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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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日日日『ささみさん@がんばらない 9』 

代表作が必ずしも文句なしの力作・一番の傑作とは限らない、というのは現代のライトノベル界の宿命なのか。
決して手抜きというわけではないのだろうけれど、個人的にはいささか不完全燃焼気味な感の否めない『ささみさん@がんばらない』の後半。
理由はいくつか思いつく。世界各地の神話に手を広げすぎた結果、とりあえず素材を咀嚼・消化して小説の姿に仕立てるだけで手一杯である(各巻の頁をほぼ使い切ってしまう)とか、るるなちゃんこと月読(つくよみ)るるなを除けば適当な時機をみはからって新しい登場人物が投入されるということもなく、前半で悪徳オカルト結社「アラハバキ」の首領が種を撒いていた陰謀への対処がひたすら延々と続くとか、世界の安寧を脅かす最終的な敵である月読日留女(つくよみ・ひるめ)が、記憶能力もなければまともな人格もなく(それゆえに説得を通じて改心させることは不可能に近い)、ただ食欲に任せて神々を食い散らかすだけの自然災害のような存在であるがゆえに、筋の展開を錯綜させて盛り上げる要因としてはいまいち力不足であるとか、個性の棄却と大いなる全体への融合という事態が、一方では彼女のもたらす災厄の内実そのものでありながら、他方では世界中の神々が知恵を絞って考え出したそれへの対抗手段でもあることによって、結局どっちつかずの両義的な性格を帯びてしまうとか、他の登場人物たちと比べれば一応最も主人公の地位に近かったはずのささみさんこと月読鎖々美(つくよみ・ささみ)が途中からは完全に話者に徹し、こともあろうに神々と日留女の最終決戦すら眠ったままやりすごしてしまうとか(注1)、いつの間にか彼女が各巻・各章の冒頭で決まり文句のごとく繰り返すようになった「これも後から聞いた話である」という前置きの文が(ちょっと森鴎外の『雁』みたいだ。第10巻には「沈黙の塔」なる題名の章もあり、日日日と鴎外との関係は今後なお考えてみる余地がありそうである)、以下に続く頁で何が起きようと実際にはその事件がすでに「解決済み」であることを読む前から予想させてしまうとか、作中の随所に見え隠れする一神教への批判的な問いかけが、あくまでも「宗教」ではなくて「神話」を相手どるという作品の基本姿勢ゆえに、あるいはそもそも問い自体のきわどい政治性ゆえにいまいち明瞭にならない(なりえない)とか、一神教の代表格と目されているはずのキリスト教について肝心の作者の理解が十分かどうか不明であるとか―ことに、邪神(やがみ)かがみが「ユダヤ神話」の体現者となったがゆえに十字架の力を使いこなせるという第11巻の設定はいくらなんでもまずい。元来不名誉な刑死の象徴でしかなかった十字架に神聖な権威を認めることができるか否かは、大袈裟に表現するならキリスト教徒をユダヤ教徒から決定的に分かつ相違点ではないのか。この設定には、日日日のキリスト教観の中には旧約聖書があっても新約聖書(なかんずく福音書)の影は薄いということ、換言すれば本人の思惑がどうであれ、それが実質的にはユダヤ教観にすぎないことがはしなくも露呈している。それに、キリスト教会が十字架を掲げながら永年にわたってユダヤ人に加えられる差別や迫害を黙認し、ときにはそれに加担してきた歴史も、決してうやむやにされてよいものではない―、まあ、いろいろ。
その中でも第10巻は、もともと猛々しい戦士たちの血沸き肉躍るような世界観を反映した北欧神話がライトノベルと相性がよかったのか、はたまたいつも能天気で何の屈託もなさそうな邪神たまが、新米のるるなちゃんにお株(日留女に立ち向かうという役割)を奪われそうになって嫉妬と焦燥のあまり一計を案じるという、後ろめたくも屈折した事情が背景にあるからか、全巻を通しても屈指の一冊たりえているように思う。

とはいえそれに先立つ第9巻は、おかしな方向に歪曲されたまま固着しそうになった歴史の流れを正常に戻すという、前半を読んできた人ならなにやら既視感を覚えそうな内容である。
首領の狙いどおり宇宙人に汚染され、日留女に立ち向かうはずの「対抗兵器」から「破壊神」シヴァへと変質してしまったヴィシュヌだったが、海千山千の彼女はそう見せかけて実はもともとの自我を保っており、首領の思惑の裏をかいて独自の計画を練っていた。それは、月読鎖々美をはじめ全ての太陽神を吸収した上で、歴史を改変する能力を持つ厄介な玉藻前(たまものまえ)を排除しつつ日留女の復活を未然に阻止する―というもの。これこそが世界を救う最善の方法なのだと言わんばかりのシヴァだったが、鎖々美の宿敵にして親友である蝦怒川情雨(えどがわ・じょう)は、彼女はおろか自身の母親である玉藻前までも犠牲にしようとするこのもくろみを、到底納得して受け容れることができない。そこで、情雨はひとまずいなくなってしまった鎖々美の立場を自ら代行して時間を稼ぎながらヴィシュヌの過去に探りを入れる一方で、玉藻前にシヴァを追わせることにした…というのが大体この第9巻の前篇(第一部「ヨーガ」)の粗筋である。
後篇(第二部「モークシャ」)に入ると、今度は打って変わって「地下王国パタラ」に閉じこめられた玉藻前とかがみが脱出するまでの顛末が描かれ、ついで舞台は、世界中の太陽神を吸収し尽くしたヴィシュヌ=シヴァの放った霊的核爆弾(アグネア)の威力で全ての神々が死に絶えてしまった、「終末の世界」へと移る(ちなみに、使用中のアグネアが発揮する火力のほどを知りたいと思う読者の期待は、ようやく第11巻に至って満たされる。このおあずけの巧妙さは、さすがに堂に入ったもの)。

 玉藻前さんの周囲は、異様だった。
 基本的に真っ暗である。
 墨を広げたような、漆黒(しっこく)。
 だがそのなかに、星くずのように散らばっているものがある。
 切れ切れとなった、何かだ。
 よく目を凝らして見ると、それはいろんなものの断片だ。
 建物だったり、乗用車だったり、山や河だったり。
 だが物理的に切断されたというより、写真をてきとうにちぎってばらまいた感じだ。
 無数の、粉々にされた写真の欠片(かけら)が散らばった闇(やみ)―そうとしか表現できない、得体のしれぬ光景である。
 玉藻前(たまものまえ)さんのそばには足場もなく、ふわりと髪や衣装を揺らしてゆるやかに落下していく。
〔中略〕
 途中にあった断片のひとつ、どうも桜ノ花咲夜(このはなさくや)学園の校舎らしいいちぶに、玉藻前さんは着地する。
 壁と屋上のいちぶだけがあって、それ以外は空間が途切れているかのように消失している。
 異様な状況に怯(ひる)みながらも、玉藻前さんは警戒して周囲を観察した。
 すぐそばでは、切り取られた樹木の下半分だけが、にょきりと生えている。
 鋭利な刃物で切断されたような断面。
 地面らしき土くれもへばりついていたが、ぼろぼろと剥離(はくり)して零(こぼ)れていく。(注2)

ほとんどこれ見よがしと呼びたくなるほどに、ここではベンヤミンが論じたような、バロック時代のドイツの悲哀劇における寓意(アレゴリー)表現と同様の、粉々になった世界への趣向が働いているのがわかる。

 悲哀劇によって歴史が舞台にもち込まれるとき、歴史は書きものとして入ってくる。自然の顔には、有為転変のはかなさを表わす象形文字で「歴史」と書かれているのである。舞台上で悲哀劇によって設定される自然の歴史を帯びるアレゴリー的相貌は、実際に廃墟として目のまえに現われる。具体的に歴史は、廃墟と化しながら舞台へ入ってきたのだった。しかも、そのような形をとったとき、歴史は永遠の生命の過程としてではなく、むしろとめどもなく崩壊してゆく経過としてくっきり姿を現わす。したがってアレゴリーは、自分が美の圏外にでているのを認めていることになる。事物の領域における廃墟にあたるのが、思念の領域におけるアレゴリーである。ここからバロックの廃墟崇拝が生ずる。〔中略〕取り壊されてそこに瓦礫となって残っているもの、すこぶる重要な断片、破片。それこそが、バロック的創造のもっとも高貴な素材なのである。(注3)

このほかにも、古代の神々の衰亡、あるいはむしろ形骸化、特にキリスト教世界におけるそれをはじめとして、『ささみさん@がんばらない』における、まるでベンヤミンと共鳴し、あるいは競合するかのような寓意的思考の存在を裏づけてくれる証拠には事欠かない。
ことによると作者は実際に『ドイツ悲哀劇の根源』を座右に置き、執筆中にちょくちょく参照しているのかもしれない。突飛な仮定だが、ふとした瞬間にそう思わせるほどの露骨な符合が、あるいは読者の側の自由を狭めるという意味でかえって物足りなさの印象につながるのだろうか。なんとも贅沢で手前勝手な感想もあったものだ。
ただ、忘れてはならないのは、ベンヤミンの寓意論にとって、髑髏の転がる廃墟という荒涼たる光景は、決して究極的なものではなかったという事実である。むしろ彼にとって真に肝要だったのは、寓意表現というものにおける記号と意味との間の避けがたいずれないし断絶をいわば梃子にして、そのような光景の無常さという特徴を、今度は復活の寓意として再解釈するという段階なのだ。

 最後にバロックの死斑のなかで―いまはじめて、後ろに向きを変えた極大の弧を描いて救済しながら―アレゴリー的な考察は急転する。〔中略〕
 どれほど細断しつくされたものでも、どれほど死滅しはてたものでも、どれほど散りぢりになったものでも、これによってそれらの暗号が解ける。〔中略〕
 まさにつぎの点こそ、メランコリックな沈潜の本質である。メランコリックな沈潜は、その究極の対象のなかに埒もないものをもっとも完全に確保していると思っているが、その究極の対象がアレゴリーに急変する。究極の対象は、無のなかに姿を現わし、その無を満たし、そしてその無を否定する。ちょうどアレゴリーの志向が、最後には死骸の光景にどこまでも忠実にとどまることはせず、忠実を捨て復活へ飛び移るのと同じように。〔中略〕
 なんの収穫もなく帰るのがアレゴリーなのである。アレゴリーがいつまでも続く深みとして育んできた悪そのものは、アレゴリーのなかにしか存在せず、アレゴリー以外のなにものでもなく、現にある自分とは別のものを意味する。しかもこの悪そのものは、まさしく自分の表わしているものが存在していないことを意味する。(注4)

道籏泰三は、ベンヤミン的な寓意の作り手がたどるこのような経緯についての注釈として、「高慢にして空疎な主観的真理ないし善に背を向け、自ら破壊的な悪に始終手を染めながら、やがて、自らの悪魔的な破壊行為にひそむ主観性をそれと自覚することによって、これを最終的に滅却させようと自ら転身すること、この二つの相反する行為の『神秘的均衡』のなかから、善も悪も存在しなかったかつての楽園状態、今は忘却されてしまった定かならぬ主客融合状態としてのあの『原史』なるものが浮かび上がってくるかもしれない」と述べている(注5)。
この整理はいささか善悪という道徳的な局面を強調しすぎているきらいもあるような気がするが、ともかく主観性の自壊による「原史」(原‐歴史)の救出という方向性を打ち出している点で示唆に富むことは疑いえない。もっとも私としては、『失われた時を求めて』における紅茶の風味をきっかけとしたコンブレーの町の復活について、それは連想の鎖を断ち切って出現するものであり、「その本質における、かつて生きられはしなかったようなコンブレー。いまだかつて見られたためしがないような、〈観点〉としてのコンブレーである」(注6)と書いてはばからないドゥルーズ、のみならず「生成変化の線状システム(あるいはブロック)は、記憶の点状システムと対立する。〔中略〕生成変化は反‐記憶である」(注7)とも断定するドゥルーズが考えているような、「かつて一度も現在であったことがなく、あらゆる現在に対して先存する純粋過去のうちに〈出来事〉を反‐実現する超越的に行使された記憶」(注8)としての無意志的記憶の働きをここに見たいと思うし、ベンヤミンの遺稿「歴史の概念について(歴史哲学テーゼ)」における「虎の跳躍(ティーガーシュプルング)」(注9)は明らかにそのようなもの、すなわちいまだかつて一度も現在的であったためしのない本質の「想起(Eingedenken)」(注10)という逆説的な企図として読まれうると考える。
だがいずれにしても、ここでは、つまり『ささみさん@がんばらない』の第9巻にとっては、「反‐記憶」や「反‐実現」に訴えなくとも、主観性の自壊を伴う想起という構図でとりあえず十分なはずである(そのことが、はたして作品としての強みなのかそれとも弱みなのかは問わない)。なんとなれば、自分が霊的核爆弾(アグネア)で神々を滅ぼしたのは、人類を神々から自立させ、独り立ちさせるためであると言い張るヴィシュヌ=シヴァに対して、情雨は、それは本音ではない、と切り返しつつ、本当は「ひとの言いなりになって、奴隷みたいに酷使されて」(注11)信者の願いを叶え続けたあげくとうとう疲れ切ってしまったのではないか、ただそれだけのことではないのか、という問いを投げかけ、その結果かつてヴィシュヌがガルーダとの間で交わした約束を思い出させているからだ。その約束とは、いずれ人間がヴィシュヌへの感謝の念を忘れ果て、憎悪と苦痛に満ちた彼女が世界にとって不要な存在となったとき、ガルーダが彼女を殺す、というものにほかならない。
結局、この約束はそのまま実現をみることはなく、シヴァはガルーダに優しく褒められてから、満足して穏やかに40億2千万年の眠りにつくことになるのだが、このような結末から、神々なら神々という役割に束縛された生と、個体がそれ自身として肯定される生との対照という問題を、前者への批判と後者への希求ともども読みとることはいともたやすい反面、そのたやすさは、あくまでも断片や廃墟それ自体から弁証法的に救済への転換が生じてこなくてはならないとするベンヤミン的な寓意論の徹底性と比べると、あるいは安易さの別名ではあるまいか、少なくともこれは、第9巻を一貫して規定するインド神話という枠組から自然的かつ必然的に導き出せる問題系ではないのではないか、という疑問も抑えがたい。よしんばとってつけたような、とまでは行かないにしても、例えば『のばらセックス』が、汚辱にまみれた瀕死の坂本緒礼―切り刻まれ、「七分の一ほどしかない」断片、あるいは「残骸」と化した彼の肉体(注12)―を、すなわち「死せる男性」を、同時に「女性の再生」の寓意でもあるものとして提示していた鮮やかな手際と比べると、どうにも中途半端な印象がぬぐえないのだ。
おそらく、大いなる全体の中へと個性を失って融合するという事態が、上で確認したように単に日留女の体現する脅威であるばかりでなく、神々に残された唯一可能な対抗手段、したがって一縷の希望でもあるという両義的な筋書からしても、個体性の強調は他者(ガルーダ)から私(ヴィシュヌ=シヴァ)に与えられる人格的承認の重要性という論点―これ自体はすでにヘーゲル(『精神現象学』)が気づいていたことである―に無邪気に依拠するばかりでなく、もっと念入りに仕上げられる必要があったはずだし、そもそも『ささみさん@がんばらない』における過剰なまでの遠近法主義(perspectivism)、換言すれば、各個体の占める「観点」の相異からほとんど世界の複数性という結論を引き出さんばかりの、ライプニッツ的な、あるいはむしろ超ライプニッツ的な(すなわち、ライプニッツの形而上学体系の帰結を、創始者の意図した範囲を超えて追い求める場合に初めて成り立つ)遠近法主義は(注13)、同じ作者の例えば『ビスケット・フランケンシュタイン』のような作品からうかがえる歴然たるスピノザ主義とは、ある種の解消しがたい緊張関係にあり、それゆえどこかしら不徹底なものにとどまるほかないように思える。例えば、第9巻の「あとがき」では、「語り部は『現代の鎖々美(ささみ)さん』だけど主に行動するのは『情雨(じょう)や玉藻前(たまものまえ)』で、そのうえ事態の中心となってるのは『過去の鎖々美さん』というややこしい感じ」が「三重らせん視点」と名づけられているが(注14)、実のところ、このうち「過去の鎖々美さん」については視点人物として成り立っているのかどうかやや判然としないし、残る二者については、たしかに「現代の鎖々美さん」の視点という大枠の中で、あるときは情雨の化けた偽の鎖々美が、またあるときは異なる時系列に属する彼女本人がこの話者(現代の鎖々美)を見返す瞬間が存在するとはいえ、あるいはまた偽の鎖々美になりすました情雨がしきりと情雨本人と親睦を深めたがるというなかなかに気色の悪い喜劇的な一幕が出てくるとはいえ、「らせん」構造とまで断定することが許されるかどうかは少々疑問である。
読者の態度としてはいささか変則かもしれないが、私としては、それでも『ささみさん@がんばらない』の第9巻を凛乎たる一篇の小説として自立させているものは、結局のところいくつかの印象的な場面であり、おのおのはせいぜい二、三頁しかないそれらの断片が、それ自体も断片であることをやめず、かつまた他の断片を強引に一体化することも全体化することもないまま、危うい均衡を保ちながら縫い糸のごとく事後的な統一性をこの作品にもたらしているのだと考えてみたい。

何が一つの作品の一体性を作るのか。何が我々を一つの作品と「交流」させるのか。何が芸術の一体性というものを作るのか、もしもそのようなものが一つでもあるのだとすれば。我々は諸部分を一体化するはずのある一体性だとか、諸断片を全体化するはずのある全体だとかを探し求めることを断念した。というのも〈理(ロゴス)〉なるものを同じように論理的一体性としても有機的全体性としても排斥してしまうということこそが諸部分ないし諸断片の固有な点にして本性であるからだ。しかしこの多なるもの、この多様体一体性〔l'unité de ce multiple-là, de cette multiplicité-là〕であるようなある一体性は、これらの断片ある全体と同様に〔comme un tout de ces fragments-là〕あるのだし、あらねばならないのである。原理ではないはずの、かえって反対に多なるものとそれの綻(ほころ)びた諸部分との「効果」であるはずのある〈一者〉にしてある〈全体〉だ。原理として作用する〔ことなく〕代わりに、効果として、数々の機械の効果として機能するはずの〈一者〉にして〈全体〉だ。原則として定立されるのではないはずの、かえって諸々の機械とそれらの切り離された諸部品から、それらの交流しない諸部分から帰結してくるはずの交流だ。(注15)

『失われた時を求めて』〔À la recherche du temps perdu〕におけるプルーストの探究(recherche)を手がかりとしてこう主張するドゥルーズは、そのような断片的な一体性という逆説的な代物を、共存するばらばらな諸観点の間に比喩の力で共鳴を生産するような説明的な文体に事後的な統一性を授けるものとしての、藝術作品の形式的構造から、ひいては横断性(transversalité)から手に入れようとする。

新たな言語的慣習、作品の形式的構造とは、ゆえに横断性であり、それは文全体を横切り、本全体の中で一つの文からある別の文へと赴き、そしてひいてはプルーストの本を彼が愛好していた本たち、ネルヴァル、シャトーブリアン、バルザック…に結合する。というのももし一つの藝術作品が公衆と交流し、その上公衆を掻き立てるとすれば、もしそれが同じ藝術家の他の諸作品と交流し、また諸作品を掻き立てるとすれば、もしそれが他の藝術家らの数々の他の作品と交流し、また来るべき数々の作品を掻き立てるとすれば、それはつねにこの横断性の次元においてなのであって、そこでは一体性と全体性とがそれら自体のために樹立されるのであり、対象らや主体らを一体化することも全体化することもない。〈探求〉の諸々の登場人物や、出来事や部分が占める諸次元に付け加わる補足的な次元だ―それらが空間の中で占める諸次元と共通な尺度を欠いた時間の中のこの次元。それは諸観点を互いに浸透させ、諸々の封じられた壺を交流させるがそれでいてそれらは封じられたままなのだ。〔中略〕そのようなのが時間であり、話者の次元なのであって、それはこれらの部分全体〔le tout de ces parties〕でありながらそれらを全体化することはなく、これらの部分全て一体性〔l'unité de toutes ces parties〕でありながらそれらを一体化することはないという力能(ピュイサンス)〔puissance〕を持っている。(注16)

このように『プルーストと記号』が説く、複数の観点、複数の時系列を単一の全体へとまとめあげることはしないまま強引かつ短絡的に連結してのける横断線(transversale)の働きは、『ささみさん@がんばらない』第9巻から以下に引用するいくつかの小粋な例の中にも、たしかに話者の、あるいは叙述そのものの時間性にほかならぬものとして発現しているようである。

 嚙(か)みくだかれたポテトチップスのように空中に亀裂が走って、その奥から羽を広げた小鳥がふわりと飛びだしてくる。(注17)

 腹を切り裂かれた人体から零(こぼ)れでた内臓のように、むっとする血臭を漂わせた大量の腕が―揉(も)みあうかがみと玉藻前さんの全身に絡みつき、一気に渦中へと引きずりこんだ。(注18)

「失礼しま~すの」
 カーテンが開かれるようにして、空間が横にずれる。
 その奥から、玉藻前(たまものまえ)さんが「ひょこっ」と顔を覗(のぞ)かせた。
 ちいさな、幼女の態である。
 いつものメイド服にふわふわの九尾(きゅうび)。(注19)

「まずはお風呂ですかね」
 悲惨なことになった自分の服を見下ろして、お兄ちゃんが肩をすくめる。
 そして、わたしが窓の外を見ているのに気づいて、「どうしました?」と小首を傾(かし)げる。
「いや―」
 わたしは目をぱちくりとさせる。
「そこに、誰か……」
 窓の向こうを、何だか複雑な表情を浮かべて通過する、長い白髪の女の子がいる。
 彼女はわたしに気づくと、くるりと踵(きびす)をかえしてどこかへ去っていく。
「うん」
 そんな彼女から何かを受けとったように、わたしは自然に表情を綻(ほころ)ばせて。
「がんばるよ」
 消えいりそうな声で、けれど心をこめて―わたしはそう言った。

                   @ @ @

「……ふん。ま、こんなとこね」
 わたしとお兄ちゃんを窓越しに一瞥(いちべつ)し、そのまま背を向けて遠ざかりながら、蝦怒川情雨(えどがわじょう)ちゃんが満足げにぼやいた。
〔中略〕
 いちどだけ、振り向いて。
 何も知らずにいる過去のわたしに、宿敵らしからぬ、優しい声で告げてくれるのだ。
「……がんばってね」
 そして、もう振り向かずに―彼女の居場所へと帰っていく。(注20)

列挙していくときりがないのでこのくらいにしておく。ともかく齟齬や落差や差異をそれ自体として肯定しうる横断性というものをこれらの断章に認めることは、そう筋違いでもないのではないか。付言すれば、このように考えてこそ、月読鎖々美における主人公らしさの明らかな不足(減少)というすでに触れた事実も、単に解決を要する問題とは異なる、一つの生産的な成果として理解することが可能になるはずなのだ。
ただ、それを勘定に入れてもなお、『ささみさん@がんばらない』が単なる無難さや洗練を超えて、このような作品―神話を換骨奪胎することで成立したライトノベル―として達成しうるかぎり最高の成果を収めえているか否かは判然としない。私は冒頭で、作者のキリスト教理解がはたして十分なものかどうかという点について疑問を呈しておいた。実際、「神の御子であるイエスが全人類の罪を贖うべく十字架上で刑死を遂げ、そして復活した」こと、および「父なる神と子なる神(イエス・キリスト)と聖霊は三にしてしかも一(三位一体)である」こと、最低限この二つの教義が揃っていなければ、たとえエデンの園やノアの方舟への言及があろうとも、そもそもそれをキリスト教と呼ぶことは難しいのではないか。である以上、真にキリスト教を批判したければ、当然この二つの教義を集中的に検討しなくてはならないはずなのだ。
しかるに、間違いなくドゥルーズ的な美学の要諦の一つである横断性の概念がこのためにどの程度有効であるのか、私には確信がない。キリスト教においては、「まことの神にしてまことの人」という逆説そのもののような存在としてのイエス・キリストに加えて、聖霊ないし教会もまた、信者と超越的な神とを隔てる絶対的な溝ないし落差を埋め立てることはないまま、なおかつ両者の間の絆として機能する。しかもそのイエスたるや、実に俗世の歴史の中へと歩み入り、人類の救済のために従容と死に赴いたほどに人間的な神であり、自己犠牲の鑑であるのだ。私自身は生まれてこのかた教会の敷居をまたいだ経験のない無神論者であり唯物論者であるが(そして将来的にもそうだろうと思うが)、このような宗教が容易に批判の試みを受けつけない、すこぶる難攻不落な思想体系であることくらいはまあ見当がつく。別に日日日に限ったことではないが、ことキリスト教を批判的に相対化しなくてはならないとなると、今日でもなおとかく作家や藝術家の態度から歯切れのよさが失われがちなのは(と、私は感じるのだがいかがなものでしょう)、思うに普遍的な人間性やかけがえのない個性を強調しようと、はたまた悲壮な自己犠牲の物語に尊ぶべき手本を求めようと、ひいては断絶や横断性を謳歌しようと、それらがいずれも決定打たりえないという事情のゆえではないのか。それに、罪とその贖いとを別々に考えるのではなく、むしろ最大限の距離を挟んで向かい合いながらも間に一連の波乱万丈の過程を生ぜしめる相関的な両極として見定めようとする神学者の視線も、日々虚構の創作に携わる者にとって、倫理学的というよりも方法論的な次元で、無視しえない先例たりうるのではあるまいか。
しかしながら、神々が力を合わせてまがりなりにも日留女の脅威を封印することに成功したはずの第11巻の巻末に見出される「あとがき」の文章を信じるなら、『ささみさん@がんばらない』はなおもキリスト教批判の書として書き継がれなくてはならないはずなのだ。となればまずは、どちらも非合理な直観の飛躍によってただ信じるしかない(知的な理解を拒む)、どこまでも逆説的なイエス・キリストという存在の特異性と三位一体という、最も基本的な上記の二つの教義をきちんと作中で確認しつつ、なおかつ寓意的・横断的な思考の歩みを、ことによるとドゥルーズやベンヤミンが思いも及ばなかったほど推し進める必要が出てくるのではないか、と予想せざるをえない。これ以上の具体的な予想はあまり実り多いとも思えないので控えたいが(すでにいろいろと抱えこんでいる邪神三姉妹がさらに三位一体をも兼ねることになるのだろうか…)、さしあたり指摘しておきたいのは、読む者を始末に負えぬほど欲情させ、超越者を穢すように誘惑し、そして弁明の余地のない一人の共犯者として恥じ入らせずにおかない『のばらセックス』の猥褻性が、自らのばら様に扮しておちば様が決行する間接的な自殺の上演(representation)―「間接的」という形容詞は、二重の意味で欠かせない。すなわちおちば様の自殺は、第一に手段に関して間接的であり(彼女は、恋人の手に掛けられて命を落とすという、ヴィシュヌが表向き希望してもついに体験することのできなかった状況を体験する)、また第二に、目標に関して間接的なのである(この死は単なる自害ではなく、一度も実在したためしのない彼女の母親、つまりのばら様の殺害という迂回路を経由する)―による、すなわち原理としての表象(representation)の能動的にして受動的な(したがって絶対的な)死(注21)による自立の促しとあいまって、ここでもはるかに『ささみさん@がんばらない』の先を行き、たぶん人類の文化史を端から端まで通覧してみてもその徹底性において極度に稀と評してよい宗教批判として、すでに立派な手本を示しているという事実である。


(1)もちろん、ささみさん「は」―特に貢献できることもないので―がんばらない(他の誰かが適任者としてがんばる)、という意味では、この人を食ったような成行きも、これはこれでむしろ忠実に題名を反映しているわけであるが…それにしても、奇をてらいすぎて少々空回りになっているのでないかどうか、判断に迷うところではある。
(2)日日日『ささみさん@がんばらない 9』(小学館、ガガガ文庫、2012年)253-254頁。なお、原文で傍点が付してある語(「何か」)を、引用に際して太字の表記に改めた。
(3)ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(岡部仁訳、講談社学芸文庫、2001年)282-283頁。
(4)同書379-381頁。
(5)道籏泰三『ベンヤミン解読』(白水社、1997年)93-94頁。
(6)Gilles Deleuze, Proust et les signes, Paris, P.U.F., 2007, p.183: « Combray dans son essence, tel qu'il ne fut pas vécu; Combray comme Point de vue, tel qu'il ne fut jamais vu ».
(7)ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『千のプラトー 中』(宇野邦一・小沢秋広・田中敏彦・豊崎光一・宮林寛・守中高明訳、河出文庫、2010年)280頁。
(8)江川隆男『存在と差異』(知泉書館、2003年)205頁。「先存」は「先在」の誤記ないし誤植かもしれないが、一応原文を尊重しておく。
(9)ヴァルター・ベンヤミン(浅井健二郎訳)「歴史の概念について」、『ベンヤミン・コレクション』(浅井健二郎編訳・久保哲司訳、ちくま学芸文庫、2004年第2版第5刷)659頁。
(10)「想起(Eingedenken)」がまさしくプルースト的な無意志的記憶として「追想(Erinnerung)」に対立することについては、道籏泰三『ベンヤミン解読』(前掲書)140頁以下に説明がある。
(11)日日日『ささみさん@がんばらない 9』(前掲書)275頁。
(12)日日日『のばらセックス』(講談社、2011年)376頁。
(13)Gilles Deleuze, Proust et les signes, op. cit., p.196.
(14)日日日『ささみさん@がんばらない 9』(前掲書)311頁。
(15)Gilles Deleuze, Proust et les signes, op. cit., p.195-196: « Qu'est-ce qui fait l'unité d'une œuvre? Qu'est-ce qui nous fait "communiquer" avec une œuvre? Qu'est-ce qui fait l'unité de l'art, s'il y en a une? Nous avons renoncé à chercher une unité qui unifierait les parties, un tout qui totaliserait les fragments. Car c'est le propre et la nature des parties ou fragments d'exclure le Logos aussi bien comme unité logique que comme totalité organique. Mais il y a, il doit y avoir une unité qui est l'unité de ce multiple-là, de cette multiplicité-là, comme un tout de ces fragments-là: un Un et un Tout qui ne seraient pas principe, mais qui seraient au contraire "l'effet" du multiple et de ses parties décousues. Un et Tout qui fonctionneraient comme effet, effet de machines, au lieu d'agir comme principes. Une communication qui ne serait pas posée en principe, mais qui résulterait du jeu des machines et de leurs pièces détachées, de leurs parties non communicantes ».
(16)Ibid., p.202-203: « La nouvelle convention linguistique, la structure formelle de l'œuvre, est donc la transversalité, qui traverse toute la phrase, qui va d'une phrase à une autre dans tout le livre, et qui même unit le livre de Proust à ceux qu'il aimait, Nerval, Chateaubriand, Balzac... Car si une œuvre d'art communique avec un public, bien plus le suscite, si elle communique avec les autres œuvres du même artiste, et les suscite, si elle communique avec d'autres œuvres d'autres artistes, et en suscite à venir, c'est toujours dans cette dimension de transversalité, où l'unité et la totalité s'établissent pour elles-mêmes, sans unifier ni totaliser objets ou sujets. Dimension supplémentaire qui s'ajoute à celles qu'occupent les personnages, événements et parties de la Recherche ― cette dimension dans le temps sans commune mesure avec les dimensions qu'ils occupent dans l'espace. Elle fait se pénétrer les points de vue, communiquer les vases clos qui restent clos poutant[...]. Tel est le temps, la dimension du narrateur, qui a la puissance d'être le tout de ces parties sans les totaliser, l'unité de toutes ces parties sans les unifier ».
(17)日日日『ささみさん@がんばらない 9』(前掲書)37頁。
(18)同書207頁。
(19)同書252頁。
(20)同書306-310頁。
(21)もちろんこの場合、単一の出来事(のばら様に化けたおちば様の落命)に具わった自殺としての側面が表象の能動的な死(「のばら様が―おちば様の死を通じて勝手に―死ぬ」という文)に相当する一方で、親殺しとしての側面が表象の受動的な死(「のばら様が―娘であるおちば様の意志によって―殺される」という文)に相当するのであることは論を俟たない。
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category: 『ささみさん@がんばらない』

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