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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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古井由吉訳『ドゥイノの悲歌』への疑問 

リルケ(Rainer Maria Rilke, 1875-1926)の『ドゥイノの悲歌』〔Duineser Elegien〕(1923年)第9歌の中に、次のようなくだりがある。

Sind wir vielleicht hier, um zu sagen: Haus,
Brücke, Brunnen, Tor, Krug, Obstbaum, Fenster, ―
höchstens: Säule, Turn...aber zu sagen, verstehs,
oh zu sagen so, wie selber die Dinge niemals
innig meinten zu sein. Ist nicht die heimliche List
dieser verschwiegenen Erde, wenn sie die Liebenden drängt,
daß sich in ihrem Gefühl jedes und jedes entzückt?
Schwelle: was ists für zwei
Liebende, daß sie die eigne ältere Schwelle der Tür
ein wenig verbrauchen, auch sie, nach den vielen vorher
und vor den Künftigen..., leicht.(注1)

なるべく行の順序を崩さず我流に訳出すると、こうなった。

我々がこの世にいるのはことによると、言うためなのだ。家、
橋、泉、門、甕、果樹、窓と、―
せいぜいのところ、円柱、塔と…しかし言うためなのだ、理解せよ、
おお言うためなのだ、諸々の物自身は決してそのように
有るつもりで心底いたわけではない有様を。ひそかな策略ではないのか
この無口な大地の、それ〔大地〕が恋人たちを駆り立てるとき、
彼らの感情の中で一つ一つの物が恍惚となるのは。
敷居。一体何事であるのか二人の
恋人たちにとって、彼らが自家の扉の年古りた敷居を
少しばかりすり減らすということは、彼らもまた、以前の大勢の後で
また将来の者らに先立ってだが…、軽々となのだ。

高安国世訳は、岩波文庫版『リルケ詩集』によればこうだ。

私たちがこの世に在るのは、おそらく言うためなのだ、
家、橋、泉、門、水差し、果樹、窓、―
たかだか円柱、塔と……だが、言うためなのだ、
おお、物ら自身、かつてそのように存在したと
しみじみと考えたこともないほどに言うためなのだ。寡黙(かもく)な
大地のひそかな策略ではないのか、愛する者たちをうながし、
その感情の中でどの物も歓喜にふるえるようにするのは。
たとえば敷居、愛し合う二人が自分の家の戸口の、やや古びた敷居を、
以前の多くの人々や、のちにくる人々と同じように
ほんのわずか磨(す)り減らすこと……ああ、かろやかに、
二人にとってそれはなんという意味を持つことだろう。(注2)

さらに手塚富雄訳を、やはり岩波文庫版の『ドゥイノの悲歌』から引用する。

だから、たぶんわれわれが地上に存在するのは、言うためなのだ。家、
橋、泉、門、壺(つぼ)、果樹、窓―と、
もしくはせいぜい円柱、塔と……。しかし理解せよ、そう言うのは
物たち自身もけっして自分たちがそうであるとは
つきつめて思っていなかったそのように言うためなのだ。恋するものどうしが大地の力にうながされて
心に情感のみなぎるとき、そのいぶきをあびて、物たちの一つ一つが歓喜にみちて躍動するのは
言葉を発するすべをもたないこの大地のひそかなたくらみなのではなかろうか。
たとえば閾(しきい)。愛しあう二人は、昔からある扉口(とぐち)の閾を
かれら以前の多くの人、またかれらより後の人々と同様に
すこしばかり踏みくぼめるが、それは二人にとって
通常の閾だろうか……、いや、かろやかに越える閾なのだ、(注3)

なお、最後の読点(、)は句点(。)に改めるべきかとも思うが、一応原文の体裁を尊重しておく。
いかがだろうか。巧拙や読みやすさの違いはお感じになることだろうが、内容上はいずれもそう変わらないと思う。
しかし同じ箇所が、古井由吉の手にかかるとこうなる。『詩への小路』(書肆山田)所収の、「ドゥイノ・エレギー訳文 9」と題された散文訳からの引用である。

われわれがこの世にあるのは、おそらく、言葉によって語る為だ。家があった、橋があった、泉があった、門が、壺が、果樹が、窓があった……と。せいぜいが、円柱があった、塔があった、と。しかし心得てほしい。われわれの語るところは、物たち自身が内々、おのれのことをそう思っているだろうところとは、けっして同じではないのだ。恋人たちの心に迫って、その情感の中で何もかもがこの世ならぬ恍惚の相をあらわすように仕向けるのも、滅多には語らぬ現世の、ひそかなたくらみではないのか。敷居はある。たとえ恋人たちがそれぞれ昔からある自家(いえ)の戸口の敷居をいささか、踰えることによって擦り減らしたところで、二人にとって何ほどのことになる。以前の大勢の恋人たちに後(おく)れて、以後の恋人たちに先立って、自身も痕跡を遺すだけのことではないのか……かすかに。(注4)

おそらく誰しも、これを上記三つの訳文と読み比べれば相当異なる印象を受けるはずである。
古井の翻訳を経由した結果、「我々は物たちの真実を、物たち自身には思いも及ばぬほど深くきわめて歌わなくてはならぬ」という趣旨の―私にはそうとしか思えないし、手塚も訳注でそう判断している(注5)―詩句は反転し、「我々が物たちについて何を歌おうと、それは物たちが物たち自身について思っているところとは似ても似つかぬ空論にすぎぬ」という悲観的な断念に変わる。
そしてそのため、詩人が言葉によって遂行すべきわざを大地は恋人たちの感情を通じて実現している、とでも表現できそうな等式に立脚する、「恋人たちにとって、自分たちが踏み越える敷居は何たる(すばらしい)意味を持つことか。彼らは(余人とは心がまえが違うので)敷居をかろやかに踏む」という趣旨の、例外的な感激に満ちた瞬間を表す詩句―私にはそうとしか思えないし、これまた手塚も訳注でそう判断している(注6)―も、「恋人たちが敷居を踏んだところで何の意味があるのか(何の意味もない)。彼らも(やることといえば余人と同様に)敷居をかすかに踏みしめるのみ」という、何ら特別なところのない月並みの生と、それゆえの倦怠や諦念を表す詩句に変わってしまう。
たしかに個々の詩句に関しては両義的な性格が強く、天秤のようにどちらに傾けて読むことも可能かもしれないが、それでも全体の続き具合を考えればやはり、リルケ自身は詩人が歌うための肯定的な根拠を、逆説を通じて模索しているのであって、ともすれば甘美な頽廃を夢見てしまう古井の訳だと意味が通りにくい箇所が頻出してしまう。
それともこれはわざとだろうか。だとすればかなりひねくれているが、詩人の務めを啓示するはずの「……言うためなのだ」という表現を「われわれの語るところは……」と訳して現状の解説に改変したり、そもそも原文にない「痕跡を遺すだけのことではないのか」という問いかけを追加してまで詩行を諦念一色で塗りつぶそうとするのは、そうとでも考えないとあまりに不可解だ。

もう少しあとのくだりを読めば、そのあたりの事情はいっそうはっきりするかもしれない。

Zeig ihm, wie glücklich ein Ding sein kann, wie schuldlos und unser,
wie selbst das klagende Leid rein zur Gestalt sich entschließt,
dient als ein Ding, oder stirbt in ein Ding, ― und jenseits
selig der Geige entgeht. ― Und diese, von Hingang
lebenden Dinge verstehn, daß du sie rühmst; (注7)

これも、まずは我流に直訳してみよう。なお、「彼の者」とは天使を指す。

彼の者に示せ、いかに一つの物が幸福でありうるかを、いかに負い目なくしかも我々のものでありうるかを、
いかに嘆き訴える苦悩すらも純粋に形象たらんと決意し、
一つの物として仕え、あるいは一つの物の中へと死ぬかを、―そして彼岸で
浄福に与りつつヴァイオリンから流れ出るかを。―そしてこれら、逝くことによって
生きる物たちは理解する、おまえがそれらを褒めたたえることを。

ついで、再び高安国世訳を参照する。

彼に示すがいい、どんなに物らが幸福になり得るかを、どんなに無邪気に、そして私たちのものとなり得るかを。
嘆き訴える悩みすらどんなに純粋に形姿へと決意するかを、
物として仕え、あるいは物の中へはいって死ぬかを―、そして彼方(かなた)で
浄福に満ちた音色として提琴から流れ出るかを。そして、これら滅びゆくことによって
生きている物らは理解する、おまえが彼らをほめたたえることを。(注8)

さらに、手塚富雄訳はこうである。

天使に示せ、ひとつの物がいかに幸福に、いかに無垢(むく)に、そしていかにわれわれの所有になりうるかを。
歎きうったえる苦悩さえ、いかにそれが形姿(けいし)たらんと至純の決意をし、
一つの物として仕えるか、または死んで一つの物に入り込むか―そして、その死ののちに
いかに至福のひびきをもって提琴から流れ出るかを。そして移ろいを糧(かて)として生きている
これらの物は理解するのだ、おまえがかれらをたたえていることを。(注9)

同じドイツ語の詩句を訳しているのだから当然といえば当然だが、やはり、どれも内容上はそう大きく違ってはいない。
ところが、古井訳を以上三種類の訳文と読み比べると、そもそも内容の次元で著しい違いが認められる。

天使に示せ、ひとつの物がいかに幸いになりうるか、汚濁をのがれてわれわれのものになりうるかを。悲嘆してやまぬ苦悩すらいかに澄んで形態(かたち)に服することに意を決し、物として仕える、あるいは物の内へ歿することか。その時、彼方から伴う楽の音も陶然として引いて行く。この亡びることからして生きる物たちのことをつぶさに知り、これを称(たた)えることだ。(注10)

前半(「歿することか」まで)についてはよい。問題は後半で、原文を読むかぎり、ここは依然として「嘆き訴える苦悩(das klagende Leid)」が主語だと思えるし、現に高安・手塚どちらの訳文でもそうなっている。そのような苦悩が、ひとたび死に、それから「彼岸で(jenseits)」、元来苦悩だったとは思えぬ浄福のものと化し―手元の『クラウン独和辞典』(三省堂)によると、« selig »は「天国の喜びに与っている」とか「列福された」、ひいては「今は亡き」を意味する形容詞であり、古井流にただ「陶然として」と訳したのでは、こうした、いわば抹香臭い含意を十分に反映することは難しい―、そして「ヴァイオリン(提琴)から流れ出る(der Geige entgeht)」のである。ここは私も迷ったが、この場合« entgehen »は「免れる」とか「逃れる」というよりも、流出に近い意味なのであろう。もちろん、それに伴う« der Geige »は3格なのだから(あるいは2格かもしれないが、いずれにせよ)、起源を意味するのであって、自ら動作する主語ではありえない。こう考えてこそ、苦悩がひとたび死んだのちに天上的な至福の中で麗しい音楽(詩歌)として生まれ変わる、という、起伏のはっきりした整合的な読み方が可能になるはずである。しかるに、「その時、彼方から伴う楽の音も陶然として引いて行く」という古井の訳では、原文の文法的な骨格が無視され、主語すら変更されているので、結局この部分が先立つ文脈とどうつながるのかが一向に明瞭でないし、まるで詩歌の誕生ではなくてその衰滅を説き明かしているようにしか読めない。「陶然として引いて行く」、この消極的で後ろ向きの動詞(「引いて行く」)と妙に愉悦的な副詞句(「陶然として」)との組合せは、よしんば古井文学の世界では珍しくないにせよ、はたしてリルケにとっても不自然でないかどうか。
その次も、古井訳ではあたかも« verstehen »、つまり「つぶさに知り」が原形(不定詞)、そして« diese, von Hingang/lebenden Dinge »、つまり「この亡びることからして生きる物たち」がその目的語であるかのようだし、したがって« daß »は独立的な用法で以下のことを命令している―ということになりそうだが、しかしここはやはり、« diese, von Hingang/lebenden Dinge »が主語、したがって« verstehen »は三人称複数現在形であり、それが« daß »以下を目的語として、理解すべき事態として従えている、と読むべきではないか。滅びゆく物たちを前にして、我々がそれらをただ滅びゆくままに任せるのではなくて言葉を用いて称える、つまりそれらを詩に歌うということは、単に我々から物たちへの一方的な思い入れなのではなく、同時に物たちから我々に託された使命を果たすことでもある―そのようにかたく信じることは詩人リルケの核にある発想だと私は思うし、またそう考えてこそ『ドゥイノの悲歌』の詩学は深みが増すはずだが、小説家古井由吉にとっては、それではあまりに楽観的すぎるのか(注11)。
見方を変えれば、古井にとってはリルケですら、衰弱や解体の理想を描くための方便にすぎないということである。
古井由吉、恐るべし。


(1)Rainer Maria Rilke, Duineser Elegien, Suhrkamp Verlag, 1975, p.56.
(2)高安国世訳『リルケ詩集』(岩波文庫、2010年)114-115頁。引用に際して、原文中の傍点が付してある箇所を太字の表記に改めた。次の引用文についても同様である。
(3)リルケ『ドゥイノの悲歌』(手塚富雄訳、岩波文庫、2010年改版第1刷)71-72頁。
(4)古井由吉『詩への小路』(書肆山田、2005年)236頁。
(5)リルケ『ドゥイノの悲歌』(前掲書)188頁。
(6)同書188-189頁。
(7)Rainer Maria Rilke, Duineser Elegien, op. cit., p57.
(8)高安国世訳『リルケ詩集』(前掲書)116-117頁。
(9)リルケ『ドゥイノの悲歌』(前掲書)74頁。
(10)古井由吉『詩への小路』(前掲書)238頁。
(11)その割には、直後に「無常の者として物たちは救いをわれわれに憑(たの)むのだ、無常も無常のわれわれに」という訳文が続いているので、一貫性という点で疑問も残る。
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