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一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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吉岡実『「死児」という絵〔増補版〕』 

現代詩の発展の中で吉岡実が果たした役割の大きさを否定できる人はそういないはずだが、私はどちらかといえば彼の作品が苦手である。
日常卑近の情景をシュルレアリスム風の詩句に作り変えるという手法が題材と表現の間に不釣り合いをもたらしているように感じられること、それとなぜか尾籠で不潔な対象への言及が多いこと、たぶんこの二つが理由のようだ。
その点、『「死児」という絵』にまとめられた散文は、いかにも江戸っ子風と呼んでよいのかどうか、無駄をそぎ落とした簡潔な文体を通して、鋭い観察眼のみならず、如才なさと奥床しさを兼ね備えた人柄が透けて見える名品揃いであり、詩よりはだいぶ親しみやすい。
自伝風の文章や住んだことのある町の印象、詩人たちとの交友録、美術品についてなど、いかにも随筆らしいものに加えて、日記の抜粋や「ベイゴマ私考―少年時代のひとつの想い出」、「ロマン・ポルノ映画雑感」など、やや意外な感を与える表題も混じっている。「離れ業! まさにわが新婚旅行の出発はそれであった」(注1)という書き出しで始まる「蜜月みちのく行」も吉岡らしからぬ浮かれた気分が感じられて面白いし、かと思えば「小鳥を飼って」では、珍しく大江健三郎の文体模写のようなことをしている。若き日の吉岡が佐藤春夫の詩とともに、北原白秋の短歌を愛読していたことがたびたび表明されるのも興味深い。あまりこの二人を偏愛しすぎたせいで、萩原朔太郎の詩にも斎藤茂吉の短歌にもとうとう出会い損ねてしまったとのことだが、もし早くから読んでいたら、はたして彼らの影響から自由に一人の詩人として出発することができたかどうか(注2)。
しかし最も味読に値するのはおそらく、永田耕衣、富澤赤黄男、高柳重信、河原枇杷男ら、著者が傾倒しあるいは好んだ前衛的な俳人たちを論じた文章であろう。重信の「まなこ荒れ/たちまち/朝の/終りかな」を評した、「ここに虚妄と憂愁にみちた現代人の貌―その魂が露呈されている」(注3)という文をはじめ、思いのほか抽象的な語彙を駆使した調子の高い断定が目立つ。くどくどと長たらしい分析を重ねることで表向き自分の専門ではない分野を荒らすような真似はしたくないという美学からか、いずれも長年親しんできた俳人ゆえその作風の特色はさしたる苦もなく数語で射当てることができるという自信からか、はたまた他人の優れた文学作品に接すると、詩人吉岡実のもう一つの顔である編集者が呼び覚まされるのか。それにしても、「出会い―加藤郁乎」に引用された、「青葉かの吾(あ)をば稲羽のしろうさぎ」は、口ずさんでみれば実に朗々たる調べが心地よいとはいえ、句意は一体どういうことだろう。まさか、「昔は青葉のようにふさふさと髪が繁っていた我が頭も、近頃は無残に禿げて因幡の白兎同然になってしまった」という嘆きではあるまいな。
俳人論と並んで見落とせないのは、「おやじさん」こと岳父和田芳恵と、「西脇先生」こと西脇順三郎の肖像画(ポルトレ)であろう。
「月下美人―和田芳恵臨終記」は、夏の終わりに発作を起こした和田の容体について、当初は「おやじさんは死んでも病院には入らぬというので、半月近くも自宅治療をしていた。〔中略〕足場の悪い部屋をかたづけようとすると、怒った。一冊の本、一本のペンでもうごかすことを禁じられていた。机に倚りかかって、おやじさんは死にたいのだろうと私は思った」と書いてあるのに、少し読み進むと空行を隔てていきなり「十月四日は朝から大雨であった。そういえば入院の九月十九日も十一号の雨台風の日だった」という記述が現われ、ついで新たな入院に先立つはずの一時的な帰宅を告げながら「あらかじめ今日のことに備え、本も本棚もその他の器物も搬び出してしまったので、部屋は一変していた。新しいセミダブルのベッドの上に病人は寝ていた」とあるのが、いかにも病状の進行につれて病人が自らの意志を貫徹できなくなる様子を遠回しに伝えていて、むごたらしい印象を与える(注4)。最初の入院―そして第二の入院は、不幸にも和田の逝去によって必要がなくなった―を明かすときのそっけない「そういえば」云々において、過ぎ去ったこと、もはや取り返しがつかぬことの単なる事後的な報告に接する我々読者は、それを変える権限が自分たちにないという無力感から、自ずと入院に抗えなかった和田の無力感に思い至るのだ。空行の直前には去る六月に営まれた和田の姉の七周忌のときの回想が挿入されており、まるですでにこのときから、非情な運命が彼の心身を蝕みつつあったとでも言いたげだ。

墓地へ向うおやじさんは、呼吸が乱れて苦しそうだった。立ちどまっては休み休みして、人々より遅れて来た。そこには自然石の清浄な墓が立っていた。自筆の「寂」の一字が刻まれている。達筆家のおやじさんのものにしては、一寸力がないなと、私は思った。うしろには、美しい竹藪が拡がっていた。これが私の墓です、と和田芳恵は呟いた。(注5)

注意したいのは、「おやじさん」と「和田芳恵」の使い分けである。樋口一葉研究で知られ、小説家でもある和田芳恵は、自らの死をもできることなら意志的に制御したい、死ぬときは文筆家として死にたいと願っているようだが、生身の「おやじさん」としての彼に襲いかかる衰弱は、それを許してくれない。なるほど、書き手が誰であろうと身近な人の死をめぐる随想が厳粛になるのは当然のことかもしれないが、吉岡の文章には、人が人の最期を看取ることの意味という点で、ひとしお考えさせられるものがある。和田自身がとうとう永久に筆を執ることができなくなった以上、「作家和田芳恵は死んだ」(注6)という文を書いて彼の生涯に彼が望んだはずの締めくくりをつける役は、誰か他の人が果たすほかないのだ。
「西脇順三郎アラベスク」は合計13篇の短文から成り、一人の人物を論じた文章としては、本書の中で分量的に抜きん出ている。どれも西脇に関心を持つ人にとってはありがたい記録であろうが、わけても私が興味深く読んだのは、その第一篇「断片四章」の中の、次のような一幕である。

 昨年の春のある日、西脇先生と会田綱雄、江森国友それに私とで桐半という小料理屋へ行って酒をのんだことがある。酒と肴がうまいと云って、先生はごきげんになる。話題は、多摩川、目黒、世田谷という西脇詩の母胎ともいうべき地名論だった。やがて好物の柳川が出ると、それは頂点に達したらしい。こんどみんなで、板橋を歩こうと云われる。あすこは、江戸の宿場であり、要路だったからな―
 犬殺し
 菜の花
 女郎
 恐るべきスピードで叫ばれた。もうこれで板橋のイメージがわれら三人のなかに確固として造形されたようなものだった。私はこれに「近藤勇の墓」を挿入したらなお完璧だと思った。なぜなら、かつて私は庶民の町板橋の勇の墓の近くで、十年ほど暮したことがあったからだ。(注7)

一見何気ない場面ではあるが、ここには、奔放な連想に身を任せて蚕が糸を吐くように倦むことなく言葉を繰り出し続ける西脇順三郎の場合、その詩は舌足らずな一行がただちに次の一行を呼び求める中で事物と事物が相互に共鳴を起こして溶け合う、本質的に連続性の原理に依拠するものであるのに対して、吉岡実は安易な流動性を排し、まさしく「墓」のように揺るぎない一行一行の彫刻的な存在感・立体感を追求した―という、二人の詩人の資質の違いがよく現れている。なにしろ、「もともとわたしは彫刻家への夢があったから、造形への願望はつよいのである。詩は感情の吐露、自然への同化に向って、水が低きにつくように、ながれてはならないのである」(注8)と書く吉岡のことである。私には、心中ひそかに「近藤勇の墓」とつぶやくときの彼が、意識してかどうかはいざ知らず、西脇に対決を挑んでいるように思えてならない。そしてそれはまた、のびやかな短歌的叙情性に対して、それを断ち切るところに初めて成立する俳句的な即物性が挑むことでもあるのだろう(「犬殺し/菜の花/女郎」という西脇流の三つ組に対して吉岡が企んでいるのは、「近藤勇の墓」を単に添加し、いわば末席に連ならせることではなく、明らかに毛色の違う異物としてそれらの間に「挿入」するという、もっと大胆不敵なことである)。


(1)吉岡実『「死児」という絵〔増補版〕』(筑摩書房、1988年)20頁。
(2)同書66-67頁。
(3)同書123頁。
(4)同書172-173頁。
(5)同書173頁。
(6)同書174頁。
(7)同書223頁。
(8)「わたしの作詩法?」、同書89頁。
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