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一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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『孟子』 

古代中国の思想書の中では、私は『老子』を一番好む。たぶん珍しいことではなく、そういう人は他にも結構いるはずである。
それに対して―一見すると割合に散漫な断章の羅列で分量もそれほどではない『論語』はともかく―、『孟子』については、重要であることは百も承知ながら、いかにも儒家的な道徳主義や儀礼の偏重などの堅苦しい側面ばかりが目立つような気がして、あまり身を入れて読んでこなかった。
ところが、このたび通読してみて、とりわけ孟子と弟子の万章(ばんしょう)との問答を記録したという体裁の「万章篇」を読んでいるうちに、もちろん体系的な形而上学が説かれているわけではないにせよ、やはりこれは第一級の思想書だという感慨を抱かざるをえなかった。
思想家としての孟子の著しい特徴、少なくともその一つとして、彼の歴史意識を挙げることは許されるのではないか。すなわち、孟子はおそらく孔子も持たなかったような強い情熱を持って、古の伝説的な堯・舜の時代から続いてきた聖人の道を彼なりに正しく解明し、整理することを企てたのである。この企てが、単に今日的な意味での客観的な研究成果の獲得に甘んじるものでなかったことは注目に値する。孟子にとって、聖人の道とは決してそのような生命を欠いた対象ではなく、むしろ彼が日夜熱烈に慕い、自らもそれに連なろうとする情熱を絶やすことがなかった当のものだったからである。
この歴史意識は当然『孟子』という書物のいたるところにうかがえるが、中でも「万章篇」の下の冒頭を占める第132章に、要領よくまとめられた記述が見出せる。孟子はここで、伯夷(はくい)、伊尹(いいん)、柳下恵(りゅうかけい)、そして孔子という、四人の聖人を論じた上で、孔子の卓越性を主張するのだ。なお、以下に引用する原文と翻訳まじりの書き下し文、さらに補足の説明はいずれも、朝日文庫の金谷治著『中国古典選8 孟子(上)』および『中国古典選9 孟子(下)』に依拠しているが、原文の文字をいくつか新字体に改めた。

孟子曰。伯夷目不視悪色。耳不聴悪聲。非其君不事。非其民不使。治則進。亂則退。横政之所出。横民之所止。不忍居也。思與郷人處。如以朝衣朝冠坐於塗炭也。當紂之時。居北海之濱。以天下之清也。故聞伯夷之風者。頑夫廉。懦夫有立志。/孟子曰(い)わく「伯夷(はくい)は目に悪色を視ず、耳に悪声を聴かず、そのしかるべき君にあらざれば事(つか)えず、そのしかるべき民にあらざれば使わず、治まれば進み、乱るれば退く。横(あし)き政の出(い)づる所と横(あし)き民の止(とど)まる所には、居るに忍びざるなり。郷人(さとびと)と処(お)ることを思うは、朝衣朝冠(ちょういちょうかん)して塗炭(どろずみ)に坐するが如し。紂(ちゅう)の時に当り、北海の浜(ほとり)に居りて天下の清(す)むを待てり。故に伯夷(はくい)の風(ふう)を聞く者は、頑(むさぼ)り夫(おとこ)(貪夫)も廉(ただ)しくなり、懦(よわ)き夫(おとこ)も立志あるにいたらん。(注1)

伯夷は暴君の紂が討たれた殷周革命の時代に乱世を避けて隠れ住んだ高潔な隠者で、その潔癖さは、「郷人と処ることを思うは、朝衣朝冠して塗炭に坐するが如し」、すなわち礼儀をわきまえない野蛮な人との同席を、晴れ着を身に着けて泥の中に座ることにも等しいと感じるほどであったという。
次の伊尹はこれと対照的で、主君であれ民衆であれ、周囲の他人が有徳かどうかは問題にせず、夏王朝末期の暴君である桀(けつ)にも、また殷王朝の初めの聖王である湯(とう)以下数代の君にも、等しく忠勤を励んだことが伝わっている。

伊尹曰何事非君。何使非民。治亦進。亂亦進。曰。天之生斯民也。使先知覺後知。使先覺覺後覺。予天民之先覺者也。予将以此道覺此民也。思天下之民匹夫匹婦。有不與被堯舜之澤者。若己推而内之溝中。其自任以天下之重也。/伊尹(いいん)は『何(いず)れに事(つか)うるとてか君にあらざらん、何れを使うとてか民にあらざらん』といい、治まるも亦(ま)た進み、乱るるも亦(ま)た進みて、曰(い)わく、『天のこの民を生ずるや、先知(せんち)のひとをして後知(こうち)のひとを覚(さと)さしめ、先覚(せんかく)のひとをして後覚(こうかく)のひとを覚(さと)さしむ。われは天民の先覚者なり。われは将(まさ)にこの道を以(も)ってこの民を覚(さと)さんとするなり』と。天下の民の匹夫匹婦(ひっぷひっぷ)に堯舜(ぎょうしゅん)の沢(めぐ)みを被(こう)むらざる者あるを思うこと、己(おの)れが推(お)してこれを溝(みぞ)の中に内(い)れしがごとし。その自(み)ずから任ずるに天下の重きつとめを以ってせるなり。(注2)

伊尹の一見無節操とも思える忠勤ぶりを支えていたのは、「われは天民の先覚者なり」という高貴な自負であり、与えられた機会を余すところなく利用し尽くして自ら人々を感化し、聖人の道を広めたいという切実な願いであった。では、孔子に先立つこと150年ばかり昔の魯国の賢人である、三人目の柳下恵はどういうところが特筆に値するのか。

柳下惠不羞汙君。不辭小官。進不隠賢。必以其道。遺佚而不怨。阨窮而不閔。與郷人處。由由然不忍去也。爾為爾。我為我。雖袒裼裸裎於我側。爾焉能浼我哉。故聞柳下惠之風者。鄙夫寛。薄夫敦。/柳下恵(りゅうかけい)は汙(あ)しき君をも羞(は)じず、小(いや)しき官をも辞(じ)せず、進められては賢を隠さず必ずその道を以(も)ってし、遺(わす)れ佚(す)てらるるをも怨(うら)みず、阨(くる)しみ窮すれども閔(うれ)えず、郷人(さとびと)と処(お)るも由由然(おうよう)にして去るに忍びざるなり。いわく『爾(なんじ)は爾(なんじ)たり、我は我たり、わが側にて袒裼裸裎(はだぬぎ)すると雖(て)も、爾(なんじ)なんぞ能(よ)く我を浼(けが)さんや』と。故に柳下恵(りゅうかけい)の風(ふう)を聞く者は、こころ鄙(せま)き夫(おとこ)も寛(ひろ)くなり、薄き夫(おとこ)も敦(あつ)(厚)くなるにいたらん。(注3)

柳下恵の進退の様子は、周囲の環境について思いわずらうことがないという鷹揚さの点では伊尹に似ているようだが、その内心に立ち入ってみれば、自らの高潔さを強く意識する点において伯夷にも引けを取らない。金谷治は彼が汚濁の世にあっても好んで世俗の中に身を置いたことを指して、伯夷とは正反対だと評価しているけれども、それはうわべに引きずられた見方であろう。「遺れ佚てらるるをも怨みず、阨しみ窮すれども閔えず」とあるように、その生涯は一貫して高位にあったらしい伊尹ほど順風満帆でもなく、さりとて殷が周に滅ぼされるという王朝交代の転換期に際会した伯夷と比べると、そもそも完全に世を捨てて隠遁しようと思いつめねばならぬほど追いつめられた立場でもない。このように、先立つ両人の中間に位置すると思える柳下恵の柔軟な態度は、実はいわば境遇それ自体によって準備されているとともに、必ずしも悲劇的性格のものではないにせよ、ここでは外的な行動と内面とが分裂していて、両者の間に連絡がない。このことは何を示すか。ほかでもない、続く孔子の体現する中庸の徳を、内心の知的な分別に源を発する、そのつどの環境への適切な応答として、対照的に際立たせるためである。

孔子之去齊。接淅而行。去魯曰遅遅吾行也。去父母國之道也。可以速而速。可以久而久。可以處而處。可以仕而仕。孔子也。/孔子の、斉(せい)のくにを去るときは、淅(かしごめ)(漬米)を接(すく)いていそぎて行(さ)りしも、魯(ろ)のくにを去るときは、『遅遅(ちち)としてわれは行(さ)る』といいたまえり。父母の国を去るの道なればなり。速やかにすべくんば速やかにし、久しくすべくんば久しくし、処(お)るべくんば処(お)り、仕うべくんば仕うるは、孔子なり。」(注4)

「淅(かしごめ)」は「(漬米)」という訳語からもわかるように、研ぎ終えて水に漬けた状態の米のことで、斉の国を去るときの孔子は、これをそのまますくって携えて行ったという。炊いて食べるだけの時間も惜しんだわけで、とるものもとりあえず、という意味であろう。その一方で、「父母の国」つまり生まれ故郷である魯を発つときには、のろのろとした歩みであった。立ち去りがたかったからである。つまり、急がねばならないときは急ぎ、時間をかけるべきときは時間をかける(「可以速而速。可以久而久」)という風に、そのときどきの現実的な条件を考慮して一番適切な行動を見定め、それを怠りなく実行するというのが孔子の流儀であった。
さて、四人の聖者について論じてきた孟子は、いよいよ総括に入り、音楽と弓術という巧みな比喩によって孔子の偉大さを解き明かそうとする。おそらく、『孟子』全体を通しても屈指の美しいくだりであろう。

孟子曰。伯夷聖之清者也。伊尹聖之任者也。柳下惠聖之和者也。孔子聖之時者也。孔子之謂集大成。集大成也者。金聲而玉振之也。金聲也者。始條理也。玉振之也者。終條理也。始條理者。智之事也。終條理者。聖之事也。智譬則巧也。聖譬則力也。由射於百歩之外也。其至爾力也。其中非爾力也。/孟子曰(い)わく「伯夷(はくい)は聖の清(せい)なる者なり、伊尹(いいん)は聖の任(にん)なる者なり、柳下恵(りゅうかけい)は聖の和(わ)なる者なり、孔子は聖の時(とき)なる者なり。孔子は集大成(しゅうたいせい)と謂うべし。集大成とは、金声(きんせい)して玉振(ぎょくしん)することなり。金声とは条理を始むること、玉振とは条理を終うることにして、条理を始むるは智の事、条理を終うるは聖の事なり。〔すなわち孔子は聖と智とを兼ねたまえり。〕智は譬(たと)えば則(すな)わち巧みさにして、聖は譬(たと)えば則(すな)わち力なり。由(な)お百歩の外(かなた)に射(ゆみい)るがごとく、その至(とど)くはなんじの力なるも、その中(あた)るはなんじの力にはあらざるなり。」(注5)

節義を守り通した伯夷の清らかさ、ひとたび任命を受けた以上は決して仕事を投げ出すまいとする伊尹の使命感、運命に不平を鳴らすことなくどんな人が相手でも仲良くすることのできた柳下恵の調和の才能―いずれの聖徳も尊いには違いない。しかし、「聖之時者」すなわち時の聖者である孔子が別格なのは、その行動がつねに時宜を得ているからで、このようなことが可能だったのは、根底に確かな「智」があったからこそである。孟子はそう考える。
こう内容を要約してしまうと何でもないようだが、問うべきはこの根底的な始原の「智」についてである。単なる修辞として片付けるには、ここに現れる音楽と弓術の比喩は二つともあまりに重い。どこがどう尋常でないのか、二つの点に絞ってみよう。第一に、孔子が集大成と呼ばれるにふさわしいのはなぜかという、その理由である。金谷の解説によれば、この「集大成」というのはもともと音楽用語で、「金声」すなわち鐘を鳴らす奏楽の開始と、「玉振」すなわち玉器の打音で整える奏楽の最後とが、どちらも完全に具わっていることを指すという。孟子がそれを引き合いに出したのは、孔子の行動には「条理」、すなわち一糸乱れぬ正しい道筋が認められるからである。ということはつまり、孔子の行いはいかにその場の状況に照らして適切であるといっても、決して何も考えずにただ状況に流された結果ではなかったということ、そこには確かに完全無欠な楽曲を思わせる首尾一貫性と、それゆえの説得力があったということである。「条理を始むるは智の事、条理を終うるは聖の事なり」とあるように、ここには、「智」が始めた「条理」の歩みが「聖」に至って完結するという、三つの項からなる一つの過程の成立を考えなくてはならない。しかし、だとすれば奇妙なことに、孟子は古の聖人たちを次々に論じ、現に伯夷、伊尹、柳下恵、孔子の四人を讃えて、順に「聖之清者」、「聖之任者」、「聖之和者」、「聖之時者」という美々しい呼び名を奉っているはずなのに、最後の孔子の例はむしろ、本来の順序としては「聖」以上に根源的であるべき徳目として「智」のあることを教えている。逆説的なことに、どうやら孔子がそうであるような真の聖人になるためには、「聖」だけでは不十分で、「智」をわきまえることが不可欠らしい。
第二に不思議なのは、弓術の比喩も両者の序列に関する不審さを払拭してくれるというよりは、むしろそれを増幅していることである。「智譬則巧也。聖譬則力也」、つまり「智」は巧みさに、「聖」は力に相当するという、その点はよい。しかしその後に続く文章に、射た矢が百歩の距離を越えて的まで届くのは力のおかげだが、的に当たるのは力のおかげではない、と書いてあるのはどういうことか。もちろん、「力(聖)」と「巧みさ(智)」との関係が問題になっている以上、力つまり「聖」のおかげでないというならそれは巧みさの、つまり「智」のおかげに決まっている。しかし、あからさまにそう書いてあるわけではない。また、いかに巧みな腕前の達人であろうと飛行中の矢の軌道を変えることはできないのだから、その意味では、巧みさないし「智」の働きは―正しく的に照準を合わせる技術として―射る瞬間までに発揮されるほかないのだが、その働きの結果は力(「聖」)の結果と同時に、つまり矢が的を射当てる瞬間になってようやく判明するのであり、それ以前にはわからないのである。換言すれば、この弓術の比喩は、「聖」(力)に対する「智」(巧みさ)の先行性を説きながらも、あえてそれを隠そうとしているような歯切れの悪いところがある。そしてそれはちょうど、聖人を聖人として完成せしめるはずの根源的な「智」の徳が、にもかかわらずここで言及されている四人の中では孔子に至るまで顕現することがなかったという逆説的な事情と符合しているのである。

この逆説をいかに解決するか。なにしろ孟子は紀元前四世紀の人である。近代的な物の考え方とは違う道を通るのでなければ、その哲学に正しく近づいたことになるまい。それでは、誰を先達とすればよいのか。あらゆる存在者を生かす原理でありながらまさにそのゆえにそれ自体は対象化されえず、必ずや忘却され隠蔽されるほかないという「存在」そのものの運命を思索するハイデガーか、あるいは根源的な至上神とみなされながらもなぜか天地創造の後になってからでないと姿を現さない、神以前の「既存者」に迫ろうとする折口信夫か。とりわけ折口の場合は、既存者の解明は容易でないと釘を差す一方で、「だが其に、支那の天帝信仰の形を充てはめて見ると、考え易くなる」(注6)とも述べているので、心強い感じがする。
しかし、ここで私が参照したいのは、それらではない。というのも、最初にあったはずのものが最後にならないと明らかにならないというねじれた過程の構図は、他の何かへの還元という仕方で解決するというよりも、むしろそのまま一つの真理として受容すべきだと思えるからで、そのために手助けを求めるとすれば、もっと適当な図式があるからだ。その図式とは、アヴィセンナことイブン・シーナー(Ibn Sīnā, 980-1037)の唱えた存在偶有性説である。この説は、読んで字のごとく、存在を偶有性の一種であると説く。しかし偶有性という術語は、一般的には、ある基体が伴うことも伴わないこともありうるような、何か非本質的なものを指している。だから、この説によれば、存在はいわばどうでもよい「おまけ」にすぎないということになりそうである。では、それがアヴィセンナの真意だったのだろうか。山内志朗によれば、そうではない。

 だが、彼は「存在に先立つものはない」とも述べている。どうも二ひねり半した考えのようだ。「花が存在する」という枠組みで考える普通の思考法では「花が白い」という場合、「白い」と「存在する」はともに「花」に対する述部である。言葉として見れば、大した違いはない。だが、アヴィセンナは、実態は反対だ、と言いたかったのだ。
 最初に花があって、それにオプションで「存在」が付着するのではない、あくまでも存在が最初にある、というのだ。確かに、花はもとは小さな種だから、ある程度成長してこないと目に見えない。芽が出てから「なんか出てきたぞ」と気づき、生長してつぼみを開いてようやくその姿を見せる。なるほど、花より存在が先にあるではないか。
 だから、アヴィセンナの弟子筋の人は「存在が花として現れている」のだから、主語と述語を入れ替えて「存在が花する」と言った方がよいと述べている。もちろん言葉の世界では、こんな表現はない。しかし、実在の世界のあり方を正確に述べようとすると「存在が花する」としか言いようがない。私の存在だって「私が生きている」というより、「生命が私として現れている」に近い。
 人間の一生も同じだ。人間は希望に向かって成長していく。だから、希望は最初にあるはずだが、実はその姿は最初、ぼんやりとしている。ようやく希望がかないそうになって、やっとはっきりした姿として現れる―君らもそんな経験をしたことがあるだろう。(注7)

例えばドゥルーズ哲学における存在の一義性論と同様、アヴィセンナの存在偶有性説における存在の地位の両義性、すなわち先行性と事後性の両立という不思議な事態も、このように潜在的なものの現働化という過程として理解するべき側面を持つ。そのために必要なのが、山内の用語を借りるなら、中世西洋哲学において一般的だった、「(1)限定されるもの=被限定項(determinabile)、(2)限定するもの=限定項(determinans)、(3)限定されてある=限定態(determinatum)」という三項図式であり、これは存在論の分野においては、「本質(essentia)‐存在(esse)‐存在者・〈存在〉(ens)」となる。注意すべきは、第三の項である「エンス(ens)」は、「存在者」・「〈存在〉」と二通りに訳されていることからもわかるように、存在者のみならず存在することまで包括する、可塑的な概念であったという点である。そしてこの図式は、「生命(vita)‐生きること(vivere)‐生物(vivens)」とか、「光(lux)‐光ること(lucere)‐光るもの(lucens)」など、他の三項図式にとっての範例ともなる(注8)。ということは、先に私が整理しておいたような、『孟子』「万章篇」第132章における、「智」が始めた「条理」の歩みが「聖」に至って完結するという、三つの項からなる過程をも、これに引き寄せて考えることは可能なのではないか。実際、アヴィセンナらによるイスラム世界における哲学の発展を通じて、「第一の師」として絶えず参照されてきたアリストテレスは、個々人の霊魂に働きかけて潜在的でしかなかった知性を現働化してくれる、不断に活動状態にある普遍的知性を光になぞらえているからである(注9)。のちに、注解者として名高いアフロディシアスのアレクサンドロスはこの知性を「能動知性」と名づけ、それがイスラム哲学にも持ち込まれることになった。オリヴァー・リーマンも注目するとおり、これはとりもなおさず、知性を論じる場合でも三項図式の有効性は変わらない、ということを意味する。

 作用的(能動)知性(agent intellect)を光に喩えることは上手なやり方である。なぜなら、視覚作用が起るとすれば、能力(視力)と視覚対象以外に、存在しなければならない第一の要素は光だからである。これは小さなことに思えるかもしれないが、そうではない。〔中略〕暗闇の中に「隠されて」いる対象物の色を光が顕わにするように、感覚的対象のなかに隠れている潜勢的な知的対象を「照し出す」何か作用的知性のようなものにアリストテレスは言及しているが、それはある意味では概念はすでに事物の中に「ある」のであって、必要なのはただ照明だけである、ということを示唆している。(注10)

さて、山内によれば、存在論の三項図式からは、少なくとも三つの論点を引き出せる。

 ここで確認すべきことはいくつかあるが、第一の論点は、本質は一つの種に属するすべての個体にとって同一であり、また個体は現実化して初めて成立すると考えれば、本質の方が先立つということである。第二の論点は、本質が現実化して、個体が成立する以上、以上の三項図式は、現実化、個体化の図式でもあることだ。第三の論点は、存在とは「生きること」や「光ること」と同様に、現実化、個体化、いや現実作用なのであるということだ。(注11)

これらの論点をさらに突きつめていけば、アヴィセンナの存在偶有説を、潜在的なものの現働化の過程であると同時に個体化の過程でもあるような、存在の自己顕現の理論として考えることができるようになる。

 ここで、存在論の三項図式を思い出してみよう。存在とは、結果や全面的な現実化ではない。むしろ、作用だ。作用というのはどういうことなのだろう。もし本質が、すべての規定性が分節化し、展開され終わった状態であるとすると、存在は最後の仕上げ程度のものである。
 しかし、本質が、実は〈本質自体〉としてあって、すべての規定性が潜在的なものにとどまり、一つのものとして融合していて、現実化の過程の中で、潜在的なものが展開されて、徐々に様々な規定性として現れてきて、しかもそのような潜在的なものの分節化が、「〈存在〉の顕現」であるとしたら、どうなるのだろう。換言すれば、〈本質自体〉の展開が〈存在〉の顕現であるとしたらどうなるのだろう。その際、本質は、〈本質自体〉の展開のプロセスを、一つの時点で固定化して、言葉の枠内に定着させたものだろう。本質とは、事象の生成のいわば切断面なのだが、〈存在〉はそのような切断面としての本質に含まれるものではない。その場合、〈存在〉は本質にとって偶有的なものとなるのである。急ぎ足でまとめれば、〈本質自体〉の展開過程における〈存在〉の自己顕現と、〈存在〉の偶有性説とは、論理的に等価なのである。
 存在を幅を持ったプロセスと考えると、先立つフェイズが本質存在(esse essentiae)であり、後に来るフェイズが現実存在(esse existentiae)である。〈本質自体〉は純然たる本質存在であり、現実化した個物は純然たる現実存在である。
 ここまで見てくると、存在論の三項図式とは、存在というプロセスが本来的なものとしてあって、その先立つフェイズが本質であり、後に来るフェイズが個物であるということになって、〈存在〉の顕現という事態を、三項図式に収め込んだものということが見えてくる。(注12)

思うに、『孟子』「万章篇」第132章の畏怖すべき荘厳さは、単に「集大成」としての孔子をめぐる、「金声して玉振する」云々という修辞のみに由来するのではない。むしろ、そのような修辞の向こうに、四人の聖人の中では孟子から見て最も新しいはずの孔子の「智」に託して、個人の聖徳を超えた宇宙の秩序を垣間見せ、あまつさえ事後的に判明する先行性という逆説的な性格をこの秩序に持たせることで、孔子以後も途絶えることなく孟子自身に脈々と流れこみ、ひいては幾世紀を隔てた我々のもとにすら達するような揺るぎない過程としてそれを暗示しえたことに由来するのだ。それこそは、「条理」としての歴史の歩みである。さかしらな個人の自慢するありきたりな知恵など、このほとんど能動知性を思わせる永遠の「智」に比べれば物の数ではない。
我ながら突飛な論のようだが、現に末尾の「其至爾力也。其中非爾力也」を読むと、後半は、文意を考慮するかぎり、「なんじの巧みさ」という表現を使って、例えば「其中爾巧也/その中(あた)るはなんじの巧みさなり」とでも書いたほうがわかりやすそうなのに、見てのとおり実際にはこれを避けて、頑なに前半と同じ「なんじの力」という表現に固執し、それをただ否定することで済ませている。ならば、孟子にとって、孔子がこの上ない立派な手本を示してくれたような「聖」以上の「智」(弓術の比喩における「巧みさ」に相当する)は―ちょうどアヴィセンナたちアリストテレス主義者にとって能動知性がそうであるように―、「なんじの」という限定にはなじまない、個人を超えたものでなくてはならず、逆に「聖」(弓術の比喩における「力」に相当する)のほうはもっと個人的な徳であるということになりはしないか。存在の一義性の提唱者として知られ、アヴィセンナの存在偶有性説からも強い影響を受けたドゥンス・スコトゥス(Johannes Duns Scotus, 1265-1308)の個体化論によれば、個体化の原理、すなわちある個体をほかならぬ当のその個体ならしめる「このもの性(haecceitas)」とは、種の概念規定に上乗せされるような別の新たな概念規定ではなく、「馬性」や「人間性」のごとき本質自体ないし共通本性にとっての広義の偶有性、あるいはむしろ内在的様態(modus intrinsecus)であり、これは度・強度・濃度(例えば、ある「白いもの」における特定の「白さ」)として理解すべきものである(注13)。弓を的のあるところまで届かせる「力」のみに「なんじの」という限定を認める孟子の言葉づかいが仮に意図的なものだとしたら、そこには少なからずこれに似た発想が潜んでいるのではないか(注14)。

あえて「広義の」偶有性と書いて、厳密には偶有性なる呼称がふさわしくないという含みを持たせたことには理由がある。というのも、このもの性は、共通本性に外から付加されるわけではないからだ。

 「様態」という用語にスコトゥスが拘るのは、「偶有性」との対比を考えているからである。ある事物の本来的概念規定に含まれないものは、広義の「偶有性」であるが、必ずしも外部から添加されるものとは限らない。スコトゥスは、「個体化するものはいかなるものであれ、偶有性である。しかし、本来の意味での偶有性ではない」と述べる。潜在的に含まれていたものが顕在化する状態は、狭義の「偶有性」ではない。個体化の理由は、外的なものに求められるのではない。(注15)

これと対比してみたいのが、『孟子』「公孫丑篇」第25章の名高い問答である。弟子の公孫丑(こうそんちゅう)から不動心(ものに動じない心)について問われた孟子は、「浩然(こうぜん)の気」、すなわち穏やかなのびのびした和平の気を養って、ついには天地の間を満たすほどに大きく育てることが肝要だと答え、続けてこう述べる。

其為氣也。配義與道。無是餒也。是集義所生者。非義襲而取之也。〔中略〕必有事焉而勿正。/その気たるや、義と道とに配し、これなければ餒(う)うるなり。これ義に集(あ)いて生(やしな)わるるものにして、襲(おそ)いてそとより取れるものにはあらず。〔中略〕〔凡そ養気は〕必ず〔道義に〕副(そ)うことありて〔気を〕正とすることなかれ。(注16)

すなわち、浩然の気とは正義と人道とに伴ってこそ養われ、その条件を欠けば飢えてしなびてしまうようなもので、決して外から取ってきた借り物ではない。だからまた、これを養おうと思えば、どうすれば道義にかなうのかを心掛けるべきであって、気そのものを主眼としてはならない、という。ここでスコトゥスを参照するのは、あながち牽強付会ではない。外来でないこと、およびそれ自体を対象として意識的な統制の下に置こうとすればかえって取り逃がしてしまうこと、この二点はいずれも、浩然の気が我々のもとで現働化を遂げる潜在的な性格のものであることを示唆しているようだからだ。いや、この「我々のもとで」というのは、誤解を招く表現である。存在論の三項図式、そしてアヴィセンナの存在偶有性論を引き継いだスコトゥスの個体化論が教えてくれるのは、我々つまり個々の人間を、存在の自己顕現として見る視点だからだ。それは、思惟の主体としての「私」を原点に位置づける近世的な発想とは根本的に異なっている(注17)。
いかにも儒家的な中庸の美徳の面目躍如たるものがある、気そのものを主眼とするようではかえってうまくいかないという逆説的な警告には、しかしながら、惰性化した日常的な語法のしがらみから離れて、中庸という概念自体を再考することを迫ってくるようなところがある。一つ一つの行動がみごとに時宜を得ていた「聖之時者(聖の時なる者)」としての孔子に寄せる、孟子の熱烈な尊敬は―「可以仕則仕。可以止則止。可以久則久。可以速則速。孔子也。〔中略〕吾未能有行焉。乃所願則學孔子也。/仕うべくんば仕え、止(や)むべくんば止(や)め、久しくすべくんば久しくし、速やかにすべくんば速やかにするは、孔子なり。〔中略〕われ未(いま)だ能(よ)くこれを行なうことあらざるも、乃(すな)わち願う所は、孔子を学ばんことなり」(注18)―、個人が修養を積めば積むほどいよいよ顕在化してくる、壮麗な宇宙の秩序を予感した者の驚嘆ではなかったか。潜在的なものは個体にとっては自らの本性として起源にあるのだから、それに敬意を払うことは単なる権威主義ではなく、結局は健全な自尊心の涵養にも通じるという点で大切である。しかし、それはあくまでも個体の成立に先行しているのだから、「私」であれ誰であれ、特定の個体が自分一人の財産として主張することは許されない。恵みとしての存在、潜在的な本質自体は無限に豊穣である。しかし他方でその豊饒さには、生かすも殺すも結局は「私」の心掛け次第というような、危ういはかなさがつきまとう。だからこそ孟子は、仁義礼智の芽生え、すなわち「四端」が何人の心にも例外なく具わっていると力強く断定しながらも、その芽生えは自覚的に伸ばそうと努力しないかぎり、ついに表に現われることがないままだと説くのだ(注19)。「仁義禮智。非由外鑠我也。我固有之也。弗思耳矣。故曰求則得之。舍則失之/仁義礼智は、外よりわれを鑠(かざ)(飾)るものにあらず、われこれを固(もと)より有(も)てるなり。それを思わざるのみ。この故に、求むれば則(すな)わち得られ、舎(なげや)りにすれば則(すな)わち失う、ともいえり」(注20)。
『孟子』の最後を締めくくる「尽心篇」の、そのまた結尾に相当する第260章は、潜在的なものの現働化というこの存在論的な構図が、そのまま倫理学と歴史哲学の双方に共通の枠組を提供していることを、この上なく明快に伝えている。

孟子曰。由堯・舜至於湯。五百有餘歳。若禹・皐陶則見而知之。若湯則聞而知之。由湯至於文王。五百有餘歳。若伊尹・萊朱則見而知之。若文王則聞而知之。由文王至於孔子。五百有餘歳。若太公望・散宜生則見而知之。若孔子則聞而知之。由孔子而來至於今。百有餘歳。去聖人之世。若此其未遠也。近聖人之居。若此其甚也。然而無有乎爾。則亦無有乎爾。/孟子曰(い)わく「堯(ぎょう)・舜(しゅん)より湯(とう)に至るまでは五百有余歳なり。禹(う)と皐陶(こうよう)とのごときはすなわち見てこれを知り、湯(とう)のごときはすなわち聞きてこれを知れり。湯(とう)より文王に至るまでも五百有余歳なり。伊尹(いいん)と萊朱(らいしゅ)とのごときはすなわち見てこれを知り、文王のごときはすなわち聞きてこれを知れり。文王より孔子に至るまでも五百有余歳なり。太公望と散宜生(さんぎせい)とのごときはすなわち見てこれを知り、孔子のごときはすなわち聞きてこれを知れり。孔子よりこのかた今に至るまでは、百有余歳なり。聖人の世を去ることは、かくのごとく未(いま)だ遠からず。聖人の居(すみか)に近きことは、かくのごとく甚だし。然り而して有(たも)つことなくんば、すなわち亦(ま)た有(たも)つことなからん。(注21)

何度も繰り返される、「見而知之」と「聞而知之」の対比、すなわち聖人の道を自ら実見することで知った者と、伝聞によって知った者との区別に注意しよう。字面だけにもとづいて常識的に考えれば、「百聞は一見にしかず」ということわざどおり、前者のほうが後者よりも道に近そうに思える。しかし、実際は必ずしもそうでない。禹と皐陶は舜に仕え、伊尹と萊朱は湯に仕え、太公望と散宜生は文王に仕えた。すなわち、系譜の出発点である堯と舜は別格として、それ以降は、見て知る者たちが要は目の当たりに聖人の行いを見て啓発される受動的な立場にあったのに対して、湯から文王を経て孔子に至る、互いに五百年以上の時を隔てながら能動的に道を再興してきた聖人たちは、いずれも聞いて知る者であった。したがって、身近な他人が聖人の道を実行している姿を見る機会がないからといって、「私」の責任がその分だけ軽くなるわけではない。「然而無有乎爾。則亦無有乎爾」、すなわちいま自分(孟子)がこの聖人の道を伝えるのでなければ後世への伝承もおぼつかないという、ある種の危機感を伴った末尾の認識は、そのことを反映している。
道は本来万人に開かれている。例えば「離婁篇」に、「聖人人倫之至也/聖人は人倫(じんりん)(道徳)の至(きわ)みなり」(第63章)とも「堯舜與人同耳/堯(ぎょう)・舜(しゅん)も人と同じきのみ」(第121章)とも書いてあるように(注22)、資質のみを問うなら、人間は誰もが聖人になりうるし、むしろなるべきであろうが、実際に四端を存分に発達させて聖人の域に到達したのはほんの一握りの例外的な個人である。だから、中庸とは単に過剰と不足の中間、高慢と卑屈の中間などというような底の浅いものではなくて、聞いて知る者、すなわち自らの内面を省みて潜在的なもののかぼそい残響に耳を傾け、その壊れ物のような小ささを大いなるものの恵みとして、同時にまた命令として謹んで拝領することを知っている者が世界に返す、ありったけの感謝を込めた応答のことなのだ。思うに、孔子が持っていた「智」とはこうしたものではなかったか。そこに生じているのは、決して宇宙と「私」との間の均衡ではなく―そのような均衡が可能だと信じること自体、身の程を忘れた傲慢である―、全く逆に不均衡、ただし宇宙を貫く秩序(「条理」)を畏怖しつつ尊ぶがゆえの、いわば必然的にして正当な不均衡なのである。「堯舜之道。孝弟而已矣/堯舜の道は孝弟のみ」という「告子篇」第162章の命題も、そのことを教えている(注23)。もしも本当に孔子の一挙手一投足がそれを見る者にとって音楽的な調和の美を伴っていたのだとすれば、彼こそは誰よりも強くこの不均衡を感じていたはずだ。そしてこの感覚は、スコトゥスの個体化論の中に山内が見出した、「私」とはハビトゥス(習慣)として内在化されるべきものであるという教えからそう遠くない。

 「私」とは、「外から」与えられるものではなく、「内から」得られるものでしかないのに、あたかも「外から」与えられ、それを獲得するような、枠組みの中で、得られるものなのだろう。内部と外部の反転可能性のなかでしか、「私」とは得られないものなのだろう。
 〈このもの性〉の議論を発展させれば、個体化とは、個体性を己有化(appropriatio)することだが、己有化するためには、源泉が内側にあっても、外側から獲得したと当人に映じるような枠組みが必要だ。その意味では、個体性は内側にもなければ、外側にもなく、内部と外部の反転の中でしか、姿を現さないということだ。(注24)

浩然の気は外来のものではないはずなのに、それにもかかわらず道義の実践によってもっぱら間接的に養い育てられる必要があるということ、また聖人の境地はただ人間の天性が余すところなく発露をみたというだけなのに、それにもかかわらず実際には稀で容易に達成しがたいということ、『孟子』の読者を悩ませるこうした逆説的な曖昧さは、ここで山内が提起しているような枠組を想定することで初めて説明がつくように思える。聖人の道そのものへの敬慕もさることながら、それに加えて孔子の孫(子思)の弟子の弟子として、つねに彼我の間の―孔子と自分の間の―埋めがたい不均衡を意識していたはずの孟子こそは、スコトゥスよりもアヴィセンナよりも早く、潜在的なものの現働化の過程としての個体化を考えた存在論の哲学者である。


(1)金谷治『中国古典選9 孟子(下)』(朝日文庫、1978年)110-111頁。
(2)同書111-112頁。「有不與被堯舜之澤者」の「與」の字は、金谷に従い、削って読む。
(3)同書112-113頁。
(4)同書113頁。「可以處而處。可以仕而仕」の「處(処)」は、単に滞在とか逗留ということかもしれないが、「仕」の対と考えれば、仕官しないで家にいるという意味になるはずである。
(5)同書114-115頁。なお、亀甲括弧の内部(「すなわち孔子は聖と智とを兼ねたまえり。」)は金谷による補足である。
(6)折口信夫「道徳の発生」、『折口信夫天皇論集』(安藤礼二編、講談社文芸文庫、2011年)246頁。
(7)山内志朗『笑いと哲学の微妙な関係』(哲学書房、2005年)192-193頁。
(8)山内志朗『天使の記号学』(岩波書店、2001年)150、160-161、198-199頁。
(9)アリストテレス『魂について』(中畑正志訳、京都大学学術出版会、2001年)154-155頁。
(10)オリヴァー・リーマン『イスラム哲学への扉』(中村廣治郎訳、ちくま学芸文庫、2002年)202頁。
(11)山内志朗『天使の記号学』(前掲書)199頁。引用に際して、「一つの種の属する」を「一つの種に属する」に改めた。
(12)同書200-201頁。
(13)同書209-213頁。
(14)興味深いことに、アヴィセンナの考えによると、一方では確かに知的な完成によって能動知性との結合を果たすことが霊魂に永遠の至福をもたらすのだが、しかも他方ではいわゆる死によって肉体から分離された後も霊魂は依然として個体性を保ち続けるのだという。オリヴァー・リーマンも『イスラム哲学への扉』(前掲書)第一部の第II章(「霊魂の不死性と能動知性」)、特に211頁以下で論じているとおり、もはや肉体に囚われていないはずの霊魂について、このように不死性のみならず個体性をも強調するのは、アリストテレス主義の伝統の中では特異な立場である。いかにも、能動知性自体は個人を超えているが、それとの合致の程度に応じて霊魂たちの間には完成度の差が、つまり結局は個体差が維持されるのだ。ここから生じる実践的な帰結は、生前からできるだけ知的な完成を心掛けておかないと、死後その怠惰のために割を食って損をすることになるのはほかならぬこの「私」だ、という、半ばスピノザ的で半ばニーチェ的な―したがって結局はドゥルーズ的でもある―教えであろう。
(15)山内志朗『天使の記号学』(前掲書)215頁。
(16)金谷治『中国古典選8 孟子(上)』(朝日文庫、1989年第2刷)116-117頁。金谷による書き下し文は、「非義襲而取之也」の「義」を削り、「必有事焉而勿正」の「事」を「副」に改めているので、引用に際してもそれを踏襲した。また、「〔凡そ養気は〕」以下の亀甲括弧の内部も金谷による補足である。
(17)山内志朗『天使の記号学』(前掲書)229-230頁。
(18)金谷治『中国古典選8 孟子(上)』(前掲書)121-122頁。「公孫丑篇」第25章におけるこの決意も、「万章篇」第132章と同じく、伯夷と伊尹についての論評を伴っている。
(19)同書130-133頁(「公孫丑篇」第29章)。
(20)金谷治『中国古典選9 孟子(下)』(前掲書)158-159頁(「告子篇」第146章)。
(21)同書287-288頁。
(22)同書12、71頁。離婁(りろう)は伝説上の古代の人物で、目がよかったという。孟子は本篇の冒頭で彼を引き合いに出し、離婁といえども定規やコンパスがなければ四角や丸を作ることはできない、と述べて、堯舜の道で天下を平和に治めるためには、仁政という基準が必要だと主張している。
(23)同書186頁。この場合の「弟(てい)」は「悌(てい)」と同じで、年齢による秩序を重んじることを意味するという。すなわち、金谷の解説にもあるとおり、親への孝、および年長者への悌という「恭順の徳」こそが聖人の道の本体なのである。これが、どうすれば自分も聖人のようになれるか、と問われた孟子の答であった。聖人の道を歩もうとする者は、決して高圧的な師の意見への盲従を命じられるわけではなく―そんなことで培われるのはせいぜい空しい権威主義か、面従腹背の習性くらいのものであろう―、あべこべに、師が身を以て示す孝や悌の手本にならい、恭順の作法を習得するのである。
(24)山内志朗『天使の記号学』(前掲書)223頁。引用に際して、「(apporipriatio)」を「(appropriatio)」に改めた。
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