Admin New entry Up load All archives

つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

category: スポンサー広告

CM: -- TB: --   

フランス・ブリュッヘンの来日公演(2013年4月) 

130508_0035~01
四月に経験した私的な大事件といえば、なんといっても引っ越しだった。
たぶん借家住まいの人は誰しも経験がおありだろうが、完璧に「理想どおりの部屋」というのはなかなか見つからないものだ。どうせ引っ越し自体が避けられないなら家賃は安く、部屋は広く、交通の便はいまよりもよく…と虫のよい希望をいろいろと思い描いたところで、実際には必ずや妥協を余儀なくされるのが世の常である。最終的にはいくつかの候補の中から、私なりの基準で判断して他よりましと思えた物件を「エイやっ」と気合で決めたわけなのだが、これにしても線路が目と鼻の先にあるのと妙に室外の通路が狭いのとが気にかかる。また、都心に近い分定期券代が格段に安くなるのでその点はたしかにありがたいのだが、どうも自分の生活を振り返ってみると、実はもっと郊外の住み家を選んだほうが、定期券の区間内で好きなだけ公立図書館目当ての下車ができるという意味で、かえってお得だった可能性もあるのだ。まあ、これまで住んでいた部屋と比べれば、新しい住み家は一応いましがた挙げた三つの条件をいずれも満たしているし―つまり、より安く、より広く、より交通の便がよいというわけである―、「住めば都」という気持ちで鷹揚にかまえておればよいのだろう、きっと(どうしても我慢できないようなら半年後にでもまた引っ越せばよいだけの話だし。財布はその分痛むけどな!)。
ただし、これまた借家住まいの人には周知のことだろうが、部屋を選ぶのは厄介ではあっても、それなりの楽しさも伴う経験である。それよりも閉口したのは引っ越しの具体的な作業、つまり荷物を梱包して運搬するという作業のほうだ。新居まで電車を乗り継いでせいぜい30分ほどしか要しないのを幸い、引っ越し会社の人に任せるのは気が引けた趣味関係の品は何回かに分けて極力自分で運ぶことにしたのだが、いくつもの段ボール箱にぎっしりつまった本や同人誌の重いこと重いこと。でかいショルダーバッグを用意したので箱のまま抱きかかえて運ぶよりは楽だったが、よしんば重さには目をつぶるとしても、巨大な角ばった荷物を肩から下げていると足腰の動きを阻害されることはなはだしい。脚をまっすぐ前に踏み出すことができず、歩けないのだ。いやはや、あんなもの一人で持ち運ぶものではありませんな。皆も、変な意地を張らずに同人誌や本も引っ越し会社に任せるか、もしくは日頃から趣味の品々の運搬を手伝ってくれそうな友人を作っておくのがお勧めだよ!
…なんだかこの話題を続けていると私の思慮のなさ加減と天涯孤独っぷりを衆目にさらすだけの痛い結果に終わりそうなので(というか、もうそうなっている)、この辺でやめておこう。わざわざバッグを用意するにしても、なぜせめて路上を押して運べるキャリーバッグにしなかったのやら、思い返すほどに謎は深まる一方である…。

そんな全く個人的なごたごたに追われていたにもかかわらず、どうしても行きたい催しがあった。フランス・ブリュッヘンの来日公演である。会場はいずれもすみだトリフォニーホールで、4月5日こそ諸事情によりあきらめざるをえなかったものの(この日の曲目はモーツァルトの交響曲第40番とショパンのピアノ協奏曲第1、2番で、ピアノ独奏はユリアンナ・アヴデーエワさんだった)、18世紀オーケストラを率いた4日と6日の演奏、および15日の新日本フィルとの一夜は幸いにして聴くことができた。
曲目の選択に関しては異存がないわけでもない。まず、第一夜(4日)はベートーヴェンの交響曲第2番と第3番「英雄」だったのだが、世評はどうあれ、不幸にして私には、ブリュッヘンの音楽作りがベートーヴェンの曲とすごく相性がよい…という風には思えないのだ。どうせならハイドンを指揮してほしかった。私がいまだに、「モーツァルトやベートーヴェンもたしかにすばらしいが、ハイドンは彼らとは別格の、はるかに偉大な作曲家である」と、ごく自然に感じ、ごく当然のこととして信じているのは(そうでない他人が大勢いることを知ったときは実に衝撃的な思いがした)、間違いなく、ブリュッヘンと18世紀オーケストラによるハイドンの交響曲集(Philips、図1参照)をさんざんCDで聴いたからなのだ。あくまでも私見だが、モーツァルトの演奏にしても、録音に耳を傾けるかぎり、「リンツ」や「ハフナー」のような中期の交響曲のほうが、第40番や「ジュピター」より聴きごたえがあるように思う。おそらく、どこまでも均整と中庸を守りつつときおりほどほどの諧謔を織り交ぜてくる古典派的な形式美の世界に、これでもかとばかりに激烈な気迫で魂を吹きこみ、枠組に衝突するのをものともしないで力いっぱい暴れてみせるのがブリュッヘンの本領なのであって、ベートーヴェンのようにもともとあくの強い―そしてその点で彼に近い―作曲家が相手だと、このような流儀が作品そのものにうまく浸透していかず、一種の自家中毒とでも呼ぶべき結果をもたらしてしまうのではなかろうか。それでいて、第103番「太鼓連打」のフィナーレがなにやらフラクタル図形の生成を目の当たりにしているような不思議な快感を与えてくれることからもわかるように(マルク・ミンコフスキとルーヴル宮音楽隊の演奏では、フレージングの切り方がせっかちすぎてこうはいかない)、ハイドンの交響曲だと規模がちょうどよいのか、なぜかブリュッヘンは赫々と燃え盛りつつも形式への精妙な感覚が冴え渡るようなのも見落とせない点だ。

(図1)
130507_2352~01
なんだか放言が過ぎるようで書いていて申し訳なくなってきたが、とにかくそんなわけで、私には当日会場の席に座った時点で、いまだ古典派の合理主義的な世界からベートーヴェンが脱しきっていない交響曲第2番のほうが、おそらく自分には「英雄」よりも違和感なく聴けるはずだという予感があった。そしてそれは的中した。第2番はいかにも試行錯誤というか、ベートーヴェンが彼独自の個性を確立する以前の時期の曲であって、軽妙で喜劇的な名作ではあるけれど、いわば調子の悪いエンジンがその場でぶるんぶるんとうなりをあげているような、どこかもどかしい単調さもある。古楽オーケストラとしては欧州随一であろう強力なティンパニと金管を擁した18世紀オーケストラの硬質な響きは、それを目もくらむような垂直の偉容に変貌させてしまう。不気味な真剣勝負のひとときだった。対して「英雄」は、CDを聴いたときと同様、第一楽章でしばしば急に遅くなる箇所が出てくるのにどうにもついていけない(もちろん遅いこと自体は別に欠点ではない。例えばクレンペラーやチェリビダッケのように一貫して遅いテンポを採用した場合には、それはそれで風格があって立派な「英雄」になるものだ)。なるほど、過去の名演として知られるもの、例えばフルトヴェングラーの録音からもテンポの急変は聞こえてくるが、あれは不世出の天才指揮者の名人芸という点を度外視するとしても、何はともあれ曲そのものの自然な呼吸に即した伸縮であるのに、ブリュッヘンの場合は、どうやらにぎやかなところは速く、弦楽合奏のみの部分は遅く…といった感じで機械的に緩急を決めているのか、かなり人工的な趣だ。痩せた響きの古楽器を用いながらこのような工夫を凝らすと、一つの楽章としての連続性が危うくなる。たとえるなら、勢いよくプールの壁を蹴って泳ぎ始めたはずの人が、なぜか何度となく動きを中断し、プールの底に足をつけてあてどなく佇立してしまう光景を見ているようで、暗中模索という意味での新鮮さは伝わってくるにせよ、いまいち気分が乗り切れない。古楽系の「英雄」としては、エマニュエル・クリヴィヌとラ・シャンブル・フィルハーモニック(naïve、図2参照)のほうが、あるいはトーマス・ヘンゲルブロックと北ドイツ放送交響楽団のほうが、前者は過剰な力みを排した終始速めのテンポで洗練された利口な演奏を繰り広げているという点で、また後者は、自身も弦楽合奏の歴史を熟知した指揮者が物理的に高性能な現代楽器群に古の奏法を仕込むことにより、極小から極大への、そして極大から極小への空前の劇的振幅―これぞ「英雄」の革新性であるとばかりに意気込んでブリュッヘンが狙ったはずの獲物―を、一貫性を失うことなく表現の中に定着しえているという点で、あるいはまさっているのではないか。一音一音を徹底的に管理せずには気が済まないらしいブリュッヘンの強烈な意志は、本来ならば第二楽章の悲愴な葬送行進曲でこそ威力を発揮するかとも思えるが、あいにく今度は第一楽章とは逆で、概して粘りが足りないというか、一貫してテンポが速めなので妙にあっさりした印象が生まれてしまう。また、物語的な展開にさほど思い入れがなさそうな彼の指揮のもとでは、後半の二つの楽章、特にフィナーレの変奏曲が、局所的には鮮烈な反面でやや流れが滞りがちで、ときに唐突とも感じられた。もともと「英雄」は全曲を一体のものとして破綻なく演奏しようと思うと何かしら知恵を絞る必要が出てくる曲のはずだが、ピエール・モントゥーやヘンゲルブロックと比べると、その手の大局的な視野は、ブリュッヘンの関心の中であまり大きな割合を占めてはいないようだ。

(図2)
130507_2352~02
三日目、つまり6日の曲目は、シューベルトの交響曲第7(8)番「未完成」と、メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」の二曲だった。やはり曲の規模の問題か、シューベルトのほうが凄絶な名演だったように思う。私の考えるブリュッヘンの真骨頂は、一見健康そうな曲を誰にも真似のできない悪魔的な色で染め上げてしまうところにあった。そして、だからシューベルトなら交響曲第2番、メンデルスゾーンなら交響曲第4番「イタリア」あたりを演奏してほしい、あるいはいっそシューマンの第1番「春」か第2番、もしくはブラームスの第2番か第3番を聴きてえ、どうか聴かせてくだせえあたしのブリュりん、いやさブリュッヘン様…などと事前には思っていた。ところが、そんな身勝手なお願いをたちどころに粉砕してしまうような、聴く者を震えおののかせる「未完成」だったのだ。やはり比較的第一楽章は遅めで第二楽章は速いのだが、このような形式的に不備のある作品の場合だと、それが全体的な統一感を高める結果になっていたのが面白い。奏者たちは全員目が座りきっており、次の瞬間の我が身の安泰など毛ほども気にかけず、ひたすら一瞬一瞬の音に命がけで没頭していた。とりわけコントラバスの、曲の幕開けを告げる邪悪この上ない音色と、一糸乱れぬピチカートは忘れがたく、その後も何度か夢に見た。その瞬間の音に全身全霊を賭することによってこそ、何ら矛盾も不自然さもなく時間的な推移を表現できることがあるのだという一見逆説的な真理を、ただの一吹きの間に絶望の底から儚い希望へと転じるホルンが教えてくれるのだった。聴き終えてしばらく、私は拍手ができなかったことを告白せねばならない(このように恐るべき音楽に対して、軽々しい賛美の表明で応えるほかない自分の立場が無力に思えて歯がゆかった)。つづくメンデルスゾーンではこの生真面目さと一体感の強さが裏目に出たか、やはり短調の作品とはいえ演奏が曲想から微妙に乖離している感じを受けた。CDではペーター・マーク指揮オルケスタ・シンフォニカ・デ・マドリードの演奏(ARTS、図3参照)が定評のある名盤ということになっているのは、たぶん適度な投げやりさないし粗さが、滝のごとき自然な勢いを生みつつ随所で構造的な興味にも応えてくれる(内声部の動きを透かし見ることを可能にしてくれる)からではないかと思うのだが、ブリュッヘンの類稀な求心力が束ねる名人揃いの18世紀オーケストラには、狂的な推進力はあっても隙というか余裕は(ほとんど)ない。それでも第二楽章が民族舞踊風の爽快な活気というよりは死の舞踏のような怪しい雰囲気を漂わせていたのは面白かったし、しかもそれでいて、総じて明らかにベートーヴェンのときよりも流麗で情感のこもった仕上がりになっていたのは、あながち楽譜のせいばかりではあるまい。各楽器の音色もまろやかになり、調和が増していた。18世紀オーケストラの響きが、持ち前の個性を保ったままでもののみごとに初期ロマン派の語法を自家薬籠中のものとし、いわば「19世紀オーケストラ」に変身していたのだ。

(図3)
130507_2353~01
最終日(15日)にブリュッヘンが指揮したのは新日本フィルハーモニー管弦楽団で、曲はシューベルトの交響曲第5番と、第8(9)番「ザ・グレイト」だった。第5番ではところどころで統率がやや不完全だったり、心もちリズムが曖昧になったりしたようでもあったが、それでも十分にすばらしい。なにより「ザ・グレイト」が、大きな感銘を与えてくれた。この曲は、ブリュッヘンと18世紀オーケストラによるシューベルトの交響曲全集(Philips、図4参照)の中で唯一私が抵抗感を覚えたもので、「ブリュッヘン印」とでも呼ぶほかない、さながらアンドロイドの筋肉繊維のきしみに耳を傾けているような心地になる猟奇的な音色といい、フィナーレの何かに憑かれたかのような常軌を逸した疾駆といい、あまりにも強すぎる表現意欲がどこか空回りしているように聞こえたものだ。だが、新日本フィルはもちろんブリュッヘンの子飼いではないし、そもそも生粋の古楽オーケストラではない。それゆえに指揮者の意図との間に適度な距離感が生まれえたのだ…などと書くとなんだか穿ちすぎの上、これ以前から共演を重ねてきた両者に失礼な気もしてくるが、ともかく18世紀オーケストラほど凶暴でも筋肉質でもなく、踏み込みが深くないことが結果的には好ましい方向に作用したというか、えぐさを軽減するように働いたのではないか(指揮者の方向性は全然違うが、ギュンター・ヴァントとベルリン・ドイツ交響楽団の「ザ・グレイト」が名演であるのと少し似た事情なのかもしれない。ついでながら、当日見たかぎりでは、新日本フィルの弦楽奏者は他の楽団と比べて女性の占める割合がかなり高いようだった)。といっても決して微温的なわけではなく、日本のオーケストラからはそう頻繁に聞けるとも思えない、ごつごつしたたくましいトゥッティの響きを堪能できたのは貴重な経験だった。

(図4)
130507_2353~02
いずれの公演でも、ブリュッヘンは歩行に難があるらしく、車椅子に乗って入退場し、指揮の間もずっと椅子に腰かけていた。こんなことを書くのが許されるかどうか迷うのだが、正直なところ、見ていて鬼気迫るものがあった。痛々しく折れ曲がった枯木のような痩躯は、かつて私が録音を通じて、ハイドンの疾風怒濤期の交響曲群や、第82番「熊」をはじめとするパリ交響曲集、第88番「V字」に第92番「オックスフォード」、そしていまだに比肩するもののないロンドン交響曲集(特に第100番「軍隊」や第101番「時計」)の演奏に何度となく耳を傾けながら、憧れの中で思い描いていた颯爽たる英姿とはかなり違う。その事実が、無性に愛おしかった。稀代の藝術家の実演に生まれて初めて接したから―そして、もしかするとこれが最後かもしれない―という理由はもちろんあるが、きっとそれだけではない。私が感じていたものは一体何だったのだろう。敬老精神でもない。気力への気力、への尊敬であったか(ここ、書き損じではありませんことよ)。「ある英雄の思い出のために」―こんな副題をいまさらのように思いつきで記事に追加しても、どうにも恰好がつかないのである。
ありがとう、ミスター・ブリュッヘン。
スポンサーサイト

category: 音楽

CM: 0 TB: 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://tsujiko692.blog.fc2.com/tb.php/66-83867190
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。