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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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日日日『のばらセックス』10 

『のばらセックス』におけるアレゴリー、という主題で、少し連載じみたものを書いてみようと思う。
たぶん全部で四回くらいの見当で、主にベンヤミンに依拠しつつ、折に触れてドゥルーズの文体論(『プルーストと記号』)やフロイトの欲動理論にもご登場願う予定でございます。

第一回ということで、まずは書き出しの検討から始めたい。

あたしには健康で文化的な最低限の生活を送る権利がある。職業選択や結婚や信仰の自由も与えられている。だけど、あたしの人生はあたしのものじゃない。ファック。ファック。ファック。(注1)

最初の二つの文が、日本国憲法への暗示を含んでいることは一見して明らかである。具体的には、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」、いわゆる生存権は第25条が保障しており、また「職業選択の自由」については第22条に規定がある。さらに「結婚や信仰の自由」についても、このとおりの表現は日本国憲法の中に見当たらないとはいえ、第24条や第20条の趣旨から難なく導き出すことが可能であろう。

ところで、以上のごとき諸権利の主語、すなわち人権の享有主体は、一体誰なのか。
いましがた言及した条文がいずれも日本国憲法の第3章に属し、かつ章全体の題名が「国民の権利及び義務」であることにかんがみれば、その答が「国民」であることは間違いない。事実、第25条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」となっている。要するに、この書き出しをそのまま受け容れた場合、話者である坂本おちば様は一人の日本国民である、ということを何はさておき認める必要があるはずだ。

しかしこの前提は、読者が「だけど、あたしの人生はあたしのものじゃない」という箇所にさしかかるや否やとたんに怪しくなってくる。並みの日本国民が、それほど徹底的な不自由を法的な次元で甘受しなくてはならない境遇にあるとは到底思えないからだ。
いや、少なくとも一人の例外がいる。ほかならぬ日本国憲法によって、自分のものではありえない人生を歩むことを定められた人物が、少なくとも一人存在する。開巻早々に第1条が名指ししているその例外的な人物とは、もちろん天皇陛下のことである。曰く、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」…さて、この条文を読むかぎり、生身の人間でありながら同時に一国の「象徴」たる天皇陛下を、日本国民の一員に数え入れてよいとはなかなか思えない。もっとも学説上は、天皇・皇族も日本国籍を有するれっきとした日本国民であり、ゆえに日本国憲法が定める人権の享有主体であると考えなくてはならないらしいが、それでも「皇位の世襲と職務の特殊性から必要最小限度の特例が認められる」由であり、したがって結局はやはり、やんごとなき方々の人権の享有には一定の制限が設けられるのである(注2)。個人的な関心の赴くままに生物学を研究することはできてもそのために公務をおろそかにするわけにはいかないとか、立場上ローマ教皇と会談することはできてもキリスト教に入信するわけにはいかないとか、実例はいくらでも思いつく。ご生誕の瞬間からお隠れになるまで一生ずっとこの調子では窮屈でお気の毒だと感じるか、伝統とはおおむねこうしたものだと割り切ってむしろ敬愛の念を覚えるか、そのあたりは人それぞれ意見があろうが、とにかく、御所の内で無制限の職業選択の自由や信教の自由がまかりとおれば天皇家の根幹が瓦解してしまうのは目に見えている。
この種の不自由さが特に顕在化するのは、何かの拍子に従来どおりの皇位継承が期待しにくくなった場合であろう。日本国憲法の第2条によれば皇位は世襲であり、皇室典範の規定に則ることになっている。そして皇室典範はその第1条で、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定めている。したがって当然ながら、「皇統に属する男系の男子」が一人もいなくなってしまえば、その時点で皇室の存続は不可能になる。一般の家庭であっても、子宝に恵まれるかどうかの問題はしばしば小さからぬ関心を惹起するものであるが、こと皇位継承という観点から考えるかぎり、天皇家においては夫婦間に男子が生まれた場合とそうでない場合との間に、段違いの大きな差があることは否めない。
ヘーゲル(『法の哲学』)によれば、君主とは国家における主体性、すなわち意志の自己規定の原理の究極的な体現者であらねばならず、したがって理想的には「いっさいの他の内容を度外視したこの個人として存在し、そしてこの個人は、直接的自然的な仕方で、すなわち自然的出生によって、君主の位に即(つ)くように定められている」というのが望ましい君主のあり方らしい(注3)。ヘーゲル的な立憲君主は、諸々の個人的特性(身長、体重、容姿、知能、食べ物の好き嫌い等々)を問題にされてはならず、ただ血統によってのみ「形式的決定を行なう頂点」という立場を占め、そこから「われ意志す」というたった一言を法律に追加する(注4)。天皇の地位が世襲であり、あくまで生物的な原則を守っていることは、ヘーゲルが哲学的に正しいと考えた君主像に完璧に合致する。

さて、ようやくこのあたりから本題に入る。以前の記事(ブルクハルト「芸術作品におけるアレゴリー」)でも述べたように、ベンヤミンによればアレゴリー(寓意)は、シンボルつまり象徴との対比において、記号と意味の乖離という特徴によって定義することができるようだ。
だとすれば、『のばらセックス』の冒頭で話者として現れる主人公のおちば様が、一方では日本国憲法の文言をほとんど逐語的になぞりつつ、自らが権利や自由の主体としての日本国民の一人であることを確認しておきながら、他方ではじつに二千年間も途絶えていた女性の再来(しかも、実際には本人が信じていたように二人目ではなくて一人目)であり、その比類なき貴重さゆえに、国家の手で性別を隠したまま生活を管理されている―「あたしは国の大事な資産で、厳重に保護をされている。動物園の生き物みたいに。誰もいない檻のなか……」(注5)―という事情を考慮するとき、表面上の自由から不自由な内実へと読者を導くこの距離には、それ自体としてアレゴリー的な調子があると考えてもよいのではないか。そして、生物的な稀少性ゆえに完全には日本国民の一員たりえない人間として真っ先に思い浮かぶのは、上述のとおり天皇・皇族にほかならない。
もちろん、仮に両者間に目立つ差異が皆無であるか、あるいは全く不規則な差異しかなかったとすれば、このような疑いの生じる余地はない。ともに国家が保護すべき貴重な存在であるといっても、片や天皇が代々男系で続いてきた由緒正しい血統の保持者として頻繁に公的な式典に姿を見せるのとは対照的に、片やおちば様は「何百万分の一っていう遺伝子のいたずら」によって二千年の断絶を飛び越えて出現した、最重要の国家機密としての「女性という怪異」(注6)なのであり、また前者が実質的な権力こそ有さないもののいまなお形式的には大臣を任命する立場にあり、その権威の維持には次代を担う男子の誕生が欠かせないのとは対照的に、後者はII章に入ると絶大な権力の持主である義父の「あいちゃん」こと坂本逢(じつは偽物らしいのだが)の館に監禁され、新たな女子の懐妊を求められて来る日も来る日ももりもり強姦される。
この複数の対照性の確認によって、生物学的な要因ゆえに残りの日本国民(全員が男性!)とは決定的に異なる扱いを受けなくてはならず(注7)、さりとて天皇・皇族そのものでもない(例えば、「坂本」という苗字がある)おちば様のどっちつかずの存在論的な身分が、一応は前者に属しつつしかも他方では後者への参照を促すような性格をも併せ持ち、なおかつ双方を隔てる溝を消去しないというアレゴリー(寓意)的な関係性は、弱まるどころかむしろ強化される。彼女がいわば天皇という特異な存在のアレゴリー(寓意)なのではないかという思いを抱かずにいることは、このようにいっそう具体的な比較の観点からも難しくなってくるのだ。ついでながら日日日の作品からうかがえる天皇家への暗示については、以前の記事でも触れたことがある(日日日『ささみさん@がんばらない7』)。
そしてその判断は、すでに引用した日本国憲法の第1条によれば、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるという事情を思い合わせるならいよいよ不可避である。なぜならば、少なくとも、象徴(シンボル)を偏重してきた伝統的な美学の姿勢に一石を投じようとするベンヤミンの考えでは、寓意(アレゴリー)は象徴の不遇な隣人として日陰の境遇に甘んじてきたがゆえに、まずは両者の概括的な対比を通じて把握されるべき対象だからである。

シンボルにおいては、没落が美化されることによって、変容した自然の顔貌が救済の光のなかでつかのま現われるのに対し、アレゴリーにおいては、歴史の死相が硬直した原風景として考察者の目のまえに広がる。歴史は、最初からそこにつきまとっている時宜を得ないこと、痛ましいこと、失敗したことのすべてが、一つの顔貌―いや、一つの髑髏となってはっきり現われる。そして、たしかにそのような髑髏には、表現の「シンボル」的な自由がいっさい欠けており、形態の古典的調和や人間らしさもことごとく欠けている―しかし、人間存在そのものの自然本性ばかりか一個人の伝記上の歴史的なことまでもが、このようにもっとも深く自然の掌中にとらわれた姿で、謎の問いかけとなって意味深く現れてくるのである。これがアレゴリー的な見方の核心、すなわち、歴史を世界の受苦の歴史として見るバロック的、世俗的な解釈の核心にほかならない。(注8)

おそらく、この引用文中で「シンボル」(象徴)に帰せられている「自由」とは、表現の闊達さ、流麗さにほかならず、それ以外の表現法がことごとく無骨に見えてしまうような唯一無二の的確さを指すのであろう(ゆえにそれは、天皇陛下がまさにそうであるように、生身の個人そのものが「象徴」の役目を果たす場合に経験せざるをえない不自由さと矛盾しないし、それどころか別の生き方の可能性をことごとく締め出すという点において、この不自由さの原因でさえある)。ここではその他の論点を逐一点検することはしないでおくが、ともかく、ベンヤミンにとってアレゴリー(寓意)がシンボル(象徴)の対極にある美学的概念であることは疑問の余地がない。両者の対照、すなわちアレゴリー(寓意)の場合だと「歴史は、最初からそこにつきまとっている時宜を得ないこと、痛ましいこと、失敗したことのすべてが、一つの顔貌―いや、一つの髑髏となってはっきり現われる」という事態は(注9)、いっそう整理すれば、以下のごとき原理から派生してくるものにほかなるまい。

いかなる人物、いかなる事物、いかなる関係も、すべて任意のほかのことを意味することが可能である。この可能性は、世俗の世界に対しては破壊的ながらも正当な判決を下す。つまり世俗の世界とは、細部などさほど厳密に問題とはならない世界だとされるのである。しかし、とりわけアレゴリー的文典解釈が念頭にある者にとっては、まったく誤認しようもなくあきらかになることがある。つまり、こういった意味を指し示す働きのあるどの小道具も、すべてまさにほかのことを指示することによって壮大な力を獲得するのであって、その力によって小道具は、世俗的な事物とは比較しえない姿で現われ、一段と高い次元に押しあげられ、それどころか神聖視されることもありうるのである。したがって世俗の世界は、アレゴリー的な考察で位置が高められると同時に、価値が下げられることになる。(注10)

この一連の考察はそのまま、『のばらセックス』の冒頭を飾る、おちば様の「あたしの人生はあたしのものじゃない。ファック。ファック。ファック」という憤りを理解するための決定的な鍵でありうる。世界にただ一人の女性として、あるときは過剰に思い入れのこもった崇拝や畏怖の念を寄せられて当惑し、またあるときは権威の独占を狙い、そのためには利用する相手の意向を無視した非道な手段を執ることも辞さない輩に人格を蹂躙されるおちば様は、いずれにせよつねに他者の期待によって翻弄される中で、彼女自身が実感する己の価値以上に高い(高すぎて迷惑な)位置に、分不相応にも縛りつけられてしまうからだ。さらにいましがた「世界にただ一人の女性」と書いたが、公にこの肩書をほしいままにしているのは彼女の母親であるはずの(しかし、実際には存在したためしのない)坂本のばら様であるから、この表現は不正確である。ゆえにおちば様を評価する男たちはみな、のばら様同様に彼女もまた「女性」であるというただ一点のみに着目しているか、もしくはii章でのように、変装した彼女ののばら様と寸分たがわぬ外見に惹かれているにすぎない(注11)。まさに引用文中にあるとおり、アレゴリー(寓意)表現においてはいかなる個々の人物・事物・関係も「ほかのことを意味すること」によって、「位置が高められると同時に、価値が下げられることになる」というわけである。この落差が、ことあるごとに彼女を悩ませ、ベンヤミンの語彙を借りるなら「悲哀(トラウアー)」をもたらすことで彼女を「沈思家(グリュープラー)」にする。「あいちゃん」の館でおちば様が口にする「何で、あたしばっかり……」という修辞疑問文型の泣き言は(注12)、「すでに大問題の解答を手にしながら、次いでその答えを失念してしまったような人物」(注13)という、ベンヤミン的な沈思家の定義と一緒に読まなくてはならないのである。
このように考えてくれば、『のばらセックス』という作品のアレゴリー(寓意)的な性格は、とりあえず主人公については立証できたように思う。次からは、小説の内容のさらに立ち入った検討を進めたい。


(1)日日日『のばらセックス』(講談社、2011年)8頁。なお、原文では「あたしのもの」に傍点が付してある。
(2)芦部信喜『憲法 第四版』(岩波書店、2007年第2刷)86-87頁。
(3)ヘーゲル『法の哲学II』(藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシックス、2001年)320頁。なお、この引用ではやむなく太字に改めたが、原文では最初の「この」と「出生」の二語に傍点が付してある。
(4)同書322-323頁。
(5)日日日『のばらセックス』(前掲書)17頁。
(6)同書261、346頁。
(7)同書161-162頁。「女ってのがいちばん生物的なもんなのだ!」という台詞が出てくる。
(8)ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(岡部仁訳、講談社文芸文庫、2001年)262-263頁。
(9)ちなみに、『のばらセックス』(前掲書)122頁では、カーニバルのための仮装を準備中のおちば様が「頭蓋骨のかぶりもの」を装着している。
(10)ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(前掲書)276-277頁。
(11)日日日『のばらセックス』(前掲書)282-290頁。
(12)日日日『のばらセックス』(前掲書)212頁。
(13)ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論 第2巻』(今村仁司・三島憲一訳、岩波現代文庫、2003年第2刷)427頁。
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