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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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日日日『のばらセックス』7 

『のばらセックス』から出発して、日日日の執筆作法について少々。
なんだかブログ開設以来この作品ばかり相手にしているが、要はそれだけ引っかかるものを感じる、ということだ。

誰しも一読して思うことではあろうが、『のばらセックス』ではめまぐるしくなるほどあちらこちらに、状況の反復や対称や反転がはりめぐらしてある。例えば、ちょうどかつて「母」から受けた銃弾がおちば様の腹部に「身体が書き換えられるような激痛」(46頁)を与えたのと同じく、「父」が膣内に挿入する器具は「お腹の奥で何かが書き換えられている」(156頁)かのような堪えがたい刺激をもたらす。これは「反復」と呼んでよい事態だろう。
また、快感とともに性器に侵入してくる「父」(義父)の指は敵であり(152頁)、苦痛とともに食道から吐き出される「母」の指は味方であり(238頁)、その「父」は実は本人でなく(義父に化けた祖父であり)、その「母」は実の母でなく(伯父のふりをした父であり)…という具合に、「対称」に関する実例にも事欠きはしない。
さらに、当初はひたすら不愉快でしかなかった「あたしの人生はあたしのものじゃない」(8頁)というおちば様の認識は、終盤に至って思いがけず幼い女性たちの姿を目にしたとき、「外はきっと、あんたたちが胸を張って暮らせる世界だから」という利他的な約束に変質し、あまつさえ「あたしは―そのために生まれたんだ」とまで言わしめている(379頁)。自己中心的な苛立ちから献身的な決意への、価値の「反転」が起きていることは明らかだろう。

書いた端から整った活字の画面を目にすることができ、検索やコピー&ペーストも容易なパソコン(ワープロ)による執筆という条件の下では、この手の伏線(大部分は簡易な、肩肘張って「解読」するまでもない程度のもの)を息の短いものも長いものも、長短取り混ぜて盛り込むことは、たとえ手放しで歓迎はできないにしても頭から忌避すべき技法ではなく、いくらかは環境が強いる必然的な結果のはずだ。
アナログ的な深さからデジタル的な広さへ、などという宣言に要約してしまうと途端にいかがわしくなるものの、この種の遊びには少なくとも、どんな読者にとっても否定しがたい形式的な美観がある。その最たるものはもちろん、あたかも「ペニスからヴァギナへ(I字からV字へ)」という推移を匂わせるかのような、冒頭の「ファック。ファック。ファック。」(8頁)と結末の「みんな満面の笑顔で、ピース!」(386頁)との対照にほかならない(ついでに触れておきたいのは、後者において「満面の」という、明らかに視覚的な、それも未見の映像には使いにくい形容詞が出てくることである。直前の台詞では「いちばんの笑顔だよ!」というもっと抽象的な言い回しであることを考え合わせると、ここでの写真撮影という行為自体が、志賀直哉の『暗夜行路』の末尾で起きる視点の転換と同様の機能を果たしていることが推定できる。事実この末尾の一文に向けて単数の一人称は「あたしたち家族」に座を明け渡しつつ、「満面の」や感嘆符が帯びる現前性と、現像にかかるはずの時間という、互いに矛盾する条件の間で板挟みになって消え去るのであり、こうして誰がいつどこから見ているのか不明になった写真への言及を、すみやかに次頁の挿絵が引き継ぐことになる。映像機具を活用した一人称の拡張、ないし三人称化は、『ささみさん@がんばらない』でも何度か企てられているが、写真をはじめとする映像技術の欺瞞的性格について作中で十分な省察の機会を設けつつ、挿絵の協力を得ることができた分だけ『のばらセックス』のほうが高度かもしれない)。

通常の比喩、すなわちある外見的特徴が何らかの性格を、ある人物が何らかの観念を連想させる比喩とは異なる、日日日がおそらくは文学的伝統からの隔絶の中で矢継ぎ早に執筆することを要求されたゆえに編み出さざるをえなかった仕掛けも、この延長線上に位置する。
それは筋書の水準での隠喩、あるいは底抜けの寓意の連鎖とでも称すべきもので、ある状況が相似形だったもう一つの状況を連想させるような、というよりも前者があくまでも、それ自身の上に折り重なった後者の拡大版として呼び起されるような構造だ。
『ギロチンマシン中村奈々子』(徳間書店、徳間デュアル文庫、全5巻)の場合だと、「人間と機械の戦争」という主題が、個体同士の関係の水準から(第1巻『義務教育編』)、一つの島(〈学園〉)全体へ(第2巻『学級崩壊編』)、さらに都市国家(〈王国〉)へと(第3巻『高等教育編』)順次拡大を続けたのち、ついにそれまでの図式を根底から覆すような新たな認識の到来と同時に惑星規模の文脈に転調され(これが第4巻『大人社会編』で、ここに至って舞台がじつは地球ではなく「第七地球」と呼ばれるスペースコロニーであること、当地での「戦争」は本来の地球で冬眠し続ける人類のために最善の未来図を模索するシミュレーション実験の一環にすぎず、両陣営ともロボットの集団であること、そしてその背後では、人間に取って代わらんとする機械が、コロニーの生き残りの人類を探し出して抹殺するという計画を進めていることが明らかになる)、最後には機械の自我を消滅に追い込んだ主人公たち自身が、その同胞であった可能性が示唆される(第5巻『輪廻転生編』の288-289頁、300-301頁、312-313頁を参照のこと。主人公たちは皆まぎれもない人間だが、機械が有するに至った自我の原型である中村莓という少女の存在を何らかの形で肉体的に継承している)。もはや「戦争」の実態は個体同士の倫理的な世代間問答にまで還元ないし凝縮され(注1)、一切は人間の側の自業自得、もしくは機械の緩慢な自殺の過程にほかならなかったという観点が浮上してくるのである(注2)。
このような蟻地獄めいた、あるいはブラックホールじみた構造は、ときにはフィクションの現実化(「瓢箪から駒」)という原理の併用によって複雑化を遂げつつ(『のばらセックス』では、「2000年ぶりの女性の誕生」という出来事が一度目は虚構として、二度目は現実として起こり、両者の関係が筋書の主軸を形成する)、しばしば「作者(創造者)と作品(被造物)との関係」という問題系と一緒になり(注3)、ローティーン向けの薄味の怪奇小説(『ひなあられ』)にすら姿を見せる日日日の恒常的な主題で、マラルメやヌーヴォー・ロマンと同等の射程を具えているか、少なくとも同質の問いに後押しされている(そしてたぶん、数多くの相違点があるにもかかわらずプルーストにはいっそう近いはずである)(注4)。
ことに『のばらセックス』のごとき中編小説の場合は、短編小説と違って前半の紛糾ぶりが後半のあわただしい種明かしとの対比で際立つ恐れもなく、長編小説と違って前半の完結性との対比で後半が冗長に見える恐れもないだけに、いっそうこの構造の鮮やかさを堪能できる。

私は『のばらセックス』は言うに及ばず、『狂乱家族日記』や『ビスケット・フランケンシュタイン』等ほかの作品に照らしても、つくづく日日日の長所として生まれついての性別に囚われぬ強靭な「女性性」を感じるのだが、このように考えてくると事情は少し違うのかもしれない。
顔立ちを同じくする三人の「中村奈々子」(『ギロチンマシン中村奈々子』)に張り合おうとでもするかのように、『のばらセックス』の坂本三兄弟があれほどの存在感を放ち、とりわけ下の二人の近親相姦の場面(これをその場面の所産にほかならぬおちば様が男性側の立場から追体験するわけで、こうなると何と呼べばよいものか…。フロイトの言う「原光景」にならえば「超原光景」か?)が、おちば様とソプラノ君の性交をかすめてしまうほどの切実さを伴ってそのあとに召喚されているという事実は、むしろ単為生殖とか、あるいはアメーバの分裂のような概念を要求するのではないか。現におちば様だって自分以外の本物の女性を目撃する直前に、「こんにちは、あたしの人生。/今から会いにいくよ」(374頁)という独白を漏らしている。つまり日日日の「女性性」自体はもとより否定しがたいが、あくまでも帰結であって根本的な原因は別にある、ということだ。

むろん、「性差がなければ人類はきっと衰退していくよー、困りましたねー?」、というのが『のばらセックス』の投げかける教訓の一つなのは分かりきっているが、古今東西例外なく作家というものは、己自身とは異なる者、つまりキャラクターたちを日々創造的に想像し続けなくてはならなかったわけで、何というかこれは立場上単為生殖を免れがたい職業なのである、たぶん。
してみれば申し分なく他者的であってくれる非の打ちどころのない「他者」を産出できるほどの高度な自律性の獲得こそ、あらゆる作家にとっての究極の夢であるに違いない。それこそ、作者の生涯の伴侶を務めることすらできるほどに「申し分のない」他者、愛憎を思い切りぶつけることのできる相手を。
自らが演じる架空の女性(のばら様)に恋い焦がれ、同じ顔をした弟と交わって正真正銘の女性(おちば様)を出産してしまったばかりか年端もゆかぬ彼女を我慢できずに犯し、その癖とことん面倒を引き受ける甲斐性もなくて銃撃を見舞ったあげく、文字通り身を削って女性の創造という奇跡の再現に挑んだ次兄坂本緒礼の姿は、この意味で小説家の英雄的な理想なのだ。


(1)『ギロチンマシン中村奈々子 輪廻転生編』(徳間デュアル文庫、2009年)305頁、「中村莓は問いかける。/『壊してしまうぐらいなら、どうして、わたしたちを創ったのですか?』/『創ったんじゃない』/中村奈々子が、応えた。/『君は生まれてしまったんだ』/人類と機械の本音。最後になるだろう、問答。〔…〕中村莓が、世界に怯える赤子のように。/『生まれてしまった―わたしたちを、どうして愛してくれなかったのですか?』/『愛さなかったんじゃない』/それが別れの言葉だった。/『憎みあってしまっただけだ』」。なお、中村莓の台詞はもとから二重鍵括弧でくくってあり、中村奈々子の台詞とは趣が異なるのだが、この引用では原文の体裁を再現できなかった。
(2)同書313頁、「ねぇ、誰が勝ったんだろうね?誰が負けたんだろうね?誰の思いどおりになったんだろうね?誰が創られた存在で、誰が創造主で、誰が主人公で、誰が神様だったんだろう?誰が人間で、誰が機械で、誰が何を手にいれたんだろう?」
(3)『ギロチンマシン中村奈々子』はこの点で好例と考えてよい。「蟻地獄」という語自体、第4巻『大人社会編』(徳間デュアル文庫、2008年、172頁)から筆者が拝借したものである。
もっとも、執筆が長期間にわたった長編小説であるためか、この作品に仕掛けられた蟻地獄構造は『のばらセックス』と比べるとやや散漫な気もする。余談ながら『ギロチンマシン中村奈々子』の全篇を通じて最も美しい文章は『輪廻転生編』(前掲書)の160頁以下、すなわち主人公たちが第七地球で繰り広げる決戦に先立ち、前触れとして本来の地球での中村奈々子の暗躍を述べる「IV 中村珊瑚」の章の冒頭ではないか。一番印象深い文章が一番重要な頁以外の頁に見つかるというのは、一般論としては少し問題かもしれない。さらに余談になるけど、奈々子の両腕の武器には「地面は切り裂けない」という制約があると『義務教育編』(徳間デュアル文庫、2006年、243頁)や『輪廻転生編』(前掲書、73頁)で説明されているにもかかわらず、『学級崩壊編』(徳間デュアル文庫、2007年、64頁)ではちゃっかり砂浜を「でたらめに粉砕し八つ裂き」にしてるとか、細かい矛盾らしきものもたまにあったりする。他にも見どころ(読みどころ、かな)はいくらでもあるから別にいいけど。
(4)ついでながら『ピーターパン・エンドロール』(新風舎文庫、2006年)には「虚構の世界で、私は私を何度でも殺せます」(26頁)という、ブランショばりの洞察が顔を見せている。
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