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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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日日日『蟲と眼球とテディベア』 

私の友人で日日日の愛読者を自認するくせに『ささみさん@がんばらない』(小学館、ガガガ文庫)にはやけに批判的なのがいる。
彼女曰く、
「『どうせおまえらオタクはこんなラノベが好きなんだろ、ほらほら解読しろよ考察しろよ』と言わんばかりで、読者をなめている。いかにもお金のために書いてますという感じで、仕掛けがあざとくて浅い」
「毎回あまり印象の変わらない話が漫然と数珠つなぎになっているだけで、全体的な発展性が乏しい」
「文章がときどき味気ない説明に終始してしまい、スカスカで挿絵負けしていることがある。まるでこれから上演すべき芝居の粗筋に、ほんの申し訳程度に小説風の味付けを施しただけのものを読まされているような気になる。日日日らしい切迫感を欠いた、『アニメ化する以外に仕方がない』作品」
「あとアニメ版もこれはこれでところどころ気に食わん。お兄ちゃん(神臣)は声が若々しくなさすぎて本気でキモいし、『いししししっ』は絶対早口で尻上がりに発音したほうがいい!」
…等々、なのだそうだ(ただしアニメのかがみと呪々さまは及第点とか、なにやら言い訳がましい補足をほざいていたような気もする)。
さすがにみかねた私が「いや、別に日日日もうちらのため(だけ)に小説書いてるわけじゃないし、つーか何を以て日日日らしさとするかなんてうちらが勝手に決めることじゃなくね? おちば様も『何も見ずに聞かずに語らずに、ただ受けとるだけだったあんたたちに、今さらあたしのすることに文句なんて言わせない!』(注1)って、憤慨してたよね? 大体あんた、そんな暴言吐いておきながら日日日の愛人になれると思ってんの? 馬っ鹿でー。内助の功って知ってる?」と問いつめると赤面して黙りやがった。あらかわいい。

かくのごとく私としては友の暴言の数々に同調するわけにいかないのだが、とはいえ彼女の言い分も、まあほんの少しはわかる気がしなくもないのだ。とりわけ「アニメ化する以外に仕方がない」作品という形容は、ずいぶん礼を失した言いぐさながら、『ささみさん@がんばらない』のある種の急所にそれなりに届いているようにも思える。
例えばOP曲ひとつとっても、『狂乱家族日記』の場合は、さながら電波状況が悪くて雑音が混じる携帯電話に耳を傾けているような心地を抱かせる冒頭からして顕著な言語の細分への意志を引き継いでか、「良き/賢・い/女とはいまの日々を/自・由/気ままに/謳歌してる・姿をいう。自/分らの/幸せが世界のため。/『独/裁主義』/それは最高/級の褒め言葉」という箇所が、その挑発的なまでに人工的で聴く者の頭がおかしくなりそうな区切り方(「自分ら」や「独裁主義」など、ことさら凝集力に富む単語を寸断している)によって、作品の主題そのもの、すなわち見ず知らずの者同士で作る疑似家族―これはそのまま、ファミリーロマンスを相対化する隣人愛的な社会関係の縮図たりうる―の中でのいわば離散的な紐帯の解明という課題を体現しているのみならず、歌詞の内容に目を転じると、生物的にはまぎれもない男性であり、狭義のフェミニストとも呼び難い著者の姿勢にそれでいて一貫している(はずである)ものの、『のばらセックス』に至って初めて十全に開花した「女性性」がすでに看破されている点でなんとも興味深いものであった。ここには、以前からこのブログでちょくちょく参照してきたベンヤミンのアレゴリー論(「日日日『大奥のサクラ 現代大奥女学院まるにっ!』」他)に通じる思想的な奥行きもまぎれもなく感じられる。それと比べると『ささみさん@がんばらない』の音楽に対しては、いささか行儀がよすぎるというか、「こぎれいなアニメを彩るこぎれいな曲」として魅力的ではあっても、それ以上に訴えかけてくるものがいまいち少ないという、ないものねだり的な物足りなさを(わがままとは知りつつ)覚えてしまう瞬間があるのだ。

その『ささみさん@がんばらない』との対比で特にどうこうということを主張したいわけではなかったのだが、彼女の言葉がきっかけとなって『みにくいあひるの恋』や『ギロチンマシン中村奈々子』や『アンダカの怪造学』や『魔女の生徒会長』や、あれこれいろいろと読み返してみたところ、不覚にも『蟲と眼球とテディベア』の、どこまでも清澄で端正な、それでいて馥郁たるというか芳醇なというか、いかにも「これから何かが起きるぞ」と予感させてくれる文のたたずまいに涙した。

 道を歩く賢木の姿を見てある者は立ち止まり、ある者は指まで差して信じられないというような嬌声(きょうせい)をあげる。
 男も女も、彼の姿を直視した者は数秒思考能力を奪われ、ポウっと立ち尽くし彼の顔を見つめ呆然(ぼうぜん)としてしまう。もちろん彼とは賢木愚龍(さかきぐりゅう)である。宇佐川鈴音のアパートを目指しぐんぐんと歩く彼を中心に、波紋のように騒ぎが広がり、賢木はそんなざわめく群集を意にも介さずひたすらに歩く。
 アメリカ人の母の遺伝で太陽に透ける金色の髪。きっちりとした目鼻だち。整いすぎた黄金率の肉体。ちゃらちゃらした服を好まない賢木はいつもスーツを着ているが、鈴音の家に行くときだけは目一杯おめかしをする。おめかしをすると何故(なぜ)だかいつも芸能人だと誤解され、サインをよこせサインをよこせと群衆が押し寄せてきたりする。高校教師のサインなどもらってなんの意味があるのだろうといつも思う。確かに自分は芸能人みたいな名前をしているが、芸能人ではない。
 そこは田舎町なので商店街を抜けるとそんな群集もいなくなり、静かに流れる凸凹した道を賢木は徒歩で移動する。自転車かバイクを使えば早かったのだがせっかくセットした髪が崩れるのが嫌で、賢木は歩いてアパートに向かっている。どうせそんなに遠くない。新しく買った綺麗(きれい)な服を何度も確認する。似合っているだろうか。どうも若者向けの服は着ていると落ちつかない。しかし『スーツでお誕生会』もアレだろうからひとまず我慢する。それにスーツを着ていると嫌でも教師な気分になってしまう。鈴音と二人でいるときくらいは教師という殻を脱いでいたい。
 このあたりは駅が遠いので住宅が少ない。用途不明なだだっ広い空き地が持て余されている。建っている家もどことなく古風で、未(いま)だ瓦葺(かわらぶ)きの屋根が多い。二一世紀に突入したというのにここら近辺はまだ時が止まっている。
 そんなことをとりとめもなく思考していると。
「もし。もし、おにいさん」
 と、どこかから自分を呼ぶ声がした。男性の裏声のような。女性の低声のような。
 声を振り返ると、小さな空き地に奇妙な出店(でみせ)が存在していた。
 出店。と呼ぶのだろうか―あるいは露店か。釘(くぎ)打ちされた幕の向こうに一人の人物が座っている。紫色のビニールテント。そこでちょこんと胡座(あぐら)をかいて、綺麗(きれい)に装飾が施されているローブのようなものをまとったそいつは静止している。表情はフードで隠れて見えない。男か女かもわからない。他(ほか)にもシートには買えば高そうな大きい水晶玉が置かれていて、人物はそれを大切そうに布の切れ端で磨いている。その正面にはプラカードが設置されており、読んでみると『占い。一〇〇円。』と簡素な文句が書かれていた。
「占い―」
 なんでこんなところで。賢木(さかき)は不思議に思った。占いなら商店街かどこかで―というか、こんな田舎町でやるような商売じゃないだろう。そもそも一回一〇〇円で生活ができるのだろうか。様々な疑問が浮上してくる見事に胡散(うさん)臭い出店だった。(注2)

なるほど、無理に難癖をつけようとすれば、そつがない代わりに取り澄ましていて個性が足りないとか、整った文体で書いてやろうとする作者の気負いが―微妙なぎこちなさを通じて(注3)―見え隠れして多少息苦しいとか、そういう評言は可能なのかもしれない。
けれども、そんな難癖に何ほどのことができよう。これらの孤高な頁は、傷口のように開いた我々の生という底知れぬ深淵の上で初々しく緊張し、絶え間なく吹き寄せる烈風に耐えて隅から隅までビリビリと震動している。その凛々しさ。清潔さ。
いましがた引用した箇所の中に出てくる「もし。もし、おにいさん」という台詞―「もしもし。おにいさん」ではない―の絶妙な呼吸(句点と読点の使い分け)といい、「賢木はお金のことなら心配するなもっといい部屋に住めと何度か言ったのだが」の読点も鍵括弧も排した一気呵成といい(注4)、「賢木は予想もしていなかったので思考することもできず、ただ鈴音の温かな手とか、唇とか、心臓の音とかを無為に感じていた」の「無為に」といい(注5)、「無我夢中で足を動かし走りにくいダートを駆けた」の「ダート」といい(注6)、「まるでコレダと思う答えは浮かばず」の「コレダ」というカタカナ表記といい(注7)、「グリコは、へちゃっと潰(つぶ)れたように鈴音に頭を預けた」の「へちゃっ」という擬態語(「ぺちゃっ」ではない)といい(注8)、「さても迂闊(うかつ)だったか」のいささか古雅な「さても」といい(注9)、「世界に浸透する美しい声」という体言止めといい(注10)、「そいで仕方なく」の「そいで」といい(注11)、読む者にほとんど肉体的な愉悦を与えてくれる、ツボをわきまえた指圧師の妙技さながらの魅力的な言葉たちを数え上げていけば本当にきりがない。せいぜい二、三時間もあれば読了できてしまう、ごく薄手の文庫本だというのに。また、二回にわたって鈴音自身が書いたメールの文章が引用されて、ともすれば賢木にかしずかれ、守られる一方であるために稀薄になりかねない彼女の存在感を抜かりなく補強してのけるかと思えば(注12)、間の抜けた笑劇風の小事件を報告したり登場人物の主観を超えた視点を喚起したりする文脈ではとぼけた、あるいは大胆な講談調へと地の文がすいすい変化し(注13)、その一方で作品の寓意的な核心を形作る原罪の教理は、授業中の教師の口調をそのままに再現する自由間接話法を通じていつの間にかすんなりと読者の頭に定着している(注14)…という具合に、柔軟に切り替わる叙述の妙にも思わず溜息が出る。
たとえもがきながら一歩一歩手探りで進む書き手の気負いは感じられるにしても、それすら切なくなるほどに愛おしい。なにしろここでは、認識と生の二者択一を迫られるたびに、生についての認識(しかも学知の平静さとは対照的に、生に近いことでは比類がない認識)というどうしようもなく屈折した道を―生業として―一生選び続けるほかない孤独な小説家の葛藤らしきものすら、グリコを悩ませる眼球への両価的なこだわりという形で作品内に捕捉されてしまっているのだから。なんと老獪で周到なことよ。

《……あなたは眼球が好きで嫌いだ》
 グリコは言葉を口にしない。
《無限の時を生きるあなたの眼球はすでに光を喪(うしな)い澱(よど)んでいる。だからあなたは綺麗(きれい)な眼球を抉(えぐ)りたいと思っているんだ。あなたは綺麗な瞳(ひとみ)を求め、そして奪いたいと願い、また綺麗な瞳で見られることを恐れてもいる。嫉妬(しっと)。恐ろしいパラドックス―あなたのその嗜好(しこう)は人間からは遠すぎる。眼球抉子。なかなか的を射た自称じゃない―》(注15)

それほどにも他人の無邪気な視線に身を焦がし、憧れてきたグリコが、にもかかわらず賢木愚龍と宇佐川鈴音のために「全(すべ)ての非日常」を回収すべく、意を決して泣きながら二人の面前で見せる異形の正体は(注16)、虚構世界の創作が気楽な遊戯ではなくて劫罰に似た苦闘の連続にほかならぬことを暴露して、もののみごとな自己完結性までも作品にもたらす。一切の苦楽をもっぱら自らの魂の奥底から汲み上げてしまい、それ以外の源泉は頑として認めようとしない、作家という生き物の神々しい傲慢さ。その取り付く島もない、まばゆいばかりの痛々しさ。あまつさえ「グリコはサジを投げかけていた」(注17)だの「グリコのおまけ」(最終話「見ないで」の次の章の表題)だのと、微笑を誘う言葉遊びも控えめながら随所に配され、心憎いばかりの可憐さに輝いている。

個人的には、『のばらセックス』こそ明治以後の日本語の散文藝術の全歴史を通じて、最も美しく、最も崇高で、最も形而上学的含蓄に富むもの、なかんずく最も倫理的に真剣なものと考えている私だが、作者の自己評価はいざ知らず、ほとほと『蟲と眼球とテディベア』の丁寧さにも敬愛の念を禁じえない。しかも、これは決して余人には手が届かぬ天才の仕事というわけではないのだ。こう述べたからといって別段批判のつもりでないということは、愛する兄に捨てられてから見違えるように美しくなった茜子が口にする、「……努力したに決まってるじゃない」(注18)という絞り出すような一言が耳の底にこびりついて離れない人なら誰しも理解してくれることと思う。『蟲と眼球とテディベア』を再読している間、私は努力が我々をどれほどの完成へと高めるものかを教わり、人間の精神に秘められた成長力に畏怖の感情を抱いた。そして、このような本との出会いこそがこの世に生きていることの喜びの最たるものであると信じ、その喜びを噛みしめた。そればかりでなく、読者を叱咤激励して各自の生の方へと押し出す得体の知れぬ力に、これでもかこれでもかと始終どつきまわされる思いがした。
となると、あまり一方的に友人をやりこめたのはやはりまずかったのかもしれん。あとで謝っとこう、うん。


(1)日日日『のばらセックス』(講談社、2011年)286頁。
(2)日日日『蟲と眼球とテディベア』(メディアファクトリー、2005年)22-24頁。なお、「群集」と「群衆」の混在は原文のままである。
(3)例えば、「もちろん彼とは賢木愚龍である」という一文は、すでに直前の段落で「賢木」なる苗字が登場しているという事実とはあまり折り合いがよくないはずだし、「そこは田舎町なので」から始まる段落の直後に、「このあたりは駅が遠いので」というよく似た書き出しを持った段落が続くのも、人によってはやや一本調子と感じるのではないか。注意して読まないと気にならない程度の問題ではあろうが、ともあれこの種のかすかなぎこちなさは、私には一段落書き終えるごとに呻吟を再開する作者の熟考の軌跡を残しているように思える。
(4)日日日『蟲と眼球とテディベア』(前掲書)32頁。
(5)同書41頁。
(6)同書52頁。
(7)同書125頁。
(8)同書135頁。
(9)同書200頁。「迂闊」の「迂」の字体は、原文ではしんにょうの点が二つではなくて一つなのだが、表示できないようなので引用に際して改めた。
(10)同書231頁。
(11)同書245頁。
(12)同書14-15、103-104頁。
(13)同書83、180-181、205-206頁。
(14)同書108-110頁。
(15)同書196-197頁。
(16)同書236-239頁。
(17)同書67頁。「グリコ」こと眼球抉子(がんきゅう・えぐりこ)は、実際にスプーンを投擲して戦う。
(18)日日日『みにくいあひるの恋4』(メディアファクトリー、2010年)266頁。
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コメント

Re: タイトルなし

喇叭ラッパーさん、初めまして。

新房監督とシャフトはねえ…『化物語』の場合だと、どう考えてもそのままでは動画にしづらい本文とイラストをアニメに翻訳するにあたって、思い切って登場人物の姿態を生々しく描いてみたり、いかにもという感じの「前衛風」の演出を入れたりと色々工夫を凝らした結果が功を奏したようですが、『ささみさん@がんばらない』に関してはそれほど事前に方法論を突き詰めることをしなかったのかどうか、とにかく視聴者の中には、こんなにオシャレに仕立てなくても…という違和感を覚えた方が一定数いそうですね。
もう少し、ローティーンを意識した様式的な子供っぽさ(幼稚さではない)があれば、そしてその子供っぽさが、単なる天真爛漫な発露としてではなく、例えるなら自分で自分に麻酔なしで整形手術を施すといった趣の痛々しさをどこかに伴って現われていれば、「日日日のアニメ」らしさが増したような気はします(この「らしさ」とは一体何かというのは、さしあたり問わずにおくとして…)。ちなみに私は『狂乱家族日記』のアニメ版からは、ほとんど原作を読んでいるときと変わらない印象を受けるのですが、いま改めて考えてみるとなかなかこれは稀有のことなのかもしれません。
ま、なんだかんだで私は友人ほど短気ではないので、「きれいだなー、かっこいいなー」とか思いながら結局アニメ版『ささみさん@がんばらない』も楽しく見させていただきましたよ。

さて、お尋ねの件についてです。
こういう表現は語弊があるのかもしれませんが、とりあえず『蟲と眼球と白雪姫』に関しては、「この世界の神=ここまで叙述されてきた物語の作者は芥川白雪(宇佐川鈴音)だった」、という、いわゆる夢オチの類と考えておけば、特にそれ以上の込み入った問題は生じないのではありませんか。この際わざわざ「語弊」を気にしたのは、少なくとも私の実感としては、「夢オチだから駄目な小説である」とは少しも思えず、むしろ「夢オチなのに立派な小説である」というところにこの作品の生命が存していそうだからなのですが、その理由を検討し始めるとたぶんあなたの問いの趣旨から外れることになるので、ここでは検討しないことにします。
むろん一般論としては、神の本性、創造行為、造物主と被造物との関係、自己意識、虚構の果たす役割、等々の問題が、神学や哲学や精神分析にとって重要であることは否定できませんが、我々をしてそのような問題について考えさせる日日日の作品は、何も『蟲と眼球…』に限らないはずです。というか、「私が神である」とは一体どういうことを意味するのかを具体的に知りたいのであれば、何はさておきまずは『ささみさん@がんばらない』を丹念に読み返すのが順当なところではないか、という気がします。
あと、もう暇で暇で他に何一つやることがない!…みたいな時に、このブログの目次から、『ビスケット・フランケンシュタイン』や『ささみさん@がんばらない』や『大奥のサクラ』に関する過去の記事を開いて拾い読みしてくださると、もしかしたら何かご参考になるような記述が見つかるかもしれません(なお、17世紀ドイツの哲学者ライプニッツが、人間は創造的であるかぎりにおいて一人一人が小さな神のようなものだ、という意味の主張を残しているのですが、総合的に考えて日日日に近いのはむしろ彼の論敵に相当するオランダのスピノザである、というのが私の判断ですので、できれば日日日論の中でライプニッツを引用するのは避けたいところです。他人様にはどうでもよいようなこだわりですが)。

とまあ、こんな不親切な返事をほざいておきながら、後日『蟲と眼球と白雪姫』についてもしゃあしゃあと記事を作って、ボルヘスの『アヴェロエスの探求』やアラン・ロブ‐グリエの『迷路のなかで』や谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱』や西尾維新の『囮物語』などと比較しながら何かしらとりとめのないことをうだうだ書いてしまう可能性は我ながら否定しきれませんから、もし見つけたらその際は笑って見逃してください。

コメント、ありがとうございました。

くるまつじこ #- | URL | 2013/04/26 21:29 - edit

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