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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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日日日『のばらセックス』6 

日日日の『のばらセックス』における人称の問題について、すこし考えてみたい。

まず、下記の引用をお読みいただこう。

 会わなくちゃ。
 あたしを異性として愛し、同時に子供として見てくれた、あのひとに。
 ―何で生まれてきたのだ。
 ねぇ、あたし今なら応えられる気がするの。(348頁)

おそらく、最後の二行はこの作品の中で最もまばゆく、詩的な美しさに輝く部分である。
その理由は一体なぜか。

この引用文を含む章(「いつかは散る薔薇」)は基本的におちば様の視点から、一人称(「あたし」)でつづられている。そうである以上、「―何で生まれてきたのだ」という文章は露骨に浮いており、本来ならば例外であり、統一を乱す異分子であろう。
もちろん、かつて実際に母親であるのばら様(正体は緒礼だが)から発せられた「おまえ、何で生まれてきたのだ―」(45頁)という問いかけのことをここで話者(おちば様)が思い出しているのは間違いない。しかし少なくとも意味内容に関するかぎり、「何で生まれてきたのか、あたしはずっと疑問だった。/でも、今なら答えられる気がする」と書いたところで等価なはずだ。にもかかわらず、このように書き換えてしまえば原文の精彩は著しく損なわれ、数段見劣りするように思える。

考えてみれば虚構におけるキャラクターの生というものは、それ自体としては現実世界にとって、全く余計な存在でしかない。
とはいえただ漫然と生きているのではなく、何かのために、極力その何かのためだけに生きるということ、そのような凛然たる姿勢を一生にわたって貫ける人物などじつは現実においても稀なのだけれど、その反動でか往々にして虚構のキャラクターはただ生きているということを許されず、筋書の中でなにがしかの役割を果たすことを強いられる。いや、反動ではなくて、漫然と生きるしかない現実の我々がせめてもの指針を虚構に期待しているということなのかもしれない。そこらへんは場合次第だと思う。
まあいずれにしても、放っておいても勝手に殖える現実の動物たちと違って虚構のキャラクターは作者の脳髄から生まれてきた素性の怪しい連中なので、そのぶん自らの身分について釈明を求められる程度が強い、ということは一般論として成り立ちそうな気がする。
だからこそ、一個の個人として「ただ生きている」ことをよしとしてもらえる状況が、逆説的にも虚構のキャラクターにとっては一種の贅沢たりうるのであり、近年の虚構作品はそのような状況の達成をわりと風潮として目指しているのではないか。その意味ではこの逆説は、もはや定番と呼んでよい逆説だ(形容矛盾だけど)。
『のばらセックス』においてはこの問題(キャラクターの実存の根拠という問題)は、周囲の男性たちがおちば様(あるいは、女性一般)に期待する役割をことごとくはねつけつつ、彼女が最終的に自身の意志で、女性が「ただ生きていられる」状況を創設する、という風に落ち着く。
虚構内のキャラクターならではの強い使命感を「ただ生きている」境地と両立させる、手堅い解決であろう。
むしろ、どうあがいてもキャラクターは「ただ生きている」だけの存在でもありえなければ(連中は二次元の外で自由意思を行使できない!)、役割に終始する存在でもありえない(いわゆるリアリティの必要とか、「日常パート」というやつだ)ことを思えば、この両立それ自体、すなわち二つの立場の間の緊張それ自体を虚構というものの本性として素直に受け入れるべきなのかもしれない。

で、だ。
引用文の末尾の二行は、この緊張関係を、人称の操作を通じて紙面にみごとに定着させていると思えるのだ。
「―何で生まれてきたのだ」は一見して明らかなとおり実存の根拠についての、普遍的な、ゆえに非人称的な、誰のものともしれぬ詰問であり、とはいえその響きは「あたし」の一人称に取り囲まれた中ではかなりこわもての、日本語の慣用として権力を持つ成人男性のそれと判断してよさそうな趣がある。これに対して少女である「あたし」が答える、いや正確には「応えられる気がする」と言っているわけで、要するにただ返事をしているだけである。正答の提出ではなく、単なる応答なのだ。「ねぇ(…)気がするの」という語り口にしてからが、聞き手を強く意識しており、相手あっての口調であることは明らかだろう。
たとえ外部から押しつけられる役割をしゃにむに拒否っても、我々は「自分は一体何のために生まれてきたのか」という問いに無視を決め込むことはできなくて日々もがき、日々あがく。この忌々しくも普遍的な詰問に対して、一人一人が自分の生涯を通じて自分なりの応答を試みなくてはならない。そして少なくともそのあいだだけは、虚構内のキャラクターと我々とは同じ平面上にいて、同じ悩みや予感を共有している。
結局、上記の引用文の美しさとは、実存の根拠に対する普遍的な問いかけと、それへの単独的な応答の試みというこの構図、虚構の原理にしてしかも人生そのもののような構図を非常に的確に可視化しているところに起因するのだろう。そう考えた上でさらにもう一歩踏み込むと、キャラクター(作者の娘にして恋人)が作者に会いたいと言っているようにも読めてしまうのだ、おもしろいことに。
まあ、一人称でならしちゃうと問答っぽくないし、この時点でおちば様に自分の人生の「答え」がはっきり見えちゃうとネタバレになってまずい、というもっと即物的な説明もできるけど。

ともあれ『のばらセックス』の読者は「人生はまるでこの小説のように大変だ」と言い、あるいは「人生はこの小説のように美しい」と言うことができる。
こんなにすばらしい小説は、めったにない。
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category: 『のばらセックス』

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