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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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ルソー『言語起源論』 

ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-1778)の思想における「自然(nature)」の概念は、謎めいた多義性に包まれている。

例えば『人間不平等起源論』をひもとけば、そのことは誰の目にも明らかである。ルソーはまず、文明に毒される前の、不平等とは無縁な、自由で孤独な野生人の天真爛漫な生活への憧憬を高らかに歌い上げる。その真率な調べを耳にしてなお、しばしば彼に帰せられる、「自然に帰れ」という標語の正しさを信じずにいることは難しい。にもかかわらず、原注IXで彼自身がこの標語の趣旨をきっぱりと却下しているとおり(注1)、「自然状態(l'état de nature)」の平和はいつまでも続くわけではない。やがては文明が生じ、家族単位での定住が始まり、農業や冶金、それに富の私有などの革新的な発明が続き、ついには社会と政府の結成が避けがたいものとなる。国家が成長するにつれて、当初は貧富の差にすぎなかったものが治者と被治者の差異になり、ついでいよいよ強権的な色彩が増して主人と奴隷の関係になる。
事態をややこしくするのは、ルソーにとってはこの一連の過程もまた、これはこれで人間という種にとって「自然」なことであり、少なからず偶然の出来事が関与しているとはいえ、それでもなお世界の所与の諸条件から出てくる、事柄の本性(nature)にかなった過程であるらしい、ということである(注2)。だからといってこの過程が、少しも彼の目に好ましく映るようになるわけではない。そしてそのことが、『人間不平等起源論』を、『社会契約論』などの他の主著と比べてもひときわ悲観的な性格の書物にしている。
ゆえに、一度は退散したはずのホッブズ的な「自然状態」、普遍的な闘争の状態が(注4)、文明の発展の果てに舞い戻ってくる。それこそは、ただ一人の最強者の足元で臣民が全員平等に圧政に苦しむ、専制主義にほかならない。

ここが、不平等の最後の到達点であり、円環が閉じて、われわれが出発した点に接する極点であり、ここで、すべての個々人が、無であるからふたたび平等になり、臣民には支配者の意志以外にはもう法律がなく、支配者には自分の情念以外の規制がなく、善の観念と正義の原理がふたたび消えてしまうのである。ここで、すべてはもっとも強い者の法律のみに、したがって、われわれが出発点とした自然状態とは違った新たな自然状態にまた戻るのである。一方は純粋な形での自然状態であるのに、他方は極端な腐敗の結果である。とはいえ、この二つの状態のあいだにはほとんど相違がなく、政府の契約は専制主義によってはなはだしく破られているので、専制君主は、もっとも強い者であるかぎりにおいて支配者であり、追放できるようになるとすぐに、暴力に対して少しも抗議できないのである。サルタンを殺したりその地位から退けてしまう暴動は、前日にサルタンが臣民の生命や財産を自分の思い通りにしていた行為と同じように、法律的な行為である。ただ力のみが支え、ただ力のみが倒し、すべてのことはこのように自然の秩序に従って行なわれ、この短くてしばしば起こる革命が、どんなものであろうと、だれも他人の不正を嘆くことはできず、ただ自分自身の軽率さかその不幸を嘆くことができるだけなのである。(注3)

もちろん、ホッブズによる主権の理論そのものがどの程度強権的であるかは、別途慎重に考えて結論を下すべき件である(注5)。それよりもここで注意しておきたいのは、先に「自然状態」を人類史上最も平和な時期として思い描いたはずのルソーが、いままたその語を、ただし今度は専制主義を指すのに用いているという事実なのだ。この奇妙な混乱は、文明や社会に対する彼の不信感がどれほど根深いものであったかを察しようと努める者にとってしか解消できないものに思える。なにしろ、引用文の冒頭に「不平等の最後の到達点」とあるとおり、少なくともうわべはこの専制主義が文明の歩みの行き詰まりなのであり、それの打倒後に続くべき、より合理的な政体については、ただそれとなく暗示されるのみにとどまっているのである。人間の本性(nature)はあまりにも腐敗し、自らの故郷であるはずの自然(nature)の理を忘れ果ててしまったので、それにとってはもはや本来の自然状態の正反対、すなわち暴力沙汰による玉座の奪い合いが日常茶飯事と化し、引用文の末尾にあるとおり「自然の秩序」であるも同然なのだ。それどころか、たかだか数回「この短くてしばしば起こる革命」によって専制主義が打倒されたところで、一向に事態の根本的な打開にはつながらないおそれさえあるほどである。
ルソーの政治哲学の実践としてのフランス革命は、絶対王政を打倒したまではよかったが、有機的組織への分割を忌避する以上結局は破壊的な恐怖(テロル)を招来せざるをえなかったというヘーゲルの批判も(注6)、また抑圧者(専制君主)の抑圧というヘーゲル的な「否定の否定」の理屈を援用することで、『人間不平等起源論』からことさら来るべき社会変革への鼓舞を引き出そうとしたエンゲルスの生真面目さも(注7)、ルソー本人のこの妥協を知らぬ悲観論の前ではいささか精彩を欠く。

人間にとっては他の動物とは違い、自然の懐からの離脱こそがむしろ自然な運命であること、にもかかわらずそれは、少なくともルソーその人にとっては大いに悲しむべき、埋め合わせることのできない決定的な損失を意味すること、この二点は『言語起源論』、特にその第16章(「色彩と音響との偽の類似」)に至っていよいよ顕著である。
「言語は最初の社会的な制度であって、ただ自然のなかにある原因のみが、その形態のもとになっている」(注8)・「単純な音は、自然に喉から出てくる。口は多かれ少なかれ自然に開かれる」(注9)・「そういうわけで、自然のものである声と音、抑揚と諧調は、約束事である分節の助けを少しも必要としないから、人々は話す代わりに歌うだろう」(注10)・「私たちの探求においては、自然の命じるところを忠実に追っていくよう努力しよう」(注11)・「自然が気前のよい南の風土では、情熱から必要が生じてくるが、自然がけちくさい寒い地方では、必要から情熱が生じる」(注12)・「音の美しさは自然のものである。〔…〕けれどもその快さは、自分たちの親しんでいる旋律豊かな調子によって生気を与えられていなければ、少しも魅力のあるものとはならないだろうし、甘美な楽しみになることもないであろう。〔…〕私たちの協和音も、素朴な耳には雑音としか聞こえない。自然の釣合いが変質させられてしまえば、もはや自然の快さが実存しなくても驚くにはあたらない」(注13)…このように一見したところでは、自然というただ一つの源泉から、言語と音楽がともに滾々と流れ出てくるのであり、両者は人間の魂の情念のほとばしりそのものなのだ。その源泉に魅せられ、惹きつけられる一方のルソーには、文字(書き言葉)や和声の複雑な体系などは、話し言葉や旋律の素朴さと比べて、基本的には忌まわしく煩わしい不自然な夾雑物としか思えない。
しかし、問題の第16章を読むと、どうやら自然と人間の魂との関係という観点から、この構図を考え直し、もしかすると手直しする必要がありそうだという感じを抑えることができない。ここでルソーは、絵画よりも音楽のほうが優れた芸術であるという主張を裏づけようと試みている。そして彼によれば、その根拠はなんと、絵画のほうが音楽よりも自然に近いということなのである。おそらくそれは、第14章の末尾の和声批判―「和声だけでは、ただそれだけに依存しているような表現のばあいでも、不十分である。雷、小川のせせらぎ、風、嵐などは、たんなる和音だけではうまく表現できない。どんなにしてみても、騒音だけでは精神に何も訴えない。聞いてもらうためには、事物が話しかけねばならないし、いかなる写生においてもつねに、ある種の言説が自然の声を代補するのでなくてはならない」(注14)―が暗に予告しているように、我々人間が誰しも意味の世界の住民であらざるをえず、したがって自然の声にじかに接する機会を永久に奪われており、仮に復帰をもくろんだところで、適切な人為的工夫という新規の媒介を経ないかぎり実現の望みは薄いという事情のせいなのだ。
この一見逆説的な主張を、もう少し立ち入って検討してみよう。一体いかなる点で、音楽が絵画よりも優れており、また前者よりも後者のほうが自然的だというのか。まず、色彩の配置は空間的だが音の流れは時間的である。それゆえ、「色彩は生命のない存在の装いであり、どんな物質にも色彩がある。だが音は動きのあることを知らせ、声は感じやすい存在がいることを知らせる」と判断してよいことになる(注15)。また、色彩については唯物論的な扱いが許されるが、音はそうでない。なぜならば、第一に色彩を決定する光線の屈折角度とは違って、発音物体の振動数は正確に測定できないし、第二にある色は他の色に囲まれていてもはっきりそれと認識することができるが、ある音の性格はその他の音と一緒に組織化されないかぎり決まらないからである。さらに、日の光さえあれば目は労せずして色彩を知覚できるのに対して、和声が耳に届くためには、誰か生きた人間がいて実際に演奏しているという条件が必須である(和声に対する評価が否定から肯定へと転じたことは、たぶん、音楽が絵画に対していかほど決定的な勝利を収めなくてはならないかを間接的に教えている)。

以上のことから、絵画のほうが自然に近く、音楽はより人間の技術にもとづいていることがわかる。また、音楽は人間を人間に近づけ、同類がいるという何らかの思いをつねにいだかせるので、それだけに音楽のほうが強く人々の関心をひくということができる。絵画はしばしば死んでいるように生気がなく見える。見る人を砂漠の奥まで連れていくかのようである。けれども音声記号が耳に達すると、それは自分に似た存在がいることを告げてくれる。その記号は、いわば魂を表わす器官なのだ。聞き手に孤独を描いてみせても、その声があなたは独りではないという。小鳥は鳴くが、人間だけが歌をうたう。歌を聞き、あるいは交響楽を聞くと、だれでもすぐに、ああここには感じることのできる者がもう一人いると思わずにはいられないのである。(注16)

要するに、音楽の価値は―まるで死んでいるように見えることが稀でない絵画という藝術の、「砂漠」を思わせる寂寥とは違って―他人の現前の確実な証拠(記号)であるという点に求めなくてはならない。その点は、デリダも指摘しているとおりである(注17)。自然から遠く離れてしまった人類にとっては、同類の魂のほうが風景よりも親しみが持てるのであり、その意味で自然な相手なのだ。しかし、抽象絵画を知らない時代の作曲家であるルソーの筆は、ここからさらなる逆説へと進んでゆく。

ふつうなら聞くことのできないものを描きだすことができるということも、音楽家の大いなる特権の一つである。画家には、見ることのできないものは表現できない。ただ動きによってのみ働きかける芸術のいちばん不思議なところは、休息のイメージをさえもつくりだせることにある。眠り、夜の静けさ、孤独、そして沈黙でさえも、音楽の画面のなかに入ってくる。たとえば単調で変化にとぼしい朗読を聞いていると眠りに落ちこみ、その朗読が終わった瞬間、目が覚めるように、ざわめきが沈黙の効果を生み、沈黙がざわめきの効果を生みだすことは、よく知られている。(注18)

このようなくだりを読むと、「どの程度まで人間が生まれつき怠惰であるか、想像もつかないほどである」云々(注19)というとある注の中の文も、滑稽な誇張の面白味を失って、なにやら鬼気迫る色合いさえ帯びてくるようだ。無為とは、生きた人間の内外をかわるがわる腐蝕する抗いがたい解体作用の一例なのだろうか。
人間の沈黙の表現であらざるをえないことが絵画の欠点であったのに対して、音楽の長所は自然の沈黙をさえ表現できることである。もちろん、一方の欠点と他方の長所を同列に並べて論じるのは、本当はおかしなことだろう。けれども、その不当な操作を誘発するかのように、ルソーがことさら「描きだす(peindre)」や「音楽の画面(les tableaux de la musique)」等の表現を選んでいることも確かなのだ。音楽の甚だしい専横は、ついには絵画性の横領に至る。そのような書きぶりは、次の引用における音楽のさらなる長所の列挙、なかんずく「砂漠(désert)」への再度の言及によって補強される。

だが音楽は、さらに深く私たちの心に、他の感覚がひき起こすのと同種の情感を、聴覚を通じてよびさます。その関連は、心に強い印象が与えられないと感じられない。絵画にはその強さがないので、音楽が絵画からひきだすような描写を、音楽からひきだして表現することはできないわけだ。たとえ自然の全体が眠っているようなときでも、それを見つめている人は眠っておらず、そして音楽家の技術は、対象の感覚しがたいイメージに、その対象の現前が見ている者の心にひき起こす動きのイメージを置き換えるところにある。音楽家は、海を波立たせ、火災の炎を燃えあがらせ、小川の水を流れさせ、雨を降らせ、激流を溢れかえらせるだけではない。荒れはてた砂漠の恐ろしさを描きだし、地下の牢獄の壁の陰惨な感じを深め、嵐をしずめ、大気を静かな澄みきったものにし、そしてオーケストラで、小さな森にすがすがしい風を送り、よみがえらせるであろう。むろん音楽家はそういったことを直接表現するのではない。そのような状景を見れば感ずるにちがいない情感を、魂のなかによびさますのである。(注20)

自然の眠りと音楽家の不眠との対照は、すでに検討した、絵画を通じて自然そのものと交際することよりも音楽を通じて同類と交際することのほうが人間にとっては自然なのだ、という命題、およびその理由が、絵画は「しばしば死んでいるように生気がなく見える」(そしてそれゆえ、「見る人を砂漠の奥まで連れていくかのようである」)というものであったことを思い出すならば、いっそのこと自然の死と、なすすべもなくそれを看取るしかない人間たちとの対照とすら形容したくなる。末尾近くでせっかく喚起される再生の予感(澄みきった大気とすがすがしい風)も、音楽家が自由にできるのは状景そのものではなくて、あくまでも情感上の等価物にすぎないことの確認とともに、かえってこの対照性を深めるばかりである。

自然は人間の内部ですでに息絶えており、人間と人間を結びつける藝術(技術)の絆の実態は、人間たちがこぞって自然のための喪に服することにほかならず、まさしくその点においてことのほか人間的と呼ぶに値すること、これが『言語起源論』から読みとれる両者の関係である。ルソーの自然讃美らしきものの正体は、自然の死を嘆く哀悼なのである。


(1)ルソー『ルソー選集 6』(原好男・竹内成明訳、白水社、2004年第3刷)110頁。
(2)同書26-27、59-60、70頁。
(3)同書93-94頁。
(4)同書49-51頁。
(5)特に『リヴァイアサン』の第二部、第20章「父権的および専制的支配について」と、第21章「臣民の自由について」を参照する必要があるはずである。邦訳では、ホッブズ『リヴァイアサン(二)』(水田洋訳、岩波文庫、2004年第22刷)70-105頁に相当する。
(6)ヘーゲル『精神の現象学 下巻』(金子武蔵訳、岩波書店、2002年)897-907頁。革命時のテロルをルソーの影響として把握する見方は、他には例えば『法の哲学II』(藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシックス、2001年)219-220頁からもうかがえる。もっとも、ともすれば修辞の過剰な感傷へと流れがちなルソーの著作のある種の水っぽさを考慮しても、ヘーゲルの『哲学史 下巻の三』(藤田健治訳、岩波書店、1967年)でのルソーの扱いは短すぎて少々物足りない(46-48頁)。なお、『社会契約論』の「一般意志」を恣意と同一視するヘーゲルの曲解に対する批判の例としては、フリードリッヒ・ミュラー『疎外と国家』(清水正徳・山本道雄訳、福村出版、1974年)の、特に第12章と第13章(62-77頁)、およびブルース・ハドック「ヘーゲルの社会契約論批判」(山田正行訳)、D.バウチャー/P.ケリー編『社会契約論の系譜』(飯島昇蔵・佐藤正志訳者代表、ナカニシヤ出版、1997年)198-219頁(第8章)がある。
(7)エンゲルス『反デューリング論 上巻』(粟田賢三訳、岩波文庫、1967年)232-234頁。おそらくエンゲルスのこの著作へのごく簡潔な示唆が、ドゥルーズの論文「カフカ、セリーヌ、ポンジュの先駆者、ジャン=ジャック・ルソー」(宇野邦一訳)、『無人島 1953-1968』(前田英樹監修、河出書房新社、2003年)108頁に存在する。
(8)ルソー『ルソー選集 6』(前掲書)137頁。
(9)同書146頁。
(10)同書147頁。
(11)同書163頁。
(12)同書180頁。この一文は、ともにやむにやまれぬ意思疎通のための媒体であるとはいえ、南国の言語と北国の言語では起源が異なることに注意を促している。ルソーによれば、前者は男女間の恋愛の中から発達してきたのに対して、後者は実用的な労働の場面に由来しているのである。
(13)同書190頁。ただし引用に際して、原文(Jean-Jacques Rousseau, Essai sur l'origine des langues, Édition critique, avertissement et notes par Charles Porset, Paris, A. G. Nizet, 1976, p.157: « Quand les proportions naturelles sont altérées, il n'est pas étonant que le plaisir naturel n'existe plus »)を参照した上で、訳文中の「自然の均斉がこわれたところに、自然の快さが存在しなくても驚くにあたらないだろう」を、「自然の釣合いが変質させられてしまえば、もはや自然の快さが実存しなくても驚くにはあたらない」へと改めた。
(14)同書192頁。ただし、訳文中の「すべて写生においては、ある種の語りかけで、自然の声をつねに補っておかなければならないである」(最後の「ならないである」は「ならないのである」の誤植だろう)を、「いかなる写生においてもつねに、ある種の言説が自然の声を代補するのでなくてはならない」に改めた。原文(Jean-Jacques Rousseau, Essai sur l'origine des langues, op. cit., p.161)は« il faut toujours dans toute imitation qu'une espéce de discours supplée à la voix de la nature »である。
(15)同書196頁。
(16)同書197-198頁。
(17)ジャック・デリダ『根源の彼方に―グラマトロジーについて(下)』(足立和浩訳、現代思潮新社、2002年第11刷)108-109頁。
(18)ルソー『ルソー選集 6』(前掲書)198頁。ただし原文(Jean-Jacques Rousseau, Essai sur l'origine des langues, op. cit., p.175)を参照して、「大いなる」(grands)を補い、また「音楽の表現」を「音楽の画面」(les tableaux de la musique)に改めた。
(19)同書171頁、原注(1)。「生まれつき」の原語は« naturellement »(「自然と」)である(Cf. Jean-Jacques Rousseau, Essai sur l'origine des langues, op. cit., p.109, note[1])。
(20)同書198-199頁。ただし、訳文中の「溢れかえさせる」を「溢れかえらせる」に改めた。また、「対象の感覚しがたいイメージに、その対象の現前が見ている者の心にひき起こす動きのイメージを置き換える」も、「対象の眠ったようなイメージを、その光景を見ている者の心にひき起こされた動きのイメージにおきかえ、表現する」という訳を、私(引用者)の判断で改めたものであり、原文(Jean-Jacques Rousseau, Essai sur l'origine des langues, op. cit., p.177)は« substitüer à l'image insensible de l'objet celle des mouvemens que sa présence excite dans le cœur du contemplateur »である(この際「に」と「を」を入れ替えたのはフランス語の構文を尊重したつもりなのだが、音楽家が「対象の感覚しがたいイメージ」の代わりに「動きのイメージ」を創造する、という関係がややわかりにくくなった気もする。仏文和訳の宿題として、今後とも考えていきたい)。

(付記)注(13)の« étonant »(« étonnant »でない)、注(14)の« espéce »(« espèce »でない)、注(20)の« substitüer »(« substituer »でない)や« mouvemens »(« mouvements »でない)と、引用したフランス語原文の中に若干現代の表記とは異なるものが混じっているが、いずれも原著からの忠実な転写である。
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