Admin New entry Up load All archives

つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

category: スポンサー広告

CM: -- TB: --   

日日日『のばらセックス』15 

序文

前回の記事と同様、以下に掲載するのも、私とある人とのメールでのやりとりの一部に適宜加筆や修正を施したものである。
当然そのような経緯は文中のそこかしこに跡をとどめているので、このたびの公表に際しては、読者の便宜のために、一応序文を付して脈絡を補うことにした。
といっても本文の長さ自体たかが知れているので、それほど大それた前置きは必要あるまい。まず前篇では、記事の題名通り『のばらセックス』について、本作の結末における緒礼の処遇が甘すぎるのではないかという問いかけに対する、私なりの答を出そうと試みている。ことに大切なのは、「母親と一緒に暮らしたい」というおちば様(主人公)の願望と、「生きた女性と対面して触れ合いたい」という緒礼(黒幕)の願望とが、実はすでに巻頭の時点でどちらも実現をみており、ただ当事者が二人ともそのことを知らないだけだ、という論点であろう。これは、緒礼がまだ「坂本のばら様」を演じていた頃にさんざん彼を苛んだあげくついに狂気へと至らしめたものが、遠すぎて手の届かぬ対象(高嶺の花)への憧れではなくて、あべこべに極度の近接性ゆえの悩み、すなわちほかならぬ彼自身がのばら様(の正体)であるがゆえに、生きた彼女と対面することも、いわんや会話や肉体的接触も決して許されないという悩みであった…という事情と同様、『のばらセックス』の最も秘教的な奥義の一つと考えてさしつかえあるまい。表象の原理への批判はよいとして、代わりに「近接性(proximité)」を―いわばすっかり消毒の済んだ、単なる親密性(intimité)として―謳歌する一方であるかのように思えるときもある、ドゥルーズ哲学のある種の能天気な受容(これについてドゥルーズ本人に全く責任がないとは思えない)に一石を投じるものとして、これは見落とせない論点だと私は信じる。
後篇では打って変わって、欲望こそが人間の本質であるというスピノザ的な命題が日日日にも共通しているとして、では貨幣経済(欲望の外在化・平準化の機構)は彼の小説世界の中で一体いかなる地位を占めることになるのか、という問いかけを受けて、『狂乱家族日記』の中に出てくる、不解宮(わからずのみや)一族のmillionという架空の通貨をめぐって若干のことを論じている。平常運転の日日日がシューマン的であるとすれば―狂気の瞬間沸騰、偏執的なまでに厳格な形式性・対称性、執拗な反復癖、響きが混濁するほど数多くの楽器を一度に重ねてくる手法、ついいましがたの昂揚がまるで嘘だったかのように突如訪れる空漠たる荒涼さ…等々、シューマンに特徴的な語法はどれもこの類比を支持しているように思う。あるいは、分裂症(スキゾフレニア)の積極的な評価という文脈の中でドゥルーズがシューマンの名を挙げたことの意義を、日日日論の一環として再考する余地があるのかもしれない―、『のばらセックス』はブルックナーの交響曲からしか聞こえてこないような天体の諧調を思わせる非情なる自然の声と、マーラーばりの極度に個人的な内面性の露悪的なほどあけすけな告白とを統合してのけた唯一無二の力技であるが、『狂乱家族日記』はそのどちらでもない、いわばラヴェル的な、どこまでも人工的で端正な完結した美の世界である。この取りつく島もない作品はこういう機会でもないと、なかなか単独では分析することが難しい。しかし(付記)は剰余価値(マルクス)と剰余享楽(ラカン)の相同性に導かれ、またしても『のばらセックス』に立ち戻って論を締めくくっている。
本文中でも書いたが、この作品の複雑さと豊かさは全く前代未聞であり、いくら声高に強調してもしすぎにはならない。つい先日も、「どうせなら中学の国語の教科書に『のばらセックス』が載って、それでいたいけな中学生が男女問わず全員この小説で自慰を覚えるようになればいいのに! いいのに! あああもう凄作(すごさく:凄い作品の意)すぎて辛抱たまらん、舐めたい、揉みたい! 揉ませろ日日日さん!」と意味不明な叫びをあげたところ、冷たい目をした友人に「うぜえ、この色キ○ガイが…」と蔑まれてそれがかえって快感だったくらいである(末期症状)。


本文

(前篇)
なるほど、緒礼は許されるのかどうか、許されてよいかどうか、という疑問だったわけですね。まあ、おちば様の側にも「のばら様を愛している緒礼さんは、彼女を世間的に殺したあたしをゆるさないかもしれない」(348頁)という引け目があることだし、それによってすでにいくぶんかは彼の罪が相殺されそうだという点を考慮に入れるなら、致命傷を負って苦しんだあげく全てを(再び)忘れて廃人同然になるという最終的な成行きは、十分かどうかはともかく一応贖罪になっていると思います。たしかに彼の身内(おちば様や綿志)には笑いごとで済まない多大な迷惑をかけていますが、客観的には、つまりそれ以外の全人類にとっては、女性の量産を果たした緒礼は、犯罪者どころかまさしく救世主でしょう。こういう大局的な視点に立てば(そもそも「立ってよいのか否か」という問いはありえますが)、緒礼の傍迷惑な行動の数々は、埋め合わせがつくどころかお釣りがくるほどです。それに、どうせ問いつめたところで、主観的な次元では、つまり彼自身の口からは、弟と娘の強姦、そして育児放棄といった醜行の数々について、「悪いと思ったがどうしても我慢できなかった」という以上に何か筋の通った(傾聴に値する)弁明が聞けるとも思えません(苦笑)。このような尋問は、たとえあったとしても小説にさらなる充実をもたらす要因とはなりえないのではないか。
「埋め合わせ」といえば忘れてはならないのは、巻頭の時点で、記憶を失った緒礼は「ななちゃん(綿志)」としておちば様と起居を共にしており、これについて彼女自身は、のばら様(=緒礼)から捨てられたときの苦い思い出を反芻しながら、「保護の名目でななちゃんを確保して、家族の真似事をしているのは、あたしが家族という概念に満たされない依存症を患っているからなのか」(43頁)と考えている、という事実でしょう。あいにく彼女には、未練がましく自分が慕うのばら様の正体(「中の人」)がいま現に自分と一緒に暮らしているこの「ななちゃん」こと綿志という男(実は緒礼)であるという知識は欠落しているし、もう片方の当事者である緒礼(=のばら様)に至ってはすっかり自らの来歴を忘れて別人(ななちゃん=綿志)と化しているわけですが、実はこの二人に焦点を合わせるかぎり、「家族(母親=のばら様)と一緒に暮らしたい」というおちば様の願望は、「女性の役を自ら演じるだけでは飽き足らないので、生きた女性と対面して触れ合いたい」という緒礼の願望ともども、すでに開巻の時点で実現しています! おちば様が一緒に暮らしたいと願う家族とは、具体的には母親ののばら様です。そうであるかぎり、この願望をかなえられる人物は緒礼(生みの親)以外に誰もおらず、そして彼は、そんなつもりではなかったにしろ、現に(「ななちゃん」として寄り添うことで)娘のこの願望をかなえてきたのです。したがって、彼女の兄についての「子供が自分のちからで手にいれたと思ったすべてのものは、たいてい、大人が子供のために用意してくれた、おもちゃみたいなものだ」(101頁)という皮肉な調子の文は、彼女自身にも妥当します。
それに、緒礼に強姦されたときのいやな記憶は現在のおちば様自身からは消されているのだし(119頁)、そこからあえてもう一歩怖い見方に踏みこむなら、彼女がセノンについて(地の文で)述べる、「幼い子供は、自分が虐待されていることを認めない」(200頁)という言葉が、緒礼に対する彼女自身の心理にも当てはまる真理としてはね返ってくる、と考えることが可能なのではありませんか(こういう「怖い」読み方がどこまで作者の本意にかなっているのかわかりませんが、このように高度の自律性・自己完結性が底知れぬ無意味さ・無根拠性の地平を開いて見せてくれるのが、絶好調のときの日日日の小説の醍醐味の一つでしょう)。
まあ、実際にあのような(娘の強姦と育児放棄という)事件が起きたとして、犯人が法的・社会的に「許される」までには相応に長い刑期が必要だろうと思いますが(というか作中でも、できるだけ彼をかばおうとしてきた兄弟までがとうとう愛想を尽かした結果として、巻頭の時点で「植物刑」に処せられていたわけですが)、そこをあえて「ひとを愛するということが―『馬鹿みたい』じゃなかった時代が、かつていちどでもあっただろうか」(378頁)という開き直りのような理屈で、あるいはむしろ修辞(レトリック)で押し切ってしまい、荘重なまでの宗教的感動のほうへと無理やり突破を果たすというところに、いかなる道徳哲学にもまさる小説としての『のばらセックス』の強さ(よしんば「正しさ」ではないにせよ…)を求めるのは、それほど見当外れではないはずです。生はその自己中心性によって、またその豊かさによってもともと「善悪の彼岸」(ニーチェ)にあるということ―あるいは、緒礼個人の性的な動機のよこしまさも人為的な創造行為の関与も、自力で撤廃してのける「生成の無垢」(これもニーチェ)―、あらゆる常識的な異議をはねのけてこの間の機微を力ずくで読者に納得させてしまうのが芸術作品の使命の一つであり、少なくとも芸術作品が最もうまく果たせる使命です。要するに、緒礼は社会的にはどうであれ、いわば美的な要請として「許されなくてはならない」のであり、そしてそのことがこの作品を比類なく倫理的なものにしています。第一、神に挑戦して力尽きたがどうにか相打ちに持ちこんだ、とでも表現できそうな彼の壮挙を、そのために誰よりも不快な思いをしてきたはずの娘であるおちば様が、どんな心理からであれ一応は承認しているばかりか、ひいては性愛に罪の印を刻印しようとする宗教的な制度全般への決別の辞(「ファック」)を彼女が代弁している以上(378-379頁)、所詮は部外者たる読者にとって、これ以上の緒礼の追及は困難でしょう。
なお、フロイト(そしてラカン)によれば、女性の精神においては、男性の場合ほど超自我(良心)が厳格でない、とのことです。これは悪く言えば、女性は男性ほど道徳的感覚が発達していない、ということを意味します。このようなことになる理由は、父親の権威が内面化されたもの、という超自我の定義そのものに由来します。父親という存在は、男子にとっては異性の親(母親)との仲を裂く同性の強者として畏怖の対象となりうるのに対して、女子にとってはそうでないからです。いろいろと因縁のある相手だというのに、おちば様がかなりあっさりと緒礼を許容してしまうことについては、このように精神分析の観点からすると「なぜなら(彼女は)女性だから」という身も蓋もない理由による説明が可能なのであり、たぶん私とあなたで結末の評価が異なる理由も、根本的にはこのあたりに求めるべきではないかと思います。情欲のために全てを犠牲にした緒礼の社会的・道徳的・宗教的な犯罪について、読者の性別次第で感想が分かれるというのは妙な気もしますが、厚かましく思われそうなのは承知であえて書くと、あるいはほかならぬこの事実こそが、『のばらセックス』が性の真理を射抜くことに成功した作品であることの有力な証かもしれません。
何よりも、彼の心身をすり切れるまで蹂躙し酷使したのは、女性の理念(Idea)あるいは概念であり、虚構の中にしかいない(いなかったはずの)絶対的な女性としての「坂本のばら様」であり、ひいては彼女を現実に誕生せしめることという目的です。すなわち、緒礼の「欲望」が全ての原動力であるということは、同時に、欲望には現実的なものであれ虚構的なものであれとにかく対象が必須であるという事情からして、真の原因をこの対象ないし目的、つまりのばら様であると考えることで彼を免罪する余地がある―「そんなに、のばら様に会いたかった?」(376頁)―ということでもあります。「目的」を「原因」の一種として勘定するのは日本語の感覚として奇妙かもしれませんが、少なくともアリストテレス以来の西洋哲学はそのように考えてきたし、スピノザがこの伝統的な「目的原因」を我流に定義して「人間の衝動が何らかの物の原理ないし第一原因と見られる限りにおいて人間の衝動そのものにほかならない」(注1)と述べていることは、かえって、一見がむしゃらな衝動(欲望)にもとづく緒礼の行動を、目的に関わる語彙の秩序の中で把握し直す可能性を示唆するものでもあるはずです。
ご存知かもしれませんが、スティーヴ・ジョーンズ著『Yの真実―危うい男たちの進化論』(岸本紀子・福岡伸一訳、化学同人、2004年)などからもうかがえるように、どうやら近年の生物学は、雄は本来雌がお互いの遺伝子を交換しながら存続していくための仲介のような存在にすぎなかった、という知見に達しているようなので、日日日の発想の根幹にあったのもおそらくこれでしょう(まあ、私自身は『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』の「もこっち」みたいな感じの、限りなく女子力とは縁がない生き物なので、日日日流の生物学的フェミニズムに対しては「そんなに持ち上げられても困る…」というのが率直な感想ですが)。

ドゥルーズ哲学の最大の原動力は、あらゆる圧迫をはねつけ、必要ならば人格の自己同一性を壊してでも、生そのものの奔流のような力能(puissance)を肯定することです。それゆえ彼の絵画論においては、モデルに従属し続ける素朴な写実主義はもとより、あまりに整然としすぎた抽象主義(カンディンスキー)や、逆に単なる混沌にしか行き着かないアクション・ペインティング(ポロック)のような道ではなくて、むしろ形態(人物像)の歪曲ないし「脱形態化」(déformation)という手段を通じて、非人格的な、ほとんど非人間的ですらある元素的・微粒子的な情動の力そのものの、観る者の神経系に直接突き刺さってくるような荒々しい波動を現前させる、というフランシス・ベーコンの画業が特権的な地位を占めます。このような作品は、観る者に対していかなる距離も介在しない直接的な融合を求め、そのようにしていわば目に固有な触覚的感性、すなわち「触視的(haptique)」感性を喚起するものです。さて、「できがよい場合には」という留保条件が必要であるとはいえ、総じて日本のエロ漫画は、局部の強調によるデフォルメ(déformation)や、まるで手の代わりに頁(画面)を直接まさぐるような振舞いを目に強いることなどからして、実はドゥルーズ的な絵画論の理想をある程度実現しているのではないか、という仮説を私は立てています(誰だったか名前は忘れましたが、以前講談社の編集者が、日本の少年漫画のような躍動感に富むコマ割りや人体の部分的な強調は、フランスの漫画では成人向け作品にしか見られない、と話していたのを思い出します)。もちろん、読者の神経系に直接作用するかのような情動的な強度については言うまでもありません。
しかしそれでもなお、漫画の世界は視覚的なものであるかぎり、「表象(représentation)」の原理から完全に自由になることはできません。である以上は、表象の内部、すなわち自他の(究極的には母子の)想像的一体性(ラカン)という甘美な夢の内部で、徹底的にこの甘さを―甘さ「の」強度を―追求するのが正しいエロ漫画の道です。ただ小説における一人称のみが、元素的な力の解放を、他人事ならぬ「我が事」として、「我が身」に生じる残酷な出来事として、換言すれば真の生成変化つまり「なること」(le devenir)として読者各自に経験させることができます。ドゥルーズが絵画の任務を「見えるものを描く(写す)(rendre le visible)」ことではなくて「(見えないものを)見えるようにする(rendre visible)」ことであると規定したように、文学は本来「書かれぬことをやめないもの」(ラカン)、すなわち性関係という不可能なる「現実界」を何らかの仕方で「読めるようにする」ことが任務なのではないか、と私は思います。一人称を使える、ということはそのための手段として非常に強力なものでしょう。実際、ラカンは他方で「この私、真理である私が語る」とも書いています。この奇妙な文は、現実界の不快な真理が、我々主体の側の抵抗にもかかわらず、結局はこの抵抗を押し切ってそれ自身を表明せずにいない、という事態に注意を促しています。
さて、女性の一人称によるポルノグラフィは数あれど、主に男性の主体化に関わる象徴的去勢の機構(および男女の性器の結合)にとっては余計でしかないような、もっぱら女性的な「剰余享楽」、というラカン派精神分析の最も秘教的な真理をして、それ自身を語らしめることに成功したのは『のばらセックス』くらいのものではないかと思います。剰余享楽は性器に局限されない全身的な享楽であって(ラカンが例に挙げているのは、神秘家として有名なアビラの聖女テレサが神との合一を遂げた恍惚の一瞬を捉えた、ベルニーニの彫刻作品です)、ここからドゥルーズの唱えた「器官なき身体」の理論を照らし返すことができるはずです(ラカンと同様、ドゥルーズの美術上の好みも、ベルニーニに限らず「襞」を多用するバロック様式へと次第に傾いていったことは見落とせない点です)。
今日のフランスのフェミニズム思想にはécriture féminine(エクリチュール・フェミニーヌ)という概念があります。英語だとfeminine writing、直訳すれば「女性的な書き方」ということになるかと思います。代表的な理論家はエレーヌ・シクスーやジュリア・クリステヴァでしょう。ただ、従来の文学がおおむね男性中心のものであったということはとりあえず主張しうるにしても、ではそれへの対処としてどのように女性的な要素を打ち出していくか、という具体的な面になると、なかなか心もとないのが現状です(シクスーたちは小説の実作もしていますが、いかんせん「頭でっかち」です)。ドゥルーズは、このような同時代のフェミニズム思想の動向もおそらくは考慮しつつ、「女として書く」のでも、ましてや「女を描く」のでもなく、「書くことによって女性になる」という生成変化の思想を提唱しました。女性への生成変化は緒礼一人の経験ではなく、創造者であるかぎり彼は作家の分身でもあるという印象を私が感じるのは、これの影響でもあります。
毎度のことながらどうもこの小説のことを考え始めるとたちまちとぐろを巻くような錯綜した思弁が始まってしまいますが、ここには実際それだけのものがあるのです。なにも煙に巻いてやろうというつもりで、好き好んで専門用語(「触視的」、「生成変化」、「象徴的去勢」、「剰余享楽」、「器官なき身体」、「エクリチュール・フェミニーヌ」…)を連発しているわけではありません。「きっと、あたしもいつか子供のころの寂しさも、不条理な我が身への嘆きも、のばら様への複雑な気持ちも忘れてしまう」(385頁)という一文の目もくらむような美に逆らってでも、あえて立ち去りつつある作品を引きとめて真理を聞き出すためには、どうしてもこういう無粋な武器が必要なのです。この本は、きっと中高生には本能的に隅々まで理解できるものでしょうが、哲学者や精神分析家にとっては絶望的に難解です! 

(後篇)
そういえば日日日の貨幣論として、すでに『狂乱家族日記』のmillionという実例がありましたね…。大変面目ないが、うっかり失念していました。
ただ、無自覚なスピノザ主義者として、あるいはそれ以前に個性と自由を尊ぶ(尊ばざるをえない)芸術家(小説家)として、人間生活のあらゆる分野に規格化と平板化をもたらす貨幣経済という仕組みを手放しで肯定するわけにいかない、という日日日の基本姿勢は、millionと不解宮にまつわる諸々の事件からもうかがえるように思います。財力による平和の強制という不解宮ミリオン(百万子)の構想は、彼女自身の死という深刻な代償を伴いながら、端的な善というよりも少なからず独善の色合いを帯びたものとして実現をみているのだし(第10巻、第11巻)、また第12巻の正夢カジノにおいても、「野獣五連戦」における凶華の手助けといい、どうやら胴元(賭場の元締め)としての特権を駆使してか圧倒的な額の蓄財を背景に勝負を有利に進める乱命といい、あるいは地道にカジノで稼ぐ代わりに外部(不解宮)からの支援に頼る黄桜組の仁王像といい、決定的な場面ではむしろ反則が、あるいはそこまでいかないにせよ規則の裏をかくような作戦が鍵を握ることになるのは見落とせない点です。
もっとも、ともに外界に対して独立を保とうとする小天地である正夢カジノおよび鬼ヶ島におけるmillionの流通そのものは、不解宮の体現する世界大の(global)権力への抵抗という性格を持つものであって、そのかぎりでは、反グローバリゼーション運動の一環としての「地域通貨」に通じるものでしょう。貨幣経済という制度そのものをいきなり全否定するのではなく、あくまでもその内部で、時流に乗りきれない弱者やあぶれ者によりどころを提供しうるような、個性的な少数派の立場を目指す、という方針です。たしかに、自己の身体にまで入場と同時に問答無用で値段がつけられるというのは当事者の身になってみればおぞましい体験に違いありませんが、正夢カジノの描写の全体的な調子には、拝金主義の行き過ぎを真面目くさって糾弾するというよりも、面白おかしく戯画化することに徹している観があります。いずれにせよ、主催者である乱命本人の思惑はどうあれ、これは客観的には(作品の外にいる批評家にとっては)あくまでも世界政府とグローバリゼーションへの局地的な(local)抵抗であるというところに妙味(意義)があるように思います。
また、「誰も命を奪われることのない、恒常的な戦争状態」(第13巻309頁)という鬼ヶ島の構想は、ドゥルーズに影響を与えた人類学者ピエール・クラストルが、南米のインディオ社会の「求心的」ならぬ「遠心的」な諸制度を研究する中で見出した、中央集権的な国家の発生を未然に防ぐ叡智に重なるようなところがあり、これはこれで思想的に興味深いものです(注2)。
ドゥルーズとガタリの共著『千のプラトー』によれば、クラストルが教えてくれるのは国家に対する「戦争機械」の外部性であり、たとえ常識的な発想では前者(国家)の中の軍事機関という姿でないと後者(戦争機械)を思い描くことが難しいとしても、実は両者がもともと本性を異にしているということ、それどころか戦争機械は国家の形成を阻みさえするということです(注3)。それにもかかわらず国家は戦争機械を所有して政治的な目的に従属させようとするのであり、資本主義がもたらす総力戦は、この傾向の頂点であると同時に、逆に諸国家を部分とする一つの全体であるような、世界規模の戦争機械の出現を準備するものでもあります。こうなると地球全体の管理者として「戦争機械は目的すなわち世界平和を自分で引き受けたのであり」、「ファシスト的な死よりもおそらくもっとおそろしい平和」を目標とするようになるとともに、「他の国でも他の体制でもない新しいタイプの敵として『任意の敵』に狙いを定め、一度は裏をかかれても二度目には立ち直る反ゲリラ要員を特訓しているのだ…」(注4)というドゥルーズたちの文章は、1980年のものでありながら、対テロ戦争に熱中してきた21世紀の米国を、さらには、もともと戦争に次ぐ戦争で領土を拡張した過去がある上に、(これまたテロリストへの報復を主張しながら)新たに帝位に就いた不解宮のもとで社会が混沌や多様性を失ってひたすら均質化されてゆく『狂乱家族日記』の大日本帝国をも予言していたかのような、不気味な先見性を感じさせます。
座標も方向も知らない開放的な空間、すなわち平滑空間と、その反対の条理空間という区別に依拠しつつ、ドゥルーズたちはこのような世界規模の戦争機械に抵抗するものとして、戦争機械のもう一方の極、すなわち「戦争ではなく、創造的な逃走線を引くことと、平滑空間とその中における人間の運動の編成を目標にする」極に注目し、遊牧民の形象に託して、「この場合の戦争は国家に対して、そしてすべての国家によって表現される世界的公理系に対して戦いを挑むのである」と述べます(注5)。アナーキスト(無政府主義者)ドゥルーズの面目躍如たる一種の煽動文書であり、正夢カジノについで鬼ヶ島を描くときの日日日の心情的な立場も、おおむねこれに近いものではなかったかと私は想像します。
もっとも、第13巻の結末で乱命が「乱華」として乱崎家に迎え入れられると同時に、それまで鬼ヶ島という小社会を支配する主として彼女が思い描いてきた「恒常的な戦争状態」が、外延的な(extensive)規模の縮小と内包的な(intensive)凝縮度の高まりを伴いつつ、「千花‐銀夏‐乱華(=乱命)」という三角関係(恋の鞘当て)へと引き継がれることは決して見落とせない点です。これこそが、哲学的でも人類学的でもなくまさしく文学的な思考と名づけるほかない、あくまでも個性ある登場人物同士の関係を重視する小説家ならではの結論でしょう。

(付記)上で触れた女性の「剰余享楽」について、ラカンはマルクスの「剰余価値」になぞらえて説明しています(注6)。剰余価値とは何か。マルクスによれば、労働者の労働力に対して支払われた給料の額は、実は、日々の具体的な労働が結果として創造する商品の総体的な価値によって凌駕されるのであり、この差額から生じてくるのが、労働者への給料の支払いや原材料の購入費などですでに相当の額を散財している経営者ないし資本家にとっての、実質的な儲けとしての「剰余価値」です。すなわち、労働者には給料と同額に相当する量の商品を生産し終えた時点でただちに解放が訪れるというわけにはいかず、なお毎日何時間かの「剰余労働」を資本家の命で果たさなくてはならないのであり、その分の価値は当然ながら(給料として)労働者自身の懐に入ることはありません(これがマルクス的な「搾取」の概念です)(注7)。ただし、資本家は資本家で工場の設備の維持など、生産活動を続行し、あわよくば拡張していくためにも再び投資をする必要があるので、儲けをただ享受する一方というわけにはいきません。ラカンの類比の真意はつかみにくいのですが、このように当事者の双方、すなわち資本家からも労働者からも逃れ去る価値、という性格に彼が注目しているのは疑いえないところです。なぜならば、存在の充溢(母親との一体性)からの脱落に続く言葉の秩序の中への参入(父性の介入による象徴的去勢)という、そもそもの誕生の過程自体が主体に強いる、語りえぬ余計なものの発生、として剰余享楽は定義できるからです。原理上主体に必ず伴うこの空無を担うのがいわゆる「対象a」であり、十全なる存在という幻想を支える「欲望の原因」です。
福原泰平はこの間の機微を整理して、「主体は愛する父に叩かれた者として去勢され、斜線を入れられて消え去ると同時に、自己の存在を保証するものとしてのこうした幻想を手に入れる。この幻想の成立により、主体は楽園の存在を想定し、私というものの存在を確信することができるようになる」(注8)と述べています。したがって、『狂乱家族日記』の不解宮とmillionをめぐる一連の事件において、一方では銀夏(銀一)の過去に即して「私(息子)をいじめて男らしくしようとする父」という像が現れ(象徴的去勢の作用が主体の成立にとって不可欠であるのは、とりわけ男性の場合です)、他方では閻禍の思い出に託して「楽園喪失」の物語が示されると同時に、剰余価値(剰余享楽)を取り逃がすくせに貨幣経済の全能を信じきって疑おうともしない資本主義(不解宮)の独善に対しては、たとえあらわな批判ではないにせよ、少なくとも懐疑が表明される…という構成になっているのは、精神分析とマルクス主義双方の観点からしてかなり面白い事実です。
ただ、剰余価値は所詮資本主義の体制下では否定的に、陰画として想定するほかない(資本家も労働者もこれを手に入れることはできない)のに対して、後期ラカンによれば、女性や神秘家は、剰余享楽とは何かを知ることはないまま、もっぱら忘我の境地でそれを体験するのだ、ということになっています。これと同じ意味で、つまり女性の身に即した剰余享楽の否定的ならぬ肯定的な提示とともに、ともすれば教条的な調子を帯びがちな日日日流のフェミニズムが、例外的に猥褻なまでの具体性(生々しさ)を獲得しているという意味で、少なくとも享楽の問題系に関しては、『のばらセックス』はいわば約束に対するその実行よろしく『狂乱家族日記』に呼応しています。


(1)スピノザ『エチカ(下)』(畠中尚志訳、岩波文庫、2004年第43刷)9頁(第四部序言)。
(2)ピエール・クラストル『国家に抗する社会』(渡辺公三訳、書肆風の薔薇、1987年)。
(3)ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『千のプラトー 下』(宇野邦一・小沢秋広・田中敏彦・豊崎光一・宮林寛・守中高明訳、河出文庫、2010年)23-25頁。
(4)同書148頁。
(5)同書149-150頁。
(6)Jacques Lacan, Le séminaire XVI: D'un Autre à l'autre, Paris, Seuil, 2006, p.29.
(7)カール・マルクス『資本論―第2分冊』(資本論翻訳委員会訳、新日本出版社、1988年第8刷)330-333頁。
(8)福原泰平『ラカン―鏡像段階』(講談社、2005年)176頁。
スポンサーサイト

category: 『のばらセックス』

CM: 0 TB: 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://tsujiko692.blog.fc2.com/tb.php/76-3a1eb22b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。