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一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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日日日『ビスケット・フランケンシュタイン』 

日日日(あきら)は現代のスピノザである。

もちろん、17世紀のオランダの哲学者であるスピノザ(Benedictus de Spinoza, 1632-1677)と、21世紀の日本の小説家である日日日との間には、地理的・時間的・言語的に大きな隔たりがある。にもかかわらず、例えば前回の記事(日日日『のばらセックス』8)でも言及した、自己満足としての愛という概念などは、スピノザの主著である『エチカ(倫理学)』〔Ethica〕(1677年)の第五部定理36(注1)と響きあうものであろう。
あるいは、このように相互理解というものの根本的な無効性を重々承知しながらも、「人間にとっては人間ほど有益なものはない」(注2)ことを片時も疑おうとはしない、溌剌たる信念が二人に共通していると考えてみるのもよいかもしれない。
だが、今回は『ビスケット・フランケンシュタイン』を取り上げよう。

ジル・ドゥルーズが的確に要約しているように、スピノザによれば「意識」とは「観念の観念」である。
ドゥルーズがこの定義において注目するのは、「反照」、「派生」、「相関」という三点である(注3)。第一に、意識とは観念の物理的な特質、精神内での観念の反照にすぎない。第二に派生とは、意識は観念に比べて二次的であり、出発点である観念以上の価値があるわけではないという意味だ。そして第三の相関とは、意識と観念との関係が、観念と対象との関係に等しいということを指す(これは意識が与する思惟の極と、対象が与する存在の極との対等性に通じる)。
しかるにスピノザによれば、「人間精神を構成する観念の対象は身体である」(『エチカ』第二部定理13)(注4)のみならず、「精神は身体の変状〔刺激状態〕の観念を知覚する限りにおいてのみ自己自身を認識する」(『エチカ』第二部定理23)(注5)。
このような考え方からドゥルーズが引き出してくるのは意識の評価の切り下げ、ないし相対化という事態である。というのも素のままの意識は無力で、到底物事の真の原因も、自身の本性も理解するだけの能力がないからだ。
我々の意識は、ある物体が我々の身体に及ぼした結果を、その物体の目的だったのだと思い込む。同様にその結果の観念をも、我々の目的だったのだと思い込んでしまい、こうして意識は己を身体の主人であると信じるようになる。そしてこれだけでは納得のゆく説明が無理な場合は、やはり目的因や自由裁量を具え、人間に裁きを下す神の姿を思い描くに至る。
この三者、すなわち「目的因の錯覚」と「自由裁量の錯覚」と「神学的錯覚」は、単に人間の意識が何かの間違いでたまたま抱くこともある錯覚ではなく、そもそも意識が成り立つための土台である。「意識は、文字どおり目を見開いたまま見ている夢にすぎない」(注6)。
したがってスピノザ的な倫理は、目的や自由裁量や、キリスト教的な人格を具えた超越神などの概念に訴えることなく、あくまでも「おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める」(『エチカ』第三部定理6)(注7)という赤裸々な事実から出発して、心身両面にまたがるこの自己保存の努力、すなわち「衝動」(注8)こそが通常目的という名で呼ばれるものの正体にほかならぬことを証明しなくてはならない。少し長くなるが『エチカ』第四部の序言から引用しよう。

ところで目的原因と呼ばれている原因は、人間の衝動が何らかの物の原理ないし第一原因と見られる限りにおいて人間の衝動そのものにほかならない。例えば「居住する」ということがこれこれの家屋の目的原因であったと我々が言うなら、たしかにそれは、人間が屋内居住の快適さを表象した結果、家屋を建築しようとする衝動を有した、という意味にほかならない。ゆえにここに目的原因として見られている「居住する」ということはこの特定の衝動にほかならないのであり、そしてこの衝動は実際に起生原因なのである。この原因が同時にまた第一原因と見られるのは、人間というものが一般に自己の衝動の原因を知らないからである。すなわち、すでにしばしば述べたように、人間は自己の行為および衝動を意識しているが、自分をある物に衝動を感ずるように決定する諸原因は知らないからである。(注9)

こうしてスピノザによれば、「徳」とは何らかの外的な規範に自己を合わせようとする修身ではなく、逆に「人間が自己の本性の法則のみによって理解されるようなあることをなす能力を有する限りにおいて、人間の本質ないし本性そのもの」(『エチカ』第四部定義8)(注10)でなくてはならず、ゆえに「徳の基礎は自己固有の有を維持しようとする努力そのものであり、また幸福は人間が自己の有を維持しうることに存する」(『エチカ』第四部定理18備考)(注11)。そこで彼の倫理学において非常に尊ばれるのは「各人が単に理性の指図に従って」発揮する二通りの精神の強さであり、その内実は「自己の有を維持しようと努める欲望」と「他の人間を援助しかつこれと交わりを結ぼうと努める欲望」、すなわち「勇気」と「寛仁」である(『エチカ』第三部定理59備考、第五部定理41証明)(注12)。人間が人間とともにただ生きる、という考えうるかぎり最も単純で基礎的な、ほとんど生物学的な局面の水準から倫理が構想されていることは明白だ。

さて、日日日の『ビスケット・フランケンシュタイン』(学習研究社、メガミ文庫、2009年)である。
この小説における意識談義は、当初は「人間同士の間で発生する感情も、相互通行なのか疑わしくなります」といった独我論的な調子を持っている。この場合、不可解なのはあくまでも他人の心だ。「他人に感情があるかどうかを、確かめる術はありませんからね。他人の痛みや思考を、ほんとうに実感できることはない。すべては想像であり、高度に発達した人工知能は人間と見分けがつきません」(注13)。もちろん、これはこれで深刻な悩みに違いない。
だが、奇病で亡くなった少女たちの、人体とは似て非なる奇怪な物質に変わった患部を継ぎ接ぎにしてできた主人公格の怪物「ビスケ」が抱くこの問いは、終盤に至ってはっきりと向きを変え、今度は彼女自身に打ち掛かってくる。「おまえが意識だと、自我だと思っているそれは、プログラムだ!!」と(注14)…製作者である花水日景(はなみ・ひかげ)は、遺体の寄せ集めにすぎなかったはずのビスケに、あたかも生身の人間に対するがごとく日々語りかけ、「おまえが生きていたらな」と呼びかけた。その繰り返しがたまたま実を結んで、彼女はとうとう「自我」らしきものを持つに至ったというわけである。たしかに意図的な計画ではなく偶然の産物である点は忘れてはならないが、それにしても「この自我は、機能を残していた脳に、反復と経験、日景の言葉の蓄積によって発生した『意識に見えるもの』―きわめて生物的な、けれど人工知能に過ぎない」(注15)。
どうせビスケは不老不死の怪物なんだから、我々人間には関係ないと早合点してはいけない。なぜならばこの罵倒は、「人間と関わりすぎて、人間じみてしまった」(注16)彼女の明かすある「目的」を聞いて驚愕し、狼狽する同族の口から発せられているからである。となれば「人間の思考も感情も、所詮はよくできたプログラムだ」(注17)という認識まではあと一歩だろう。これは、我々の「意識」を身体的刺激の観念に帰着せしめることで、その地位の大幅な相対化を進めるスピノザの姿勢にそっくりではないか。
ところでビスケの「目的」とは一体何か。それは、遺伝子の暴走のせいで滅亡寸前にある人類の存在を何とかして次代に継続させようとする試みである。急激な進化の負荷に耐え切れず、病んで死に絶えようとしている人間たちを、死体の患部を食すことで遺伝情報として体内に取り込み、保存し、いずれは同族との生殖によって復活させることである(その数は結末の時点で五千人程度とあまり多くはないし、生まれてくる子供が「人間」と呼べるかも怪しいが)。
このことは、一方では自己保存の衝動に立脚して「目的」概念の内実を組み替えようとしつつ、他方では「勇気」と「寛仁」という二通りの精神の強さの重要性を強調する『エチカ』の、いわば生物学的な傾向と相性が良いばかりか、さらにその結論とも重なる。というのもスピノザは、「絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体」(『エチカ』第一部定義6)(注18)を「神」と呼び、このように定義された以上およそキリスト教的な人格神とは異なる、ほとんど「自然」そのものと同義の神の中に人間を一部分として服属せしめながら(『エチカ』第四部定理4)(注19)、「人間精神は身体とともに完全には破壊されえずに、その中の永遠なるあるものが残存する」(『エチカ』第五部定理23)ことを力説するからである(この「あるもの」とは人間身体の本質を表現する観念のことであり、したがってスピノザ的な不死性は決して身体をなおざりにしているわけではない。それどころか「身体の本質を永遠の相のもとに含む限りにおいて」のみ我々の精神は永遠でありうる)(注20)。「集合体」であり「生まれついての群体」であるビスケが超個人的な「遺伝子の意識」を代表して、「わたくしはね、人間が好き。けれど、人間が絶対とは思わない」(注21)という台詞を、それまでは彼女を解剖する側だった話者をも捕食する寸前に口にしていることは、それゆえ実にスピノザ的な成り行きなのだ。

以上がいわば核である。残るは、この小説の各章をスピノザ的に考えることができるか検討することだ。
主観的な性別と生物学的な性別との不一致に悩んだあげく、病に侵された脳で忘却してしまった殺人の罪を自分の命で贖うはめになった古月蝶(ふるつき・あげは)、「細胞が理解しているはず」(注22)の母の死を頭では受け容れることができないまま新鮮な肉体を求めて凶行を重ねる小宮山楽園(こみやま・えでん)、電脳ネットワークの中で仮想世界に浸り続ける人生を選びながら停電に見舞われてあえなく植物状態に陥った南雷多(みなみ・らいた)…こう列挙してみると明らかに、「candy : 初恋あげは蝶」「pudding : ひとごろしはママの味」「chocolate : 泥雪姫」の各章を、身体からの精神の乖離がもたらす悲劇、として総括できそうだ(ただし南の末路は「biscuit-D」と題された幕間風の、だが実は三つの章の枠組に相当し、巻頭以来の現在時制に属する章に入ってから判明するので、「chocolate : 泥雪姫」だけからはわからない)。
さて既述のとおり、スピノザにとっては、「人間精神を構成する観念の対象は身体である」(『エチカ』第二部定理13)。ゆえに「ある身体が同時に多くの働きをなし・あるいは多くの働きを受けることに対して他の身体よりもより有能であるに従って、その精神もまた多くのものを同時に知覚することに対して他の精神よりそれだけ有能である。またある身体の活動がその身体のみに依存することがより多く・他の物体に共同して働いてもらうことがより少ないのに従って、その精神もまた判然たる認識に対してそれだけ有能である」(『エチカ』第二部定理13備考)(注23)。すなわち『エチカ』の体系の中では、精神と身体は決して分離されてあることを許されず、一方の強さはそのまま他方の強さに、同じく一方の弱さはそのまま他方の弱さに直結しているのだ。これは「心身並行論」と呼ばれる説で、当時他にも心身相関の発想を唱える者が多くいたことと無関係ではなかろう。とはいえドゥルーズが注目するように、他の哲学者の場合と違って、スピノザの並行論では精神と身体との等価性がきわめて顕著であり、前者が後者に対して優越性を主張することができない(注24)。
ゆえに我々はおそらく、『ビスケット・フランケンシュタイン』を、この並行論の背理法による証明として、すなわち「何らかの形で心身並行論が成り立たない状況では、いかなる問題が我々に生じるのか」を教える虚構作品として読むことができるのではないか。三つの章はそれぞれこの教えを表現しており、ただしそこには三者三様の違いがある。もともと身体から遊離気味だった精神が誘発する、自他の身体への暴力が精神をも破滅に追い込むか(古月蝶)、他者の身体を我流の理屈に従わせようとするばかりで、一向に身体の教えに耳を傾ける気のない精神がついに挫折を強いられるか(小宮山楽園)、断固たる決意で身体から離脱したつもりの精神が、それでもしがらみを断ち切れない身体の側から手ひどいしっぺ返しを食らうか(南雷多)、という違いが。
それぞれの章でビスケが一体何を願い、何に怒り、何に悩んでいるのかを詳しく検討するのは、長引きそうなので省く。とはいえいずれの場合でも、患部を食べることでその奇怪な特性を自家薬籠中のものにできるばかりか、相手の記憶や知識や人格を瞬時に理解することもできる、という彼女の能力(正確にはむしろ、「性質」だろう)が小説の構成上不可欠の要素となっていることは事実だ。ところで『エチカ』第四部定理18備考には、「すべての人間の精神と身体が一緒になってあたかも一精神一身体を構成し、すべての人間がともどもにできるだけ自己の有の維持に努め、すべての人間がともどもにすべての人間に共通な利益を求めること」という空想が出てくる(注25)。夢のような絵空事かもしれない。けれどもビスケは、一つ一つの細胞に宿る大勢の人々の経験を存分に活用しつつ、ときには取り込んだ患者の症状を再現することで自由自在に我が身を変形させて戦いながら、ひたすら例の目的のために生き続けようとする―「保存と増殖こそが、遺伝子の宿命」(注26)である以上、十数人の少女の継ぎ接ぎ細工として生まれた自分は誰よりもこの原理に忠実でなくてはならないと思い定めて。どこまでも真剣なその生き方を目の当たりにする読者にとって、スピノザの遠慮がちな「あたかも」は、必ずしも除去しえぬ制限ではない。
終章「dried fruit : あなたの化石を」には、ビスケを参考にさる外国で製造された、カンダタと名乗る生物兵器が登場する。さきほどビスケの「同族」と呼んだのがこいつだ。カンダタは精神と肉体の分離という原理に則っている。筋骨隆々たるのっぺらぼうの巨人を、ひ弱そうな頭脳役の男の子が音波を飛ばして思い通りに操るのである。心身並行論への挑戦以外の何ものでもない。しかし、生まれて初めて同族の異性に巡り合えたのをこれ幸いとばかり、死闘の末に奇策を用いてカンダタの邪魔な「肉体」を追い払ったビスケは嫌がる彼を首尾よく強姦し、「かくしてビスケと、遺伝子の目的は果たされた」(注27)…。この結末はひとまず、「身体が何をなしうるかまた身体の本性の単なる考察だけから何が導き出されうるかを全然知らない」(『エチカ』第三部定理2備考)(注28)ばかりに精神を偏重し、身体を侮る輩の軽率を戒める並行論者スピノザの勝利、ということにもなりそうだ。

だが、一つ指摘しておきたい相違点がある。この小説の、終幕の光景についてだ。

人類は滅ぶだろう。
だが、この温もりを忘れない。
その遺伝子を、受け継いでいく。
あぁ生きていて良かったと、継ぎ接ぎの少女は微笑んだ。(注29)

以前の記事(日日日『のばらセックス』6)で私は、『のばらセックス』の終わりのほうで、女性たちが「ただ生きていられる」状況をおちば様が自分の意志で創設する、ということに注目した。これは虚構世界の登場人物らしい強い使命感と、虚構内の登場人物にとっての贅沢である「ただ生きている」という境地とを両立させる手法の、興味深い実例と思えたからである。いましがた引用した『ビスケット・フランケンシュタイン』の終幕の光景もやはり、これと同じように読まなくてはなるまい。
「ただ生きている」、というより正確には遺伝情報というそれ以下の形で、最小限の実存を次代に受け継いでもらう人々の立場がすこぶる貧しく、慎ましいものであることは論を待たない。だが、そもそも人類とは別種の生き物であるのに、「地球の癌細胞」(注30)としか思えない人類の遺伝子を生き延びさせることだけに己の生涯を捧げたビスケの立場も、お人好しで、劣らず慎ましやかではないか(行為だけを見れば恐ろしく気宇壮大だが、誰に頼まれたわけでもなし、この野心が実現したところで彼女自身に何の報酬があるわけでもない)。それこそ人間離れした無私である。こんな「目的」を、「物語」を己に課すことが果たして本当に正しいのか、彼女自身いまいち確信が持てないほどだ(注31)。スピノザの神がいかなる受動性とも無縁なるがゆえに、いかなる喜びにも悲しみにも動かされず、したがって何者をも愛さず、何者をも憎まない(『エチカ』第五部定理17)(注32)のと比べれば、ずいぶん趣が違う。
思うにこれこそ、スピノザ哲学が日日日の小説の中で復活する際に受け容れなくてはならなかった秘密の条件である。「絶対に無限なる実有」だった神はビスケという一人の少女の慎ましやかな姿へと、変貌を遂げる必要があったのだ。自ら誰かを愛するために、悲しむために、孤独を感じて寂しがるために。


(1)スピノザ『エチカ(下)』(畠中尚志訳、岩波文庫、2005年第45刷)129-130頁。
(2)同書30頁(第四部定理18備考)。
(3)ジル・ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』(鈴木雅大訳、平凡社ライブラリー、2004年初版第2刷)85-86頁。
(4)スピノザ『エチカ(上)』(畠中尚志訳、岩波文庫、2005年第50刷)108頁。
(5)同書127頁。
(6)ジル・ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』(前掲書)38頁。
(7)スピノザ『エチカ(上)』(前掲書)177頁。
(8)同書179頁。
(9)スピノザ『エチカ(下)』(前掲書)9頁。
(10)同書13頁。
(11)同書29頁。
(12)スピノザ『エチカ(上)』(前掲書)234頁、『エチカ(下)』(前掲書)135頁。
(13)日日日『ビスケット・フランケンシュタイン』(学習研究社、メガミ文庫、2009年)186-187頁。
(14)同書246頁。
(15)同書247頁。
(16)同書238頁。
(17)同書247頁。もっとも83頁ではすでに、話者がビスケと言葉を交わしながらこんなことを考えている。「会話はコミュニケーション。言葉を発し、相手から反応が返ってくることで、『自分』は輪郭をつくられる。生きているという実感が与えられる。我思うゆえに我在り。けれど他者がいないと、それを証明してくれる外的理由が存在せず、自意識は不安をおぼえる。個人では、人間の自我は存在できない。自我はそもそも、他者との比較の中で形成されるものであり、個性なんていうものは、すべて他者との対比によって彫刻される錯覚である。/孤独に生まれた少女は、それを自覚しているのかもしれない」。
ちなみに「我思うゆえに我在り(Cogito, ergo sum)」という命題はもちろんデカルトに由来するものだが、スピノザはデカルト哲学の手引書の中でこの命題を、これ自体が学問の基礎なのだからいっそう基礎的な前提を必要とする三段論法であってはまずいという理由で、「我は思惟しつつ存在す(Ego sum cogitans)」と書き改めている。日日日とは方向が異なるものの、ここでもやはり「我思う」という意識の地位には制限が課せられるのだ。参照箇所は、『デカルトの哲学原理 附 形而上学的思想』(畠中尚志訳、岩波文庫、2004年第13刷)25-26頁である。
それにしても、「個性なんていうものは、すべて他者との対比によって彫刻される錯覚である」とまで断定しながら、なおも己が小説家であることを、虚無主義の対極に立って全身で肯定し続ける日日日の図太さは、何と力強く我々を鼓舞してくれることか。
(18)スピノザ『エチカ(上)』(前掲書)38頁。
(19)スピノザ『エチカ(下)』(前掲書)16-18頁。
(20)同書120頁。
(21)日日日『ビスケット・フランケンシュタイン』(前掲書)132、203-204頁。
(22)同書128頁。
(23)スピノザ『エチカ(上)』(前掲書)110頁。
(24)ジル・ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』(前掲書)135-136頁。
(25)スピノザ『エチカ(下)』(前掲書)30頁。
(26)日日日『ビスケット・フランケンシュタイン』(前掲書)236-237頁。
(27)同書250頁。
(28)スピノザ『エチカ(上)』(前掲書)172頁。
(29)日日日『ビスケット・フランケンシュタイン』(前掲書)253頁。
(30)同書201頁。
(31)同書207頁。以下の引用文において、ビスケの思考は殺人に対する拭いがたい嫌悪感を、自身の「目的」への懐疑を圧殺するために転用している。「それを、ビスケは実感する。遺伝子の罪悪感が、自分を生みだしたのだと、そんな物語を築きあげ、己の肝に据えている。何者にも望まれずに生まれたビスケには、『目的』が必要だった。知性を有しているなら誰しも、ただ生きることはできない。お金のため。種の保存のため。幸福のため。目的地がなければ、歩きつづけることはできない。/ビスケは、己にひとつの『目的』を、『物語』を課した。それを果たすことが、生きる活力となり、理由となった。その『目的』が正しいのか、自分の生きる意味は、ほんとうにあるのか、疑うとお終いだ。不安で死にそうになる。誰も正解と間違いを区別してくれない。神は死んだ。人間も滅ぶだろう。己の自意識を肯定することは、己にしかできない」。
(32)スピノザ『エチカ(下)』(前掲書)114-115頁。
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