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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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古井由吉訳『ドゥイノの悲歌』への疑問2 

以前、私は古井由吉によるリルケの『ドゥイノの悲歌』の翻訳について疑義を呈し、あまりに古井自身の小説世界に引き寄せすぎた訳文になっているきらいがありはしないかと問うた(古井由吉訳『ドゥイノの悲歌』への疑問)。
順番が前後するようで気が引けるが、あのとき検討した第九歌ほどではないにせよ、第五歌の訳文にもやはり、原文との乖離を問いただしたくなるくだりが存在するので、私なりの疑問点をまとめておくことにする。まずはドイツ語の原文を引用しておくべきだろう。

Du, der mit dem Aufschlag,
wie nur Früchte ihn kennen, unreif,
täglich hundertmal abfällt vom Baum der gemeinsam
erbauten Bewegung (der, rascher als Wasser, in wenig
Minuten Lenz, Sommer und Herbst hat) ―
abfällt und anprallt ans Grab:
manchmal, in halber Pause, will dir ein liebes
Antlitz entstehn hinüber zu deiner selten
zärtlichen Mutter; doch an deinen Körper verliert sich,
der es flächig verbraucht, das schüchtern
kaum versuchte Gesicht...(注1)

これを私なりに訳してみると、以下のような日本語になった。なるべくことさらな文飾を加えないことを方針としたが、直訳では対応しきれなかったところもある。なお、ここで呼びかけられているのは、大道藝人の一座の中にいる、軽業師の少年である。

おまえ、どさりと叩きつけられるときの、
どんな心地かはただ果実らだけが知っている衝撃とともに、熟さぬまま、
日毎百度も樹から落下する者よ
皆の手で建設される運動という名の樹から(その樹は、水よりも素早く、ほんの
数分の間に春、夏そして秋を持つ)―
落下したかと思うと墓にあたって跳ね返る者よ。
ときとして、半端な休止の中で、おまえにもちょっとした愛嬌のある
かんばせが彼方に思いをはせるべく立ち現われようとする
おまえの稀にしか優しくない母を目指して。しかしおまえの肉体へと消え失せてしまう、
肉体がそれを表皮で消尽してしまうからだ、そのおずおずと
かろうじて試みられたばかりの顔つきは…

手塚富雄は、ここを次のように訳している。

おお、お前、ただ木の実にしか見られぬような
落ちかたで、未熟のまま、
日に百度、皆が組んで育てた軽業(かるわざ)の樹(き)から
落ちくるお前よ(噴水よりもなお迅(はや)く、
みるみるうちに春、夏、秋を現ずるその樹)、
そこからお前は落ちて墓にあたって跳(は)ねかえる、
ときとして一息(ひといき)するにも足りぬわずかのひまに、
やわらぎの色はお前の顔にほのめいて、めったにやさしさを見せぬかなたの母へと
眼はうつる。けれどおずおずと試みられたその表情は、
すぐにお前の肢体(したい)へあさあさとひろがって
失(う)せてゆく……(注2)

さて、古井由吉の訳文は、『詩への小路』によればこうである。本全体の中では第20章に相当する、「ドゥイノ・エレギー訳文 5」からの引用だ。

 君はまた、落ちる果実だけが知っているような音を響かせて、熟す間もなく、日に百度も、共同の動きの組立てから成る樹木の、噴水よりも速く、見る間に春となり夏となり秋となるその上から落ちて、跳ねて墓石にあたる。時には半呼吸ほどの静止の中から、愛らしい表情が君の顔に現われかけ、めったに優しくはしてくれぬ母親のほうを眺めやるが、おずおずと試みたその顔つきも、まだ皮膚のうちに君の肉体に喰われて、失われてしまう。(注3)

一読して、全体的な印象はそれほど上の二つと変わりないが、それでも細部に関しては違いが気になる。まず、« anprallen an »は何かにぶつかった結果跳ね返ることを意味するようなので、« anprallt ans Grab »も当然、手塚のように「墓にあたって跳ねかえる」と訳すのが正しいはずだし、それならば事実、落下→墓石→跳ね返り、というきれいな順序を思い描くことができる。対して、古井訳の「跳ねて墓石にあたる」では、落下→跳ね返り→墓石、という順序になるが、これでは落下と跳ね返りとを隔てる間隙を埋めるため、言及されていないだけで実は地面との接触が両者の間に介在しているという苦しい想定が避けがたくなる。情景を思い浮かべる上での障害となる、このような不自然さは、とりもなおさず翻訳自体の正確さに対して疑いを抱かしめる一因でありえよう。そしてそれはまた、結局この部分を詩としてどう読むかという点での曖昧さにもつながるはずだ。手塚はこの詩句に訳注を付して、「死の危険に向って落ち、跳ねかえって、とにかく芸を続ける」と書いており(注4)、それを信じるなら、つまりは日々死の危険と隣り合わせで練習を続ける、けなげな若い軽業師の悲哀を読みとるべきであろうが、古井訳ではそのような文脈はうかがえないどころか、ややもすると重点は死(墓石)をどうあがいても所詮逃れられない不吉な行き止まりとして位置づけることにこそ置かれているかのようにも思える。大体、「墓にあたって跳ねかえる」なら、見た瞬間に寓意的な表現だろうと見当がつくが―現実の墓は、上から降ってきた人間一人を跳ね返すほど弾力性に富んではいない―、「跳ねて墓石にあたる」では、なまじ散文的な写実性を匂わせているだけに、毎度落下するたびに墓石が近くにあるとはどういうことか、ひょっとして何かの冗談なのか、しかしこんな硬いものに勢いよくぶつかったら初回で重傷を負うかあっけなく命を落とすかして一巻の終わりではないか、等々、あらずもがなの的外れな疑問を呼び寄せてしまいそうである(少なくとも私が、手塚訳をほぼ忘れた状態で古井訳を読んだときはそうだった)。
もう一つ、この引用文の範囲で古井訳の問題点だと感じられるのは、« der es flächig verbraucht »が「まだ皮膚のうちに君の肉体に喰われて」となっていることである。「まだ皮膚のうちに」と訳せばたしかに拙訳の「表皮で」よりも字数が多い分安定感が増すのだが、しかし「まだ……うちに」というのは、まるで何人のどんな感情の動きについても、まず肉体の反応に端を発し、ついで皮膚を経て心の奥底に進む、という順序を暗黙の前提としているようで違和感がある。この、ウィリアム・ジェームズ流の心理学を思わせる順序がここで成り立つこと自体は否定しにくいにせよ、リルケにとってそれはあくまでも例外的な、だからこそ常識に抗うという意味で詩的な追究に値する題材なのであって、その点が不明確であってはならない。そう考えると、手塚訳の「すぐにお前の肢体(したい)へあさあさとひろがって」は、少々崩しすぎた意訳のようにも思えるが、作者の思考に忠実ではあるのだろう。特に、訳注の部を参照し、そこに「母に甘えたくなって笑(え)みかけるが、芸をするための身体の筋肉的緊張のため、それが心の奥に結ぶ暇がなく、身体の表面部に呑(の)みこまれてしまうのである」(注5)と書いてあるのを読むと、ますますそう思える。なるほど、この軽業師の少年は結局現世に生きる人間の運命を象徴しており、そのかぎり彼の身に起きることには普遍的な意義を認めるべきだという見方にも一理あるかもしれないが、引用文のすぐあとに続く詩句では、親方に急きたてられて引き続き練習に励む彼が、心の苦悩よりも先に足の裏に痛みを覚えるという似通った描写があり、訳注における手塚はこれを評して、「肉体的反応のほうが、心の苦しみより先に来ること。このくだりは、リルケの詩に現われた最も人間的な箇所のひとつ」(注6)とまで断定している。そのような高い評価が可能であるためには、心理に対する肉体の先行性ないし優位というこの事態が、たとえ現世においてはありふれていようとも本来的に正しい人間のあり方ではない(日々の生活に追われ、あくせくと働いて心身を疲弊させたあげくの倒錯的な状態である)、と―少なくともリルケにとって―感じられることが必要なのではないか。

同じ第五歌の中では、藝人一座の少女に視点を移した次のくだりも、古井訳の是非を考える上で無視できない。

Du dann, Liebliche,
du, von den reizendsten Freuden
stumm Übersprungne. Vielleicht sind
deine Fransen glücklich für dich ―,
oder über den jungen
prallen Brüsten die grüne metallene Seide
fühlt sich unendlich verwöhnt und entbehrt nichts.
Du,
immerfort anders auf alle des Gleichgewichts schwankende Waagen
hingelegte Marktfrucht des Gleichmuts,
öffentlich unter den Schultern.(注7)

これも、私の手で直訳してみる。いや、正確には、先の引用文もすでにそうだったように、今度も完全な直訳は難しいので、若干の意訳が混じるのはやむをえない。

それから君だ、可愛らしい娘よ、
君、こよなく魅力的な諸々の喜びに
黙ったまま跳び越えられた者よ。ことによると
君の房飾りは君の代わりに幸福であるのだ―、
あるいは若々しい
ふくらんだ両の乳房の上では緑色の金属的な絹布こそが
無限に甘やかされていると感じて何不自由のない立場。
君、
いつも別様にありとあらゆる揺れ動く平衡の秤の上に
横たえられる無感動の市場の果実よ、
見世物のように肩また肩から見下ろされて。

続いて、手塚富雄の訳文を読んでみよう。

つぎにはお前、いとしい少女よ、
あまやかな数々の喜びに
無言のまま飛び越され取り残されたお前よ、たぶん
お前の裾(すそ)の縁(へり)飾(かざ)りはお前の代りに仕合(しあわ)せなのだ、
またはお前のうら若い
ふくよかな乳房(ちぶさ)をおおう金属的にひかる緑の絹地(きぬじ)は、
かぎりないおのが贅沢(ぜいたく)を誇って満ち足りているのだろう。
お前、
千様万態(せんようばんたい)の危い平衡(へいこう)に揺れやまぬ秤(はかり)の上に、たえず違ったかたちでのせられて
さりげないうわべの色を商(あきな)いの料(しろ)とする市場の果実、
肩と肩とのあいだに置かれたさらしもの。(注8)

原文と比べるとやや饒舌で言葉数が多く、かつ情熱的な勢いが感じられるのはいつもどおりである。拙訳ではごくあっさり「無感動の」で済ませてしまった« des Gleichmuts »に対する訳として、「さりげないうわべの色を商(あきな)いの料(しろ)とする」というのがはたして適切かどうかも、私には判断しかねる。
ただそれでも、以下の古井訳と読み比べれば、原文における論理の推移と、そこに反映するリルケの思考の歩みへの肉迫という点で、私としてはやはり手塚訳に味方したくなる。

 お次は君か、可憐な娘、心の底までときめかす歓びのどれにも、黙って頭の上を飛び越されてしまった様子の娘よ、君にとってさぞや、衣裳の房飾りは、お気に召したことだろう。あるいは若い張りきった胸にぴったりついた緑の光沢の絹は、限りなく甘やかされた感触を伝えて、何ひとつ足らぬところはない。君は、平衡を求めて揺れる秤の、あらゆる秤の上にそのつど違った置き方で載せられる市場の果物、無感動の果実、のぞきこむ客たちの肩の下にあって、公衆の面前にさらされ。(注9)

結構な難所にもかかわらず、いわゆるこなれた、日本語らしい訳文という点で、これがほとんど満点に近い立派な成果であることを私は否定しない、いや否定できない。一つ一つの言葉の選択、それらをつなげてゆくときの間合いや呼吸、なかんずく語句の補い方や繰り返し方の手つき、いずれも実に洗練されている(なおまた、漢字とひらがなの配分もさりげないようでいて絶妙であり、一種生理的な快感が味わえる)。しかし、この自然さ、読みやすさが何を代償にして得られたものか、文法や思想の面で、どの程度元の詩に忠実なのかは、問うてみる余地がある。
というのも、« sind/deine Fransen glücklich für dich »の« für »を「……にとって」と解した結果、« glücklich für dich »を「君にとって幸福である」と訳さざるをえなくなり、それでは意味をなさないので「幸福な」とか「幸運な」以外の« glücklich »の訳語を探し求めた末に「お気に召す」という解決法を思いついたが、しかしなにぶんにも原文は直説法現在である以上これをそのまま採用すると「お気に召すのである」となって不恰好であることに気づき、そこで苦肉の策として時制をあたかも過去形であるかのように改変するとともに推量表現(「だろう」)の添加によって断定的な調子を弱めることにした―という試行錯誤を経てようやく、これだけ見ればいかにも練達の名訳という印象を与える、「君にとってさぞや、衣裳の房飾りは、お気に召したことだろう」という訳文が生まれたのではないか、私にはそう思えてならないからだ。しかし、そもそも拙訳や手塚訳のように« für »を「……の代わりに」として読むなら、それだけでもう、このような無理のある工夫には訴えなくても済む。なるほど、« glücklich »という形容詞自体には、「適切な」とか「みごとな」とかの意味もあるけれども、忘れてはならないのはこれが悲歌の中の詩句だということであり、そして諸々の喜びはこの少女の頭上を跳び越していったとはっきり書いてあるのだから、結局彼女自身は幸福ではないはずだし、したがってそう読めるように訳さないとおかしいのである。
このように、古井訳においては、少女自身は不幸ないし薄幸なのにその身を包むけばけばしい衣装は彼女の「代わりに(für)」幸福である、という対照的な関係が成り立たない。そのためかどうか、続く「あるいは」以下においても、« fühlt sich unendlich verwöhnt »を「限りなく甘やかされた感触を伝えて」と訳してしまい、意味が原文とは正反対に転じるという結果を招いている。そもそも辞書を素直に信じるかぎり、« sich fühlen »なる再帰動詞は、あくまでも主語、この場合は「絹布(Seide)」という物の自覚(絹布が自身をどう感じるか)を意味するのであって、それを身につけた少女の主観を「伝える」わけではないはずだし、仮に甘やかされ、自分の境遇に満足しているのが彼女自身だとすれば、公衆の面前でさらしものにされる「市場の果実」云々という後続の詩句にうまくつながらなくなる。このあたり、「見物の前で着ている少女の服装は、安っぽいものであるが、それでもこのあわれな少女よりは幸福げであるとして、対照的に少女のあわれさを出すのである。次の行も同じ発想で、安っぽく金属的に光る絹地(きぬじ)のほうが、若い乳房(ちぶさ)を覆っていることや、おのが色彩を誇って、何不足ないさまだというのである」(注10)という、手塚の周到な訳注に目を通すまでもなく、この少女が―しがない藝人一座の中の他の顔ぶれと同じく彼女もまた、何はさておき悲歌の登場人物の一人として―幸薄く哀れな境遇にいるという、最も基礎的な前提を混濁せしめ、その結果一連の詩句の首尾一貫した了解も難しくしてしまう古井の翻訳が、問題を孕んでいることは明らかだ。

なにも無条件で一から十まで手塚の見解に従うべきだとは思わないが、総じて古井由吉の訳した『ドゥイノの悲歌』ではこの作品の悲歌(Elegien)たるゆえん、すなわち定めなき人間の生のみじめさを嘆くという悲劇的な基調が見失われがちな点は、どうしても読んでいて引っかかる。一言でまとめるなら、この翻訳からは葛藤が脱け落ちている。それだから、元のリルケの詩と比べて静謐すぎ、超俗的でありすぎるのだ。いつ果てるとも知れぬ、ほとんど淫らなまでに執拗な衰弱や弛緩への耽溺が、これ見よがしの大仰でわかりやすい喜怒哀楽の排斥とあいまって、古井文学に稀有の凄味をもたらしてきた事情は百も承知ながら、リルケのように個性的な詩人の代表作を日本語に移し替える場合にまでその流儀を押し通そうとするのは、やはり得策だったとは思えない。そこかしこに生じたずれ、それを通じて垣間見えるのは、ふてぶてしいほどに落ち着き払って最初から死の中に居座り、悲嘆にも歓喜にも動かされることを肯んじない、古井という作家の偏執である(注11)。


(1)Rainer Maria Rilke, Duineser Elegien, Suhrkamp Verlag, 1975, p.34.
(2)リルケ『ドゥイノの悲歌』(手塚富雄訳、岩波文庫、2010年改版第1刷)42-43頁。
(3)古井由吉『詩への小路』(書肆山田、2005年)201-202頁。
(4)リルケ『ドゥイノの悲歌』(前掲書)140頁。
(5)同上。
(6)同上。
(7)Rainer Maria Rilke, Duineser Elegien, op. cit., p.35.
(8)リルケ『ドゥイノの悲歌』(前掲書)43-44頁。
(9)古井由吉『詩への小路』(前掲書)203頁。
(10)リルケ『ドゥイノの悲歌』(前掲書)141頁。
(11)その最たる例が、あるいは第十の悲歌に描かれた卑俗な街頭風景を彩る、それ自体としては苦い―ただし、目先の変わった気晴らしを伴うかぎりで甘いという―ビールの貼り紙広告の中の、« Todlos »という銘柄らしい文句が、手塚の訳した『ドゥイノの悲歌』(前掲書)79頁では「不死」なのに、『詩への小路』(前掲書)244頁を参照すると、古井訳では反対に「死の定め」となっていることではないか。少なくとも私の感覚では、ドイツ語の字面として« Todlos »が第一義的に何であるかと問われれば「不死」と答えるしかなく、それ以外の選択肢は思いつかない。ただし、不死といってもこの場合は、「日常的な立場で、死を忘れさせ死という契機をかくしてしまうのである」と注釈する手塚も認めるとおり―『ドゥイノの悲歌』(前掲書)199頁―、畢竟酔い心地の中で我々の目を死(Tod)から逸らさせ、死に思いを致すことを妨げる空疎な合言葉にすぎず、このあたりの詩句を通じてリルケ自身はそのような(死を見つめない)生のごまかし、非真実性を咎めていると考えられる。とすれば、現に手塚が紹介するブレヒト(F. J. Brecht)などは、単独の名詞としての« Los »が「運命」を意味することに着目して、この« Todlos »は一面酔い痴れる人の目にはいかにも「不死」だが他面では「死の運命」でもある、という皮肉な多層性を読みとっているそうだから、あながち古井訳が間違いとも限らない。しかし「死の定め」は« Todeslos »にこそふさわしい訳語のようでもあるし、皮肉が成立しえない点で平板なのは否めまい。
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category: 古井由吉

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