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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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アリストテレス『魂について』2 

前回は『形而上学』の検討を通じて、「生きること」は即「生きていたこと」でもあるがゆえに、いわばエネルゲイア化したエンテレケイアとして―エンテレケイア化したエネルゲイア(特に学問的研究)を高く評価するアリストテレスの個人的な好みとは独立に―、両者の一致の特権的な事例たりえているのではないかと考えた。
今回はその続きということで、アリストテレスの霊魂論そのものをのぞいてみたいと思う。

中畑正志訳『魂について』第2章からの引用だ。アリストテレスはまず、実体には三つの意味があり、それは第一に素材もしくは質料、第二に形もしくは形相、第三に両者の結合であるという。

ところでわれわれは、実体[さまざまな「ある」ということの根拠となるもの]をある[存在する]もののうちの一つの類であると語っているが、その実体を、一方では素材[質料]―それ自体では〈あるこれ〉ではないもの―の意味で、他方ではそれとは異なり形すなわち形相―それによって素材がただちに〈あるこれ〉と言い表わされるもの―の意味で語り、そして第三にはこの二つのものが結合されたものの意味で語りもする。

その上で、質料はデュナミス(可能態)、形相はエンテレケイア(完全現実態)と考えることができるが、一般に後者すなわちエンテレケイアには二つの意味を区別できるという。

しかるに、素材とはデュナミスであり、形相はエンテレケイアであるが、しかしこのエンテレケイアにも二通りの意味があって、その一つは「知識の所有」に相当するものであり、もう一つは「知識を行使する[観想する]こと」に相当する。(注1)

エンテレケイアに二種類あるというこの注意書きは後で大切になってくる。
ついでアリストテレスは、実体に関する通念によれば、主たる実体は「物体」、それも人工物ではない「自然的物体」であることに注目し、それをさらに生命のあるものとないものとに大別する。

さて、何よりも実体であると一般に思われているのは物体であり、そのなかでも自然的物体である。なぜなら、それら自然的物体がそれ以外の物体の始原[原理]だからである。だが自然的物体のうちでも、生命をもっているものと、もっていないものとがある。この場合[生命]によってわれわれが意味しているのは、「自分自身による、栄養摂取と成長・衰微」である。したがって生命に与る自然的物体はすべて、実体であり、ただし素材と形相とが結合されたものという意味での実体であるということになろう。(注2)

「したがって」以下の末尾に至って「素材と形相とが結合された意味での実体」という文句が出てくるのは唐突なようだが、これはつまり、「生命に与る自然的物体」という表現が、「生命に与る自然的(=形相)/物体(=質料)」と分解できることから、ここに質料と形相の合成を見出しているらしい。「質料と形相」といえば何やらいかめしい概念装置のようでもあるが、ここだけ取り出せば要は、分析の手がかりとして「主語(質料)と述語(形相)」、あるいは「名詞(質料)と形容詞(形相)」という言語的慣習に訴えているにすぎない。
ここからアリストテレスは、いよいよ「魂」の定義へと進む。

そして、これがまさに一定の性格をそなえた物体、つまり生命をもつ物体である以上は、物体がすなわち魂であるということはないだろう。なぜなら、物体は基体について述語づけられるものに属するのではなく、むしろ基体として、つまり素材として存在するからである。

このとおり、「基体について述語づけられるもの」、すなわち「生命に与る自然的」という形容は、「基体」ないし「素材」、すなわち主語である「物体」とは別ものである。

したがって必然的に、魂とは「可能的に[デュナミスにおいて]生命をもつ自然的物体の、形相としての実体」である。ところで、このような形相としての実体はエンテレケイアである。それゆえ、魂とは以上のように規定された物体[可能的に生命をもつ自然的物体]のエンテレケイアである。(注3)

なお補足の余地はあるものの、これが一応アリストテレスによる魂の最初の定義である。素材もしくは質料はデュナミスに相当するのであったから、「可能的に」という制限が付く。「生命をもちうる」・「生命を(もってはいなくても)もつことが無理でない」ということだろう。
では、「魂」がエンテレケイアであるとして、一体二種類のエンテレケイアのどちらに該当するのか。

ただし、エンテレケイアは二通りの意味で語られる。すなわち一方は「知識の所有」という意味であり、他方は、「知識を行使する[観想する]」という意味である。すると、魂が現実態であるというのは、明らかに、「知識の所有」という意味に相当する。

非常に興味深い考察である。一体なにゆえなのか。

なぜなら、睡眠も覚醒も、ともに魂が存在することを含意しているが、覚醒は「知識を行使する[観想する]こと」に類比的であるのに対して、睡眠は知識を所持してはいるが現に行使してはいない状態に類比的だからである。また、同一の個人においては、知識を所持していることの方が知識の現実の行使よりも生成の順序としてはより先である。それゆえ魂とは、「可能的に生命をもつ自然的物体の、第一次のエンテレケイア」と規定される。(注4)

二種類の「エンテレケイア」の間には、生成の順序、つまり時間的な順序に即した前後関係が成り立つ。そして、知識なら知識の、単なる「所持」に相当するエンテレケイアのほうが、その現実的な「行使」に相当するエンテレケイアよりも先なのだという。この前後関係は、背理法によって証明される。もし後者、つまり知識なら知識の「行使」に相当するエンテレケイアのほうが基本的だと仮定すると、睡眠中の人は皆死人だという不条理な帰結を導き出せるのである。すると「第一次の」とは、他方よりも尊くて優先すべきという意味ではなく、「原初的な」・「基本的な」・「駆け出しの」という意味だろう。

しかし、このように行使に先立つ所持という類比で説明された「第一次のエンテレケイア」なるものには、むしろ「デュナミス」ないし可能態の概念を思わせる性格がありはしないか。にもかかわらずアリストテレスにとっては、「エンテレケイア」の概念を二分してでも、生命ある自然的物体、すなわち生物一般は、質料(デュナミスの側面)と形相(エンテレケイアの側面)との合成でなくてはならなかった。単に自説の体系的整合性を崩したくなかっただけ、という意地の悪い読み方もできるのかもしれないが、ここではもう少しまっとうな理由を考えてもよいのではないか。
アリストテレスが提示した枠組の中で「生命」について考えようとするとエンテレケイアがエネルゲイア化する、あるいはエンテレケイアがエネルゲイアにいわば歩み寄ることになるというのが前回(アリストテレス『魂について』)の結論だったが、これを敷衍してみよう。すると、こと生命に関しては、デュナミスの直後に間断なくエンテレケイアが続く、とも考えうるのではないか。すでにエンテレケイアがエネルゲイア化している以上、デュナミス(可能態)から「エネルゲイア(現実態)を経て」エンテレケイア(完全現実態)に至る、という過程についても、中間の段階を省略することによる圧縮が許される、ということだ。
ゆえに、たとえうわべは睡眠中のように不活発であっても、生物はただ生物であるというだけで皆、欠けるところのない完全現実態(エンテレケイア)にある。いかに小さな生き物も、いかに短い生涯も例外ではない。我々人間と比べればやっとデュナミスから抜け出したばかりに見え、大してエネルゲイアを感じさせない「生命に与る自然的物体」、例えば細菌や昆虫も、すでにデュナミスから抜け出している以上はエンテレケイアに、ほとんどデュナミスと境を接するような第一次のエンテレケイア、最も基本的なエンテレケイアに等しく関与している(そこから第二次のエンテレケイア、本格的な完成にどの程度進めるかはまだ分からない)…何とも基本的な、貧相なまでに基本的な「エンテレケイア」もあったものだ。
この貧相ぶりはもとより何か特定の生き物の体質等に由来するものではなく、だから例えば第一次のエンテレケイアが細菌と人間に共通だからといって、前者が後者の足を引っ張っている(完成度を薄めている)わけではない。むしろ「生命に与る自然的物体」を「生命に与る自然的(=形相)/物体(=質料)」と読み替える、『魂について』の叙述の様式そのものに由来するはずだ。だとすれば「デュナミスから抜け出したばかりの『生命に与る自然的物体』」という表現は、正確には問題含みだったかもしれない。なぜならばもし我々が「生物」というものを包括的に理解したければ、まさに生物として、すなわち「生命に与る自然的物体」として理解するほかないからである。質料抜きの形相を考えることも、形相抜きの質料を考えることも、事実上はほとんど無意味だ。前回すでに分かったように、「生きること」は即「生きていたこと」であるからして、それに先立つはずの「未だ生きていない状態」は生物論の領分には属さないのである。つまりこのかぎりで、魂なき身体とか、身体なき魂とかは、生物論の主題ではありえないのだ。
すでに引用した記述に続けて、アリストテレス自身が生物の器官を検討した結果これと同じ判断を下している。

そこで、魂のすべてにわたって何らかの共通する事柄を語らなければならないとすれば、それは「器官をそなえた自然的物体の、第一次のエンテレケイア」ということになるだろう。したがってまた、魂と身体とが一つであるかどうかを探究する必要もないのであって、それはちょうど、封蠟とそこに刻まれた印形とが一つであるかどうか、また一般的にそれぞれのものの素材とその素材がそれの素材であるところのものとが一つであるかどうかを探究する必要がないのと同様である。なぜなら、〈一〉と〈ある〉とはさまざまな仕方で語られるが、その中心的な意味は、エンテレケイアがそうであるということだからである。(注5)

このいっそう入念な定義を経て、『魂について』の叙述は、ゆえに魂とは斧にとっての「斧であること」そのもの(本質)に、あるいは眼にとっての視覚に相当する、という類比によってその形相としてのあり方を説明しようとしている。この際の眼目は、第一次のエンテレケイアという概念のいわば「デュナミス」的な性格の画定にほかならない。次の引用文によれば、魂という「第一次のエンテレケイア」の喪失は、生きることの可能性(デュナミス)そのものの根底的な喪失に直結するからである。

そこで、部分について成り立つことを、生きている身体の全体に当てはめて理解しなくてはならない。というのも、視覚という感覚の部分と眼という身体の部分との関係は、感覚全体と感覚する能力をそなえた―そのように特定されるかぎりでの―身体全部との関係に対して類比的だからである。ただし魂を失ってしまったものは、生きることへのデュナミスにあるもの[生きることが可能なもの]ではなく、むしろ魂をもっているものがそうなのである。また、種子や果実は、可能的にそのような物体なのである。(注6)

こうして、そもそも遡行することが無意味で無駄な局面であるにもかかわらず、質料と形相の対という遡行用の概念が与えられた結果、あらゆる種の生物がただ生きているだけで、つまりはそれ自身であるだけで、すでに何がしかの完成を成就していると主張する資格を得る。その程度に関してはおそらく、複数の種を比較したところで差はない(昆虫は人間と比べて半分の生命に、細菌は同じく四分の一の生命に与っている…などと考えるのは馬鹿げている)。魂があるものとしての生物の秩序の外には、せいぜい種子や果実があるだけで、これらを生物として劣等だとは呼べない。
第一次のエンテレケイアは、共通だから最小限なのではなく、最小限だから共通なのだ。「生命に与る・器官をそなえた自然的物体」、すなわち生物が存在するという端的な事実が、それ以前の諸段階、すなわち身体なき魂あるいは魂なき身体という仮定から、生物学者が真剣な考慮を払うに値するだけの現実性を即座に排除する。この意味でそれは最初から絶対的な完成であり、比類のない奇蹟である。アリストテレスの霊魂論が設けた二種類のエンテレケイアの区別は、生命というものの手の付けようのない単純さを、まさしく還元不可能な眩さの中で肯定するのに役立つ。生物が存在するや否や、そこには行使なきエンテレケイアが成り立っており、すでに無条件の完成があるのだ。

こうして、一方では切断作用や見る活動がエンテレケイアであるのと対応する意味において、覚醒していることもまたエンテレケイアであるが、他方では視覚能力や道具の能力がそうであるのと対応した意味において、魂はエンテレケイアなのである。これに対して、身体はデュナミスにあるものである。しかしながら、瞳と視覚能力とで眼が成立するように、先の場合でも、魂と身体とで生物が成立するのである。(注7)



リルケは『ドゥイノの悲歌』の「第九の悲歌」で、「なぜに人間の生を負いつづけねばならないのか」と問うて「この地上に存在するということはたいしたことであるからだ」と自ら答え、「それゆえわれわれはひたむきにこの存在を成就しようとする」と歌った(注8)。
こんな詩句のことも念頭に置きつつ、引き続き『魂について』におけるエンテレケイアとエネルゲイアの関係を素人なりに考えていきたい。


(1)アリストテレス『魂について』(中畑正志訳、京都大学学術出版会、2001年)60頁。なおこの翻訳では、「デュナミス」、「エネルゲイア」、「エンテレケイア」の訳語は、順に「可能態」、「現実活動態」、「現実態」なのであるが、引用に際して改めさせていただいた。
(2)同書60-61頁。
(3)同書61-62頁。
(4)同書62頁。
(5)同書62-63頁。
(6)同書64頁。
(7)同上。
(8)リルケ『ドゥイノの悲歌』(手塚富雄訳、岩波文庫、2010年改版第1刷)69-70頁。
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