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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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トーマス・ヘンゲルブロックの来日公演 

6月5日、トーマス・ヘンゲルブロックの指揮するハンブルク北ドイツ放送交響楽団の演奏会を聴いてきた。
会場は上野の東京文化会館で、曲目はシューマンのピアノ協奏曲イ短調、およびマーラーの交響曲第1番ニ長調「巨人」である。
本当は、サントリーホールにおける前日の演奏会に行くつもりだった。なにしろ、後半の「巨人」は共通だが、前半がメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲で、アラベラ・美歩・シュタインバッハーが独奏者を務めていたのだ(さぞや、育ちがよくてお上品なお坊ちゃんという通俗的なメンデルスゾーン像を粉砕するような攻めの姿勢を見せてくれたに違いない。聴いてみたかった)。おっちょこちょいな私は「そういえば6月に来日する予定だったな」と思い出すのが遅すぎたため、慌ててチケットを買い求めようとした時にはすでに後の祭りだったのだ(注1)。こうなったら翌日の公演は是が非でも聞き逃すまいと決意を固め、念のため電話で当日券の状況を問い合わせた上で、早めに会場に赴き、幸いにして残り少ない最安値の席を(でも1万円です)確保することができた。四階とはいえ、舞台寄りのほとんど袖に近い座席で、オーケストラ全体を眼下に俯瞰できる位置だったのは嬉しい(舞台の真横ならなおよかったが、あいにくあの会場にはそういう席は存在しない)。ほぼ真下から上昇してきた音が頭上近くの天井に反射して降りかかってくるわけだから、音響的には、実はかなり好条件のはずだ。
ヘンゲルブロックはいまや本国ドイツはもとより世界的に人気のある指揮者だろうが、得体の知れないというか、底の見えない人だ。私が所持している彼のCDは、バッハのミサ曲ロ短調(DHM)、モーツァルトの交響曲第36番「リンツ」(IPPNW)、ハイドンのオラトリオ『天地創造』(DHM)、そして今回実演に接することのできたマーラーの「巨人」(SONY)、この四点だが、これだけ見れば単に独墺系音楽が得意なドイツの指揮者にも見える(そしてそういう人なら他にも大勢いる)。だが、ミサ曲ロ短調は別に最近円熟の境地に達しつつあるのでようやく満を持して取り組んだというわけではなくて、知名度に頓着せずにさまざまなバロックの作曲家の作品を取り上げていた20年近く前の時期に早々と成立した録音であり、まさしく無用な力みや厳めしさから解放された、大曲らしからぬ軽やかさ、みずみずしさ、しなやかさといった特質のゆえにすこぶる魅力的だったこと、またモーツァルトに関しては一緒に入っている曲がなぜかリヒャルト・シュトラウスの『メタモルフォーゼン』であり、しかもこの「リンツ」以外の交響曲は代表作であるはずの最後の三曲(第39番・第40番・第41番「ジュピター」)でさえ録音していないこと、さらにモーツァルト同様古典派の顔であるハイドンに対する態度も偏っており、膨大な数に上る交響曲の群をさしおいて一足飛びにいきなり畢生の大作である『天地創造』に行くといういささか特異な対応を示していること(それでいてC.P.E.バッハのハンブルク交響曲集は手掛けているのが妙だ)、そして実演ではすでに何度も指揮し、かなりな好評も得ているはずのベートーヴェンの交響曲もやはりあっさりと迂回したかと思うと一気に時代を駆け下り、シューベルトやメンデルスゾーンやシューマンやドヴォルザーク、ひいてはマーラーと大急ぎで19世紀音楽の諸相を経巡ってきたこと―等々の事情を考えてみれば、どうにもつかみどころのない人という印象はぬぐえない。普通の指揮者であれば、もう少し腰を据えて数年間は特定の作曲家とつきあうものだろうし、その軌跡をある程度まとまった形で、例えばベートーヴェンなりブラームスなりの交響曲全集として残すことにももっと積極的だろう。ヘンゲルブロックの行き方はそれとは対照的で、一見するといわばつまみ食い的なのだ。演奏自体はどれも非常に質が高いので、余計に怪しさが増す。

当日の目当てはマーラーのほうで、シューマンのピアノ協奏曲はそれほど楽しみにしていたわけでもなかった。上述のとおりシュタインバッハーの弾くメンデルスゾーンを聴けなかったせいもあるが(逆恨みだ)、もともと好きな曲でもない。古典派時代のモーツァルトのようにピアノと他の楽器たちが入れ替わり立ち代わり丁々発止の掛け合いを演じるというよりは、オーケストラがピアノをしっかりと包み込みながら両者が緊密に絡み合うのがあるべき形かと思うが、それだけにピアニストには周囲の響きの中に埋没してしまわないだけの、相応の風格と思慮深さが要求される。この曲におけるピアノは、よしんば主役ではないにせよ、それでもやはり中心(核)を占めているのであり、そのようなものとして、つまり肉体を照らす魂のように、オーケストラを内側から照らすのでなくてはならない。この点、ハオチェン・チャンの独奏は、とりあえず自分の担当として与えられた楽譜を音にしているだけという印象で、オーケストラ―ヘンゲルブロックらしい、古楽流の弾力的なリズムは痛快だった―との連携を積極的に模索していく姿勢がいま一つだったように思う。特に帰宅後、アーノンクール(ヨーロッパ室内管弦楽団)とアルゲリッチのやたら刺戟的な演奏や、サイモン・ラトル(バーミンガム市交響楽団)とラルス・フォークトの息の合った演奏を改めて聴きなおすと、なおさらそう感じた(注2)。
皮肉なことに、アンコールで演奏してくれたプロコフィエフの「トッカータニ短調Op.11」のほうがずっと生き生きしていた。「こんなに速く指が動くのだ、どうだ驚いたか」と言わんばかりの、もっぱら技術をひけらかすためのような選曲だが、それだけに終わらぬ一種悪魔的な気迫があり、私はもとより舞台上の楽団員たちも含めて、聴き手は皆手に汗を握り、弾き終わった後は熱狂していた。バックハウスやケンプの晩年の精神的な境地がすばらしいのは当然だが、あらゆるピアニストが最初からそれを目指す必要はないのもこれまた当然のことだ。まだ若いこの人には、オーケストラと共演して中途半端に気兼ねするよりも、しばらくはこういうホロヴィッツ的な名人藝の路線を独力で究めるほうが向いているのかもしれない。

休憩を挟んだ後半は、いよいよマーラーの「巨人」である。第2楽章(アンダンテ・コン・モート)として「花の章」を含む、いわゆる1893年のハンブルク稿だ(ただし、もらった冊子に載っている解説にも書いてあるとおり、実際にヘンゲルブロックたちが演奏しているのは、この稿にさらなる修正を加えた、翌1894年のワイマールにおける演奏時の楽譜らしい)。全体が五楽章あるわけで、当然演奏時間も通常の版と比べてやや長い。
いかにも北ドイツ放送交響楽団らしい、硬く引き締まった重厚な弦楽器の魅力は早くも第1楽章で存分に発揮されていたが、ヘンゲルブロックはそこに、ヴァイオリニストとしての自身の経験を活かしながら、マーラーには不可欠なしなやかさ、濃やかな表情を加えることに腐心してきたようだ。互いの音を注意深く聴きあう弦楽器奏者同士のこの親密な対話は、比類なき正確さと精密さでブルックナー演奏における一つの規範を打ち立て、世界中の称讃を集めた往年のギュンター・ヴァント時代には見られなかったものかもしれない。朝霧のようなフラジオレット、そこに舞台の外から響き渡る起床ラッパ、そして郭公の鳴き声と、愛好家なら誰でもありありと思い出せる開幕の情景は、楽曲と外界を隔てる枠組を取り払おうとする志向、および自然への参照という点においてすでに後年のマーラーらしさを予告するものがあるが、ヘンゲルブロックたちの演奏はあまりそういうことは感じさせず、あくまでも一つの音楽作品としての統一性を大切にしているようである。例えば、提示部で第一主題を支えるべく低弦に現われる規則正しいピチカートは、全体の中に埋もれてしまわず、そうかといってベルティーニ(ケルン放送交響楽団)のCD(EMI)ほどあざとく強調もされずに、絶妙のかすかさで響いてくる。そしてこれによって、聴き手の注意のいくぶんかは自ずから―矛盾しているようだが、いわば気づかぬうちに―そこに引き寄せられ、結果として端正な律動が感知される、ということはつまり生じてくるのである。もっとも、ベルティーニとて実演ではどうだったかわからない。これに限らず、音が終始立体的に聞えるというのが実演の醍醐味の最たるものであって、指揮者、ひいては作曲家が意図した音響設計についても、本来録音だけでは公正な判断は下せまい。マーラーが愛したトライアングルの音色が、単に量的に小さいというだけではなくて、いわば質的にも小さな(可憐な)ものとして聴き手の耳にちゃんと届くのも嬉しい。総じて、ビブラートを控えた清楚な弱音の微妙な色調が作り出す、ぴんと張りつめた空気は特筆に値するもので、この緊張感がないとこの第一楽章は、極論すれば再現部直前のいわゆる「突発(Durchbruch)」(アドルノ)の瞬間を迎えるまで、ひどく平板で起伏の乏しい印象になってしまう(注3)。それだけに、最後、隅々まで整理の行き届いた響きが、見通しのよさ、透明度の高さを保ったまま膨れ上がっていくときのとてつもない振幅の大きさからは、この指揮者ならではの丁寧な仕事ぶりがうかがえた。
続く「花の章」はたしかに目新しくて面白いし、夢見るような牧歌的な風情が美しいとはいえいかんせん甘ったるく、いささか焦点が定まらぬような楽章で、もう録音でも実演でもそれなりに場数を踏んできたはずなのに、楽団の中にやや戸惑いのようなものがうかがえた。おまけに指揮者は安易にわかりやすい歌謡性の上にあぐらをかくことを戒めている風なので、なおさらやりにくいのかもしれない。作曲者がどういうつもりで最終的にこの楽章を削除してしまったのかはわからないが、表題音楽的な(物語的な)首尾一貫性が成り立たなくなるのはもちろん、加えて形式面でも、明白な緩徐楽章の不在、そして前半と後半がスケルツォ楽章を間に挟んで向き合う対称構造(注4)の崩壊という問題が避けがたいにもかかわらず、やはり思い切りよく省いてしまったほうが、各楽章を見比べたとき完成度に落差が生じず、その一方で個性の違いはかえって明瞭になるという利点があるようである。ともあれ生のオーケストラでこれが聴けたのは貴重な体験だ。
第3楽章(通常演奏される最終稿では第2楽章)のスケルツォでは、真面目一辺倒で、ほとんど戦闘的なほどのあまりに筋肉質な音楽に度肝を抜かれた。「花の章」との対比を意識してか、平均よりも早めにきびきびと進む。冗談とか、おどけた気分とは縁がない。私がオーケストラの演奏会に足を運ぶのはせいぜい年に数回だが、そのつどCDの音質との違いに驚かされるのが打楽器である。舞台の奥に隔離された打楽器は、先のトライアングルがそうだったように、いかに小さくとも他の楽器の影にすっかり隠れてしまうことはないものだし、また逆に、いかに他の楽器を圧して鳴り渡るにしても決してそれらの音をすっかりかき消してしまうことはない。それを確かめるたびに、音の空間的な広がりの再現という点でいまなお録音技術には原理的な限界があることを痛感させられる。特に、北ドイツ放送交響楽団のティンパニ奏者は(ヴァントの時代と同じ、眼鏡をかけた細身の紳士だ)、見た目は温厚そうなのに叩き方は全く遠慮会釈がないので、余計その感を強くする。CDではここまで凄まじい音を轟かせてはいなかった。
第4楽章(最終稿では第3楽章)では、戯画化された、ただでさえどこまで本気なのか判然としない葬送行進曲の歩みが唐突に中断され、楽想が変化を遂げて物哀しくなったり珍妙になったりするたびに、指揮者がいち早く指示を出して、この手の文学的な音楽はいくぶん不得手そうなオーケストラを導く姿が記憶に残っている。といっても、しつこい描写に流れて本筋を見失ってしまうようなことはない。根本の発想が器楽的だからか、舵取りそのものは乱れず、適度の脱線を挟みながらもちゃんと前進していくのだ。
フィナーレではいよいよこのオーケストラの特質が全開になり、爆発する感情に溺れて我を忘れるようなことはないまま、獰猛なまでの勢いで荒れ狂う。抽象的に研ぎ澄まされた輪郭の端正さ、そして品格の高さは保たれつつも、聴き手を吹き飛ばさんばかりの強烈な大音響が客席に襲いかかる。この両義性が、なんとも独特だった。それでいて、第1楽章の冒頭や「花の章」の断片が回想されるしみじみしたくだり(CDでは、トラック5のおよそ10分13秒から)では、思いもよらぬ瞑想的な、敬虔ですらある雰囲気に不意を突かれた。山中で嵐に襲われて洞窟に逃げ込んだところ、そこにはほの暗い闇の中にとりどりの青白い光が交錯する神秘の世界が広がっていたという趣である。水を打ったようにひときわ静まり返った会場内の聴衆が一人残らず固唾を呑んで舞台に集中している、あの途方もない緊張感は決して忘れられない。このあたりから全曲の締めくくりに向けてヘンゲルブロックの指揮ぶりもいっそう生彩が増し、疑いなく彼がこの交響曲の全体をどんな細部に至るまでも完璧に掌握していること、音楽が一瞬たりともとどまることなく彼の中に流れ込んでは、そこで生命を新たにして再び流れ出てくるのだということが明らかになってきた。照明は落とされているというのに、それに身振り自体はそこまで派手なほうではないのに、この存在感は一体何なのか。聴いているうちに、この人の場合は、どんな感情もどんな思考も、そもそも楽音の世界以上に自然な環境を知らないのではないかと思えてくる。彼の精神にとって、いやもしかすると肉体にとっても、音楽は決して仮の住まいではなくて、あべこべに生国であり、故郷なのだ。もしもヴァイオリン(でも何でもよいが、ともかく一つの楽器、ただし鍵盤楽器ではない)に心が宿り、人間に姿を変えるようなことがあるとすれば、彼こそがきっとそうであるに違いない。こういう純粋さはおそらくマーラーその人とも、また一般にマーラー作品の名指揮者として知られるバーンスタインやシノーポリやインバルとも異質なものであるが、まがうかたなき天才である。いわゆる感情移入は決して露骨ではないし、下手をすれば紋切型に堕しかねない世紀末ウィーン風の耽美趣味とやらもない。というよりも、必要ないのだろう。緻密さにかけては比類がないが、楽譜の解説に徹する分析的な流儀でもない。それでいて、ともすれば金管の咆哮が洪水のように全てを呑み込み、押し流す結果になりがちなコーダにおいては、さざ波のようにきらめき続ける弦楽合奏の上に前代未聞の豪放かつ壮麗な頂点が悠然と築き上げられ、作曲者が意図したはずの希望に満ちた人生の門出というよりは、むしろ輝かしい完結性を意味するように聞えた(注5)。やみくもな疾駆に身を任せようとはせず、しっかりと地に足が着いているのだ(そう聞えた理由の一つは、結末に向けてなだれ込むような最後の加速がなかったことだろう。また、ホルンはそこまで朗々と鳴らず、奏者も起立しなかった。手元にある輸入盤CDの解説を読むと、今回の楽譜と最終稿との違いを説明する中で、ちゃんとこの二点についても言及があった)。これではまるで、ブルックナーの交響曲第5番ではないか。伝統的な西洋音楽の最大の要諦であろう、「部分は全体の中で(のみ)価値がある」という命題は、なおも真理として妥当しつつ、一切のお仕着せがましさからの解放とともに新たな意味を獲得し、ほとんど工業的な性格を帯びるに至っている。すなわち全体とはできあいのもの、所与のものではなくて、大局を見渡しつつも個々の細部をおろそかにしない、精力的な共同作業の積み重ねを通じてそのつど生産されるべきものなのだ。しかもこの共同作業を決して単なる苦役の連続にはしてしまわず、いついかなる瞬間にあっても愉悦を忘れないのがヘンゲルブロックの流儀である。ドイツ人の間で人気が出るはずだ。
なるほど、「巨人」はマーラーの交響曲の中では比較的単純な部類に属するはずなのに、それをしもこのようにいわば多層的に演奏できるなら、録音の軌跡が一見「つまみ食い」的なとりとめのない様相を呈しているからといって、性急に咎めるのは的外れというものだろう。あるいはむしろ、これ以後の作品と比べれば芝居がかったところや前衛的な試みの少ない素直な作りで、私的な内面の表白もそれほどくどくない「巨人」だからこそ、ここしばらく19世紀音楽の伝統をたどってきたヘンゲルブロックにとっても、またかつてクラウス・テンシュテットの時代に、情け容赦ない指揮者のもとでさんざんしごかれてすっかり心身をすり減らして以来―交響曲第2番「復活」の凄絶な演奏の記録が、海賊盤として残っている―マーラーの曲に警戒心を抱くようになった(と、私は勝手に推測している)北ドイツ放送交響楽団にとっても、一番無理なく取り組むことが可能だったのかもしれない(実際、この指揮者とオーケストラの組合せで聴いても違和感がなさそうなマーラーの交響曲というと、後は第3番くらいしか思いつかない。やり方次第では第4番と第7番「夜の歌」も勘定に入れてよいかもしれないが、いずれにせよ、ブルックナーがほぼどの曲も大丈夫そうなのとは対照的だ)。
演奏終了後、ヘンゲルブロックが各セクションごとにまず代表者、ついで全員という順序で起立を促すときの、「皆さん、これが私の自慢の家族です」と言わんばかりの誇らしそうな笑顔が実に印象的だった。本当に慕われているのだろうな。アンコールはワーグナーの『ローエングリン』から第三幕への前奏曲で、「巨人」とは打って変わって肩の力が抜けた、爽やかな風のような解放感のあふれる演奏だったが、演奏者にとっても聴衆にとっても、あれだけの力がこもった名演の後で心身の緊張を解消するためには、このくらいでちょうどよい。


(1)もっとも、2万円以上する一番高い席は当日になっても結構余っていたようだが、貧乏人には気軽に手が出せない。あまり前列に空席が目立つようだと演奏者にも失礼だと思うのだけれど、結局あれは売れたのだろうか。
(2)とりわけラトルとフォークトによる演奏は、小ぶりで線は細いが、漫然と同時に音を出すだけではなくて一緒に一つの曲を作っていこうとする意志が明白である上、ピアノに対してはもちろん、オーケストラの内部でも楽器の引き継ぎや出入りがとにかく絶妙なので、私にとっては理想に近い。
(3)多少の疲労、またそれゆえの若干の粗さが感じられなかったと断じれば嘘になるが、しかしそれは、彼らが目指している演奏の姿を曇らせるほどではなかったと思う。
(4)柴田南雄『グスタフ・マーラー』(岩波現代文庫、2010年)146-147頁。
(5)もっとも、村井翔著『マーラー』(音楽之友社、2004年)によれば、マーラー自身、この交響曲は結局「僕の主人公である苦闘する巨人の死のうちにはじめてその勝利を獲得する」と語ったことがあるという(196頁)。この発言を信じるかぎり、実際の演奏においても、結末の圧倒的な凱歌は何らかの形で主人公の死を含意すべきなのであろう。
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