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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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夏コミまでに買った同人誌のまとめ 

苦手な果物は基本的にないが、苺だけは例外である。好きな人には申し訳ないと思いつつも、私は苺に心を許す気になれない。例えるなら、自分の可憐さを熟知した上で素知らぬ顔を装い、あえて純朴な田舎娘を演じている―そうすれば一番魅力的に見えるからという理由で―少女のような、油断のならぬ狡猾さを感じるのだ。
サークル「たくみな無知」がCOMIC1☆9(5月2日)に合わせて発行した『ニセコイ』の宮本るり本『メガネのよしみR』を読みながら、以前読んだ同じサークルの小野寺小咲本と比べて何が違うのかを考えているうち、ふとそのことに思い当たった。つまり、小野寺は苺なのではないか。対して、普段は沈着冷静で思慮深いはずのるりが、別に弱みを握られて逆らえないというわけでもないのに、ただただ流されるままに舞子集との肉体関係にずるずるとはまってゆくこの本は、それだけにかえって、人目を惹く華やかな美貌や媚態はおろか、当人たちの意識や自覚とも別の深い次元で男女を結びつける、謎めいた暗い力を把握しえている。もちろん、卑劣な挙動(盗撮)とは裏腹にひどく一途な舞子の心情にほだされたのだろうとか、きっと体の相性がよいので離れられないのだろうとかのもっともらしい理屈はすぐに思いつくが、それよりも、漫画の生命とも呼ぶべきコマ割りや構図に関する緻密この上ない具体的な工夫の積み重ねそれ自体の中から、性行為を大いなる神秘として顕現せしめるという結果が自ずと生じていることが貴重なのではないか。ともすれば女の子の体型を胴長に描きがちな傾向も、るりの場合だと幸い違和感がない。特に、後ろから彼女にのしかかった舞子が、得意気に「るりちゃんの/ことなら/排卵周期だって…」「なんだって/知ってるから♡」と宣言した直後に、胴の上に胴を長々と折り重ねて密着したまま、顔の表情が隠れて見えないばかりか、よく見ると左手を彼女の胸に、右手をお腹に巻きつけた状態で射精するコマは、変態じみた台詞とあいまって、逃げ場のない立場に追いつめられた女性のか弱さの表現として成功している。もう幼くはないがさりとて一人前の大人と呼ばれるにはまだ早い、中学生くらいの少女のどっちつかずの肢体を、隅々まで神経の行き届いた精緻な絵柄で描いてきたこのサークルの美点を最大に引き出してくれるのは、相思相愛の恋人同士の和やかな情交よりも、こういう、ちょっと威圧的な雰囲気の中で強引に迫られるときの、ほのかな恐怖や不安を伴う状況であるようだ。
COMIC1☆9の会場で買った本の中で興味深かったのは、サークル「不可不可」(関谷あさみ)の『わたしたちの新田さん』で、珍しく二次創作、それもデビューを間近に控えた時期のデレマスの新田美波という、女子大生ものである。ラクロスサークルの飲み会のさなか、下心のある先輩の自宅に連れ込まれた彼女がひたすら犯されるというだけの単純な内容ではあるのだが、「なにゆえ新田さんはあれほど性的なのか」という問題に対する一種の謎解きとして読むこともできるかもしれない。もっともそうなると、わけもわからず混乱している間に無理やり手籠めにされてしまったこのときの理不尽な体験を彼女なりに合理化・正当化したがっているから、というなんとも気の毒な答が避けがたくなる。そこで今度は、新田さんの性格は、実はジュースしか飲んでいないのに、未成年飲酒が露見するとまずいという口実でしきりと彼女を引き留めたがる先輩にそのことを告げる勇気さえなかったこの頃と比べて本質的には変わっておらず、彼女がふしだらに見えるのは結局見る人の側の思い込みにすぎないと考えてみると、それはそれで、現在の彼女の言動について卑猥だなんだと騒ぐのが申し訳なくなってくるのである。どちらの想定もそれなりに正しそうだが、ひとしきり全裸で弄ばれた後、先輩の要望どおり、用意されていたユニフォームを大人しく身に着けた上で再び犯される姿を見ていると、この従順さを説明できるのは後者よりも前者だろうと思えてくる(着用の過程そのものは省略されているが、まさか彼の手で着せられたとも思えない)。同じサークルの一次創作に出てくるジュニアアイドルたちが年の割にしっかりしているのと比べて、なんという違いだろう。このように後味の悪さがあるのだが、エロ同人誌としての完成度はもとより申し分がなく、生々しい、赤黒い男根をしつこく女体にこすりつけるとか、男のあえぐ様子が雄辯であるとかのおなじみの描写に加えて、そこはかとなく岡田コウ風の瞳の崩し方など、新しい試みらしきものも随所に見つかるのが面白い。あとは、サークル「70年式悠久機関」(おはぎさん)の『ピクチュリア』や、サークル「G-Power!」(SASAYUKi)の『アンナと魔女の触手遊戯』(注1)、それに去年の夏コミで出たサークル「秘密結社うさぎ」(だんちょ)の『CUSTOM LOVECATs』なども秀逸だった。

COMITIA112(5月5日)では、「Appetite:」(べにたま)や「NANIMOSHINAI」(笹森トモエ)などのサークルの画集もよかったが、最も感銘を受けたのはサークル「骨と肉」(にくまん子)の『よよの渦』だった。美大生のしろりんこと矢白凛は、予備校以来の腐れ縁で同じアトリエを共有するよよ(世々子)から「好きな男性ができた」と告げられ、呆気にとられて大笑いする。それもそのはず、彼から見れば、がさつで大食いのよよはおよそ女らしさとは縁がなく、単に品のない冗談もあけすけに言い合える気の置けない親友でしかなかったからだ。それでもよよよりは経験豊富な指南役として、請われるままになにくれと助言を与えて彼女の恋を後押ししてやるしろりんだったが、やがて、それまで交際していた女性から別れ話を切り出された自分のために本気で悲しんで泣いてくれるよよの優しさを再認識したり、待ち合わせ場所に恋人が姿を現すや否や思いがけぬ可憐な笑顔を見せてはしゃぐ彼女につい声をかけそびれたりといった体験を重ねる中で、その心境は次第に変化していく。自分はよよのことが好きなのではないか、よよにふさわしい恋人の地位を、いまからでも自分が手に入れることはできないのか―鬱積する疑問は、とうとう彼女が「おとまりしてえっちした」その翌日、とめどないよよへの罵倒となって爆発する。傷心を糊塗するための心無い暴言の数々に対して、怒らず抗わず、ことさら穏やかな口調でよよはあることを明かす。それは、そもそも彼女もまた、しろりんへの無邪気な好意を募らせるあまりに恋愛とはどんなものか知りたくなったのだ、という告白だった。

「しろりんが/言ってたからだよ」
〔中略〕
「しろりん彼女の話/ばっかりでさあ/ずっと楽しそう/だったんだもん」
「だから私も/知りたかったの」
「そしたら/しろりんの気持ち」「もっともっと/わかるのかなって」

意外な真相を聞かされて固まり、絶句するしろりんを一人残し、よよは最後まで彼を責めるようなことは一言も口にしないで、おびただしい涙を流しながらアトリエを出ていく。その後は、まだ二人が仲良しだった頃(たぶん、昨年だろう)のやりとりが、「もっと前の夏」と題された章においてなお数頁にわたって回想されるものの、「4月」の章から始まって「5月」・「5月の暑い頃」・「6月のさいしょ」・「夏の前」と、現在形で進んできた筋書は事実上ここまでで終わっている。人によっては、さすがに救いがなさすぎるのでもう一度転機が欲しいという意見もあるかもしれないが、まるでアンドレ・ジッドか西尾維新の小説のごとく読者の心を引き裂いてくれるこの鮮やかな手腕には、まずは素直に感心するほかない。避けがたい力に押されるがまま悲劇的な結末に向かって整然と進む、綿密に計算された歩みは、同時に青春そのもののような痛みを結晶化させるための努力の跡をもとどめており、その潔癖にして非情な感傷性には、例えばバッハの「三台のチェンバロのための協奏曲第2番ハ長調BWV1064」の終楽章を思わせるものさえある。
絵柄は全体的にもう少し丁寧でもよいと思うが(注2)、危なげはないし、感情の乱れの表現としてときに子供の落書きのような雑然たる様式に訴えたり、当初は人間とも思えぬちんちくりんな容姿に描いていたよよを、しろりんが彼女に対する見方を改めるにつれてだんだん年頃の若い女性らしい見た目に変化させたりと―とりわけ、恋人の家に泊まった翌日の、静かな自信をまとって神秘的に微笑む彼女の立ち姿は忘れがたい―、文脈に応じた多様性がある。おおかた作者自身も美大の出身なのだろう。それに、工夫が凝らされているのは絵だけではない。
終章に相当する「もっと前の夏」を締めくくる頁を見ると、白紙に近い紙面の中に―ただし、完全な白地ではなく、頁の輪郭よりもひとまわり小さな長方形の枠が設けられている。たった一コマしか存在しないとはいえ、この頁はまだ本篇の一部なのだ―、「よよは僕の」という縦書きの文句が認められるが、ついにまともな文章として完結することはないまま、殴り書きのようにぐしゃぐしゃと引かれた痛々しい線が上からこれを消し去ろうとしている。むろん、この文句は、直前の頁でしろりんが呟いていた「たしかになあ」「こんなことも/話せる人なんて俺/よよくらいだもん」「よよは」という一連の台詞を引き継いでいるに違いない。ただし、すでにこの(約一年前に発せられたと思しき)台詞からも明らかなとおり、しろりんはよよの前で話すときは一貫して「俺」という一人称を使ってきた以上、「よよは僕の」という文句は実際に発言されたものではないはずだ。とすると、この文句は一体どう読むべきなのか。ここでは、ともすれば登場人物の内面に侵入してこようとする無遠慮な作者による観察と、あくまでも視覚的な性格の対象としてそれを懸命に食い止めようとするしろりんとの攻防が演じられてきた場である、外形(顔の表情や、実際に口に出された台詞)という防衛線がついに突破されるとともに、絵の名に値するものは何一つ見当たらない広漠たるコマがそのまま、一切の虚飾を剥ぎ落とされた彼の心の内と一致してしまう(もっとも、「僕」の一字がひときわ念入りに塗りつぶされ、見づらくなっていることから察するに、熾烈な攻防はなおも続いているらしい)。
しかしながら、そこを舞台として響き渡る「よよは僕の」は、無残なまでの赤裸々さの中で震えながらも、せめて彼が自分を慰めるべく寄りかかることができるような、純一でわかりやすい感慨(本音)へと成長してくれることさえ期待できない。そのことは、この文句に続くべき後半を補って完全な文章を作ろうと試みるだけで誰にでも確かめられる。「よよは僕の好きな人だ」ではどうか。いや、そうであってはならない。なぜなら、よよに対する漠然たる(しかし決して些少ではない)好意を感じはしてもはっきりと自覚していなかった当時の彼には、彼女が自分にとっていかなる存在なのかをことさら定義することなど思いもよらなかったのだし、また現在の彼には、ひどい暴言を吐いた以上、このような身勝手な文章をぬけぬけと口にする資格がないからだ。いわんや、「よよは僕の恋人だ」ではありえない。なぜなら、当時の彼は、わざわざこんな宣言をするまでもなく、他の誰よりも彼女の恋人に近い存在であるという幸福を(それが幸福であるとは意識しないまま)享受していたのだし、また現在の彼は、いくらこの文章を真実にしたいと願おうとも、彼女がもう他人のものであって自分のものではないという厳然たる事実によってただちに反駁される立場にあるからだ。そしてまさに、この二つの「ない」、不可能性の混じった禁止と禁止の混じった不可能性という二重の「ない」こそが、書かれ、そして消されようとしている「よよは僕の」という五文字が究極的に体現している当のものだと判定すべきではないか。あえて「(絵を)描かない」、さらには「(書いた文字を)見せ消ちにする」、という、この消去法による表現の冴えは侮れない。
コミティアで買った本からもう一冊選ぶなら、サークル「ミルメークオレンジ」(水あさと)の『ふくしょくじょし』である。憧れの生徒会長・四谷先輩の正体が着用済みの服を食べる「ゾンビ」であることを知った少女上原は、自身の感染(ゾンビ化)を回避しつつ会長の食欲を満たすため、毎日彼女にパンツを献上することに決める。これだけでもすばらしく気が狂った設定なのだが、大人しく渡されたものをそのまま食せばよさそうなものを、ご丁寧にもちゃんと料理した上でいっぱしの食通ばりにあれこれと論評する様が延々4頁にわたって続くので、腹の皮がよじれる。

「まずクロッチの/前部分の縫目に包丁を/強く入れ、切断」
「活〆というもので/ここにパンツの/神経が集中してるので/ここを切断するとパンツを/生きたまま調理することができ/鮮度の持ちが/だいぶ良くなるんだ」

「パンツの神経? パンツを生きたまま?」などと思ってはいけない。そんな読者の疑問などどこ吹く風とばかりに突き進み、楽しげにパンツを三枚におろした四谷は引き続きみごとな腕前を発揮し、かたい縫目はぶっかけうどんに、脂の少ない「前肉」はかき揚げに、「後肉」と「クロッチ」は一口大に切って焼き肉に、という具合に、それぞれの持ち味を活かしながら本格的な料理を三品も作ってしまうからだ。終始上機嫌の彼女が語り続ける、大真面目のパンツ料理談義、そして味の感想は、まさしく抱腹絶倒である。どういうわけか私はもともと料理の手順を読むのが楽しく、特に語尾が「です・ます」の丁寧語の文体だと背筋にぞくぞくするような快感が走る。そのせいもあるかもしれないが、作者があとがきで「少し課題が残る結果となった気がします」と書いているのとは裏腹に、このサークルの本の中では、これがいままでで一番笑えたし、出色の出来栄えだと感じた。四谷が丁寧語を話してくれればなおよかったろうが、彼女は上原の先輩で立場も上(生徒会長)なのだから、こればかりは仕方がない。

第十二回博麗神社例大祭(5月10日)では、「ドウガネブイブイ」や「秋風アスパラガス」や「といぼっくす+くぢらろじっく」に加えて総集編を出した「はんなま」など、常連のサークルの18禁本が相変わらずすばらしい(注3)。面白いのは伊東ライフで、本命の『カノジョになったこいしちゃん』もよかったが、それよりもおまけ本(『ぬえちゃんに土下座してヤラせてもらう本』)のぬえが、これまで描いてこなかったのが不思議なくらい生彩に富んでいたのだ。どうしてなのか考えてみると、射命丸に八雲紫ににとりにお空に藍さまにさとり、それに今度のこいしらとは違って、欲情する男をほどほどに蔑み、ほどほどに嫌がり、ほどほどの抵抗で応えてくれるということが、どうやら主たる理由のようだ。ほどほど、とはつまり、平和なじゃれあいの範囲を逸脱して洒落にならない域(例えば、強姦罪が成立しかねない域)にまで至るようなことはない、という意味である。そして、『いいなリグル2』あたりのリグルとか、パチュリーとか、霊夢らが示してきたこの系譜に、ぬえもまた属しているのだ。なるほど、世間が伊東ライフに期待しているのは、どちらかといえば、男をやすやすと手玉に取り、最初から最後までひたすら甘やかしてくれる前者の組かもしれないが、あるときは釣り目で男を睨みつけ、あるときは頬を真っ赤に染めて恥じらい、しきりと憎まれ口を叩きながらも結局はいつも押し切られて体を許してしまう、後者の組にもなかなかに捨てがたい魅力がある(ただし『好き好き高雄さん』の高雄まで行くと、いささか性格のきつさが度を越していると思う)。わけてもぬえは、実年齢はともかく見る者に与える印象としては年上でも年下でもなく、孤高の立場を標榜しつつも冷酷さに徹しきれず、憎からず思っている命蓮寺の面々にさえいまいちなじめず、おまけに世を忍ぶかのような黒づくめの恰好をしているくせに妙に肉感的な太ももの風情を隠しきれていないなど、なにかにつけて中途半端なところがあり(注4)、だからこそいじめ甲斐というか、困らせ甲斐があるのだ。「もー怒った!!」「絶対ヤらせて/やんない!!!」とか、「んも~~~~~/デキちゃったら/どうすんのよアホぉ…」とか、その他この類の台詞を伊東ライフの同人誌の中で口にする姿がこれほど様になる東方の少女が、はたしてぬえ以外にもいるかどうか(これに比べれば、リグルは気弱すぎるし、パチュリーや霊夢は逆に高飛車すぎる)。
一般向けの本では、偶然の一致だろうが、やや陰鬱な、または重苦しい結末を迎えたり、不条理な破滅を描いたりした作品が目立つ。例えば、サークル「ヘルメットが直せません」(大出リコ)の『某季某日、博麗の巫女が死んだ。』では、霖之助と添い遂げるために妖怪(魔法使い)になった魔理沙を退治しようとして逆に打ち負かされ、重傷を負った霊夢が、幸い落命こそ免れたものの博麗の巫女を解任されてしまうし、サークル「にくたまそば」(みつもとじょうじ)の『小鈴とおじさま』では、高利貸で財を成した成金のおじさんが小鈴に亡き娘の面影を見出し、仕事にかまけてろくに面倒を見てやれなかった娘の身代わりとして何不自由のない贅沢三昧の暮らしを送らせてやろうとするが、根拠の薄弱な施しを受けることに慣れた結果彼女の道徳観念が狂うのを危惧した阿求の差し金で、なんと急な病死を装い、下女によって暗殺(毒殺)されてしまう。さらにはサークル「その他大勢」(ゆかたろ)の『非月面ウサギと二十億光年の恋人』でも、終始笑いの絶えない和やかな雰囲気とは裏腹に開巻早々地球が粉々に壊れているばかりか、この崩壊のあおりを食って同様に砕け散った月の残骸の上に辛うじて残っていた、いまや人類の文明をしのばせる唯一のなごりと思しき宇宙飛行士の足跡もウドンゲの手であっさりと消し去られてしまうとか、あとがきによれば当初はこの破局を輝夜と妹紅の殺し合いが激化した結果として描く予定だったらしいとか、よく考えると笑えない要素が至るところに見つかる(なお、この作品の絵柄について一言しておくと、睫毛の長いたれ目と官能的な唇が印象的で、銀幕を彩った往年のヨーロッパの名女優を髣髴させる永琳の端正な顔立ちや、兎らしい曲線を描くてゐの上唇、さてはいかにも苦労知らずの貴族らしい、腹立たしくなるほど能天気な輝夜の笑顔など、永遠亭の面々の個性の表現はどれもみごとで、一見の価値がある)。
興味深いことに、サークル「火鳥でできるもん!」(火鳥)までが、この風潮を機敏に察知してか(まさか)、『ゆかりん、余命三日ちょい。』などという題名の本を出している。もっとも、内容はいつもどおりの四コマ連作で、まともな性格の登場人物はほとんど出てこず、これでもかとばかりに詰め込まれた過激で下品な事件の数々が、読者の腹筋を容赦なく笑いの痙攣で痛めつけてくれる。複数の筋書をときに交錯させながら同時に進行させ、かと思えば一つの台詞に二重の意味を持たせもする知的な構成力は健在であり、その手際には舌を巻くほかないが、反面、四コマという形式にこだわりすぎず、適宜以前のように自然な勢いに任せた頁も増やしたほうが、構成力も、また抜群の絵の上手さも、さらに活かせるのかもしれないと思わされる瞬間もある(突然スキマの中から現れたメリーが紫の首根っこをつかみ、彼女を三途の川から連れ戻す大詰めの場面は、その最良の例であろう。ここでは、頁の左半分を占める真っ黒に塗りつぶされた暗闇を背景として、現世に引き返す二人の軌跡を植物の芽に、そしてその末端に位置する閉じたスキマを双葉になぞらえるという、注目すべき表現が認められる。「再生」を象徴するものとしてまことに適切であり、一種厳粛な感動を誘われる)。
こうしたあくの強い同人誌たちと比べれば、サークル「からあげ屋さん」(からあげ太郎)の『ドローンとレミリア』はいかにも他愛ない、子供向けの絵本のように無難で淡白な作品にも感じられるが、いつもと変わらぬその優しい味わいが無性に嬉しくてほっとする。その気になればもっと毒のある漫画も描けるはずだが、一分の隙もないコマ割りの妙や、感情の推移を反映してころころ変化する愛らしい瞳の描き方を見れば一目瞭然、この平明さが並々ならぬ洗練に支えられていることは全く疑う余地がない。

例大祭以降現在までに書店で買った同人誌の中では、まずはサークル「夜★FUCKERS」(ミツギ)の『梅女 弐』(『境界線上のホライゾン』)に指を屈する。特に、ホライゾンが無表情のままトーリのお尻をしつこく責め抜いて悶えさせる前半は、このサークルの同人誌の中では艦これの二次創作を先駆として挙げることができそうだが、ほとんど台詞が与えられなかったむくつけき提督と比べると、容姿が涼やかで口の減らないトーリの反応のほうが、見応えがあるのは間違いない。よほど原作に思い入れがあるのか、ネイトのお尻をトーリが「しっぽ」でいじめる後半も含め、男も女も、『梅女 壱』(C87)と同様、一つ一つの言動が自然で真に迫っている。
それを男女逆にしたようなのが、サークル「ギリギリ虹色」(上乃龍也)の『ヒナとハヤテ2』で、初版が2013年の冬コミ(C85)だから最近出た本というわけではないのだが、いまのところ、今年買った同人誌全ての中でも最高の一冊である。
上乃龍也は、ムサシマルや天太郎らと並んで、評価の難しいエロ漫画家だ。活動歴は結構長いから、右も左もわからぬ新人とは明らかに格が違う。絵は上手でしかも明確な個性があり、話の作り方も手慣れたもので無駄やぎこちなさがない。なによりエロ表現の強度それ自体が侮りがたく、エロ漫画を愛する人なら誰でも一目置くような存在である。しかし、例えば単行本の年間売り上げという点でこの人が業界の頂点に立つような光景は、頑張ってもなかなか想像できない。かといって、だから実力が足りないとか、そういう結論になるわけではなくて、いなければそれはそれできっと寂しい。しかし単なる賑やかしにすぎないのかといえば、もちろんそんなことはない……と、このように、どういう位置づけがこの人にふさわしいのかを真面目に考え始めるとたちまちきりがなくなり、歯切れの悪い辯解もどきの言葉を延々と積み重ねるはめになる。
『「身体中、ヌルヌルです。」』(コアマガジン、2009年)の、バスケ部のマネージャーの話はよかった。何本もの男根を突きつけられたマネージャー(兼委員長)は、淫乱な本性を解放されて、歓喜とともに精子の海の中で息も絶え絶えになってしまうのだ。ただその後は、これと同じような男根祭り(注5)の路線を進むかと思いきや、なぜか電動マッサージ器をはじめとするアダルトグッズの達人になってしまった。そういう作風の人は珍しく、したがって貴重であることは否めない。しかし、私の感覚では、この手のいかがわしい玩具類は、頁の手前、読者の手元が本来あるべき位置なのであって、作品の内部で活躍するというのは何か場違いな気がする。また、漫画としての技術的な完成度が上がる一方で、羞恥心の表現は依然として未発達というか、不十分なのも違和感があった。上乃作品の女性が顔を真っ赤にして目に涙を浮かべるとき、それは恥ずかしがっているというよりもむしろ、耐え難いほど強烈な快感の合図なのだ。さらに、女体の描き方の特徴として、他の部分と比べると脚の様式化(XO脚化)が著しく、そしてそれが、全体的にそつのない絵柄の中で、あるときは太ももが細すぎたり、あるときは膝から爪先までの線が妙に角ばっていたりと、画竜点睛を欠く結果につながっているように思えた。
そんなわけで、最新の商業単行本『エロい娘って思われちゃうかな♡』(富士美出版、8月5日)も、実際に読むまではいささか気がかりだったのだが、これが期待を大きく上回る凄さだったのだ。まず絵柄の面では、脚の極端な様式化という、上述の問題点はほぼ改善されている(ちなみに裏表紙を見ると、あたかもそのことを誇示するかのように、表紙で上半身を見せているのと同じ女の子の、肉付きのよい太ももが目一杯の大きさで載っている)。さらに、狭義のアダルトグッズ以外にもメイド服や裸エプロンやエロ本などを含めた小道具類に関しても新境地が開拓され、使い方がより巧妙というか、自然なものになった。これらの小道具は、あるいは愛情の伝達を手助けしてくれる回路として、あるいは、仮にこれらが結びつけてくれなかったとすればついに疎遠なままだったはずの、男女の仲をとりもつ媒体として機能している。その機能は一様でないが、いずれにせよ、そこにはつねに、単なる気紛れとは違う、何らかの必然性を認めることができるのだ。また、女性の羞恥心の不在ないし不足という現象についても、注目に値する独特の解決がもたらされ、違和感の払拭に貢献している。すなわち、ここで問題にされるのは、あられもない裸身とかはしたない姿勢を見られるがゆえのありきたりな恥ずかしさというよりも、書名が暗示するとおり、元来旺盛な性への好奇心と、快楽の追求に貪欲な肉体の持ち主である女性が、そのような自分の正体を他人に知られるときの危惧であり、ひいては自身がそれに気づくときの当惑なのである。この当惑ないし危惧を杞憂に終わらせ、むしろ大喜びしながら深々とした愛情で彼女の淫らさを受け入れるところに、上乃作品における男の甲斐性が存する。男性向けのエロ漫画の世界の中ではとかく従属的な地位に置かれがちな女性の悦楽や歓びというもの、その自主性や自律性についての、ひそかな、しかし根強い作者の信念を聞く思いがする。長篇『モザイク×三姉妹』にはすでにその萌芽が現れていた以上の諸要素の本格的な開花が、前作『気持ちいい?×気持ちいい♡』と同様の短篇集ながら、『エロい娘って思われちゃうかな♡』をそれら以上の水準に押し上げているようだ。
そして、女性的な官能生活の自主性、自律性というこの論点は、かねがね姉の横柄な態度を憎んでいた弟が、彼女が隠し持っていた大量のアダルトグッズの発見を機に立場の逆転を企て、恐喝まがいの強引さで性的な関係を要求するようになるが、実はもともと二人とも相手のことが好きで、お互いその好意がばれないよう腐心している―という「TRAP×TRAP」の筋書を通じて、ほとんど自己完結性に近づくのである。作中ではついにどちらの本心も相手に対して明らかになる瞬間が訪れない以上、ここには単なる喜劇というより悲喜劇的なものの存在を認めるべきだろうが、それならばしかし、疲れてぐっすりと眠る弟の傍らで一人にやける姉の、「や~っと お姉ちゃんに/手を出してくれたぁ♡」云々という独白にみなぎる、心を蕩かすような至上の満足感は一体何なのか。もちろん、このような場合に、当事者が満足を覚えること自体には何の不思議もない。尋常でないのは、丸々一頁を費やして味わわれるその成就の感激が、弟の返事が欠落したままでも、いやたぶん欠落しているからこそ、これほど完全な、つまりは混じり気のないものでありうるということなのだ。大袈裟かもしれないが、まさしくこの作品で上乃龍也は真に上乃龍也になったのだと私は思う。なんと遅咲きな、と呆れるべきだろうか。しかしその前に、自己自身という鉱山の採掘事業に着手する者の数の多さに比べて、首尾よく鉱脈を掘り当てた例がどれほどあるか、この点はぜひとも考えてみなくてはなるまい。
『エロい娘って思われちゃうかな♡』の検討が長くなったが、さて、『ヒナとハヤテ2』である。サークル「ギリギリ虹色」名義での『ハヤテのごとく!』のエロ同人誌としては、これで一体何冊目になるのか知らないが、商業誌の作品に登場する青年たちと比べてなかなかにサディストぶりが顕著なハヤテと、抗う余裕もあらばこそ、毎度毎度あっという間に組み伏せられては堂に入ったマゾヒストぶりで応え、ねっとりとしつこく心身をいたぶられて快楽の渦の中で失神寸前に追い込まれるナギやマリア、そしてヒナギクたちが一致協力して築き上げる濃密な世界に惹かれ、昔はちょくちょく買っていた。その後は何かのきっかけで離れてしまったのだが(注6)、こうして改めて手に取ると、これはやはり大変な代物である。表紙のヒナギクを見ると、かなり大きめの、水気をたっぷり含んだ表情豊かな瞳、そして大きく波打ちながら伸び広がる艶やかな長髪がまずは目を引き、原作との相性のよさを強く感じさせられる(というよりも、一連の『ハヤテのごとく!』の二次創作を通じてこそ上乃の絵柄が完成へと導かれ、現在あるとおりの姿になってきたと考えるべきかもしれない)。しかしそれと同時にいやでも見る者の目に入ってくるのが、きつく彼女の胴体を締めつける荒縄と、ごつい首輪の存在である。そう、題名からして甘詰留太の『ナナとカオル』を意識しているらしいこの作品では(実際、単行本が小道具として作中に登場する)、未だかつてないほどSM的な趣向が明確なのだ。ただし、ヒナギクはたしかに責められ、痛めつけられる側なのだが、それは決して彼女の歓びがないがしろにされることを意味しない。逆に、ここではヒナギクこそが主人公であり、一切の行為は彼女の快楽を目的とし、かつその中で終始している。彼女は、自分からは何もする必要がない。屈託のない笑顔が魅力的な優男なのに、こと女体のいじめ方にかけては専門家顔負けの熱意を発揮するハヤテの巧みな腕前に、ただ身を委ねてさえいればよいのだ。そうすれば、縄で縛るのも、後ろの穴を指で開発するのも彼が一手に引き受けてくれるし、さらには突かれている最中に言うべき台詞さえ逐一教えてもらえる。だから、たとえ頭を片手で地面に押さえつけられようとも、その実ヒナギクは女王のように一方的に奉仕される立場にあるのであり、難しいことは何も考えずにただ指示に従っているだけで、未知の刺戟が次々と向こうからやって来る。この受け身の快楽には、癖になりそうな強い魅力がある。来たる夏コミ(C88)に参加してくれないのが残念でならない。


(1)触手ものは当分描かないというだいぶ以前の宣言は、これをもって撤回ということになるのだろうか。触手に手を出す人は多くとも本当に上手な人は稀なのだから、そうであってもらいたいものだ(ついでながら、鈴木狂太郎も一度無望菜志ばりの本格的な触手漫画に挑戦してみれば、画力の高さを存分に活かせるのにとときどき思う)。
(2)というよりも、もっと丁寧なのがこのサークルの本来の絵柄で、おまけとして貰ったペーパーの中で作者が書いているとおり、いまは漫画らしい、流れを重視した絵柄への移行を模索している最中のようだ。手元にあった『○○君はいつも不幸』(COMITIA104)を『よよの渦』と見比べると、確かにそう思える。
(3)欲を言えば、これであと「すいーとみるくしぇいく」が参加してくれれば申し分なかった。
(4)この中途半端さを個性として積極的に評価するなら、それがつまり「正体不明」ということになるのだろう。
(5)まるで彫刻刀を使って彫り上げたような、雁首や裏筋が発達して反り返った男根、絵柄全体の統一的な印象の中で唯一異彩を放つ禍々しいそれは、耐え難い欲情の疼きに苛まれ、命令者か請願者かはいざ知らず、持ち主の全人格の集約であるかのように、解放を求めて女体の前で張りつめ、震えている―他にこの手の描写が上手な人として、うろたんとか、世間の評判はどうなのかわからないが、『Strawberry Pink』のくまこうなども私は好きである。
(6)ご多分に漏れず第11巻の伊豆旅行のあたりで感涙にむせんだ者として、こんなことを書くのはいささか心苦しいものがあるが、どこかの時点で「いまさら『ハヤテのごとく!』でもあるまい」と思ってしまったからかもしれない。
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category: 同人誌

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ラルス・フォークトのリサイタル 

6月29日、紀尾井ホールでラルス・フォークトの公演があった。
人数の少ない室内楽、ましてピアノのリサイタルともなれば、演奏者と曲の相性はとても重要なはずだ。
一昨年聴いたチョン・キョンファのモーツァルト(ヴァイオリン・ソナタ第35番)は、本来ならピアノがヴァイオリンと対等かそれに近い存在感を発揮すべきところ、あまりにもヴァイオリニストが凄すぎてちょっとしたピチカートですらピアノを圧倒してしまうという妙なことになっていたし、去年聴いたマリア・ジョアン・ピリス(ピレシュ)は、シューベルトに比べてドビュッシー(「ピアノのために」)がまだ自家薬籠中のものになりきっていないようで物足りなかったが、その代わりアンコールで弾いてくれたシューマンの「予言の鳥」は、遊戯性と色彩感に富み、一音一音に論理の筋道が通った鮮やかな演奏だった。一瞬、スクリャービンでも始まったのかと勘違いしたくらいだ。何より演奏者が確信を持ってのびのびと弾いているのがよく、こんな風にドビュッシーを奏でてくれればさぞよかったろうにと思わされたものである。
今回のフォークトの演目は、シューベルトの第19番D958とベートーヴェンの第32番Op.111という、ともにハ短調のピアノ・ソナタが二曲、さらにどちらのソナタの前にも(つまり二回)、いわば導入としてシェーンベルクの「六つのピアノ小品Op.19」が演奏されるというもので、なかなかに興味深い。暗い、重い、寂しいと三拍子揃ったフォークトの藝風から察するに、シューベルトを起点として残りの二曲が選ばれたのではないかと思える。

客席の入りは六割から七割といったところで、もう少し埋まってもよさそうな気がした。
浮遊するようなシェーンベルクの精妙な響きとともに、緊張に満ちた楽音の空間がさりげなく幕を開ける。やはり無調の音楽は、録音よりも生の演奏で聴くといっそう面白い。ロマン派においては作曲家と聴き手が気分を媒介として交流することが目指されているのに対し、表現主義者としてのシェーンベルク、とりわけこの「六つのピアノ小品」における彼は、そのような交流に断固として背を向ける、というアドルノの見解は―「この作品の表現を彼自身の表現として理解することも、その表現の門を潜り抜けて作品のなかに入り込むことも、誰にもできない。この作品ではどこにも気分というものが見当たらない」―、おそらく正しい(注1)。とはいえ、フォークトの演奏は普通よりもメリハリがきいており、彫りの深い構築的な美が生じていたのは彼の個性というものか。
それが終わるや否や、ただちに(拍手も禁止だった)シューベルトに入る。ハ短調という調性の選択、また主題の形からも、ベートーヴェン(特に、「創作主題による32の変奏曲」)から受けた影響が明らかなこのソナタだが(注2)、しかし曲そのものを支配する気分は、この偉大な、英雄的な―そして、ときに英雄気取りに走るきらいもなくはない―先輩と比べて、何とかけ離れていることか。瞑想的な雰囲気にじっと耳を傾けていた聴衆を容赦なく打ちのめす、引き裂くように苛烈な冒頭に続き、以下もひたすら出口のない荒んだ音楽が続く。決してどこへも行き着かず行き着こうとしない、自暴自棄のような悲壮さである。まるで起伏の多い石だらけの荒野をあてどなくさすらうような趣に浸っているうち、しかしこの曲は別に彷徨の軌跡を表象しているわけではなくて、むしろこの荒野それ自体が実体なのではないかという疑問に思い至り、慄然とする。

おしなべてシューベルトの音楽が、どちらかと言えば、制作されたものより成育したものを思わせることは一応認めるとしても、どこまでも断片的で、どこといって自足したさまのないその成育ぶりは、植物性でなく、結晶性である。〔中略〕それは先ずもって、死の風土なのだ。シューベルトのある主題の出現と、つぎの主題のあいだに歴史が介在していないように、生が彼の音楽のねらいであることはない。〔中略〕シューベルトの作品が今日(こんにち)その損われた姿において、彼の同時代の他のいかなる作品よりも雄弁で、石の沈黙をまぬがれているとすれば、それは彼の作品の生命がまさにはかない主観的な力学そのままの引き写しでないからだ。この生命はすでにその根源において、石のもつ非有機的な、断続的でこわれやすいそれだったのであり、あまりに深く死に埋没しているために、かえって死を恐れる必要がないのである。(注3)

このように書くアドルノも見抜いているとおり、シューベルトの作品においては、総じてソナタ形式はもはや発展を意味せず、まさに形骸化した外皮にすぎないのであって、一見すると最もベートーヴェン的なこの第19番のソナタすらおそらくその点で例外ではない。

どの地点を取っても中心にたいして同じ隔たりを持つという、この風土の特異な構造は、堂々めぐりするさすらい人の前にあきらかになる。およそ発展ほどここで場ちがいなこともないのであって、最初の一歩も最後の一歩とひとしく死のかたわらにあり、あちこちの地点が探(たず)ねまわられながらも、この風土そのものはどこまでもついてまわるのである。〔中略〕シューベルトの形式は、いったん発現したものを呼びかえす形式であって、自ら発案したものをあれこれと変えるためのそれではない。この創造的なアプリオリが、完全にソナタを浸蝕している。たとえば、発展しつつ媒介する楽節にかわって、いわば露出を変えるようなぐあいに和声上の移行がおこなわれ、それがあたらしい風土地帯にみちびくのだが、そこでも発展が見られぬことは先行する部分に変わらないのである。展開部においても、主題を動機に分解して、その最少単位からダイナミックな火花を打ち出すというような行き方は見られず、不変の主題がしだいに真相をあらわすだけである。あるいは、回顧的に主題がもう一度とり上げられることがあるが、これらの主題は通り抜けられただけで、消え失せたわけではなかったのだ。そしてこうしたすべての上に、薄いいまにもはじけそうな皮のようにソナタが蔽(おお)いかぶさり、内側から増大する結晶を押しつつみつつ、やがてはちきれてしまう。(注4)

フォークトは左手の伴奏が実に雄辯だ。よしんば右手の紡ぎ出す歌の旋律に誘われるままに酔い心地の昇天を夢見たところでそれは空しい錯覚というもので、再び聴く者をつかんで引きずりおろすべく、たちまち左手が暗い奈落の底から伸びてくる。人間的な親愛の情を拒むかのような、冷え冷えとした孤高の抒情美の下に得体の知れない不穏な気配が見え隠れする第2楽章の大詰め(第三部)もよかったが、とりわけ第3楽章のメヌエットでは、両手のリズムの間に生じるずれをあえて糊塗せず、逆に強調することで不気味な効果を上げていたように思う(似た表現は、CDで聴けるピアノ・ソナタ第21番でも確認できたので、彼のシューベルトの特徴かもしれない)。大仰な身振りとともに頻繁に訪れる意味ありげな休止が、どうしようもない無力感と寂寥感を搔き立てる。ここでは、「薄いいまにもはじけそうな皮のようにソナタが蔽(おお)いかぶさり、内側から増大する結晶を押しつつみつつ、やがてはちきれてしまう」というアドルノの不吉な予見を裏づけるかのように、各楽章、ひいては曲全体の統一性は、破壊されるほどではないにせよその寸前まで追い込まれており、しかもそれが決して演奏者の恣意の産物ではなくて、あくまでも作曲者への忠実さの結果なのである。軽快なはずのフィナーレも息苦しい焦燥感が瘴気のようにたちこめており、まるで何かに追い回されてひたすら逃げ惑う悪夢を見ているかのようで、何度も「もうやめて」と言いたくなるほどだった。
ちなみに、やはりアドルノがすでに、シェーンベルクは聴き手に対して、ロマン派についての通俗的な観念の問い直しを迫ると書いている。

 シェーンベルクの表現は、聴き手を突き放し、変容させるために、聴き手に不意に突きつけられる音の仮面である。聴き手が驚愕することによって、彼をまさしくあのロマン派の音楽と結びつけていた、同一性の感情という紐帯が断ち切られる。聴き手は自由の身になって、自分の私的な内面のたんなる鏡というあり方とは違った仕方で音楽を聴くことができるようになる。とはいえ、この自由によってはじめて、以前には気分によって妨害されていた、ロマン派の客観性といったものにも出会うことが可能になる。こうして、シェーンベルクの表現主義的な突出は、未来のものの地平とともに、過ぎ去ったものそれ自体の地平をも開いているのである。(注5)

シューベルトに先立ってまずシェーンベルクを弾くというフォークトの一見奇抜な選択は、もしかするとアドルノのこの文章に触発された結果かもしれない。
休憩後の後半は、再びシェーンベルク、そしてベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番である。このベートーヴェンは堂々たる大きな構えで、それがごつごつしたたくましい音の作りとあいまって、思いのほか正統的な解釈となっていた。私の個人的な好みとしては、この最後のソナタは、例えばジャン‐ベルナール・ポミエのように、もう少し明るい音色で、かつ最初からどこか達観したような風情を漂わせてくれても一向にかまわないのだけれど、闘争的な意志をなおも捨てない第1楽章と、浄化されたような第2楽章の変奏曲との対比をきちんと描こうとするフォークトの流儀のほうが、作曲者の意図には忠実なのだろう。ただ、変奏ごとの切れ目を極力目立たせないせいもあってか、幻想曲風のとらえどころのない儚げな美しさが生まれていたのは忘れがたい。シェーンベルクが開始の瞬間をぼかそうとしていたのと同じく、最後の一音を鳴らし終えてからの長い(本当に長い)余韻の中で、音楽は静かに彼方の永遠へと溶け込んでゆく。沈黙を大切にする音楽家は信頼できる。
アンコールはバッハのゴルトベルク変奏曲のアリアで、こちらは線の細い、澄んだチェンバロの響きをピアノの鍵盤で巧みに再現してみせた、瀟洒な演奏だった。鬼哭啾々たる凄絶なシューベルトと比べるとなんとも対照的で、ピアニストとしてのフォークトの表現力の幅広さを思い知らされる。

終演後のサイン会で、ついうっかり「この上なく絶望的なシューベルトでしたね」とフランス語で口走った私に対して一瞬面食らった様子を見せるフォークト氏だったが、すぐに気を取り直し、「あれは、あらゆる音楽の中で最も美しいソナタです」と返事してくれたのでどうにか事なきを得た(と信じたい)。むろん、非はこちらにある。しかし、聴き終わって間もない短調の独奏曲について、ほかならぬ演奏者と口頭でその魅力を語り合おうというのが土台無茶な話ではないか。それとも、ひょっとしてアファナシエフやポゴレリチのような人たちなら、「実に陰鬱なご演奏でした。心底自殺したくなりましたよ」などと言われて喜ぶのだろうか、考えてみると不思議なものだ。


(1)テオドール・W・アドルノ「音楽アフォリズム」29、『哲学のアクチュアリティ』(細見和之訳、みすず書房、2011年)140頁。
(2)『作曲家別名曲解説ライブラリー⑰シューベルト』(音楽之友社、1994年)148、175頁。
(3)テオドール・W・アドルノ『楽興の時』(三光長治・川村二郎訳、白水社、1969年)29-31頁。
(4)同書33-36頁。引用に際して、「あきらかとなる」を「あきらかになる」に改めた。
(5)テオドール・W・アドルノ「音楽アフォリズム」29、『哲学のアクチュアリティ』(前掲書)140-141頁。引用に際して、「可能となる」を「可能になる」に改めた。

category: 音楽

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