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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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日日日『魔女の生徒会長』 

生れて初めて目にしたのにどうにも他人事とは思えない、どころか思わず「ここに書いてあるとおりだ、これはきっと私の経験したことに違いない」と叫びたくなる。
他の誰でもないこの私の青春というもの―私が一度も身を以て生きたためしのないそれを日日日が、日日日だけが私に与えてくれる。それは、なんと稀有な幸福だろう。
たぶん、私たちは世界に開いた傷口そのものなのだ。そしてこの小説は、その上にできたばかりでまだ生乾きのかさぶたのようなものである(注1)。必ずしも見た目がこぎれいに整っていないのはもちろんのこと、そもそも端的かつ無条件に善ないし偉業と呼んでよいかも怪しい。なるほどかさぶたには傷口を塞いでくれるというありがたい効能があるわけだが、それは当人の意志というよりはむしろ生体の自然な(勝手な)反応なのであるし、傷が先在していなければなお結構だったはずだ。何より問題なのは、傷口が塞がりきってしまえば、私たちの生もまた窒息してしまうということである。だから、どんどん血を流そう。膿や、汗や、涙や、そのほかそれに類した分泌物を。私たちには、それ以外に交流の術などありはしない。

 急いで教室から出て、バケツに水を汲(く)む。雑巾(ぞうきん)を濡らし、搾(しぼ)って舞い戻る。床を掃除する。他人の吐瀉物。血と胃液の混じった汚泥。これはわたしたちの生命だ。(注2)

近さと遠さ、現前と不在、自己と他者、男性と女性、本物と偽物、善と悪、無垢と罪深さ、能動性と受動性、加害者と被害者、美しさと醜さ、強さと弱さ、幸福と不幸、栄光と恥辱、成功と失敗、優しさと厳しさ、喜びと悲しみ、愛と憎しみ…対照的にして相反的な性質の同居が息つく間もなく次々と現れて読者を小児同然の惑乱と分裂に叩きこむのはこの作家のつねだが、他の諸作品と比べても『魔女の生徒会長』(メディアファクトリー、MF文庫)におけるこれらの両義性は、その執拗なこと、組織化の緊密なことで随一ではないか。筆圧が原稿用紙を突き破らんばかりの、半ば自暴自棄とも思える怨念にも似た得体の知れぬ気迫はベートーヴェンの初期から中期のピアノ・ソナタさながらであり、『ささみさん@がんばらない』や『反抗期の妹を魔王の力で支配してみた。』等に比べれば、あるいは単調で洗練が足りないのかもしれない。しかし、こういう見方は「悲愴」や「熱情」を例えばストラヴィンスキーの華麗な管弦楽曲(とりわけ「火の鳥」や「ペトルーシュカ」)と比べるようなもので、あまり有意義とも思えない。少なくとも私にとって目下貴重なのは、覆いかぶさるかさぶたの存在が各自を各人から隔てる以前に、そもそも誰の生も本当はそれ自体が傷口であり、実体も同一性もない底無しの穴であり、そしてそのかぎりで我々は原理的に孤独を運命づけられているという認識である。何をやっても、そのつもりがなくても、私たちの言動はことごとく自らの受苦への居直りもしくは固執という、ある意味でぶざまな依怙地さへと帰結してしまう。それが青春というものではないか(もう一歩踏み込んだ説明をするなら、誰に頼まれたわけでもないのに、そのようなひねくれた状況をあえて自らの手で何もないところに設定せずにいられない、ということであろうが)。
例えば、読む人によってはあまりの生真面目さに閉口し、少々図式的すぎて不自然な問答だという感想を抱きかねない以下の場面で、それでも「噛みついてやるわよ」という啖呵が放つ否定しがたい可憐さは一体何に由来するのか。

 淡々と語って、ママは両手を広げた。それは命令だった。
「奉仕しなさい、子供たち。この世に産みだしてあげた恩を、わたしたちに返すのです」
「お断りよ」
 シロオが叫んだ。
「糞(くそ)食らえよ! 私たちの人生は、私たちのものよ!!」
「それが傲慢(ごうまん)だというのです」
 会話は平行線だった。
 ママは目を見開いた。
「生んであげたのは、わたしたちです。あなたたちは、わたしたちの所有物です」
「未来をつくるのは私たちよ! あなたたちこそ、子供のために綺麗(きれい)な世界を維持することもできなかったくせに、今さら偉そうな顔をしないでよ! あんまり馬鹿にしてると、噛(か)みついてやるわよ!!」
「下品ですね」(注3)

むろん、読んだ人は誰でも知っているように、この後実際に起きるのは、噛みつくどころでは済まないもっと殺伐とした陰惨な闘争であり、その果てに全ての黒幕であった「ママ」は実の娘のシロオに蹴り殺されて息絶える。そのような真剣な、娯楽として片手間に読むにはあまりにも真剣すぎる勝負が、それにふさわしく発言者の声や顔つきまで伝わってくるような対照性のくっきりした問答によって入念に準備されていながら、にもかかわらず主人公が口にする敵意の表現の上限はほとんど遊戯的とすら呼べる他愛ない次元に抑えられていること、このことがこの場面の読者をして、子どもの幼い生を大人以上の密度で満たす異様な緊張を思い出させる、あるいはむしろ再発見せしめるのである。非人称の話者の手で進行するここの叙述の背後には、不幸にして、いやむしろ必要に迫られて大人の語彙を身につけざるをえなかった中学生が―もしかすると小学生かもしれないが―隠れているのではないか。ほかにも忍者、それもちょっととぼけたところというか、間が抜けたところのある忍者という点で『反抗期の妹を魔王の力で支配してみた。』のテツローに通じる数戯(すうぎ)ヤンマなど、根が真面目な作家がなんとかしてライトノベルらしさを出すべく陽気にふざけようとする努力の跡をとどめた登場人物には事欠かないが、その悪戦苦闘も決してあざとさだけが目立つような結果には終わらず、むしろ理念として夢見られたかぎりでの小児性(幼稚さではない)の探究へと我々を呼び招いている。
この痛みがもっと欲しい、一日でも長生きしたい、こういう小説をもっと読みたい。ちなみにこの三つの願望は決して因果関係によって連結しているのでもなければ、かといって目的論的に連鎖しているのでもなくて、実質的には同義だ。それをあえて一文に要約するなら、一体どうなるのだろう。私は、自分の血のにおいと味に飢え渇いているのか。
つけ加えれば、伏線の回収、謎の解明が一箇所に集中しすぎることなく、息の長い緊張感を保ちながら読み手の興味を間断なく前へ前へと牽引していくのも頼もしい。文体については「滂沱(ぼうだ)と」と「蹈鞴(たたら)を踏む」の頻出が目につく気もするが、それは例えばスタンダールの文体の単調さと同様、奔馬のように疾駆する作者の息づかいの刻印であるから、別に欠点としてあげつらいたくなるような類のものではない。なお、絵の担当は鈴見敦で、表紙や口絵に関してはあえて狙ったと思しき色使いの毒々しさが好き嫌いを分けそうだが、本文中の白黒の挿絵は、登場人物の表情の描き方が絶妙で感嘆のほかない。ことに、緑色の長髪にクリスマスツリー用の飾りつけを施されて泣きそうになっている第五巻『ママはあなたが嫌いみたい』223頁のシロオの姿は、前後の文章と一体になって、先へ読み進めるのが惜しいほどの至福の一時をもたらしてくれる。まさしく夢のようだ。

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(1)日日日『魔女の生徒会長IV 絶叫メリーゴーランド』(MF文庫、2008年)196頁。
(2)日日日『魔女の生徒会長III 案山子たちのグランギニョル』(MF文庫、2008年)127頁。
(3)日日日『魔女の生徒会長V ママはあなたが嫌いみたい』(MF文庫、2009年)292-293頁。
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