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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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鬼頭莫宏『なるたる』 

機器の調子かそれとも私の手際か、一体何がまずかったのかわからないが、このブログとは別にしばらくせっせと取り組んでいた原稿が消滅してしまい、記憶を頼りに一から書き直す作業に追われている。ワード文書の不安定さにしょっちゅう泣かされながら一向に学習しない私の自業自得かもしれないが、保存してから寝て目が覚めたら50頁分の文章が完全に消えて影も形もなくなり、復元の手がかりになりそうな残骸すらどこにも見当らない―などという事態を日頃から想定しておけというのは、少々無理な話ではないのかな。
というわけで、以下の記事も簡単な覚え書の域を出るものではない。

ネルソン・グッドマンは記号の機能の相異に着目して、外示(denotation)と例示(exemplification)という二通りの対照的な参照の様態を区別した。外示は、記号が記号の外部へと向かう働き、ひいては一つないしいくつもの物に、単にあるラベルを貼ることとして定義されるのに対して、例示とは見本の働きであり、ある物が例示できるのはその物自身が所有する属性のみである。そして、ある物がある述語を例示するためには、現実にその述語がその物に当てはまること、すなわちその物を外示していることが必要である。例示はこのように外示と表裏一体であって、もし私のセーターが「グリーン」という色を例示するなら、そのときグリーンは私のセーターを外示していなくてはならない、つまりセーターはグリーンであるのでなくてはならない。
グッドマンのこの図式を借用しつつ、それを隠喩的な例示、すなわち表現にまで敷衍してから―「もしxがyを表現しているなら、そのときyは隠喩的にxを外示している」―、ジェラール・ジュネットは返す刀で旧来の文体論の不十分さを突く。フランス語の« bref »という形容詞は「短い」を意味する、すなわち短さを外示すると同時にそれ自体が短い、すなわち短さを例示しているが、« long »は反対に長さを外示しながら短さを例示する。また、« nuit »という語は「夜」を意味する、すなわち外示する一方で音の響きゆえに隠喩的に明るい(明るさを表現している)が、対して「影」を意味する« ombre »の場合は隠喩の次元で外示と例示が重なり合っている。そして、精密で包括的な文体(style)の定義を求めて、「言説の外示的な機能に対立するところの例示的な機能」という定式を提案するジュネットによれば、旧来の文体論は表現性の概念に訴えることで、« bref »や« ombre »のような重複ないし自己言及性の事例に過大な重要性を付与してきた点に問題が存するのだという(注1)。
文体論の偏狭さや、情意性への傾斜を是正しようというジュネットの企図そのものには何ら異存はない。ただ、文学における狭義の« style »、ないしいわゆる文体以外に、あらゆる藝術に不可欠な広義の« style »、ないし様式というものを考えてみると、このような自己言及的な例示や表現は、むしろもともと例外的なもの、どちらかといえば言語藝術に特異な現象ではないかとも思える。例えば絵画においては、互いに相手を描きつつある二つの手を描いたエッシャーの作品のような事例もあるとはいえ、小説や詩の素材、すなわち語の場合ほどには、截然と例示から区別されうるだけに、なおのことそれとの合致が印象深くありうるような外示というものが、もともと考えにくいのではないか。そしてこのずれは、絵画同様に視覚的な世界でありながらも、絵画とは違って通時的な変化に支配されている漫画においては、一見自伝か日記に類した作品であればそれだけになおのこと顕著になる。

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例えば、サークル「パコキリン」(鈴木小波)の同人誌『ホクサイと飯 おかわり』(コミティア108)は、一応漫画家の山田ブンが主人公であり、それなりに作者の実体験も反映していると思しい内容でありながら、彼女が漫画を描いているところではなく、もっぱら料理を食べたり作ったり、さらには夢うつつに料理のことを空想したりする姿に焦点を合わせている(あまつさえ結末では、雑誌の休刊により、描いた漫画を発表すること自体が不可能になってしまうほどである)。それでいて色つきの頁に見開きで出てくるパンとシチューなどは実に美味しそうで、十分な時間をかけ、かなり気合を入れて描いたのだなと思わされる。原稿を前に、文字通り寝食を忘れて没頭した日もあったかもしれない。たとえ職業は共通していても、外示されているもの、すなわち漫画を描かない漫画家(読者の目に姿を現しながらひたすら料理にかまけてばかりのブン)と、いかなる瞬間にあっても例示的にそれの背後に寄り添っているはずの影のごときもの、すなわち黙々と漫画を描き続ける勤勉な作者とでは、およそそのあり方が似ていない。ブンが人形のホクサイを相棒にしていて、ことあるごとに話しかけたり(というか話しかけられたつもりになったり)、あるいは腹話術の人形のように代弁者として利用しているという事実からも、ここでは外示と例示を媒介する、抹消することの不可能な距離、両者のたまさかの一致よりも古い、過程としての創作行為がつねにすでにそれ自体の中に含まざるをえない距離こそを、虚構を虚構として成立せしめる様式(style)の源泉と考えるべきではないか。もっともこれは、ジュネットの分類に従うならば例示の一種としての共示(connotation)―« long »は、長さを外示しながら短さを例示するとき、フランス語への帰属と反‐表現的な性格という二つの共示的価値を担う―に近いのかもしれないし(注2)、そもそも言語と文体が切り離せるという主張を批判して、「文体なしの言説も、言説なしの文体も存在しない。文体とは、それがいかなるものであれ言説のアスペクトなのであって、アスペクトの不在は明らかに意味のない概念である」と書くときの彼自身の考えと、たぶんそれほど違っているわけでもない(注3)。例示が、どこまでも外示と表裏一体のものでありつつしかもそれに対立するかぎりで、文体ないし様式の現象は成り立つのである。

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さて、夏といえば鬼頭莫宏の『なるたる』である。なんとなれば、第11巻(講談社、2009年第10刷)における夏の情景、ことに第59話「星に魅入られた子」のそれが大変すばらしいからだ。その中には、以下のような非常に印象的な、主人公であるシイナこと玉依秕(たまい・しいな)とクリさんこと涅見子(くり・まみこ)の会話の場面(190-195頁)がある。

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「クリさん/竜骸(りゅうがい)とか」「竜(りゅう)の子(こ)/って……」
「いますよ」
「いるんだ」「ここに?」
「わかり/ません?」(190-191頁)

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「え?」
「この/すべて」(192-193頁)

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「この/すべて」「この星が」「わたしの/竜の子/シェオル」(194-195頁)

『なるたる』の全篇は、決して単線的な構造にはなっていない。第11巻までに、いやそれどころか最終巻である第12巻に入っても最終話の直前までに起きた事件は、そのほとんどが最後の決定的な出来事とは直接的な因果関係によって結びつくことがないもの、せいぜいそれの準備か予兆でしかありえず、その点でこれはきわめて異様な漫画である。
その異様さ・異形さの質をうかがい知る上で恰好なのが、いましがた参照した数頁なのだ。他の登場人物たちと同じく、涅見子は、少女であること、人間であること、生物であること…等々のありふれた述語を例示している、換言すればそれらによって外示される。しかし、それらの述語には、少なくとも日常的な言葉づかいにおいては自ずと定まる潜在的な限界があり、その限界とは地球にほかならない。およそ地球上に存在する物や人であれば、地球上に見出されない述語によって外示されるということは考えられないからだ。そしてこの場合、実際にその物か人の例示できるものの範囲がずっと狭く、例えば人間であれば「自力で飛行するもの」という述語を例示できないことも明らかである。しかし、上の場面において自分がいわば地球の魂であることを明かす涅見子の場合には事情が全く異なり、例示の権限が及ぶ範囲はほとんど無際限の拡張をみて外示の限界に追いつく。およそ地球上にあるもので、結局彼女の所有に帰すると判定することが許されないものは何一つないからだ。
したがって、シイナが発する、「クリさん/竜骸(りゅうがい)とか」「竜(りゅう)の子(こ)/って……」という中途半端で不完全な台詞は、まさにその不完全さがもたらす深々とした奥行のゆえにこの場にふさわしい。すなわちこの台詞は、第一に竜骸ないし竜の子を「他の人たちと同じようにあなたも持っているのか」という最も表面的な意味で読まれうるが、第二にそれらは「本当に存在するのか」という疑惑として、そして第三に、もし本当に存在するとして、ではそれらは「一体何であるか」という端的な問いかけ、作品の核心に関わる問いとして機能する。悠然と推移するコマ割りの神秘的な荘厳さが、そのような象徴主義へと我々を導くのである(これこそ漫画ならではの醍醐味である言葉と絵の相互作用というものであって、小説ではこうはいかない)。ただしこの神秘性とは、これらの問いへの三通りの答が、通常は分離されたままであるはずなのに、この場合(涅見子の場合)に限って重なり合うところに生じるもの、換言すれば絵と台詞が一体となった作品の叙述の機構それ自体から生じるものであって、もとより偶然の産物でもなければ、単なる内容の水準における神秘主義とも無縁である。
例示が外示に追いつき、これを呑み込んでしまうということ、あるいはちょうど手袋を裏返すのにも似た内包による外延の侵蝕ということ、おそらくはこれが『なるたる』の異形性の核心である。そのとき、例えば折口信夫が説いたような、たましいは元来物体(身体)とは素性を異にしており、外来のたましいが容器としての密閉された物体の中に定着してようやくそのものは一人前の生命体としての活動を開始しうるという古代日本人の霊魂観(注4)―「たま」と「たましい」はこの見地からすればもともと同一であるが、抽象的な霊魂としての「たま」すなわち「たましい」を具体的に象徴する石や骨が、狭義の「たま」に相当する―を下敷きにしているはずの、「身体に対する魂の関係は、竜の子に対してその保持者である子供が有する関係、ひいては地球に対する涅見子(そして玉依秕)の関係に等しい」という類比の式にはもはや収まりきらず、それを踏み越えるような射程の中で、ほとんどラカン的な「現実的なもの(le réel)」がそれ自らを開示する光景に読者は立ち合うことになる。それは、地表から生え出た涅見子の(あるいは、地球そのものの)無数の巨大な手によって、全ての文明の産物もろともあっという間に人類が地表から一掃される、最終話の破局的な光景である。とはいえ、遠近法がもたらす極端な見かけ上の大小の差、および公園の柵がもたらす画然たる隔たりとともに、おびただしい人家がひしめく眼下の町を背にして―ということはつまり、それらの人家を見上げるのでもなければ、それらに面と向き合うわけでもないということだ―自分がいわば地球の意志の体現者であることを彼女がシイナに明かす、上で参照した場面は、一般の人類からは隔絶した上位の立場から彼らの運命を左右する審判者としての彼女の使命を、早くもすでに、意味に富む象徴的語法を通じて確立しているのである。冷たく光る星々を点綴された夜空の非情なまでの純粋蕪雑さも、そのことを間接的に教えている。季節を夏に限れば、これほど美しい星空が漫画の中で実現をみた例は稀であろう。


(1)ジェラール・ジュネット『フィクションとディクション』(和泉涼一・尾河直哉訳、水声社、2004年)90-93頁。
(2)同書93-95頁。
(3)同書107-108頁。
(4)折口信夫「剣と玉」、『折口信夫天皇論集』(安藤礼二編、講談社文芸文庫、2011年)155-168頁。
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