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一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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ポーとマラルメの「眠る女」 

近代的な推理小説の創始者として名高いポー(Edgar Allan Poe, 1809-1849)は、周知のようにアメリカ文学史上最高の抒情詩人でもあった。

数ある佳品の中から、ここでは「眠る女」("The Sleeper")を取り上げたい。といっても最終的な目的は、マラルメによるフランス語訳の検討である。しかしそのための準備として、まずはポーの詩そのものを読んでおく必要があるので、創元推理文庫版から、福永武彦の訳文で引用する(なお巻末の一覧表によれば、本作の発表は1831年の由である)。

時は六月の或る真夜中に、
幽玄の月の光に照らされて私は立つ。
阿片のような蒸気は、露と濡れ、おぼろげに、
金色をなすその縁(ふち)から立ち昇り、
一しずくまた一しずく、しずやかに
ひっそりした山の頂きへと滴(したた)り落ちる、
ねむたげに、また音楽の音(ね)のように
広い谷のすべてに忍び入る。
ローズマリイの樹は墓の上で首を振り、
睡蓮は波の上をしだらにただよう。
その胸のあたりを霧につつまれ、
物みなはいま永遠(とわ)の憩いに朽ち果てる。
忘却の河にも似て、御覧! 湖は
うつらうつらとうたた寝をむさぼるよう、
たとえ千金を抛(なげう)っても目を覚まそうとしない。
すべて「美しいもの」は眠る! ―見よそこに
アイリーンは横たわる、彼女の「運命」と共に! (注1)

ここまでが第一連である。せっかく夜の自然が見る者を魅了する玲瓏たる風情をたたえているというのに、「墓」や「永遠(とわ)の憩い」、はたまた冥界にあるという「忘却の河」(レーテー)などの語がその中に紛れ込み、そこはかとなく不吉な調子を醸し出していることは明らかだ。「眠る女」という表題にもかかわらず、冒頭に現れる人物は誰とも知れぬ「私」であり、その恋人かあるいは妻か、眠っているアイリーンなる女性の登場は最後の行まで待たねばならない。おそらくその理由は、彼女が、この不吉な経緯の主催者ではなくて犠牲者であり、それゆえ事態を好転させる権限を持たないからであろう。そうだとすれば、感嘆符付きの「彼女の『運命』と共に(with her Destinies)」という表現も、単なる言葉のあやではなくて、詩の構成そのものが反映しているような厳然たる事実を、ことさら言語化することで追認しているのだ(ある人にとって不幸、ないし少なくとも不本意なことでありながら、当人が意志的な対処によってはねのけることは難しい一連の出来事の襲来というものは、ほとんど運命ないし宿命の定義そのものである)。とはいえ彼女自身が、まるで眠っているように穏やかに見えるというだけの死者なのか、それともまだ息があるのかは定かでない。続いて第二連に移ろう。

おお輝かしい女性よ! それは正しいことか―
この窓が夜に開かれてあるのは?
気まぐれな風は樹の梢から、
格子窓を越えて笑いながら吹きこみ―
形ない風は、魔術師のむれ、
あなたの部屋をひらひらと往き復る、
そして天蓋の帳(とばり)を、そんなにも不意に―
そんなにも恐ろしげに―揺り動かす、
あなたのまどろむ魂がその下に隠れている
縁(ふち)飾りのある閉じられた目蓋(まぶた)の上を、
そのために床(ゆか)をかすめ壁に流れ、
帳(とばり)の影は亡霊のように浮びまた沈む!
おおいとしい女性よ! あなたは怖くないのか?
何故に、また何ごとを、あなたはここに夢みるのか?
きっとあなたは来たのだろう、遠い海原を越えて、
これらの苑(その)の樹々にとって一つの奇蹟と見えるために!
異様である、あなたの青白い顔色は! あなたの装いは!
異様である、何にもまして、あなたの丈長い髪は、
そしてこのすべて荘厳な静けさは! (注2)

この第二連は、どうやら先の第一連では問われなかったアイリーンの生死について考え始めることを読者に命じているようだ。「まどろむ魂(slumb'ring soul)」とあるからにはまだ絶命していないと思いたくなるが、風の強い夜なのに起き上がって窓を閉めようともせず、あまつさえ「亡霊」同然の帳の影に跳梁を許しているところからすると、その反対のほうが正しいような気もしてくる。
特に、彼女を「いとしい女性」と呼ぶほど親しい仲であるはずの「私」が、一向にアイリーンに声をかけて覚醒を促すことなく、ただただ「青白い顔色」をはじめとする彼女自身の様子と、あたりにただよう「荘厳な静けさ」とを前に、繰り返し「異様である」と独白するほかないことに注意するならなおさらだ。もしも相手が睡眠中の妻か恋人ならば、「あなたは怖くないのか?」などというまわりくどい問いかけはよして、「アイリーン、起きておくれ。風で帳がはためいて気味が悪いから窓を閉めたいと思うが、かまわないかね」とでも、直接本人に語りかければよい。なんなら優しく体をゆすって起こそうとするのも一つの手だろう。それをしないのは、おそらくやっても無駄だからではないのか。また風が吹いている以上全くの無音ではないはずなのに、「荘厳な静けさ」を「私」が感じずにいられないとすれば、それはつまりアイリーンがもはや決して、寝返りの突発的な音はおろか、かすかではあっても規則正しい呼吸の音すら立てることができない身になりおおせているからではないのか。よもや妖精の類ではあるまいに、「一つの奇蹟」と名づけたくなるほど場違いで異邦人風の雰囲気が否みがたいことも、彼女がすでにこの世のものでなく、死体と化しているがゆえに、いまここに存在する彼岸の暗示でありうるのだと考えれば納得がいく。したがって「まどろむ魂」だの「夢みる」だのという表現は、いわばアイリーンの死という現実をありのまま認めたがらない、「私」の願望の投影にすぎないのだ。そのことは、続く第三連を読めばいっそうはっきりする。

女性は眠る! おお彼女の眠りの
長く続き、尚もさらに深くあれ!
天はその神聖な奥処(おくか)に彼女を守れ!
この部屋がより神々しいものに変り、
この臥床(ふしど)がより憂鬱なものに変って、
彼女が永遠にその眼を開くことなく
そこに横たわることを、私は神に祈る、
屍衣をまとった蒼ざめた幽霊たちのさ迷う間! (注3)

先の第二連の内容を信じるかぎり、この部屋に「亡霊」ないし「幽霊」(ghosts)が集まってくるのは、ほかならぬアイリーンが窓を閉めないからである。そしてたぶん、もはや窓を閉めることに限らず、あらゆる意志的な動作を今後一切禁じられた彼女の現状、すなわち生者ではなくて死者であるということが、連中の親近感を掻き立てるからでもあると判断してよいはずだ。それなのに「私」はあべこべの理屈にすがり、亡霊の彷徨の中に生者が混じっていることがばれると危険なので、その期間中はアイリーンが眠り続けることが望ましいと主張している。この小細工は「屍衣をまとった蒼ざめた(pale sheeted)」なる形容を、まるで第二連では彼女もまた「青白い顔色(pallor)」や「装い(dress)」の異様さが目立っていたという事実など忘れたかのように、亡霊たちに押しつけることで完成する。しかし、所詮は小細工にすぎず、いかに取り繕おうともアイリーンの死が疑いえないことは、彼女の眠りが「永遠に(forever)」続きますように、と私が祈らざるをえないことからわかる。永遠に(死ぬまで)目覚めることがない昏睡中の女性というものは、医者にとってはともかく、夫か恋人にとっては結局死んでいるのと大差ない。その不条理を忍んでまで、「私」がこのように祈らずにはいられないのは、もはやアイリーンが目を覚ますときが絶対に訪れないのを心のどこかで承知しているからだろう。愛する女性の死という、受け入れがたい、しかも変えることのできない現実を前にしつつ、抗いがたい運命の成行に、彼女の得になるような良い意味を付与してやることで、せめて自分の祈りが聞き届けられたかのような体裁を維持したいという「私」の願望が透けて見えるようだ。
ちょうど狭義の推理小説に限らずポーの短編の多くがそうであるのと同様、このように「眠る女」もまた、未知の、だが読者が丹念に証拠を拾い集めればおぼろげながら予想できる、衝撃的な真相をまるで器のように保蔵しているのである。この場合その真相とは、恋人もしくは妻である女性の死という、悲痛な単一の観念にほかなるまい。しかるにこの観念は、それ自体が空虚さの価値を帯びている。なんとなれば、親しい人がこの世から消え去るという事態は、ある空虚さが我々の暮らす環境の中に、と同時に我々の心の中にもまた生じることを意味するからだ。そのことがこの詩に、うわべの明快さとは裏腹の底知れぬ奥行きをもたらしている。そして内容が空虚そのものであるとき、包むものであり覆うものであるという器の性格もまた純化を遂げることは必至である。ひたぶるに詩の純粋さを追い求めたマラルメがこの作品のフランス語訳を作ろうと思い立ったのも、そのあたりの事情と無縁ではないはずだ。締めくくりにあたる第四連で我々が見届けるのは、ほかならぬこの関係(内容の空虚化に比例する、器の側の純化)さえも形象化してしまう、詩人の力技である。

わが愛するひと、彼女は眠る! おお彼女の眠りの
覚めることなく、尚もさらに深くあれ!
ひそやかに蛆虫どもよ、彼女のまわりを這いまわれ!
遥かな森のなかに、おぼろげにそして古びて、
彼女のために、さる丈高い納骨堂の開かれんことを―
さる納骨堂の―昔それはしばしば鎖(とざ)した、
黒い翼の羽ばたくその扉を、
彼女の高貴な一族の葬儀を飾る
誇らしげな、紋章つきの棺衣(かんい)の上に―
さる奥津城(おくつき)の―人里を離れ、ぽつねんと、
その入口に嘗て彼女は幼い日、
幾つもの役にも立たぬ石ころを投げこんだもの―
さる墓どころの―その軋る扉の中から二度と
ふたたび彼女が木霊(こだま)を奪い取ることはないだろう、
身の毛もよだつ思いがする、哀れ罪深い子供よ!
その内側に呻いていたのは死者たちにすぎなかったから。(注4)

すでに何度か分析の中で英単語を使ったが、この第四連に限っては、あとあと必要にもなるので、原詩をそっくり以下に掲げておく。

My love, she sleeps! Oh, may her sleep,
As it is lasting, so be deep!
Soft may the worms about her creep!
Far in the forest, dim and old,
For her may some tall vault unfold ―
Some vault that oft hath flung its black
And wingéd pannels fluttering back,
Triumphant, o'er the crested palls,
Of her grand family funerals ―
Some sepulchre, remote, alone,
Against whose portal she hath thrown,
In childhood, many an idle stone ―
Some tomb from out whose sounding door
She ne'er shall force an echo more,
Thrilling to think, poor child of sin!
It was the dead who groaned within. (注5)

さて、アイリーンがすでに死者の世界に足を踏み入れていることは、この第四連に至ってほとんど確実であるが、にもかかわらずそのような断定は最後までない。「蛆虫」による侵蝕への言及についで、彼女には納骨堂に葬られる資格があることさえ認めているというのに、「私」(もしくはポー)の筆の歩みはアイリーンを死者の境遇に極限まで近づけはしても、ついに両者の完全な同一化を描写しようとはしない。しかし逆説的なようでも、まさしくこの欺瞞的な不完全性こそがアイリーンの息の根を、二重の意味で完全に止めることになるのだ。
上述したとおり、もしもこの詩の中で、中心を占める空虚としての親しい人の死と、それを包みもしくは覆う器としての「私」の強辯という二元論的な構図が機能しているということが本当なら、一族の骨が横たわる納骨堂(vault)の扉、奥津城(sepulchre)の入口、墓どころ(tomb)の木霊と続く演出の系列は、まことにその構図に対応する感覚的な表現として的確であり、しかも純粋な、つまりは空しい器から内なる核心たる空虚への進行を形成している。すなわち読者は、なおも若干の希望を残すかのような多義性から出発し("vault"の原義は「アーチ形屋根」である)、ついで婉曲な雅語(「奥津城」という訳語の選択からも推察できるように、"sepulchre"ないし"sepulcher"は古語らしい)を経て、もはやどうあがいてもごまかしようのない、墓そのもの("tomb")の前に引き出され、そこで生物が立てる音とは似て非なる音を、無機的な物質の反響(「木霊」)を聞くのである。そうである以上、いわば第四連の詩行の並び方そのものが彼女を殺すのであり、それもおそらくは「アイリーンは死んだ」という文よりも徹底的に殺すのだ。器の背後の空虚があまりにも(空虚として)完璧であれば、その空虚は覆いを破って出現するや否や、登場人物ごと詩の言葉をも有無を言わさず呑み込んでしまうはずだからである。まさしく、「木霊(こだま)」の発生は一度きりで、かつその一度きりの「木霊(こだま)」がたちどころに、それを発生させた者(つまり、一番空虚の近くにいた者)の命取りになるのだ。このいささか抽象的な思考は、より具象的な次元へと移してみれば、死者の呪いと呼ばれてきたものに等しい。「二度と/ふたたび彼女が木霊(こだま)を奪い取ることはないだろう」以下の三行、特に「哀れ罪深い子供よ」という呼びかけは、どうやら祖先の亡骸に対して無礼な振舞(小石を投げつけること)に及んだために、彼女が死の呪いをかけられてしまったという因果関係を秘めているようだ。結局、アイリーンは単に一人の死者であるわけではない。空虚の露呈と死者の呪いという、二重の(しかし本質的にはたった一つの)原因によって、詩の手前ではなく詩の中で殺されるのである。「眠る女」は、本質的には「モルグ街の殺人」や「マリー・ロジェの謎」と同じく、一つの殺人事件なのだ。

マラルメ(Stéphane Mallarmé, 1842-1898)の独創性は、この、「私」が詩の冒頭からいわば探偵役として現れることからも否定しがたいはずの他殺という事態を、あくまでもポーの原詩の翻案ではなく、フランス語への翻訳という手段を通じて(ただし韻文訳ではなく、形式は散文詩である)、自殺に変換してしまったことにある。上首尾か不首尾かはいざ知らず、その手腕を詳らかにするためには、他の連を飛ばして一気に第四連を読んでみるのがよい。

Mon amour, elle dort! oh! puisse son sommeil, comme il est continu, de même être profond. Que doucement autour d'elle rampent les vers! Loin dans la forêt, obscure et vieille, que s'ouvre pour elle quelque haut caveau ― quelque caveau qui souvent a fermé les ailes noires de ses oscillants panneaux, triomphal, sur les tentures armoriées des funérailles de sa grande famille ― quelque sépulcre, écarté, solitaire, contre le portail duquel elle a lancé, dans sa jeunesse, mainte pierre oisive ― quelque tombe hors de la porte retentissante de laquelle elle ne fera plus sortir jamais d'écho, frissonnante de penser, pauvre enfant de péché! que c'étaient les morts qui gémissaient à l'intérieur. (注6)

続けてこれの拙訳を以下に示す。原詩と比べて、多少趣が変化していることがわかるはずだ。

私の愛する人、彼女は眠る! おお! どうか彼女の眠りが、それが続いているからには、同様に深くもあらんことを。なにとぞ蛆どもが彼女の周囲を穏やかに這いまわりますように! 暗くて古びた、森の中遠く、彼女のためにさる丈高い納骨所が開かれんことを―その揺れ動く羽目板の黒い両翼を、勝ち誇って、彼女の偉大なる一族の相継ぐ葬儀を飾った紋章つきの幔幕の上にしばしば閉ざしたさる納骨所が―さる人里離れた、孤立した奥津城もだ、そこの門に向かって彼女は、若い頃、多くの無益な石ころを投げたことがある―さる墓穴もなのであってそこのよく響く扉の外に彼女が木霊(こだま)を発せしめることはもはや決してあるまい、こう考えて身震いした女、哀れな罪の子が! 内部で呻いているのは死者なのだわ、と。

いかがだろうか。誤訳なのか故意の改変なのかはともかく、一読して後半の流れがポーの原作と同じではないと私は感じる。まず、"She ne'er shall force an echo more"の"force"は「(木霊を)奪い取る、強奪する」という意味であって、明らかに動作主である彼女は墓穴の外に立っていそうなのに、マラルメはこれを使役の助動詞(faire)とともに、« elle ne fera plus sortir jamais d'écho »―「彼女が木霊(こだま)を発せしめることはもはや決してあるまい」―と訳している。少なくとも、この「発する」ないし「出る」(sortir)という自動詞は、一時的にせよ墓穴の中に視点を置いた者でないかぎり使う気にならない語であろう。むろん「発せしめる」ことならば墓穴の外からでも可能なわけだが、きっぱりと死者の静寂に対決する"force"の強引な能動性と比べれば、まるで最初から彼女が死者の側の自発性をあてにしていたようでいまいち頼りないし、なにやら不審な馴れ合いの気配すらある。どのみちアイリーンも死者であるらしいことはポーの原作以来変わっていないわけだが、マラルメの翻訳で読むとそのことが驚愕を呼ぶ真相としての衝撃力を失って、自明の事実をただ確認しているにすぎないかのような印象が生じるのだ。
続く« frissonnante de penser »も、たぶん英文仏訳としては不適切である。マラルメは、« frissonner »(震える)という自動詞を現在分詞の女性形に活用しているので、「こう考えて身震いした女」とでも和訳するほかないのだが、対してポーの"Thrilling to think"は、"It is thrilling to think"ということであって、「考えるだに身の毛もよだつ」という一般論のはずだからだ(先に引用した福永武彦の訳文では、「身の毛もよだつ思いがする」となっている)。つまり、原詩ではアイリーン自身が思考して身震いするわけではない。もっとも動詞としての"thrill"自体には「ぞくぞくする」という自動詞としての意味もあるが、それよりはやはり、「(物事がそれに接する人を)ぞくぞくさせる」という、他動詞としての用法のほうが主流であろう。マラルメが英語の教師だったことを思えば意外な気もするが、こと恐怖を煽る演出にかけては、当時はおろか今日に至るまで滅多に右に出る者のいない天才的な冴えを発揮するポーの、ある種のあざとさが、世紀末風の繊細な自意識の人にして、露骨さよりも暗示を尊ぶ象徴主義者であるマラルメには、少々刺激的すぎて気に食わなかったのか。
しかし、理由はどうあれ、一般論だったはずのものをアイリーン個人の感慨として仏訳してしまったことの代償は高くつく。これでは、"poor child of sin"もしくは« pauvre enfant de péché »―どちらも直訳すれば「哀れな罪の子」だが、「罪の子」とは「死者を冒瀆した罰当たりな子」という意味だろう―が宙に浮いてしまい、効果が半減するのである。というのも、死者が無礼な子孫を自分たちのもとに引き寄せ、墓穴の同居人にしてしまうという恐るべき「運命」(第一連最終行)、ないし死者の手で生者にかけられる呪いが、客観的に実在するという前提を(詩的に)採用した上で読むのでないかぎり、アイリーンが自分一人の頭の中でいかにおどろおどろしい空想を思いめぐらして怯えようと、彼女の哀れさはたかが知れているからだ。遊び半分にやったたわいないいたずらが本当に自らの死を招き寄せてしまうからこそ、アイリーンは「哀れな罪の子」なのであって、そうでないなら彼女はせいぜい「哀れ」ではありえても、よもや「罪の子」(罰当たりな子)ではありえまい。しかるにマラルメの仏訳は、最終行の冒頭に―原作では、この一行はthat節ではないにもかかわらず―接続詞の« Que »(…と、…ということを)を追加している。そしてこの追加の結果として、最終行の内容は« penser »(考える)の目的語以外ではありえなくなり、アイリーンの主観的思考に従属せしめられるのである。もとよりポーの原作においても、死者の呪いを示唆するはずの最終行を、「考える(think)」の目的語として読むこと自体はさしつかえないはずだが、そのことを、「考える」者をアイリーン個人に限定した上で文法的に明確化するというマラルメの選択は、度重なるほのめかしの果てにようやく姿を見せた「死者」の一語から、脅威的な敵対者としての迫力を剥奪してしまう一方なのだ。むしろ、"within"が、« dedans »(内に)というそっけない直訳を避けてかどうか、ともかく事実としてやや丁寧に« à l'intérieur »(内部で)と訳されていること、および« intérieur »という語には「内面」や「内心」という意味もあることからすれば、死んだ祖先の居場所をアイリーンの心の中に比定することさえ、マラルメにとっては不自然でないのかもしれない。このような死者との親密さは、「眠る女」を創作中のポーには到底思いもよらなかったものだろう。
以上より、マラルメは「眠る女」をフランス語に訳すにあたって、推理小説風のポーの演出を素直に踏襲せず、アイリーンをあたかももともと墓穴の内部の住民の仲間であるかのように描き(「発せしめる」)、一般論だったはずの死者の呪いに対する恐れもアイリーンの個人的な感慨へと還元してしまい(「こう考えて身震いした女」)、その結果彼女に対する死んだ祖先の関係も、現実的な脅威というよりは空想的な性格のものになり、のみならず一種の親密性さえ帯びかねない(「内部で呻いているのは死者なのだわ、と」)、ということが判明した。

ところでここに、事実とすれば非常に興味深い一つの符合についての推測がある。マラルメは1867年頃からしばらくの間、自己の起源としての祖先に殉じるかのように、精神的な再生を期して真夜中に哲学的自殺を遂げる人物を主人公とする、小説とも散文詩ともつかぬひどく晦渋な作品に執念深く取り組んでいる。そして、とうとう完成するには至らなかったものの、没後1925年になってようやく、『イジチュールまたはエルベノンの狂気』〔Igitur ou la folie d'Elbehnon〕と題されて日の目を見た一連の草稿には、批評家(「テーマ批評」の大御所)ジャン‐ピエール・リシャールによれば、ポーの「眠る女」からの影響が若干痕跡を残している可能性があるというのである。
もっとも、リシャールが具体的に強調しているのは、「揺れ動く羽目板」と祖先の発する「口笛」という二つの着想にすぎない(注7)。両者とも、仮に「眠る女」が典拠であるのなら第四連に由来するはずであるが(注8)、いましがた我々が検討してきたように、マラルメによるこの詩のフランス語訳が、いわば他殺から自殺への転換と、祖先の内面化とを伴っているのだとすれば、直接的な影響関係についてはともかく、翻訳者としてのマラルメはそもそもポーの中に自分が見たいものだけを見ていると考えたほうが、実態に近いのではないかと思えてくる。雑誌への発表を経て、1888年からは『エドガー・ポー詩集』中の一篇としてマラルメの評釈つきで読めるようになったこの仏訳版では、むしろポーの原作の「イジチュール化」が著しいからだ。
リシャールの整理によれば、『イジチュールまたはエルベノンの狂気』における死から復活への転機を司るのは、意識の本性たる「反射」の概念にほかならない。

したがって「最初の拡大」に続いて、反射による中心の方向への回帰が行われたのである。しかし忘れてならないのは、以後空無となった中心に、それでもなおひとつの現前が、あるいは少なくとも存在のなごりが存続していることだ。「たしかに〈真夜中〉の現前が続いている」―この存続する現前がなければ、〈夜〉それ自体に関するいかなる認識も可能ではなかっただろう。反射するふたつの波の回帰は、たしかに中心の空無に消え去ってしまっただろう。しかし実際には、執拗な拡張のようなものが中心に発生し続けていて、その離心的流出はたちまち反射的還流に突きあたる。この回帰がこの往路にぶつかる瞬間に、ちょうど襞において起こるのと同様に、中性化、およびその運動の運動それ自体への具体的で完全な接合が生じる。この結合から生じた、かすかに振動する不動状態が、そのときまさにみずから消滅した私の具体的な意識化のようなものとなる。マラルメが後年メーテルランクに関して語るように、音それ自体がなければ、われわれは「谺(エコー)の意識」を楽しむのだ。しかもマラルメにとって、エゴに等しいのである……。(注9)

もしもこのような整理が正鵠を得ているのだとすれば、おそらくマラルメによる「眠る女」の翻訳の終盤が、英文仏訳としてはいささか怪しげな代物になったことには、彼なりの文学的かつ形而上学的な必然性があったのである。なぜならば、このように谺ないし木霊(Écho)がエゴすなわち我(Ego)に等しく、そして自殺を経ながらも反射によって自らの消滅を認識する、「襞」のごとき「かすかに振動する不動状態」こそが意識にほかならないというのなら、ポーの「私」のように、愛する女性の死を認めまいとして悪あがきのような強辯を重ね、真相を糊塗し続けるのも、またポーのアイリーンのように、死者としての確たる自覚を持つことがついにできないまま、一方的に祖先の呪いに打ち負かされるのも、マラルメにとってはとても満足できる成行ではないはずだからだ。それゆえ、第三連の"pale sheeted"―「屍衣をまとった蒼ざめた」―(注10)が« aux plis obscurs »―「暗い襞に身を包んだ」―になり(注11)、また第四連の"sounding door"(「軋る扉」)が« la porte retentissante »(「よく響く扉」)になることで着々と準備されてきた「反射」の運動は、そのままマラルメのアイリーンの、結末でのたたずまいに帰結するのである。もう一度、読み返してみよう。

彼女が木霊(こだま)を発せしめることはもはや決してあるまい、こう考えて身震いした女、哀れな罪の子が! 内部で呻いているのは死者なのだわ、と。

おそらく、アイリーンが「身震いしている(frissonnante)」のは、彼女が死者の呻き声を、墓穴同然の己の内部(intérieur)に抱えこんでいるからでもあるのだ。それが今後谺ないし木霊となって外部に漏洩することがないのは、呻き声が根絶されるからではなく、絶対的な内部としての意識が生成を遂げ、いかなる振動であっても生じたそばから吸収し、いわば糧として同化してしまうからではないのか。
リシャールは引き続き『イジチュール』について、「思考が自己を掌握しうるのは、その思考もふたたび逃亡し失跡するという結果に導く運動の内部においてのみである」がゆえに、自殺後に復活した「私」(意識)にはおよそ基盤というものが欠けており、「魂の内部の、その透明さによって照らしだされた中心に、墓としての夜が、天空の透明さと同じくらいめくるめくこちら側が、ぽっかりと穴を開ける」とも書いている(注12)。せわしなく果てしなく内外を往還し続ける「反射」の対として、内面が内面それ自体の中心へと吸収され、ついには消滅するという「解放」の運動をマラルメは考えていた。「再創造された彼の思考の場においては永遠に静謐な彼も、彼の見いだされた人格の自由な限界のなかではうち震えているのである」(注13)。この二つの運動の統合は、『イジチュール』では反響を生み出す螺旋状の落下として表現されることになるのだが、そこまで積極的な仕方ではないにせよ、「眠る女」のフランス語訳においても、「反射」そのものから誕生した「かすかに振動する不動状態」としての内部もしくは意識が、他方では以後一切の反射運動を吸収する墓穴のごとき静謐な空間でもあることを通じて成就しているのではないか。原詩の"Thrilling"を他動詞でなく自動詞の現在分詞として読むという、マラルメの一見強引な操作は、こうして思いのほか広い射程を持っており、マラルメ流の意識ないし自我の定義そのもののに根ざしていることが明らかになった。
しかしながら、たとえマラルメが、自分が見たいものだけを相手の作品の中に見ているのだとしても、その相手がポーであるということは些事ではない。彼が「眠る女」の仏訳を発表したのは『イジチュール』の時期よりも10年ばかりのちのことだが、ポーの翻訳の試み自体は1860年頃にまでさかのぼることを裏づける証拠もあるそうで(注14)、結局リシャールの推測どおり、『イジチュール』の執筆時には「眠る女」も英語で読了していたのだろう。加えて少年マラルメにとっては、ボードレールでさえも何はさておきポーの紹介者として輝いていたということが本当であるなら(注15)、彼のポー体験は期間の長さと思い入れの深さという二点において際立っており、もとより単純な誤訳ということは考えにくい。したがって「眠る女」の仏訳の第四連に見つかった原作との相違点は、『イジチュール』での形而上学的探求が挙げた成果を、何とかして尊敬する先輩詩人の作品の中に盛りこみたい、そしてそのようにして師をしのぐ独創性を贈与するとともに自分の成長を報告し、恩返しを果たしたいという気負いの然らしめる結果だったのではないか。『エドガー・ポー詩集』の評釈(Scolies)の部ではこの詩について、「全巻を通じて最も異常なる、最も確実な魅力がある諸篇の一つ〔un des morceaux les plus extraordinaires, au charme le plus sûr qui soient dans tout le livre〕」(注16)とまで書き、ほとんど手放しで絶賛しているマラルメが、それでいてほとんど具体的な分析らしきものを読者に提示しようとはしないという不釣り合いのおかしさは、そう考えて初めて、例えば自画自賛の回避として説明がつくように思える。
マラルメ訳『エドガー・ポー詩集』の巻頭を飾る「エドガー・ポーの墓」(注17)は、目下「〈彼自身〉へとついに永遠が彼を変えつつあるそのような男〔Tel qu'en Lui-même enfin l'éternité le change〕」であるこの詩人の何よりの特徴を、彼が生前から作品の中でひたすら死の観念を追究してきたことに求め、「死がこの奇妙な声の中で勝ち誇っていたことを〔Que la mort triomphait dans cette voix étrange〕」(注18)今世紀(19世紀)が遅まきながらようやく知り始めたのを祝っている。このソネットをマラルメの基本的なポー観を表白したものとして読むなら、「眠る女」の『イジチュール』風の翻訳をも、辞書的な正確さとは次元を異にする、詩的な忠実さという基準に則って評価する余地が垣間見えてくるはずだ。


(1)E.A.ポー「眠る女」(福永武彦訳)、『ポオ 詩と詩論』(創元推理文庫、2005年第13版)90-91頁。
(2)同書91-92頁。
(3)同書92頁。
(4)同書93頁。
(5)Edgar Allan Poe, "The Sleeper," in Poems and Prose, London, Everyman's Library, 1995, p.18-19.
(6)Edgar Allan Poe, « La Dormeuse », Traduction de Stéphane Mallarmé, in Œuvres complètes, texte établi et annoté par Henri Mondor et G. Jean- Aubry, Paris, Gallimard, « Bibliothèque de la Pléiade », 1945, p.203.
(7)J.-P.リシャール『マラルメの想像的宇宙』(田中成和訳、水声社、2004年)260頁(203頁(**)への原注)。
(8)なお、「揺れ動く羽目板」の原語は« oscillants panneaux »で、"pannels fluttering back"の訳語である。この« panneau »という語には「罠」の意味もあるが、『イジチュールまたはエルベノンの狂気』の世界でも、邦訳版(秋山澄夫訳、思潮社、1997年)の訳注(78頁)によれば、とりあえず板戸や通路のつもりで「羽目板」と読んでおけばよいらしい。またポーは"groan"と書き、マラルメはそれの訳語として« gémir »を選んでおり、どちらの動詞も「呻る」という意味だから「口笛」よりは重苦しいはずだが、『イジチュール』の舞台が墓を含むことにも留意すれば、リシャールの推測はさほど突飛でもないと思う。
(9)J.-P.リシャール『マラルメの想像的宇宙』(前掲書)204頁。
(10)Edgar Allan Poe, "The Sleeper," in Poems and Prose, op. cit., p.18.
(11)Edgar Allan Poe, « La Dormeuse », Traduction de Stéphane Mallarmé, in Œuvres complètes, op. cit., p.203.
(12)J.-P.リシャール『マラルメの想像的宇宙』(前掲書)209頁。
(13)同書210頁。
(14)「マラルメ訳『エドガー・ポー詩集』〔訳者による〕評釈 SCOLIES」の、訳者(松室三郎)による解題より、『マラルメ全集II 別冊 解題・註解』(筑摩書房、1989年)289-291頁。
(15)同書289頁。
(16)Stéphane Mallarmé, Œuvres complètes, op. cit., p.239.
(17)Stéphane Mallarmé, « Le Tombeau d'Edgar Poe », Œuvres complètes, op. cit., p.70.
(18)ちなみに、ボードレールは彼が訳したポーの作品集(『異常な物語集』)に序文として付した論文「エドガー・ポー、その生涯と作品」において、死に際のポーの状態を形容して「まだ生きてはいるものの、〈死〉がすでにその王権をもって刻印した身体」と書いている。全くの憶測にすぎないが、マラルメの名高い詩句がこの表現を下敷きにしている可能性はないのだろうか。なお、引用は『ボードレール批評3』(阿部良雄訳、ちくま学芸文庫、1999年)102頁からである。
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