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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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SAZ『蜂色豊艶』 

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サークル「SAZ」のsobaさんの進化が止まらない。
もうだいぶ以前になるけれども、夏のコミックマーケット(C86)の18禁部門の中でも、個人的にはここの『蜂色豊艶』が断然よかったのだ。
『好色豊蘭』、『艶色豊満』に続く三冊目の食蜂本だけあって、さすがに手慣れている…と思いきや、そうでもない。
といってももちろん不器用というわけではなくて、むしろ、つねに惰性を排して新しいことを試みようとする、その姿勢こそが一貫したものとして強く感じられる、ということである。
登場人物の描き方でそれが顕著なのは、当然ながらみさきちこと食蜂操祈その人である。前作で吹っ切れたのかどうか、胴体はすらりと長く伸び、乳房は洋梨のような末広がりの釣鐘型になるという具合に、ますます大人のお姉さん化が進行しているようだ(大きいだけのおっぱいならまだしも、これだけの重量感はなかなかに得がたい)。しかしながら、一番違いがはっきりしているのは目ではあるまいか(ちなみに『好色豊蘭』以来、まぶたはずっと二重である)。表紙を見れば一目瞭然、緩やかな弧を描くように両目のまなじりがしどけなく垂れ下がり、瞳も潤みが増している。ここまでやりたい放題に表情を蕩けさせてしまうとさすがに彼女らしくないような気もするけれど、それだけ恋人に心を許しているということだろう。なんとも微笑ましくて、見ているこちらもついにやにやしてしまうのが抑えられない。それに合わせてか、線も特に後半に入ると極細の精緻なものになっている。
おそろしいのは、sobaさんの場合、このように同じ人物の描き方が一冊ごとに異なるといっても、他方でその一冊の中ではあくまでも破綻のない統一性、あるいはむしろ整合性が保たれているという事実である。単に数か月の時間が経ったから自ずと画風が変化したというわけではなくて、ちょうど作曲家がハ長調とかト短調とかの調性を選択するのと同様、そのつど採用すべき様式を見定めた上で、その一冊は丸ごとほかならぬ当の様式の探究にあてることに決めているからこうなるのではないか。
それに、主役はもとより食蜂だが、男性(当麻)の側の表情にも適度に注意を払っているのがよい。もちろんこれがよいというのは私の個人的な感じ方だし、その点はさておくとしても、一般論であるからには例外も認めたい。ことに、総集編『天草模様なEX%』の巻頭を飾る書き下ろし漫画では、一頁丸ごと女性の全身が占めるという状態が見開き二頁にわたって続くが(下の図を参照のこと)、あれは、コマ割りと頁の分割という漫画にとって最も基本的な構成上の原理を、ともに女体の性的な緊張と弛緩の律動そのものから発生せしめようとした(そしてそれに成功した)ものというのが私の理解である(その証拠に、右頁では「一頁=1コマ」という等式が成立しているのに対して、左頁に入ると右上では早くもすでにコマへの区画が始まっている)。性器に局限されない女性の「補足的な(supplémentaire)」享楽―ファルスの彼方の、不可能的にして非全体的なる、〈他者〉の享楽―について語りながら、ラカンは聖テレサがいましも天使に矢で貫かれようとしている恍惚の瞬間を捉えたベルニーニの彫像に言及していたが(注1)、それと同じくこの特殊な事例においては、ある意味で、性器における男女の結合は、実は決定的ではないはずなのだ。しかしそういう記念碑的な場合を除けば、基本的には男性の反応がきちんと描かれるほうが、この人の写実的な作風に似つかわしいと思う。

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いずれにしても、とても繊細なのに、その繊細さがもっぱら構図や姿態や表情などの工夫のために費やされていて、病的に神経質な域には迷い込むことがないよう意図的に調節している気配が頼もしい。性愛の陶酔感にせよ作中人物の情熱にせよ、表現の強度そのものは平均をはるかに上回っていながら、それと同時に他方では、余裕があり、良質の遊び心がある。表現とはすなわち客観化であるから、そのかぎりでこれは当然のことかもしれないが、動機としてひとしお強く感じられるのが、個人的な野心とかいわゆる表現意欲以上に、むしろ底抜けの善良さであるという点は独特ではないか(余談ながら、似たような頼もしさは最近のしぐにゃんにも感じる)。
もう一つ、筋書の面でありがたかったのは、屋外でのデートからいったん帰宅して、ちゃんとシャワーを浴びた上で性行為を始めていることだ。何を当たり前のことを、と思われそうだが、エロ漫画の世界ではこれが結構当たり前でない。他の漫画家であれば、シャワーはともかく、帰宅しないで店や公園などのトイレでことに及ぶという設定を選んでいた可能性もあるからだ。そして、これが私は大の苦手なのである。街中でお金のかからない個室を求めればそうなってしまうのも無理はないけれど、あそこはどう考えても意中の異性と一緒に長居したいような場所ではない。台詞の中で「肉便器」とか口走る程度ならまだかまわないが、それ以上の具体性はごめんこうむりたいのだ(注2)。もっとも、『蜂色豊艶』でシャワーを浴びるのは食蜂だけで、どちらかといえばお色直し(制服から体操服に着替えている)の意味が強そうである。もともとsobaさんの漫画の男性には不思議と清潔感があるので、それはそれでよい。狭義の清潔さ以上にここで目立つのは、何かをするときに踏むべき手順をおろそかにしないという意味の潔癖さである。
ただ、全体として考えるとこの潔癖さがいくぶん冗長さにも通じている感じがする。実際、例えば待ちきれなくなった当麻が浴室にいる食蜂に襲いかかるように構成したところで問題はなかったはずだし(体操服の出番はその後に回せばよい)、むしろそのほうが切迫感が出てよかったのではないか。そうなっていないのは、流されがちなお人よしという彼の性格上の特徴を意識した結果かもしれない。しかし、もっと後の頁で、性交中に体位を変えるときの二人の動作までわざわざ描こうとしているのは、さすがに細かすぎるというか、逆にぎこちなく思える。元来漫画の筋の組立てにおける自然さというものは、必ずしも連続する各場面の間の継ぎ目を逐一見せることを要求するわけではない。むしろ、『立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は18禁』や『すきとおるそら』のように、頁をめくるといきなり男根が乳房の間に埋まっているとか、そういう省略による不意打ちの効果を狙ったほうが得策ではなかろうか。この、「頁をめくるといきなり…」という演出はそれ自体としては珍しくないものの、sobaさんや他にはすがいし(サークル「Maniac Street」)など、生真面目でとことん丁寧な絵柄の、それでいておよそ読者を威圧するような、不穏で凶暴な要素とは縁のない人が使ってこそ本来の迫力を発揮するはずである。それはちょうど、コリント前書第15章55節に由来する「死(し)よ、なんぢの勝(かち)は何処(いづこ)にかある。死(し)よ、なんぢの刺(はり)は何処(いづこ)にかある」(注3)という聖句の扱いが、ヘンデルの『メサイア』の第三部第6曲とブラームスの『ドイツ・レクイエム』の第6曲(「怒りの日」に相当する)では大きく異なり、前者における二重唱は物憂げな問いかけに終始しているというのに、合唱の嵐が聴く者を道連れにして荒れ狂う後者においては、焦燥感に満ちた深刻な闘争から晴れやかな修辞疑問文(死が克服されたことへの確信)への移行を示す鮮やかな転調によって、この聖句そのもののただなかに意味上の分割が刻みつけられるようなものだ。つまりは、一つの聖句と別の(次の)聖句との間ではなくて、あえて「もっと手前に」切れ目を持ってきたということである。ブラームスの優柔不断さは彼の作品のあちこちにうかがえるし、そういうところが好きでないという人もいそうだが、この『ドイツ・レクイエム』の第6曲は、交響曲第2番の第2楽章などと並んで、果断でない作者のためらいからかえって絶大なまでの劇的な切断の効果が生じうるという興味深い例だろうと思う。

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何やら口はばったい注文のようなことまで書いてしまって気が引けるけれども、こんなのは『蜂色豊艶』の驚くべき達成を前にして、どう批評してよいものやら見当もつかないまま苦し紛れにできた負け惜しみのようなものにすぎない。知覚の経験を通じて開示される我々の身体のあり方を正しく理解するために参照すべきなのは、物理的対象ではなくて、むしろ藝術作品であるとメルロ‐ポンティは主張した。それはなぜかといえば、「一篇の小説、一篇の詩、一幅の絵画、一曲の音楽は、それぞれ不可分の個体であり、そこでは表現と表現されるものとを区別することのできないような存在、直接的な接触による以外にはその意味を手に入れることはできぬような存在、現に在るその時間的・空間的位置を離れないでその意味するところを放射するような存在である」からだ(注4)。このように、身体と同じく、生ける意味の結び目として要約不可能な複合性を示しうるところに藝術作品の本領があるのだとすれば、作品の内部に現れる身体の描写というものが持たねばならないはずの特権も自ずと明らかになる。なるほど、『蜂色豊満』における人体はなによりもまず視覚的な存在であるが、そこには同時に触覚的な価値も否定しがたく伴っているし、さらには壮麗なまでのその猥褻さ―享楽する身体の誇示―それ自体において、「身体的視による魂の制御〔la régulation de l'âme par la scopie corporelle〕」(注5)というラカン的な「バロック」の定義を例証するかのような精神性にも事欠かないからである(周知のとおり、感官に直接訴える華麗な装飾性と力強い躍動感を特徴とする17世紀のバロック美術の発展は、プロテスタントの勃興に対してカトリック教会が巻き返しを図ったとされる、いわゆる対抗宗教改革運動から切り離せない。当時を代表する彫刻作品であるベルニーニの聖テレサ像のように、神秘家の法悦そのものがほとんど性的な陶酔に近づくという現象は、裏を返せば、感覚的な世界がそのままで神のいや増す栄光に与るということでもある)。

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とりわけ注目に値するのは、上の頁における左手の描き方である。大体、快楽の極みで身悶えする女性の肉体を写実的に描く場合、手(腕)をどう処理するかというのは割と難しい問題ではなかろうか。まるで万歳しているように見えてしまってはいささか間が抜けているというものだし、それに画面の外に追いやるのでは根本的な解決にならない。できれば画面の中に腕全体を収めつつ、しかも自然さが損なわれないような工夫が必要になるわけだ。その点、この頁における左手のように、二の腕がその奥にある前腕に重なって隠してしまう(したがって、腕全体を画面の中に収めながらも長さは半分に減らせることになる)というのは、実に巧妙で鮮やかな解答である。一番手前の女性器から、腰、および胴体を経て、しっかりとシーツをつかむ指先に至るまでの視線の動きを反省してみれば誰でも気づくように、ここでは漫画を創作する上でコマ割りに劣らず大切な原理、すなわち遠近法(短縮法)の原理が、痙攣する女体そのものから生成せしめられているのだ。
もはや人の手が描いているという当たり前の事実さえうっかり忘れてしまいかねない、誰のものともしれぬ至福と善意の塊のようなこういう作品の後で、一体どんな進化を作者がみせてくれるものやら、想像するだに空恐ろしくなる。

ほかに18禁同人誌で今回よかったものとしては、サークル「んーちゃかむーむー」(雪路時愛)の『提督、愛してます。2』と、サークル「PKグリッスル」(井雲くす)の『加賀としたい108のケッコン生活』の二冊を挙げたい。前者はあどけない少年提督を愛宕が誘惑してこれでもかとばかりに甘やかす(主におっぱいで)内容で、こじれすぎた母性愛が妙な方向に爆発してしまったような趣がある。狂気とまでは行かないけれど、ちょっと普通でない過剰な甘味の盛り込まれた溺愛ぶりで、たじたじとなってしまう(こういうの、大好物です)。
後者は題名どおり、提督の視点から加賀とのケッコン生活を108の情景に分けて羅列したもので、はっきりした筋書はない。目次の代わりなのか、開巻早々いきなり見開きで各場景に対応する願望がずらずらと箇条書きになって出てくるのに圧倒されてしまうが、それ以降は、絵の仕上がりが適度に荒削りで無駄がないせいもあり、軽快に読み進むことができる。爬虫類か両生類の生態を見ているようなどこか非人間的な雰囲気があるのはいつものことだが、ここではそれがほどよく抑制され、もっぱら笑いを喚起するように働いているのが面白い。よい意味で肩透かしを食わされた気分になる。個々の情景はもちろんエロ関係の妄想が多いとはいえ、中には料理を作ったり、小さい子たち(暁や雷)を寝かしつけたりと、いかにも所帯じみた内容のものもあるのが微笑ましい。全体を通してみると、しっかり者で冷静な加賀と比べて、叱られてばかりいる提督のどうしようもない変態ぶりが際立つが、実は根底に揺るぎない信頼関係があり、その上でもっとよく相手のことを知りたい、喜ばせたいという一心で彼がいろいろと馬鹿な行動に走るおかげで、加賀の魅力が存分に引き出されているのがわかる。大体、夫婦の生活というものは、いつも華やかな出来事ばかりあるわけではないし、変に取り澄ましたり取り繕ったりしても長続きしないものである。そう考えると、恥も外聞もなく欲望丸出しで加賀にまとわりついては、ちょっとしたことでいちいち怒ったり笑ったりさせてくれるこのだらしない提督が、割れ鍋に綴じ蓋というものか、にわかに彼女にとっては理想的な夫かもしれないと思えてくる(一見地味で派手さがないのによく見れば味わい深い絵柄も、この感想を助長する)。だが、油断は禁物である。なんと、この本の結末で加賀は戦いに敗れ、海底に沈んでしまうのだ。賛否両論ありそうな終わり方だが、ここまで提督の立場から加賀への一途な愛情を描いてきた作者が、その勢いのまま独占欲を抑制できなかった結果と思えば納得がいく。少なくとも私は、加賀の同人誌といえばもうこのサークル以外に考えられなくなってしまったほどだからだ。


(1)Jacques Lacan, Le séminaire XX: Encore, Paris, Seuil, 1975, p.70-71.
(2)ただし、佐伯の『奴隷さん』みたいに、同意の上でSMの一環として排泄関係のあれこれに挑戦するのは必然性があると思うから、個々の作品ごとに柔軟に判断していきたい。
(3)『文語訳 新約聖書 詩篇付』(岩波文庫、2014年)398頁。
(4)メルロ‐ポンティ『知覚の現象学 1』(竹内芳郎・小木貞孝訳、みすず書房、1985年第20刷)252頁。
(5)Jacques Lacan, Le séminaire XX: Encore, op. cit., p.105.
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