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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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コミティア109の戦利品 

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諸般の事情によりいまだかつてないほど少ない所持金で臨むはめになったので、今年の夏のコミケ(C86)は実に苦戦した。欲しい本を目の前にして五百円を出そうか出すまいかと頭を悩ませるのも我ながらいじましくて情けないかぎりだったが、「貧すれば鈍す」のことわざどおり、懐が寂しい分心に余裕がなくなって、いくつかのサークルに事前の下調べが行き届かなかったのは痛恨の極みである。特に、佐々原憂樹(サークル「tete a tete fragile」)の参加をきれいさっぱり失念していたのはつらい(頒布物はそんなに本格的なものではなくて8頁のコピー本だったようだが、麻薬のような陶酔感と中毒性のあるあんな線を描ける人はそうそういるとも思えないから、読める機会はできるだけ逃したくない)。
というわけで、サークル「ラノベ作家休憩所」の『救世小説。』に入っている日日日の短篇「ランドセルヘドロ」のことやら、帰り道で見かけた『Free!』のコスプレ集団が、コスプレと名乗るのがおこがましいほどのお手軽すぎる扮装のくせに(髪型を整え、服を脱いで海パンを履いただけ)惜しげもなくみごとな裸体をさらしてくれるので突っこむ気力も失せてしまったことやら、サークル「萌え緑」の同人誌が相変わらず東方Projectのギャグ本としては日本屈指の面白さであることの再確認やら、さては緋鍵龍彦(サークル「KEY TRASH」)の帰還やら、いろいろと興味深い話題はあれど、この負け戦の記憶がもう少し遠のいてくれないことにはそれらについて検討する気にはなれない。そういえば待機時間の間ずっと読んでいたのは深沢七郎の『笛吹川』(講談社文芸文庫、2011年)だったので、これは武田勝頼の呪いかもしれぬ(本当は、やけに面白かったので小説の外部への注意が相対的に散漫になってしまっただけです)。

それはさておき、今日はコミティア109があった。貧乏なのは相変わらずだが、一日だけの即売会であることもあってコミケよりは気兼ねなく散財できるのをよいことに、今回はそこそこ自由に買い物ができたのが嬉しい。
まずは画集である。大体、確たる筋書のある漫画同人誌というものは、制作日数や紙数に制約がつきまとうという事情のせいかもしれないが、ともすればどこかで読んだことのあるようなお話になりがちだという問題がある(ただし、もともと話の筋は申し訳程度でかまわないエロ同人誌は、この場合関係ない)。それでも漫画を本業としているほどの手慣れた人なら、絵柄そのものやちょっとした細部(コマ割りや台詞まわし)に自ずと宿る魅力的な個性のおかげで、筋書が類型的でも大して気にならないで済むわけだが、そのあたりは個々の読者との相性の問題にもなってくるし、吟味を重ねればぜひとも手元に置いて繰り返し何度もひもときたいと思うような本の数は必然的に絞られることになる。その点、「cooo/la」、「帝国少年同人会」、「neutroon」などのサークルの本はいずれも画集(に準じるもの)で、下手に見覚えのある話を何冊も読み漁るより、ときにはこういうお洒落で洗練された絵を眺めながら漠然と空想を膨らませるのも楽しいな、と思わされる。

もっとも、筋書のある漫画作品で勝負するサークルの中でも、「あらむぎ」(戸塚こだま)と「スター書房」(msm)は、そもそもこの二つを今回の主たる目当てにしていただけに、私にとっては別格である。とりわけ前者の『ニコチューウィッチーけむり』は、水木しげる風のとぼけた味わいのある絵柄や―個人的には大歓迎だが、実際には「風」どころかあからさまな模倣に見えることも少なくないので、このまま一般の雑誌などに進出できるかどうかはわからない―、「ニコチュー」(ニコチン中毒者)の女子大生が襲いくる怪人に煙草の魔力で立ち向かう、というやさぐれた設定もさることながら、一見華やかでお気楽な大学生活のいわば裏道に相当する混沌に満ちた世界と、そこに渦巻く鬱積した葛藤や確執や倦怠感に注がれる視線が冴えている。悪者を倒してそれで終わり、という単純さに陥らぬ点は第1巻と同じく本日買った第2巻にも認められるところで、むしろ軽い頭痛のごとく後を引き、脂汗がにじみ出てきそうな息苦しい感じが残る。一度読んだだけでは何が何やらわかりにくいという意見もあるかもしれないが、この得体の知れぬ後味の悪さは、まさに煙草のもたらすそれに近いのではないか(喫煙者でない私には確信が持てないが……)。巻末の怪人図鑑(これがまたやけに凝った作りである)には、作中でラクダ怪人キャロメロンがおかしなタイミングで吼えたり泣いたりしていたことのさりげない種明かしとして、気が抜けるような説明が出てきたり―「全身からトゲを生やせる怪人。/ただし、生やすとき自分もかなり痛い。/トゲだらけになって抱きしめる攻撃も、/外れると自分がもの凄く痛い」とのこと―、「星霊院老衰(せいりょういんろうすい)」などというどこかで聞いたような名前も出てきたりで、思わず苦笑を誘われる。そういえば舞台となっている大学の名も「みやこ大学」である。作者は京都大学に縁のある人だろうか。
「スター書房」の『BOW-WOW-MUM』(これは去年出た本なので、新刊ではない)は、母親が徐々に犬になるという奇病にかかってしまった少女の悩みを描いている(犬とは限らないが、人間が動物に変わる病気が流行っているらしい)。となれば、姿形が変化しても家族の絆は変わらない、というありきたりの人情話に落ち着いてしまいそうで、というか作者は実際そこに着地させようと思い定めていそうなのに、そのようないかにもできすぎた家庭喜劇の成行きをかき乱しかねない不穏な要素が、おそらくは意図せずしてそこかしこに散りばめられる結果になっているのが面白い。薄れゆく記憶を立て直すべく鏡の前で懸命に自分の名前を思い出そうとする母親が、娘に答を言われてしまって怒り狂う瞬間の表情は皮肉にもすでに人間のものではなくなっているし、娘は娘で、そんなたちの悪い悪戯のことを謝るわけでもなく、まるで母親の薄弱な記憶能力につけこむように、ただ気持ちを切り替えて「『なかった事』にする」だけなのだ(このときの彼女の表情も、どこかしら狂気じみている)。気まずい授業参観を経て、喧嘩別れの後で一応和解はするものの、とれてしまった両耳をチアガールの手にするポンポンよろしく両手(前足)にぶらさげて娘と一緒に二足歩行で家路につく母親の姿がとても犬には見えなかったり、結局治療の方法は最後まで見つからないままだったりと、こちらもなかなかに釈然としない読後感を残す作品である(これは褒めている)。たぶん、病気の遠因は母親に対する日頃のつっけんどんな態度だという設定が隠れているというか、この病気そのものがそのような態度の招く軋轢の寓意なのかもしれないと思うが、その点が明示されないことで奇妙さが増している。

しかし、予期せぬ最高の収穫はサークル「ぱらり」の『食獄』である。1センチばかりの分厚い同人誌で、これだけでも一体何ごとかと思わされるが、内容も大変すばらしい。豪華客船が難破し、見捨てられた灯台のある無人島に漂着した六人の男女が、しばらくは料理人のフリオがその中にいたおかげで、というよりも食事については専門家である彼に一任しようという最年少のリゲル少年による提案のおかげで、それなりに文明的な食生活を享受するものの、やがてこれまたリゲルが予言したとおり、季節の変化とともに食材が手に入らなくなり、次第に飢えが彼らを苛むようになる。となれば、行き着く先は凄惨な人肉食の光景であることはたやすく予想がつくはずだが、そうは問屋が卸さない。
たしかに、これはまがうかたなき食人の漫画である。ただし、大岡昇平の『野火』や武田泰淳の『ひかりごけ』などの偉大な系譜に連なりつつ、そこに新しい視点を持ち込む画期的な作品なのだ(なお、以下の文章ではやむなくこの作品の核心に関わる機密に言及せざるをえなかったので、未読だがこれから読んでみたいという方はここで引き返すのが吉です)。

ある日の朝、運悪く灯台から落ちて事故死を遂げたミノアの亡骸を前に、リゲルはフリオに彼女を料理してくれるようせがむ。葛藤の末にようやくそれを引き受けるフリオだったが、災難はそれだけでは終わらず、以後ある者は人肉を拒んだあげく衰弱死を遂げ、ある者は病死し、ある者は自殺するという形で、おのおのがリゲルに渡された紙とペンで思い思いの手記を残してから次々と世を去り、後に残った者たちに食糧を提供することになる。そして、とうとう二人だけになってしまったある夜、リゲルはフリオを灯台の頂上に誘い、そこで自分を殺して食べてはどうかと言い出すのだ。なぜ彼はこんな願い事をするのか。この悪魔的な誘惑の動機は一体何か。本人の説明を聞こう。

「…この島は/平和だった」
「皆すこやかに/テキパキと/死んで行き…」
「どんな残虐な/光景も」「心を蝕むような/飢えも無かった。」
「それは/あなたが調理場に/立っていて/くれたからだよ。」
「さあ/フリオさん。」
「この肉は/そのお礼さ。」

しかし、料理人への感謝というこの説明は、まだ真相の半分でしかない。というのも、なぜ料理人というものがリゲルにとってそれほどありがたい存在なのか、という謎が残っているばかりか、島の季節の変化についての彼の知識や、ミノアの亡骸の前で躊躇なく人肉食を提案できた理由も依然として謎めいているからだ。実は、彼は他の五人とは別の豪華客船から、彼らよりも一足先に、母親と一緒にこの島に漂着しており、灯台にあった保存食が尽きた後は、先に亡くなった母の死体から食いちぎった生肉で辛うじて命をつないでいたのだ。束の間の文明的な食生活の享受の後で、まだ年端もゆかぬ少年であり、それだけに他の誰よりも優れた食材たりうるはずの自分を恩人であるフリオに食べてもらいたいという一見突飛な望みは、こうして思いがけなくも、自暴自棄的な破滅願望に近い罪滅ぼしという性格をあらわにする(こうした心境が、リゲル自身の口から直接語られるのではなくて、あくまでも出来事の推移を通じて読者各自に悟らせるよう、暗示されるにとどまっている点は特筆に値する)。
とはいえ、どうやらリゲルは貧しい母子家庭の出身である自分が料理人になるきっかけを与えてくれた兵士の息子らしいことに気づいたフリオは、そもそも年長者としての責任感からしても、とてもこのような申し出を受諾するわけにはいかない。結局、期せずしていまわの際にリゲルの母が口にしたのと同じ「よい恵み」という決定的な言葉で少年を落ち着かせることに成功した彼は、あべこべに自分の亡骸をリゲルに食べさせてやる覚悟とともにペンをとり、島での経験から知りえたかぎりの人肉の調理方法を「穏やかな顔で書き続ける」のだった……。そして、この顔が本当にすばらしいのである。慈悲をたたえた温顔だと言われればそう見えないこともないが、到底それだけにとどまらぬ、もっとはるかに酷薄で凄絶な、鬼気迫る雰囲気は隠しようもない。一応、自分が考えた料理を他人に食べてもらえるという、料理人に特有の喜びを反映した表情ではあろうが、それがこんなにも妖しい悪魔の微笑になるまで突きつめられた例は前代未聞ではないか。誇張でなく、背筋が凍って総毛立つようだと感じる。しかも、ここまでお膳立てされながら、リゲル少年は結局フリオの遺骸に手を出すことなく、彼の死から十数日後に、問題のレシピへの感謝をしるしてから「僕は確かに幸福なのです」という文章で終わる手記を書き残して自身も餓死してしまうのだ。

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いわゆる極限状況を用意し、そしてその中で食うか食われるかの野蛮で醜い争いを刺激的に演出しさえすればよいという安直な思惑が透けて見えるような、世の中にあふれかえる凡百の食人ものとは、この作品は一味もふた味も違う。知的で、気品があるのだ(だから余計に怖い)。もちろん、その理由は主としてリゲルとフリオの二人に、あるいはむしろ、頼りになりそうな年上の仲間がいるのだから、今度こそいかに飢餓が自分たちを追いつめようとも決して文明の秩序を忘れまいとする前者の決意と、できるかぎりそれに応えようとする後者の料理の腕前とに求めなくてはならない。
人間の尊厳が何よりも文明ないし人為的な技術にかかっているというこの認識は、つねづねハイデガーの技術批判も大いに傾聴に値するが、自分の性に合う美学は技術を軽視しないヘーゲルやドゥルーズのそれだと思っている私にとっては我が意を得たりという感じだし、その上で倫理的な抑制がどうしてもその技術の行使を思いとどまらせるという逆説的な結末は、迂回を経ている分だけ単なる技術批判よりも充実しているのはもちろん、ことが尊厳に、すなわち倫理学の分野における自足性の概念の代表者に関わるという点からしても納得がいくものであろう。文明によって、あるいは技術によって初めて、いずれ自分を食べるはずの誰かのために万全の調理方法を前もって冷静に教えておくことができるほど我々は親切ないし献身的でありうるという事実は、その残酷さにおいてすでにそれ自体として比類なく崇高なのであり、ほとんど人間の領分を越えた侵すべからざる威厳の源泉なのだ。それを目の当たりにするとき、我々は驚嘆と感謝の念に打たれるが、もはやその者に手出しすることはかなわないし、ましてや実際に食べることはできまい。まるでこの点を立証しようとするかのように、他の三人の場合とは異なり、フリオとリゲルの手記は、ようやく島にやってきた救助隊によって六人の遺体が発見されてから間もなく闇に葬られてしまう。持てるかぎりの知恵と経験を注ぎ込んでフリオがひとたびは手記の中で完成させたはずの人肉調理法は、結局実行に移されることがないばかりか日の目を見ることすらかなわなかったのだ。しかしながら、この結果は文明の営為の自足性、ないし自余の一切(自然)に対する高貴な独立性を損なうものではなくて、むしろそれを成就するものとして考えるべきではないか。私としてはただ、ミノアを除く残りの全員―一人は画家である―が何らかの手記を残して死んでいるという多少強引な成行きからは、これもまたペンと紙を使った一つの技術であるには違いない漫画の制作という行為への遠回しな暗示を読みとってよいのではないか、という憶測を書きつけてお茶を濁すほかない。手記という物質的な支えが燃やされたところで、それを書いた者の手によってそれが書かれたという同語反復的な事実は永遠の真理として確立されたままだからだ。一体どこでか―もちろん作品(『食獄』と名づけられたこの漫画)の中で、である。

ここで改めて、『食獄』は一つの漫画作品であるという、あまりにも当然すぎる事実に立ち戻ってみよう。絵柄は強い自己主張があるわけではなく、むしろあっさりとしていて奥ゆかしい。隅々までとことん描き込んだ稠密さが売りの画風とは対照的であり、特に勢いが求められる場面では線の少なさゆえに一見殴り書きのような観を呈することが弱点といえば弱点かもしれないが、筋の進行を遅滞させることがない点で、このような長篇にはむしろ適しているのではないか。それに、全体的な印象は淡々としているようでも、内実は決して一本調子でなく、微妙な起伏や強弱の使い分けに細心の注意が払われていることが伝わってくるので、少しも眺めていて退屈な気分にさせられることがない。片時も休まずコマごとにめまぐるしく切り替わるしなやかな構図の妙は筆舌に尽くしがたいほどで、よくできた映画のカメラさながら、臨機応変に近づいたり遠のいたりを繰り返しつつ、景色から物へ、物から人へ、人体の一部分へ、さらに人々の動作の連鎖へと、自由自在に往還を重ねるばかりか必要に応じて時間の隔たりさえ軽々と飛び越えてしまう。そしてこのような視覚上の配慮が、単に変化をつけるというだけの意味しかない遊びに終わっていないのもよい。ことに、船内の食堂で豪勢な料理に舌鼓を打つリゲルと皿洗い中のフリオの姿とを交互に描くことで、あたかも同じ船に乗っていた二人が同じ遭難事故に巻き込まれたかのように読者に錯覚させてしまう冒頭の仕掛けはまことに鮮やかに決まっているし、それ以後も、落下の瞬間にミノアの顔に浮かぶ、これで皆が当座の食糧に困らなくて済むと言わんばかりの安らかな微笑みや、もはや船乗りたりえない己の不甲斐なさと恋人に会えない寂しさから、絶望して我が身に刃物を突き立てたハロルド(漁師で、臨時の船員だった)が、息を引き取る寸前に自らの血で赤く染まったフリオの手に口づけするのを見て、なぜかリゲルが歯ぎしりとともに浮かべる苛立った表情―まるでフリオへの同性愛的な思慕に由来する嫉妬が表に現れたようで思わずどぎまぎしてしまうが、この苛立ちは、実際にはどうも彼自身が死んだ母親の指にかぶりついたときの嫌な記憶がぶり返した結果らしい―など、うっかりしていると読み過ごしてしまいかねない繊細な工夫の数々が次々に登場しては、入り組んだ陰影を添えて物語を豊かにしてくれる。なおまた、人物たちの背中(後姿)が描かれる頻度の高さは、おそらく他の漫画と比べたときに誰しも認めざるをえないはずの顕著な特徴であり、そしてこれが、我々読者からは独立したところで、彼らが当事者としてほかならぬ自分たち自身の経験を生きているという印象を確かなものにしてくれるのである。
しかし、こういったさまざまな演出のもたらす経験の多層性は、文明というものの人為的であるかぎりは避けがたい脆弱性、ないし非現実的で虚構的な性格に登場人物自身が気づくためにあるようなものだ。なんとなれば、せっかくリゲルが料理人としての自覚を奮い立たせようとして首に巻いてくれたスカーフをほどいてしまったフリオは―ついさきほどまでは、まるで自分を料理して食べるようしきりに彼を誘惑する少年の心理的な攻勢を反映するかのように妖しく咲き誇っていた季節外れの花々が、いっせいに萎れてしまうという幻想的な光景の中で―、こんな身も蓋もない台詞を言い放つからである。

「馬鹿を」「言わないで/下さい。」
「こんな何も無い場所で/なにが料理人ですか。」
〔中略〕
「リゲル君あなたも」
「こんな/ちっぽけな島で」
「一体何になろうと/言うんです。/その体を/差し出してまで」
「一体何が/したかったんです。」
「リゲル君。/あなたは何にも/なれやしません。」「ここには何もかも/足りないのです。」
「あなたに/できることは」
「ただ/生き延びる/ことだけです。」

明らかに、ここでのフリオは、これまでこの島でリゲルが主導してきたような、料理を軸とするいわば「文明ごっこ」を、行き場のない現実的な窮状をごまかすための単なる欺瞞にすぎないものとして批判する立場にあり、そのような虚構を虚構として率直に認めるよう迫っている。
とすれば、彼は虚構に対立する現実的なものの使徒なのだろうか。いや、フリオがリゲルを正そうとするのは、おそらく虚構の用途、あるいは方向づけに関してのみである。身勝手な後ろ向きの贖罪を優先して虚構に従属を強いながら、我々をおぞましい罪(母の亡骸を、それも生肉のまま食べてしまうこと)に走らせた自然の脅威(飢餓)の中で自己完結的な滅亡に身を委ねるのではなく、代わりにそのような脅威と戦い、それを出し抜けるだけの力と叡智を他者に授けるために、ほとんど文字通り自分自身の心血を注ぎ込んで虚構それ自体に絵空事でない現実性を持たせること―フリオが独自の人肉調理法を通じて教えてくれるのは、このような献身が人間にはできるということであり、ひいてはそれができるような何者かへの変身の必然性である(もっともこの何者かが、なおも人間というありきたりな呼び名に甘んじる存在かどうかは定かでないが)。このときこそ、文明の技術は単なる遊戯的な性格を脱して、残酷さという代償と引き換えに無から有を生ぜしめる創造の奇蹟へと結実するのだ。先に私が「文明の営為の自足性、ないし自余の一切(自然)に対する高貴な独立性」と書いたのは、あえて実行するまでもなく空腹をものともしない境地に我々を導いてくれるこの奇蹟の効力を、結末におけるリゲルとともに我々読者も学んだからにほかならない。そのような高貴さは、ちょうど献身が自他の間の隔たりもしくは距離を肯定することであるように、自然に対する人間の関係が手段の介在とともに直接性を失うことを前提としている。そしてこのかぎりで、献身と高貴さの両立は別段奇異なものではない。いわば、両者は間接性という起源を共有しているのであり、あるいはむしろ、ともに起源(自我もしくは自然)から離反を遂げるものであるというほかならぬその点において同類なのである。かつて「抵抗行為と芸術作品とのあれほどにも密接な関係」に注目したドゥルーズが、「抵抗行為には二つの面があるのです。すなわち、抵抗行為は人間のものであり、そして、それはまた芸術の行為でもあるということです。抵抗行為だけが死に抵抗するものなのですが、それは、芸術作品のかたちをとることもあれば、人間たちによる闘争というかたちをとることもあるということなのです」と主張したことの意味を、このようにして我々は実地に学ぶことになる(注)。
もう一度、フリオの禍々しい微笑を見てみよう。我々がそこに見出す一種魔的な(dämonisch)満足は、神をも恐れぬ不敵な創造者だけに許された特権ではなかろうか。こんな表情を浮かべながら漫画を描いている人がいたとすれば、それはさぞかし畏怖すべきことであろうが、『食獄』はたぶんそういう稀な作品の一つなのである。

(注)ジル・ドゥルーズ「創造行為とは何か」(廣瀬純訳)、『狂人の二つの体制 1983-1995』(河出書房新社、2004年)194-195頁。
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