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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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日日日『のばらセックス』9 

虚構とは誰のためのものか。

例えば西尾維新の『少女不十分』(講談社、2011年)からは、虚構とは一人称(私)から二人称(あなた)への贈り物だという回答が導き出せそうだ。
この小説は「僕」こと柿本(かきもと)―この名の由来は「本書き」だろうか―が、作家としての自己の原点とも呼ぶべき10年前のある経験を綴る、という体裁になっている。
当時20歳の大学生だった彼はあるとき、一人の小学生の少女の奇妙に非人間的な振舞を目撃してしまう。
彼女は友人の事故死に立ち会いながらやっていたゲームを途中で投げ出さず、こともあろうに律儀に規定箇所でセーブしてから遺体に駆け寄ったのだ。
それから一週間後、「U・U」と名乗るその少女は自身の「正体」が露見するのを恐れるあまり、彼を刃物で脅して誘拐し、自宅に軟禁するという挙に出る。
その手口たるや隙だらけの稚拙なもので、「僕」は何度か(何度も)脱出の機会を見つけるが、そのたびにあれこれ理由を案出してだらだらと彼女の家に居座ってしまう。
両親の気配がしない家庭、ひどく礼儀正しい一方で挨拶の履行に尋常でない執着を見せるU、料理の形跡のない台所、そして少女の傷だらけの身体…徐々に募る不自然さに促された「僕」はついに、監禁生活6日目にして事件の背後に潜む事情を知る。
Uが学校にいる間に二階で「僕」が発見したのは、娘が日々守るべき膨大な規則が書きこまれたノート(挨拶に関する規定から始まって延々と続く条項の中には、「ゲームをやりっぱなしにしないこと。」や「自分の正体を知られないこと。」もある)を残し、いがみあいの果てに互いの首を絞めて絶命に至った両親の死体だったのだ。
自由帳ならぬ「不自由帳」によってがんじがらめに心を縛られ、虐待されながら育ったあげく小学四年生にして孤児となったUは、もはや人並みの人生を送れる望みは薄い。疲れ切った彼女が「僕」から望んだのはたった一つ、物語を聞くことだった。
求められるまま、懸命になって一晩中「僕」は語り続けた。「道を外れた奴らでも、間違ってしまい、社会から脱落してしまった奴らでも、ちゃんと、いや、ちゃんとではないかもしれないけれど、そこそこ楽しく、面白おかしく生きていくことはできる」(注1)というメッセージを詰め込んだ、数々の即興の物語を。
茶番じみた一週間の誘拐劇は警察の介入であっさりと幕切れを迎え、それ以来「僕」は少女と会っていない。だが、10年後の今日まで彼が作家として書き続けてきたのは、この夜に語った「たわいないおとぎ話」の延長以外の何ものでもないのだ…。
そして小説は最後に、新人の担当編集者として現れた彼女、「夕暮誘(ゆうぐれ・ゆう)」との再会を描いて終わる。

ところで。
当たり前だが、ひらがな五十音をローマ字表記に置換した場合にUというアルファベットが表わすのは「ゆ」ではなくて「う」であり、したがって「U・U」(ユウ・ユウ)と略されるべき女性の名前も例えば「内田(Uchida)梅子(Umeko)」とか「上野(Ueno)歌子(Utako)」とかでなくてはならない。逆に本名が「夕暮(Yugure)誘(Yu)」ならば、ローマ字によるイニシャル表記は「Y・Y」(ワイ・ワイ)のはずである。
ここから何が分かるか。
著者にとっては「ユウ(U=夕=誘)」という音をこの少女の名に盛り込むことが何よりも大切だったのである。
そして「ユウ」は英語の二人称である"YOU"(きみ、あなた)に通じる。
たとえ彼女ほど極端な境遇ではないにせよ、我々は誰しも家庭や学校や会社で、あるときは理不尽な規則に拘束され、あるときは人間関係の重圧に悩み、しばしば窒息しそうな思いをしている。そんな我々読者に向かって、物語の、つまりは虚構の自由さというとっておきの贈り物の存在を知らせるべく、西尾が二人称の喚起力に訴え、かつてないほど率直な声で呼びかけているのだ、と、そう読むことに、とりあえず無理はない。
ただし、過度の単純化は禁物である。たしかに話者である「僕」(柿本)自身は、これが(『少女不十分』の筋書本体が)「実際にあった出来事」であり、自分は「現実にあったことを、そのまま書くだけ」で、だから「これは物語ではない」とたびたび念を押している(注2)。だがもちろん、出来事自体の異常さからも、そもそも彼の名が西尾でなくて柿本であることからも、ここに書かれているのが西尾氏自身の体験そのままであるという意味で事実だとは信じるべきでない。かかる入念な工作は、一方では現実との対比を通じて非現実たる虚構の地位を鋭く浮き彫りにしつつ、他方では虚構というものがその非現実性ゆえに、ほかならぬ現実のただなかで、いかに我々にとって切実な必需品でありうるかを強調するためのものとでも考えておけばよいのではないか。
かつて「書くこと」の本質への問いをめぐってモーリス・ブランショが繰り広げた執拗な思索によれば、文学作品の執筆とは言語そのものの存在を解放する非人称的な営みであり、そのかぎりにおいて作家たる「私」が何らかの二人称(「汝」)と交流するという構図は認めがたいという。

書くとは、終りなきもの、止まざるものだ。作家は、「私は」と言うのを断念する、と言われる。カフカは、自分は「私は」を「彼は」に置きかえ得た時から文学に入ったと、驚きながら、ある恍惚たるよろこびをもって語っている。これは本当だが、この場合の変容は、もっとはるかに奥深いものなのだ。作家は、誰ひとり語らぬ言語に、誰にも向けられず、中心も持たず、何ものも明さぬ言語に属している。彼は、この言語のなかで自己を主張していると思っているかも知れないが、彼が主張するものは、まったく、自己を奪い去られている。彼が、作家として、書かれるものを正当に扱うかぎり、もはや決して、自己表現など出来ぬ。その上更に、汝に呼びかけることも、他人に語らせることも出来ぬ。作家が存在しているところでは、ただ、存在だけが語っている―という意味は、言語がもはや語ってはおらず存在しており、存在の純粋な受動性に委ねられているということだ。(注3)

我々としては、どう考えるべきか。ブランショがこう看破している以上、西尾は作家として不徹底なのだと断じればよいのか、それとも両者を比べること自体が無意味だと結論づければよいのか(ブランショは1907年に生まれ、2003年に没したフランスの作家・批評家である)。だが上記のごとく『少女不十分』は、一方で内容の真実性をくどいほど何度も保証しつつ、しかも他方では「僕」の姓が西尾でなく柿本であり、物語の聞き手は漠然たる"YOU"ではなくあくまでも「U・U」こと夕暮誘であるという両極性に由来する緊張を抱え込んでおり、かつその緊張はどこまでも消去しがたいように思える。そもそも「僕」が少女に話した物語はいずれも、内容に関してはごく簡潔な(二、三行程度の)要約以上の情報がないものの、この梗概から判断するかぎりどうやらこれまで西尾維新が発表してきた小説群そのままであり、したがってその主語(主役)は―たとえ話者を兼ねる一人称であろうと―「僕」(柿本)自身とは一致しないし、ましてや少女(夕暮誘)でもありえない。
思うにほかならぬこの緊張を抱えた両極性にこそ、虚構というものの解放力が存するのである。それを語る声は、もはや素朴な一人称の境地にとどまっていることができない。

緊張で上擦っていた僕の声も、いつしかニュートラルなものになっていた。意識するまでもなく。それはきっと語るのが、僕の言葉ではない『お話』だったからだろう。僕という個人は消失し、僕はただの語り部になる。(注4)

この声の変貌、「ニュートラルな」、つまり中立的で中性的なものの出現こそ、ブランショによれば文学の成立にとって決定的な瞬間を画するものである。

書くとは、時間の不在の眩惑に身を委ねることだ。われわれは、おそらく、ここで、孤独の本質に近づいている。時間の不在とは、純粋に否定的な様態ではない。〔…〕純粋に否定的な様態どころか、むしろ逆に、それは、否定も決定もない時間であり、そこでは、今ここに(ici)が、どこでもない(nulle part)でもあり、あらゆる物が、おのれのイマージュのうちに身を潜め、われわれが現にそうである「私は」は、姿なき「彼は」の中性的性質のうちに沈みつつ自己を再認するのだ。(注5)

おそらくは虚構が一人称から二人称への贈り物でありうる(すなわち、両者いずれの占有物でもない)ゆえんもまたここに求めるべきではないか。むしろ我々は『少女不十分』から出発することで、ブランショに対して、こう問い返すことが可能なのかもしれない。あなたは、文学の非人称性を確立することにあまりにも性急ではなかったか、「誰のために」という宛先の問題を、あまりにも早く視野から追い払ってしまったのではないか、と。たぶん、人称代名詞それ自体を人名化するという意味での脱人称化は、端的な非人称性への加担より、少なくとも複雑な(高度な、とまでは断定しかねるが)操作であるからだ。

同じく人称代名詞を人名に改作しているといっても、日日日の『のばらセックス』(講談社、2011年)における坂本三兄弟、逢(あい)・緒礼(おれ)・綿志(わたし)の場合は方向性が逆である。というのも、単に二人称と一人称との差異があるだけではないからだ。仮に『少女不十分』が、現実から虚構へという方針に沿って、「僕」が脱人称化された二人称に向けて発する架空の(この限定は欠かせない)呼びかけだとすれば、『のばらセックス』は虚構から現実へという反対の方針がうかがえることのみならず、「あたしの人生はあたしのものじゃない」(注6)という苛立ちを抱えたおちば様が―彼女の存在論的な地位が不安定であることは、例えばときに純然たる一人称を占拠し(I、II、III章)、ときに三人称で対象化される(i、ii章)ことにも現れている―、脱人称化(固有名詞化)した一人称にほかならぬ緒礼、すなわち自身にとっての造物主たる父親の所行を遡及的に発見するまでの探究の過程であるという点でも、その好一対たりうるのである(注7)。彼がどうしようもなく作家の生態を連想させる点についてはすでに以前の記事でも触れた(日日日『のばらセックス』7)。
したがってこの過程はまた、おちば様が作家の仕事、要するに虚構の創造という営みの価値への理解を深めていく過程でもあるのではないか。たしかに彼女は架空の母親(のばら様)に扮し、我が身を賭してこの「世界で一番目の女性」に人々が寄せる思慕の念を断ち切っているが(ii章)、祭日に公衆の面前で斬首されるという、このそれ自体演劇的な行為に神話化の反面があることも明らかであるし(注8)、何よりI章およびII章で彼女自身を襲う危機から脱出することも、彼女が正直者であれば到底不可能だったはずだ。
虚構への同調の最もめざましい例は間違いなく、III章「いつかは散る薔薇」に出てくる、女性化した緒礼と綿志の近親相姦の場面である。ざっとその特徴を列挙してみよう。
(一)さながら読書をするときのように(注9)、怪しげな機械装置を介して綿志の知覚をおちば様が追体験していること
(二)生まれながらの女性ではなく、女性化した元男性とその弟との性交であること
(三)緒礼の過剰な女性化は、彼自身が兄弟と協力して演じ続けてきたのばら様への懸想の結果であること
(四)男性器を持たぬおちば様が未知なる射精の感覚のみを与えられ、戸惑いながら手持ちの知識の流用による説明を余儀なくされること(そしてその一部始終を想像しつつ叙述する作者は男性であること)
(五)おちば様の傍らでは綿志が勝手に彼女の恋人(ソプラノ君)に淫らな奉仕を強要しており、三人の性的興奮は並行しつつも全くの同床異夢であること
とまあ便宜的に五つに区切ったが、数はどうあれ、いずれにしても確実なのは、この場面が何重にも虚構性の刻印を受けていることである。
その周到さはやや度を越している観もあり、生身の異性と現実に性交することとは甚だしい径庭があるのは否みがたい。ともすれば男性の性愛が己一人の肉体的器官の満足に特化しがちなことに対する痛烈な皮肉のようでもある(というか、その要素は確実にあると思う)が、それだけでもなさそうだ。いましがたまとめた五点のうちの第四に相当する箇所を引用しよう。

 あたしは全身を痙攣させて、達する。同時に夢のなかで、綿志さんが射精した。その奇妙な感覚を何と表現しよう。あえて似ているものをあげるなら、出血だった。どろどろと、体内から液体が、大事なものが溢れて流れていく。
 強い快楽をともなう喪失感だ。
 このまま、溶けてなくなっちゃいそうだ。(注10)

男性の性欲は一見して明らかなとおり、暴力的な征服という局面からではなく、一種の解放性を伴う、強いられた自己放棄という文脈の中で把握されている(第一ここでは嫌がる綿志を偽物の女性である緒礼こそが強姦しているのであって、その逆ではない)。
しかしそれは消極的な自己放棄にとどまらず、加えて他者の積極的な放任―ハイデガーならば「存在せしめる(sein lassen)」とでも呼びそうな態度―でもある。おちば様が父親(綿志)の立場から一人称の体験として回想しつつあるこの場面は、ほかならぬ彼女自身の懐妊の瞬間にほかならない上に、緒礼(伯父にして母!)の動機はひとえに現実の女性に会いたいという狂気じみた愛欲の念だからだ。にわかに彼への興味が高まるのも無理はない。
作品の終盤に至って瀕死の緒礼を前に、日頃の彼の振舞を思い出したおちば様が「あたしのぜんぶを受けいれて、肯定をしてよ」という台詞を口にすることからも分かるように、彼の長所(三兄弟の中で唯一無二の長所)は他者の実存をありのままそれ自体として肯定することができる愛の横溢であり、あるいはそうせずにいられない無比の優しさである。
その優しさを徹底するところに、上記の第五点のごとき各自の孤立は半ば必然的に到来する。表向き緒礼本人が居合わせるわけではないとはいえ、強度の点ではある物足りなさを読者に感じさせかねないこの場面が(日日日『のばらセックス』5)、それでも露骨な性交渉の描写としては作中最後の位置を占めなくてはならなかったとすれば、相応の理由が必要であるはずだからだ。女性たちがただ生きていられる状況の創出を目指す、おちば様の大詰めでの決意が緒礼を手本としていることは、ほぼ疑いない。
作家の仕事が究極的には他者(作家個人とは違うもの、自分でないもの)の実存の端的な肯定であり、まさにその点で作品は作家にとって、またひいては読者にとっても原理的にある孤独の相貌を帯びずにはいない自律的な何ものかなのだということ、この事態を指してブランショは「本質的孤独」と名づけた。

ところで、作品―芸術作品、文学作品―は完結してもおらず、未完結でもない。作品は、存在している。作品が語るのは、もっぱらそのこと、つまり、それが存在しているということであり、―それ以上の何ごとでもない。このことを別にしては、作品とは何ものでもない。作品にそれ以上を表現させようとする者は、何ものも見出さぬ。または、作品が何ものも表現せぬことを見出す。作品を書くとか読むとかして、作品に依存して生きる者は、存在(エートル)するという語しか表現せぬものの持つ孤独に属する。〔…〕作品の孤独を形づくる第一の骨組は、かかる、要求の不在であり、この不在が、作品が完結しているとか未完結だとか言うことを許さない。作品は、何の証拠もなく存在し、また、何の用途もなく存在する。〔…〕作品は孤独である。これは、作品が伝達不可能だとか、読者が欠けているとかいう意味ではない。そうではなくて、作品を読む者は、作品を書く者が作品の孤独の冒険に属しているように、作品の孤独のかかる断言のうちに入りこむのである。(注11)

記憶を失い別人(「ななちゃん」こと綿志)と化した姿で小説の開幕以来おちば様の身辺に寄り添い(その数年前には「母親」であるのばら様を演じて彼女と暮らしたこともある)、突然いなくなったかと思えば上記の近親相姦の回想の中では女性として主役を務め、最後は異性の量産という大事業に心身を捧げ尽くしたあげく意識不明の重体となって再登場する坂本緒礼が、ある意味で『のばらセックス』の真の黒幕であることは異論の余地がない。その彼がついにただの一度も、念願の娘であるはずのおちば様を相手に胸襟を開いて本音を交換することができないままであるのは(注12)、ブランショの唱える「本質的孤独」、すなわち作品からの作者の隔離という原理を考えるとき、まことに暗示的である。作品から拒絶され、ひたすら書き続けるほかないことが作家たる者の運命である以上、一人称による率直な告白(「実は私は…」)の手立ては初めから奪われているのだ(注13)。
しかし、修正が全く不必要というわけではない。というのも、ブランショがこの本質的孤独を存在の不在、あるいは隠蔽の出現として再定義し(注14)、ついで外見の優位というこの境地からさらに進んで、イマージュ(像)と、「ここにあるにもかかわらずやはりこの世のものではない」死体には、それ自身との類似という性格が共通していることを指摘し、この休息を知らぬしぶとい類似性の回帰のせいで両者が周囲のもの一切を崩落に巻き込む不吉な磁場と化すゆえんを力説する頁(注15)を読むとき、元来文学作品のためだったはずの彼の省察は、にもかかわらず作家にこそ、すなわちのばら様の顔を持ち、全身の「七分の一」(頭部から胸部まで)だけが残った瀕死の重体で、大勢のクローン―「坂本のばら様の量産品」(注16)―と一緒に発見された坂本緒礼にこそ、最もうまく妥当するように思えてしまうからだ。とりわけ、そもそも実在しない「世界で一番目の女性」坂本のばらは三兄弟の合作だったとはいえ、人前に登場する必要があるときはつねに緒礼が持ち前の変身能力を活かして彼女を演じていたという経緯を振り返るならなおのこと(注17)、イマージュ(像)も死体もただただそれ自身との類似でしかない点で中性的存在なのだというブランショの文章の、およそ考えうるかぎり最も過不足のない文学的実例が彼の内に具現化しているという印象は抑えがたい。
そしてこのことはおそらく、すでに坂本三兄弟の名前が示唆していた事実、すなわち全てを一から創造しなくてはならぬ虚構の作者にとっては自分自身を指すものである一人称(I・俺・私)もまた、固有名詞化し、つまりは脱人称化して作中に織り込むことが可能なのだという事実をより強力に支持してくれる根拠でもある。したがってまたしてもブランショに問いかけることが許されよう。あなたは、作品を作者から切り離すことにあまりにも性急ではなかったか、虚構の創造という行為に潜む倫理的な問題系をあまりにも早く厄介払いしてしまったのではないか、と。

ここに至って我々は再び、虚構とは誰のためのものかという冒頭の問いに連れ戻される。『少女不十分』が固有名詞化した二人称という宛先を持っているように、『のばらセックス』の宛先は固有名詞化した一人称(坂本緒礼)ではないのか。そうだとすればくだんの問いに答えることはいともたやすい。ただしここに通常の意味での目的論の余地はない。単に、ただ生きてあることという最小限の実存を肯定してもらえた経験を持つ者にとっては、同様の態度で相手を愛し返すことが最も自然であり、その機構は登場人物と作者との間でも変わらないというすこぶる明快な因果関係があるだけだ。緒礼の狂気の愛に対するおちば様の惜しみない讃仰に耳を傾けよう。

 偶像に恋し、病みついた彼の夢が、あたしたちを生み―この世界を変えた。
 せめて、彼に笑っていてほしい。
 そして、いつか神様が彼の心を返してくれたときに、幻滅しないように。(注18)

己を殺し、我が身を空っぽになるまで削って創造の荒行に励む者だけに、いずれ虚構から、虚構の中で報いてもらえる日が思いがけなく訪れる。それは何たる贅沢であることか。


(1)西尾維新『少女不十分』(講談社、2011年)210頁。
(2)同書17-20頁。
(3)モーリス・ブランショ『文学空間』(粟津則雄・出口裕弘訳、現代思潮新社、2000年第17刷)17-18頁。
(4)西尾維新『少女不十分』(前掲書)209頁。
(5)モーリス・ブランショ『文学空間』(前掲書)22-23頁。
(6)日日日『のばらセックス』(講談社、2011年)8頁。
(7)もちろん、これはあくまでも好一対たりうるというだけのことで、それが『のばらセックス』にとっての最良のあり方だという意味でも、ましてや他のあり方が不可能だという意味でもない。
(8)日日日『のばらセックス』(前掲書)317頁。
(9)同書320頁、「夢を見ているような。/自我がとろけて、あたしは『あたし』を喪失し―他人の物語の中に没入する。世界観に絡めとられ、感情移入して、集中して読書してるときのように」。
(10)同書338頁。
(11)モーリス・ブランショ『文学空間』(前掲書)11頁。
(12)日日日『のばらセックス』(前掲書)63頁、「愛するひとたちにすら理解されないのは、つらいのだ……」。のばら様(=緒礼)があるときふと漏らしたこの寂しげな台詞はそれ自体として貴重だが、いっそう興味深いのはむしろ、実の娘であるおちば様も、聞いた当時は「あまりにも堂々と語られたから、それが弱音だとは気づかなかった」という事実のほうだろう。
(13)モーリス・ブランショ『文学空間』(前掲書)20頁、「『私は』に置きかえられた『彼は』、これこそ、作品によって作家に到来する孤独である。〔…〕『彼は』とは、誰でもない人間(personne)であり、他者(l'autre)となった他人(autrui)である」。
(14)同書360頁。詳しくは以下のとおり、ブランショは述べている。

 おそらくここでわれわれは、われわれの探求するものに向って更に一歩を踏み出したのだ。日常の生の静謐さの中では、隠蔽は隠蔽されている。行為の中では、真の行為、すなわち歴史の作業である行為の中では、隠蔽は否定と化そうとする(否定的なものがわれわれの任務であり、そしてこの任務は真理の任務である)。しかし、われわれが本質的孤独と呼んでいるものの中では、隠蔽は出現しようとするのだ。
 諸存在が欠如する時、存在は隠蔽の深部―その中で存在は欠如となる―として出現する。隠蔽が出現する時、外見となった隠蔽は「すべてを消滅」させる、だがこの「すべては消え去った」が更にひとつの外見を作るのであり、外見がその後は「すべては消え去った」の中にその出発点を持つようにするのである。「すべては消え去った」が出現する。出現と呼ばれるものがまさにこれなのだ、それ自身外見と化した「すべては消え去った」なのだ。そして出現はまさしく、すべてが消え去った時、なおかつ何ものかが存在するということを、すなわち、すべてが欠如する時、この欠如とは、存在が欠如しているその場所になおかつ存在するという存在の本質を、隠蔽されてある限りに於て存在するという存在の本質を、出現せしめるものであるのだ。

(15)同書364-370頁。
(16)日日日『のばらセックス』(前掲書)375頁。
(17)同書261-265頁。
(18)同書383-384頁。
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