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一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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「西尾維新論のために」 

群像新人文学賞に応募していた評論が落とされた。
はっきり「落ちましたよー」と連絡がきたわけではないが、受賞作の中に見当たらないのだから、そう考えるほかない。
規定字数の倍以上あったので、おそらく読んでももらえなかったのではないかと思う。
残念といえば残念だが、応募規定を守らなかったのはこちらなのだから仕方ない。

しかしこのまま闇に葬ってしまうにはあまりに惜しいので、若干加筆修正してブログで公開することに決めた。
題して「西尾維新論のために」である(ちなみに応募時の題は違う)。

本来人間の評価は棺を覆うてから定まるものであるからして、快進撃を続ける現役の作家に対してあまり断定的な決めつけをするのはいささかはばかられるし、それに私は『新本格魔法少女りすか』を個人的な事情で読むことができない(もちろん本を入手できないという意味ではない)ので、あくまでも「…論」ではなく「…論のために」である。
しかしながら、内容に関しては自信を持っている。
これ以上の西尾維新論があれば読ませてみろ! と言いたい
…ま、審査委員というか下読みの人が、隅々まで読んだ上で落とした可能性だって否定はできないので、こんな風に見栄を切るのはちょっと気恥ずかしいが。それに文体の生硬さはいかんともしがたい。

一応執筆の動機について説明しておくと、みなさん「西尾維新=無意味な言葉遊び」という先入見に囚われすぎじゃありませんか、という疑問があったのである。
言葉遊びが無意味だというなら、勅撰和歌集だろうが唐詩選だろうがシェイクスピアだろうがラブレーだろうがレーモン・ルーセルだろうがジェイムズ・ジョイスだろうがヌーヴォー・ロマンだろうが、伝統的な詩や現代文学の大部分が等しく「無意味」だということになってしまって味気ないことこの上ないし、しかもこれほどまでに異なる諸作品が「等しく」無意味でなくてはならないとすれば理不尽感も半端ない。こんな粗雑な先入見を押しつけてしまえば、相手が西尾であれ誰であれ結果が不毛なのは目に見えている。第一裁判所の判決文とか企業の契約書とかに比べればあらゆる文学活動が「無意味な言葉遊び」に決まっているのであって、だから個別の作家を判定する場合にこんな標語をいくら振り回したところで得るものは少ないし、この意味での無意味さの中に最初から何ら価値を見出せない人なら、そもそも小説を読もうとするのが間違っている。
そこで私は、西尾維新の代表作として『きみとぼくの壊れた世界』や『化物語』を選んで、到底上記の先入見だけでは計り知れない、豊かな―現代日本の小説家ではほかにほとんど類例がないほど豊かな―哲学的含蓄がそこに認められることを証明せずにはいられなかったし、その過程で小森健太朗、小泉義之、福嶋亮大の諸氏による既存の西尾維新論に対して強い違和感を覚えずにはいられなかった。
もちろん、あれこれ細かい部分については異論もありうることだろうが、とにかく端的な無意味さという先入見が不十分なことだけは、これを読めば誰しも同意せざるをえまい。それどころか本音を明かせば、西尾維新は公平に見て現代最高のモラリストだと私は考えているのである。願わくば私以外の方々にとっても、この論文が同様の判断を下すための十分な根拠か、あるいはせめて真摯な検討の材料を提供する呼び水たらんことを。

以下、内容(全5章)のおおまかな予告です。
第1章「哲学と虚構」は、虚構と哲学の一般的な関係を簡単に規定しつつ、『きみとぼくの壊れた世界』をライプニッツ哲学の文脈の中に位置づけることの正当性とともに、そのような一般的な位置づけにとどまらぬ、より詳細で具体的な検討が必要なゆえんを示すことに費やされる。
第2章「隠喩と換喩」ではヤーコブソンの失語症論を参考に、櫃内様刻が隠喩を、病院坂黒猫が換喩を体現する登場人物にほかならないことを立証しながら、『きみとぼくの壊れた世界』の山場の綿密な分析を行う。おそらく論文の全体を通じてことのほか読み応えのある章になっているはずである。
第3章「実存と倫理」では一転して、前の章の成果を戯言シリーズや『化物語』にも広げ、随時ライプニッツを参照しながら、西尾の作品から抽出できる最も根本的な構造とは何であるかを問うことで、最小限の実存の肯定という概念を提示し、あわせて日本文学史におけるその意義をも考察する。最大の成果は「倫理の存在論化」の発見である。
第4章「換喩と隠喩」では再び『きみとぼくの壊れた世界』の分析に取り組み、第2章で得られた知見のさらなる裏づけを発掘することに努める。隠喩から換喩へという移行を考慮することで、作品の結末に関して少なからず意外な見通しが開けるはずである。たぶんこの章が、今後この小説を読む人にとっては最も啓発的なのではないか。
第5章「虚構と哲学」は先立つどの章よりも、哲学的に充実している。この章は最善説(オプティミズム)、不完全性定理、関係の理論、心身相関等の主題を扱いつつ、ライプニッツの形而上学に潜む倫理的な射程の解明を進めているが、それは同時に、『きみとぼくの壊れた世界』の中のまだ手つかずだったいくつかの問題について、どれほど厳密さにこだわる読者の要求をも満足させられるだけの解答を与えようとする試みと表裏一体でもある。というより、前者のごとき読み直しは後者の試みに後押しされて初めて可能になるのである。例えば、一人称の話者を務める様刻がうろ覚えの知識で「後期クイーン問題」の定義を確認しようとする文脈において地の文に現れるのが、「ゲーデル問題」ならぬ「ゲーテル問題」でなくてはならないのは一体なぜか(注1)、また重力(引力)に関する謎かけの答がわからなかった彼が、あっさりと正解を教えてくれた妹から聞かされる頓知のような談義にはいかなる意味を認めるべきか(注2)、こうした疑問にも私は一応筋の通った説明を見出しえたと信じる。哲学の研究書に慣れた人の目には、ミシェル・セールやルイ・クーチュラなどの応用が斬新なものに映るかもしれない。「存在論の倫理化」の発見とともに、いまや西尾維新の小説がライプニッツの哲学の小説版であり、ライプニッツの哲学が西尾維新の小説の哲学版であることが最終的に判明する。

というわけで、本論文は西尾維新とライプニッツの関係が気になって仕方がない人(何人いるんだろう?)にとっては、必読の文献であると信ずる。もっとも、結果的にライプニッツ入門のような体裁にもなったので、もっぱら哲学的な関心から読むこともたぶんできる(念のためにことわっておくと、この両名を連想によって結びつけるというだけならば小森健太朗に先例があるものの、私のほうがはるかに詳細で充実した結論に達しえているはずである。この対照は、私の場合は参考にできる西尾作品の数が、主として『クビシメロマンチスト』に依拠するほかなかった彼と比べて格段に多いという単に量的な事情の然らしめるところであるには違いないが、小森の主張はそもそも『クビシメロマンチスト』論としても破綻していると思えたので、論文中のある注で批判しておいた)。参考文献表をご覧になれば一目瞭然であろうが、Ohad NachtomyやLloyd StricklandやDennis Plaistedによる、近年の欧米のライプニッツ研究を渉猟しているという点も、私の論文の特色の一つではないかと思う。

前置きはここまで。
それでは、ひとつ読んでみようかという物好きな方は以下のGoogleドキュメントよりどうぞ。結構長いよ(10万字以上ある)。

「西尾維新論のために」

感想・意見・文句等ございましたらコメント欄にお書きください。


(1)西尾維新『きみとぼくの壊れた世界』(講談社、2007年)235-236頁。
(2)同書320頁。
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