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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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アリストテレス『魂について』3 

連載とか偉そうにほざいておきながらちっとも有言実行できてないのは我ながらいかがなものか。

一応、『魂について』における二種類のエンテレケイアの区別に着目した前回の検討では(アリストテレス『魂について』2)、アリストテレスの霊魂論においてはエンテレケイアがいわばエネルゲイア化を遂げ、その分デュナミスに近くなる、ということが確認できたはずだ。
今回はそこから何が派生するのかを若干展望してみたい。第2巻第2章からの引用である。

さて、「それによってわれわれが生き、また感覚するところのもの」は二通りの意味で語られるのであり、それはちょうど「それによってわれわれが何かを知るところのもの」が二通りの意味をもつのに相当する(われわれは後者の場合一方では知識を意味し、他方では魂を意味するのであり、実際、われわれが「知っている」と主張するのはこのうちのいずれかによってである)。これと同様に、「それによってわれわれが健康であるところのもの」も、一方では健康を意味し、他方では身体のある部分、あるいは身体全体を意味する。そしてこのうちで知識と健康は形態や一種の形相や説明規定であり、言ってみればそれらを受け入れるもののエネルゲイアであって、知識の方は知を獲得しうるものの、健康の方は健康になりうるもののエネルゲイアである(なぜなら、作用しうるもののエネルゲイアは、作用を受けて特定の状態にあるものにおいて成立すると考えられるからである)。(注1)

書いてあることの内容自体はそれほど複雑でもないが、なにぶん古代人のこととて語彙不足の感がなくもない。注意すべき点は二つあると思う。第一に、この文脈では、知る主体としての「魂」と健康になる主体としての「身体」はともに、形相(「知識」そのもの、もしくは「健康」そのもの)に対する質料の地位にあることである(注2)。アリストテレスがはっきりそうことわっていないのは、あくまでも形相としての地位を魂に付与することが彼の最終的な狙いだからだろう(つまり不用意に説明を詳しくすると質料への言及が増えて混乱を招く上、特に前者の類比の場合は一時的に魂を質料扱いせざるをえなくなるのだ)。
第二に注意すべきは、だからといって質料側が無視ないし軽視されているわけではないということである。「それらを受け入れるもののエネルゲイア」という表現に端的に現れているように、「質料」側は「形相」側を支配しているわけではなく、むしろ上下関係はその逆であるにもかかわらず、後者は前者「のもの」なのだ。所有と呼んで呼べないこともないが、やはり受け容れるとか迎え入れるといった言葉がしっくりくる。哲学用語では「分有」ということになる。一切の所有関係の始点にある所有、というよりも狭義の所有以前の所有である。健康そのものとか知識そのものを単独で考察すればあらかじめ誰かのものと決まってはいない。魂が知ることも、身体が健康になることも、決して自力で成し遂げられることではなく、普遍的な何か(知識そのものや健康そのもの)を授かるという贈与の経験であり、あるいはもしかすると、そのようなものを自分用に切り分けるという略奪の経験であらざるをえないのかもしれない。とにかく、純然たる形相がエネルゲイアとしての性格をあらわにするのは、つねに形相の対極、すなわち個体(知る個人や健康になる個人)のもとにおいてだ。
こう考えてくると、質料と形相の二元論をありとあらゆる分野に及ぼすことでアリストテレスが切り開いた視野の射程がおぼろげに感じ取れるようでもある。
もう少し現代風の発想でそれを整理した試みとして、トマス・アクィナスの注釈を、ラテン語から訳してみる。「アークトゥス」はご覧のとおり音写するにとどめたが、これが一応「現実態(エネルゲイア)」に相当する概念だろう。「能動」も「作用」も同系統の語である(なお「諸能動作用を」は見るからにくどいが、原語の"actiones agentis"がすでにくどいのだから仕方ない)。

例えば〈それによって我々が知る当のもの〉も二重に言われる。というのも二つのものによって我々は知ると言われるからである。それらのうちの一方は学知であり、そして他方は魂である。また同様に〈それによって我々が健康になる当のもの〉も二通りに言われる。それらのうちの一方は健康であり、そして他方は身体のある部分、ないしひいては全身である。ところでいずれの場合でも一方は形相同然であり、そして他方は質料同然である。なぜならば学知と健康は受容者側の形相にしてかつアークトゥス同然だからである。ちょうど学知が学問的なものの形相、すなわち学知のありかであるような、魂の部分の形相であるように、たしかに健康とは健康でありうる身体の形相である。ところで「健康でありうる」・「学問的な」と彼が言うのはそれゆえ、基体におけるしかじかの形相への性向を示して見せるためである。というのも一般に能動者側のアークトゥス、すなわち諸形相は、作用者から質料の中に導入されると、持久するもの・素質あるものの中にあるように見える、これはすなわち〈しかじかの作用者からしかじかの諸能動作用を受容すべく生まれついたようなもの〉の中に、ということであってそのものはまた受動の目的を、つまり〈そこへとそれが―受容することによって―いざなわれていく当の形相〉を達成することへの素質があるものでもあるのだ。(注3)

『魂について』の本文への注釈ということで、内容上は目新しいことが述べられているわけではないのだが、「性向」・「持久」・「素質」等の語彙がありがたい。アリストテレスが使う「第一次のエンテレケイア」よりはこのほうがよほどなじみやすいのではないか。質料側、つまり知る個人や健康になる個人の側は、一方では形相の対極なのだから形相そのものではなく、形相を持ちこたえる立場にあるが(「持久」の側面)、他方で形相はすでに目的として見えてもおり、一貫して質料側を導く(「素質」の側面)。ゆえにここには「エネルゲイア」の過程が成り立つ。個人を超えたものが個人の内に、恣意とは無関係に穿つこの幅ないし奥行を指すのに、素質なり性向なりといった語彙はうってつけだ。
それどころか、この枠組を文字通り個人の生活の域を超えて拡張することで、まがりなりにも生を外部から限定してみせるという離れ業をすらやってのけるのが『魂について』の筆者なのだ。

さて魂とは、第一義的な意味において、「それによってわれわれが生き、感覚し、思考するところのもの」である。したがってそれは、一種の説明規定であり形相であって、素材[質料]でも基体でもないということになるだろう。というのは、われわれがすでに述べたように、「実体[あることの主体]」は三通りの意味で語られるのであり、そのうちの一つは形相であり、もう一つは素材[質料]、そしてもう一つは両者から成る合成体である。そしてこのうち、素材はデュナミスであり、形相はエンテレケイアであるが、両者から成る合成体が魂をもつものであるのだから、物体[身体]が魂のエンテレケイアなのではなく、魂がある種の物体[身体]のエンテレケイアなのである。またしたがって、魂は身体を抜きにしては存在しないが、しかしけっして身体の一種と同一ではないと考えるひとびとの判断は正しいのである。つまり魂は身体そのものではなく、身体に属する何かなのであり、そしてこのゆえに、魂は物体のうちに、しかもある特定のあり方の物体[身体]のうちに存在するのである。(注4)

質料と形相の二元論の一つの帰結が、形相へと向かう質料の素質もまた形相が整えるというところに落ち着くとしても、無条件にそれを霊魂論に当てはめてよいものだろうか。この問いはもちろん不当ではない。だがここでのアリストテレスは、知識や健康の場合にはためらいなく使えた「エネルゲイア」という語を避け、やはり「エンテレケイア」という語を使っている。以前から我々が確認しているように、こと生命論の文脈では、「生きること」と「生きていたこと」との重なり合いゆえにエンテレケイアはエネルゲイアに近づくからである。たとえ簡明な命題の形ではないにせよ、アリストテレスによる叙述の順序そのものが、この我々の憶測を裏づけているように思える。
「生きること」がつねにすでに「生きていたこと」である以上、以前「生きていたこと」はいずれは現在「生きること」に至るはずだったのだから、生は定義上それ自身の内に中途半端な奥行を抱えている。これはまた生物というものが、あらゆる自覚に先立って命の贈与を受け容れてしまっている以上、つねに遅れてしかその事実に気づく見込みがないのだから、本来は自分一人のものでありえないはずの形相の世界を我が物として切り分ける原始的な暴力性を引きずらざるをえないということでもある。
しかし、知識の形相を魂が受け容れ、健康の形相を身体が受け容れる場合と、魂という形相を身体(物体―より正確には「可能的に生命に与りうる」種子や果実の類であろう(注5))が受け容れる場合とでは、何かが決定的に違う。それは結局、我々自身が生物(人間)としてこの世に生を享けていることを前提とする文脈と、その前提自体の成立を解明するという文脈との違いだろう。
アリストテレスの筆致は、厳密な意味での素質に関しては第一の引用文の末尾―「なぜなら、作用しうるもののエネルゲイアは、作用を受けて特定の状態にあるものにおいて成立すると考えられるからである」―で済ませてしまい、それに続くいましがたの引用文ではむしろ魂と、魂を宿す身体との紐帯の緊密性をいっそう強調しているかのようだ。身体に対する魂の関係がエネルゲイアじみてはいるが違うように、たぶん魂に対する身体の関係も通常の素質に似てはいるがいささか特殊である。前者の関係が結局エネルゲイアじみたエンテレケイアであり、その意味は生の端的な事実が遡行を許さないにもかかわらず完成であるという逆説に落ち着くとすれば、後者の関係は一体どうなるのか。おそらくアリストテレスは、知識が魂から脱落したり、健康が身体を見放したりすることはあっても、身体と魂との関係はずっと強固で、ちょっとやそっとのことでは断ち切れないと考えているのだ。ゆえに「魂は身体を抜きにしては存在しない」…その代り、身体の懐に穿たれた身体ならざるものの異質性は、こうなれば知識と魂の間、または健康と身体の間の隔たりの比ではない。身体がどれほど己の魂を身近に感じようとも、後者についてアリストテレスは「しかしけっして身体の一種と同一ではない」と注記するからだ…こうして、魂に対する身体の関係は、滅多なことでは解体しない原始的な素質、むしろ狭義の素質以前の素質である、ということになる。
身体は己を完成してくれる魂に慣れなくてはならない。身体にとって己自身(生物の身体)であることを全うするとは、己とは異質な普遍的形相の、己が選んだわけではない己の分け前、すなわち魂に対して「持久するもの・素質あるもの」としてのあり方を磨くということ以外ではないのだ。生の輪郭を超えて質料・形相論が広がった結果、あらゆる生物の生涯には身体の習練という根本的な性格が見出されることになる。


(1)『魂について』(中畑正志訳、京都大学学術出版会、2001年)70頁。ただし訳文中の「現実活動態」を「エネルゲイア」に改めた。
(2)水地宗明『アリストテレス『デ・アニマ』注解』(晃洋書房、2002年)228-229頁。
(3)S. Thomae Aquinatis, In Aristoteles Librum De Anima Commentarium, Turin, Marietti, 1948, p.71: "Sicut et quo scimus dicitur dupliciter. Duobus enim dicimur scire: quorum unum est scientia, et aliud est anima. Et similiter quo sanamur dicitur de duobus: quorum unum est sanitas, et aliud est aliqua pars corporis, vel etiam totum corpus. Utrobique autem unum est quasi forma, et aliud quasi materia. Nam scientia et sanitas sunt formae et quasi actus susceptivorum: scientia quidem forma scientifici, idest partis animae, in qua est scientia; sanitas vero est forma corporis sanabilis. Ideo autem dicit 'sanabile et scientificum,' ut ostendat aptitudinem in subiecto ad tales formas. Semper enim activorum actus, idest formae, quae inducuntur ab agentibus in materia, videntur esse in patiente et disposito, idest in eo quod est natum pati actiones agentis a tali agente, et quod est dispositum ad consequendum finem passionis, scilicet formam ad quam patiendo perducitur."
(4)『魂について』(前掲書)70-71頁。訳文中の「可能態」を「デュナミス」、「現実態」を「エンテレケイア」に改めた。
(5)同書64頁。
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