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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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C87の戦利品 

凍え死にしそうな二日目の雨にはほとほと閉口したが、総じてコミックマーケット87の成果は満足が行くものだった。
直前まで事前の下調べを重ねて頒布物の内容をできるだけ具体的に把握することに努めたのが第一、地図を見て行くべきサークルの位置に印をつける際、いままでのように赤一色ではなくて赤と青の二色を使い分けた上、とりわけ重要なサークルに関しては鉛筆の線で囲むことで、自分にとっての優先度をなるべく忠実に反映してくれるような順路を追求したのが第二、この二つの工夫がかなり功を奏したのだ。
それだけに、買って損したという同人誌は一冊もない。
ただ、中でも特筆に値するものとなると、自ずと限られてくる。

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まずはサークル「cake maker」(崎由けぇき)の『キリト君がシノンちゃんに雌にされる本。』である。以前即売会で見かけるたびに買っていた「Lucia」と同じサークルで、しばらくご無沙汰していた。それが、今回たまたま調べてみると、サークルとしては参加しないが委託で新刊を出すというので、鼻息を荒くして買いに走った次第である(本当に走ったわけではない)。内容は題名のとおりの竿本…もといSAO本で、自信家のキリトがシノンの股間に生えた自分よりもはるかに立派なライフルで身も心もすっかり骨抜きにされる様が、なんとも背徳的でたまらない。肝心の性行為の情景が申し訳程度で短かったり、まだ人体の立体感や遠近感の表現が安定しなかったりと、漫画としてはところどころ疑問も残る仕上がりなのだけれど、表紙を見れば一目瞭然、少女とは似て非なる、あくまでも女装少年としての魅力(胸元と股間)を抜け目なく強調する淫靡な衣装と、しっとりとした水気をはらんだ悩ましくも肉感的な太ももは、作者が本気になりさえすればどれほどの出来栄えが期待できるかを如実に教えてくれる。幸い続篇の予定もあるようだ。

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それから、サークル「Appetite:」(べにたま)の、『N.B.Ping』という架空の風景画集がよい。実は、去る11月23日のCOMITIA110は、私にとっては、こことお隣の「caramelo」の二つのサークルが目的のようなものだったのだが、信じられないことに地図上に印をつけ忘れて結局両方とも行かずじまいだったのである(帰宅後にようやく気づき、天を仰いで己の粗忽さを呪った)。もっとも、巻末のあとがきによると、実際にはその時点でまだ制作中だった本を晴れてこの年末のコミケで発行する運びとなったものらしく、その意味では昨日訪ねるのが正解だったことになる。一応RPGのごときファンタジー物として分類できそうだが、色彩も物も、ごてごてと余計な要素を盛り込もうとしていないのが心地よい。雪景色にせよ山や遺跡にせよ現実から乖離しすぎず、人物(旅人の少女)も読者からつかず離れずの絶妙な存在感に自足している。見る者がまるで自分もそこの空気を吸っているような気になれるというのは、この手の本の中では結構貴重な点だと思う。いまのところこのサークルの本で持っているのはこれだけだが、ごく個人的な要望としては射命丸文の空の旅を見てみたい。なるほど、思い切りよく崖から飛び降り、長い長い自由落下を経て巨木に積もった雪の上に無事着地するに至った顛末を描くのに巻頭から実に四頁を費やしているあたり、いたずらに飛翔の夢を見たがるというよりは、文字通り地に足の着いた想像力が作者の持ち味なのであろうけれど、だからこそこういう堅実な想像力が重力に縛られぬ自由な翼に対しては一体どう反応するかも気になろうというものだ。

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好むと好まざるとにかかわらず、同人業界の絵はその成立ちからして、漫画と、したがって登場人物というものと、切っても切れない縁がある。それは、風景画の場合であれば、あくまでも何らかの筋書きに背景を提供するものとして、濃密な物語性の気配を漂わせている(西洋の風景画ももとをただせばそういうものだったはずだが、だんだんと物語的なものから自立してきた経緯がある)。しかしその一方で、漫画家である以上に、あるいはそれ以前に画家であるというような人の漫画であれば、絵は筋書きへの従属を潔く受け入れはせず、両者の間の潜在的な緊張関係が作品それ自体の内部で露呈することもままある。サークル「ヘルメットが直せません」(大出リコ)の『鈴谷がただひたすらに甘やかしてくれる本』は、そのあたりの事情をうかがうための好例だ。ここの同人誌は、一目見ただけで「ああこの人の絵だ」とわかる、つるりとした丸っこい輪郭、人形の顔つきを思わせる大胆な単純化と血の通った表情の両立、小道具やらロゴやら細かいところまで行き届いた遊び心……等々の魅力に負けて毎回買ってしまうのだが、絵そのものがあまりに完成されているためか、以前は正直なところ話の内容があまり記憶に残らないことが多かった。ところが、C81の『ピースフル★ワールド』あたりから、だんだんとそれが変わってきたように思えるのだ。絵柄に拮抗するだけの充実した、重厚な話になったのか、といえばそうではない。むしろその反対に、うわべは相変わらず能天気かつ他愛ないお話を装いながら、実はそれがもはや取り返しのつかない破局―ただ暗示されるのみの、先行する破局―によってもたらされた帰結であることを最後に明かすことで、漫画の絵は黙々と筋書きに奉仕するのが当然だという我々の思い込みを揺さぶるようになったのである。こうして絵柄は、いわば筋書きに対して面従腹背の関係に立つことになるのみか、そもそも大きすぎて筋書きの側の容量では対応しきれず、いかなる脚本家も持て余すほかないような出来事の後ですらなお残るものとして、この上なく厳かに君臨する(注1)。淡々と世界を客観的に把握して表出する絵の力は非情にして中立的で、それだけに日頃は目立たないが、だからこそ全てが失われた後には頼みの綱ともなるのだ。ドゥルーズならば、折り畳みによって形成される「外『の』内」、「外の作用としての内」とでも述べるところだろうか(注2)。
今回の『鈴谷がただひたすらに甘やかしてくれる本』も、読み始めた当初は、怠け者でだらしない提督と呆れながらもけなげに彼を支える秘書艦の鈴谷に焦点を当てて鎮守府の一日を描いたというだけのありがちな話に思えるがさにあらず、頁数が少ないこともあり、じきに意外な真相が明らかになる。どうやらこの提督は、多大な貢献を通じて戦争を勝利に導いたものの、あいにくその過程でほとんどの艦娘を失った上に自身も歩行や会話がままならぬ廃疾の身となり、終戦後のいまは名目ばかりの閑職を与えられ、めったに訪れる者もいない病室で寂しい毎日をすごしているらしい。鈴谷が口にする、「……提督は/ちょっとくらい/泣いたって/いいんだ」「……あなたが/がんばったから」「あなたと/みんなが/すっごく/がんばった/から―」「今、/この海はね」「平和/なんだよ」という涙を誘う台詞は、退役後の提督(というより元提督だ)の処遇をめぐって彼の代わりに憤る別の台詞―「……連中も/薄情なもん/だよね」―とあいまって、まるで何事もなかったかのように日々の営みを平穏に繰り返す海と青空と海鳥に要約される、自然の世界の全体を、人為的な、とはいえ個人の力量ではどうあがいても抗いようのない制度がもたらした、すさまじい理不尽に対する慰めとして引き合いに出している。この場合、世界あるいは自然に寄せるこの信仰が、そのまま同時に絵画藝術への信仰でもあらねばならないことは、開巻の時点では青空が、そして結末の時点では水平線の(おそらくは意図的な)省略(注3)ゆえに空と溶け合った海が、いずれも横長の窓枠で囲われているという事実から明らかだ。海鳥をわずかな例外としてそこに何も現れることのない、徹底的に空虚な―最終的には海と空との境目すら消失するほどに空虚な―世界、それは、もはや敵艦どころか親しい者も存在しない白々しい世界であるが、四角い枠といういたってつつましい装置による最小限の象りの働き(形象化)さえあれば、絵がこれをしも「平和」に変えてのけるのには十分なのだ。枠が与えられるということは、ラカンが『精神分析の倫理』においてこれこそ任意の仕方で満たしうる始原的な空虚を導入する最初のシニフィアンであり、最初の藝術作品であると主張したような、あの壺の形成に等しい(注4)。そのときこの底知れぬ空虚は、どんな喪失を経験した者にもこうるさく干渉するようなことはないが、代わりにいかなる悲哀も―そのほかの人間的な諸感情と同様に―造作なく吸い上げては無限の彼方に拡散させてしまう。

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絵の上手なサークルといえば、「70年式悠久機関」(おはぎさん)も忘れてはならない。従来のふたなりエルフとか艦これの漫画に関しては、もちろん抜群にすばらしいのは否定できないけれども、いまいち絵柄との相性という点でしっくりこないものがあった。しかし、今回の『ランプ魔神に願うこと』は、『アラビアン・ナイト』風の華麗な世界を舞台に繰り広げられる可憐で初々しい少年少女のまぐわいであり、この絵柄でやる必然性がありすぎるほどある(なぜかカンボジアのアンコール・ワットやキリスト教のゴシック様式の教会などが混じっているのはご愛嬌だが、悶絶するほど美しいので何の問題もない。なんなりと、好きにしてください)。
主人公の少年は愛くるしい優男で、一見女性的な容姿から予想されるとおり、性格も柔弱で受け身に徹している。もちろん芯に秘められた強さで決めるべきところは決めるのだが、しかし身勝手に独走するようなことはなく、自らの欲望の追求と達成が、自ずからつねに周囲の他人の幸福の実現と歩調が合うようになっている。人助けのためなら我が身の危険は一切意に介さないという極端な自己犠牲の美徳に代わって、近頃虚構の世界でよく見かけるようになった調和型の主人公というわけであり、これに加えて魔神の力添えで彼が妊娠させた女性の願いが叶うという設定と、表紙からも明らかなように誰か一人の存在感が突出することのない、スルタンのハーレムを意識した複数の女性との合歓は、三者あいまって、演説のような押しの強い主張こそないが極上の繊細さや巧緻さを味わうべき絵柄の魅力を存分に引き出してくれる。片時も休まずしなやかに躍動し続ける線と、いかにも中東や南欧らしい鮮烈な明暗の対比(一部ジャワの影絵芝居を真似たと思しい頁すらある)、そして性別や年齢の違いを超えて主たる登場人物たち皆が共有する、あの独特な瞳の輝き―それは、無数の切子面を具えた宝玉のように深々と光を吸い込んでは、複雑に屈折させて再び送り返してくる―から嫌でも気づかされるのは、ここでは他の全てをさしおいてまずは様式それ自体が脈動の中から特有の統一性を汲み上げつつ、一匹の生命体として呼吸していること、また、ついでその生命が登場人物たちに行き渡るのであり、その逆の順序を思い描くのは正しくないということだ(実際、各人物の肉体における起伏、特に乳房や男性器のような性感帯の強調は、通常のエロ漫画であれば至って自然であるはずなのに、この本ではかえっていたずらに輪郭のなだらかさを損なう場違いな措置に見えることさえ少なくない)。それに、小さな魔神を杯の精液風呂に浸らせたり、卑猥な台詞が満載だったり、前立腺を責めたりと、心なしかエロ表現自体もいつも以上に意欲的な気がするのが楽しい。何より、頁を眺めているだけで自分まで目の感覚がぐんぐん研ぎ澄まされ、いままでちっとも見えなかったものがはっきり見えるようになったかのような体験ができる。これは稀有の快感だ。こんなものが読めるなんて、本当に生きていてよかった。

ほかに、18禁関係では「しぐにゃん」や「Ash wing」(まくろ)や「不可不可」(関谷あさみ)や「夜☆fuckers」(ミツギ)、それに三冊目の『魔法少女総集編』が出た「絶対少女」(RAITA)などのサークルが、いずれもますます凄味を増していて、空恐ろしくなってくるほどだ。一方、サークル「SAZ」のガンダムビルドファイターズトライ本『ふみなレディ』(soba)は、ほわほわした風情が好ましいものの、ちょっとどっちつかずで焦点が定まらない印象もある。作者が善人すぎるのか急ごしらえなのか、事情は知らないが、凌辱もののはずなのに陰惨さはない(注5)。やはり、胸の大きな大人のお姉さんに甘え放題、甘やかされ放題という作風においてこそ、表現上の節度や品位への配慮も十分に効果的でありうるのではなかろうか。それにしても、見開き2頁を短冊形に四等分して連続的な事態の推移を表すなど、まだ試みたことのない表現を開拓しようとする姿勢には感心させられる。ガンダムで面白かったのは「紅茶屋」(大塚子虎)が出したGのレコンギスタのアイーダ本(『FORTY SIX』)で、例によっていきなりサディストの素質に目覚めたベルリの強引な要求に、これまた例のごとくいきなりマゾヒストの素質に目覚めたアイーダがいきなり屈服してしまうという、笑ってしまうほどのいきなり尽くしなのだが、こういう作風は原作があまりあっけらかんとしていては生きてこないし、人物の心身がある程度大人びていることが前提となる。その意味で、ビルドファイターズトライではなくてGのレコンギスタという作者の選択は―そもそも写実寄りの画風からしても、また以前ガンダム00の同人誌を作っていたという行きがかりからしても当然かもしれないが―、自分の漫画の持ち味を客観的に認識しているという点で興味深いし、艦これの同人誌よりもずっと相性がよさそうに思える。「紅茶屋」の同人誌は一連の俺妹本もよかったし、それ以外にも『電波女と青春男』や『まよチキ!』など、概してライトノベルが原作だと質が高くなるようだ。たぶん、男性の側に割合大きな存在感が付与されている分、いかにも好青年という爽やかな外見と、それとは対照的に力ずくで女性を屈服させたがる強引な言動との落差が目立つことが主たる理由なのだろう。今回の本もベルリの主体性が好ましい方向に働いており、私がいまのところこのサークルの最高傑作だと思う、まおゆう本の一冊目『Secret Love』(C83)に迫る出来栄えである。それに絵柄はもちろん高水準であり、わけても、表紙のアイーダのまなざしと腰つきのいやらしさは、一目見れば忘れられない印象を残す。それほど手の込んだ絵ではないのにひどく煽情的で、さすがと評するほかない(注6)。
商業誌に軸足を置いて活躍する漫画家の中では、前に買い逃したDr.P(「オシリス」)とアシオミマサト(「MUSHIRINGO」)の本が買えてよかったが、柚木N'(「Lv.X+」)ともずや紫(「CASMANIA」改め「MOZUCHICHI」)の新刊が、お財布と相談しているうちに完売してしまったのは残念だった。どちらも人物の体型がいよいよ生々しくなりつつある。特に後者の、肉付きのよいばるんばるんでだるんだるんな女体を二人分も乱舞させることで、なるべく余白の発生を防止しつつ、過度の下品さや暴力性に走らずに表現の強度を高める周到な配慮からは、見習うべきことが多いのではないか。あと、心残りなのはサークル「SHIS」(Zトン)の『ではのしろめぐり』(「出羽の城巡り」の意)と、サークル「醤油をこぼすと染みになる」のフルーツ醤油本を買わなかったことだ。こういう、ちょっと変わった情報系同人誌の楽しみというのも捨てがたいが、なにぶん当方も城に熱中していた時期があって前者の本にはこれといって目新しい知識を見出さなかったのと、後者は取り上げられている対象自体が今後当分は自分の生活に縁がないと思えたので(注7)、結局どちらも見送ってしまった。まあ、書店委託なり次の即売会なり、購入の機会はまだあるはずだから、気長に構えてゆっくり待つとしよう。


(1)とはいえ、『ピースフル★ワールド』における、地球を、つまり読者にとっての馴れ親しんだ(heimlich)環境を、親しみのない(unheimlich)ものとして外から眺めさせる異化的な視線、および『稗田65535』(第十一回博麗神社例大祭)における、人名と数字の融合や、形見としての書物の継承などの着想から察するに、挿絵の担当者として関わった日日日の小説『ギロチンマシン中村奈々子』からの影響が、存外無視できないのかもしれない。というよりも、家族(特に母子関係)の問題系が前面に押し出されることがない分、「ヘルメットが直せません」の同人誌には、ある点では日日日的な想像力の特質を本家の小説よりもかえって明晰に見せてくれるようなところがある。
(2)ジル・ドゥルーズ『フーコー』(宇野邦一訳、河出文庫、2007年)178-179頁。
(3)正確には、完全に省略されているわけではなく、一応薄いトーンの境界線という形で残っているのだが、もちろんこれは手書きで引いた線と比べればずっと存在感が希薄だし、それに真中が四分の一ほど途切れている。
(4)ジャック・ラカン『精神分析の倫理(上)』(小出浩之・鈴木國文・保科正章・菅原誠一訳、岩波書店、2002年)180-184頁。
(5)もっとも、近年ではエロ同人の世界でもお手軽さが求められるようになった分、「希有馬屋」(ところで、『ワルプルギスの夜』は完結しないんでしょうか……)や「沙悟荘」や「super:nova」などのサークルがお手本を示しているような、確かな構成力と極限の繊細さが必要とされる丁寧な凌辱ものはあまり見られなくなった気がする。
(6)もっとも本文については、強弱のない、生気が乏しい輪郭線とその内側のやけに念入りな陰影表現とが不釣り合いであるとか、少し角度が変わるだけで顔立ちが不安定になってしまうとか、その気であら探しをすれば問題点もいろいろと思いつく。
(7)ただし、この本の趣旨は、フルーツ醤油とは決して初めてその名を聞く人が想像しそうなゲテモノ調味料ではなく、しごくまっとうで興味深い醤油の一種であることを実際に確かめてみることにある。
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