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一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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プルースト『ソドムとゴモラ』 

『失われた時を求めて』〔À la recherche du temps perdu〕を構成する七つの長編小説のうち、著者プルースト(Marcel Proust, 1871-1922)の生前に刊行を見たのは、第四篇に相当する『ソドムとゴモラ』〔Sodome et Gomorrhe〕までだった。
厳密な分量はともかく、数字の上では一、二、三と五、六、七のちょうど真ん中だし、集英社文庫版(鈴木道彦訳)でも全13巻中の第7、8巻(二分冊)と、ほぼ中間に位置している。
それだけに、プルースト自身が思い描いた作品全体の最終的な姿というものを推定する際、この第四篇の存在は軽視できないはずだ。
ここで作者が己に与えた最大の課題は一応―性的な放埓さのゆえに神の怒りを買って滅ぼされたという、旧約聖書の都市の名にあやかった表題が暗示する通り―、同性愛の主題の導入と考えてよい。
だが、もっと形式的な意味でも、『ソドムとゴモラ』は全篇の蝶番たりうる小説ではないかと思う。
以下に記すのは、集英社文庫版の第7巻、つまり『ソドムとゴモラ』の前半部に関する覚書である。

プルーストの繰り出す隠喩や直喩の多彩ぶりについては定評があり、人によってはややうるさいとすら思えよう。
この第7巻でものっけから、虫媒花の生殖作法がある種の同性愛者の恋愛模様と重ね合わされている。
しかし注意したいのは、ここで話者の「私」が、単なる空想でなく現実に、蘭か何かの花と飛来するマルハナバチとを目のあたりにしており、それの観察に引き続いて、偶然にもシャルリュス男爵と仕立屋ジュピアンとの邂逅を目撃する、ということだろう。
いかにもあざとい順序だという突っ込みはさておき、こういうのも無条件で隠喩や直喩の仲間に数えてよいものか、私は少々ためらいを覚える。以前の記事(日日日『のばらセックス』7)では「筋書の水準での隠喩、あるいは底抜けの寓意の連鎖」というけったいな新語を使ったが、あの場合もやはりプルーストへの連想がつい働いていた。まずは二つの相似的な状況が並列的に叙述され、さらに両者の具体的な細目に関する説明が続く。それが片付かないかぎり、「まるで」とか「あたかも」が両者を結び付ける余裕もない。そしてこの説明が済んでようやく、通常のもしくは狭義の比喩―「私は今しがた中庭で、ちょうど蘭の花がマルハナバチに言い寄るように、シャルリュス氏のまわりをうろうろするジュピアンの姿を見たけれども」(注1)―が、違和感なく登場することができるという次第だ。誰もが周知の動物や物体ならば、例えば「牛乳のように白い」とか「狐のように狡猾な」などという比喩を、何のためらいもなく使うことが作者には許される。その代り、こういう比喩は単独だと印象的な新味を欠いている。対して状況と状況との間の相似性の場合、作者が両方を叙述し終えるまで、何が成就されるのか完全には予測しえぬまま、読者はおとなしく待ち続けるほかない。
状況間に成立する、あるいはむしろ創造主たる作者の手で成立せしめられる相似性を存分に活用することで可能になるこの工夫は、詩とも短編とも違う、長編小説ならではのものだろう。
したがって世界有数の長編小説である『失われた時を求めて』には、最終巻における無意志的記憶の啓示に至るまで、実は一貫してこの種の伏線があふれかえっており、時の作用を可視的に実感させること、という作品の根本的な狙いの実現に貢献しているのだが、その中でも特に興味深いのが、全篇の中央を占める『ソドムとゴモラ』の場合なのだ。
そもそも上記のシャルリュスとジュピアンの出会いの光景にしてからが、話者自身も認めるように第一篇でヴァントゥイユ嬢が同性の恋人と戯れる場面の反復なのだが(注2)、これ以降も本巻はますます、状況と状況の相似性、およびそれを支える登場人物同士の重なり合いを執拗に追求していく。
シャルリュスの醸し出す雰囲気が「ひとりの女」(注3)としか思えないように、女々しい同性愛者の夫を持ったヴォーグ―ベール夫人は「ひとりの男性」(注4)である。親戚の危篤を知らされてもゲルマント大公夫人の夜会を欠席しようとしないばかりか、死亡通知を受け取ってなお仮装舞踏会(これもまた相似性の世界だ)にいそいそと出かけるゲルマント公爵夫妻が引き起こす悶着も、すでに前巻(『失われた時を求めて 6 第三篇 ゲルマントの方II』)の末尾に予兆があった(注5)。夜会の席でヴォーグ―ベール氏は、いかに多くの同類が外交官たちの中に勢力を広げているかをシャルリュスから教わってときめく。彼の同性愛はラシーヌ劇の詩句で飾られるが(注6)、この点はニシム・ベルナール氏の少年愛と同様であり(注7)、両者間の相似性はあたかも、社会的少数者としての同性愛者の境遇とユダヤ人のそれとの間の相似性へと読者をいざなうかのようだ。
やがて、同じ時代を生きる人々に身分の違いを超えて一律に及ぶ精神的な画一化についての話者の省察(注8)を経て、ゲルマント公爵夫人は何のつもりかモレ氏の「われわれ二人」という言葉づかいに注意を促し、ついで外見こそ違えどともに母の美貌を受け継ぐシュルジ夫人の二人の息子、ヴィクチュルニアンとアルニュルフが登場する(弟のアルニュルフは、「いつも兄の真似をしていて自分の考えを持てない」人間だという)(注9)。サン‐ルーは伯父のシャルリュスを女好きと思い込み、自分の恋愛関係に彼が口出しするのを笑うが、しかし話者に言わせれば、伯父と甥に同じ悪徳が共通しているとしても、遺伝を考慮するかぎりそれは致し方のないことだ……(注10)。たしかにシャルリュスはシュルジ夫人に見惚れているが、そのわけは別段互いにそっくりではない兄弟それぞれの美を、二つとも彼女の容貌の中に認めることができるからである(注11)。彼はバルザックを話題にし、いまどき珍しい文学通の貴族だという理由で兄のほうを称賛しつつ(もっともこれはただの勘違いなのだが)、あとはポリニャック家とモンテスキュー家に例外がいるくらいだという「二重の同化」の宣言で太鼓判を押したあと、ぜひとも秘蔵の『骨董室』をお見せして「二人のヴィクチュルニアン」を引き合わせたいものだと楽しげに言う(注12)。
夜会も終りに近づき、話者は知人であるシャルル・スワンから、自由間接話法でもってゲルマント大公との会話を長々と聞かされる。いわばスワンが一時的に大公になったつもりで「私は……」と語り続けるわけで、実に小説らしい変身の作法だ(映画や漫画では登場人物同士の視覚的な差異を消去できないのだからこうはいかない)。家柄に囚われぬ若き日の生き方の報いを受け、いまでは「生まれながらにして持っていたものを一つまた一つとふたたびとり戻すべく、営々とつとめる」シュルジ夫人の骨折り、換言すればかつての自分自身に精一杯似ようとする努力への(話者による)言及を挟み(注13)、スワンは大公がドレフュス支持派にまわったいきさつを明かすが、その山場はゲルマント大公夫人、つまり彼の妻が夫に先んじてドレフュスの無実を確信していたという事実の露見である(注14)。

以上のごとき相継ぐ相似性の演出には、まことに執拗なものがある。この世界では似ること、あるいは自分を相手に(ときには以前の自分自身に)似せることが、そのまま強さであり、美しさであり、正しさなのだ。ゲルマント公爵が実弟であるシャルリュスを相手に興じる思い出話はゲルマント公爵夫人を除け者にし(注15)、サガン大公の挨拶には大革命以前の貴族を思わせる風格がある(注16)。
ソドムとゴモラ、すなわち男女の同性愛は―プルーストは同性愛のことを、男同士なら「ソドム」、女同士なら「ゴモラ」という隠語で呼んでいた―、はたしてこのような事態の原因だろうか、それとも結果だろうか。いずれとも私には決めがたい。原因と考えておくほうが無難かもしれないが、案外真相はその逆ではないか。夜会の叙述に先立って詳細な検討に付されている男色者たちの過剰なまでの秘密主義は、当時の社会が同性愛に対して今日よりも不寛容だったから、というだけでは説明がつかないし、いわんやプルーストの誇張癖だけでも説明できない。おそらくは、「似ること」と美徳との合致という最も根源的な構図から、一方では異性ではなく同性が思慕の対象であるような恋愛、すなわち同性愛を中心とするさまざまな相似性の系列が、他方では世間一般の性愛の規則に違反しているという自覚を片時も忘れられず、「未だかつてみなと同じ好みを持ったことがない」(注17)と言うシャルリュスたちの小心翼々たる秘密主義が、ともに派生してくるのではないか。
話者一人が、この相似性の支配から免れている、あるいはそこから排除されている。彼は以前愛していたスワンの娘(ジルベルト)への恋心をもはや抱いていないし、仮装舞踏会にも出席しない(注18)。しかしそれも夜会の間だけのことで、帰宅するや彼は約束していたアルベルチーヌとの逢引が流れそうなのを感じて、かつて就寝前に母親からキスしてもらえなかったときに覚えたのと同質の不安を覚え(注19)、女中の不正確な(すなわち、規範に似ていない)フランス語にあたりちらす(注20)。初恋の人にもらった記念の品を、電話で呼びつけてようやく会えたアルベルチーヌにあっさり与えるという行為も、相似性の破壊というよりはむしろ歪曲であろう(注21)。
「似ること」と美徳との合致という原理はなおも、ゲルマント公爵が三人の才媛に感化されてあっさりとドレフュス支持派に鞍替えするという逸話に継承される。この逸話は前後の脈絡から浮いていて、何もこの位置になくてもよい気がするのだが、「歴史の重大な時期にさしかかるとかならず繰り返される現象」だから無視できないらしい(注22)。一連の相似性の系列の余波のせいで、心ならずも構成上の小さな強引さを導入せざるをえないという弁解のようにも読める。この果てしない系列を締めくくるには、変化に関する巨大な一般法則に訴えるしかない。だからこそ話者は章を改めるに先立ち、「社交界そのものは変化しない」と信じるのは誤りで、「サロンといえども不動の静止状態において描かれるわけにはいかない」ことを強調しつつ、スワン夫人のサロンに突如訪れる栄光の日々を手短に描いてみせるのだ(注23)。延々と続く夜会の情景、ついで逢引の場面と比べるとこの部分はいかにもとってつけたようだが、ある意味では内容、つまり社交界での彼女の地位の急上昇という出来事そのものの意外な速度に見合っている。こうなればさしもの相似性も、もはや話者個人の思い出に結びついたごく私的な支えを持つにすぎなくなってしまう(注24)。
しかし、状況と状況との照応関係にほかならぬ筋書の水準での隠喩の運動は、これで終わりを告げたわけではない。むしろその反対である。というのも、続いて描かれる二度目のバルベック滞在の日々―バルベックはノルマンディ海岸にあるとされる架空の保養地で、すでに第二篇『花咲く乙女たちのかげに』で話者は祖母とここを訪れている―には、名高い「心情の間歇(les intermittences du coeur)」が待ちかまえているからだ。
話者の「私」は、久しぶりに再び泊まったバルベックのホテルで、ふとした仕草をきっかけに生前の祖母の姿を思い出す。『失われた時を求めて』の代名詞ともなっている、いわゆる「無意志的記憶(mémoire involontaire)」だ。そして逆説的にもこのことが理由となって、彼は第三篇ですでに亡くなっている彼女の死を否応なく痛感し、深い悲しみに襲われるのである。ここで明らかになるのは相似性そのものというよりもむしろ、「私」が相似性の劣等生であるという残念な事実だ。

けれどもショートブーツの最初のボタンにふれたとたん、私の胸はある未知の神々しい存在に満たされてふくれあがり、嗚咽が身体を揺り動かし、涙がはらはらと目からあふれ出た。私を助けにかけつけて、魂の枯渇から救いだしてくれた存在、それは数年前、同じような悲嘆と孤独に襲われて自分をことごとく失ってしまった瞬間に、とつぜん入りこんできて私を私自身に返してくれた存在だった。なぜならそれは私であるとともに、私以上のものだったからだ(中身を上まわる容器、しかも私にその中身をもたらしてくれた容器である)。今しがた私は、記憶の中で認めたところだった、愛情のこもった、心配そうな、またがっかりした祖母の顔、はじめてここに着いた晩とそっくり同じような祖母の顔が、私の疲労の上に屈みこんでいるのを。(注25)

愛する人が自分の中で突然よみがえるのを感じることに由来する、疑いようのない歓喜は、同時に、ことによると自分は相手の尊さに値しないのではないかという疑惑(「中身を上まわる容器……」云々)をも伴っている。それかあらぬか、疑似的な再会の喜びは長続きせず、話者はただちに、もはや祖母が生者ではないことを思い出して「矛盾」に囚われてしまう。彼にできることといえばせいぜい、当の苦しい印象からいずれは知的な努力によって「真理」を引き出してやろうと決意するくらいのものだ(注26)。この残念な結末は、しかし決して意外なものではない。というのも、第一回目のバルベック滞在と比べて今回の滞在を違ったものにしている一番の要因が祖母の不在である以上、状況は厳密に相似的でないのはもちろん、むしろ対照的ですらあるのだから(しかし全く無関係ではなく、同じ土地で同じホテルに泊まって同じ動作をしているのだから)、ある意味ではこうなることは目に見えていたのだ。
話者の母、つまり祖母の娘は、もっと優秀である。遅れて到着した彼女を見たとたん、話者ですら祖母本人がそこにいると感じるからだ(注27)。こうして「中断された死者の生命の継承者」以外の何者でもなくなった彼女の姿に感銘を受けて、話者はいまや、生者が己の個性を犠牲にしても愛する死者に似ようとする衝動の、深い意味を実感するに至る。

愛するひとが生きているかぎり、私たちはたとえ相手に迷惑であっても、恐れることなくそのような個性を発揮する。それが、その相手からのみ私たちに伝わった性格と、うまく釣合いをとってくれるからだ。けれどもひとたび母が死んでしまうと、私たちは母と別な人間であることが気になりはじめる。私たちはもはや、かつて母がそうであったものしか讃美することはない。それはすでに私たちの存在そのものだが、何かに一体化した存在である。そしてそれこそ、私たちが今後ひたすらそうなろうとつとめるものなのだ。その意味においてこそ(けっして一般に人びとが理解しているような、あいまいで出たらめな意味においてではなく)死は無駄でないし、死者は依然として私たちに働きかけている。なぜなら、真の現実とは精神によって引き出されたものにすぎず、精神の作用の対象にほかならない以上、私たちが本当に知っているのは、思考によって再創造することを余儀なくされたもののみだからだ。(注28)

筋金入りのマザコンだったプルーストの面目躍如といった感じで(なぜ一般論のはずなのに、この話者はいきなり「母」のことを語り出すのか?)、若干気持ち悪いがまあそれはさておき、とにかく「似ること」が即美徳である、という事情は、ここに至って十分意識的に把握されると考えてよさそうだ。ホテルの支配人やエレヴェーターボーイの珍妙なフランス語が深刻な苛立ちではなくて笑いを誘うのも、話者の心に余裕が生まれていることの反映かもしれない。
しかし、よしんば一般原則を理解したところで、話者個人が相似性の分野では劣等生であることに変わりはない。祖母と一緒だった旅行の思い出がバルベックの街角から吹き寄せ、一足進むごとに惹き起こす耐え難い苦悩はもちろんだが、やっとのことでホテルに逃げ帰った彼を出迎えるドアボーイが抱く、名士の手で引き抜いてもらえた兄たちの境遇への羨望も、おそらくこのことと無縁ではあるまい(ドアボーイもまた、憧れの人物のようでありたいと願いながらそれがかなわないせいでやきもきしているのだ)(注29)。結局、悲嘆にくれる話者を慰めてくれるのは、季節の違いのせいで最初の滞在時には立ち会えなかった、満開の林檎の花だけである(注30)。これといってその理由が解明されているわけではないが、察しはつく。たぶん林檎の花には、祖母と過ごした日々を思い出させないという消極的な美点(バルベックの風物の中では例外的な、それゆえ貴重な取り柄)に加えて、以前見たときの、あとかたもなく散り終えた状態から例年のごとく再び咲き誇るに至った以上、なお積極的な長所が具わっているからだ。つまりそれは、再生を繰り返すことで間断なくそれ自身との相似性を更新し続ける、自然界の終わりなき生命力を確信させてくれるという長所である。
いまや彼を脅かし始めるのはアルベルチーヌの同性愛疑惑である(注31)。換言すれば、彼が男性同性愛者でないばかりに、あるいはアルベルチーヌのように女性であるわけではなく、ましてや彼女の好みそうな女性ではありえないばかりに味わわなくてはならぬ苦悩である。しかしながら、姑と嫁、二人のカンブルメール侯爵夫人(シュルジ夫人の息子たちやドアボーイの兄弟に続き、またしても同姓の二人だ。ちなみに若いほうの夫人はブルジョワの出身であり、カンブルメール家流の名門貴族の呼び名を真似ることに無上の快感を覚えている)との談話を経て、芸術の世界における「反動」作用、ないし揺り戻しの現象―ショパンの直弟子だった姑のカンブルメール夫人とは対照的に、嫁のカンブルメール夫人は流行に敏感なつもりで彼を軽蔑しているが、実は皮肉なことに彼女が崇拝するドビュッシー自身がショパンを愛好している……―に気づいた話者は、おそらくはそれを参考にしてか、アルベルチーヌに面と向かって、自分は以前彼女のことが好きだったが今ではもはや愛していない、と言い放つ(注32)。人間精神にはつきものの守勢と攻勢の交代を利用して、あえていったん引いてみせることで彼女の関心を誘発しよう、という腹だ(いかにもせこいしおまけにずるいが、この話者は一貫してこういう人である)。
どうやら彼は、一途に己を何かや誰かに似せる能力の欠如を自覚した結果かえって吹っ切れて、その場しのぎの利己的な演技が上達したらしく、まんまとこの作戦は功を奏する。アルベルチーヌは話者になびいたばかりか、きっぱりと同性愛疑惑を否定してくれたのだ(もっともこの疑惑自体は以後も末永く話者を苛み続け、彼女の死後になってとうとう確信に変貌するのだが)(注33)。
こうして第7巻は、早くも第1巻の時点で皿の絵という形で姿を見せていた『千一夜物語』の現物を、やがて最終巻でも話者が小説の執筆を志すときにその名が召喚されるのに先立って彼の読書体験に組み入れてから(注34)、姉妹の小間使いである、マリー・ジネストとセレスト・アルバレという新たな二人組を登場させつつ、なおも払拭しきれぬアルベルチーヌの同性愛に関する不安とともに次巻に続いていく。このあたりになってくると、物であれ人であれ、相似性以上に対照性が際立ってくるという印象だ。二種類の『千一夜物語』(ガラン訳とマルドリュス訳)の違いは話者の母を悩ませるし、シュルジ夫人の息子たち(ヴィクチュルニアンとアルニュルフ)や、ゲルマント公爵とシャルリュス男爵などの兄弟が息の合った立ち居振舞を見せていたのと引き換え、二人のカンブルメール夫人の芸術観がずいぶん違うように、マリーとセレストの姉妹も、話者への好意を競い合って彼の面前でほとんど喧嘩腰の粗暴なやりとりを繰り広げる(注35)。

以上のごとく『失われた時を求めて』全篇の結節点にあたる『ソドムとゴモラ』の前半(集英社文庫版の第7巻)は、ゲルマント大公邸での夜会における、話者の周囲での執拗な相似性の構築を経て、二度目のバルベック滞在をきっかけとする「心情の間歇」の章に入るとついに話者自身をもいったん相似性の運動の中に引き込みながら、ただちに資格不十分としてそこから追い出してしまい、これ以後は巻末に至るまで、ひたすら他人の相似性を詮索するか(母は祖母へと非の打ちどころのない変身を遂げ、アルベルチーヌには同性愛の疑惑がつきまとう)、それとも対照性の混迷の中をさすらうかが彼の運命となるわけである。対照性の概念をことさら「混迷」と呼びたくなるのは、バルベックの街角に染みついた祖母の思い出と満開の林檎の花との間の対照性は、実際には人間にまつわる不完全な相似性―街路が掻き立てる思い出は活発であればあるほど、祖母の不在を痛感させる―と自然界の完全な相似性とが作り出す対照性であるから、また芸術における反動の現象を応用することで話者がアルベルチーヌの気を引こうとする場合には、偽の対照性―「僕は、以前は君のことが好きだったが現在ではもはや愛していない」という告白はもとより嘘である―にもとづき人為的な相似性が作り出されるからだ(ちょうどドビュッシーによる再評価がショパンを復活させたように、話者の演技はアルベルチーヌの好意を取り戻す)。つまり相似性が理想的な状態であることに変わりはないわけで、あとはいかに、そしてどこまで絶対的な相似性に迫れるかで微妙な差異がさまざまに生じてくるわけである。
状況と状況との隠喩的な関係を全篇の中でいかに組織すべきか、という長編小説の構成にまつわる問題を考えたとき、プルーストが試みたこのような手法は、いささか図式的なきらいはあるかもしれないが、かなり示唆的なものではなかろうか。
諸状況の相似性は、縦横無尽に張り巡らされた前後の巻への参照や伏線を介して成立する。中でも最も模範的な事例が、まずは虫媒花の生殖とヴァントゥイユ嬢の戯れとを連想させる、シャルリュスとジュピアンの出会いとして、やがては話者の知性を試みるかのように、意志とは無縁な記憶の自動作用がもたらす間歇的な祖母の思い出として、二度にわたって到来する教訓的な反復であろう(おそらく両者は話者個人にとってのみならず、『失われた時を求めて』の全体像を探し求める批評家にとっても模範的だからである)。この二つの、特別に大がかりな反復のうち、前者は他人が話者に対して演じる手本であり、後者は話者に己の無力さを思い知らせる暴力的でしかも儚い啓示である。ここに働いている筋書そのものの厳然たる掟に比べると、同性愛や亡き祖母への思慕といった内容は、重要度という観点からすれば結局は交換可能なもの、あるいはそこまでいかないにしても形式に従属的なものかもしれない。むろん、普通に読めば最初に目に入ってくるのは内容のほうで、それを包む形式である状況間の関係のほうは背後に隠れている。だが、執筆者の気持ちになってみれば、というよりも無から創造された言語的虚構という小説の定義そのものに立ち戻ってみれば、形式的な自律性を確保すべしという規則こそ第一に考慮すべきであって、具体的な内容は二の次ではないのか。そんな疑問を我々読者に抱かせてしまう点で、『ソドムとゴモラ』は全篇の折り返し地点を占めるにふさわしいかなり特異な作品であり、何にもまして方法論の書なのである。このようにして新たな数頁が産出される決定的な瞬間とは、ある所与の状況の記述がそれ自体の上に折り重なるときにほかならない、ということになる。
乱暴に要約すれば『失われた時を求めて』とは、「作家志望の『私』がさまざまな体験を積んだ果てに『時間』という主題を見出し、書くべき小説の姿を悟るに至る」までの過程を追った架空の自伝であるからして、元来小説についての小説という自己言及的な雰囲気をたたえているのだが、ほかならぬその過程の真ん中に、私が「筋書の水準での隠喩、あるいは底抜けの寓意の連鎖」と呼んだものの原理が埋め込まれているわけである。位置的に中間であるというだけでは飽き足らず、役柄の上でも中間(蝶番)らしくなろうと努める奇妙に意欲的な中間、それがこの『ソドムとゴモラ』と題された、めくるめく相似性の世界の正体なのだ。
いずれにしても話者は、シャルリュスとジュピアンの出会いの場合には虫媒花の生殖に関する知識を参考にすることで、つまりは状況間の形式的な相似性を抽出することで同性愛についての理論的考察を深めているし、祖母の回想の場合には形式の恩恵にただただ圧倒されるばかりで、内容の立場からこれに応えようとして力尽きている。まさしく引用文にあったとおり、「中身を上まわる容器、しかも私にその中身をもたらしてくれた容器」というわけだ。この「中身」は話者である「私」自身のことで、「容器」は回想の中の祖母を指すと考えておくのがとりあえず無難に思えるが、あるいはむしろ回想の祖母―話者自身の内部によみがえり、瞬時に彼と一体化した祖母―こそが「中身」であるのかもしれない。そして真の「容器」とは祖母本人のことではなく、彼女に関する無意志的記憶の機構(同じ土地で同じホテルに泊まり、同じ動作を行ったことで勝手に作動し始めた自律性の記憶)なのかもしれない。
この上なく生々しい感情の横溢を透かして、ふと非人間的で超個人的な骨太の構造が垣間見える。これもまた文学の醍醐味の一つ、か。


(1)『失われた時を求めて 7 第四篇 ソドムとゴモラI』(鈴木道彦訳、集英社文庫、2006年)76頁。ただし「ジュピヤン」を「ジュピアン」に改めた。どちらのカタカナ表記もJupienでないという点では大差ないわけだが、個人的にはenを弱く読むほうが楽でよい。
(2)同書30頁。
(3)同書23頁。
(4)同書108頁。
(5)同書140-141、274-275頁。『失われた時を求めて 6 第三篇 ゲルマントの方II』(鈴木道彦訳、集英社文庫、2006年)559-560、588-589頁をも参照のこと。なおゲルマント公爵夫妻は、やはり死病に侵された親友のシャルル・スワンに対しても心無い言動を見せている。
(6)同書147-150頁。
(7)同書518-520頁。
(8)同書181-184頁。
(9)同書192頁。ただし「ヴィクチュルニヤン」を「ヴィクチュルニアン」に改めた。
(10)同書203-204頁。
(11)同書209頁。
(12)同書217-218頁。要するに、バルザックの『骨董室』にもヴィクチュルニアンという名の人物が登場するのである(シャルリュスは作者自身の手で訂正が施された同書の貴重な版を所有しているという)。なお、集英社文庫版では原文の"cette double assimilation"が「このような二つの名前と同格に扱われれば」と訳してあるが、論旨の都合上直訳に改めさせていただいた。
(13)同書235頁。
(14)同書244頁。
(15)同書257頁。
(16)同書263頁。
(17)同書260頁。
(18)同書249、273頁。
(19)同書290頁。
(20)同書297-298頁。
(21)同書301頁。
(22)同書304頁。
(23)同書309-310頁。
(24)同書327頁。
(25)同書338-339頁。
(26)同書346頁。
(27)同書365頁、「だがとりわけ、クレープのコートに身を包んで入ってきた母を見たとたんに、私は気がついた―パリにいたときは分からなかったのだが―私が目の前にしているのは、もはや母ではなくて祖母だった」。
(28)同書366-367頁。
(29)同書371-374頁。
(30)同書390-392頁。
(31)同書418-422頁。
(32)同書488-491頁。
(33)同書492-501頁。
(34)同書503-504頁。『失われた時を求めて 1 第一篇 スワン家の方へI』(鈴木道彦訳、集英社文庫版、2006年)133頁、『失われた時を求めて 13 第七篇 見出された時II』(鈴木道彦訳、集英社文庫版、2007年)270-271頁。
(35)同書524-531頁。
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