Admin New entry Up load All archives

つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

category: スポンサー広告

CM: -- TB: --   

「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」展 

国立新美術館で開催中の「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠」展を拝見してきた。
ヴェネツィア派ときたら見ないわけにいかないと気負いこんで行ったのだが、意外と空いていたので拍子抜けした。
同じ館のダリ展に人が流れたのかと思ったが、あれこれ観て回っているうちに、展覧会自体がいまいち求心力を欠くことにも理由があるのかもしれないと感じられてくる。
まず、会場が広いわりに出品点数が57と少なめである。狭い空間にこれでもかという数の絵を押し込むより、このほうが展示作法としてはましに決まっているのだが、寂しい気もする。
名高いアントネッロ・ダ・メッシーナの「受胎告知の聖母」は甥(アントニオ・デ・サリバ)による模作が、ティツィアーノのヴィーナスは工房作品が出品されており、物珍しく感じられるものの絵としての完成度にはやや疑問が残る。
一応「受胎告知」が展覧会全体の目玉であるはずのティツィアーノの作品だが、それ以外で出品されていたのは聖母子が1枚のみ、工房によるヴィーナスを勘定に入れても合計3作にとどまる。
ティツィアーノではなく次世代のティントレット、ヴェロネーゼ、ヤコポ・バッサーノらをヴェネツィア派の全盛期として位置づけるとともに、マニエリスムやバロック寄りのものとして把握することもできそうな彼らの作品をあくまでも「ルネサンス」という枠組の中で見ようとする構成には、異論を唱えたくなる人もいそうである。ヴェロネーゼやバッサーノの聖ヒエロニムス像はもちろんすばらしいものだが、いかんせん地味だし、ことに華やかな群像で知られるヴェロネーゼの場合は、彼の持ち味が存分に発揮される画題とも思われない。
肖像画は12点に上るが、作者も人物もさほど有名ではない作品などは、後世に生きる我々赤の他人にとっては、それ自体がよほどの傑作なのでないかぎりそう意味深いものではないのだから、もっと割合を減らしてもよかった。
意図した結果とはいえどう見ても青が多すぎるドメニコ・ティントレットの「キリストの復活」や、ティツィアーノの先例にならいつつ、すでに記号と化したヴェネツィア派の様式的諸特徴をそつなくまとめあげたというだけのパドヴァニーノの神話画(「オルフェウスとエウリュディケ」・「プロセルピナの略奪」)などを眺めていると、時代を下るにつれて画家が小粒になってくるという印象は否めない。
しかし見方を変えれば、よそいきの姿でない、等身大のヴェネツィア派絵画を概観することのできるよい機会だったとも思える。
それだけに群を抜いて際立つことになるのは、サン・サルヴァドール聖堂の「受胎告知」における晩年のティツィアーノの途方もない天才である。
「燃えても焼き尽くすことのない火〔IGNIS ARDENS NON COMBURENS〕」という銘文そのまま、闇を切り裂いて滝のように流れ落ちる黄金の光と、何重にも分厚く絵具を塗り重ねられた大天使の羽は、人間の知らない、摩訶不思議な物質の非物質的言語を語る。表現力が高いなどというものではない、ティツィアーノには表現しかないのである。なにしろ、鑑賞者の目をまっさきに射る最も明るい部位は、マリアではなく、顔が陰に隠れたままの天使の右頬なのだ。「燃え上がるような」「色彩の錬金術」という決まり文句には、少しの誇張も嘘もない。主題などどこ吹く風とばかりの奔放さで繰り広げられるこの色彩の乱舞は、いかなる画集や複製画よりも雄弁に、ティツィアーノが「画家の王」であるゆえんを得心させてくれる。
スポンサーサイト

category: 展覧会

CM: 0 TB: 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://tsujiko692.blog.fc2.com/tb.php/120-715eb9c8
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。