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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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プルースト『ソドムとゴモラ』2 

以前、プルーストの『失われた時を求めて』から第四篇『ソドムとゴモラ』を選び、集英社文庫版(全13巻)では第7巻に相当する、その前半部を分析したことがあった(プルースト『ソドムとゴモラ』)。
今回はその後日談っぽく、続く後半、すなわち『失われた時を求めて 8 第四篇 ソドムとゴモラII』を検討してみたい。

まず、以前の分析の成果を簡単に要約しておこう。我々は、『ソドムとゴモラ』における筋書の水準での隠喩の連鎖の追跡を試みたのだった。そしてこの追跡は、やがて相継ぐ相似性の諸系列の発見に至り、その結果として我々は、「この世界では似ること、あるいは自分を相手に(ときには以前の自分自身に)似せることが、そのまま強さであり、美しさであり、正しさなのだ」と書かずにいられなかった。ただし話者自身は例外で、いったんはこの相似性の連鎖に引き込まれながらもただちにそこから追い出され、その後は「ひたすら他人の相似性を詮索するか(母は祖母へと非の打ちどころのない変身を遂げ、アルベルチーヌには同性愛の疑惑がつきまとう)、それとも対照性の混迷の中をさすらうかが彼の運命となるわけである」というのがあのときの診断だった。
この、相似性からの追放という事態が、いっそう大々的に、前巻の終わりを引き継いで海辺の保養地バルベックという舞台で拡散してゆくのが、『ソドムとゴモラ』の後半の隠れた構造である。
例えば、冒頭にいきなり告げられてそれっきりで、一見すると特に伏線として機能している様子もないニシム・ベルナール氏の同性愛にまつわる逸話を読んでみよう。せっかくレストラン「サクラ亭」のボーイと仲良くなれたというのに、幸福は長続きせず、たちどころに相似性が彼を裏切り、締め出してしまう。

けわしい顔立ちのこのボーイは、頬が真っ赤で、まさしく首にトマトをのせているとしか見えなかった。そしてこれとまったく同じトマトが、彼の双生児の兄弟の顔だった。なんの下心もなく眺めれば、この双生児の兄弟が瓜二つなのはなかなか美しいもので、まるで自然が一時的に産業化して、同一製品を売り出したかのように見える。ところがあいにくニシム・ベルナール氏の見方は異なっていて、この類似は外面的なものにすぎなかった。二号トマトがもっぱらご婦人たちを喜ばせることに熱中するのに対して、一号トマトはある種の男たちの好みに応じるのもいとわないのだ。ところでベルナール氏が、反射神経に動かされるのと同じく一号トマトと過ごした楽しい時間の思い出にもつきうごかされて、のこのこ〈サクラ亭〉にあらわれるたびに、この近眼の年老いたイスラエル人は(もっとも双生児の兄弟をとりちがえるのに、かならずしも近眼である必要はなかったが)、知らず知らずにアンフィトリオンを演じて、双生児の兄弟の一人に、「どうだね、今夜逢引をしないかね?」と話しかけてしまう。そしてたちまち彼は、こっぴどく「ぶんなぐられる」のだった。この仕打ちが、同じ食事のあいだにふたたび繰り返されることさえあった。彼が一号トマトとのあいだで始めた話を、もう一人のトマトに向かってつづけようとしたからだ。とうとうそのうちにトマトにうんざりした彼は、食べられるトマトも連想ですっかりきらいになったので、グランドホテルで隣にすわった旅行客がトマトを注文するたびに、その男にこうささやいた、「存じあげないかたなのに、差し出がましくこんなことを申して失礼ですが、いまトマトを注文なさったのを耳にしましたのでね。今日のトマトはくさっておりますよ。これは、あなたのために申し上げているんです。だって、私にとってはどうでもいいことですから。トマトは絶対にいただきませんのでね」。(注1)

長々と引用したのは、さながら序文のように残りの本体から独立して巻頭を飾るこのくだりが、どうやら実際には以下の小説の進路にとってかなり決定的な模範の役割を帯びていそうだからにほかならない。少年の赤ら顔とトマトとの相似、自然界と産業界との相似、ベルナール氏とアンフィトリオンとの相似、この一切が、双生児同士の外見の相似と結託して彼の肉体にひどい痛手を負わせるばかりか、余勢を駆って本物のトマトに対する彼の感情の中にまで反発を植えつけるべく逆流してくる。
考えてみれば、私が相似性の系列を評価し、さらにはそれに魅惑される側の立場にいるかぎり、私はその系列の外に立たざるをえない。仮に意識というものが外界と自己との差異への注意から、定義上つねに不可分だとすれば、何かに似ることに成功すること、つまりはその何かに主観的になりきることと、ほかならぬその相似を客観的に観察することとを、意識的な操作によって同じ瞬間に両立させるのは至難の業であろう。
ブルジョワ出身であるだけになおのこと貴族らしい振舞の模倣に熱中してきたはずのカンブルメール若夫人が独創性を礼賛するのを聞いても、話者がそこに矛盾を感じないのは、おそらくそのことと無縁ではない(注2)。同様に、ヴェルデュラン家の夜会で毎度のように孤立無援の窮地に追いこまれ、出席者たちの笑い者にされる気の毒なサニエットの立場も、いじめとは誰か(被害者)の疎外を伴う相似性の支配の一例にほかならないという観点から把握しなくてはならないのである。

ほとんどすべての信者がぷっと噴き出さずにはいられなかった。彼らはまるで人食い人種の一団が、傷を受けた白人を見て血の味を呼びさまされたかのようだった。というのも、模倣の本能と勇気の欠如とは、大衆を支配するのと同様に社交界をも支配するからだ。つまりだれかばかにされている人を見るとみながこれをあざわらうのだが、十年もたって相手がどこかの社交クラブで尊敬を集めていると、みなが平然と同じ人物をもてはやすことになる。民衆が王を追放したり、王に喝采したりするのも同様である。(注3)

このように、あまりにも頻繁に相似性の秩序の部外者として扱われてきたサニエットは、もはやとっておきの気の利いた駄洒落を口にしても―決まって誰かがまんまと彼からそれを聞き出して吹聴した後なので―かえって盗作者呼ばわりされ、非難される始末である(注4)。
顔なじみのはずの二人のボーイが、一方はひげを生やし、他方はひげを剃ったせいで誰だか思い出せなかったのだと話者が悟った直後の、「あたかも、綿密な家宅捜索を逃れた品物が、なんのことはない、暖炉の棚におかれていて、だれの目にも見えていたのに、だれもそれに気づかなかったようなものだ」という感慨も、前巻での相似性の組織化とは打って変わって、今度はそこから観察者が遠ざけられる過程こそが小説の主題とならねばならないことを暗示しているようだ(注5)。この直喩の要点は、起こっているのが距離を確認することではなくて確認されざる隔離であるということ、すなわち問題の品物が観察者と当初から全く無縁なのではなく、あくまでも意識は及ばないが手の届く範囲にさりげなく、しかし堂々と居座っているということであろう。この反省をさらに進めてゆけば、やがて、「人間は、たえずこちらに対して位置を変えるものだ。身体には感じられなくとも永遠につづくこの世界の歩みにおいて、私たちは人間を束の間の光景のなかで動かないものとしてとらえるが、それはあまりに短い一瞬なので、彼らを引っぱってゆく運動があることは感じられない。しかし記憶のなかで、二つの異なった時点でとらえられた彼らのイメージを選びさえすればよいのだ」という助言に至ることは明白である(注6)。さらに、この目立たない通時的な変化の方向を思考の中で回転させれば、陰口の心理的な価値についての箴言が出てくる。「人が実体と思っていても実はその外観にすぎないものがあり、精神がそういうものにかんするまやかしの見方の上に安住するのを、こうした陰口が妨げるのだ」というその箴言は、自分が他人に見せたいと思う自画像と、自分の姿を見て他人が作り上げる肖像とが、たとえ表面的には一致しているように思えても、決して油断してはならないという意味である(注7)。ここでも相似性は当事者に背き、ほかならぬ私(意識)が知らぬ間に除け者にされるのだ。
そのような事例が度重なれば、相似性は単に人間を裏切るばかりでなく、それ自体が反発を買うようになるか、または人間同士を反目させるようにしか働かなくなるのも当然というものだ。寵愛するヴァイオリニストのモレル(話者の大叔父の従僕の息子)を改名させ、今後はシャルメルと名乗らせたいというシャルリュス男爵の希望が、にべもなく拒絶されて挫折を強いられるのはそのためである。

最後の論拠としてシャルリュス氏は、自分にその名の従僕がいたことをつけ加えるという、へまなことを思いついてしまった。それはこの若者の憤懣をいっそうかき立てることにしかならなかった。「昔、私の祖先が、王様の従僕や給仕頭という肩書を誇りに思っていた時代があったのだよ」「別な時代には、私のご先祖さまが、おたくのご先祖さまの首をちょん切らせたこともあったんですよ」とモレルは昂然として答えた。(注8)

持ち前の美貌と音楽の才能でシャルリュスに取り入り、従僕の階級から脱出しようとするモレルの強烈な上昇志向にとっては、男爵の従僕との相似性など願い下げで、むしろ貴族と庶民との昔ながらの対立こそが真似るべき手本なのである。
ところがこんな心ない反抗に悩まされ、ぞんざいな仕打ちを受けてひどく傷ついたシャルリュスは、なんとか相手の関心を惹きつけようとして一計を案じ、モレルとの交際の件で自分の悪口を言いふらした将校たちに決闘を挑むと言い出す。幸いにしてこの狂言は功を奏し、話者を使者として手紙を書き送った結果、一度は冷淡に立ち去ったヴァイオリニストは戻ってきて、シャルリュスにすがりついてどうか思いとどまってくれと哀願する。こうしてうわべだけとはいえ目的を達成した以上、当然ながら、もともと本気ではなかった決闘の予定は流れてしまい、有頂天になったシャルリュスは「トビト書」(旧約聖書外典)の叙述を借りてモレルをトビアになぞらえ、自分はトビアをその父親であるトビトのもとに導いた大天使ラファエルになったつもりですっかり悦に入るが、その際奇妙な台詞を話者に対して口走っている。「つまり、あいつはとても頭がいいので、すぐに分かったのです、これから彼がそのそばで暮らす〈父親〉というのは、肉体上の実の父ではない。実の父親はひげなど生やしたどこかの醜悪な召使いのはずだが、そうではなくて精神上の父、この〈私〉だということをね」というのがその台詞だ(注9)。これが奇妙なのは、前後の脈絡からすると、結局トビア(モレル)を導く大天使も、トビアを迎える父親(トビト)もともにシャルリュスその人であるということになってしまい、つじつまが合わなくなるからである。どのみちモレルがシャルリュスを心底愛しているわけではない(いわば有力な後援者として、体よく利用しているにすぎない)という事情を考慮に入れるなら、ここには貧弱で不完全な相似性(現実との合致を欠く、狂言じみた決闘の誓い)か誇張された相似性の戯画(大天使=シャルリュスとトビト=シャルリュスの共存)しかなく、ゆえに効果も中途半端で、表面的なものにとどまらざるをえない、と結論づけてよさそうだ。
このあたりから顕著になってくるのは、いまや相似性は当事者を締め出すばかりでなく、むしろ真正な効力を当事者に及ぼすことができないまま、それ自体が堕落し、空疎になり、形骸化しつつあるということである。当初は単なる意地の悪さと思えた事例も、あまり頻発するようであれば、ことによると無力さの表れではないかという疑いは避けがたくなるからだ。例えば、ヴェルデュラン家の新しい客人の目を欺く、まるで御殿のように立派な売春宿がそうであり(注10)、またシャルリュスと同じく男色の趣味があるゲルマント大公に連れこまれたそこの一室で、男爵の監視に勘付いて、動揺のあまり逆に覗き見するシャルリュスを戦慄させてしまう、幽霊のように血の気の失せたモレルの姿―「彼が目の前に見たのはたしかにモレルだが、まるで異教の神秘と魔法が実際にまだ存在しているかのように、それはむしろモレルの亡霊であり、ミイラになったモレルだった」(注11)―も、さらには翌晩、ゲルマント大公が「自分の家にいるという感じを出すために」別荘に飾っておいたシャルリュスの写真(シャルリュス男爵はゲルマント公爵の弟で、ゲルマント大公とはいとこの関係にある)の視線に射すくめられてモレルが陥った恐慌も(注12)、やはり相似性の滑稽な戯画の好例なのであって、こうした事例はいずれも、外観が内実を忠実に反映せず、それどころかあてどなく遊離しては勝手な効果を撒き散らすという事態に積極的に加担しているのだ。
こうなれば、似ることが即強さであり、美しさであり、正しさであるという、前巻で確立されたはずの原理もいささか眉唾物に思えてくる。たまに外観の領域で終始する忠実な模倣があったとしても、それは例えばカンブルメール一族の間で定着している老侯爵夫人ゼリアの面妖な書き癖(丁重さを表わそうとしてよく似た形容詞を三つ重ねるものの、選択がまずいせいで決まって強調の度合いはだんだん低くなる)だの、珍妙な肉体的特徴(一方的に喋りまくった後で一息ついて唾を飲みこむ、うっすら口髭が生えている)だののように、毒にも薬にもならないか、あるいは少々不快ですらある類のものばかりだろう(注13)。おそらく多くの読者にとってやはり不快であり、また噴飯物でもあるに違いないのは、何かにつけて比類のない家柄の高さを鼻にかけるシャルリュス男爵の、いかにも大貴族らしい傲岸不遜な態度を、一介の従僕の息子にすぎないモレルふぜいがいそいそと模倣したがることである(注14)。
しかし、不快程度で済めばまだよい。終章(第4章)においてふとした会話がきっかけで話者を苛むのは、アルベルチーヌの同性愛疑惑の再燃であり、彼が入りこめない不吉な相似性の楽園、すなわち男性ではなくて女性を愛する女性たちが住む「未知の大陸(terra incognita)」の啓示なのだ(注15)。ここに至って相似性の秩序は、話者の決定的な隔離と同時に完全に価値が逆転し、はっきりと否定的な性格を帯びる。いまや彼の目に恋人は海への連想を伴って映ることをやめ、代わりにかつて田舎で目撃した少女たち(ヴァントゥイユ嬢と、その親友であり、アルベルチーヌが知り合いだと言ったばかりの女性)の同性愛の場面をそっくりそのまま反復するかのようである。

私が恐れていたこと、ずっと前からアルベルチーヌについて漠然と疑っていたこと、私が本能で彼女の全存在から引き出していながら、自分の希望する方向に理屈をねじ曲げて少しずつ否定してきたこと、それはやはり本当だった! アルベルチーヌの背後に見えるのは、もはや山々のように連なる青い海の波ではなく、モンジューヴァンの部屋だった。その部屋で彼女は、聞きなれない快楽のうめきのようなもののまじる笑い声をもらしながら、ヴァントゥイユ嬢の腕のなかに倒れかかる。〔中略〕かつてアルベルチーヌがロズモンドの肩にあごをのせ、にっこり笑って相手を見つめながら首筋に口づけをしたときの優美な仕草に、私はヴァントゥイユ嬢のことを思い出しながらも、動作が同一の線を描くからといってそれをかならず同一の傾向に由来するものと解釈することには、ためらいを覚えたものだった。だがこの仕草をアルベルチーヌは、ほかならぬヴァントゥイユ嬢から学んだのかもしれないではないか?(注16)

「私」の推測と現実との相似性は、二人の少女(アルベルチーヌとヴァントゥイユ嬢)の見せた仕草の相似性に立脚しており、仮に正しければ、アルベルチーヌの性的な嗜好の相似的性格(同性愛)という、「私」にとっては恐るべき帰結をもたらすことになる。そこにさらなる追い打ちをかけるのは、幼児期に田舎の家の寝室で味わった、階下の母との一時的な離別の悲しみであり、また知人であるシャルル・スワンをかつて苦しめた、恋人(高級娼婦のオデット)の秘められた生活への狂おしいほどの関心である(注17)。新旧の状況間の相似性は、ここではただ苦しみを倍加することにしか役立たない。しかも、このような内心の激動を経験しても部屋の様子が従来どおりで(注18)、前日と同じように規則正しく日が昇ることはむしろ神経を逆撫でする苛立ちの種であるから、話者としては何が何でも己の境遇の悲劇的な変化を外界に投影せずにはいられない。環境が不断に更新するそれ自体との相似性は、内面と環境との相似性へと置換されるべきなのだ。そしてその結果は、「これは夜明けとともにかならず荘重にくり返される私の日々の悲しみであり、私の傷の流す血であった」(注19)というくだりからわかるように、苦悩の永続的な記念碑の建立である。
前巻ではあれほど感動的だったはずの母と亡き祖母との相似も(プルースト『ソドムとゴモラ』)、もはや意味が変質してしまい、「私」が祖母に迷惑をかけるという状況の反復を招いてしまう。寂しさのあまり隣室の祖母の来援を願い、それでいて彼女が勧める日の出の美には見向きもせず、虚弱なくせに反抗心から酒に手を出した「私」の不行跡は、嗚咽で母を呼び寄せ、朝日の背後でこれ見よがしに女性と戯れるアルベルチーヌの幻に恐れおののき、にもかかわらず母の優しさにつけこんで彼女が不賛成だったアルベルチーヌとの結婚を強硬に主張するという言動の中に、きれいに再現しているからである(注20)。

こうして、『ソドムとゴモラ』が前半に続き後半もまた「めくるめく相似性の世界」であることは、おおざっぱとはいえ証明できたように思う。ただ、その相似性が、話者(主人公)はもちろん、それ以外の登場人物たちをも、当事者であるかぎりにおいて裏切ってしまい、ついで形骸化して真正な相似性の空疎な戯画(いわば相似性の相似性)となり、最後には自他の苦悩の原因にして増幅要因という新たな性格を隠そうとしなくなる、という点に違いがあるのである。
むろん、この一連の質的な変容は、おおよそ『失われた時を求めて』の中間に位置する第四篇『ソドムとゴモラ』が、私が考えるように作品全体にとっての蝶番の役目を果たすべきであるとするなら、そのかぎりではきわめて合理的なことだ。つまり、本巻における相似性の諸相が、一方では先立つ第7巻からの奇怪な変質を遂げつつも、他方では次の第五篇『囚われの女』(第9、10巻)の内容―嫉妬の虜囚になった話者はパリでアルベルチーヌと監禁同然の同棲生活を送る中で、精神的な影響力を行使して彼女を自分と同じような教養の持主にしようとするが、結局囚われの身のアルベルチーヌは遠くから彼を魅了する憧れの対象だった頃の美を喪失し(注21)、その上執拗な追及に負けてうっかり過去の同性愛の行状を告白してしまい、話者を苦しめるようになる―を予告するものでもあるという事態の中には、単なる偶然以上のものがあると認めなくてはならないはずなのである。


(1)『失われた時を求めて 8 第四篇 ソドムとゴモラII』(鈴木道彦訳、集英社文庫、2006年)17-19頁。なお、アンフィトリオンはモリエールによる同名の喜劇の登場人物で、本物の下僕と偽の下僕を前にして混乱させられる。
(2)同書176-177頁。
(3)同書187-188頁。
(4)同書195頁。
(5)同書308頁。
(6)同書373頁。
(7)同書427頁。
(8)同書457頁。
(9)同書480-481頁。
(10)同書484-486頁。
(11)同書494頁。
(12)同書496-498頁。
(13)同書508-509頁。
(14)同書512-514頁。
(15)同書569頁。引用に際して、「未知の土地」から「未知の大陸」へと訳語を改めた。
(16)同書571-572頁。
(17)同書580頁。
(18)同書589-590頁。
(19)同書594-595頁。
(20)同書595-600頁。
(21)『失われた時を求めて 9 第五篇 囚われの女I』(鈴木道彦訳、集英社文庫、2007年)327-329頁。
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