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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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C88の戦利品 

幸い資金がそこそこ潤沢だったためか、今年の夏コミ(C88)はまずまずの戦果だった。
一日目(14日)に買った一般向けの本の中では、サークル「サイチル」(北斗)の『ベクトルスペクタクル下』を筆頭に挙げたい。上巻、中巻とも、活きのよい元気な絵柄、そして少名針妙丸と鬼人正邪の二人をはじめ『東方輝針城』の面々が口角泡を飛ばして演じる、漫才のようなにぎやかな掛け合いがなんとも楽しかったが、肝心の筋書については、正直なところ輝針城のゲームの焼き直しのように思えたし、当初は針妙丸を利用するだけのつもりだった正邪が彼女の真っ直ぐな性格に打たれて本気の親愛の情を抱くに至り、心の中で葛藤を繰り返すようになるという展開もそれほど意外性はなかった。それだけに、この下巻では話がどういう方向に転がっていくかが気がかりだったのだが、その心配はどうやら杞憂にすぎなかったようだ。いや、霊夢や雷鼓の奇襲を受けて絶体絶命の窮地に追いつめられた正邪が、せめて針妙丸だけは死なせまいとしてまたしても十八番の裏切りに走り、せっかく嘘偽りのない信頼関係で結ばれたはずの彼女を皆の面前で人質に取ったばかりか(もちろん、すぐに奪還される)これでもかとばかりに口汚く罵ってみせ、そのようにしてただ一人悪者の役を引き受けようとするのはこれまた当然の成行きで、既刊の内容を知っている人なら誰でも読み進めるうちに予想できたはずのことだ。予想外だったのは、以下の三点である。
第一に、いましがたの要約は大筋としては間違っていないはずだが、正確には、客観的な事態はそれほど正邪たちにとって切迫しているわけではなく―ただちに首謀者二人を拘束してもよさそうなところ、雷鼓の粋な計らいで束の間の猶予期間(昼食の開始から終わりまで)が設けられ、その間彼女は正邪の生き方に一定の共感を示し、一方霊夢は針妙丸を改心させようと説得を試みている―、しかも針妙丸に至っては正邪のために命を賭すことを毫も恐れていないという状況下で、最も重要な事件は正邪一人の心理の劇として、生まれて初めて知った愛の喜びと苦しみに揺れる彼女の内面を舞台に進行する、という点が挙げられる。天使のような外見の「正」と悪魔のような外見の「邪」、二つの人格が心の中でぶつかり合う、その演出自体は別段目新しくはないけれど、強敵のひしめく幻想郷で針妙丸とともに戦い続ければいずれ彼女を死なせてしまうかもしれないという可能性に思い当たって以前の威勢はどこへやら、いまやなす術もなく子供のようにめそめそ泣き続けるしかない「正」の人格と、そのせいで際限なく肥大化してゆく巨人のような神妙丸の存在感が舞台である心そのものに亀裂を走らせ、これを破裂寸前に追い込む様を見て狼狽する「邪」の人格との間には、注目すべきことに、もはやいままでのような明快な対立は成り立たない。このあたりは、ゲーテの『ファウスト』の大詰めにおいて、死んだファウストの魂をめぐって天使たちと争奪戦を演じるときの、メフィストフェレスの様子を髣髴させるものがなくもない。天使たちがばらまく、薔薇の花びらのような愛の炎に心ならずも身を焦がす彼の悲鳴は、読む者の心に深く突き刺さってくる点では、全篇を通じて屈指の台詞の一つだろう。

 ああ。頭が燃える。胸が、肝(きも)が燃える。
 悪魔以上の火だ。
 地獄の火よりよほど痛い。
 お前達、失恋の人達が、棄てられて、
 首を棙じ向けて、恋人の方(ほう)を見て、
 恐ろしく苦しがるのは、こんな火のせいだね。(注1)

どうしても針妙丸を喪うのが嫌なら、たとえ不本意でも、たとえ幻滅のあまり二度と信用してもらえなくなるとしても、彼女を裏切るしかない―この結論に達するや否や、懸命に思いとどまらせようとする「邪」の人格に対して、錯乱する「正」の人格は痛烈な殴打を食らわせる。するとこの一撃がきっかけとなって、すでにひび割れが走っていた前者の肌はたちまち砕け散り、その下からはもはや無力な傍観者でしかない、白く輝く「正」の人格が現れるが、あべこべに後者は、覚悟を決めた険しい表情とともに、黒々とした「邪」の人格に変身するのである。この一連の描写については、せっかく手に入った愛を自力で担い続けることもできなければ、苦境を打開する知恵も勇気も持ち合わせない、正邪の中の「正」の痛々しいほどの未熟さ、脆弱さと、彼女の本体ないし狭義の自我であり、個体としての自己保存にも気を配りながら計画的な行動を受け持つ「邪」の思慮深さとの対比を表現したものとして、実に冴えていると評するほかない(両者の反転はあくまでも殴打の直後に起きるのであり、その瞬間までは、舞台を崩壊の危機に瀕せしめた張本人でありながら泣きじゃくるばかりで一向にその責任を自覚してくれない「正」の人格が、あまつさえ駄々っ子のように感情に任せて相方に暴力を振るうことも辞さないのに対して、主人公よろしくその場に召喚され、いちいち後手に回ることを余儀なくされた「邪」の人格のほうは、いかなる危機が生じつつあるかを代わりに見極めながら、しかもその原因である針妙丸に対して背信で応えるという短絡的な案にはただちに同意せず、彼女との信頼関係に―これがそもそも、鬼人正邪として目下対外的に掲げている公式の方針でもある―なおも望みをつなごうとしている)。と同時に、「正」と「邪」のいわば弁証法的な統一を知らず、ただ裏と表の反転として、両者が交替し続けるだけというこの精神のあり方が、すでに触れたような『ベクトルスペクタクル』の筋書のある種の単調さ、意外性の乏しさの一因であることは明らかだ。しかるに、このたびの下巻においては、殴られた「邪」の表皮の下から現れた「正」が無力感を噛みしめながら口にする、「いつもの/天邪鬼(わたし)/じゃないか…!!」という悔しげな台詞に続いて、「…虚しさだけが/響いてくるわ」「難儀な生き物ね/天邪鬼って…」「裏と表を/繰り返すだけで」「どこにも/行けずに/堕ち続ける」「実に哀れ」という雷鼓による分析が、まるで読者の反応を先取りするかのように、そのような予測可能性(冗長性)を作品の内側から批評している。あるいはむしろ、信義にもとづく発展や成長とは縁がない、この循環の単調さが、単に正邪の外面に現われた言動に接する者たちのみならず彼女自身の内面をも翻弄してやまない、一つの深刻な倫理的問題としてえぐり出されているのである。そしてこれこそが、予想外だった三点のうちの、第二点にほかならぬ。第三の点として見落とせないのは、描線が繊細さに加えて力強さを獲得した結果いままで以上に鮮烈なものになった、千変万化する顔の表情の豊かさである。とりわけ、一番の強敵である霊夢が針妙丸を連れて立ち去った後、上記の辛辣な分析を口にする雷鼓と九十九姉妹に対してなおも気丈に喧嘩を売りながら巻末の正邪が見せる絶望的な泣き笑いの表情は、牙を剥き出しにした、耳まで裂けた大口といい、深い苦悩が刻み込んだ無数の皺といい実に強烈で、一度見たら忘れられない。この見開きの二頁は、作者にとっても会心の出来栄えではなかろうか。
それと、サークル「火鳥でできるもん!」(火鳥)の『さとり様の尿管にこいしができる話』も大変な力作で、実体験をもとにしているというだけあって笑ってよいものかどうか迷うが、そんな罪悪感は読み始めてものの数秒でたちまち消し飛んでしまう。マラン・マレが(これまた実体験にもとづき)ヴィオールのために作曲したかの標題音楽の傑作『膀胱結石手術図』と並んで、「結石もの」の藝術作品の数少ない実例として、人類の文化遺産に登録されて然るべきであろう。やはりこのサークルの場合は、四コマ漫画という形式にこだわりすぎないほうが、絵の上手さを存分に活かせるし、ギャグの勢いも切れ味も増すように思える。例えば見開き二頁を丸々費やした『恋思のグルメ』(サークル「あなたを、廃人です。」)のパロディなど、四コマでやるのは無理な相談というものだろう。それにしても、「こいし」と結石を掛けた語呂合わせはともかく、主役のさとりが作者と同じく同人活動をしており、そのサークル名がどうやら「さとりでできるもん!」というらしいのは話ができすぎていて、つくづく天の配剤を感じさせられる。
ただ、ギャグ本を一冊に絞るとすれば、サークル「萌え緑」(モスグリーン)の『モス本5』を採らざるをえない。例によって、日常生活に支障をきたすほど重度のアルコール中毒を患う鬼たち、すぐに溶けるチルノ、幼女に目がない咲夜や小町、無邪気な魔理沙を毎度変態的な言動に誘導したがるアリス、粘土のようにたやすく形が変わるパチュリー、懐に余裕がなくなると神々しく光を放ち始める霊夢など、おかしな独自の設定がてんこ盛りで、そしてそれが、ゆるいとかのんびりとかの言葉では足りない、まさしく間が抜けた、間延びしたような呼吸の中で、他の追随を許さない独自の世界を作り上げている。東方のギャグ本のサークルなど数えきれないほど存在するが、読むたびに呼吸困難に陥るほど笑わされるという点ではここが一番であろう。けだし、幻覚に苛まれる萃香や勇儀が鬼の念力で具現化させた力士たち(なぜかひどく焦ったひょっとこのような顔つきをしていて、これだけでもう可笑しい)を押しつけられたあげく、とうとう国技館のようなセットの中で大勢の観客を前に戦うはめになった紫が取組前の意気込みを尋ねられ、放心したような目つきでマイクに向かって語る、「え~…/何故みなさん誰も~」「止(と)めて下さらないのか~…」という台詞は、他のサークルならもう十分と考えて切り上げるはずの地点に来ても停止せず、さらに二つか三つのコマを駄目押しのように追加することで事件をいっそう不条理なものに仕立て上げる、このサークルに特有の方法論をも反映しているのかもしれない。
18禁本の中では、サークル「あんみつよもぎ亭」(みちきんぐ)の『射精管理してくださいっ咲夜さん!』がすばらしい。
いわゆるゆとり教育の影響なのか何なのか知らないが、2012年から2013年頃のエロ漫画界の迷走ぶりは結構なものがあったように思う。元来、心の底から熱愛している人をだからこそ力ずくで我が物にしてしまいたいとか、嫌いなはずの相手の求愛を心では拒んでも体は快感に抗えないとかの、経験のいわば逆説的な多層性というものは、人生における他のどの局面にもまして性愛の領域でこそ顕著なのではないかと思えるのだが、そういった多層性についての理解が不十分なままエロ漫画を描こうとすれば、結果はどうなるか。むろん、性行為に本来伴わなくてはおかしいはずの緊張感や強度の表現が不足するわけであり、それを回復させるべく女性の側を大人気のアイドルという設定にしてみたり、あるいはむやみと醜悪な外見の男性を登場させたり果ては危ない薬物の力を借りたりしたところで、いかんせん男女とももともと自然な感情の起伏(とりわけ羞恥心)が欠落しているせいで空回りに終わる、ということになるほかない。情欲と分かちがたく一体となった攻撃性や、我々を日常的な自我の埒外へと連れ去る強烈な陶酔感などは、あくまでも性行為自体に内在するものとして表現されるべきであり、そしてそのために必要なのは一にも二にも描写の繊細さであって、外延的なこけおどしの類をごてごてと加算していくことではないからだ。ただ、年上の女性が可愛らしい少年を好き放題に弄ぶ、いわゆる「おねショタ」ものの擡頭につれて、最近では若干風向きが変わってきた観がある。角の立たない、終始平和な雰囲気がよしとされるのは相変わらずながら、強い男が腕ずくでか弱い女を征服する、という古来の物語とは正反対の方向から、性行為の自然な高揚感が復活しつつある兆しが感じられるのである。
昨年末の冬コミで急に進歩を遂げた(注2)「あんみつよもぎ亭」の新作は、そのことを知るための格好の実例だろう。「射精管理」というと何か成人男性が女性に厳しくしつけられるような印象があるが、この場合はそうではない。新しく紅魔館に雇われた少年に咲夜が手取り足取り性教育を施すという内容であり、ろくに我慢もさせないで、一日に何度も定期的に射精させてやっている。この、性の知識がない本人に代わって咲夜がしてやるという点、それから一応時間は決めていることが、「管理」らしいところなのだろう。それにしても、一般的な用法からのずれは否めない。裏を返せば、ここでは軋轢の回避という根底的な志向がそれほど強い権限を持っているということだ。伊東ライフをよく研究した上で、あの作風を女性の視点から独自に再構成しているような趣がある。ことあるごとにPAD長などと呼ばれていた頃とは隔世の感がある、柔らかそうなのに適度に張りがあって形が崩れすぎない大きめの乳房をはじめ、絵柄は全体的に楷書的な端正さに傾いていて、それだけに一度見ただけで忘れられない印象を残すというほどの個性はまだないのだが、反面、線に自然な強弱がちゃんと具わっている。すなわち、どんな楷書の字でも筆で書かれたものであるかぎりは必ずとどめている、手の勢いに相当するものが認められるのであり、そしてそれが、赤ん坊のように乳房を吸わせながら手で射精させるときの姿を真正面ではなくて斜め前から描くとか、あるいは少年の体の上にのしかかるときの姿も、真っ直ぐ立たせるのではなくて、腰は向かって左下に、肩は向かって右下に傾けた上で顔に関してはあえて水平性を維持するなどの基本的な工夫とあいまって、漫画らしい推進力をもたらしている。
心残りなのは、伊東ライフの艦これ本『やわらか愛宕さん』が買えなかったことだ。最初からあきらめて列に並ばなかった場合はともかく、買うつもりで並んでいたのに売り切れてしまったのだから残念さはひとしおである。博麗神社例大祭程度の規模の即売会ならまだしも、コミケでこのサークルの新刊を購入しようとするのはもうよしたほうが無難かもしれぬ。いずれ書店委託に頼るつもりだが、内容自体は会場で見本誌を読んだので、大体頭に入っている。まだあどけなさの残る年頃の提督が優しい愛宕に甘え放題、甘やかされ放題という、これも「おねショタ」風の本で、完成度はもちろん高い。極力余白を残さず、詰め込めるだけ詰め込んだ稠密な画面構成、そしてそれを支える、変形ゴマやぶち抜きを使いこなした技巧的なコマ割りも、見ているだけで楽しい。しかし、こんな風に長々と頁を費やして二人の仲睦まじさが丁寧に描かれれば描かれるほど、この溺愛ぶりの動機がわからなくなり、その無根拠さゆえにそこはかとなく不気味な印象を受ける(もちろん、そんなことを作者が意図したはずもない)。『好き好き高雄さん』(C87)に出てくる高雄の性格が、ここの同人誌の登場人物にしてはいささかきつすぎたのとは対照的な問題だが、しかしたぶん根は同じであろう。例大祭(第十二回)で入手した『ぬえちゃんに土下座してヤラせてもらう本』と同様、金太郎飴のように思えて実は割と原作の設定に忠実な、伊東ライフの同人誌の意外な繊細さを改めて感じさせられるとともに、艦隊これくしょんというゲーム自体の限界がここに露呈しているようでもある。
似たような感想は、サークル「遥夢社」(源五郎)の『きよしもも!』についても抱かされた。例えば「藤屋本店」(藤ます)や「紅茶屋」(大塚子虎)や「黒錦」(タカハル)のような他のサークルが提督と艦娘の関係をことさら相思相愛の仲として描く場合、それは要するに、そのほうがすんなり性交に持ち込むことができるという身も蓋もない理由からだろうし、別にそれでかまわないと私も思うのだが、「遥夢社」の場合は、まだ小学生くらいの少女の膣に大人の男性器を挿入するという、どう取り繕っても到底美談になりそうにない行為を無理やり美談に仕立てようとした結果、中途半端な言い訳がましさの中で迷子になった欲望が行き場を見失い、作品全体を委縮させているようだ。清霜自身が提督との肉体交渉を熱烈に望んでいる、というのか。よろしい、それならばその動機を教えてほしい。なぜ彼女がそれほど提督の人柄に惚れ込み、破瓜の痛みに耐えてまで彼の男根をその身に受け入れたがるのか、この疑問に答えてほしい。意地が悪い質問のようだが、源五郎の商業作品にも同様の言い訳がましさが感じられる以上、そしてそれでいて雪雨こんや藤崎ひかりらと並んでこの人の双肩に現在のコミックLOの命運が少なからずかかっていると思える以上、私としてはこの疑問を捨て置くわけにはいかない(注3)。これは、妖夢やナズーリンら、見た目からして明らかに人間ではないとわかる(その点が艦娘とは違う)少女たちを心置きなく欲望のままに凌辱していた、同じサークルの以前の東方本では生じなかった問題だ。もちろん、東方Projectにも艦隊これくしょんにもそれぞれの魅力があり、単純に優劣を問うのは愚問でしかないが、しかし唐突な思いつきにしたがって例を挙げるなら、サークル「az+play」(赤りんご)の『樂璽』のような本が、今後艦これの同人界から生まれるとも思えない。東方の場合はやはり、皆の共有物としてその中にこめられた夢、あるいは幻想の密度が段違いなのであり、しかもその幻想は構造化されている、つまり大域的な安定性があらかじめ部分的な可変性(各サークルごとの創意工夫)を準備している。伊東ライフや「遥夢社」の新刊に感じられる底の浅さは、そのような奥行のある構造を持たない艦これそのものの底の浅さであって、そこに突き当たったこと自体はとりもなおさずサークルの実力の高さゆえと考えるべきなのだろう。

二日目(15日)に購入した同人誌では、サークル「かんむりとかげ」(つん)の『制服咲道楽』がすごい。『咲-Saki-』に登場する女の子たちに、各自の出身地に実在する高校の制服を着てもらおうという趣旨の本(画集)で、れっきとした『咲-Saki-』の二次創作に分類してよいかどうかわからないし、このサークルのつねでサイトの文面から予想されるよりは一見おとなしめというか、常識に配慮した仕上がりなのだが、表紙のシロ(小瀬川白望)があまりに性的でけしからぬ魅力を放っていたので―堂々と天を突くふくよかなおもちが明らかに小さすぎるブラウスを押し上げ、おへそが見えてしまっている―、邪まな気持ちに負けて買ってしまった。当然中身もすばらしく、各校の制服についての理解が深まるのはもちろん(そうやって学んだ知識をいつどこで活かせるのかは不明だが……)、ただでさえ単独で一頁を占める子は多くないというのに、その中でもエイスリンはとびきり大きく描かれているばかりか両腕を広げていまにもこちらに飛びついてきそうな人懐っこい様子を見せており、あからさまに作者の寵愛を反映しているとか、シロ塞、池キャプ、はやしこ、哩姫など、仲の良い(とされる)者同士はちゃっかり二人一緒に同じ頁にいるとか、随所に凝らされた工夫の数々が楽しい。総勢33人、考えてみれば全員いつもと違う装いで、人によっては横顔のこともあり(末原恭子、白水哩)、笑顔ゆえに瞳を確認できないこともあるが(石戸霞)、にもかかわらず一人一人ちゃんと見分けがつくのは、当たり前のようでいて並大抵でない。原作や外伝(『阿知賀編』・『シノハユ』)よりもだいぶ写実寄りの、枯れた叙情性が美しい上品な画風であることも考慮するならなおさらだ(注4)。また、それだけに国広一や穏乃については、定番の露出狂みたいな恰好をやめてまともな制服を着ているというだけでもう、問答無用の笑いがこみあげてくる。下着の有無を問うことなど、許されそうにない雰囲気である。そういえば、この二人以外の面々をざっと眺めても、スカートの下がどうなっているかを確かめたくなるようなはしたない姿勢は見当たらない。学校ごとの特色を打ち出した個性的な要素はえてして上半身に集中しがちとはいえ制服の基本は上下一体だから、本の趣旨を考えるとそれも当然か。しかし唯一の例外である鶴田姫子を見ると、案の定何もはいている様子がないので、澄ました真顔との落差にまたしても困惑まじりの笑いを誘われる。
驚くのはそれぞれの絵に書き添えられた寸評の数々で、「平日夕方に花巻駅に行くと大量にたむろっているので」(岩手県・花巻北高校)とか、「松本に行ったときに出会った個人的に印象深い制服」(長野県・松商学園高校)とかの、現地に赴いて実物を見た経験を匂わせる記述はまだしも、それに加えて、ここ数年の通時的な変化にも抜かりなく目を配っていないと書けないような観察が散見される。例えば、「しかし現在はデザインが微妙~に変わりまして、襟は浅めの関東襟になり、胸当てもちょっぴり覗く程度の大きさになりました」(埼玉県・秩父農工科学高校)や、「こんなに可愛い吊りスカートですが、残念なことに2012年に廃止され普通のスカートになってしまいました」(和歌山県・開智高校)や、「これは2009年に制定された新しい制服でして、以前の夏服は青い細かなストライプ柄のセーラーブラウスでした」(岡山県・山陽女子高校)、等々のくだりがそうだ。余人の追随を許さぬ徹底ぶりで、昨日今日の付け焼き刃でない、制服に燃やす本物の情熱に気圧される。

三日目(16日)については、いつものことながら反省点が少なくない。本来ならもっと早くに済ませておくべき各サークルについての事前の下調べが、諸事情により前日の深夜どころか当日の朝2時半過ぎまでかかった結果、起床時刻が予定の4時から5時にずれこんでしまったのは、その最たるものだろう。当然その余波で会場に到着する時刻も、入場の時刻も遅れるし、それがひいてはお買い物の成否をも左右するわけである。おそらく今回のコミケの最大の目玉の一つであろう、ずいぶん長らく予告されてきたサークル「うどんや」(鬼月あるちゅ、ZAN)の『FUROHILE』こと『自宅の風呂に入ると先に知らない裸の女が入ってる』の上巻も、本単体での頒布は終了したと聞いて、結局会場での購入はあきらめた。いま思うと、セット販売で二千円ならけちけちしないで払えばよかったという気もしなくはない。ただ、実物はまだ見ていないが、輪郭を司る主要な線がへなへなして頼りない一方で、陰影を司る、細かい、副次的な線が霜のように降り積もって画面に余計な混乱をもたらすという結果になってはいないかどうか、やや不安がある。「彦二部屋」(西野彦二)や「嘘つき屋」(大嘘)の新刊も、まだ大丈夫だろうとたかをくくって他をまわっている間に売り切れてしまった。特に後者のサークルでこういう経験をするのは昨年の夏コミに続いて二回目だが、資金自体が乏しかったあのときとはこちらの状況が違う。近く商業単行本も出るらしく、いままでと同じ心構えで接していてはいけないのかもしれない。それと、これはサークル側の都合だが、「KEY TRASH」(緋鍵龍彦)の新刊はなく、「T-NORTH」(松本ミトヒ。)は18禁本での参加ではなかった(注5)。
会場で本を購入したサークルでは、一連の高雄・愛宕本の掉尾を飾る濃密な一冊(『おあずけ高雄とおねだり愛宕』)を出した「MOZUCHICHI」(もずや紫)、短いながら気合の入った極彩色の艶麗なグラブル本(『GRANCOLOR FANTASY』)とともに勝負に出た「藤屋本店」(藤ます)―まだこの一冊しか存在しないとはいえ、モンハンに劣らずグラブルとの相性は抜群のようだ―、そしてしぐにゃんなどが、期待に違わぬ立派な仕事ぶりを見せてくれる。とりわけ惚れ惚れさせられたのはしぐにゃんの『我、榛名と夜戦に突入す!!7』で、もう7冊目の榛名本というだけあって、どういう言葉でいじめれば榛名が悦ぶのか、身体のどこをどう可愛がれば良好な反応が返ってくるのかをすっかり知り尽くした提督が、風邪を引いているにもかかわらず大いに奮闘して存分に彼女をいたぶってくれる。複雑な筋書や微妙な心理の綾などは見当たらない代わり、好きな相手と愛し合うときの幸福感という、その一点のみにあらゆる繊細な演出上の工夫が集中しているから、読者もただひたすらその幸福感を噛みしめながら、むせ返るような甘さに酔っていればよい。もちろん、同時発行の『しぐにゃんetc総集編02』も示しているとおり、以前からずっとこういう作風ではあるのだが、最近は一作ごとの充実ぶりが本当にすごくて、そういえば井ノ本リカ子やみやもとゆうとともにポプリクラブで連載していた時代もあったことをつい思い出させられる。盤石とか、はずれがないとかの言葉は、このサークルのためにあるようなものだ。これが単調で物足りないと思うのは、そもそもエロ漫画を必要としていない人だけだろう。総集編のほうは、表紙のメリアとクリスからもわかるように、ゼノブレイドとシンフォギアの二次創作が特によい(といってもシンフォギアのクリス本は『CHIMPOGEAR』一篇だけだが、巻末にそれを補うかのような書き下ろしがあり、そちらも実に密度が高い)。また、いずれも一次創作を携えての参加となる、「ManiacStreet」(すがいし)や「PKグリッスル」(井雲くす)や「NANIMOSHINAI」(笹森トモエ)などのサークルも忘れてはならない。中でも「NANIMOSHINAI」の『サキュバステードライフ2』は、第1巻以上に内容が盛り沢山で読み応えがあるし、巻末の設定資料の部では「あっもちろん黒髪多いから一人くらい色変えようとかそういうバランス感覚も私にはないです/好きなものだけ描いていたいです」などと、低姿勢の割に妙に強気な宣言をしているのも頼もしい。ただ、私の個人的な意見としては、線にはもう少しめりはりをつけたほうが全体に見やすくなるはずだし、女体の描き方ももっと骨盤を意識すればなおよくなるとは思う(気前よくこちらに突き出されたブルマ越しのお尻の形がほとんど真球に近く見えてしまうのは、さすがにいかがなものか)。
「アジサイデンデン」(川上六角)、「Candy Pop」(いとうえい)、そして「tete a tete fragile」(佐々原憂樹)などの新刊については、それぞれのサークルに望みうる最高の出来栄えかと訊かれれば疑問も残るが、ずいぶん久々ではあり、ともかく買って読めるというだけでありがたい(中でも、「tete a tete fragile」の艦これ・ろーちゃん本『Nicht gut Gruß』は特にそうだ)。この、もっと高度な境地を狙えそうだという印象は、「enuma elish」(ゆきみ)や「70年式悠久機関」(おはぎさん)の新作にも共通するところで、我ながら贅沢でわがままだとは思いつつも、去る冬コミ(C87)のときの本の記憶が忘れがたいので、どうしてもそちらと比較してしまう。
逆に、新境地の開拓に挑んで成果を収めたと思しいサークルは、「絶対少女」(RAITA)と「ドウガネブイブイ」(あぶりだしざくろ)と「龍企画」(龍炎狼牙)である。まず、「絶対少女」の『魔法少女14.0』は、温泉同好会の合宿ということでおなじみの四人の魔法少女とともにやってきた南紀白浜温泉を舞台に、浅井君が彼を慕い追い回すキララ、ついでキララの魔の手から彼を救い出したミサ姉と事に及ぶという内容で、その辺はいつもどおりなのだが、絵や台詞に加えて克明な解説を書き添えることで脳内の妄想を極力忠実に紙の上に写し取ろうとする作者の執念こそが、他の一切をさしおいて何より強く感じられる濃い作風にますます磨きがかかり、それが南国らしい解放感を圧倒している。普通なら背後に隠れているはずの細々とした設定が流れ込んできた結果本文がひどく異形な様相を呈するのもなんのその、一向に意に介する風がないのは大したもので、呆れ半分感心するほかない。のみならず、シニョレッリかマンテーニャばりの、引き締まった細身の胴体の表面に浮き出た筋肉のうねりの描き方には、サークル「SHIS」(Zトン)からの影響がうかがえるようでもある。去年の夏コミ(C86)で出た「SHIS」の艦これ本(『艦ディドール★これくしょん 敷波』)を読んだときは、肋骨の強調や入念な解説などを見て、直観的に「絶対少女」の藝風だなと感じたものだが、もしかして相互に影響を与え合う仲なのだろうか。ただの偶然かもしれないし、ツイッターなりを覗けば答が見つかるのかもしれないが、ともかく面白い変化(進化)である(余談ながら、キララが口にする浅井君の呼び名が「モヤシ様」なのは、馬鹿にしているのか敬っているのかわからなくて笑える)。「ドウガネブイブイ」の『CANDY GIRL』はすーぱーぽちゃ子本で、一枚の静止画の中に時間の経過を折り込むという、紙芝居形式のエロゲー的な発想に支えられていたこれまでの作風とは違い、明らかにもっと漫画らしい、荒々しい躍動感の追求に大きく舵を切っている。そしてこの試みは、ちゃんと成功しているようだ。ただ、『小さなこころの種』(C80)やすーぱーそに子本『キミにいまとどけたいコトバ』(C81)など、これまでの作風があまりに水際立った達成を示してきたせいか、私はまだこの新しい傾向になじめず、戸惑っている。もしかすると、人一倍豊かな胸やお尻(そしてお腹)の重量感が目立ち、その分いわば揺らせ甲斐のある体つきのぽちゃ子が相手だからこそ突発的にこういう傾向が生じたのかもしれず、いずれにしても今後どうなるのかが気になって目が離せない。また、「龍企画」の『騎士団長陥落ス』は、「女身変化に屈した騎士」という副題が示すとおり、お得意の性転換ものの一次創作で、魔術師が実在する中世ヨーロッパ風の舞台設定が、このサークルにしては妙に肉付きのよい、生々しい女体とあいまって目新しい感じがする。憧れの姫の姿を得た騎士団長ジリアムが淫らな欲望を看破されて自ら男たちに体を開くようになるきっかけとして、「鏡」に大きな役割が付与されているのも、どこかラカンの鏡像段階論やジュネの女性化願望を思わせるものがあり、興味深い(視覚的な情報が心理の機微に直結する、漫画家ならではのいわば目の思考の賜物だろう)。
今回初めて買ったサークルの中で印象深いのは「百々ふぐり」(しんどう)で、新刊はパズドラ本(『おま●こには勝てなかったよ』)とだがしかし本(『ボスのだがし』)の二冊、どちらも「Ash wing」(まくろ)の『ご主人様は召使いがコワい?』や「んーちゃかむーむー」(雪路時愛)のデレマス本『凛お姉ちゃんと僕』、それに一日目の「あんみつよもぎ亭」や伊東ライフの本と同じく「おねショタ」ものである。このサークル、昔は汚いおじさんばかり好んで描くので敬遠していたのだが(注6)、いつの間にやらこんな魅力的な同人誌の作り手に変貌していたのだ。しぶりんが自宅に連れ込んだ近所の男の子(当然、武内Pとは縁もゆかりもない)にいけない遊びの手ほどきをしてしまう『凛お姉ちゃんと僕』に劣らず、いかにも作者が自らの欲望に正直そうな感じで、大変よろしい。
最後はサークル「SAZ」(soba)の『奏色豊纏』、価格は若干高めながら(千円だった)なかなかの分厚さである。ただし内容は、昨年出た三冊の食蜂操祈本をまとめた総集編で、表紙を除けば、実質的な新作と呼べるのは巻頭10頁分の書き下ろしにとどまる。丸ごと完全な新作であれば今回のコミケの真打ちとして申し分なかったと思えるだけに、物足りなさを感じないわけではない(注7)。せめて、この機会に東方本の総集編を同時刊行してみてもよかったのではないか。また、表紙の彼女の胸元をよく見ると下向きの亀頭の輪郭がうっすら認められるにもかかわらず、この書き下ろし漫画では、頁数の都合なのか、おまけのGATE本(『此の身御身に斯く捧げり』)ともどもおっぱいがあまり活躍しないのも不可解である。しかしそれらの点に目をつぶれば、相変わらず水準が高くて、ぐうの音も出ないほどすばらしいので困ってしまう。いや、相変わらずという評言は不正確で、少なくとも絵に関しては、精緻でありながら煩雑に陥らず、写実的でありながら勢いを失わず、中庸の道をますます邁進して完璧の域に達しつつあるのが明らかだ。もちろんこの場合の中庸とは、決してほどほどのところでやめておくというような消極的な姿勢を指すわけではなく、例えば『中庸』第一章に「中(ちゅう)・和(わ)を致(いた)せば、天地位(くらい)し、万物育(いく)す」(注8)とあるような、すなわち個人が主体的な努力によって究めてゆくべき、世界の調和と万物の生成との形而上学的な原理としての中庸のことである。特に、角ばった外枠(頁の縁)と人体との間に必然的に生じる余白を埋めるべく、吹き出しや柄トーン、あるいは視点を切り替えた二、三のコマを配置することによってこれまで以上に無駄のない空間の使い方が実現をみたこと、線に再び強弱が戻ってきたこと、汁気の陰影表現が大胆でわかりやすくなったこと、および一つ一つの顔の表情にいっそう自然な多様性が認められること、この四点は見落とせない。あるいは第五点としてさらに、例の堕天使エロメイド服のようなぴっちりした衣装で締めつけるとみさきちの身体は魅力が倍増することの発見を挙げてもよいかもしれないが、今回の書き下ろし漫画におけるこの衣装の使い方を見ると、まさに満を持してという言葉がぴったりの、思わず膝を叩いて「ここしかない」と言いたくなるような絶妙さであり、まるで第一作(『好色豊蘭』)に着手した時点で予定されていたかのようだし、その上以前出た総集編『天草模様なEX%』(C82)の、これまた巻頭の書き下ろし漫画のねーちんとも対になっているから、これが発見なのは作者にとってではなく、あくまでも読者にとってであると考えるべきだろう。こんな風に何から何まで計算ずくで制御したがる知性は、分野を問わず、冷淡で硬く縮こまったものであることが珍しくないと思うが、sobaさんの場合はつねにあふれんばかりの善意がその根底にある。たぶん、スコラ哲学の全盛期を支えたボナヴェントゥラやトマス・アクィナスのような、徳の高さと学識の豊かさを両立させ、それどころかむしろ徳の高さゆえに豊かな学識の持ち主でありえた神学者たちも、こんな感じではなかったろうか。
時流に逆らい、彼らスコラ哲学者への讃辞を惜しまなかったライプニッツは(注9)、前世紀の名高い神秘家であるアビラのテレサにも、いわば数世紀の隔たりを超えて彼らの系譜に連なる思想家の一人として注目しており―ちなみにボナヴェントゥラやトマスと同様、テレサも聖人にして教会博士である―、彼女が書き残した神秘体験を、それとなく自らの哲学体系の中に摂取した(注10)。一般に、ライプニッツはバロックの哲学者と呼ばれる。それというのも、三十年戦争の惨禍の中から生まれた彼の哲学においては、調和の成立が決して自明ではなく、ちょうど不協和音の解決という発想とともに始まったバロック音楽のように、問われ、信じられ、見出されるべきものであるからだ。そしてそれはまた、劇的な明暗の対比や躍動感などを特徴とする、造形美術の分野におけるバロック様式にも共通する姿勢である。そもそも聖堂を飾る壮麗な天井画のことを考えてみればわかるように、バロック美術の発展を支えた原動力の一つには、宗教改革運動に接したカトリック教会が巻き返しを図った、いわゆる対抗宗教改革を数えることができる。激烈な感覚的刺戟に満ち、誇張された大仰な身振りが目立つバロック(その語源は、周知のとおり「いびつな真珠」である)の美術作品は、逆風の中で霊性の回復や神学的秩序の再建を進めるという宗教的な意図を担いつつ、眩惑された鑑賞者の精神にも、この不可視の対応物を答として探し出すよう求めてくる。しかしそこにはまた、むしろ宗教的な体験がその感性的な本性を露呈するかのような場合も少なくない。だからこそ、バロック文化への偏愛を表明してはばからなかった晩年のジャック・ラカンは―彼はこれを定義して、「身体的視による魂の制御〔la régulation de l'âme par la scopie corporelle〕」と言う(注11)―、ベルニーニの手になる聖テレサの彫像に、女性と神秘家が法悦の境地で体験する、ファルス的でない、開かれた「〈他者〉の享楽」の表現の実例を見たのである(注12)。オリアナ、オルソラ、ねーちん、あるいは小野塚小町や浅間・智、そして今回の堕天使エロメイド服を着た食蜂操祈など、修道女的なものや巫女的なもの、より一般的には何がしかの宗教的な伝統を体現する女性たちが、忘我の快楽に悶える豊満な肉体を惜しげもなく揺らし、大きくねじる姿とsobaさんの漫画との相性のよさは、どれほどまでこの人が、本質的な次元でバロックの美学を継承しているかを教えている(注13)。
みさきちの表情にいままで以上に自然な多様性が認められるという、先に書いた印象が正しいのだとすれば、それをもたらしたものは一体何か。いまやこの問いに答えることは、顔の造作自体に生じた変化さえ見落とさなければ難しくない。恍惚の境地でうっとりと細められて垂れ目になることをあらかじめ見越して、目全体の輪郭がやや角ばるとともに釣り目気味に修正されたのと軌を一にするかのように、やや縦長の形に縮小された瞳は、だからこそここぞという瞬間には逆にしどけなく潤んで横方向に広がることができるのであり、加えてやや上方に圧縮されてその分尖り、小ぶりになった鼻も、いまはまだおとなしく閉じられた口がいずれ盛んにあえぎながら大きく開かれるときに備えてあらかじめ場所を空けている―ここには、ちょうどブラームスが交響曲第4番の終楽章でバロック時代のパッサカリアを試みたときのような(周知のとおり、主題そのものもバッハのカンタータからの借用である)、意図的に採用された変奏の原理が働いている。この書き下ろし漫画における彼女の顔の造作は、単に以下の頁に続く三作が証言しているような一連の変奏の成果を活用しているというだけでなく、どこもかしこもいずれその近辺に生じるはずの変動を、褶曲あるいは襞の形成を予告しているのだ。これこそバロック的な、変転常ない流動性というものではないか。
この変動はたしかに、一つ一つのコマの仕上げが丁寧な分、かえって流麗さを欠き、作為的にも見えるが、しかしそのぎこちなさ自体において、例えば水銀で人工の滝を作る場合のように、重い肉体を軽々と舞わせる作り手の精神の現前を教えている。身体の領域で働く、機械状の、派生的な諸力と、生の非物質的な原理である、魂という始原的な諸力との区別(注14)、そして、運動する身体がたどる曲線の統一性をその内側から理解するための「観点」こそを、真なるものの出現の条件として指定する遠近法主義(perspectivisme)(注15)、ひいては「観点にとどまるもの、観点を占めるもの、それなしには観点が一つでありえないもの」という、魂ないし主体の地位(注16)―ドゥルーズが主張するとおり、これらの発想がライプニッツの、そしてとりわけバロック的と呼ばれるに値する哲学の特徴なのだとしたら、我々が生きている文化の中でその後継者を探し求める試みが、いずれエロ漫画を最も有力な候補として見出すことになるのは不可避である。私にはそう思えてならない。


(1)『ファウスト 森鷗外全集11』(ちくま文庫、2002年第3刷)830頁。
(2)商業作品の連載も至って順調なようで、単行本化が待ち遠しい。
(3)この点、年端もゆかぬ少女に欲情することの罪深さ、後ろめたさを重々自覚した上でその自覚それ自体を結晶化させた、クジラックス―男性の側の、心根はともかく見た目の醜さゆえに私の好みではないが―や御免なさいの漫画のほうが、美学的にも倫理的にもよほど筋が通っているし、潔い。
(4)ただ一人「これは誰だろう」と思わされたのは、19頁で博多女子高の制服を着ている子だが、地域、そして髪の色(紫)と前髪の分け方から察するに、どうも新道寺のすばら先輩こと花田煌らしい(とすれば、傍らの小さな参考図版の中で中学の制服を着ているのは加藤ミカだろう)。いつも明るい彼女にしては珍しい、物憂げに伏せられた流し目の色気もさることながら、本来ならば前方に突き出るはずのクワガタムシを思わせる両の角がしんなりと垂れ下がり、おまけにほどかれて数が倍(片側二本ずつ、合計四本)に増えていたので、すぐにはわからなかったのだ。私はそこまで熱心な『咲-Saki-』の読者ではないのだが、たとえそういう人でもこの姿を見たら一瞬判断に迷うのではないか。多少なりとも髪型が変化した子は他にもいるが、それらはおおむね作者の遊び心ということで説明がつきそうなのに対して、彼女の場合は、この写実的な絵柄の中でいかに例の角を不自然にも滑稽にもならぬよう再現するかという問題に悩んだ末の答のように見えて、なかなかに興味深い。
(5)もとよりどんな同人誌を作るかは作者の決意一つに委ねられているとはいえ、「abgrund」や「たまふわ」の撤退後は、「Ash wing」と並んでことのほか魅力的な女装少年本を描いてきたサークルがこの「T-NORTH」であるだけに、今回の判断は個人的に惜しまれる。
(6)もちろん、日本文学には谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』や川端康成の『眠れる美女』のような傑作もあることだし、中高年の性愛生活そのものを、ましてその藝術的表現を否定し、蔑むような気持ちは、私には毛頭ない。むしろ、ある種のエロ漫画家のように、作品の中に中高年の男性を登場させる際、判で押したようにことさら醜い容姿や下卑た性格を付与したがることこそが、ある意味では彼らに対して酷なのではなかろうか。
(7)ただ、このたび以前の原稿をまとめるにあたって一通りの見直しはしているらしく、例えば第三作『蜂色豊艶』の中の、「除いちゃ/だめよぉ~」という台詞を見ると、誤字がちゃんと修正されて「除」が「覗」になっている。
(8)島田虔次『中国古典選7 大学・中庸(下)』(朝日文庫、1989年第2刷)40頁。
(9)ライプニッツ『形而上学叙説』(河野与一訳、岩波文庫、2005年第5刷)86-87頁(第10節)。
(10)同書147-148頁(第32節)。
(11)Jacques Lacan, Le séminaire XX: Encore, Paris, Seuil, 1975, p.105.
(12)Ibid., p.70-71.
(13)こういう類比をどんどん遊び半分に広げていけば、例えばアシオミマサト(「MUSHIRINGO」)がゴシックに、しぐにゃんがルネサンスに、大槍葦人(「少女騎士団」)がマニエリスムに、たくみな無知が古典主義に、すめらぎ琥珀(「L.L.MILK」)がロココに、すがいし(「ManiacStreet」)がラファエル前派に、荒井啓(「関西オレンジ」)が写実主義に、岡田コウ(「おかだ亭」)が印象派に、それぞれ相当するということになるかもしれない。
(14)ジル・ドゥルーズ『襞―ライプニッツとバロック』(宇野邦一訳、河出書房新社、1998年)25-26頁。
(15)同書35-36頁。
(16)同書40-41頁。
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