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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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日日日『のばらセックス』17 

『のばらセックス』がスピノザ主義の小説であるとすれば、一体それはいかなる点においてか。
この問いに対してはいろいろな答え方がありそうだが、強いて最も簡潔な定式を求めるなら、主著『エチカ』第三部定理2に続く備考の中にスピノザが書きつけた、「身体に何ができるか、我々にはわかっていない」というあの警告とも慨嘆ともつかぬ驚くべき指摘との共通性から出発すべきかもしれない。
かつてこの指摘から勇ましい「鬨声(ときのこえ)」を聞き取ったジル・ドゥルーズも書いているように(注1)、心身の並行論(parallélisme)が、その由来はさておき(注2)ほかのどの哲学者よりもスピノザの哲学にこそふさわしい名称であるのは、ここでは身体と精神の間の関係があくまで対等であって、決して一方が他方に対して優越するということがないからだ(注3)。
スピノザにとって、神とは「絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体」(注4)にほかならず、したがって「すべて在るものは神のうちにある、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない」(注5)。このゆえに、いかなる個物もそれの内在的原因(注6)としての神の属性を一定の仕方で表現する何らかの様態なのであり(注7)―属性の定義は「知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの」であり、様態の定義は「実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの」(注8)である―、そのような属性としてスピノザは思惟と延長の二つを挙げている(注9)。つまり、神は思惟する物であると同時に延長した物でもある(いかなる思惟する物、延長した物も、神の属性を表現する様態である)。とすれば、このように神の属性の様態である個々の人間が自らの身体についてその変状の観念を有する以上、「人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない」ということ、すなわち精神と身体の合一が導き出されなくてはならないのは当然である(注10)。ドゥルーズが感嘆してやまない(注11)スピノザ倫理学の真骨頂は、ここから、あらゆる従来の伝統に逆らって、身体の能動はそのまま精神の能動であり、同じく一方の受動は他方の受動でもあるという帰結を敢然と打ち出したところにある。

私はただ一般論として次のことを言っておく。すなわちある身体が同時に多くの働きをなし・あるいは多くの働きを受けることに対して他の身体よりもより有能であるに従って、その精神もまた多くのものを同時に知覚することに対して他の精神よりそれだけ有能である。またある身体の活動がその身体のみに依存することがより多く・他の物体に共同して働いてもらうことがより少ないのに従って、その精神もまた判然たる認識に対してそれだけ有能である。(注12)

この主張は、精神と身体の間に一方が能動的なとき他方は受動的であるという反比例的な力関係を持ち込んだ上で、つねに前者が能動的で後者は受動的であるべきだ(精神は身体を支配できるし、支配しなくてはならない)と信じてきたスピノザ以前の発想と比べれば、事実上身体の復権という意味を持つものとして評価しうる。それどころか、スピノザはいっそう端的な言葉づかいで、次のようにさえ断定することさえはばからないのだ。

すべて我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものの観念は、我々の精神の思惟能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する。(注13)

まさしくこの文章に、すなわち『エチカ』第三部定理11の本文に伴う備考は、喜びを「精神がより大なる完全性へ移行する受動」として、また悲しみを「精神がより小なる完全性へ移行する受動」として定義するとともに、精神と身体とに同時に関係する喜びの感情を快感あるいは快活と呼び、同様な関係における悲しみの感情を苦痛あるいは憂鬱と呼ぶ旨を宣言し、あまつさえ喜びと悲しみに欲望を加えた三者以外に―「おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める」(注14)のであり、精神もその点で例外ではありえない。そして、この努力(自己保存の努力)が精神だけに関係する場合は意志と呼ばれるのに対して、同時に精神と身体とに関係する場合は衝動と呼ばれ、特に意識を伴った衝動は「欲望」として定義される(注15)―、何ら基本的感情を認めていない(注16)。このことは、いかにスピノザの倫理学が彼以外の者の手になる倫理学の体系と比べて身体の自発的な活動能力を重視しているか、そしてその点においていかに「あれをしろ、これをするな」という命令や禁止に満ちた道学者的な説教の類から自由であるかをよく表している。
ただし、身体の復権がそれ自体としてスピノザの倫理学にとって究極の目標であると信じるのは早計である。スピノザ流の並行論がもたらす心身の対等性のもとで、「身体に何ができるか、我々にはわかっていない」という先の指摘を真面目に受けとるとすれば、我々は必然的に、身体が我々の認識を超えているのと同様に、結局思惟もまた我々の認識を超えていると結論づけざるをえなくなるからだ。

身体のうちには私たちの認識を超えたものがあるように、精神のうちにもそれに優るとも劣らぬほどこの私たちの認識を超えたものがある。したがって、みずからの認識の所与の制約を越えた身体の力能をつかむことが私たちにもしできるようになるとすれば、同じひとつの運動によって、私たちはみずからの意識の所与の制約を越えた精神の力能をつかむこともできるようになるだろう。〔中略〕いいかえれば身体というモデルは、スピノザによれば、なんら延長〔私たちの物質としてのありよう〕に対して思惟をおとしめるものではない。はるかに重要なことは、それによって意識が思惟に対してもつ価値が切り下げられる〔意識本位が崩される〕ことだ。無意識というものが、身体のもつ未知の部分と同じくらい深い思惟のもつ無意識の部分が、ここに発見されるのである。(注17)

「意識は、どっぷりと無意識の海に浸かっている」(注18)。原因に対する無知から物事の順序を転倒してしまう傾向に起因する目的因の錯覚、身体に対して意識自身が行使する単に想像上でしかない権力ないし自由裁量の錯覚、そして目的因や自由裁量を駆使して人間に賞罰をもたらすような架空の人格神の存在を信じるという神学的錯覚―意識が抱く、というよりも意識そのものにほかならないこの三重の錯覚への容赦ない批判が必要である(注19)。そして、これらの錯覚からの脱却と表裏一体のものとしてスピノザのもとに現れるのが、前代未聞の簡潔さと身も蓋もない率直さで我々を射抜く、新たな善悪の定義なのだ。

とは、それが我々に有益であることを我々が確知するもの、と解する。(注20)

これに反して、とは、我々がある善を所有するのに妨げとなることを我々が確知するもの、と解する。(注21)

善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほかならない。(注22)

これに続けて『エチカ』第四部定理30の証明が告げているように、悪とは「悲しみの原因であるもの」、換言すれば「我々の活動能力を減少ないし阻害するもの」なのである(注23)。ドゥルーズの説明を借りるなら、それは構成関係の分解に通じるような悪しき出会いのことを指す。「わるい」のはつねに「一種の消化不良、食あたり、中毒であり」、いわゆる罪のことではない(そのようなもの、つまり禁止されたことを実行したがゆえの罪悪とは、想像上の産物にすぎない)(注24)。したがって、その対義語である「よい」とは、もはや道徳的な禁止の反対ではなくて、例えば何らかの食糧がそうであるように、我々の身体と直接的に構成関係の合一をみて、我々の力能の増進に寄与するような体のことを、ひいては自分の利益の増進につながる「よい」出会いを上手に組織立てる術を知っているような人物の才覚のことを指すのでなくてはならない。それは、いわゆる善良さというよりは優良さである。同様に、「わるい」出会いの結果に振り回されるばかりで、不平不満をこぼす以外に何ら出会いを積極的に組織する術を知らない無能な人物のことも、やはり「わるい(劣悪である)」と呼んでさしつかえないのである(注25)。
ここに、ただただ我々を自分たち自身の生から切り離してしまう一方である悲しみの受動的感情、またそれから派生してくる憎しみや罪責感やさまざまな迷信の体系(そこには、ユダヤ教やキリスト教も含まれる)に対してスピノザが突きつける告発を重ねて考えるとき、『エチカ』の全体的な構図は、身体的次元での活動力能の増大にもとづく喜びの念をきっかけとする、真に能動的な生への手引きとして整理できることになる。能動と受動は、ともにある個体の経験する変状ないし変様であるが、前者はその個体の本性から説明されるのに対して、後者は他のものから説明されるという点が異なる。しかしそればかりではなくて、受動にもすでにみたように喜びと悲しみの二種類を区別しなくてはならない。たしかに、一見すると両者には我々を自らの活動力能から切り離したままにするという点が共通しているようでもある。

けれども、私たちが自身の体と適合・一致をみない外部の物体や身体と(すなわちその構成関係が私たちのそれとはひとつに組み合わさらないような体と)出会ったときには、すべては、いわばその相手の体の力能がこの私たちの力能に敵対し、これに対してマイナスや固定化にはたらくかたちで進行する。すなわちこの場合、私たちの活動力能は減少するか阻害されるのであり、それに対応する受動〔受動的情動〕が悲しみの感情である。それとは逆に、私たちが自身の本性と適合・一致をみる体と出会い、その構成関係が私たちのそれとひとつに組み合わさるときは、いわば相手の体の力能がこの私たち自身の力能にプラスされるかたちとなる。そうした変様を私たちに引き起こす受動、これが喜びの感情であり、この場合には私たちの活動力能は増大するか促進されるのである。この喜びも、外部にその原因をもつ以上はまだ受動の域を出るわけではない。私たちはまだ、みずからの〔能動的な〕活動力能から切り離されたままにとどまり、この力能を形相的に所有しているわけではない。しかし、それでもこの活動力能がそれにともなって増大することに変わりはない。ここに私たちは一歩、転回点に―ついに私たちがそのあるじとなり、真に能動〔みずからの活動〕の名、能動的な喜びの名に値するものに変わるだろう質転換の起こる地点に―「近づく」のである。(注26)

最大限の喜びの受動に達し、そこから自由で能動的な感情へと移行するための方途を人間に示すこと、これこそが『エチカ』においてスピノザが取り組まなくてはならなかった課題であり、それは原因に関して十全な観念を形成すること、および自己自身と神と他の全てのものを、最終的に永遠の必然性によって意識すること(むろん、この場合の「神」とは、『エチカ』が定義する徹底して非人格的な「絶対に無限なる実有」ないし自然そのもののことであり、そのかぎりでいかなる既成の宗教が教える神とも違う)、というなお二つの局面とあいまって三重の課題となる(注27)。

いまや我々には、意識の地位の格下げを伴う身体の存在感の強調と、よい出会いがもたらす喜びの感情を経由する受動性から能動性への飛躍という、二つの点から『のばらセックス』とスピノザ哲学との共通性を確かめる準備ができている。
まず前者から検討しよう。第II章「ずっと薔薇色なわけがない」において、義父の「あいちゃん」こと坂本逢(に化けたその父親)の館に監禁されたおちば様は、彼に結婚を迫られた上に女子の出産を要求される。その際の愛撫の情景を見てみよう。

 空気を吐くと、それは快楽で味つけされていて、勝手に舌が喋ってるみたいだ。あいちゃんは巧みで、何人もいるみたいだった。ちっとも痛くなくて、全身が肉から解放されて、気持ちよさだけになる。
「ああ、うう」
 優しい。
 あいちゃんは優しい。
 優しい優しい優しい。
「うああ」
 怖い。
 知らない感覚が、背筋を這いあがってくる。生まれてはじめての出番に、身体の奥で準備運動をはじめる部分がいくつもある。身をよじり、寝台のシーツがおおきく乱れ、片足がベッドから落ちる。びくんびくんと、腰が勝手に跳ねる。
 あいちゃんが全身を愛撫(あいぶ)しながら、指先を膣の奥に奥にといれて、ぜんぶ探って確かめて、いちばん弱いところをいじめる。あたしは完全に掌握されて、あいちゃんから逃げようと身体を引きつらせたまま。
 あいちゃんの名前を呼んで。
 一瞬、真っ白。
 いちばん奥から透明な体液が噴出して、ベッドシーツを濡(ぬ)らしていく。全身が脱力して、あたしは無抵抗になる。自分の身体じゃないみたいに、指先が、髪の毛の根本が震えている。
「あ、あ、ああ……」
 とろけて、あたしは放心する。
「あう……」
 よだれまで、垂れていた。経験豊富なおとなのあいちゃんに、あたしみたいな小娘が抵抗できるわけがなかった。あたしは素人同然で、どこもかしこも狙いほうだいな、か弱い獲物だった。
 足を折り、燃えるような身体を丸めて、耐えた。今さら遅い。あれだけ感じておいて、抵抗も何もない。あいちゃんは何も言わずに、あたしの頭をまた撫でている。もう、その手つきまで心地よい。
 あいちゃんの馬鹿。ゆるさない。一生怨んでやる。娘に手をだす異常性欲者。子供相手に興奮するペドフィリア。いくらでも罵倒語が浮かび、すべてがあいちゃんの指先で簡単なパズルゲームみたいに消滅していく。
 あいちゃんは、お父さんだ。
 だけど、いま迫られたら、抵抗できないのがわかっていた。
 ソプラノへの恋心も忘れて、そんなふうにたやすく整えられてしまう。自分がいやだった。(注28)

少なくとも近現代の日本語の小説の中に、これに匹敵する精度と克明さで、息づまるような緊迫感の中で心を引き裂く惑乱とともに女性の官能を追跡しえた実例がほかにあるかどうか寡聞にして私は知らないし、その点だけでも『のばらセックス』は文学史上特筆に値する作品だと思えるが、それはさておき、ここではあくまでも身体の勝手な先導によっておちば様の意識が翻弄され、本来ならば恋人(ソプラノ)への義理という観点からしても、また家族同士の性交渉を忌避する常識の観点からしても決して抱くべきでない情愛の念が彼女の中に生まれていることがわかる。たしかに、よく読めば「全身が肉から解放されて」なる表現もまぎれこんでいるわけだが、これとて意識にとっての肉体の制御不可能性を暗示するための修辞と考えることはあながち強引でもないはずだ。身体は、「肉」であるそれ自身から「肉」ならざる「全身」を快楽の塊として瞬時に発出せしめることすらできるほどに計り知れぬ働きを秘めている。このような読み方が妥当だと思えるのは、主人の代理として現れた召使のシオンに強姦され、重傷を負った瀕死のおちば様をあいちゃんが自らの手で治療してくれるときの場面が、ゆめゆめ侮るべからざる「肉」の権能を、もっとあからさまに、それに振り回される我々人間の意識の側の無残なまでの脆弱さという文脈において教えてくれるからだ。

 あたしたちは肉の身体で生きている。肉を癒し、快楽を与えてくれたものを、無条件で味方と信じる。(注29)

むろん、この文章は、いささかたりともいわゆる快楽主義の積極的な主張として読まれてはならず、むしろそれへの痛烈な諷刺として読まれなくてはならない。すなわち、我々が肉に縛りつけられたもっぱら受動的でしかない精神というものの有限性について反省し始め、そしてそれを自分たちの無力さとして哀しむようになるというところに、この文章の効能が存するのである。思い出さなくてはならないのは、スピノザによれば、喜びはたしかに受動の一種であってしかもその下位区分として快感(「精神と身体とに同時に関係する喜びの感情」)を含むとはいえ、それ自体としてはあくまでも「精神がより大なる完全性へ移行する受動」なのであり、つまりは身体の活動力能の増大と並行的でなくてはならないということだ。それだから、『エチカ』第四部において、喜びは「直接的には悪でなくて善である」(注30)にもかかわらず、快感については「過度になりうるしまた悪でありうる」と書いてあるのは、断じて著者の思考の不整合の表れではなくて、むしろその思慮深さを示すものであり、ぜひとも必要な区別である。快感は「身体の一部分あるいは若干部分がその他の部分以上に刺激されることに存する」以上、度が過ぎれば身体が刺激される仕方をひどく狭めてしまい、こうして我々の有能性を損なってしまうからだ(注31)。まさにこれこそ、あいちゃんの館で連日シオンに強姦されている最中のおちば様の状態であり―「その日からあたしは、文字どおり家畜みたいだった。/太陽がのぼっている間はずっとシオンにいたぶられて、身体の内側がぜんぶべとべとになるんじゃないかっていうぐらい精液を注入された。〔中略〕これで何度、交わっただろうか。六回? 七回? 十回以上?」(注32)―、媚薬の注入に続く失禁の場面を経てどん底に達する(注33)彼女の惨めさは、やはり心とは裏腹に肉体が貪ることをやめない多量の快感によって意識が愚弄される以下のくだりにおいて、すでに明瞭すぎるほど明瞭である。

 体位が変わって、あたしの足がシオンのきゃしゃな肩のうえにのる。より深く、彼のものがさしこまれる。身体がしびれていて、自分の爪先(つまさき)がやけに遠い。
「ふあん」
 変な声が出て、顔を赤らめる。まだすこしは羞恥心があるみたいだ。
 厄介なことに、シオンはこういうことが上手だった。いやなやつなのに、気持ちよくされてしまう。へたくそ、とか罵(ののし)ってやれたらいいのに。気がつくと夢中になって、挑発なんてできなくて、全身の毛穴が開いちゃいそう。
 ちゅこちゅこと水音が響くなか、やがて異変が訪れる。
「あ、あう……?」
 呼吸がしにくい。ちがう、口のなかが唾液でいっぱいなのだ。目が見えない。それもちがう。涙が溢れてきたのだ。
〔中略〕
『あたし』という輪郭が崩れて、中身が溢れちゃいそうな。(注34)

例えばジョアン・コプチェクのようなラカン派精神分析に通暁した論者が、通常の快原理の支配の埒外にはみ出るような、死の欲動と一体になった耐えがたいまでに強烈な満足としての享楽(jouissance)の体験を手掛かりにして恥辱の現象の解明を試み、「恥ずかしさは、耐えがたい痛み―つまり、意識が所有できない苦しみを覚えるはめになった身体の、証言者である。精神分析はこの特殊な痛み、意識には吸収されない快楽を、リビドーの満足あるいは享楽と呼んでいる」と書いているのを読むと(注35)、いまさらながら日日日とラカン派の相性のよさというか、親近性には驚かされるほかない。望ましからぬ相手から自分の意に反して力ずくで性交を強要されること、しかも休む間もなく立て続けにそうされること、それはもちろんただでさえ屈辱的なことであり、受け容れがたい恥辱である。しかし状況を決定的にやるせなく、いたたまれないものにしてしまうのは、本来被害者として憤るべき「あたし」(おちば様)がまぎれもなく快感を覚えているということ、しかもその快感たるやおよそいわゆる精神的な(「高尚な」)ところがないばかりか、あべこべに例えばほかならぬ自分の身体から「ちゅこちゅこ」などという間抜けな音が出てくる始末であること、こういった否定しがたい事実なのだ。この点、忘れてはならないのは、仮に精神分析の参照が許されないとしても、我々にはドゥルーズによるT.E.ロレンス論が残されているということだろう。コプチェク以前に、すでに彼は『知恵の七柱』を批評する中で「肉体に代わって恥じる」という事態に言及しているばかりか、身体になしうることについての我々の無知に注意を促すという、ロレンスがスピノザと共有する姿勢を、ほかならぬ肉体の性的な反応(外部からの暴力の到来に際して肉体が覚える性的興奮)という面から次のように確認しているからだ。

精神は肉体へとかがみこむ。このかがみこみ、卑しきものへのこの磁力、精神の覗き趣味、それなしには恥辱はなにものでもなくなってしまうだろう。言い換えるなら、精神は肉体をきわめて特殊な仕方で恥じているということだ。しかし実際は、精神は肉体に代わって恥じているのである。あたかも、肉体にむかって精神がこう言っているかのようだ。おまえを見ていると恥ずかしくなるよ、恥を知ったらどうだ……、と。〔中略〕
 肉体に代わって恥じるということには、ひどく特殊な肉体概念が含まれている。この概念に従うなら、肉体は外的な反応を自律的に示すことになる。肉体は動物なのである。肉体が為すことがあるとすれば、それは単独で行なわれるのだ。ロレンスはスピノザの言葉を自家薬籠中のものとしている。つまり、肉体になにが可能なのかわれわれは知らないのだ。拷問のさなかに、勃起したりするのである。(注36)

このおぞましい境遇から脱出するためには、肉欲の抗いがたさを逆手にとることが、つまり破れかぶれになって羞恥心をかなぐり捨ててしまい、自ら性的な誘惑を行使することによって、もう一人の召使であるセノンを手玉にとり、さらにはあいちゃん本人をも罠にかけて死に至らしめるという骨の折れる作戦が必要だった。この自発的な汚辱への沈澱の中に、すでに能動性への転機が潜んでいることは疑いえない。なお、主人が死んで自由の身になった以上その場から離脱してもよさそうなのに、怒りに我を忘れておちば様に仇討ちを挑んだ結果、間一髪で彼女の救助に駆けつけたソプラノにあっけなく敗れるシオンの空しい忠義は―加工種(エルフ)の殺人鬼であるソプラノは、シオンと違って何ら特別な鍛錬の経験がないが、それにもかかわらず「単純に生物として強いということは、あらゆる理屈を無視する」(注37)がゆえにたやすく勝利する―、これはこれで、肉体に対する精神の地位を過信しないようにという、残酷なまでに皮肉な戒めでありうる。
もちろん、ここまでで終わってしまっては、単に精神は肉体に勝てないというだけの底の浅い結論にもなりかねない。むしろスピノザ主義者としての日日日の本領は、「身体に何ができるか、我々にはわかっていない」というあの不思議な教えから、ドゥルーズの表現を借りるなら「鬨声(ときのこえ)」(注38)を、すなわち我々自身の力能を増大させてくれるようなよい出会いの組織化に、そして喜びを介した受動性から能動性への転換に赴くための力強い号令のようなものを彼が引き出そうとする点にこそ存すると考えるべきだろう。
『エチカ』の体系においては、身体であれ物体であれ、およそ個々の体というものは、全ての属性にとって唯一無二の実体―それをスピノザは「神」と名づける―にほかならぬ、ある内在的な共通平面の上に見出される様態である。そしてそれぞれの体の個体性は、第一にそれらを構成する無数の微粒子の間に成り立つ運動と静止、速さと遅さの複合関係であり、第二にある体が他の諸々の体を触発し、あるいはそれらによって触発される力、すなわち変様能力なのである。『エチカ』の主に第二部(「精神の本性および起源について」)で集中的に論じられている物体論ないし身体論をこのようにまとめた上で、ドゥルーズはスピノザのことを、今日エトロジー(éthologie)という名で呼ばれる学問、すなわち動物行動学ないし生態学の始祖として考えようとする。「君たちはひとつの身体、またひとつの心が、ある出会いにおいて、ある組み合いにおいて、ある結びつき合いにおいて、何をなしうるかをあらかじめ知りはしない」…この叫びとともに幕を開けるのが、まずは「個々のものがそれによって特徴づけられるような速さと遅さの複合関係、触発しまた触発される力についての研究」であり、第二にそのような複合関係、および触発ないし変様の能力の「状況に応じた具現のされ方、満たされ方」―これは、しかじかの情動が当の個体にとって毒となるか糧となるか次第で大きく異なってくる―の研究であり、最後に別々の個体の間で、それぞれの持つ関係や力の間に成り立つ複合的構成の研究、換言すれば「各個を構成している関係相互が(またどんな構成関係をもつものどうしが)直接ひとつに組み合わさって、あらたな、もっと『拡がりの大きい』構成関係をかたちづくることができるかどうか、各個のもつ力が相互に直接ひとつに組み合わさって、あらたな、もっと『強度の高い』力、力能をつくりあげることができるかどうか」を知ることである(注39)。
『のばらセックス』第III章「いつかは散る薔薇」の冒頭、「ソプラノの男性器は、見慣れないうちは異様だった」に続く、信じがたいほどに美しい性交の情景は、このような、スピノザ的な意味でのエトロジー、動物行動学ないし生態学の探究の具体例として読むことができる。もちろん、単に「あたしたちも動物だ」(注40)という文章が現れることだけが理由ではない。例えば、喋るためでも食べるためでもなく、男性器を愛撫するために口を使うことを学び、そのような未知の、いままで経験したためしのない用途に自らの身体を投じることで、他人の体との新たな組み合わせを模索するという試みのゆえに、我々はそう判断せざるをえないのだ。ただし、「その下着を押しあげて主張し始めたおちんちんを、指先でなぞる。どんどんかたちが明確になる。それはあたしたちの欲望のかたち」というくだり(注41)からもただちにわかるとおり、求められているのはあくまでも組み合わせ、ないし複合的構成なのであって、支配する側とされる側の不動の上下関係でも、ましてやそのような上下関係の存続でもない。それに、個体性に具わる二つの相、すなわち速度の変異と―「ソプラノがもう我慢できない、というようにあたしの後頭部を摑んだ。腕力がすごく、あたしは抵抗できない。ものすごい勢いで、彼の男性器が喉の奥までつっこまれた」(注42)―、触発したりされたりする、変様能力そのものについても―「そのままソプラノは射精した。〔中略〕あたしの体内に、容赦ない満足感が芽生える」(注43)―忘れてはならない。
なるほど、「お互いに体力を消耗し、互いの名前と『愛している』と、喘ぎ声しかでなくなる」という一文(注44)は、すぐ後に引用するくだりに先行しながら、あたかも、性関係の不可能性(その本質を言い表しえないこと)に直面して、決して重なり合わない両性の間の一致をいつまでも夢見ることを余儀なくされる「愛」の悲劇的な壮挙についてのラカン的な洞察(注45)、ひいては言語というものを何よりもこの不可能な結びつきの幻想的な代補とみなす彼の見解を―「二つの存在が結びつくことが出来ないから、彼らは話すのだ、とラカンは言う」(注46)―例証しているかのようでもある。

 なに。ちょっと待って休憩。と言おうとした瞬間だった。ソプラノはかんたんにあたしの下着をはぐと、当然のように前戯なんて概念知らないから。
 そのまま挿入してきた。あたしは上半身を寝台に突っ伏したまま、腰だけ持ちあげられておちんちんを突っこまれる。背骨が真ん中から折れそうだった。
「ひあっ!?」
 性感よりもまず驚きがきて、あたしは変な声。ソプラノの太いのが膣内を通過し、身体全体がびりびりと痺れる。心臓が震えて、停止しそうになる。相変わらずこっちのことをおもちゃみたいにして、全力で腰が振られる。ばちんばちんという互いの肉が当たる音は、もはや骨と骨がぶつかってがちんがちんになる。
 刃の鍔(つば)迫(ぜ)り合い。やっぱり戦いみたいだ。そして、戦いにおいてひ弱な人間のあたしは、頑健な加工種(エルフ)に勝てない。ということに、しておいて……。
 こ、これで勝ったと思うなよ……。
 がんがん欲望をぶつけられて、あたしはもはや何もわからない。年上の余裕なんて吹き飛んで、勉強したことぜんぶたいらにされて、ひたすら貪りあう。汗が飛び散り、水音が響き、互いの息づかいがすべてになる。
「ソプラノ、ソプラノ……」
「せんぱい―」
 名前を呼ぶ。暗闇で、お互いを探すみたいに。不安になったみたいに、身体を押しつけあう。求められている。それが嬉しい。ソプラノの存在を魂の奥底まで刻みつけられる。
 もう、逃げられない。
「あう、あうう、ふあううう」
 そばにあった枕を抱いて、何度も背中を跳ねさせて、あたしも積極的に応じる。お互いの気持ちいいところを痒くてたまらないみたいに押しつける。
「ふあああ、ああああ」
 快楽にむせび、この世の幸福を味わっていると。(注47)

しかしながら、以上のくだりそのものは、やはり必ずしも合一の不可能性を強調するものとしてのみ読まずともよいようである。我々はむしろ、さりげなく書きこまれた「互いの息づかいがすべてになる」という感覚を素直に認めるところから出発して、一切の有機的組織化、一体化や全体化に抗いつつ、何ら欠如を知らぬ欲望の内在性と生成変化の倫理とを肯定するためにドゥルーズがアントナン・アルトーから借用した「器官なき身体(Corps sans Organes)」、ないしCsOの構成の試みをここに読みとるべきではなかろうか。それというのも、クロソウスキーにならって「気息は、それ自体としても、われわれの内においても、純粋な強度として認められるべきであると思われる」と述べるドゥルーズを信じるなら、「常に、私の気息の中には他の気息があり、私の思考の中には他の思考があり、私の所有するものの中には他の所有物があり」、このようにして「われわれは気息送入と揺らぎなのであり、われわれは気息送入や揺らぎによって互いに混じり合うのである」という事態が成り立つ(注48)一方で、まさしく「分節されない音のブロックに等しい息吹や叫び」を発して明瞭な発話に対抗する(注49)器官なき身体こそが、ただただ強度によってのみ占有される物体ないし身体、すなわち「強力な、形をもたない、地層化されることのない物質、強度の母体、ゼロに等しい強度であり、しかもこのゼロに少しも否定的なものは含まれていない」ような、「有機体(オルガニスム)の成長以前、器官(オルガヌ)の組織(オルガニザシオン)以前、また地層の形成以前の充実した卵、強度の卵」(注50)であるからだ。
それゆえ、いましがた『のばらセックス』から引用したばかりの目もくらむほど鮮烈な性交の場面の前半に現れる「戦い」、「刃の鍔(つば)迫(ぜ)り合い」を思わせる真剣勝負の模様については、プルースト、あるいはむしろ「一つの並外れた〈器官なき身体〉」(注51)である『失われた時を求めて』の話者の文体における諸破片の終わりなき闘争についてドゥルーズが説明していること―「決して何ものもある友愛(フィリアー)〔une philia〕によっては平定されることがない。ちょうど諸々の場所や諸瞬間に関しても、結婚する二つの感情は闘争しながらでしかそうせず、そしてこの闘争においてある長続きしない不規則な団体〔un corps irrégulier de peu de durée〕を形成するように。藝術的な〈観点〉という本質の最も高度な状態においてすら、開始する世界は諸々の音をそれらに自らが立脚する当の終極的な齟齬せる諸破片として闘争させるのである」(注52)―を参照しなくてはなるまいし、また後半については、おそらく「ソプラノの存在を魂の奥底まで刻みつけられる」という一文を手掛かりにした、古代ギリシャのストア派哲学における非物体的なものの理論との比較が許されてよいはずである。
なんとなれば、ストア派によれば存在するのはひとり物体のみであり、「魂」もまた存在する物体であるばかりか、我々が接する諸物体とは、そもそも原初の火(能動的物体)が物質(受動的物体あるいは性質なき質料)と全面的に混合してその内側から働きかける際に、個別の一体性を保証する内的な力、すなわち「気息」として示すありとあらゆる緊張の諸状態にほかならず、この全面的混合の中で諸物体がもっぱらそれによって区別される内的な力(例えば、動物における霊魂や人間における精神)の性質的差異とは、実はそのまま緊張という強度の差異のことであるからだ。換言すれば、ストア派の宇宙は緊張に貫かれた諸物体が相互に浸透することをやめないトノス(緊張、張力)一元論の世界であり、あるいは、実体としては気息である内的な力がみせる、働きの個体化の様相が緊張なのである(注53)。しかるに、物体は相互浸透の結果として、ある非物体的なものを、すなわち動詞によって表現されるような出来事をその表面に産出する。ただし、言語の経験的・惰性的使用において単に物の状態の上に意味として現働化したかぎりでの出来事を表現しうるにすぎない、活用を受けた動詞と、そのつど純粋な出来事としての潜在性の次元の中でいわば反‐実現を遂げる表現可能なものに対応する不定法の動詞との区別が示唆しているように、「意味されるもの(セーマイノメノン)」と「表現可能なもの(レクトン)」という二つの術語を混同してはならない。身体の力能を忘却したまま表面で分節化した言葉による言語活動においては意味が所与の条件として前提されるが、これに対して身体に生起する強度的な出来事の言語(「ドラマの言語」)の場合には、決してそのような再認の対象があらかじめ与えられることはないからだ。江川隆男によれば、ここからわかるのはとりもなおさず、有機的身体とは違い、感覚の可能性ならぬ必然性を教えてくれるような身体、すなわち器官なき身体の存在である。

要するに、物体の限界面に生じる非物体的なものを、〈意味されるもの〉(セーマイノメノン)ではなく、〈表現されるもの〉(レクトン)とするような身体が存在するということである。こうした身体が存在するということは、〈感覚されることしかできないもの〉が世界に存在することを示している。つまり、諸器官の総体としての有機的身体は感覚の可能性を意味するが、しかし、そうした器官のない身体そのもの(身体の本質)の存在は感覚の必然性を示しているのだ。(注54)

器官なき身体への生成変化のためには、表面の言葉の言語や「意味されるもの(セーマイノメノン)」から自由になった「表現されるもの(レクトン)」が、それを産出した身体の力を肯定するためにその身体に回帰することが必要である。しかるにストア派の哲学者たちが、諸物体からなる宇宙の外、当面物体によって占有される可能性が尽きているところに無限の空虚(ケノン)を、すなわち「緊張の度合が生み出す差異をけっして受け入れないという意味で、完全に不毛な無差異のうちにとどまり、それゆえそこにいかなる強度も存在しない〈強度=0(ゼロ)〉という非物体的なもの」を想定しながら、しかも周期的に発生する宇宙の大火―このときのみ、全物体は火へと解消して空虚の中に膨張する―を経て何度となく世界が再生を繰り返すという説を唱えたことは、「空虚という身体の本質に、身体の存在を強度として受け入れさせる」というこの課題に、彼らがすでに突き当たっていたことの証拠として理解できるはずなのだ(注55)。
少し回り道になったかもしれないが、ここでもう一度『のばらセックス』からの引用文に戻ろう。すると我々が気づかざるをえないのは、例えば「性感よりもまず驚きがきて、あたしは変な声」という文からもうかがえるように、「意味されるもの(セーマイノメノン)」の秩序に陥ることも、たやすくそれに還元されてしまうこともない「表現されるもの(レクトン)」を生ぜしめ、そのようにして「感覚されることしかできないもの」の実在(感覚の必然性)を強度的に教えてくれるような身体のあり方である。まさしく、「身体に何ができるか、我々にはわかっていない」のだ。ゆえに、「名前を呼ぶ。暗闇で、お互いを探すみたいに」云々と書いてあるのは、精神分析が悲劇的な調子で、あるいは斜に構えて宣告するような両性の合一の不可能性というよりも、むしろそのような身体、器官なき身体が、もっぱら火だけを受け入れて白熱するストア派の空虚のごとく、強度によってのみ占有される身体であり―「ソプラノの太いのが膣内を通過し、身体全体がびりびりと痺れる。〔中略〕ソプラノの存在を魂の奥底まで刻みつけられる」―、強度の卵であることが理由なのである。それと、「名前を呼ぶ」・「身体を押しつけあう」・「お互いの気持ちいいところを痒くてたまらないみたいに押しつける」…等々の、主語を欠き、いわば裸形のまま投げ出された不定法的な動詞の連続についても、それらがみな、先行する叙述の中では活用を受けて過去形ないし完了形となった動詞が明確な主語ないし主体に従属している(「ソプラノはかんたんにあたしの下着をはぐと、〔中略〕そのまま挿入してきた」)ことと比べて著しい文体上の対照を示しているのは見落とせない。もっともこれは『のばらセックス』に特有のことというよりは、日本語という言語の性質上、印欧語における動詞の不定法に相当するはずのものと、人称・数の変化に応じた直説法現在の活用形に相当するはずのものとが外見上区別できず、また文の主語についても適宜省略が許されており、必ずしもつねに明示しなくてよいという事情の然らしめるところなのであろう。
決定的なのは、ドゥルーズと彼の盟友フェリックス・ガタリにとって、器官なき身体(Corps sans Organes)ないしCsOとはそもそも「最もスピノザ的な意味における内在的実体」にほかならないという事実である(例えば性器がそうでありうるような「部分対象」は、その実体の属性である。換言すれば、器官なき身体が敵対することになる相手とはあくまでも身体の有機的組織化なのであって、器官そのものではない)(注56)。それゆえ彼らはこう主張する。

 結局、CsOに関する偉大な書物は、『エチカ』ではなかろうか。属性attributとはCsOのタイプ、あるいは種類であり、実体にして力、生産的な母体としての強度ゼロである。様態modeとは、生起するすべての事柄、つまり波と波動、移動、閾と勾配、一定の実体的なタイプのもとで、ある母体から産み出される強度である。属性または実体の種類としてマゾヒストの身体があり、身体を縫うことから、つまり零度から始まって、強度が、つまり責苦的な様態が産み出される。麻薬中毒者の身体はさらに他の属性であり、〈絶対寒冷〉=0から始まって、特異な強度を生産する。〔中略〕あらゆる実体にとって同一の実体があるか、あらゆる属性にとって唯一の実体があるか、という問いは、あらゆるCsOから成る一つの総体が存在するだろうか、という問いに言い換えられる。しかし、CsOがすでに一つの極限であるなら、あらゆるCsOの総体についていったい何を言うべきなのだろう。問題は一と多ではない。一と多の対立をまったく超えてしまう融合状態の多様体こそが問題なのだ。実体的属性の形相的な多様性は、このようなものとして実体の存在論的な統一を達成する。同一の実体のもとにあるあらゆる属性の、またはあらゆる種類の強度の連続体。そして同一タイプまたは同一の属性のもとにある、一定種類の強度の連続体。あらゆる実体の、強度における連続体、さらにあらゆる強度の、実体における連続体。CsOの、中断のない連続体。CsO、内在性、内在的な極限。麻薬中毒者、マゾヒスト、分裂病者、恋人たちなど、すべてのCsOはスピノザをたたえる。CsOは、欲望の内在野champ d'immanenceであり、欲望に固有の存立平面plan de consistanceである(そこで欲望はあくまで生産の過程として定義されるのであって、それに空虚をうがつ欠如、これを満たしにくる快楽などの、どんな外的契機とも無縁である)。(注57)

ここに、スピノザ的な器官なき身体の体現者、というよりも実例そのものとして、「恋人たち」と並んで「マゾヒスト」が姿を見せることは、『のばらセックス』をスピノザ主義の小説として読もうとする我々にとって無視できない。なにしろ、恋人の射精を咽喉で受けとめた直後のおちば様の苦悶は、以下のとおりに描写されているのだ。

 ソプラノは満足そうに、あたしの髪の毛を引っつかんだまま、長く吐精した。それこそ、縄張りを主張するように。あたしの体内に、容赦ない満足感が芽生える。
 えへへ……。
 ようやく男性器が引き抜かれ、よだれと精液とわずかな出血で、異様に輝く。まだ元気。あたしは口から溢れてくるいろんなものを手のひらで押さえたが、指の隙間から漏れてくる。床に染みができていく。
「ごほっ、げほごほっ」
 朦朧(もうろう)とした意識のなか、収まらない咳だけが痛みをともなう現実だった。目を閉じ、俯き、寝台に突っ伏したまましばし喘いだ。ソプラノとのいやらしい行為は、気持ちいいというよりも、むしろ戦いだ。どう死なずに乗り越えるかが肝心だ。
 何でそんな酷い目にあってまでソプラノを選ぶのか。疑問に思われるかもしれない。でも、これがあたしの愛したひと。あたしの愛すべきすべて。
 ならば、痛みを堪え、あるいは慣れて、快楽さえ得て、あたしは自らを調教する。ひとりよがりじゃない、ソプラノも努力してあたしに歩み寄ってくれている。以前はよりあたしを苦しめるために眼球とかに射精したし。(注58)

ここで彼女が自分自身に施す「調教」の過程は、まさに、次に引用するドゥルーズたちのマゾヒズム論に、この上なくみごとに呼応するものであろう。その要諦は、マゾヒストが苦痛から引き出そうとしているものとは、ありきたりのけちな快楽というよりもむしろ、いかなる欠如も知らない欲望の自足性である、という点に存する。

マゾヒストの苦痛は快楽にいたるための手段ではなく、外的な基準としての快楽に対して欲望が結んでいる偽りの関係を解体するための代価なのだ。快楽は決して苦痛による迂回によって獲得されるべきものではなく、肯定的な欲望の連続的な過程を中断するものとして、できるだけ遅延されなければならない。それはつまり、欲望には、あたかも自分自身によって、自分自身を見つめることによってのみ満たされるかのように、ひとつの内在的な喜びが存在するということである。この喜びはどんな欠如とも、不可能性とも無関係で、快楽によって測られはしない。なぜなら、快楽の強度をいきわたらせ、この強度が、苦悩や、恥辱や、罪悪神によって侵されるのを防ぐのは、まさにこの喜びだからである。つまり、マゾヒストは、一つの器官なき身体を作り上げ、欲望の存立平面を抽出するための手段として、苦痛を用いるのだ。(注59)

ゆえにマゾヒズムの本質とは、本能的な力を破壊し、あるいは強制的に組み替えてしまうことによって、所与の自然に抗いつつ動物への生成変化をもたらすような、一つの器官なき身体の構成として定義できるのである。

マゾヒズムの本質をなす〈動物になること〉があり、力の問題があるのだ。マゾヒストはこれを次のように示す。「調教の公理本能的な力に代えて伝達された力を得るために本能的な力を破壊してしまうこと。」実際は、それは破壊というよりは、交換であり、流通なのだ(「馬に起きることは、自分にも起こりうる」)。(注60)

とすれば、「あたしたちも動物だ」(注61)という自覚とともに、吐き気のような苦痛に満ちた「生理的反応」(注62)の克服に努めつつひたすら自分自身の「調教」に励むおちば様は、いわば模範的なマゾヒストなのだ。この際、彼女が「痛みを堪え、あるいは慣れて」に続けて「快楽さえ得て」とも述べていることは、ほんの些細な齟齬、ちょっとした言葉の問題にすぎない。むしろ、まさにそのような、自然的本能に反する特異な内在的「快楽」をも発明してしまう欲望の創造性を指して、ドゥルーズたちは「欲望には、あたかも自分自身によって、自分自身を見つめることによってのみ満たされるかのように、ひとつの内在的な喜びが存在する」と書いているのだと考えるべきであろう。
それでは、おちば様のこの自主的な調教の動機は一体何か。この問いの答は実に簡単明瞭で、「でも、これがあたしの愛したひと。あたしの愛すべきすべて」という彼女自身の決意が物語っているとおり、その動機とは愛、それも受動的ではなくて能動的な愛なのである。ところで、ドゥルーズたちによれば、欲望とは愛する力のことである。

欲望は、それ自身においては愛そうとする欲望ではなくて、むしろ愛する力である。すなわち、与え生産する徳、機械として働く徳である(というのも生の中に存在するものが、いかにして、なお生を欲望することができようか。誰が、こうしたものをもひとつの欲望と呼ぼうとするのか)。(注63)

ということはつまり、欠如なき欲望の内在野、欲望に固有の存立平面としての器官なき身体の獲得は、同時に愛する力が自律性を獲得することでもある、と判断してよいのではないか。そしておそらく、『のばらセックス』の作者とスピノザとの間に最も深い合致が成り立つのは、まさにその点なのである。というのも、『エチカ』第五部(「知性の能力あるいは人間の自由について」)は、「神を愛する者は、神が自分を愛し返すように努めることができない」(注64)とことわった上で、神の属性の本質の妥当な観念から物の本質の妥当な認識へと進む直観知を源泉とするような、神への知的愛について、それは―人間精神によって説明されるかぎりにおける神が、原因としての自己の観念を伴いながら自己自身を観想する働きであるがゆえに―「神が自己自身を愛する無限の愛の一部分」でもあると断定しているからだ。つまり「神は自己自身を愛する限りにおいて人間を愛し、したがってまた人間に対する神の愛と神に対する精神の知的愛とは同一である、ということになる」(注65)。『エチカ』が至福とも呼び、事実スピノザ哲学の最高の境地としてあまねく知られる、この神の自己愛としての神への知的愛を、もはや愛されたいとも、愛し返してもらいたいとも思わない者だけが達することのできる、能動的な愛する力としての強度の母体ないし卵、そこから諸々の個物(様態)が強度として生じてくる一つの器官なき身体として理解してよいのだとすれば、「愛されなかったからって、哀しむのは、悔しいだけ」(注66)という反省を経たおちば様が、女性の量産という難事に身を削って挑み、ついに力尽きた生みの親(坂本緒礼)を前にして大詰めの場面で発する「ひとを愛するということが―『馬鹿みたい』じゃなかった時代が、かつていちどでもあっただろうか」(注67)という感慨は、瀕死の彼の意志を引き継いで自ら妹たちの母代わりになろうとする決心とあいまって、間違いなく、このような能動的で創造的な愛の奇蹟を祝福しているばかりか、それの実践に向けて決意を新たにし、ひいては我々読者にもそれへの参加を呼びかけているのであると信じなくてはならない。


(1)ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』(工藤喜作・小柴康子・小谷晴勇訳、法政大学出版会、2004年第6刷)265頁。
(2)桜井直文は、『スピノザーナ―スピノザ協会年報―第13号(2012)』(2013年)の「【巻頭言】スピノザのものとされているが、スピノザのものではないものについて」において、「平行論」ないし「並行説」(parallélisme)とは本来スピノザの論敵であるライプニッツが自説に与えた名称であることを理由に、この語をスピノザの体系に適用する習慣に対して疑義を呈している(5-10頁)。
(3)ジル・ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』(鈴木雅大訳、平凡社ライブラリー、2004年初版第2刷)134-135頁。
(4)スピノザ『エチカ(上)』(畠中尚志訳、岩波文庫、2004年第48刷)38頁(第一部定義6)。
(5)同書53頁(第一部定理15)。
(6)同書64頁(第一部定理18)。
(7)同書70頁(第一部定理25系)。
(8)同書37-38頁(第一部定義四、五)。
(9)同書95-96頁(第二部定理1、2)。
(10)同書108頁(第二部定理13)。
(11)ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』(前掲書)266頁、『スピノザ―実践の哲学』(前掲書)135-136頁。
(12)スピノザ『エチカ(上)』(前掲書)110頁(第二部定理13備考)。引用に際して、原文中の傍点が付してある箇所を太字の表記に改めた。以下においても同様である。
(13)同書180頁。
(14)同書177頁(第三部定理6)。
(15)同書178-179頁(第三部定理9とその備考)。スピノザは、衝動とは「人間の本質そのもの、―自己の維持に役立つすべてのことがそれから必然的に出て来て結局人間にそれを行なわせるようにさせる人間の本質そのもの、にほかならない」とすら書いている。なお、ここでは一応岩波文庫版の訳文をそのまま引用したが、「結局人間にそれを行なわせるようにさせる」は、使役が重複していてくどいから改める必要があろう。原文は« atque adeo homo ad eadem agendum determinatus est »であり、直訳すれば「そしてその上人間はそれらのことどもを行うことへと規定された」となる。つまり、この箇所は、「衝動(appetitus)」ないし「本質(essentia)」から「人間(homo)」への主語の転換を経た上で、完了受動態で書かれているのである。ただし、完了といってもそれは古典ラテン語文法の規範に照らして診断すればということであって、スピノザ本人のつもりではここの時制はむしろ現在なのではないか。
(16)同書181頁。
(17)ジル・ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』(前掲書)34-35頁。
(18)同書86頁。
(19)同書37-39頁。
(20)スピノザ『エチカ(下)』(畠中尚志訳、岩波文庫、2004年第43刷)12頁(第四部定義一)。
(21)同上(第四部定義二)。
(22)同書20頁(第四部定理8)。
(23)同書38頁。
(24)ジル・ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』(前掲書)41-42頁。
(25)同書42-44頁。
(26)同書51-52頁。
(27)同書53-54頁。
(28)日日日『のばらセックス』(講談社、2011年)151-153頁。
(29)同書180頁。
(30)スピノザ『エチカ(下)』(前掲書)54頁(第四部定理41)。
(31)同書55頁(第四部定理43とその証明)。
(32)日日日『のばらセックス』(前掲書)181-182頁。
(33)同書190頁。「どん底」という形容を支えてくれる根拠としては、ここに至って「どれだけ気持ちのいい行為も、過ぎれば吐き気になる」という、スピノザの快楽批判と同様の認識がおちば様本人に生じていることを挙げられる。この認識は前提として、狭義の性行為ばかりでなく強制された排尿行為の連続もまた快楽でありうるという命題の成立を、すなわち節の転換の直前ではなお屈辱感に耐えながら「負けるもんか……」という決意を固めていたはずの彼女の意識の惨敗を、当然要求しているはずである。
(34)同書185頁。
(35)ジョアン・コプチェク『〈女〉なんていないと想像してごらん』(鈴木英明・中山徹・村山敏勝訳、河出書房新社、2004年)305頁。
(36)ジル・ドゥルーズ「恥辱と栄光―T・E・ロレンス」、『批評と臨床』(守中高明・谷昌親訳、河出文庫、2010年)251-252頁。
(37)日日日『のばらセックス』(前掲書)235頁。
(38)ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』(前掲書)265頁。
(39)ジル・ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』(前掲書)236-244頁。
(40)日日日『のばらセックス』(前掲書)300頁。
(41)同書299頁。
(42)同書301頁。
(43)同書302頁。
(44)同書303頁。
(45)Cf. Joël Dor, Introduction à la lecture de Lacan, Paris, Denoël, 2002, p.531-534.
(46)ジャン‐クロード・ミルネール『言語への愛』(平出和子・松岡新一郎訳、水声社、1997年)127頁。
(47)日日日『のばらセックス』(前掲書)303-305頁。
(48)ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 下』(小泉義之訳、河出文庫、2007年)215-217頁。
(49)ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 上』(宇野邦一訳、河出文庫、2006年)28頁。
(50)ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー 上』(宇野邦一・小沢秋広・田中敏彦・豊崎光一・宮林寛・守中高明訳、河出文庫、2010年)314頁。
(51)Gilles Deleuze, Proust et les signes, Paris, P.U.F., 2007, p.218.
(52)Ibid., p.148: « Jamais rien n'est pacifié par une philia; comme pour les lieux et les moments, deux sentiments qui s'épousent ne le font qu'en luttant, et forment dans cette lutte un corps irrégulier de peu de durée. Même dans l'état le plus haut de l'essence comme Point de vue artistique, le monde qui commence fait lutter les sons comme les morceaux disparates ultimes sur lesquels il repose ».
(53)江川隆男「出来事と自然哲学―非歴史性のストア主義について」、エミール・ブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』(江川隆男訳、月曜社、2006年)146-150頁。
(54)江川隆男「出来事と自然哲学―非歴史性のストア主義について」、同書192頁。
(55)江川隆男「出来事と自然哲学―非歴史性のストア主義について」、同書194-201頁。
(56)ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 下』(宇野邦一訳、河出文庫、2006年)206頁。
(57)ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー 上』(前掲書)315-316頁。
(58)日日日『のばらセックス』(前掲書)302-303頁。
(59)ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー 上』(前掲書)318頁。
(60)同書319頁。
(61)日日日『のばらセックス』(前掲書)300頁。
(62)同書301-302頁。
(63)ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 下』(前掲書)218頁。
(64)スピノザ『エチカ(下)』(前掲書)116頁(第五部定理19)。
(65)同書129頁(第五部定理39の本文、証明、系)。
(66)日日日『のばらセックス』(前掲書)284頁。
(67)同書378頁。
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ジョー・ブスケ『傷と出来事』 

少し前から読んでいたジョー・ブスケ(Joë Bousquet, 1897-1950)の『傷と出来事』(谷口清彦・右崎有希訳、河出書房新社、2013年)の読了が間近いので、日日日論にでも役立ちそうなくだりをいくつか抜き書きしておくことにする。なおブスケの生涯については、巻末の訳者解説にもあるとおりで、1897年3月19日ナルボンヌ生まれ、第一次大戦に従軍して1918年5月27日に負った重傷がもとで21歳にして下半身不随となり、その後南仏カルカソンヌで寝たきりの隠遁生活を送りながらシュルレアリストたちとの交流を通じて文学者としての自己形成を遂げ、1950年9月28日に世を去ったフランスの小説家・詩人であり、晩年にはジャン・ポーランの影響を受けて独自の言語論を構想した…とでも説明しておけば―いかにも人名辞典風の概観の味気なさを物足りなく思う向きにどう目をつぶってもらうかという問題は残るとはいえ―まずは大過あるまい。

 愛はその対象よりも先に生まれなければならない。愛それ自体が対象をでっちあげる。

 君に禁じられた生を愛することによって、君のためにつくりだされた生を愛すること。
 君から取りあげられたものを愛することによって、君に残されているものを愛すること。(32頁)

 私はいくばくかの確信を手に入れた。人間はその母親の子供ではなく、彼女の生の子供である、という確信である。生の語法を解読しなければならない。出来事に語らせなければならない。出来事をみずからの言語へと翻訳し、あるいは、出来事にその讃嘆すべき性格をとどめさせなければならない。さらには詩人をとおして、人類の営みのなかからひとつの出来事を取り出してこなければならない。こうしたことのすべては、多かれ少なかれ、私のこれまでの本に粗描されてきたことなのだから、いまや残された仕事は、以上のような確信から教訓を引き出すことのみである。(87-88頁)

 どれほど露骨な肉欲の詩的表現だろうと、詩人が胸を引き裂く苦痛とともにみずからの生の条件を受けいれたことを意味する限りにおいて、その表現は破廉恥という批判をまぬかれる。(93頁)

 君の孤独を愛の一世界となせ。(95頁)

 私の傷は、私に死を与えることなく、私を生から引き離した。
 私は生に呼びかけた。生が私の傷から私を引き離してくれることを期待しつつ。だが、私の生とは私の傷だった。
 これが私の最初の誤りである。(100頁)

 われわれが世界と切り離されているのは、ただ、われわれ自身がそのようにしたからである。傷はこの分離そのものである。われわれが傷つけずに愛することができないのは、われわれが傷ついているからである。(103頁)

 われわれは、みずからの生に耐える代わりに、みずからの生を創出する。生を愛すること。(113頁)

 少女よ、私が君を創造したのは私自身のためではない。私の心に住まう者たちのなかでもっとも見捨てられた者のためであり、君の瞳のきらめきと同じくらいほのかな光のなかで君の顔を造形しなければ生きているのかさえ分からない者のためである。私のことを知らない兄弟にひとりの女友だちを与えたのである。(128頁)

 愛の眼でおのれの生を見る術をまなべ。(154頁)

 情熱は炎のようである。それは粗忽者を憔悴させ、賢者を照らす。(156頁)

 ひとりの人間の心のなかには、生それ自体のなか以上に、生のための場所がある。(164頁)

 ―あらゆる理念を拒否すること、掘り下げるべき理念だけを保持しておくために。諸君、その掘り下げるべき理念というのは、思想の次元ではなく、生の次元にある。
 ―知性を乗り越えることのできるという確信、知性による死の教訓をくじくことができるという確信。君は、そうした確信だけを本当の確信としなければならない。
 われわれよりも存続すべくつくられたあれらかくもたぐいまれな思考の存在にわれわれが気づくのは、そうした思考がわれわれに付与する力のうちにおいてである。その力とは、個人的な生を意に介さず進ませてくれる力である。またその力とは、個人的な生が、自己意識がもはやその対価ではないような先述の実存へと、支流のごとく吸収されるようにしてくれる力である。
 あなたは、あなたがそうであるところのものすべての魂であれ。(169-170頁)

 人間は万物の実存のなかの一点ではない。人間は一点における万物の実存である。(178頁)

 彼はいった、あらゆる出来事は宇宙の鏡である、と。出来事は、みずからの未来のうちに、われわれが生きる世界を、すなわちわれわれ自身の意識がわれわれを除名した世界を反映している。それぞれの偶発事に神託を読みとるためには、宇宙の限界と完全に符合するまでおのれの存在を拡張させねばならない。(190頁)

 ときに運命は、ひとりの人間を傷つける。彼が苦しむ光景は、それを眺める者たちに、傷を負っていない人間などいないということを教える。個体性そのものが傷なのである。
 こうした傷は癒えることがない。人間は傷のまわりで変容し、そこに刻み込まれた消去不可能な描線を浮かび上がらせるだろう。(191頁)

 倫理的理念の役割とは何か? そうした理念は、人間がおのれを見失うことなく再開することを可能にする、絶え間なくおのれを与えつづけるという使命に忠実であることを。
 別の存在に移行するために与えること。他の者たちが飛翔するための手段となること以外の何ごとも抱懐してはならない。はるか高次の不可視の真実の出現を、偶然が仕掛ける罠よりも優越させる方法以外の何ごとも。そうした真実にくらべれば、さほど重要でない現実も、われわれがそうであるところの人間も、ともに取るに足らないものである。(196頁)

 私の傷の効果は、私の理性が原因を明らかにすることのなかった幸福によってはじめにその姿を現した。だが、幸福につづいて到来したのは苦痛だった。あたかも、私はそれに値しないという感情によって、私のよろこびに不安の影が差したかのようだった。おのれの傷を愛し、そこに恩恵をみとめる勇気が到来するまでには長い時間が必要だった。

 じつのところ、私が望んでいたのは、書物についての新たな定義を導入することだった。私にとって、作品というのはそれ自体のうちに目的を有していないものだった。作品は、人間の危機を厳密に分析しつつ、ひとりの人間の正確な物語を、そこに世界を欠如させることなくつくりだすものだった。書物は、人間が出来事にたいして勝利するために協力する。人間が出来事を服従させるためにおこなう努力を描きだす。(202頁)

 いかなる実存も悲劇的である。運命の劇的な可能性を、事実の思いどおりに搾取する道化たちを呪え。われわれの生全体が、われわれを行動へと駆り立てるとともに行動からわれわれを引き離す。生がかつてわれわれからつくりだしたものが、突如としてわれわれの思考のうちで羽ばたきだし、不滅の完全なる若さをまとって再生する。それは、幼少期のわれわれが映し出された相当古びた写真を思わせる。(203頁)

 私は、ある行動の効果をこうむってきた。その効果をめぐる理解は時を経てはじめて与えられた。私が生にみまわれたとき、生それ自身も生にみまわれたのであり、私がまず生の痛みを受肉したのである。

 生が私の心臓をおそおうとしたとき、生はおのれの胸部を切開したにちがいない。かくして廃墟があらわれたのであり、私はその亡霊である。(204頁)

 悪それ自体は嫌悪すべきものではない。悪はわれわれにとって生来のものであるがゆえに、われわれはそれを打ち負かさねばならない。人間は感覚的な存在のうちに閉じ込められており、そうした存在を乗り越える手助けとなるものすべてをみずからのもとに召喚しなければならない。(206頁)

 われわれが存在すると措定するやいなや、われわれはただちにこう問わざるをえない。私は何ではないのか、と。私とは、存在の絶頂において一個の実存がこうむる永遠の断罪である。私は、実存が機能不全におちいる場であり、そこで生は希望へと向きをかえる。というのも、死すべき影によって生の一部が想像すべきものとして生それ自体にゆだねられるからである。私とは、私のうちで大きくなったひとつの巨大な存在の傷口にほかならない。感覚的な実存はわれわれと事物とのつながりの担保であり、われわれ全員がこうむった苦痛のたったひとつの産物である。(207頁)

 彼が知るかぎりもっとも美しいものすべてが、彼の孤独と似かよったひとつの存在の創造的な能力であればいい。(209頁)

 魂の魂が身体である。(211頁)

 理解するのではなく、信じること。

 思い出すかわりに、期待すること。

 意志のかわりの慈愛。

 こうしたことが簡素さを可能にする。

 こうしたことが自己からひとつの力量をつくりだし、享受するかわりに創造することを可能にする。(212-213頁)

 生を私として愛するのではなく、生として愛すること。生を語るのではなく、生にひとつの声を与えること。真実など歯牙にもかけない、人が過失をはたらく直前のあのリリシズムに到達すること。(216頁)

 家族のことは忘れるべきである。われわれの生は、われわれに訓えをもたらすためにある。私は私生児ではなかったが、そのように扱われてきた。(226頁)

これまで日本語の活字の世界においては、ほぼフェルディナン・アルキエ(『シュルレアリスムの哲学』)やジル・ドゥルーズ(『意味の論理学』)による紹介を通じて間接的にしか知りえなかったブスケの思想が、こうしてともかくも彼自身の言葉で読めるようになったことは喜ばしいし、ありがたい。とはいえ、本書は著者が「白色ノート」と命名した帳面に日々書きとめた断片的な詩想の集積が没後に公刊された遺稿であり、その性格上、思想が生乾きで焦点の定かでない断章や、個人的すぎて我々後世の他人が読んでも意味がよくわからない(しかも、わかったところで大した意味ではなさそうな)覚え書が散見されるのは気になる。仮に日本語で『ジョー・ブスケ全集』を出すとすればもちろん本書の存在も無視するわけにはいかないにせよ、はたして作品としてもっと形が整っているはずの小説群や論稿の類をさしおいてまっさきに訳出すべき書物だったのかどうか、その点が少々引っかかるのだ。また、あいにく原書(Joë Bousquet, Mystique, Paris, Gallimard, 1973)を手元に持ち合わせていないので確認できないとはいえ訳文の質は総じて高そうなのだが、その一方で、どうやら原文では同一の表現が再登場していると思しいのに訳文の語句が一定していなかったり(147-148頁と160-161頁、202頁と228頁)、芒の穂とも穂芒とも違う「穂の芒」(67頁)やエリウゲナ(Eriugena)ならぬ「エウリゲナ」(217頁)等の誤記ないし誤植があったり、もしかすると原語の違いを反映しているのかもしれないが同一の植物に対して「マンネンロウ」と「ローズマリー」という二通りの訳語が混在していたりと(145頁と254頁)、若干の瑕瑾(らしきもの)も見つかる。「アイディア」(17頁、28頁)と「イデー」(177頁、237頁、260頁)の併用、というよりも« idée »が両者の間でこうむらざるをえないはずの分裂も、もし「理念」が同一の原語に対応しているとすればなおさら、気になる人には気になることだろう(注1)。
まるであら探しのような意地の悪い読み方はただでさえ気が進まないし、そんなことをする資格が自分にあるかどうかという問いの検討を棚上げにしたままの場合にはなおさらそうである。けれども最近では、例えば本来「…すべし」に先行して「ぜひとも」を意味するはずの「すべからく」を「ことごとく」・「一つ残らず」のつもりで用いるという誤用が、著名な出版社から出ているポール・ヴァレリー(注2)やカール・シュミット(注3)の論文集にも見つかったりするので、ついつい油断は禁物とばかり神経質にもなってしまう。こんなことは当の著作の思想的意義そのものの大きさに比べれば枝葉末節に属する問題かもしれないが、思想の伝達が何よりも言葉を通じて実現をみるのである以上、こういう基礎的文法の次元での粗忽な誤りは、翻訳者の、ひいてはその会社の編集者や校正係の素養・見識への疑念を読者の頭の中に芽生えさせてしまうのはもちろん、そもそも言語における相互理解の可能性を原理的に損ないかねない点からしても、やはり遺憾と評さざるをえない。もっとも、幸いその種の誤りとは無縁な(と思う)『傷と出来事』の訳文は、思いがけない逆説の閃光とともに虚構的な分身の生成の中で絶えず空虚が豊穣に、受動性が能動性に転じるブスケの詩的散文の特徴、その精妙さと端正さ、そしてなかんずくストア派的な運命愛の倫理の体現者ならではの雄々しい沈着と執拗な潔癖さを―といってもセネカ流のとめどなく饒舌な語りかけよりは、むしろマルクス・アウレリウス流の静かな自己内対話を思わせる―、基本的にはまさに然るべき日本語の語調に移しえているように感じる。こんな調子の訳文で他の代表作についても読むことができたならさぞかし教えられるところが多々あるはずだと自然に思えてくる、そういう誠実な訳書である。
ただし、いましがたストア派的な運命愛と書いたが、それは決して悪しき運命をじっと耐え忍ぶという―運命に陰険な邪悪さを帰した上で、ひそかに自分を被害者として規定しながら鬱々たる諦念とともにそれへの忍従を続けるという―態度を意味しない。そのような自己憐憫の態度ほどブスケの執筆活動から遠いものもあるまい。むしろ、アルキエが彼の手紙の中の文句として伝えている、「ときどきこの私には、錯乱しそうなほどまで、私は思考されていると感じることがある、と言ったら、貴兄はどう答えてくれるだろうか?」という疑問(注4)から出発して、我々は例えばベンヤミンが『ドイツ・ロマン主義における藝術批評の概念』において定式化したようなロマン主義の対象認識理論の精髄へと赴くべきではなかろうか。この理論によれば、あらゆる認識は単にある主観がある客観を認識することにすぎないのではなくて、むしろ次のような四つの局面が重なり合った複雑な反省の過程である。すなわち認識の過程においては、つねに同時に、いわゆる主観であるとされる当のものが自己を認識することと並んでいわゆる客観に相当するはずのものの側にも自己を認識することが生じており、まさしくそれゆえにこそ前者(いわゆる主観)によって後者(いわゆる客観)が認識されることが可能になるばかりか、ひいては前者が後者によって認識されるという―一見奇妙な―事態さえも排斥されないのである。したがって、およそ認識の関係が問題であるかぎり実は客観という名辞の使用は全く不適当なのであって、一切は絶対的本質としての主観の中で起きる一つの内在的連関であると考えなくてはならない。

認識は、〔中略〕あらゆる方向に向かって、反省のなかにその根拠をもっている。すなわち、ある存在〔本質〕(ヴェーゼン)が他の存在〔本質〕によって認識されることは、認識されるもの(das Erkanntwerdende)の自己認識、認識する者(der Erkennende)の自己認識、および、認識する者がその認識対象である存在〔本質〕によって認識されることと、同時に起こる(zusammenfallen〔一致する、同じものである〕)。これが、ロマン主義の対象認識理論の根本命題を言い表わす、最も厳密な形式である。(注5)

ベンヤミンにとって、この対象認識理論は、藝術というものを一つの反省媒質として規定した上で、形式のイロニー化、すなわち有限なる個々の作品の叙述形式の解体作業を通じて、破壊不可能な絶対的形式としての藝術という理念(die Idee der Kunst)の無限性を析出してくる、という批評の営みに正当性を付与してくれるものであった。しかし、他の叙述形式とは違ってひとりロマーン(長篇小説)のみは、外見上の無制約性と無規則性のゆえに、そのようなイロニー化を待つまでもなく「随意に己れ自身について反省し(reflektieren)、つねに新たに省察(ベトラハトゥング)を重ねながら、より高次の立場から、すでに与えられたあらゆる意識段階を、顧(かえり)みつつ反映する(zurückspiegeln)ことができる」(注6)。ロマン主義の批評理論にとって、ロマーン的な散文(プローザ)が、「ポエジーのポエジー(詩の詩)」、ないしそれ自体を意識する高次のポエジー、ポエジーの理念(die Idee der Poesie)としてあれほど重要だったのはこのためであり、あらゆる文学的諸形式がそこにおいて媒介され、解消される場たる創造的地盤にほかならぬこの散文的なもの(das Prosaische)を、ベンヤミンはヘルダーリンにならって「冷徹さ(Nüchternheit)」ないし「冷徹なもの(das Nüchterne)」の隠喩的な名称であると考える(注7)。事物によって、周囲の世界によって「私」のことが思考されているという一見逆説的な自覚と表裏一体であるはずのジョー・ブスケの散文の不思議な静謐と光輝は、そのような、誰のものとも知れぬ絶対的な自律的思惟としての反省の運動を、ことさら創造性という性格に即して眺めた場合に避けがたい「冷徹さ」の概念に引き寄せて理解する余地がありそうに思えてならない。思いつきといえば思いつきだが、このたび『傷と出来事』という印象的な題名をつけられて日本の読者に近づきやすくなった本書、すなわち「白色ノート」を、最終的にはブスケなりの詩法ないし創作の原理を確立することを目指した一つの探究の軌跡として読むことが許されるとすれば、この比較も少しは牽強付会の容疑を軽減してもらえるのではないか。


(1)もちろん、« idée »のように複雑な来歴を有する多義的な語が相手であれば、文脈に応じて柔軟に訳し分けるという方針自体には毛頭異存がない。それにしても、カタカナ書きの「イデー」は単なる音写であって翻訳ではないし、しかも同じく音写には違いないが英語に由来する「アイディア」と比べて、いまだ日本語の体系の中に定着しているとは判断しがたい。なんとなく「アイディア」よりも「高尚そう」だとか「哲学的な」感じがするという理由で選ばれたのだとすれば、それこそ非哲学的な先入見というものだろう。一般論として、たとえ「理念」とは訳しづらい文脈であっても、「観念」・「想念」・「着想」など、有力そうな訳語の候補はほかにもあるのだから、場合に応じて適宜それらを使い分けながら、そのつど「イデー」なるルビを付して原語の同一性に注意を促すことにすれば万全の訳文に近づくのではないか。
(2)ポール・ヴァレリー『精神の危機 他十五篇』(恒川邦夫訳、岩波文庫、2010年)367頁ほか。
(3)カール・シュミット『政治思想論集』(服部平治・宮本盛太郎訳、ちくま学芸文庫、2013年)18頁ほか。
(4)フェルディナン・アルキエ『シュルレアリスムの哲学』(巖谷國士・内田洋訳、河出書房新社、1981年)252頁。
(5)ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』(浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫、2001年)112頁。なお、引用に際して» das Erkenntwerdende «から» das Erkanntwerdende «へと綴りを改めた。
(6)同書205頁。
(7)同書219頁。

category: ジョー・ブスケ

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