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一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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ジャン・ジュネ『ブレストの乱暴者』 

霧が立ち込めるブルターニュ地方の港町ブレストに、通報艦「復讐者」号がやってきた。水兵の一人で、卓越した美貌と屈強な肉体、そして悪知恵に恵まれ、人知れず数多くの犯罪に手を染めてきたジョルジュ・クレルは、このたびは娼館「ラ・フェリア」の主人ノルベールと手を組み、阿片の包みを運んで一儲けしようともくろむ。ノルベールの妻であるリジアーヌ夫人は、クレルの瓜二つの弟であるロベールの情婦なのだ。運搬は上首尾に終わるが、その途上、クレルは共犯の水兵(ヴィック)を殺し、二人で盗んだ宝石を独り占めしていた。この殺人の汚辱を自分の中で帳消しにすべく、クレルが疑似的な処刑の体験として求めたのは、ノルベールに自分を犯してもらい、彼の愛人となることだった。死体が見つかるや警察は性倒錯(同性愛)による犯行であると目星をつけ、捜査が始まる。ほどなく、第二の殺人が再び町を騒がせる。左官のテオが、以前から彼がしきりに言い寄り、ついでそれがかなわないとわかるや執拗にいじめていた見習いの少年ジルによって殺されたのだ。ジルを慕う年下の少年ロジェの手引きで徒刑場に身を隠した彼と接触したクレルは、なにくれと面倒を見てやる風を装いながら、他方ではノルベールについで刑事のマリオとも関係を持つようになり、ついにはまんまとジルを、二つの殺人事件の犯人として警察に引き渡してしまう。ひそかにクレルに恋い焦がれる上司のセブロン大尉も彼の背徳性に感化された結果、町中で水兵に化けたジルに脅されて金の入った鞄を手渡したいきさつを―この件にしても、少年を唆したのはそもそもクレルだ―警察の求めに応じてつい口走りそうになりながら、結局は自分が金を着服したという偽りの筋書を話し、逮捕されてしまう。小説の結末では、あまりにそっくりで他人が間に割って入ることを許さないかのような兄弟の姿に眩惑されたリジアーヌ夫人の苛立ちにつけこんで、いまやロベールの代わりに彼女の情夫の位置に収まったクレルを乗せ、遠く北の海を目指して出発するときが「復讐者」号に迫る一方、夫人は自らの手で「ラ・フェリア」に火を放ち、燃え盛る炎の中でなおも二人の相似性に頭を悩ませている。

こう粗筋を要約してみると、『ブレストの乱暴者』〔Querelle de Brest〕は、ほどほどの長さの中に、殺人、窃盗、同性愛、裏切り、分身と、必要にして十分な波乱万丈の因子を盛り込み、いかにもそれらしく痛快に仕上がった一篇の悪漢小説(roman picaresque)ということになりそうである。ところが、読んでいる間の印象はまるで違う。理由はおそらく次の二点に絞ることができよう。第一に、荒っぽい口語体の会話とは対照的に、地の文は息苦しいまでに錯綜した、凝りに凝った美文で書かれているということがある。華麗な修辞が次から次へと波のように押し寄せ、現実に起きた出来事や行為は、それら目もあやな非現実の花束の中にほとんど埋没しかかっている。いや、表向きは一応小説の常道に従い、出来事なり行為なりの意味を解き明かすという使命がそれらの修辞にも与えられてはいるようなのだが、しかし修辞の過剰な運動はそんな使命などたちまち踏み越えてしまい、もっぱらクレルの悪行三昧をあの手この手で美化すること、現実という素材を一度どろどろに溶かした上で、新たな意味へと鋳直すことに努めていると考えるのが実態に近い。第二に、ここではあらゆる主要な心理の動きが性愛や友愛の感情によって裏打ちされているので、その結果として自覚されざる黙契や、言葉に出されぬ思慕といったものがたえまなく生じては、いわば底流として、うわべの敵対関係を相対化している。クレルとロベールの兄弟喧嘩や、マリオの性的な要求をいったんはねつけたクレルが彼と演じる茶番じみた決闘など、例を挙げればきりがないが、とりわけ典型的なのは、クレルによる水兵殺しと宝石の独占という、第一の事件であろうし、また同じく彼がジルを見捨てて警察の手に引き渡すという、作中で最も重要な裏切り行為であろう。したがって、支配する者、攻める者、欺く者と、支配される者、防ぐ者、欺かれる者との間にはひそかな馴れ合いが成り立つはずであるが、しかしこれは、試しに作品の外に視点を置いてそこから振り返ってみれば、所詮は前者に愛情(温情)を懇願せざるをえない立場にある後者によって抱かれた、いささか虫のよい夢想にすぎないのではなかろうか。
以上二点についてはいずれも、執筆当時の作者ジュネの経歴から説明がつく(この小説を含むガリマール書店版『ジャン・ジュネ全集』第三巻が刊行されたのは1953年のことだが、1946年には書き終えていたらしく、早くもその翌年には非合法に出版されて流布している)。作家として広く認められる以前のジュネの人生については、生い立ちを含めてよく知られている。母は貧しい家政婦、父は一体どこの誰なのか、名前もわからない(現在では判明している)。その母の手で生後間もなく児童養護施設に遺棄され、里親のもとで育つも、持ち前の高い知性に釣り合うだけの教育を受ける機会がなかった彼は、やがて放浪の暮らしを送りながら軽微な犯罪のために感化院や刑務所への出入りを繰り返すようになり、塀の内側で書く術を身につけた。それゆえに、ジュネの文学活動は何よりもまず、屈辱的な境遇の中にいる自分を慰めるための、自衛的な反応として生まれた。それは、「泥棒」や「おかま」といった反社会的な烙印を逆手に取り、悪を悪のまま言葉の力で―絶対王政の時代の古典主義に通じるような、折り目正しく格調高いフランス語で―壮麗に彩って栄光に化する、価値転倒の試みとして出発したのである。
この試みがそれ自体として成功したことは、宝石のように色鮮やかな輝きを放つ初期作品が十分すぎるほどに示している。と同時に、徹頭徹尾自己満足のためにのみ書かれ、読者との対話を拒むナルシシズム的な閉鎖性という点で、しかもそれでいて他方では、男色なり窃盗なりを悪として(例外的な汚点として)糾弾したがる社会の視線を前提としており、それがなければそもそも成り立たないという点で、これらの作品が一定の限界を抱えていることも否めない。そのことは、サルトル(『聖ジュネ』)やバタイユ(『文学と悪』)ら同時代人による鋭い分析がつとに明らかにしたとおりである。

形式面ではナルシシズム的で本質的に不毛な自己閉塞、内容面では呪うべき相手であるはずの「正常な」社会の規範へのひそかな依存ないし隷属、この二つがジュネの初期作品の弱点であるとして、では『ブレストの乱暴者』には、その間の事情を覆すには至らぬまでも、多少なりとも揺るがすような要素はないのだろうか。
まず前者から検討していくと、開巻からほどなく読者の目に飛び込んでくる、セブロン大尉の手帳から抜粋された断章、あられもない、ほとんど恋する乙女を思わせるような純情さを年甲斐もなくさらけ出しながら、筋骨たくましい水兵の若者たち、その中でも彼の崇拝の的であるジョルジュ・クレルに寄せる讃嘆の念が、ひどく気取った散文詩まがいの美文で綿々と綴られた断章が、その後も度重なる介入によって筋書の流れをしばしば中断しているのは見落とせない。明らかに笑うべき滑稽な代物として戯画的に誇張されているこのセブロンの感傷的な、そしていささか退屈な美文は、これほど頻繁ではないとはいえ通常の小説と比べれば奇妙に多い、これまた度重なる書き手(話者)の説明的な介入とあいまって、自分がいま美しい虚構を作りつつあるという事態に対する、ジュネの鋭敏な反省意識の働きを想定させずにはいない。この反省意識がときにどれほどのことを達成しうるかを知るには、テオを殺した直後のジルが隠れ場を求めて身を潜めるに至った徒刑場を描写する、信じがたいほど壮麗な以下のくだりを読んでみればよい。なお、引用者の判断で、澁澤龍彦による訳文を適宜改めた。

 フランスとブルターニュの二重になった楯形紋章は、ブレスト徒刑場の堂々たる建物の正面の主要な装飾を形づくっている。そこでは、建築のモチーフは帆船の付属物(アトリビュート)なのである。抱き合わさった、この二つの楕円形の石の楯形は、その面が平面ではなくて、やや中高に張り出している。それは二つ合せると、彫刻家が彫ることを怠った一個の球体のような重量感をもっているが、その全体はそれぞれの部分に、それ自身としての絶対的な権威を負わせている。それは、レダがおそらく白鳥と契った後に生み落した、超自然的であると同時に自然的でもある、力と富の胚子をふくんだ、伝説の卵の二つの部分のようである。それらを生ぜしめたのは、風狂でもなければ下手糞な仕事でもなく、また幼稚な装飾への配慮でもなくて、ひとえに明白な権力―百合の花と白地黒斑(アーミン)を表わしてはいるけれども、軍隊と道徳の力に根拠を置いた、地上的な権力である。もし楯形の面が平面だったら、これほど豊饒な権威は望むべくもなかったろう。朝、非常に早くから、太陽がそれらを黄金色に染める。やがて太陽はゆっくり、建物の正面玄関を全部にわたって照らす。鎖につながれた漕役刑囚たちは、徒刑場から出ると、パンフェルト河岸に沿った海軍工廠の建物のあたりまで傾斜をなして続いている、あの石畳の中庭で一休みするのだった。徒刑囚の自由を奪われた状態を、おそらく象徴的に、もっと明瞭かつ気軽なものにせんがために、一つづきの巨大な石の境界標がそれぞれ鎖でつながれて立っていたが、その鎖は錨(いかり)の鎖よりもっと重く、やわらかく見えるほど重々しい感じであった。この空間に、看守たちは牛の頸筋でつくった鞭をふるって、囚人の群を呼びあつめ、おかしな言い廻しで命令の言葉をわめき散らしながら、指図をするのだった。ヴェネツィアの宮殿の正面玄関と同じくらい威厳のある、黄金色に輝いた、釣合のとれた建物の正面の花崗岩の上に、太陽はゆっくり降りてくると、やがて次に中庭の石畳の上に、囚人たちの垢だらけのつぶれた足趾(あしゆび)の上に、傷ついた踝(くるぶし)の上に、その光をひろげるのだった。正面のパンフェルト河にはまだ霧がかかっているが、その響きのよい黄金色の霧の背後には、ルクーヴランスとその低い家々のあるのが分り、さらにルクーヴランスのうしろには、ついそこにブレスト湾の入口と碇泊所があって、早くも艀(はしけ)や大きな船の活動しはじめているのが分った。二人ずつ数珠つなぎにされた男たちの、まだ睡気の覚めやらぬぼんやりした眼の前で、海は朝から、その船体や木や索具を用いた建築に余念がなかった。漕役刑囚たちは、鼠色のリンネルの服(囚人服)を着て、慄えていた。木の鉢にはいった、まずい生まぬるいスープが彼らに支給された。眠ったあとの目脂(めやに)の貼りついた睫毛を剝がすために、彼らはしきりに眼をこすっていた。彼らの手は寒さにかじかんで、赤くなっていた。彼らは海を眺めていた。つまり、霧の奥に、船長や自由な船乗りや漁師たちの叫び声を聞き、オールの音や海の上を転がる罵りの言葉を聞き分けていたのである。二重になった石の楯形の儀式張った無益な重量感とともに、船の帆がだんだんふくらんでくるのを、彼らは見分けていた。雄鶏が歌っていた。湾の上では、朝焼けが刻一刻美しくなりつつあった。円い湿った石畳の上に跣足で、漕役刑囚たちは相変らず無言のまま、あるいは仲間同士でひそひそ語りながら、ある時を待っていた。もうあと二、三分もすれば、彼らはガリー船に乗りこんでオールを漕がねばならないのだった。絹の靴下をはき、レースの袖と胸飾りをつけた一人の船長が、彼らのあいだに入ってきた。すると、あたりがぱっと明るくなった。霧のなかから現われた、轎(かご)にのって運ばれて行くこの船長を見れば、彼が霧の神であり、霧の化身ではなかったかと誰しも思うであろう。彼が近づいてくるや、とたんに霧が消えたのである。たぶん、彼は一晩中霧のなかに踏みとどまり、霧と混り合い、みずからこの霧になってしまったのにちがいなかった(ただし、この霧には何かが欠けていた。やがて八時間ないし十時間後に、最も稀薄な水滴の要素を彼のまわりに結晶させ、フリゲート艦のように飾られた、黄金の彫刻のような、きびしい、はげしい、この男の身体を形づくるであろう、ラジウムの少量のようなものが欠けていたのである)。漕役刑囚たちは死んでいる。たぶん希望で、息も絶え絶えになって。彼らは交替させてもらえなかったのだ。パンフェルト河の上では、今では特殊な技術をもった労働者たちが、鋼鉄の船を建造するために働いている。かつて、この場所をあれほど悲劇的にしていた顔と魂のきびしさに代って、今では別の―さらにもっと烈しい―きびしさがあった。恐怖によって暴き出され、内部の輝きで照り映える移ろいやすい美しさもあれば、一方、この上もない平静と完結した生命を保ち、不動の状態にとどまらねばならぬ勝利者の美しさもある。霧に包まれた水の上の金属の存在は、残酷なものである。正面玄関と切妻壁(フロントン)はもとのままだが、徒刑場の内部には、もはや麻綱の束と、タールを塗った索具と、鼠しかいない。太陽が現われ、ルクーヴランスの断崖の下に繫留された《ジャンヌ・ダルク》号の姿がはっきり見えてくる頃、少年水夫たちは仕事につく。この不器用な少年たちは、二人ずつ数珠つなぎにされていた昔の徒刑囚から生れた、繊細な、ひよわな、鬼子のようなものである。練習艦のうしろの断崖の上には、海軍少尉候補生学校の建物のぼんやりした輪郭が見える。そして、わたしたちの周囲には、右にも左にも、《リシュリウ》号を建造中の海軍工廠の船台がある。槌の音や人声が聞える。碇泊地には、夜の湿気と太陽の最初の臆病な愛撫によってやや和らげられた、厚い、堅い、鋼鉄の怪物のいるのが分る。かつてローゼン公がそうであったような、提督は今ではもういない。フランス海軍の最高司令官ともいうべきものは、鎮守府司令長官なのである。二重になった楯形の凸面は、もはや何物も意味しない。それはもはや帆のふくらみ、木造船体のカーヴ、船首像の誇らしげな胸、漕役刑囚の溜息、海戦の華々しさなどに対応してはいない。かつて徒刑場であった花崗岩の巨大な建物は、一方の側に窓のある小房に区分され、そこに囚人たちが藁と石の上で寝ていたのであるが、今ではその内部は綱置場でしかないのである。不体裁に刻まれた花崗岩の各室には、まだ二つの鉄環が残っているが、今では麻綱が巨大な山になっているばかりで、決して見廻りにこない官庁の役人にほったらかされている。麻綱はタールに保護されて、まだ何百年でも、このまんまの状態であるだろうと、役人は高をくくっているのである。ほとんど一枚もガラスのない窓は、開けられたことさえない。さっき説明した通り、傾斜をなしているこの中庭に出るための大扉は、厳重に錠が下りていて、錬鉄の巨大な鍵は、海軍工廠に配属された一等兵曹の、事務所の壁の釘にかかったままになっており、一等兵曹はこの大扉なんか見たこともないのである。もう一つ、甚だ閉まりの悪い扉があったけれども、扉のうしろに山積みにされた索具の束の盗まれる心配がないのは明らかなので、誰もこの扉のことなんか思い出しもしないのだった。この扉もやはり重々しく、巨大な錠がついていて、建物の北のはずれにあった。そしてその扉から、あまり人に知られていない狭い路地に直接出られるようになっており、この路地を挟んで、すぐ前が海軍病院だった。路地は海軍病院の建物のあいだを縫って走り、やがて巡警路によって遮られ、城壁のなかに消えていた。ジルはこのあたりの地理に明るかった。血を見て動顚した彼は、まず大あわてで駈け出したが、そのうち息が切れて立ちどまり、酔いがさめ、自分のしでかした行為の重大さにはっと気がつくと、その怖ろしさに狂わんばかりの思いになった。まず最初に彼が考えたことは、最も暗い人気のない道をえらんで、城門をくぐり、町の城壁の外へ出ることだった。あえて仕事場へはもどらなかった。それから彼は、打ち棄てられた昔の徒刑場と、その扉が容易にあくことを思い出した。夜のあいだ、彼は石の部屋の一つに身を落着けた。部屋の隅の、とぐろを巻いた索具のかげに身をみそめた。恐怖が彼を領したので、彼は恐怖にすがりついた。わが身の絶望を思った。(注1)

なんと奇妙な豪奢だろう。本筋と一見無関係な脇道にのっけからいきなり逸れたかと思うと本筋を忘れたかのようにそちらに熱中し始める過剰な装飾性と、それを支えるあのまなざし、空しい現世の有為転変に、何物に対しても容赦しない時の非情な流れに注がれるまなざしとのゆえに、二重の意味でバロック的な豪奢だ。それ自体がもったいぶった権力の象徴である紋章さながらに読者を威圧する冒頭は、やがてそれとはおよそ対照的な、囚人たちの苦境の生々しい実感を伴う描写につながり、ついで仰ぎ見る彼らの目に映った、神々しいばかりの男らしさの理想を体現する船長の姿が垣間見られるがそれも束の間のこと、「漕役刑囚たちは死んでいる」に始まる後半は、いったんはこのどぎつい断定を弱めるべくただちにそれの比喩的な性格を明かすかのようでいて―「たぶん希望で、息も絶え絶えになって」―、結局その断定を完全には否定してくれないまま時の流れを一気に現代まで駆け下り、そして「かつてローゼン公がそうであったような、提督は今ではもういない」以下の執拗な「ない」の繰り返しによって、昔日の栄光が今日では失われているという事実をこれでもかとばかりに確認しながら荒涼たる無人の徒刑場の鬼気迫る雰囲気を増幅させていき、まるでほんのついでのように結尾で言及されるジルのどうしようもない孤独を、ひときわみじめでよるべないものとして見せることに成功している。文学以外のいかなる藝術にも、この「ない」の連呼に匹敵する効果を発揮することは無理だろう。しかしジルが感じているこの恐怖、この絶望は、果たしてジュネのものでもありうるのだろうか。
おそらくそう考えることは間違いではない。だが、怪物的な破格の美しさを誇る以上のくだりを読むとき、我々は、張子の虎のごとき国家権力というものの内実の空虚さを見抜く冷徹な洞察力とともに、この恐怖や絶望と戯れようとするふてぶてしい超人的な意志のようなものをも感じはしないか。この場合のテオの殺害という行為そのものは、たとえそれまでのいきがかりを考慮に入れるとしてももとより正当化しがたいものだが―ジル自身、酔った勢いに任せて衝動的に彼を殺めてしまったにすぎず、自らしたことの責任を負う覚悟があったわけではない―、とりあえずその点は不問に付すとして(どのみち現実の誰かが死んだわけではない)、私には、ジュネが、非人称的な、そして、あえて人の形をまとう必要がある場合には好んで壮健な男性の姿(船長)で現れたがるあの権力から与えられる懲罰を、それゆえの恐怖や絶望を、ともすれば何か親の愛情の代わりになるようなものとして欲し、ありがたがるようなことをしかねない、という自らの習性を、まるでおもちゃの人形のようにか弱いジルの周章狼狽に託して、知らず知らずのうちに一歩引いたところからつきはなして眺め、嘲笑っている気がしてならない。なにしろ、「恐怖が彼を領したので、彼は恐怖にすがりついた」の原文は« la peur s'étant emparée de lui, il s'empara d'elle »であり、つまりは恐怖によるジルの身の占領も、溺れる者が藁をもつかむように孤独の中で恐怖というたった一つの明確な感情にしがみつくしかないジルの惨めさも、ともに« s'emparer de »という同じ代名動詞で表現されているのだ。警察の追跡に怯えるお尋ね者の立場をやりきれないものにするという点ではことによると恐怖以上なのかもしれない、この隠微な迎合、権力の無意識的な内面化の仕組みに、ジュネ本人はいざ知らず、小説の書き手は明らかに気づいている。そうだとすれば、つまり、この倒錯的な、同性愛などよりよほど倒錯と呼ばれて然るべき習性からの脱却が期せずして生じつつあるのだとすれば、それはナルシシズムの外に通じていると考えてもよいはずだ。というのも、権力との想像的な一体化という道が断たれれば、必然的に、初期ジュネに特徴的な、罰せられ蔑まれるような自分の美化という戦略も成り立ちにくくなるからだ。
これはすでに、先に挙げた二つの弱点のうちの後者、すなわち、悪への加担を標榜することは結局社会の中で一般的に通用している規範や価値観を前提とし、それに依拠することではじめて可能になるという問題の解決、あるいは少なくとも解決の試みでもある。以下に引用するのは、固い友情(それは最終的には熱烈な接吻や愛撫をもたらし、ほとんど同性愛と区別がつかないほどである)で互いに結ばれていたはずのジルを警察に引き渡し、彼とともに実行した盗みの成果を独り占めするという、クレルの一見非常に卑劣で利己的な行為についての説明である。この説明は、阿片を運ぶのを手伝ってくれた仲間の水兵を彼が殺した一件にも当てはまるはずだ。

 次に、いくつかの説明をしておこう。クレルが前の日に自分で唆かしておいたジルの逮捕を知って、深い苦痛を味わったということに、もし読者が奇異の念をいだくならば(わたしたちは《昂奮する》とか《憤慨する》とかいう言葉よりもむしろ《奇異の念をいだく》という言葉を用いる。この小説が論証的たらんとしていることを示さんがためである)、クレルの冒険の足取りをしらべてみなければなるまい。彼は盗むために殺すのである。殺人が行われると、盗みは正当化されるのではなくて、―むしろ殺人は盗みによって正当化されるという命題を、思い切って提出したい誘惑に駆られるだろうが、―聖化されるのだ。クレルは偶然のおかげで、犯罪によって美化され破壊された盗みというものの精神的な力を知ったのだろうと思われる。血によって美化され讃美されるとき、盗みという行為は、ともすると殺人の豪奢のかげに完全に埋没するまでに、その人目につく重要性を失ってしまうのであるが、―もっとも盗みという行為は、それによって完全に滅びてしまうのではなく、胸のむかつくような一種の吐息によって、殺人という純粋行為を次第に腐敗させるのだけれども、―犠牲者が犯人の友達であるとき、この盗みという行為は、犯人の意志を強固にするのである。犯人が危険を冒した(自分の首を賭けた)ということだけでも、すでになまなかの論拠では抵抗し得ないような、所有の意識が彼のなかに確立されるには十分であろう。しかし犯人を犠牲者に結びつける友情―犠牲者を犯人の人格の延長とする友情―は、ある魔術的な現象を生ぜしめるのだ。わたしたちは、その現象を次のように表現しようと思う。すなわち、私はいま、私自身の一部(犠牲者に対する私の愛情)が賭けられた危険を冒したところである。私は悪魔とのあいだに一種の契約(文書になってはいないが)をむすぶことができる。この悪魔に対して、私は自分の魂も自分の腕も譲り渡すつもりはないが、これらと同じくらい貴重なある物を譲り渡そうとしている。それは何かと言えば、一人の友達である。この友達の死が、私の盗みを聖化するのである。問題は、形式的な華やかさではなくて(涙や悲嘆や死や血のなかには、対象として身ぶりとして事物として、法典のなかの法規よりもっと強力な理由が存在するけれども)、真の魔術に属する行為なのである。この魔術が私をして、友達が自発的に自分の生命と交換しようとした品物の、正しい所有者たらしめるのである。なぜ自発的なのかというと、私の犠牲者は友達である以上、多かれ少なかれ私の樹液で養われた、私の枝の先端の葉だからである(私の苦痛がそのことを示している)。クレルは、一種の瀆聖行為でも犯さない限り何人たりとも、といって彼自身は持てる力の限りを尽くしてそれを禁じる術を心得ているはずであるが、あの盗んだ宝石を自分から奪うことはできないはずだと思っていた。というのは、彼がさっさと身を全うするために警官の手に引渡していた共犯者(そして友達)は、禁錮重労働五年の刑を宣告されていたからである。クレルが盗んだ品物を本当に所有しているという感じをもつのは、自分の不安のためでは全くなく、むしろもっと高貴なと言ってもいいほどの―いかなる感情の介入する余地もない―ある意識のためだった。それは傷ついた仲間に対する、いわば男らしい誠実のようなものだった。わたしたちの主人公は、共犯者に利益を分けたくないという考えをもったことはなく、人間の法律の手の届かぬところに利益を保存しておきたいという考えの持主だった。新たに盗みを犯すたびに、クレルは盗んだ品物と自分とのあいだの神秘な絆を確かめたいという欲求を感じるのである。獲得の権利は一つの意味をおびる。クレルはその友達を腕環に、ネックレスに、金時計に、イヤリングに変形させる。彼がある感情―友情―を鋳造することに成功したというとき、そこで問題になるのは、たぶん他人には判断しようのない一つの実験であろう。この錬金術のような変成の術は、彼だけにしか係りがないのである。彼の利益を《吐き出させ》ようと試みる者はすべて、墓あばきの罪を犯さねばならぬであろう。ジルの逮捕は、したがって、クレルに一種の男らしい悲しみをあたえた。しかし同時にクレルは、ジルの協力によって行なったあらゆる盗みの金銭によって表される、想像上の黄金の宝石が、自分の肉のなかにほとんど嵌めこまれたような感覚をも味わったのである。上述のメカニズムを、わたしたちはごく一般的なものであると主張したい。それは複雑な意識に特有なものではなく、あらゆる意識に特有なものなのだ。ただ、クレルの意識だけはそのメカニズムの材料をさらに必要としていて、意識自身の矛盾から、つねに材料を引出していなければならなかったのである。(注2)

殺すか、官憲に引き渡すかして友人を犠牲にすると、そのことから私が感じる苦痛が並々ならぬものであればあるほど、それだけ私には余人を排除して、盗んだ品物を独占的に所有する資格が生じる―あるいはいなくなった友人のためにそれを法の魔の手から守り続ける義務が生じる―あるいはそれを友情の記念にすることはできないかという錬金術師の好奇心が生じる。微妙に結論が二転三転していることからすると、このいかにも逆説的な理屈はあまり真面目に受けとらず、一種のいかがわしい詭弁として読み流すのが正解かもしれない。ただそれでも、他のあらゆる犯罪(殺人すらも例外ではない)の上に輝き、それらによって聖化されながらそれらを正当化する、盗みという犯罪の特権性をひとまず信じておくことにすると、いわば目的因の地位をこの盗みが占めることによって、ジュネ流の悪の美学は単に善なる世界、善人たちの社会の中で邪悪さを衒うというだけの寄生的なあり方から逸脱し、何かしらもっと過激で剣呑なもののほうへとなだれ込んでいくように思える。
私はそのことの例証として、『ブレストの乱暴者』の後半における、叙述の逆流に注意を促したい。すなわち、出来事は起こったとおり単線的に過去から未来へと並べられるのではなく、次のような順序(左の算用数字)で読者の前に呈示されるのである。もしも時系列順に並べるとすれば、右の漢数字の示す順序でないとおかしいはずだ。
(1)逮捕されたジルとマリオのやりとり(六)
(2)逃亡中のジルを探し出すための捜査の一環として、ロジェが尋問を受ける(一)
(3)ジルの尋問の場に証人として呼ばれたセブロン大尉の虚言と彼の逮捕(八)
(4)クレルに唆されたジルがセブロン大尉を銃で脅し、金の入った鞄を奪い去る(二)
(5)ジルが汽車に乗りこんだ直後、逮捕される(五)
(6)クレルがジルに鉄道で逃亡するよう指示する(三)
(7)情事の後で、クレルがマリオにジルの乗る汽車の情報を教える(四)
(8)酔ったクレルがセブロン大尉に媚態を示す(七)
この配置は単なるでたらめではなく、ジルに関わる筋書を先に始めて、それが終わってからセブロン大尉の話をその後に続ける、ただしどちらも単線的には進行させずに頃合いを見て逆流させる―という構想に由来するものと考えてよいのではなかろうか。とりわけ(1)と(2)の間の処理は恐ろしく水際立っており、「マリオの手で逮捕されたとき、すでにジルはこの苛酷さを思い知らされた」(注3)という文の前ではなくてなんとその後に、「警察は、ジルを危険なサディストの狂人と断定した。そしてフランス全土にわたる捜査を開始した」(注4)という文が現れるばかりか、この二つの文が文庫版でわずか8頁ほどしか離れていないという事実の奇怪さも、何気なく読んでいればその奇怪さが気づかれることなく読者の目を素通りしてしまいそうなほど、このあたりの文章の運びが違和感なく滑らかに推移していく(間に空行が挟まることさえない)という、それにもまして奇怪な事態に比べればまだしも可愛げがある。
これほど異様な順序が採用されねばならなかった理由は何か、ここにはいかなる必然性があるのか。おそらく複数の事情が働いているのだろうが、私は盗みが方法論的な示唆を与えたのではないかと思う。先の引用文を信じるかぎり、『ブレストの乱暴者』の話者にとって、盗みは男色や殺人よりも決定的な何かを持つ、特権的な犯罪である。それは、こちらからあちらへと伸ばした手を再び引っ込めて、今度はあちらからこちらへと引き寄せ、たぐり寄せ、そのようにして本来あちらにあるべき物を、無断で、何食わぬ顔で、できれば人々に知られぬように注意を払いながらこちらに近づける運動にほかならぬ。あるいは、ことによると盗み以上に根源的な名かもしれない、裏切りというものの背信的な運動、文字通り突然「背いて」向き直る、よく似た歩みのことを思うべきか。これを叙述の次元に翻訳してみれば、ちょうどいましがた確かめたような逆流現象が得られるのではなかろうか。引き寄せられ、たぐり寄せられ、巻き取られる言葉、その中心にはおそらく、一人の他者、例えばリジアーヌ夫人の内心でゆらゆらと揺れ動く、「黒い襞のある喪のスカーフのような、半透明なやわらかい布地でできた、長いゆったりした黒いヴェール」(注5)が待っているのではなかろうか。クレルとロベールはその襞の中で互いに識別しがたくなり、知覚しがたくなる。そしてそこではもう、誰一人鏡像の囚人ではない。ジュネは像の魅惑への偏愛を隠そうとしないが、真に驚くべきなのは、ナルシシズムの外へと突破するべくこの嗜好を彼が自ら解体していくときの大胆な手つきである。いかにも、凛々しい水兵を描いたポスターの呼びかけに応じて軍隊に入ったクレルは、セブロン大尉と同じくいわばポスターの「犠牲者」であるが(注6)、すでにこの暗鬱な呼び名が暗示しているような、鏡像への愛のどうしようもない不毛さは、例えばマリオとの味気ない接吻においても露呈するのであり―「それはちょうど、彼自身の顔を映す鏡に顔がぶつかったような、花崗岩の頭の凝固した内部を舌で探っているような感じであった」(注7)―、あまつさえ自分とよく似た「一人のクレル」に仕立て上げたジル、この「未成熟のクレルの胎児」に面と向かっていくら真率な友愛の感情を吐露しようとも(注8)、そのことは何らクレルが彼を裏切る上での障害とはなりえない。きわめつけは、クレルが自身の内部に抱え込んでいる、犯罪のたびに増加してきたという無数の人格の存在であろう。彼らクレルたちはもっぱらジュネにおける鏡像への愛の呪われた根深さを教えるかのようでいて、その実、ジョルジュ・クレルという固有名が一つの多様体を表すことを、「忘却の襞」が刻まれたヴェールに身を包む、個体以前の特異性としての彼らから学ぶことは、少しも我々読者に対して禁じられていない(注9)。あらゆる社会的な約束事の集積としての道徳から自由になった、ナルシシズムとは似て非なる生の倫理としての潜在的な襞、ジュネその人もまたそこにしばし身をひそめ、戯曲の創作による、パレスチナへの旅による生まれ変わりのときに虎視眈々と備えるのだ。

ここからは、澁澤龍彦が訳した河出文庫版『ブレストの乱暴者』の訳文を検討し、明らかな誤訳に対して私なりの代案を試みることにしたい。
まず、全般的な、全篇を通じて至る所に見られる問題点を三つ指摘しておく。第一は、セブロンの階級の問題である。というのも、澁澤は一貫して« le lieutenant Seblon »を「セブロン少尉」と訳しているが、陸軍ではただの« lieutenant »が「中尉」であるのに対して、海軍では« lieutenant de vaisseau »が「大尉」に相当するらしく、そして実際、ジュネ自身もときにはちゃんと« lieutenant de vaisseau »と書くからだ(注10)。第二は、俗な言葉づかいで単に「男」を、あるいはいかにも男らしい男を意味する« mec »の訳語が、なぜか「女衒」となっていることである。おそらくは« mac »と混同したものか。これについては頭の中で、例えば「野郎」とでも訂正しながら読むしかない。第三は、地の文における« nous »の訳し方が一定せず、「わたしたちは」と「作者は」が混在していることだ。たしかにこの« nous »は、実質的には、いましがた書いた文章について上位の視点から反省をめぐらす作者の介入の合図であることも多いが、それをする主体が「作者(l'auteur)」という一人の個人ではなくて一人称複数、つまり我々(nous)を名乗っているということは、ジュネ文学の場合には読者を邪まな共犯関係に巻き込んでしまうという点できわめて重要な意味を持つと思えるので(注11)、いかにも中途半端な澁澤の処理には賛成しかねる。
以上三点以外の個別的な問題、ならびにそれらについての私見は、以下に書くとおりである。ただし網羅的な列挙ではなく、あくまでも読んでいて気になり、原文と照らし合わせてみた箇所に限る。

(1)澁澤訳101頁2行

(臀部を高めた脚の位置によって、四つに裂けたかと思われる)幅の狭い腰

初めてノルベールと性交するときのクレルの姿勢の描写である。問題は丸括弧の中の「四つに裂けたかと思われる」で、なぜ「四つ」なのかがわからない。

(原文)ses hanches étroites (écartelées par la position des jambes haussant la croupe)(注12)

(拙訳)(臀部を高くつきあげる両脚の配置ゆえに引き裂かれた)彼の引き締まった腰つき

この、「引き裂かれた」という形容詞は―あえて数を問うなら、左右に大きく張り出し、ふんばった両脚のために腰は二つに引き裂かれているのだ―、緊張する筋肉の男性的な美を簡潔に描き出しつつ、これから起きる事態のむごたらしさを予告してもいる(ノルベールの男根の侵入によって、クレルの肉体はまさしく引き裂かれることになる)。実にみごとな言葉の選択である。

(2)澁澤訳161頁9-10行

漕役刑囚たちは、今はもういない。おそらく、ふたたび復活することはないだろう。彼らには後継者がいなかった。

すでに引用した、徒刑場の過去の情景を描く長大なくだりの一部である。三つとも一見ごく自然な印象の訳文だが、原文と比べるとかなり趣が違うので、その際に改めざるをえなかった。

(原文)Les galériens sont morts. D'espoir peut-être. On ne les a pas remplacés.(注13)

(拙訳)漕役刑囚たちは死んでいる。たぶん希望で、息も絶え絶えになって。彼らは交替させてもらえなかったのだ。

「死ぬ」を意味する« mourir »という動詞が複合過去形で現れる第一文は、非情なまでにきっぱりと、ガレー船の漕ぎ手である囚人たちの死を断定している。もっとも、「今はもういない」という澁澤の訳文も、それ自体として見れば別に間違いではない。問題は、« D'espoir peut-être »、直訳すれば「たぶん希望で」という、主語も述語もない、不完全でそっけない第二文をどう読むかである。思うに、これは第一文に対する補足であり、あるいはむしろ単なる補足にとどまらぬ、大胆な改訂であろう。というのも、« mourir »は« de »を介して何らかの名詞、例えば« faim »(空腹)とか« ennui »(退屈)とかを後に続けることで、生者が経験する、「……で死にそうである」・「死ぬほど……である」という状態をも意味しうるからだ。すなわちこの場合は、囚人たちは死んでしまったという第一文の衝撃的な内容が、第二文における追加の説明によってすぐさま訂正を受け、彼らはただ希望〔espoir〕を抱いて死にそうな思いを味わっているだけで、本当に死んだわけではないことにされるのだ。澁澤がどういうつもりで第二文を「おそらく、ふたたび復活することはないだろう」と訳したのかは不明だが、推測するに、第一文との関係に思い至らぬまま、« D'espoir »を« Pas d'espoir »(希望はない)か« Désespoir »(絶望)に直して読んだ結果であろう。ところでしかし、「希望で死にそうである」、あるいは「死ぬほど希望している」とは、具体的にはどういう状況なのか。
その答は、« On ne les a pas remplacés »という第三文を読めば自ずと判明する。というのも、第二文を誤ってあまりにも大袈裟な日本語にしてしまった澁澤はそれに引きずられてか、この文を「彼らには後継者がいなかった」と訳しているが、しかし« remplacer »という動詞の意味はあくまでも「入れ替える」とか「取り替える」であって、「後継者を決める」ではないからだ。要するに、ガレー船を漕ぐ苦役に何時間もぶっ通しで従事させられて息も絶え絶えになった囚人たちは、早く誰かに代わってほしいという「希望」で頭がいっぱいなのである。この、「彼らは交替させてもらえなかったのだ」という第三文こそ、第一文で告げられた囚人たちの死(肉体的な、本当の死)を第二文が打ち消している、というよりもむしろたわめ、緩和していることの、何よりの証拠であろう。
こうして第三文に至ってようやく、第一文と第二文の間の急転回を十全に理解しえた読者の心の中に、これほど簡潔な手法で巧みに翻弄されたという事実から生まれる驚嘆の念は、結局のところこの種明かしがもたらす慰撫は見せかけのもの、一時的な気休めにすぎず、この後に続く本文の執拗な「ない」の連呼からも察しがつくように、何世紀も前の徒刑場にいた彼ら囚人たちはとうの昔に死者となっていることに気づくとき、いよいよ大きくなるのである。あらゆる現世的なものの有為転変という大きな構図の観点から見れば、第一文の衝撃的な内容に第二文でただちに手心が加えられたのは、何ら囚人たちを憐れんでのことではなく、単にここはまだ構図全体の終点ではなくて起点、ないし―段落の冒頭、つまり「フランスとブルターニュの二重になった楯形紋章は」云々から連綿と続いてきた、言葉の隊列の行進を重んじる場合には―中継点であるという、美学的な理由からでしかない。

(3)澁澤訳163頁11-12行

恐怖が彼を襲い、彼は恐怖にとらえられた。

(原文)(...)la peur s'étant emparée de lui, il s'empara d'elle.(注14)

これも、すでに引用に際して改めた箇所である。

(拙訳)恐怖が彼を領したので、彼は恐怖にすがりついた。

立て続けに二度現れる« s'emparer de »は、何かを占領する、または何かをつかむという意味の代名動詞である。前半の« la peur s'étant emparée de lui »という絶対分詞節においては「恐怖」が主語なので前者の意味に近く、単純過去で書かれた後半の« il s'empara d'elle »においては、「彼」が主語なので後者の意味だろう。澁澤のように« il s'empara d'elle »を「彼は恐怖にとらえられた」と訳すのは、そもそも文法的に誤りである上―この原文をあえて受動態に訳すなら、「恐怖は彼にとらえられた」でないとおかしい―、意味内容の次元でも直前の「恐怖が彼を襲い(la peur s'étant emparée de lui)」を冗長に繰り返しているにすぎないので、不可解さが生じてしまう。

(4)澁澤訳166頁7-8行

クレルの犯罪は、彼の人格をいくつにも増殖させていた。それぞれの犯罪が、前の犯罪を忘れない新たな人格を彼に賦与するのだった。

(原文)Ses crimes avaient multiplié la personnalité de Querelle, chacun d'eux lui en accordant une nouvelle qui n'oubliait pas les précédentes.(注15)

原文中の« les précédentes »はもちろん女性形なので、澁澤がこれを、あたかも« crimes »という男性名詞が省略されているかのように「前の犯罪」と訳したのは間違いである。

(拙訳)犯罪を重ねるたびにクレルの人格は増殖したのだった、それら犯罪の一つ一つが彼にある新しい人格を授けることになり、しかもその人格は先行する諸人格を忘れることはないからだった。



(5)澁澤訳167頁14-17行

クレルにとって悲しい時というのは、この最近生れた闘技者のまわりに、多くのクレルたちがひしめき集り、ぴったり寄り添う時を意味していた。彼らのヴェールは、黒いチュールというよりもむしろクレープで、彼はすでに自分の肉体の上に、わずかに縮れた忘却の襞を感じていた。

(原文)Par moments de tristesse nous voulons dire ces instants que les Querelles se pressaient plus étroitement autour du dernier athlète, que leur voile était de crêpe plutôt que de tulle blanc, et que lui-même sentait déjà sur son corps les plis légers de l'oubli.(注16)

(拙訳)悲しいときという言葉で我々が言わんとするのは、クレルたちが末っ子の闘技者のまわりでいつにもましてぎっしりとひしめき合い、彼らのヴェールが白いチュールというよりもむしろクレープであり、そして彼自身はすでに自らの肉体の上に忘却のかすかな襞を感じつつあった、あの数刹那のことである。

一人称複数の主語« nous »は実質的には作者というか話者自身であり、この話者がたったいま(引用文のすぐ前の箇所に)書いた「悲しいとき」という語句の意味を自ら説明している―という体裁で、実はむしろクレルの中にいるクレルたち、複数の人格が新参者を慰める情景の美を拠点として、悲しみの感情をクレルの外部の世界や他人との関係から切り離しつつ、思う存分甘美な自己憐憫に耽溺しようとしている。こういう場合は« nous »を「作者は」と訳すのが澁澤の流儀だが、他の頁とは違い、ここでそうしなかったのは、事態があくまでもクレルの内部で完結しているので、作者の存在をあからさまに感じさせては不自然だという判断からであろうか。しかし、この不自然さ(わざとらしさ)がまさにジュネの持ち味だとも考えられるし、原文にない「クレルにとって」という一句を追加してまでそれを糊塗するのが正解だったとは思えない。それと、「白い〔blanc〕」を「黒い」と誤訳したのはなぜだろうか。

(6)澁澤訳228頁14-15行

たしかに死んだ人間の沈黙の影ともいうべき、一つの世界に身を浸して生きているという確信が、

(原文)La certitude de vivre dans un monde, qui est le double silencieux de celui où effectivement il se meut,(注17)

どうやら澁澤は、« mouvoir »(動かす)を誤って« mourir »(死ぬ)と解しているらしい。しかし、« mourir »なら直説法三人称単数現在形はもちろん« meurt »でなくてはならないはずだし、代名動詞化されて« se »を伴っていることの理由も説明しにくい(一応« mourir »にも代名動詞としての用法があることはあるが、それは「死にかけている」という意味になるので、澁澤のように「死んだ」と訳すことはできない)。また、« celui »の内実についても勘違いしており、先行する« monde »(世界)という男性名詞ではなくて、人を指していると考えているようだ。

(拙訳)実際に彼が動き回っている世界の無言の分身にほかならぬ、一つの世界の中に生きているという確信が、



(7)澁澤訳257頁15-17行

それから何事かを思いついて、ふっと微笑した。青い静脈のいっぱい走った真珠母色の白い裸身を惜しげもなく捧げていたように、彼女は、口まで星がいっぱいな、ビロードのような漆黒の夜を捧げようと思ったのである。

リジアーヌ夫人とロベールの情事の場面である。

(原文)Elle sourit pour offrir la nuit veloutée parcourue d'étoiles qui la tapissait jusqu'à la bouche comme elle offrait sa chair blanche et nacrée parcourue de veines bleues.(注18)

澁澤は、「星」すなわち« étoiles »が« tapissait »の主語(関係代名詞« qui »の先行詞)であり、その目的語である« la »は「夜〔la nuit〕」を指すと考えているらしい。しかし、そう読むことには無理がある。まず、« étoiles »―「星々」―は複数形であるのに対して、« tapissait »は単数形であって複数形(« tapissaient »)ではない。よって« tapissait »の主語は、正しくは「夜〔la nuit〕」であり、となればその目的語である« la »がまたしても「夜」を指すことはありえない。「口元まで〔jusqu'à la bouche〕」とある以上、この、« la tapissait »の« la »とは「彼女〔elle〕」のことだろう。

(拙訳)彼女は星々が走り回るビロードのような夜、口元まで彼女を覆い尽くす夜を捧げるために微笑した。ちょうど青色の静脈が走る白くて真珠のような彼女の肉体を捧げたように。

「星々」は何か具体的なものの隠喩ではなく、媚態の魅力が発散する様子を暗示しているのだろう。要は、仰向けの姿勢で寝そべった夫人が、一糸まとわぬその白い裸身の上から覆いかぶさる毛布の中の暗闇(「夜」)を覗き込み、彼女に抱きつくロベールに向かって艶然と微笑みかけているのである。
それと、« nacrée »は肌の白さを強調するための形容詞だろうから、単に「真珠のような」と訳すのが穏当でよいはずだ。澁澤のように「真珠母色の」と訳したのでは、アコヤガイの貝殻の内側を思わせる、虹色を意味することになりはしないか。

(8)澁澤訳272頁10行

もっとも、男根だけはひそかに残しておきたい。

(原文)(...)et cependant conserver secrètement tous ses membres.(注19)

セブロン大尉が幼虫のような存在になりたいという夢想を綴った断章の一部である。彼の手帳から抜粋された(という体裁の)他の文章と同様、これも斜体で印刷されており、書き手の思考と身分が、『ブレストの乱暴者』という小説の本文から半ば疎外されていることを示す。

(拙訳)しかもそれでいて自分の四肢をどれも秘密裡に保存しておくこと。

澁澤の訳文は一見いかにも日頃の大尉の性的関心に似つかわしいし、いっそ手も脚もなくなってしまえばよいという趣旨のことを書いた直後なので、意味が通らないわけではない。しかし、« tous ses membres »はあくまでも複数形で「どれも(一つ残らず)」と書いてあるわけだから、その点で男根とか陰茎という訳語には無理があるし、「それでいて(cependant)」・「秘密裡に(secrètement)」というあからさまに言い訳がましい接続詞と副詞の存在は、早すぎる前言撤回の不自然さを少しは軽減してくれる。むしろ、たったいま自分が書いたことの過激さに尻込みして考え直し、やはりいざというときのために四肢は残しておきたいなどと思案をめぐらすずるさのほうが、あの手この手でクレルを身近に置きたがるくせに必死で彼への恋心を押し隠そうとして喜劇的な徒労を重ねもする大尉の小心翼々たる人柄にはふさわしいのではないか。

(9)澁澤訳337頁13-14行

彼はジルを愛していた。ジルを愛することを抑制していた。

これはごく単純な誤訳である。

(原文)Il aimait Gil. Il se forçait à l'aimer.(注20)

(拙訳)彼はジルを愛していた。ジルを愛することを自分に強いていた。



(10)澁澤訳343頁1-3行

クレルは、自分が力をつくして禁治産者としてしまうことができるような人物は、一種の瀆聖行為でも犯さない限り、あの盗んだ宝石を自分から奪うことはできないはずだと思っていた。

(原文)Querelle connut que personne, sans commettre un sacrilège, que lui-même saurait interdire jusqu'au bout de ses forces, ne parviendrait à lui arracher ces bijoux volés(...).(注21)

すでに引用文中で最小限の改訳を施した文だが、今度は全部手直ししてみる。

(拙訳)クレルは、瀆聖の行いを犯さないかぎり何人たりとも、といって彼自身は持てる力の限りを尽くしてそれを禁じる術を心得ているはずであるが、あれら盗んだ宝石を彼から奪い取るには至らないはずだということがわかっていた。

この文の« personne »は「人物」ではなく(つまり女性名詞ではなく)、« ne »とともに「誰一人(……ない)」を意味するはずである。また、« que »以下の関係節の先行詞は、直前の« un sacrilège »であろう。したがって« interdire »の意味も、「(何かを)禁止する」でよく、「(誰かを)禁治産者にする」ではない。

(11)澁澤訳343頁16-17行

ジルの協力によって行なったあらゆる盗みの利益を象徴する、想像上の黄金の宝石が、

(原文)les imaginaires bijoux d'or représentés par l'argent de tous les vols accomplis avec l'aide de Gil(注22)

むろん、宝石が「盗みの利益を象徴する」のではなくて、正しくはその反対である。

(拙訳)ジルの協力を得て成し遂げた全ての盗みの金銭によって表されるいくつもの想像上の黄金の宝石が

日本語としてのわかりやすさを優先するなら、« l'argent »は「利益」(澁澤訳)のほうがよいかもしれない。しかし、クレルとジルが盗んだものは事実現金であるわけだし(注23)、それと想像上の宝石との間に成立せしめられる、色彩ないし材質の共通性―「黄金の宝石」という、ほとんど撞着語法に近い表現の奇抜さを見落としてはならない。世の中にはたしかに金色の宝石というものも存在するが、ここではそれよりも、宝石と黄金という本来別々であるはずの物質を強引に合一させてしまう、言葉の魔術に感嘆すべきであろう―、および品格の対照性(むろん、ジュネの価値観では、現実に存在する金銭などよりも、それの彼方に夢見られた非現実の宝石のほうが貴いはずである)を、二つとも忠実に反映しうるような訳文を目指すとすれば、「金銭」という直訳のほうが効果的ではなかろうか。

(12)澁澤訳357頁3-5行

そしてジルが逮捕された場合、刑事は―ジルの傷痕あるいは厳重な捜査によって―そのピストルがセブロン少尉のものだということを知るだろう。

これは、ジルに逃亡を促しながら、以前彼に手渡したセブロン大尉のピストルを没収するときの、クレルの説明の一部である(もちろんこのピストルは、大尉に無断でこっそりクレルが盗み出したのであり、したがってジルがそれを持ったまま逮捕されればクレルの身にも危険が及ぶ)。直前の訳文は、「もしジルが刑事(でか)に発砲すれば、刑事もまた発砲するだろう。刑事はジルを射殺するか、あるいは射殺し損じるかするだろう」であり、それから「ジルの傷痕」(ジルの身体に残った傷痕)によって刑事が彼のピストルの本来の持ち主を特定する、という状況にはすんなりつながらない。刑事に撃たれたせいではなく、暴発か自殺未遂か、ともかく手元のピストルのせいでジルが負傷するという段階を想定した上で、それが省略されていると考えるほかないが、いかにも不自然な想定であり、不可解な省略である。そもそも、ピストル本体には目もくれずにあえて銃創を手がかりとして持ち主を探し始めるというのもおかしな話で、無理がある。

(原文)S'ils l'arrêtent, ils sauront ― par Gil blessé ou par une enquête sérieuse ― que le revolver appartenait au lieutenant Seblon(...).(注24)

(拙訳)もし彼らが彼を逮捕すれば、彼らは知ることだろう―手負いのジルによってかもしくは真剣な捜査によって―そのピストルがセブロン大尉のものであったということを。

単に「ジルによって」と書かずにわざわざ「手負いの(負傷した)」という形容詞が添えてあるのは、逮捕時に負わされた怪我のせいで弱気になったジルが、ピストルの由来について問いつめられるままあっさり白状してしまうという状況を想定しているからか。いずれにせよ、傷そのものに証拠としての重要な意味があるわけではない。

(13)澁澤訳358頁1-2行

わたしたちはやがて、彼がこの欲望をいかに卓抜に利用するかを見ることになろう。

(原文)(...)nous verrons l'usage sublime qu'il fera de ce désir.(注25)

(拙訳)我々はいずれ彼がこの欲望の崇高な使い方をするのを見ることだろう。

「彼」とはセブロン大尉のことである。これは、つねづねクレルの模範的な無頼漢らしさに見惚れ、できることなら彼に人殺しの称号を奉りたいとまで空想してきたセブロンが、警部の問いかけに対して、最初はジルの顔に見覚えがないと言い、次にその発言を否認し、そのようにして加担の対象を追剝ぎであるジルから追剝ぎ行為そのものへと狭め、純化していったあげく、とうとう警部に罵倒や殴打を浴びせながら金を盗んだのはほかでもない自分だという偽りの告白を口にし、逮捕されるに至る成行き(注26)を予告しているようだ(といっても、実はこの成行きそのものはとうに地の文の中で報告済みなのであるが)。クレルが体現する悪への憧れに端を発しながら彼の与り知らぬものとして終始し、ジルの罪を軽減してやるかのようでありながら決して彼のためではない、このなんとも奇妙な無償の自己犠牲には、それでも平生の卑劣さを乗り越えて架空の罪を我が身に引き受けるという点で、何か英雄的なものがある。してみれば、« sublime »の訳語も「崇高な」がよくはないか。

(14)澁澤訳359頁2-4行

さらに一そう狡猾な、明晰な、敏捷な精神のはたらきをもって、ジルが死んだ場合や、自分が黙っていて救われる場合などに当然予想される、さまざまな微妙な事態を弁別した。

ジルに逃亡の指図をしながら、ピストルについで水兵の服も没収してしまった後のクレルの心中の記述である(二つの品はどちらも、ジルがセブロン大尉を脅すときにクレルから貸し与えられていたものだ)。いまやジルは、クレルの立場を危うくしかねない物的証拠を何も身につけていない。したがってクレルにとっては、心置きなく少年を警察の手に委ねる準備がその分だけ整ったことになる。

(原文)(...)il discerna avec encore plus d'adresse, de clarté, d'agilité d'esprit, les mille nuances nécessaires à provoquer par la mort de Gil et son silence, son propre salut.(注27)

(拙訳)なおいっそう多くの抜け目なさ、明晰さ、精神の機敏さとともに、ジルの死とその沈黙、自分自身の救いによって惹き起こされる無数の必然的な色合い(ニュアンス)を彼は識別した。

問題にしたいのは« son silence »と« son propre salut »であり、澁澤のようにこの両者をどちらもクレルに帰して「自分が黙っていて救われる場合」と訳すことも不可能ではなかろうが、私としては« propre »の有無に注目し、前者つまり「彼の沈黙」とはジルが死んだ場合の、いわゆる「死人に口なし」という事態を指すのに対して、後者つまり「彼自身の救い」のみが全体の主語であるクレルに関わると考えたい。もちろんこの「救い」とは、クレルが―二つの殺人事件の犯人としてジルが逮捕され、あわよくば(ジョルジュ・クレルの名は一度も口にする機会がないまま)命を落とす結果として―殺人犯の汚名をまんまと免れるという事態のことである。「無数の必然的な色合い(ニュアンス)を識別した」というのは単に、このままうまくやれば自分が犯した殺人の罪をジルに着せて厄介払いできそうだと予感してほくそ笑む、クレルの期待を衒学的な語彙で誇張しているにすぎず、この表現自体にはそれほど重みを認めなくてもよいのではないか。

(15)澁澤訳375頁15-16行

到達不可能なある存在―そして彼―に向って哀訴しなければならない自分の無力が、あまりにも辛く感じられるのだ。

セブロン大尉が神への不信感を吐露している。書き手が彼なので、例によって原文は斜体である。

(原文)Je sentirais trop péniblement mon impuissance d'avoir à me plaindre d'un Etre ― et à Lui ― impossible à atteindre.(注28)

(拙訳)到達することが不可能なある〈存在〉のことで―それもほかならぬ〈彼のお方〉に―不平不満を申し立てねばならぬという自分の無力さを私はあまりにもつらく感じるはずだ。

澁澤訳でははっきりしないが、« se plaindre »という代名動詞とともに用いると、前置詞の« de »は苦情の原因に、同じく« à »は苦情を訴える相手に対応する。おそらく、前者すなわち「ある〈存在〉」とはクレルのことで、後者すなわち「〈彼のお方〉」が神を指しているのだろう。耐え難い無力感は、この両者がともに到達不可能であるせいで―したがってまた、クレルが占めるべき座は少なくとも神と同等の高さでないと、彼にふさわしくないことにもなる―、苦悩の解消はおろか、それを誰かに聞き届けてもらうことさえかなわないという事情に由来するらしい。条件法で「感じるはずだ(sentirais)」と書いているのは、単に語調を緩和するためかもしれないが、結局ここに書いてあることが実感の忠実な記録というよりも仮定の話に近く、いかにクレルへの愛が書き手自身を苛んでいるかを表現するための修辞の濫費にすぎないからではないか。

(16)澁澤訳386頁3-7行

士官の規律に対する尊敬の念は、彼の表面を派手に取りつくろう趣味と、きびしい秩序のおかげで手に入れることができる現実感覚と、密接な関係にあった。―きびしい秩序がなければ彼の士官の階級も、彼の権威も効果を及ぼさないだろう。―たとえどんなに少しでも、この秩序に背反することは、彼がみずから自滅することを意味していた。

(原文)Son respect de la discipline était en étroit rapport avec son goût de la parade ― et son sentiment d'avoir une réalité grâce à la rigueur d'un ordre sans lequel son grade ni son autorité n'agiraient ― et trahir, fût-ce très peu, cet ordre, c'était se détruire soi-même.(注29)

軍人、それも部下たちを見下ろす命令者の立場にある士官(セブロン大尉)の性格が説明されているのであるから、してみれば« parade »が意味するのは、「誇示」―澁澤訳の、「表面を派手に取りつくろう」こと―というよりもっと具体的な、「閲兵式」そのものであろう。また、「手に入れることができる現実感覚」も誤訳である。

(拙訳)彼が規律を尊重することは閲兵式(パレード)への彼の好みと密接な関係にあるのであった―そしてまた、それがなければ彼の階級も彼の権威も作用することがないはずの一つの秩序の厳しさのおかげである現実が手に入るのだという彼の感じとも―そしてこの秩序を裏切ることは、たとえそれがほんのわずかであろうとも、我と我が身を破壊することに等しいのだった。

付言すれば、澁澤訳では原文と比べてダッシュ(tiret)の位置が異なるために、思想の区切り方が若干様変わりしていることも否めまい。閲兵式への好みと秩序の厳しさへの感謝の念とはおそらく対等ではなく、話者の思考は前者からもっと本質的な後者へと推移していくのである。それゆえ、冒頭で両者を無造作に並立させた上、感謝の理由(「きびしい秩序がなければ」云々)をまるで無視してもかまわない些細な注釈か何かのようにダッシュで挟んで孤立させる澁澤の訳文には、この点でも改善の余地がある。

(17)澁澤訳389頁2-5頁

少尉はまだ、悪意と怒りで満たされふくれあがった、あの力強い全能の肉体が、士官のたった一つの身ぶりで、その悪意と怒りを互いに混ぜ合せるだろうということ、あるいはもっと適切に言えば、この悪意と怒りを士官の命令によって取締まらせるだろうということを知らないのである……。

酔ったクレルと町の屈強な男たちの間で喧嘩が始まりそうになるが、その場に駆けつけたセブロン大尉が、上官の威光を知らしめたいという欲求と持ち前の秩序への愛から、クレルに帰艦を命じている。

(原文)Il ne sait pas encore si ce corps vigoureux, tout puissant, chargé, gonflé de méchanceté et de rage, fera l'une et l'autre fondre à un seul geste de l'officier ou, mieux encore, diriger cette rage et cette méchanceté selon ses ordres...(注30)

(拙訳)この力強い、全能の、悪意と怒りでいっぱいになり、膨れ上がった肉体が、士官のたった一つの身ぶりでどちらも和らげてしまうのであろうか、というよりもむしろ、この怒りとこの悪意とを彼の命令通りに制御させてくれるのであろうか。果たしてどうなのかを彼はまだ知らない……。

やや読みにくく、訳しにくい文だが、第一に、« ne sait pas encore que »なら「……ということをまだ知らない」でよいけれども、原文は« ne sait pas encore si »なので「……かどうかをまだ知らない」と訳すべきであること、第二に、« fondre »はおそらく「溶ける」という本来の意味ではなくて、とげとげしい感情などが「和らぐ」という派生的な意味で用いられているらしいこと、第三に、だとすれば« diriger »はそれとの対比によって、怒りや悪意の単なる取り締まりというよりは、勢いを削ぐことなしにもっぱらそれらを―本来の相手、すなわち敵兵という正しい目標を与えることで―適切に方向づける働きを意味するはずであること、以上三点に注意しながら、私なりの翻訳を試みた。

(18)澁澤訳391頁12行

「おれを踏み台にして、おれの上を歩いてるやつがいる」

座ったまま強引にセブロン大尉を抱き寄せてその口に接吻し、ついで彼の首に腕を回してしなだれかかりながらクレルが口にしたこの台詞が決定的な啓示となって、翌日ジルの尋問の場に証人として呼ばれた大尉は悪の英雄へと変身し、決然と逮捕されることになるらしいのだが、澁澤の訳文ではその理由がはっきりしない。

(原文) ― Le vlà qui m'marche sur mes brisées.(注31)

『ロワイヤル仏和中辞典』(旺文社)によれば、« brisée »とは「(獲物の通り道を知らせるための)折り枝」のことで、それを使った慣用句に« marcher sur les brisées de quelqu'un »というものがあり、「誰それの領分を侵す」とか、張り合う、対抗することを意味するらしい。ただ、クレルの台詞では単に« marche »と言えばよさそうなところ、« m'marche »となっている点が妙である。この余計な« m' »はたぶん« me »(俺を)のつもりなのだろう。ちょうど冒頭で« Le voilà »が« Le vlà »に縮まっているのと似て、口語らしいくだけた調子を再現しているのだろうか。あるいはことによると、酩酊のせいで文法が怪しくなっているのかもしれない。

(拙訳)「こいつめ、お、俺の縄張りに踏み込んできやがって」

これを聞いたセブロン大尉の心理は、私にはもとより推測するしかないのだが、クレルを知って以来彼を押し流してきたという「《自由奔放な》思考の運動」が歯止めを失った結果、急速な進歩を遂げた大尉はいまや「海軍のすべてのクレルよりももっと自由奔放であり、純粋中の純粋であった」(注32)という文章から察するに、まるでクレルが自分を対等の仲間と認めてくれたように思えて有頂天になり、それで迷いを振り捨ててクレル並みの(と、大尉が信じる)悪漢、悪のために悪をなす純粋な悪の英雄になってやろうという決意が芽生えた―事情はそんなところではないか。

(19)澁澤訳392頁4-5行

自分の罪を裁判官の前でどんな風に弁明してよいか分らなかったので、彼女は淫売屋に火をつけることを選んだ。

リジアーヌ夫人が「ラ・フェリア」に火を放つ場面である。阿片の密売をしている夫のノルベールはともかく、夫人には一体どんな弁明しがたい罪があるというのだろうか(ロベールやクレルとの不倫はたしかに世間体が悪いとはいえ、夫は黙認している)。また、「分らなかったので」というのも、因果関係があまりに唐突すぎて読者は面食らってしまう。

(原文)Ne sachant par quel moyen justifier son crime aux magistrats, elle choisit d'incendier le bordel.(注33)

(拙訳)いかなる手段によって自らの犯罪を司直に対して正当化すべきかを知らぬまま、彼女は娼館に火をつけることにした。

つまり、原文で問題にされているのは、すでに犯した何らかの罪のことではなく、これから着手する「犯罪(crime)」のことなのであり、また« Ne sachant »云々という分詞節も、理由を説明しているわけではなく、単なる同時性を表すものとして読むべきである。
結局放火の動機そのものははっきりしないわけだが、クレルとロベールの相似性についてあまりに思い煩いすぎた結果、夫人の中で娼館の経営への関心が薄れるばかりか人生そのものへの倦怠感が次第に募ってくるいきさつについてはすでに書かれているし(注34)、それ以上に、『ブレストの乱暴者』は自分が書いた文章について作者がめぐらす反省を共有することをすでにたびたび読者に求めてきたのだから、ことこの作品に限っては、「主人公(クレル)が立ち去って小説が終わるから」という、身も蓋もない破格の答も例外的に許されそうな気がする。


(1)ジャン・ジュネ『ブレストの乱暴者』(澁澤龍彦訳、河出文庫、2002年)159-163頁。引用に際して、「漕役刑囚たちは、今はもういない。おそらく、ふたたび復活することはないだろう。彼らには後継者がいなかった」を「漕役刑囚たちは死んでいる。たぶん希望で、息も絶え絶えになって。彼らは交替させてもらえなかったのだ」に、「それが帆のふくらみ、木造船体のカーヴ、船首像の誇らしげな胸、漕役刑囚の溜息、海戦の華々しさなどと相対応していた時代は、もはや過ぎ去ったのである」を「それはもはや帆のふくらみ、木造船体のカーヴ、船首像の誇らしげな胸、漕役刑囚の溜息、海戦の華々しさなどに対応してはいない」に、「恐怖が彼を襲い、彼は恐怖にとらえられた」を「恐怖が彼を領したので、彼は恐怖にすがりついた」に、それぞれ改めた。なお、文中の「ルクーヴランス」とは、本書394頁の訳注によれば、ブレストの町の右岸地区であり、「とくに水夫や港湾労働者たちの居住地となっている」由である。
(2)同書341-344頁。引用に際して、原文中の傍点が付してある箇所(「自発的に」)を太字の表記に改めた。また、「自分が力をつくして禁治産者としてしまうことができるような人物は、一種の瀆聖行為でも犯さない限り」を「一種の瀆聖行為でも犯さない限り何人たりとも、といって彼自身は持てる力の限りを尽くしてそれを禁じる術を心得ているはずであるが」に、「ジルの協力によって行なったあらゆる盗みの利益を象徴する」を「ジルの協力によって行なったあらゆる盗みの金銭によって表される」に改めたほか、« nous »の訳語として「作者」と「わたしたち」が混在していたのを、「わたしたち」に統一した。
(3)同書205頁。
(4)同書213頁。
(5)同書306頁。
(6)同書131、199-200、340、374-375頁。
(7)同書293-294頁。
(8)同書302、337頁。
(9)同書166-167頁。
(10)Jean Genet, Querelle de Brest, in Œuvres complètes, t. III, Gallimard, 1953, p.196.
(11)同様の見解を、例えばエドマンド・ホワイトも『ジュネ伝(上)』(鵜飼哲・根岸徹郎・荒木敦訳、河出書房新社、2003年)の第11章において、ほかならぬ『ブレストの乱暴者』について述べている(349-350頁)。
(12)Jean Genet, Querelle de Brest, op. cit., p.218.
(13)Ibid., p.246.
(14)Ibid., p.247.
(15)Ibid., p.248.
(16)Ibid., p.249.
(17)Ibid., p.277.
(18)Ibid., p.290.
(19)Ibid., p.296.
(20)Ibid., p.325.
(21)Ibid., p.328.
(22)Ibid.
(23)ジャン・ジュネ『ブレストの乱暴者』(前掲書)320-323頁。ただし、少なくともこの一件は本当の盗みではなく、実はクレルが無邪気なジルを騙して夜の空き家を舞台に一芝居打ち、さも危険を冒して金を盗み出したかのように信じさせたにすぎない。「全ての盗み」と書いてある以上、この安全な予行演習に続いて、その後何度か二人で本格的な窃盗を実行したと考えるのが自然であろう。
(24)Jean Genet, Querelle de Brest, op. cit., p.334.
(25)Ibid., p.335.
(26)ジャン・ジュネ『ブレストの乱暴者』(前掲書)297-301頁。
(27)Jean Genet, Querelle de Brest, op. cit., p.335.
(28)Ibid., p.342.
(29)Ibid., p.347.
(30)Ibid., p.348.
(31)Ibid., p.349.
(32)ジャン・ジュネ『ブレストの乱暴者』(前掲書)297-298頁。
(33)Jean Genet, Querelle de Brest, op. cit., p.350.
(34)ジャン・ジュネ『ブレストの乱暴者』(前掲書)307-308頁。
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