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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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ラルス・フォークトのリサイタル 

6月29日、紀尾井ホールでラルス・フォークトの公演があった。
人数の少ない室内楽、ましてピアノのリサイタルともなれば、演奏者と曲の相性はとても重要なはずだ。
一昨年聴いたチョン・キョンファのモーツァルト(ヴァイオリン・ソナタ第35番)は、本来ならピアノがヴァイオリンと対等かそれに近い存在感を発揮すべきところ、あまりにもヴァイオリニストが凄すぎてちょっとしたピチカートですらピアノを圧倒してしまうという妙なことになっていたし、去年聴いたマリア・ジョアン・ピリス(ピレシュ)は、シューベルトに比べてドビュッシー(「ピアノのために」)がまだ自家薬籠中のものになりきっていないようで物足りなかったが、その代わりアンコールで弾いてくれたシューマンの「予言の鳥」は、遊戯性と色彩感に富み、一音一音に論理の筋道が通った鮮やかな演奏だった。一瞬、スクリャービンでも始まったのかと勘違いしたくらいだ。何より演奏者が確信を持ってのびのびと弾いているのがよく、こんな風にドビュッシーを奏でてくれればさぞよかったろうにと思わされたものである。
今回のフォークトの演目は、シューベルトの第19番D958とベートーヴェンの第32番Op.111という、ともにハ短調のピアノ・ソナタが二曲、さらにどちらのソナタの前にも(つまり二回)、いわば導入としてシェーンベルクの「六つのピアノ小品Op.19」が演奏されるというもので、なかなかに興味深い。暗い、重い、寂しいと三拍子揃ったフォークトの藝風から察するに、シューベルトを起点として残りの二曲が選ばれたのではないかと思える。

客席の入りは六割から七割といったところで、もう少し埋まってもよさそうな気がした。
浮遊するようなシェーンベルクの精妙な響きとともに、緊張に満ちた楽音の空間がさりげなく幕を開ける。やはり無調の音楽は、録音よりも生の演奏で聴くといっそう面白い。ロマン派においては作曲家と聴き手が気分を媒介として交流することが目指されているのに対し、表現主義者としてのシェーンベルク、とりわけこの「六つのピアノ小品」における彼は、そのような交流に断固として背を向ける、というアドルノの見解は―「この作品の表現を彼自身の表現として理解することも、その表現の門を潜り抜けて作品のなかに入り込むことも、誰にもできない。この作品ではどこにも気分というものが見当たらない」―、おそらく正しい(注1)。とはいえ、フォークトの演奏は普通よりもメリハリがきいており、彫りの深い構築的な美が生じていたのは彼の個性というものか。
それが終わるや否や、ただちに(拍手も禁止だった)シューベルトに入る。ハ短調という調性の選択、また主題の形からも、ベートーヴェン(特に、「創作主題による32の変奏曲」)から受けた影響が明らかなこのソナタだが(注2)、しかし曲そのものを支配する気分は、この偉大な、英雄的な―そして、ときに英雄気取りに走るきらいもなくはない―先輩と比べて、何とかけ離れていることか。瞑想的な雰囲気にじっと耳を傾けていた聴衆を容赦なく打ちのめす、引き裂くように苛烈な冒頭に続き、以下もひたすら出口のない荒んだ音楽が続く。決してどこへも行き着かず行き着こうとしない、自暴自棄のような悲壮さである。まるで起伏の多い石だらけの荒野をあてどなくさすらうような趣に浸っているうち、しかしこの曲は別に彷徨の軌跡を表象しているわけではなくて、むしろこの荒野それ自体が実体なのではないかという疑問に思い至り、慄然とする。

おしなべてシューベルトの音楽が、どちらかと言えば、制作されたものより成育したものを思わせることは一応認めるとしても、どこまでも断片的で、どこといって自足したさまのないその成育ぶりは、植物性でなく、結晶性である。〔中略〕それは先ずもって、死の風土なのだ。シューベルトのある主題の出現と、つぎの主題のあいだに歴史が介在していないように、生が彼の音楽のねらいであることはない。〔中略〕シューベルトの作品が今日(こんにち)その損われた姿において、彼の同時代の他のいかなる作品よりも雄弁で、石の沈黙をまぬがれているとすれば、それは彼の作品の生命がまさにはかない主観的な力学そのままの引き写しでないからだ。この生命はすでにその根源において、石のもつ非有機的な、断続的でこわれやすいそれだったのであり、あまりに深く死に埋没しているために、かえって死を恐れる必要がないのである。(注3)

このように書くアドルノも見抜いているとおり、シューベルトの作品においては、総じてソナタ形式はもはや発展を意味せず、まさに形骸化した外皮にすぎないのであって、一見すると最もベートーヴェン的なこの第19番のソナタすらおそらくその点で例外ではない。

どの地点を取っても中心にたいして同じ隔たりを持つという、この風土の特異な構造は、堂々めぐりするさすらい人の前にあきらかになる。およそ発展ほどここで場ちがいなこともないのであって、最初の一歩も最後の一歩とひとしく死のかたわらにあり、あちこちの地点が探(たず)ねまわられながらも、この風土そのものはどこまでもついてまわるのである。〔中略〕シューベルトの形式は、いったん発現したものを呼びかえす形式であって、自ら発案したものをあれこれと変えるためのそれではない。この創造的なアプリオリが、完全にソナタを浸蝕している。たとえば、発展しつつ媒介する楽節にかわって、いわば露出を変えるようなぐあいに和声上の移行がおこなわれ、それがあたらしい風土地帯にみちびくのだが、そこでも発展が見られぬことは先行する部分に変わらないのである。展開部においても、主題を動機に分解して、その最少単位からダイナミックな火花を打ち出すというような行き方は見られず、不変の主題がしだいに真相をあらわすだけである。あるいは、回顧的に主題がもう一度とり上げられることがあるが、これらの主題は通り抜けられただけで、消え失せたわけではなかったのだ。そしてこうしたすべての上に、薄いいまにもはじけそうな皮のようにソナタが蔽(おお)いかぶさり、内側から増大する結晶を押しつつみつつ、やがてはちきれてしまう。(注4)

フォークトは左手の伴奏が実に雄辯だ。よしんば右手の紡ぎ出す歌の旋律に誘われるままに酔い心地の昇天を夢見たところでそれは空しい錯覚というもので、再び聴く者をつかんで引きずりおろすべく、たちまち左手が暗い奈落の底から伸びてくる。人間的な親愛の情を拒むかのような、冷え冷えとした孤高の抒情美の下に得体の知れない不穏な気配が見え隠れする第2楽章の大詰め(第三部)もよかったが、とりわけ第3楽章のメヌエットでは、両手のリズムの間に生じるずれをあえて糊塗せず、逆に強調することで不気味な効果を上げていたように思う(似た表現は、CDで聴けるピアノ・ソナタ第21番でも確認できたので、彼のシューベルトの特徴かもしれない)。大仰な身振りとともに頻繁に訪れる意味ありげな休止が、どうしようもない無力感と寂寥感を搔き立てる。ここでは、「薄いいまにもはじけそうな皮のようにソナタが蔽(おお)いかぶさり、内側から増大する結晶を押しつつみつつ、やがてはちきれてしまう」というアドルノの不吉な予見を裏づけるかのように、各楽章、ひいては曲全体の統一性は、破壊されるほどではないにせよその寸前まで追い込まれており、しかもそれが決して演奏者の恣意の産物ではなくて、あくまでも作曲者への忠実さの結果なのである。軽快なはずのフィナーレも息苦しい焦燥感が瘴気のようにたちこめており、まるで何かに追い回されてひたすら逃げ惑う悪夢を見ているかのようで、何度も「もうやめて」と言いたくなるほどだった。
ちなみに、やはりアドルノがすでに、シェーンベルクは聴き手に対して、ロマン派についての通俗的な観念の問い直しを迫ると書いている。

 シェーンベルクの表現は、聴き手を突き放し、変容させるために、聴き手に不意に突きつけられる音の仮面である。聴き手が驚愕することによって、彼をまさしくあのロマン派の音楽と結びつけていた、同一性の感情という紐帯が断ち切られる。聴き手は自由の身になって、自分の私的な内面のたんなる鏡というあり方とは違った仕方で音楽を聴くことができるようになる。とはいえ、この自由によってはじめて、以前には気分によって妨害されていた、ロマン派の客観性といったものにも出会うことが可能になる。こうして、シェーンベルクの表現主義的な突出は、未来のものの地平とともに、過ぎ去ったものそれ自体の地平をも開いているのである。(注5)

シューベルトに先立ってまずシェーンベルクを弾くというフォークトの一見奇抜な選択は、もしかするとアドルノのこの文章に触発された結果かもしれない。
休憩後の後半は、再びシェーンベルク、そしてベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番である。このベートーヴェンは堂々たる大きな構えで、それがごつごつしたたくましい音の作りとあいまって、思いのほか正統的な解釈となっていた。私の個人的な好みとしては、この最後のソナタは、例えばジャン‐ベルナール・ポミエのように、もう少し明るい音色で、かつ最初からどこか達観したような風情を漂わせてくれても一向にかまわないのだけれど、闘争的な意志をなおも捨てない第1楽章と、浄化されたような第2楽章の変奏曲との対比をきちんと描こうとするフォークトの流儀のほうが、作曲者の意図には忠実なのだろう。ただ、変奏ごとの切れ目を極力目立たせないせいもあってか、幻想曲風のとらえどころのない儚げな美しさが生まれていたのは忘れがたい。シェーンベルクが開始の瞬間をぼかそうとしていたのと同じく、最後の一音を鳴らし終えてからの長い(本当に長い)余韻の中で、音楽は静かに彼方の永遠へと溶け込んでゆく。沈黙を大切にする音楽家は信頼できる。
アンコールはバッハのゴルトベルク変奏曲のアリアで、こちらは線の細い、澄んだチェンバロの響きをピアノの鍵盤で巧みに再現してみせた、瀟洒な演奏だった。鬼哭啾々たる凄絶なシューベルトと比べるとなんとも対照的で、ピアニストとしてのフォークトの表現力の幅広さを思い知らされる。

終演後のサイン会で、ついうっかり「この上なく絶望的なシューベルトでしたね」とフランス語で口走った私に対して一瞬面食らった様子を見せるフォークト氏だったが、すぐに気を取り直し、「あれは、あらゆる音楽の中で最も美しいソナタです」と返事してくれたのでどうにか事なきを得た(と信じたい)。むろん、非はこちらにある。しかし、聴き終わって間もない短調の独奏曲について、ほかならぬ演奏者と口頭でその魅力を語り合おうというのが土台無茶な話ではないか。それとも、ひょっとしてアファナシエフやポゴレリチのような人たちなら、「実に陰鬱なご演奏でした。心底自殺したくなりましたよ」などと言われて喜ぶのだろうか、考えてみると不思議なものだ。


(1)テオドール・W・アドルノ「音楽アフォリズム」29、『哲学のアクチュアリティ』(細見和之訳、みすず書房、2011年)140頁。
(2)『作曲家別名曲解説ライブラリー⑰シューベルト』(音楽之友社、1994年)148、175頁。
(3)テオドール・W・アドルノ『楽興の時』(三光長治・川村二郎訳、白水社、1969年)29-31頁。
(4)同書33-36頁。引用に際して、「あきらかとなる」を「あきらかになる」に改めた。
(5)テオドール・W・アドルノ「音楽アフォリズム」29、『哲学のアクチュアリティ』(前掲書)140-141頁。引用に際して、「可能となる」を「可能になる」に改めた。
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