高に訴えたいという気取りには達していない。というよりも、そのはるか手前で行く手に待ちかまえるものを悟って故意に踏みとどまっているのだろう(先には「幸いにしておっぱいへの本格的な関心も復活しつつあるようである」などとしたり顔で書いたが、こうなると前作における胸の存在感の稀薄さについても、むしろ胸が膣に劣らぬ第二の目標でありうるような親密さの諸段階というものを想定した上で、それから出発して理解すべきだったのかもしれない。乳房は、その価値が粗略に考えられているからではなくて逆にこの上なく尊重されているからこそ、知り合ってまだ間もない男女の情交においては、大きな比重を占めるべきではない、というわけだ。この慎重さが、これまたいかにもブラームスらしい)。
まるで、藝術は定義上それ自体としてひたすら保存を行うものであり、それは作品が、例えば肖像画が、制作の時点で参照された実在の人物からはもちろん、観衆や聴衆、さらには創作者その人からすらも独立している「諸感覚のブロック(un bloc de sensations)」として、つまりは知覚(perception)をはみ出す被知覚態(percept)と、変様(affection)をはみ出す変様態(affect)との合成態として、元来あらゆる個人的な体験を超出しているからにほかならないと考えるドゥルーズの信念の立証を目の当たりにしているかのようだ(注6)。むろん、ドゥルーズの美学は堅固な形態の秩序を決して安住の地とはみなさず、むしろ最終的にはそれを突き抜けて主体に先行する非人称的な諸々の力の流動を解放しようとするところにその真骨頂がある以上、エロ同人誌はおろか漫画全般と必ずしも相性が抜群とはいきそうにないのだが、とはいえさながら透明なガラス板に食蜂がお尻を押しつけているかのような『艶色豊満』の表紙の充実しきった自律性には、見る者をして、思わずこれこそ最近のエロ同人誌の中では最もドゥルーズ的な藝術の哲学に間近く迫りえた実例ではないかと自問せしめるだけのものがある。少なくとも、視覚的な平面性と触覚的な立体性との両立という課題については、これを上回る解決策が容易に案出できるとは信じがたいし、ドゥルーズも二つの別々の感覚の密着ないし接し合いを、感覚合成態としての藝術にとって不可欠ないくつかの特徴の中に数え入れているのだ(注7)。極度の近さの中で形態の解体と引き換えに素材ないし生地のきめを露呈させようとする、ドゥルーズの美学に独特の「触感的(haptique)」視線とはあくまでも似て非なるものとはいえ、目が手のように振る舞う必要があるという点は共通なのだから、エロ漫画の読者に要求される視線の使い方は、意外とこの比較を正当化してくれるものかもしれない。

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実際、連鎖する各場景の継ぎ目になおうかがえる若干の冗長さやもたつきから『艶色豊満』という作品を救っているのは、というよりもこれはこれで愛欲まみれの平和な雰囲気が出ていてよいとすら思い直したくなる主たる理由は、いまにも手で触れることのできそうな三次元的な形態が、それ自体を唯一の源泉として汲み上げる自足的な緊密性と統一性なのだ。たぶん、こんなに肉の詰まった弾力的な肢体を震わせて身悶えする食蜂の姿を思い描いた人は―上の図を見ればわかるように、完全に水平な仰向けの姿勢ではなくて左半身の側に傾いているせいで、右の乳房が左の乳房の上に隙間なくかぶさっている―、sobaさん以前に誰一人としていないはずである。となれば、絵柄がある程度安定したいまこそ、むしろ話の流れの滑らかさについてはあまり気にせず、多少の不自然さは覚悟の上で、『すきとおるそら』(COMIC☆6)くらい大量に乳関係の甘やかしを再び投入すべき時機が来ているのではあるまいか。純粋に乳房の描写だけでは手詰まりだというのであれば―この人に限ってそんなことはないと思うが―、男性の登場人物の存在感を過度に節約してしまわずに、快感と羞恥に身の置き所をなくす様子を入念に描けばよいと思う。こういう節約には、男性の読者の想像力を助けて作中に自己を移入しやすくしてくれるという利点があるはずだが、『立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は18禁』(COMIC1☆5)や『すきとおるそら』などから察するに、むしろそうしすぎないほうが表現の幅が広がりそうだからだ。『艶色豊満』に限らずsobaさんの同人誌に登場する上条当麻を、際限なく女性との交友関係が膨張していく一方でどう収拾をつけるかのめどが一向に立たない(というよりも、実はいまだ人間関係そのものに由来する深刻な感情の動揺を経験したことがなく、その方面ではおよそ葛藤らしい葛藤も、真にその名に値する苦悩や挫折も知らない)原作の小説における彼自身と比べると、特定の誰かによって代替不可能な個人として熱烈に愛され、欲望されるに値するばかりか自らも旺盛な愛と欲望でそれに応じうる血の通った一個の人格として、前者が後者を、人間的な親しみやすさの魅力という側面から―しのぐかどうかはいざ知らず―補完する役割を果たしているように思えてならない(注8)。基本的には性行為に耽っているだけなのに、それでいて限られた頁数を通じて人柄の良さやあどけなさがありありと伝わってくるというのも、考えてみればすごいことではないか。


(1)ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』(丘沢静也訳、青土社、1999年)25頁。
(2)同書26、27頁。
(3)同書57頁。
(4)同書81、102、186頁。
(5)同書75、80頁。
(6)ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』(財津理訳、河出文庫、2012年)274-275頁。
(7)同書283頁。
(8)もともと『とある魔術の禁書目録』はそういう小説ではないからと割り切ってしまえばそれまでだが、誰に対しても分け隔てなく親切に接し、人助けのためには手間を惜しまないせいでかえって自分自身が厄介な事件の火種と化してしまう、一種の倫理的な怪物に属する型の主人公としては、明らかに例えば西尾維新の阿良々木暦のほうが上条当麻よりもよくできているというか、よい意味で問題含みな存在である。

(7月7日の追記)なぜか点蔵のつもりが「半蔵」と書いていたので訂正した。どうしてこんな馬鹿な書き損じをしたものか、我ながらさっぱりわからない。やっぱり公表する前にちゃんと見直さないとだめねー…点蔵ごめんな、でももげろ。

category: 同人誌

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