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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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プルースト『囚われの女』 

『失われた時を求めて』の第五篇である『囚われの女』の後半部は、集英社文庫版(鈴木道彦訳、全13巻)では第10巻に相当する。その内容は、ヴェルデュラン夫妻のパリの館での夜会を舞台に、シャルリュス男爵が夫妻をさしおいて我が物顔で取り仕切る故ヴァントゥイユの七重奏曲の演奏と、これをきっかけとする「私」(話者)の藝術論の深化に続き、締めくくりとして、男爵がヴェルデュラン夫人の陰謀によって寵愛するモレル(ヴァイオリニスト)との仲を引き裂かれるという悲劇的事件が前半で描かれるのに対し、後半を占めるのは一転して「私」とその恋人であるアルベルチーヌとの同棲生活の模様であり、いまや好きなだけ贅沢ができても不自由なことでは囚人同然の暮らしに不満を募らせる中で、不実にして淫蕩な同性愛者という本性を隠しきれなくなってきた彼女と話者の間の軋轢が、とうとうアルベルチーヌの失踪という取り返しのつかない結末を迎えるまでのいきさつが追跡されている(この間、とある夕べに話者がアルベルチーヌに語る文学論は、プルースト自身の基本的な考えを述べたものとして興味深い)。

ただし、この記事は以下のごく短いくだりのための覚え書にすぎない。

Nous causâmes. Tout d'un coup nous entendîmes la cadence régulière d'un appel plaintif. C'étaient les pigeons qui commençaient à roucouler. « Cela prouve qu'il fait déjà jour », dit Albertine; et le sourcil presque froncé, comme si elle manquait en vivant chez moi les plaisirs de la belle saison: « Le printemps est commencé pour que les pigeons soient revenus. » La ressemblance entre leur roucoulement et le chant du coq était aussi profonde et aussi obscure que, dans le septuor de Vinteuil, la ressemblance entre le thème de l'adagio qui est bâti sur le même thème-clef que le premier et le dernier morceau, mais tellement transformé par les différences de tonalité, de mesure, etc. que le public profane, s'il ouvre un ouvrage sur Vinteuil, est étonné de voir qu'ils sont bâtis tous trois sur les quatre mêmes notes, quatre notes qu'il peut d'ailleurs jouer d'un doigt au piano sans retrouver aucun des trois morceaux. Tel, ce mélancolique morceau exécuté par les pigeons était une sorte de chant du coq en mineur, qui ne s'élevait pas vers le ciel, ne montait pas verticalement, mais, régulier comme le braiment d'un âne, enveloppé de douceur, allait d'un pigeon à l'autre sur une même ligne horizontale, et jamais ne se redressait, ne changeait sa plainte latérale en ce joyeux appel qu'avaient poussé tant de fois l'allegro de l'introduction et le finale. Je sais que je prononçai alors le mot « mort » comme si Albertine allait mourir. Il semble que les événements soient plus vastes que le moment où ils ont lieu et ne peuvent y tenir tout entiers. Certes, ils débordent sur l'avenir par la mémoire que nous en gardons, mais ils demandent une place aussi au temps qui les précède. Certes, on dira que nous ne les voyons pas alors tels qu'ils seront, mais dans le souvenir ne sont-ils pas aussi modifiés? (注1)

私の手で日本語に訳すと、こうなった。

私たちはおしゃべりしていた。突然私たちは一つの嘆くような呼び声の規則正しい調子を耳にした。鳩たちがくうくうと鳴き始めていたのだった。「してみるともう夜明けなのね」、とアルベルチーヌは言った。そしてほとんど眉をひそめんばかりにした、あたかも私のもとで暮らしていてはうるわしい季節の諸々の快楽を取り逃がしてしまうかのように。「鳩たちが戻って来たからには春が始まっているということよ」。鳩たちの鳴き声と鶏鳴との間の類似の深くてしかも不分明なことはちょうど、ヴァントゥイユの七重奏曲における、アダージョの主題と〔前後の残り二つの楽章の主題〕との間の類似と同じくらいだったのでありそれは最初と最後の曲(モルソー)と同じ鍵となる主題にもとづいて築かれたものではあるが、しかし調性や拍子等々の諸差異によってはなはだしく変形されているために素人の公衆は、ヴァントゥイユについての著作をひもとくと、それらが三つとも四つの同じ音符にもとづいて築かれているのを見て驚かされるのであり、しかもその四つの音符というのはピアノ上で一本の指で弾くことはできても三つの曲(モルソー)のどれ一つとして見出せはしないのだ。そのように、鳩たちによって演奏されるこの憂鬱な曲(モルソー)は一種の短調の鶏鳴だったのであり、これは空の方へと高まってはいなかった、垂直に登ってはいなかった、そうではなくて、驢馬の鳴き声のごとくに規則正しく、甘美さで包蔵され、一羽の鳩から別の鳩へと一本の同じ水平的な線の上を進行していた、そして決して身を起こすことはないのだった、その横ざまの嘆きをあれほど何度も導入部のアレグロとフィナーレが発していたかの喜ばしい呼び声へと変えることはないのだった。私はあたかもアルベルチーヌが近々死のうとしているかのように自分がそのとき「死」という語を発音したことを知っている。どうやら諸々の出来事というものはそれらが起きる瞬間よりも広大であるらしくてそこにすっかり収まりきるというわけにはいかないのである。たしかに、それらは我々が保存するそれらの記憶によって未来へとはみ出している、しかしそれらはまたそれらに先立つ時間にも一つの席を要求するのだ。たしかに、我々はそれらがやがて存在するとおりのありさまでそれらを見るわけではないと言われよう、しかし回想の中でもそれらはやはり変更されるのではないか。(注2)

そもそも冒頭からして「突然私たちは…」などといささか強引に始まる点は否めない上に、推敲が不完全なまま作者が没したという事情を反映してか文法的に怪しい箇所もあり―« la ressemblance entre le thème de l'adagio »云々というところがそれで、このままでは「アダージョの主題」と何との間に類似が存するのかが不明なので、やむなく亀甲括弧に頼り、「アダージョの主題と〔前後の残り二つの楽章の主題〕との間の類似」という風に補って訳した―、最後は一見脈絡なくアルベルチーヌの死の予感が割り込んでくるという具合で、ここだけ読めばあるいは散漫に思えるかもしれない。それどころか、原著巻末の「注記と異文〔Notes et variantes〕」を参照すると、ほかならぬプルースト自身がこのくだりに次のような但し書きをつけているそうである。曰く、「これはたぶん別の春の回帰の折、もっと以前、肉付けを要していそうなところにあったほうがよい。ここだとこれはたぶん無用である〔Ceci peut-être mieux à un autre retour du printemps, antérieurement, là où il y aura à étoffer. Ici c'est peut-être inutile〕」(注3)とのことで、作者にこのような判断を下されてしまうと、私としてもあまりこのくだりに執着するのは気が引ける。
けれども、他方でこの但し書きは当のくだりの内容の出来不出来に関しては何も述べていないし、実はこの但し書きもまた抹消の憂き目にあっているという事情からすると、どうやらプルースト自身にもこれをどこに排列するかという件に関しては迷いが残っていたらしい。であるなら、とりあえず校訂者の見識を信用し、刊本として世に出た版の一頁として、このくだりをも他の(無数の)頁と同等に尊重することはあながち過分な扱いではあるまい。というより、直筆の草稿を参照する機会もない一読者にすぎぬ私としては、結局そうする(つまり、校訂者を信用する)より他に選択肢がないのである。

さて、プルーストが、あるいは話者が認め、また認めさせようとしているような、ヴァントゥイユの作曲した七重奏曲と明け方の鳩の鳴き声との並行性とは一体いかなるものか。いや、読めば誰でもわかるとおり、並行性がこの二者の間に存するなどと考えては不正確に陥る。実際に比較されているのは、あくまで「鳩たちの鳴き声と鶏鳴との間の類似」と「ヴァントゥイユの七重奏曲における、アダージョの主題と〔前後の残り二つの楽章の主題〕との間の類似」、つまりは二つの項ではなくて二とおりの類似という関係であり(レヴィ‐ストロースなら「変換規則の束」とでも呼びそうである)、しかもどちらの類似も一目瞭然とはいかず、むしろ反対に「深くてしかも不分明〔profonde et aussi obscure〕」という点こそが両者の共通性であるとはっきり書いてあるからだ。
換言すれば、これはもはや常識的な意味では類似などというものではない。少なくとも素人の聴衆にとっては、七重奏曲―あいにく構成は明記されていないが、「三つの曲(モルソー)」という表現から、中間を緩徐楽章が占める三楽章形式であると推定できる―のアダージョの主題と両端楽章の主題との間には、ヴァントゥイユの研究書にあたらないかぎり到底見抜けないような極小の類似しかなく、ということはとりもなおさず、極大の差異が働いているに等しいわけである。だから、二つの関係の間に存する真の共通性とは、結局どちらの関係においても、一方の項と他方の項とが「似ても似つかない」ということなのだ。それでも話者が両者(鳩の鳴き声と鶏鳴との関係、ならびに七重奏曲のアダージョの主題と両端楽章の主題との関係)をともに「類似」と定義すること、ひいては鳩の鳴き声を「一種の短調の鶏鳴」として把握することが可能なのは、ひとえにヴァントゥイユの作曲の場合は、似ても似つかない三つの楽章が、いずれも根底に存する「四つの音符」に由来しているからである。この間の機微は、あるいは我々をドゥルーズの美学(そして哲学)の核心とも呼ぶべき、差異と反復の弁証法に導いてくれるものではなかろうか。現に、『プルーストと記号』の第一部第4章にはこんなことが書いてあるのだ。

 本質というものはただ単に特殊的で、個体的〔individuelle〕であるにすぎないのではなく、かえって個別化するもの〔individualisante〕である。本質はそれが具体化する場にあたる諸物質を、同じくまたそれが様式(スティル)の何重もの環の中に閉じ込めている諸対象をもそれ自体が個別化しまた規定する。ちょうどヴァントゥイユの赤みを帯びた七重奏曲や白色のソナタ、あるいはワーグナーの作品における美しい多様性がそうだ 。つまり本質とはそれ自体で差異なのである。しかしそれは多様化を生ぜしめ、かつ自らを多様化するような能力(プヴォワール)をば、自己と同一的に、自らを反復する力能(ピュイサンス)をも持つことなくして、持ちはしない。終極的な差異である、本質というものに関しては、なにしろそれは入れ替え可能ではなくて何ものもそれと置き換えられるわけにいかない以上、それを反復すること以外に人は何をなしうるはずがあろうか。それゆえ一曲の偉大な音楽は再演されることしかできないし、一篇の詩は、暗記され〔心によって学ばれ〕そして暗唱されるほかない。差異と反復は外見上でしか対立していない。その作品が我々に「同じだけれどしかも別だ」と言わせないような大藝術家などいはしないのだ。
 つまり差異は、ある世界の性質として、変化に富んだ数々の環境を踏破し、そして数々の多様な対象を結び合わせるような一種の自己反復を通じてしか確立される〔肯定される〕ことがないのである。反復はある起源的差異の諸々の度合を構成するが、しかしまた多様性は劣らず基本的なある反復の諸々の水準を構成する。一人の大藝術家の作品に関して、我々は言う。これは水準の差異を除けば、同じものであると―しかしまたこうも言う。これは度合の類似を除けば、別なものであると。真実には、差異と反復は分離不可能にして相関的な、本質の二つの力能(ピュイサンス)なのだ。ある藝術家は自らを反復するがゆえに老けこむのではない。というのも差異が、反復の能力(プヴォワール)であるのに劣らず、反復とは差異の力能(ピュイサンス)であるからだ。ある藝術家は、「脳の衰弱によって」、彼が自らの作品中でやむにやまれず表現してきたもの、彼が自らの作品によって判別しかつ反復してこなくてはならなかったものを、まるで既製品同然に、生の中に直接的に見つけることのほうをより簡単だと判断するときに老けこむ 。老けこみつつある藝術家は生に、「生の美しさ」に信頼を寄せる。しかし彼はもはや藝術を構成するものの代用品、外的である以上機械的と化している反復だとか、物質の中に再び陥ってしまってもはやそれを軽やかで精神的なものに変えるすべを知らぬ凝固した差異だとかしか持たない。生は藝術の二つの力能(ピュイサンス)を持っていない。生は両者を受容はしてももっぱらそれらを降格させるのみであるし、最も低い水準、最も弱い度合でしか本質を再生産してはくれない。(注4)

この一連の文章は、自然的な生に対する藝術の優位性という観点からも貴重なものである。実際、プルーストが執拗な半過去形の否定文に訴えつつ―「これは空の方へと高まってはいなかった、垂直に登ってはいなかった、そうではなくて〔中略〕一羽の鳩から別の鳩へと一本の同じ水平的な線の上を進行していた、そして決して身を起こすことはないのだった、その横ざまの嘆きを〔中略〕かの喜ばしい呼び声へと変えることはないのだった」―鳩たちの間の「横ざまの〔latérale〕嘆き」の連鎖を形象化するかのような文の姿態そのものを介して証明しようとしているとおり、自然的な生というものは、藝術作品(七重奏曲の両端楽章)の歓喜に満ちた垂直性とは対照的な水平性によって、かつまたその嘆かわしい水平性ですらも結局は比喩という藝術的な経路を通じてしか表現されえない(「一種の短調の〔en mineur〕鶏鳴」)という厳然たる事実によって、二重の劣等性を刻印されざるをえない。それどころか、始まったばかりの七重奏曲に耳を傾ける話者は、ヴァントゥイユの別の作品(ピアノとヴァイオリンのためのソナタ)における「鳩のくうくうという鳴き声〔roucoulement de colombe〕」との対比から、いま自分が聴いているものはむしろ「神秘的な鶏鳴〔un mystique chant du coq〕」のようなものだという印象を受けていたのであり(注5)、だとすれば鳩の鳴き声と鶏鳴との比較は、これ自体が、表向きは自然界の中で終始しながらもおそらく最終的にはヴァントゥイユの作曲家としての功績に数え入れられなくてはならないのである。
こうして、「鳩たちの鳴き声と鶏鳴との間の類似」と「ヴァントゥイユの七重奏曲における、アダージョの主題と〔前後の残り二つの楽章の主題〕との間の類似」という、二とおりの(類似の)関係は、何はさておきどちらの関係においても、実は一方の項と他方の項とが「似ても似つかない」ものであるがゆえに並行的でありうること、かつこの並行性は、前者(「鳩たちの鳴き声と鶏鳴との間の類似」)つまり自然の側にではなくて、後者つまり藝術(「ヴァントゥイユの七重奏曲における、アダージョの主題と〔前後の残り二つの楽章の主題〕との間の類似」)の側に根ざしており、したがって発見の方途としての人工的な技術への依存という偏りを免れがたいこと(そしてこの生に対する藝術の優位性を、七重奏曲と、ピアノとヴァイオリンのためのソナタとの対比が補強してくれること)、この二つの論点を確認した以上、七重奏曲の三つの楽章の主題はいずれも「四つの音符」に由来するというプルーストの説明からは半ば離脱することになるのを覚悟で、我々としては、七重奏曲を構成する「三つの曲(モルソー)」と鳩たちの歌う「憂鬱な曲(モルソー)」とは、本来いかなる上位の有機的な全体性に所属する部分でもなく、そのわけはそもそもその種の全体性が与えられることは決してありえないからだ…という点を強調してもかまわないのかもしれない。再びドゥルーズを参照するなら、これこそギリシャ的な理性(ロゴス)の君臨する世界との断絶において、『失われた時を求めて』が真に時間を題材(ないし主役)とする作品たりえた要因なのである。

 反対に〈時間〉を、対象〔objet〕とする、あるいはむしろ題材〔sujet〕とする一つの作品がある。それはもはや貼りなおされることのできない断片の数々を、同じ嵌め絵(パズル)の中に入りはせず、一つの先行的な全体性に所属してはおらず、一つの一体性から流出することはたとえ失われた一体性からであってもない破片(モルソー)の数々を関わり相手とし、自らとともに引きずっている。たぶんこれこそがかのもの、時間なのだ。適応させられることを潔(いさぎよ)しとしない、同じ律動に即して展開することのない、そして文体の河が同じ速度で押し流すことのない寸法も形態も相異なる部分らの終極的な実存なのだ。宇宙(コスモス)の秩序は崩壊し、数々の連想の鎖と数々の交流しない観点との中で細分された。諸記号の言語活動は不幸と嘘との資源へと還元され、それ自体のために語り始める。それはもはや存続する〈理性(ロゴス)〉に依拠してはいない。ひとり芸術作品の形式的構造のみは自らが使用する断片的な材料を、外的な指示〔référence〕なしに、寓意的もしくは類比的な格子なしに解読できることだろう。(注6)

ここでは「破片」と訳した「モルソー(morceau)」は、『囚われの女』から引用したくだりの訳文に現われる、七重奏曲を構成する「三つの曲(モルソー)」、および鳩たちの歌う「憂鬱な曲(モルソー)」と同じ語である。そして、このような破片と破片の間の関係は、友愛というよりも闘争に似ているのである。

 おそらくこのことこそが還元不可能な数々の繰り広げの律動や数々の折り解きの速度に即した、『失われた時を求めて』における調律されざる部分らのこの異常な押し流しを説明してくれるものである。ただ単にそれらが一緒になって一つの全体を組み立てることがないばかりでなく、それらはおのおのが〔もしあれば〕そこからそれが引き抜かれるはずのある全体、ある別な部分の全体からは異なる全体に関して、諸宇宙間の一種の対話において証言するようなことがないのだ。しかしそれらが世界の中に投影され、それらの照応することなき縁(ふち)にはおかまいなく一方らが他方らの中へと乱暴に挿入される際の力は、それらが双方とも部分として認知はされるが、それでいて一つの全体を組み立てることはたとえ隠された全体をであってもなく、数々の全体性から流出することはたとえ失われた全体性からであってもないというようにする。倦まずたゆまず数々の破片を諸破片の中に置き続けた結果、プルーストは我々にそれらを全員、ただしそこからそれらが派生してくるはずの、またはそれ自体がそれらから派生してくるはずの当のある一体性への参照〔référence〕は抜きで思考させる手段を見つける。(注7)

たしかに、破片と破片の間には、機械の働きという表現が何ら類比でなくなるような正真正銘の「共鳴」が成り立つこともあり、そこにはそれなりの生産的な成果が伴っているのではあるが、ただし、すでに破片同士の齟齬という時間の定義が予想させていたように、その成果はかつて見られたことのある対象の忠実な再現からはおよそ程遠いものであるほかはない。

共鳴の秩序はそれが活用する抽出のまたは解釈の諸能力(ファキュルテ)〔facultés〕によって、また生産の様態でもあるそれの産物の性質によって判別される。もはや集団のもしくは系列の、ある一般的な法則ではなく、ある単独的な〔特異的な(singulière)〕本質、想起に関する諸記号の事例においては局所的なもしくは局所化する本質、芸術に属する諸記号の事例においては個体化する本質だ。共鳴は諸部分対象によってそれに供給されそうな数々の破片に立脚してはいない。それはよそからそれのもとにやって来そうな数々の破片を全体化することはない。それはそれ自体がそれ自身の諸破片を抽出する、そしてそれらをそれらの固有な合目的性〔finalité〕にしたがって共鳴させるが、しかしそれらを全体化するのではない、なにしろつねにある「格闘」が、ある「闘争」ないしある「戦闘」が問題であるからだ。そして共鳴の過程によって、共鳴用の機械の中で生産されるもの、それは単独的な〔特異的な(singulière)〕本質、共鳴する二つの瞬間よりも上等な〈観点〉であり、一方〔の瞬間〕から他方〔の瞬間〕へと赴く連想の鎖とは絶縁しているのだ。その本質における、かつて生きられはしなかったようなコンブレー。いまでかつて見られたためしがないような、〈観点〉としてのコンブレーである。(注8)

この共鳴の秩序と、プルーストが劣らず関心を払う「死の観念〔l'idée de la mort〕」との間に認めうる、一見したところ解決しがたい矛盾は、この観念そのものを、過去から現在への運動の対にほかならない逆方向の運動、すなわち現在から過去への運動の産物として把握することで藝術作品の形式的な構造の中に位置づけるとともに、時間の可視化という特有の役割を持たせることで雲散霧消するという。なんとなれば、そもそも死の観念は「ある一定の〈時間〉の効果から成り立つ」からである。

一人の同じ人物の二つの状態が与えられ、一方は回想される古い状態、他方は現働的な状態であるとすると、一方から他方へかけての老化の印象は古いほうを「はるか遠いという以上に、ほとんど本当らしからぬある過去の中に」、あたかも地質学上の数々の紀(ペリオド)が流れ去らなくてはならなかったかのように後退させる効果がある。というのも「流れ去った時間の鑑定においては、厄介なのは最初の一歩だけだからだ。人はまずはこれほど多くの時間が過ぎ去ったということを、そして次にはそれ以上多くの時間は過ぎ去らなかったということを思い描くのに多大な苦労を経験する。人は十三世紀がかくも遠いということを決して思い浮かべてはこなかった、そしてその後はなおも十三世紀の教会が存続しえているということを信じるのに苦労を覚えている」。それだからある過去から現在へという、時間の運動は、逆方向への、あるより振幅の大きな強いられた運動〔un mouvement forcé d'amplitude plus grande〕で二重化を遂げるのであって、それは二つの瞬間を一掃し、両者の隔たりを際立たせ、そして過去をいっそう遠く時間の中へと押し戻す。時間の中で一つの「地平」を構成するのはこの第二の運動である。それを共鳴のこだまと混同してはならない。それは時間を無限に膨張させるが、対して共鳴は時間を最大限に縮約するのだ。死の観念というものはこうなれば一つの切断であるというよりもある混淆もしくは混同の効果である、なにしろ強いられた運動の振幅は死者らによってと同じく生者らによっても占められており、皆が死につつある者らで、皆が半ば死んでいるか墓場へと走りつつあるからだ。しかしこの半分の死〔cette mi-mort〕とはまた、度外れな振幅のただなかで、人間たちを怪物じみた存在者として描写することができる以上巨人らの背丈なのでもあって、連中は「彼らに対して空間の中に取っておかれるじつに制限された席よりも別して広々とした一つの席を〈時間〉の中で占める、それは反対に度を越して延長された席なのだ、なにしろ彼らは同時的に、巨人らのごとく、諸々の歳月の中に浸(つ)かり、彼らによって生きられた、かくも離れたあまたの時代に触れるからである―それらの時代の間にはこれほど多くの日々が配置されにやって来た―時間の中で」。こうなると、ほかならぬそのことによって、我々は反論ないし矛盾を解決する寸前にある。死の観念はそれをある生産の秩序に結びつけなおすこと、ゆえにそれに藝術作品の中で持ち前の席を与えるということが可能であるかぎり一つの「反論」であることをやめる。振幅の大きな強いられた運動は後退の効果もしくは死の観念を生産する一つの機械である。そして、この効果の中で、可感的になるのは時間それ自体である。(注9)

おそらく、本来ならば生命の復活の季節であるはずの春の到来を、それも黄昏時ならばまだしもよりによって新たな一日の始まりを告げる明け方に悟りつつ、なぜか早くもアルベルチーヌの死を予感してしまう『囚われの女』の話者の脳裏に思い浮かんだ、出来事の範囲はそれが実際に起きる(と、我々から認められる)瞬間だけに収まりきるものではなく、本当はその瞬間以後にも、いやそれどころかその瞬間以前にも際限なく延長していくことが可能であるという直観―「どうやら諸々の出来事というものはそれらが起きる瞬間よりも広大であるらしくてそこにすっかり収まりきるというわけにはいかないのである。たしかに、それらは我々が保存するそれらの記憶によって未来へとはみ出している、しかしそれらはまたそれらに先立つ時間にも一つの席を要求するのだ。たしかに、我々はそれらがやがて存在するとおりのありさまでそれらを見るわけではないと言われよう、しかし回想の中でもそれらはやはり変更されるのではないか」―は、このような観点から読み直すことができるはずである。というよりも、「私はあたかもアルベルチーヌが近々死のうとしているかのように自分がそのとき『死』という語を発音したことを知っている」という一文から察するに、ほかならぬ当の予感こそが、その憂愁をたたえた不吉な表情の奥から、いつか話者もしくは読者によって、「逆方向への」、つまり現在から過去への「あるより振幅の大きな強いられた運動」の行先として然るべく読み直されることを待ち望んでいたのではないか。
もちろん、ストア派と同じくドゥルーズにとっても、そもそも出来事(événement)とは物体の表面で繰り広げられる非物体的な効果にほかならず、その時間は限界づけられた現在(クロノス)としてではなく、過去と未来への無際限な引き裂き(アイオーン)として理解されなくてはならないという事情も無視できないし(「西尾維新『零崎人識の人間関係 戯言遣いとの関係』」)、そう考えてくればプルーストの時間論とドゥルーズの出来事論との親和性をいっそう基本的な層で概念化することもできそうだが、短い断章に対してあまりくだくだしく注釈を連ねるのもなにやら無粋な気がするので、そのあたりは他日を期して検討することにしたい。擱筆に先立ってとりあえず忘れないうちに書き留めておきたいのは、第一に「魂の不死性の可能な唯一の証拠」を提供してくれなくてはならない、非物質的な本質による物質の「脱物質化」の事例としての藝術(注10)と、「私や私の身体と極限的ないし確定的な関係にあるもの、私の内で設立されるものであり、同時に、私と無関係なもの、非身体的で不定で非人称的なもの、それだけで設立されるもの」である死(注11)という、両極端と呼んでよい二とおりの受肉の仕方が両方とも姿を見せる点で、このくだりが出来事の非物体的・非物質的な地位をこれ以上なく簡潔に裏書きしてくれること、そして第二に、それゆえ作者の逡巡はいざ知らず、『囚われの女』の刊本のどこかに今後とも残されてよいだけの哲学的な価値を、私としてはどうしてもここに認めざるをえないこと、この二つである。


(1)Marcel Proust, À la recherche du temps perdu, texte établi par Pierre Clarac et André Ferré, Paris, Gallimard, « Bibliothèque de la Pléiade », 1954, III, p.401.
(2)なお集英社文庫版で該当する箇所は、『失われた時を求めて 10 第五篇 囚われの女』(鈴木道彦訳、2007年)377-378頁にある。
(3)Marcel Proust, À la recherche du temps perdu, III, op. cit., p.1092.
(4)Gilles Deleuze, Proust et les signes, Paris, P.U.F., 2007, p.62-64: « L'essence n'est pas seulement particulière, individuelle, mais individualisante. Elle-même individualise et détermine les matières où elle s'incarne, comme les objets qu'elle enferme dans les anneaux du style: ainsi le rougeoyant septuor et la blanche sonate de Vinteuil, ou bien la belle diversité dans l'œuvre de Wagner. C'est que l'essence est en elle-même différence. Mais elle n'a pas le pouvoir de diversifier, et de se diversifier, sans avoir aussi la puissance de se répéter, identique à soi. Que pourrait-on faire de l'essence, qui est différence ultime, sauf la répéter, puisqu'elle n'est pas remplaçable et que rien ne peut lui être substitué? C'est pourquoi une grande musique ne peut être que rejouée, un poème, appris par cœur et récité. La différence et la répétition ne s'opposent qu'en apparence. Il n'y a pas de grand artiste dont l'œuvre ne nous fasse dire: "La même et pourtant autre"./C'est que la différence, comme qualité d'un monde, ne s'affirme qu'à travers une sorte d'auto-répétition qui parcourt des milieux variés, et réunit des objets divers; la répétition constitue les degrés d'une différence originelle, mais aussi bien la diversité constitue les niveaux d'une répétition non moins fondamentale. De l'œuvre d'un grand artiste, nous disons: c'est la même chose, à la différence de niveau près ― mais aussi: c'est autre chose, à la ressemblance de degré près. En vérité, différence et répétition sont les deux puissances de l'essence, inséparables et corrélatives. Un artiste ne vieillit pas parce qu'il se répète; car la répétition est puissance de la différence, non moins que la différence, pouvoir de la répétition. Un artiste vieillit quand, "par l'usure de son cerveau," il juge plus simple de trouver directement dans la vie, comme tout fait, ce qu'il devait distinguer et répéter par son œuvre. L'artiste vieillissant fait confiance à la vie, à la "beauté de la vie"; mais il n'a plus que des succédanés de ce qui constitue l'art, répétitions devenues mécaniques puisqu'elles sont extérieures, différences figées qui retombent dans une matière qu'elles ne savent plus rendre légère et spirituelle. La vie n'a pas les deux puissances de l'art; elle les reçoit seulement en les dégradant, et ne reproduit l'essence qu'au niveau le plus bas, au degré le plus faible ».
(5)Marcel Proust, À la recherche du temps perdu, III, op. cit., p.250.
(6)Gilles Deleuze, Proust et les signes, op. cit., p.136-137: « Au contraire une œuvre qui a pour objet, ou plutôt pour sujet, le Temps. Elle concerne, elle traîne avec elle des fragments qui ne peuvent plus se recoller, des morceaux qui n'entrent pas dans le même pazzle, qui n'appartiennent pas à une totalité préalable, qui n'émanent pas d'une unité même perdue. Peut-être est-ce cela, le temps: l'existence ultime de parties de tailles et de formes différentes qui ne se laissent pas adapter, qui ne se développent pas au même rythme, et que le fleuve du style n'entraîne pas à la même vitesse. L'ordre du cosmos s'est effondré, émietté dans des chaînes associatives et des points de vue non communicants. Le langage des signes se met à parler pour lui-même, réduit aux ressources du malheur et du mensonge; il ne s'appuie plus sur un Logos subsistant: seule la structure formelle de l'œuvre d'art sera capable de déchiffrer le matériau fragmentaire qu'elle utilise, sans référence extérieure, sans grille allégorique ou analogique ».
(7)Ibid., p.148-149: « C'est sans doute cela qui rend compte de cet extraordinaire entraînement de parties inaccordées dans la Recherche, à des rythmes de déploiement ou des vitesses d'explication irréductibles: non seulement elles ne composent pas ensemble un tout, mais elles ne témoignent pas chacune d'un tout dont elle serait arrachée, différent du tout d'une autre, dans une sorte de dialogue entre les univers. Mais la force avec laquelle elles sont projetées dans le monde, insérées violemment les unes dans les autres malgré leurs bordures non correspondantes, fait qu'elles sont reconnues les unes et les autres comme parties, sans composer pourtant un tout même caché, sans émaner de totalités même perdues. A force de mettre des morceaux dans les morceaux, Proust trouve le moyen de nous les faire penser tous, mais sans référence à une unité dont ils dériverraient, ou qui en dériverait elle-même ».
(8)Ibid., p.182-183: « L'ordre de la résonance se distingue par les facultés d'extraction ou d'interprétation qu'il met en jeu, et par la qualité de son produit qui est aussi bien mode de production: non plus une loi générale, de groupe ou de série, mais une essence singulière, essence locale ou localisante dans le cas des signes de réminiscence, essence individuante dans le cas des signes de l'art. La résonance ne repose pas sur des morceaux qui lui seraient fournis par les objets partiels; elle ne totalise pas des morceaux qui lui viendraient d'ailleurs. Elle extrait elle-même ses propres morceaux, et les fait résonner suivant leur finalité propre, mais ne les totalise pas, puisqu'il s'agit toujours d'un "corps à corps," d'une "lutte" ou d'un "combat." Et ce qui est produit par le processus de résonance, dans la machine à résonner, c'est l'essence singulière, le Point de vue supérieur aux deux moments qui résonnent, en rupture avec la chaîne associative qui va de l'un à l'autre: Combray dans son essence, tel qu'il ne fut pas vécu; Combray comme Point de vue, tel qu'il ne fut jamais vu ».なお、コンブレーは『失われた時を求めて』の話者が幼少期を過ごした(架空の)田舎町で、そこの風物や人々は第一篇『スワン家の方へ』の前半部に詳しく描かれている。
(9)Ibid., p.190-192: « Deux états d'une même personne étant donnés, l'un ancien dont on se souvient, l'autre actuel, l'impression de vieillissement de l'un à l'autre a pour effet de reculer l'ancien "dans un passé plus que lointain, presque invraisemblable," comme si des périodes géologiques avaient dû s'écouler. Car "dans l'appréciation du temps écoulé, il n'y a que le premier pas qui coûte. On éprouve d'abord beaucoup de peine à se figurer que tant de temps ait passé, et ensuite qu'il n'en ait pas passé davantage. On n'avait jamais songé que le XIIIe siècle fût si loin, et après on a peine à croire qu'il puisse subsister encore des églises du XIIIe siècle." C'est ainsi que le mouvement du temps, d'un passé au présent, se double d'un mouvement forcé d'amplitude plus grande, en sens inverse, qui balaie les deux moments, en accuse l'écart, et repousse le passé plus loin dans le temps. C'est ce second mouvement qui constitue dans le temps un "horizon." Il ne faut pas le confondre avec l'écho de résonance; il dilate infiniment le temps, tandis que la résonance le contracte au maximum. L'idée de la mort dès lors est moins une coupure qu'un effet de mélange ou de confusion, puisque l'amplitude du mouvement forcé est occupé aussi bien par des vivants que par des morts, tous des mourants, tous à demi morts ou courant au tombeau. Mais cette mi-mort est aussi bien stature de géants puisque, au sein de l'amplitude démesurée, on peut décrire les hommes comme des êtres monstrueux, "occupant dans le Temps une place autrement considérable que celle si restreinte qui leur est réservée dans l'espace, une place au contraire prolongée sans mesure, puisqu'ils touchent simultanément, comme des géants, plongés dans les années, à des époques vécues par eux, si distantes ― entre lesquelles tant de jours sont venus se placer ― dans le temps." Voilà que, par là même, nous sommes tout près de résoudre l'objection ou la contradiction. L'idée de la mort cesse d'être une "objection" pour autant qu'on peut la rattacher à un ordre de production, dont lui donner sa place dans l'œuvre d'art. Le mouvement forcé de grande amplitude est une machine qui produit l'effet de recul ou l'idée de la mort. Et, dans cet effet, c'est le temps lui-même qui devient sensible[...]».なお引用符でくくられた文章は、どちらも第七篇『見出された時』が出典である。
(10)Ibid., p.56-57, 60-61, 64.
(11)ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 上』(小泉義之訳、河出文庫、2007年)264頁。
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