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一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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日日日『魔女の生徒会長III 案山子たちのグランギニョル』 

全五巻の『魔女の生徒会長』の中でも、ちょうど折り返し地点に相当する第三巻『案山子たちのグランギニョル』は、まさしくそれが全体の中で占める位置にふさわしく自らの対もしくは同類を有さないことにより、珍しく探偵小説風の体裁であることともあいまって、いささか異彩を放っている。しかし、自らの外部に同類を有さないということは、この小説がそれ自身の内部に同類を住まわせることの妨げにはならない。それどころかむしろ、双子同然の対を作る姉弟の、自己完結を求めて何が何でも外界の影響を拒もうとする強固な意志こそが、『案山子たちのグランギニョル』の筋書を突き動かす最大の原動力なのである。

時は22世紀末、日本を三つに分裂させた内戦を終結に導くべく、さる大国が落とした魔素爆弾によって十数年後のいまもなお国土が汚染されたままの第三大日本帝国、通称「子供の国」の中にある、唯一の中立地帯に設けられた帝都世紀末学園が『魔女の生徒会長』の舞台である。四つの校舎のうち、天才児が集まるA校舎(通称「天国」)は副題なしの第一巻に、不良だらけのB校舎(通称「無法地帯」)は第二巻『超悦者ジュリエット』に、それぞれ背景を提供しており、となればこの第三巻の物語が、重い病人や怪我人揃いの「魔界」C校舎で起きなくてはならないのは容易に見当がつく道理であろう。
それに、「魔女の生徒会長」こと剣(つるぎ)シロオ率いる生徒会の面々が校舎で起きる大事件に対処し、主に彼女の問答無用の暴力によって事態が解決をみるという点も、さらには彼女の幼なじみにして、当時七歳だったシロオが「魔女」になるための生け贄のつもりで毒を盛り、危うく一命はとりとめたものの、それ以来10年後の今日に至るまで彼女からは死んだ者と思われ、身近にいても認識してもらえなくなってしまった「俺」こと恋塚(こいつか)ミミクロが主な話者を務める点も、これまでの二冊の巻、および続く第四巻『絶叫メリーゴーランド』とこの第三巻に共通している。
それでは、『案山子たちのグランギニョル』の、他の巻とは違う特性とは一体何か。この問いに答えるために、筋書の錯綜をいったん解きほぐして、内容を時系列順に整理してみよう。かなり多くの出来事が起きているが、便宜上、話者であるミミクロにとっての現在を基準として、それらを二つに大別したい。つまり、あたかも半年前のC校舎で発生した、実に61人もの犠牲者が命を落とした連続殺人事件―人呼んで「みんなの友達」事件―が再開したかのように、やはりC校舎の生徒が立て続けに三人殺された新たな事件の真相を追う、シロオたちの介入と調査が始まる以前と以後に分ける、ということである。
(一)烏魔(からすま)カカシの姉である迷ヒ処(まよいが)トトロが、本来別々の肉片から人間兵器として作り出された自分たちの「人格の模写と保存」という能力を溺愛する弟に明かしてから、口づけを介して自らの人格を弟に託し、弟の人格を我が身に複写した上で帝都世紀末学園に去ってゆく。ちなみに、人格の模写と保存だけならば対象の体液の摂取で足りるが、記憶を含めた全存在の模写のためには脳を食する必要があるという。そして彼女はC校舎の図書館の奥深く、個人用の閲覧室の一つに情報屋として居座る、「図書室の眠り姫」になった。
(二)カカシが姉を追って帝都世紀末学園に入学し、同じく新入生の断花(たちばな)シャムと知り合う。カカシはC校舎、シャムはA校舎に所属することになった。
(三)シャムとカカシの親交が深まる。もともと弟に自分以外の女性が近づくのを恐れるあまりに姉(つまりトトロ自身)の人格を演じさせていたにもかかわらず、この事態を目の当たりにしたトトロは焦り、シャムに対して嫉妬を募らせる。
(四)トトロはシャムを図書館に呼び出して脅迫し、弟との仲を裂こうとするが、口論のあげく彼女に重傷を負わせてしまう。駆けつけたカカシは、燃え盛る図書館の中で姉に心中を迫られるが躊躇し、その直後、絶望したトトロは偶然のいたずらで自らが仕掛けた罠によって首を切断され、即死する。
(五)悲嘆にくれるカカシは贖罪のつもりで、姉の脳を食してその死体を炎の中に投じ、そして彼女の人格に自我の座を明け渡すとともに本来のカカシ自身の人格は削除することで、亡き姉になり代わって自分が「図書室の眠り姫」を演じ切ろうとした。
(六)しかし、彼が姉(迷ヒ処トトロ)の代わりに「図書室の眠り姫」を演じるとなると、必然的にそれまではいたはずの「烏魔カカシ」の存在がC校舎から急に消え去ってしまう。この不自然さをごまかすべく、カカシが起こしたのが半年前の「みんなの友達」事件であった。そもそもC校舎の生徒は全員が日常生活もままならぬ病人や怪我人であり、一般人並みの生活が送れるようになることを目標に、日々養生に努めている。中には人生に絶望して死を願う者も少なくないが、連日の投薬のせいもあって、一人ではなかなか自殺を決行できない。カカシはそんな生徒たちに協力して自殺に手を貸し、死体は脳を食した上で第二大日本帝国に売却する一方で、C校舎に伝わる、身体の「悪い部分」を食べてくれるという「怪獣」の噂を利用し、ときに暴走して人間を食い殺す「怪獣」から身代わりとなって生徒を守る―つまり、生徒全員の「悪い部分」をことごとく我が身に引き受けてくれる―、聖者のような「みんなの友達」の噂を流していた。要人の中にカカシの父もいるらしい第二大日本帝国、通称「老人の国」では、子どもの肉体は臓器の供給源として、また観賞用の美術品として非常に高く売れるし、「怪獣」に怯えて「みんなの友達」にすがる周囲の生徒たちは気前よく金を払ってお守りの類を買ってくれる…というわけで、カカシは順調に荒稼ぎしていた(なお、くだんの「父」とは、実はトトロとカカシをそれぞれ由来を異にする肉片から培養した科学者であり、むしろ二人の「製造者」ないし「創造者」と呼ぶべき人物である)。これが、「烏魔カカシ」の後を追うように60人の生徒が次々と死んだ半年前の連続殺人事件の真相であり、あとは頃合をみて完全に「図書室の眠り姫」こと迷ヒ処トトロになりきればよいだけだった。
(七)当時、重傷を負った先代の生徒会長である耳寺(みみでら)ジュリエットから会長職を引き継いだばかりの剣シロオは、さすがに「みんなの友達」事件を放置しておくことができず、C校舎に乗りこんで「みんなの友達」と思しき烏魔カカシを見つけ、とりあえず生徒らの妨害を振り切って校舎の外に連れ出すことに成功した。すでに「怪獣」にやられた最初の被害者として自らの死を演出していたカカシは焦り、取引の際に名乗っていた淀川(よどがわ)ドロシーなる架空の人物になりきることに決め、以後半年間を生徒会の一員(書記)としてシロオやミミクロとともに過ごす。なお、「図書室の眠り姫」は火災後は休業中という設定だったが、それでもなお彼女を情報屋として頼ってくる生徒のために、カカシは姉のいた部屋を元通りに再建してそこに彼女に生き写しの精巧な人形を置き、生徒の相談には携帯電話を介して自らが答えていた。一方で、親友である「烏魔カカシ」が死んだと聞いた断花シャムは驚き、事件の真相を暴くべくA校舎からC校舎に転入してたちまち総代表にのぼりつめ、独力で調査を進める。
…ざっとここまでの経緯が、この第三巻『案山子たちのグランギニョル』において、主な話者である恋塚ミミクロにとっての現在よりも昔に起きたことを、時系列順に整理した上で箇条書きにしてみた結果である。対して、それ以降、すなわちこの巻の本来の現在において初めて生じる出来事は、おおむね以下のようにまとめることができるはずだ。
(八)懸命な調査の結果、死んだ生徒たちが第二大日本帝国に売却されていたという忌まわしい真実にたどり着くとともに、C校舎の生徒の卒業後の進路が悲惨なものでしかない―第一大日本帝国、通称「大人の国」での奴隷労働か、軍隊で捨て駒にされるかの二者択一らしい―ことを突き止めた断花シャムは、淀川ドロシー(実は烏魔カカシ)に協力して出荷を担当していた三人から真犯人の名を聞き出すと、彼らを裏切り者として殺害してから、素知らぬ顔でその事件の解決を生徒会に依頼し、まんまと剣シロオを生徒会の一員であるドロシーともどもおびき寄せた。シャムは、C校舎の全生徒を駆り出してシロオをも葬り去った上で、全ての悪行を淀川ドロシーになすりつけ、彼女を「魔女の生徒会長でも勝てなかった凶悪犯」として処刑することで学校の運営者にC校舎の生徒の有能ぶりを知らしめ、自分たちの待遇を劇的に改善させようという計画を立てていたのだ。
(九)調査の一環として図書館を訪れたシロオに、生徒会の本拠地であるB校舎から彼女に同行しつつ途中で別れた淀川ドロシー=烏魔カカシがじきじきに「図書室の眠り姫」に化けて応対しようとしたところ、深層意識の奥底から目覚めた迷ヒ処トトロ本人の人格が一時的に弟の精神を乗っ取った。「怪獣」の伝説をシロオに説明した彼女は、その後こっそりと事件の真相を携帯電話に録音してから、「淀川ドロシー」としてシャムに従容と捕縛される。このままでは、シャムは密売に手を染めた三人の生徒の殺害に加えて、一番の親友であるカカシをもそうとは知らずに自らの手で葬ることになってしまう。しかし、甦ったトトロの人格が、シャムを悪者にしてしまうくらいならむしろ騙してでも彼女の罪を軽くしてやりたいという弟の意を汲んで、シロオの電話にドロシーの声で「助けて」という一言を伝えたことで、事態は思わぬ展開を迎える。
(十)大劇場に到着したシロオは、ドロシーが断頭台に固定されている無残な姿を目の当たりにする。ついで、邪まな計画を得意気に明かしたシャムの号令一下生徒たちが彼女に襲いかかるが、病人ばかりのC校舎の面々では所詮激昂した魔女の生徒会長の敵ではなく、シャム自身も難なく打ち負かされて事件はあっけなく解決するかに思えた。だがそのとき、断頭台から解放された淀川ドロシーは、ついに自分こそが烏魔カカシであると名乗って敗北感に打ちひしがれるシャムをさらなる呆然自失に追いこみ、同時に「怪獣」としての本性を表わしてシロオを挑発し、二人は戦い始める。相手の動きをぴたりと正確に模写し、あまつさえこれまで登場した強敵の技もことごとく再現してのけるカカシにシロオは苦戦を強いられるが、かすかに残っていたドロシーの人格から助言を受けたミミクロによる援護射撃のおかげで、数戯(すうぎ)ヤンマ(耳寺ジュリエットの部下の一人で、忍者)をまねた分身の術を打ち破ったシロオはみごとに「怪獣」を退治した。
治療を拒み、シロオの腕の中で息絶える「怪獣」こと烏魔カカシだったが、ようやく姉への贖罪を果たして自ら死を選んだ彼の人格が消え去った後、その肉体には架空の存在だったはずの「淀川ドロシー」の意識がなおも残存していた。そして『案山子たちのグランギニョル』は、恋塚ミミクロではなくて病室で目覚めたばかりの彼女を一人称の話者として、力尽きて自殺する日まで懸命に生きた60人分の生涯の記憶をせめて忘れまいとしたカカシの決意を引き継ごうとする誓いの表明と、看病疲れからか眠りこける足元の生徒会長に向けた「ただいま」という優しい挨拶とで、静かに、しかし堂々と締めくくられるのである。

さて、以上十項目が『魔女の生徒会長』の第三巻の内容の要約ということになる。頁数(あとがきの最後の頁の右肩を見ると、316頁とある)に比して、なかなかに複雑でめまぐるしい。というより、残りの四冊と比べてもややこしさでこれに匹敵する巻は他にあるまい。
このややこしさの一因は、もちろん迷ヒ処トトロと烏魔カカシの姉弟が共有する、「人格の模写と保存」という能力にある。例えば、いましがたの整理では(一)に相当する、二人の別れの場面を読んでみよう。

 寂しかった。とても寂しかった。
 わたしたち姉弟は生まれたときからずっと一緒で。広いお屋敷に心を許せるのはお互いしかいなくって。その唯一の親愛を抱いた相手と引き裂かれる哀(かな)しみは、これまで味わったことのない苦痛だった。両親が離婚しお母様が去っていったときとも、故郷に別れを告げたときとも、比較にならないほどの……寂寞(せきばく)とした気持ちだった。
 その気持ちを素直に吐きだし、ぐずぐずとわたしは泣き言を吐いていた。
 姉はわたしほど見苦しく嘆いてはいなかったけれど、それでも目に涙を浮かべ―わたしの頭をずっと撫(な)でていてくれた。
 馬車の窓から身を乗りだし、わたしの頭を抱きよせ、姉は囁(ささや)いていた。
「寂しい。寂しいね。でもねカカシ、そんなに泣かなくてもいい。人間はみんな寂しいんだ。孤独で、不安なんだ。みんな独りで生きている―でもね」
 姉が細い指に精一杯の力をこめて、わたしの顔の両側に手を添えて、わたしに自分の顔を見あげさせた。長くて美しい姉の金色の髪が、視界いっぱいに広がっていた。その光景に心を奪われているうちに、姉がそっと顔を寄せてわたしの唇に口づけた。
 触れていた時間はほんのちょびっと。
 何をされたか、わからなかった。
〔中略〕
 そこで―微笑(ほほえ)み、姉は口元に指を添わせた。
「今さっき、わたしはあなたの唾液を摂取した」
 姉は悪戯(いたずら)っぽく尋ねてきた。
「さて問題だよ。正しい答えがわかるかな? 先ほどの説明を踏まえて、あなたの唾液を摂取したわたしは―果たして何を模写し保存したでしょう?」
「あ。う。え」
 わたしは思考もできず、ただ特に苦労もなく覚えた知識をそのまま吐きだした。
「人格。ぼくの人格を、お姉ちゃんは模写し保存した」
「そう。同時に、あなたもわたしの人格を模写し保存できたはず。これの意味がわかるかな? あなたには難しいかな? こうしてあげれば―わかる?」
 目を閉じ、開き、姉はわたしを正面から見つめてきた。
 雰囲気が豹変(ひょうへん)していた。先ほどとは様変わりした、姉の仕草も漂わせる気配も何もかも。何か覚えのある感覚だった。そうだ、まるで鏡を覗(のぞ)きこんだときのような。
「これで、ぼくは、きみだ」
 目を閉じ、また開き、人格を切り替えて。
「同時に―わたしは、あなただ」
 御者がお父様と挨拶(あいさつ)し、わたしたちには声もかけずに馬車へと乗りこむ。わたしは難しい謎々(なぞなぞ)の解答が、何となく理解できて―姉の手をとり、微笑んだ。
「ぼくは、きみ。わたしは、あなた」
 胸に手を当て、そこに保存された人格を表出する。
 姉の―迷ヒ処(まよいが)トトロの、人格を。
わたしは、ここにいる」
「うん。ちょっとした余興をしよう」
 姉は男の子みたいな口調で、いいや、烏魔(からすま)カカシの人格で語った。
「今日からわたしはぼくとして生きる。あなたは今日からわたしとして生きなさい。肉体は離ればなれになるけど、心はずっとそばにいる。自分でもあり他人でもある肉と心が、離れずにずっとそばにいる。これでもう……寂しくないでしょう?」
 涙が一雫(ひとしずく)だけ、姉の綺麗(きれい)な頬(ほお)を伝い、風に乗って流れていった。
 こちらに手を伸ばした姉は―花咲くような笑みを浮かべる。
「永遠に、一緒だよ」
 そうして。
 わたしの姉であり―わたし自身でもある存在は、馬車に揺られて去っていった。でも寂しくはなかった。わたしはここにいる。ぼくもここにいる。永遠に、ここにいる。(注1)

フッサールが創始したいわゆる現象学の、フランスにおける継承と発展に大きな足跡を残した哲学者モーリス・メルロ‐ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908-1961)による児童心理学講義の記録として名高い「幼児の対人関係」の中の表現を拝借するなら、我々はこの場面から、自他の人格が未分化な三歳以前の幼児に顕著であるという、「癒合的社会性」の例を読みとるべきではなかろうか。ここで興味深いのは、話者であるカカシが「まるで鏡を覗(のぞ)きこんだときのような」と感じていることであって、まさしくこの講義でもメルロ‐ポンティが言及している精神分析家ジャック・ラカンの鏡像段階論によれば、そもそも人間は目前の鏡に映った像を見ることで初めて自らの身体的な姿を知りうるのであり、そうである以上、このように像に「籠絡」される瞬間から、自己疎外が、つまりは理想的・虚構的・想像的自我の果てしない追求が―「私はもはや、私が直接に感じていたとおりのものではなく、鏡が私に提供してくれる私の像なのです」(注2)―、万人にとって不可避の運命であるということになる。したがって、両者を参照しつつ坂部恵が手際よくまとめているように、「鏡像とわたしとの関係のうちには、わたしとわたしの関係、わたしと他者(ひと)との関係(この二つの関係は、別のものというよりは、おなじ一つの関係の二側面といったほうがよい)の原型がある」のであり、この間の機微は不断の他者との関係を通じた自己の生成ないしかたどりの局面として、およそ次のようにも一般化できるはずなのだ。

 自己なるものは、けっしてはじめから一つの閉鎖し完結した操作系としてあるわけではなく、たえず他者との共通の場のなかにあり、自己の身体は、なかば無意識のうちにも、他者の身体の身ぶりを模倣しつつ、他者の「体位を受胎」しつつ、一つの共生的なシステムを生きている。模倣は、〈わたしの身体〉と〈他者の身体〉と〈他者そのもの〉とを結合するただ一つのシステムのあらわれである。自己と他者を含む共通の場の象徴的マトリックスは、メルロ=ポンティの表現を借りていえば、「〈わたしの行動〉と〈他者の行動〉という二つの項をもちながら、しかも一つの全体として働くような〈一つのシステム〉」を分節せしめるものとしてあらわれてくることになるだろう。(注3)

このような、私があくまでも私であるように他者はあくまでも他者であり、それ以外の何者でもありえないという同一律の命題の成立に先行する(そして、同一律の成立後の成人の意識の奥底にもなお根強く生き残っている)、原初的な自他の混合ないし癒合的社会性の状態がもたらす帰結として、残酷さや共感の態度をさしおいてメルロ‐ポンティがまっさきに「嫉妬」を挙げていること、また続けて、自分の中の気がかりな点を他人に帰そうとする「転嫁」の現象に考察を加えていることは、迷ヒ処トトロが断花シャムに対して抱く殺意に近い嫉妬や、烏魔カカシが連続殺人に手を染める傍らで流した、生徒全員の「悪い部分」を引き受けて「怪獣」に自らを捧げる「みんなの友達」の噂―ここでは、身代わりもしくは生け贄による浄化という理屈がご丁寧にも二重化されている―などを読み返すとき、まことに示唆に富む。
とはいえ、晩年のメルロ‐ポンティの思索は、1961年の急逝後に『見えるものと見えないもの』と題して刊行された遺稿を参照するかぎり、いささか行き過ぎとも思えるほどの執拗さで自他の一体性に、あるいはむしろ他人の影の射さぬ自分と世界との一体性に熱中していた観がある。私の身体は一方では見たり、触れたりするものでありながら、他方ではまた見られ、触れられるものでもある。メルロ‐ポンティの思考は、知覚する者が誰しも気づかざるをえないこの事実を徹底的に掘り下げた結果、見るものと見えるもの、触れるものと触れられるものとの癒着ないし蚕食から、世界と私をともに織りなす同一の生地としての、視覚や触覚の可能性一般を発見し、そして「すべての視覚には、根本的なナルシシズムがある」という宣言とともに、その生地を「肉(chair)」と名づけるのである(注4)。
しかしながら、ジャック・ラカンが1964年のセミネール(ゼミナール)『精神分析の四基本概念』で亡き友のこの遺稿における視覚論を称讃しつつもさりげなく力点の置きどころを変えた結果は、むしろ受動性の強調であり、私は見る者である以前に見られるものである、という事態にほかならない。

彼の指し示す道を通ってしっかりと捕らえなくてはならないのは、眼差しはあらかじめすでに存在しているということです。つまり、私は一点だけから見ているのに、私は私の存在においてあらゆる点から見られているのです。(注5)

『見えるものと見えないもの』が目指しているのが「見るものとしての私がそこから抽出される無名の実質の探究のようなもの」(注6)であるとすると、それに対してラカンが眼とまなざしの混同を戒めつつ唱えるところによれば、空間とはそもそも見る主体に先行する光であり、どこと定めがたいある一点から波紋状に拡散してくるその光としての視線が、主体をまだ見ることができないうちから捉えて絵にしてしまう、あるいは風景の中で主体を暗点化してしまう。眼の構造は見るという働き以前に、むしろそのような過度の光の流入に対する防衛機能のあることを教えており、擬態のさまざまな相、すなわち偽装・カムフラージュ・威嚇などはいずれも、視線にさらされる主体がどうにかして風景を制御しようとする試みである(注7)。視線と眼の関係がこのように非連続的であり、囮の関係である以上―「つまり器官としての眼は視線によって作用されるのだが、器官としての機能を果すときには視線を見失ってしまわざるを得ない」(注8)―、「愛において、私が眼差しを要求するとき本質的に満たされずつねに欠如しているもの、それは『あなたは決して私があなたを見るところに私を視ない』、ということです。/逆に言えば、『私が視ているものは、決して私が見ようとしているものではない』ということです」(注9)などと、軽口めいてはいるが一種悲愴な調子の発言がラカンの口から出てきて、聞く者をとまどわせるのも無理からぬところであろう。この、「あなたは決して私があなたを見るところに私を視ない」という命題が、第四巻『絶叫メリーゴーランド』でようやくシロオから再び認識してもらえるようになる日まで、『魔女の生徒会長』の主な話者である恋塚ミミクロが耐え忍ばなくてはならなかった試練の内実と全く同じであることには驚きを禁じえない。
この符合が示すのは、第一に、本人の自覚がどうであれ、日日日の小説がラカンの精神分析理論との間に有する深い親和性であり、また第二に、『魔女の生徒会長』という作品を、現象学と対決し、その批判を試みた小説として読む可能性である。特に注目したいのは後者の論点だ。例えば、『案山子たちのグランギニョル』に先立つ第二巻『超悦者ジュリエット』をひもとけば、我々は一体何を目にすることになるのか。第一の主著『論理学研究』(1900-1901年)の時期のフッサールにとって、「自分が語るのを‐聞く」という比類なき自己触発の活動は、自己の自己への現前、ないし意味するものと意味されるものとの絶対的な近さを決定的な真理の源泉として直観的に保証してくれるはずだったが、これに対して「私が自分が語るのを聞く代わりに、自分が書くのを見たり、身ぶりによって意味するのを見るときには、この近さは打ち破られるのである」(注10)と考えるジャック・デリダは、「知覚の言表(エノンセ)を理解するために、私は知覚する必要がないのと同様に、〈〉という語を理解するために、私は〈〉という対象の直観を必要としないのである」とも、あまつさえ「私の死は、〈〉という語を発するのに構造的に必要不可欠である」(注11)とも述べて、真理の源泉としての「自分の声の聴取」というものの権威に疑問符を突きつける。ちょうどそれと同様に、『超悦者ジュリエット』の読者は、第三大日本帝国の姫君であり、魔素による汚染で視力が失われたために自分の醜い外見に気づく機会のなかったジュリエットが、声の美しさを何よりも重んじるというそれまで育んできた価値観を―「視力の欠けたお姫様にとって、声の美しさは何よりも優先される価値観だった。すべてがそれを基準に彼女のなかで順位をつけられていた」(注12)―自らの美への確信ともども無残に粉砕される場に出くわすことになるのだし、もっと先へと読み進めば、あたかも、感覚するものと感覚されるものとの互換性としてのメルロ‐ポンティ的な「肉」はあまりに柔らかすぎて自立することができないので、決してそれだけで藝術が生まれるのに十分ではなく、枠構造を欠けばたちまち「骨にそって落ちてゆくだろう」というドゥルーズの不吉な予想(注13)をそっくりなぞるかのように、整形手術で作り上げたジュリエットの端正な顔面から頬の肉や眼球が崩れ落ちる光景を目撃することになる(注14)。
ことに、声による自己の現前の保証についてその有効性を根底から疑うというデリダ的な発想は、『案山子たちのグランギニョル』の終盤、あらかじめ録音してあったトトロの音声がミミクロに全ての真相を明かす場面において、なおのこと歴然としている。なにしろ、ここで語っている「図書室の眠り姫」こと迷ヒ処トトロは、ミミクロがこの録音に耳を傾ける現在の時点で死者であるというだけでなく、そもそもこの説明を携帯電話に吹きこみつつあった過去の時点で肉体的にはとうに死んでおり、偶然のいたずらで弟(烏魔カカシ=淀川ドロシー)の深層意識の中から一時的に目覚めたにすぎなかったからだ。なお、引用文中でミミクロが「先輩」と呼んでいるのは、生徒会の一員として日々彼に接していた淀川ドロシーこと烏魔カカシその人のことである。

「さて。長話はこんなところ」
『眠り姫』は区切りをつけ、吐息のようなか細い声を零(こぼ)した。
「今回のお礼とお詫(わ)びにかえて、疑問が解けるようお節介を焼いてみたけれど―なんだか、懺悔(ざんげ)に付きあってもらっただけのようで、申し訳ないね。それに……そろそろ、時間切れらしい。わたしは眠ることにするよ。今度こそ永遠にね」
 そこにいるのは人形だけど。声は過去の録音だけど。
 そこには『眠り姫』がいた。その意思があった。そんな気がした。
「ようやく……眠れる……」
 だから俺は、無駄かもしれないけど、そんな彼女に―運命に翻弄(ほんろう)され、嫉妬の炎に焼き尽くされ、死んでいった哀れなひとりの女の子に……告げた。
「この閲覧室さ、他(ほか)の部屋に比べてひとつだけ綺麗(きれい)だろ? 調べたらさ、先輩が貯金をはたいてここだけ個人的に修復したんだって―できるだけ、あんたが生きていたころの様子を再現してさ。ここ、あんたのお墓だったんじゃない? 弟さんが、あんたのさ……冥福(めいふく)を祈って。そりゃ、死者蘇生(そせい)が成功すればあんたは仮にでも生きかえるかもしれないけど、魂っつうかほら、その肉体を弔うために―って」
 携帯電話は沈黙している。もはやこの場で喋(しゃべ)っているのは俺だけだ。
「……もう聞こえねぇか」
 おやすみ。今度こそ、ぐっすり眠れるといいな。
 良い夢を―『図書室の眠り姫』。(注15)

大体、いくら模写が全体的にして高度の水準に達していようとも、ここで姉(迷ヒ処トトロ)の意思を語る「わたし」の声は、実際にはあくまでも弟(烏魔カカシ)の口から発せられているのだ。たぶん、日日日の小説がこれほどまでにデリダの思考に肉迫した例は珍しいはずである。
とはいえ、『見えるものと見えないもの』を執筆していた時期においても、メルロ‐ポンティ自身には決して他者の実在を消去しているつもりはなく、むしろ私にとって表裏一体の関係にある相方にして、唯一の同じ存在の秩序(「肉」)に属する鏡像の発見として他人の出現を考えようとしていたことは見落とせない。

 他人が真に他人であるためには、他人が厄介者だというだけでは、つまり他人は味方から敵への絶対的逆転というたえざる脅威であり、強迫観念のように、いかなる異議申し立ても無視してひとり聳え立ち、場所も相対的関係も顔もなく、一瞥のもとに私を私自身の世界の塵へと粉砕する力をもった裁判官だというだけでは不十分であり、またそのようなものであってはならない。他人は私を脱中心化する力をもち、私の中心化の働きに彼の中心化の働きを対立させる力をもっていなければならないし、その力をもつだけで十分であるが、彼がそのようなことをなしうるというのも、われわれが〔中略〕同一の〈存在〉への二つの入口だからであり、それぞれの入口は事実上は各自にしか近づきえないものではあっても他の一人にも権利上は近づきうるものであり、それらの入口がいずれも同じ〈存在〉に属しているからにほかならない。私の見る他人の身体、私が聞き私に与えられている彼の言葉は、私の領野に直接に現前しているという限りでは、私が決してそれに居合わせることがないだろうようなもの、私にはつねに見えないものであり、私は決して直接にその証人とはなれないようなものを、それらなりの仕方で私に呈示しなければならないし、その呈示でそれらの役目は終わるのである。そのようなものは、したがって一種の不在ではあるが、それはどんな不在でもいいというわけではない。それは、初めからわれわれに共通するような次元、つまり他者を私の鏡であるように―私が彼の鏡であるのと同様に―予定し、われわれ自身が誰かの像とわれわれの像とを別々にもつのではなく、われわれ二人がともに含まれているような唯一つの像をもち、そして私自身についての私の意識と他人についての私の神話が二つの矛盾ではなく、互いに他方の裏面となるといったさまざまの次元に応じた特定の不在、特定の差異なのである。おそらく、このことが、他人とは私の見られてあること(mon être-vu)に責任を有するXだ、と言われるときに意味されているすべてなのだ。だが、そのとき、次のことをつけ加えなければならないだろう、―他人がそのようなXでありうるのは、私には彼が私を眼差しているのが見えるからにほかならず、彼が、私、見えないものとしての私を眼差しうるのも、われわれが対自存在と対他存在とからなる同じ体系に属し、われわれが同じ構文法の契機となり、同じ世界に数え入れられ、同じ〈存在〉に属しているからにほかならないのだ、と。(注16)

ここで、我々が「同一の〈存在〉への二つの入口」であるとか、「それぞれの入口は事実上は各自にしか近づきえないものではあっても他の一人にも権利上は近づきうるものであり、それらの入口がいずれも同じ〈存在〉に属している」とかのやや抽象的な文章が暗示しているのは、一体どういうことか。メルロ‐ポンティの死の前年に公刊された論文集『シーニュ』の序文を参照するなら、それはつまり、ある不動の対象(例えば、食卓なら食卓)が、それ自体は同じ地点にとどまりながら、しかも同時に、私とは違う位置からそれを見る者の目には、きっとこの瞬間に私が見ているのとは別様に映るはずだという事情に気づくとき、我々の中に、私と同じく唯一の可視性そのもの(「肉」)の異本の一つであるような何者かとして他人の実在を認めるという態度が自ずと生じてくる―それというのも、このとき「彼らは、私が自分の砂漠に住まわせてでもいる架空の存在(フィクション)、私の精神の産物、永遠に現在とはならない可能態といったものではなく、私の対になる双生児、ないしは私の肉の肉〔第二の自己〕だからである」(注17)―ということだ。我々人間が身体的存在であるかぎりにおいて不可避な、自他の間の視座のずれについての了解、あるいはむしろこのずれからの他人の発見への注目は、未完のままに放置された著作で、『見えるものと見えないもの』と同じくやはり没後に刊行された『世界の散文』の中の、「他者の知覚と対話」と題された章からもうかがえる。そして、この「他者の知覚と対話」における記述は、ともすれば肉への埋没が目立つ『見えるものと見えないもの』と比べると、年代的には先行するものでありながら、むしろのちにラカンが『精神分析の四基本概念』で展開するような、光にさらされる一方の主体の側の受動性ないし傷つきやすさと、防衛的な反応とを強調する点で際立っているのだ。

私が眠って動かないこの人をみつめていると、突然その人がめざめる。彼は眼をあけ、自分のかたわらに落ちていた帽子へと身を動かし、太陽をさえぎるためそれを拾いあげる。〔中略〕他者は存在のうちのどこにもいるわけではなく、他者が私の知覚のうちにすべりこんでくるとしても、それは背後からなのである。私がおのれの世界把握についてなす経験こそ、―もしその私の世界の内部に私のに似たある所作が粗描されさえするならば―私がもう一つの世界把握を認め、もう一人の私自身を知覚することを可能にしてくれる当のものなのである。太陽の日射しで人がめざめ、帽子に手を伸ばす瞬間に、私に照りつけ私の眼をまばたかしめるこの太陽と、そこの離れたところにあって私の〔眼の〕疲れを癒やしてくれる所作とのあいだに、またそこの日に焼けた額と、それが私に求める保護の身ぶりとのあいだに、私がなにひとつ決定する必要もなしにあるきずなが結ばれるのであり、たとえ私が他人の感じているやけどを実際に体験することは永久にできないとしても、私がおのれの身体の上に感じているのにも似た世界の咬み傷が、私と同様それにさらされている万人にとっても傷になるのであり、とくにその咬み傷に対して身を守りはじめている他人のこの身体にとって傷になるのだ。この咬み傷こそが、いましがたまで身動きもしなかった眠れる人に生気を与えることになるのであり、彼のさまざまな所作に順応して、その存在理由となるものなのである。(注18)

メルロ‐ポンティ自身の関心からはいささかずれてくるようだが、ラカンのまなざし論との思いがけぬ符合に劣らず、ここで彼が各人に刻みつけられた「世界の咬み傷」について書いていることはなかなかに興味深い。『見えるものと見えないもの』には「同一の〈存在〉への二つの入口」とあったわけだが、傷という語にはもう少し微妙な陰影が加わっている。
ストア派の特異な唯物論の伝統に新たな息吹を吹きこんだ主著『意味の論理学』の中で、狭義の原因、すなわち物体の深層における混在によって左右される能動や受動と、「準‐原因」、すなわちこの混在の非物体的な効果として理解すべき表面における出来事が、同じく非物体的な別の出来事に対して有することになる地位とを区別しようとするドゥルーズが、そのような出来事を簡潔に「意味」として定義した上で、意味と現実的な対象との関係を説明するために主観や意識に訴えるフッサールの理論を批判しながら主張しているとおり、むしろ意味を構成する諸々の特異性から出発して世界や個体や人格の静的発生を考えなくてはならないのだとすれば、およそ出来事というものが一方では事物の状態や個体や人格に受肉を遂げながらも、他方では個体以前の、非人称的な「端的な出来事(eventum tantum)」としての半面をも具えているということ、この二重性を教えてくれるのは―ちなみにこの二つの相貌は、二種類の時間の区別とも重なる。前者が有限な現在としての「クロノス」に、後者が過去と未来へと無限に分割されうる「アイオーン」に関わるからである―、傷や死のような一見脅威的な出来事であり、あるいはむしろ、そのような出来事についてこそことさら到来を意志する、ストア派的な賢者の運命愛である。これは単なる諦念ではない。賢者は、物理的な実現に裏地を張る反‐実現によって出来事を迎撃し、出来事の輪郭と光輝だけを保存しようと企てるのだ。第一次大戦に従軍して下半身不随となった作家・詩人ジョー・ブスケの「私の傷は私よりも前に実在していた。私は傷を受肉するために生まれた」という箴言が、ドゥルーズにとって再三の引用に値するほど大切なのは(注19)、これが理由である。

 モラル[=道徳]に意味がないにせよ、モラルに意味がないということがモラルの言わんとすることであるにせよ、モラルが語るべきは、われわれに到来することにわれわれは値しないものではないということ以外ではない。反対に、到来することを不正で不当なものと捉えること(それはいつだって誰かの過ちだ)が、われわれの傷口を厭うべきものにし、ルサンチマンそのもの、出来事に対抗するルサンチマンにする。これ以外に悪しき意志はない。真に反道徳的なことは、正・不正・功績・過ちといった道徳的知見を利用することである。では、出来事を意志するとは、どういうことであろうか。戦争が到来するとき戦争を受け入れることであろうか。傷と死が到来するときに傷と死を受け入れることであろうか。たぶん、諦観もまたルサンチマンの一つの姿である。ルサンチマンには実に多くの姿がある。出来事を意志することが、何よりもまず、出来事を養う火のごとき永遠真理を出来事から解き放つことであるならば、この意志は、戦争を戦争に反して導くこと、まるですべての傷の傷跡のように傷を生々しく描くこと、すべての死者に対し故意の死を返すことを意志するまでに到る。意志的直観、あるいは、突然変異である。ブスケは述べている。「私の死の趣味は、意志の挫折であった。それを私は死ぬことの切望で置き換えるだろう。これが意志の光栄である」。趣味から切望へ。何も変わっていないとも言える。ただし、意志の変化、その場での全身の一種の跳躍があって、有機体の意志を霊的な意志に取り替えてしまう。いまや精確には、霊的な意志は、到来することを意志するのではなく、到来することの中の何ものか、到来することに符合して来たるべき何ものか、ユーモアの曖昧な符合の法則に従って来たるべき何ものか、すなわち、〈出来事〉を意志する。運命愛(Amor fati)が自由な人間の闘争と一つになるのは、この意味においてである。あらゆる出来事には私の不幸があるが、光輝があるし、不幸を乾かす閃光もあるということ、そして、出来事が意志されるなら、出来事は、その最も細い尖端において、手術刀においても実現されるということ、これが静的発生あるいは処女懐胎の効果である。閃光、出来事の光輝とは、意味である。出来事は、到来すること(事故)ではなく、到来することの中で、われわれにサインを送りわれわれを待ち受けている純粋な表現されるものである。〔中略〕出来事は、到来することの中で、把握されるべきもの、意志されるべきもの、表象されるべきものである。さらにブスケは述べている。「君の不幸の人間になれ。君の不幸の完全性と閃光を受肉することを学べ」。これ以上のことは言えないし、一度も言われたことはない。すなわち、われわれに到来することに値する者になること、したがって、到来することを意志し到来することから出来事を解き放つこと、自己自身の出来事の息子になること、そして、それによって再び生まれること、出生をやり直すこと、肉の出生と訣別すること。出来事の息子であって、自分の作品の息子ではない。出来事の息子だけが、作品そのものを生産するからである。(注20)

「他者の知覚と対話」の中で「世界の咬み傷」と書くとき、その語にメルロ‐ポンティがどれほどの思い入れをこめていたのかは、私には知る由もない。しかしながら、何人の場合にも生きることはすなわち原初の傷口への対処である、と言わんばかりの彼の文章の調子は、『意味の論理学』から引用した以上のくだりに近づいているのみならず、いまや、まさしくこの接近ゆえに『魔女の生徒会長』の読者にとっても大いに参考になるものではないかと思えてくる。
思えば、この第三巻までに現れた主な登場人物たちは、戦災孤児として日々苛酷な境遇に耐える中で超人的な身体能力を獲得したのがあだとなって、痛覚の欠落ゆえに他人の苦痛や死の恐怖が想像できないまま凶行に及んでしまった陽月(ひづき)オセロにせよ、第二大日本帝国からやって来た視察官で、かつて初恋の人である耳寺ジュリエットの願いを聞き入れて駆け落ちの約束を交わした直後、あまりにも醜すぎる彼女の外見に恐れをなして断ってしまった過去があり、のちにせっかく彼女の手引きで骸(むくろ)兵団から脱走する機会が与えられたにもかかわらず罪悪感からそれを見送った結果、よりによってジュリエットその人の暗殺という任務を担当するはめになったロミオ少年改め骸コロチカにせよ(なお作中の現在においては、彼は帝都世紀末学園の生徒会会計でもある)、彼に激しく罵倒され、拒絶されたのがきっかけで初めて自分の醜さに気づき、以後血のにじむような努力を重ねて人並み外れた美しさと強さを手に入れたジュリエットにせよ、みなが何らかの意味で傷跡を抱え、それへの対応あるいは補償を通じていま現にあるとおりの人物となっているのがわかる。

 戦争が終わってから、俺たちは生まれた。
 けれどその疵痕(きずあと)は、大人(おとな)たちの失敗は、俺たちの人生に亀裂(きれつ)をいれた。(注21)

それに、主人公である剣シロオにしてからが、以前魔女になるための生け贄として彼女自身にとって最も大切な存在にほかならぬ恋塚ミミクロを毒殺しようと試みたことがあり、いまだにそのせいで彼が死んでしまったという思いこみに囚われたまま、どうやら大きすぎる自責の念からか狂気のような必死さで己を「魔女」として規定することに躍起になり、そのようないかがわしい規定にしがみつくことで辛うじて自我の崩壊を食い止めているらしいということも、もちろん忘れてはならない。
私個人としては、正直なところ、自らに消しがたい負の特異性が烙印されているものと信じたがり、何かにつけてそのような特別な悲運をそれゆえの孤独ともども人前で嘆いてみせるという自意識過剰な態度は、謙虚を装っていながらなかなかに押しつけがましく、実際に日常的な人間関係の中で目にすればさぞ不愉快だろうとも思える。だが、こと『魔女の生徒会長』という小説の世界においては、そもそもオセロやコロチカやジュリエットらの境遇が笑いごとでなく深刻な悲劇性を帯びているがゆえに、その種の態度もいやらしさを払拭され、真剣そのものの無骨な青春の歌へと理念的に昇華されているようだ。そしてそれ以上に特筆すべきは、ことあるごとに周囲の目を気にしながら、おずおずと「自分はこんなにも病的で罪深い変わり者なのだ」と訴えずにはいられない衝動に加えて、ときにそのような衝動に混じることもあるずるい甘えを見分ける鋭敏な感性までもが、ここには抜かりなく働いているという事実である。
いましがた、私は「オセロやコロチカやジュリエットらの境遇」と書き、主人公である魔女の生徒会長こと剣シロオの名を挙げなかった。もちろんわざとである。彼女の問題、あるいはむしろ恋塚ミミクロが彼女の認識する世界に欠落しているという二人の問題は、この三人の場合と比べて若干性質を異にするものだからだ。相異はどこに存するのか。シロオの不幸、あるいは作中での用語を借りるなら、彼女がかかっていた「魔法」は自業自得であるという点にか。否、第四巻『絶叫メリーゴーランド』におけるあっけない破綻、ついで第五巻『ママはあなたが嫌いみたい』における手際のよい解説から明らかになるとおり、「魔法」の実態は「催眠と暗示、および薬物などを用いた人格の歪曲(わいきょく)」にすぎず、要するに人為的な働きかけの結果だったのである(注22)。その点で、彼女の境遇は類例がないものではなく、脳に埋めこまれた機械と薬物によって人格を変質させられていた骸コロチカに通じるものがあるとわかる。真の相異、それは、オセロが犯した殺人やジュリエットの身体を蝕む魔素汚染が、骸兵団の一員としてのコロチカの身分と同様に、まがうかたなき現実の問題であるのと比べて、シロオの苦境は恒常的な認識の歪みであり、つまりは虚構的な性質を帯びているという点にあると考えなくてはならない。
だとすれば、オセロの登場する第一巻、およびジュリエットとコロチカに焦点を当てた第二巻『超悦者ジュリエット』に続く第三巻『案山子たちのグランギニョル』は、第四巻『絶叫メリーゴーランド』における「魔法」の破綻を準備すべく、傷口とその周りに生まれた問題というものに、虚構としての性格を授ける役割を担っているのではないか。それはちょうど、できてから一定の時間が経過したかさぶたは患部から剥がれ落ちなくてはならず、そうでなければ最終的な治癒が期しがたいようなものであろう。実際、『案山子たちのグランギニョル』には、開巻早々から、烏魔カカシが自らの「汚さ」に対して抱く、一読して明らかに妄想の類であるとわかる異常な嫌悪感が綴られているのだ。

 あぁ手が洗いたい。
 できることならば皮膚のすべてを、その下につまっている穢(けが)らわしい内臓のすべてを洗浄したいのだけれど、今はとにかく手が洗いたい。汚れている。手が汚れている。新品の制服に、周りにいる誰(だれ)かに、うっかりと触れて汚してはいけない。
 あぁ手が洗いたい。
 いちおう真新しい軍手を嵌(は)めてはいるけれど、そんなもので遮断できるだろうか。誰(だれ)かに触れる前に。誰かを汚す前に。手を洗わせて。お願い。手を洗わせて。
 わたしは汚れている。(注23)

カカシを日夜苛むこの嫌悪あるいは恐怖の感情は、もちろん本当に彼の身体が不潔であるという事実に対応するわけではなく―そのような事実はない―、姉である迷ヒ処トトロが録音を通じてミミクロに語る説明によれば、「男の子の肉体で女の子を演じることにより、周りを騙(だま)しているという引け目をおぼえていたらしい―無自覚にね」というのがことの真相であり、その引け目が「自分は汚れている」という感覚となってカカシにしみつき、彼を極度に内気な性格にしてしまったのだという(注24)。そうであるなら、嫉妬に狂った迷ヒ処トトロが断花シャムに重傷を負わせ、ついで錯乱のあげく燃え盛る図書館の中で命を落とした事件は、もちろんトトロの自業自得であるとはいえ、彼女の弟であるカカシの側にも、強いて探せば、自分が姉以外の誰かにとってもまんざら愛されるに値しないわけではないことに、気づくのが少々遅すぎたという落ち度を見つけることが可能なのではないか。たしかに地の文は、シャムと仲良くすることでカカシが覚える喜びと、彼の性格に心もち前向きの姿勢が生じた変化について、『オズの魔法使い』を引き合いに出しつつ「案山子はどこにでもいる、利己的で醜悪な俗物(ニンゲン)に成りさがる」という辛辣な注釈を加えているし、カカシ自身も図書館に到着した時点でそれを追認するかのような自虐的な内容の反省を思い浮かべているが(注25)、おそらく我々読者の正しい反応としては、ここはむしろ、姉に植えつけられたと判断してもよさそうな妙な引け目を捨てて、自分の人生は自分のものだとばかりに思い切って幸福の追求に邁進することは、決してそれ自体として間違いなのではないとカカシに教えてやるべきところであろう。そればかりではない。既述のとおりC校舎の生徒はみなが重病人か怪我人であり、入学の時点で何らかの身体的な苦労を抱えていること自体は本当である。だが、生徒たちが一様に目指す「人並み以下の状態から成長して一般人になる」という目標のほうは、「図書室の眠り姫」こと迷ヒ処トトロが彼女に化けた弟の口から語っているように、入学後の思想教育の結果として植えつけられるものなのだし(注26)、それに授業の一環としての不可解なほど大量の投薬にせよ、とても病人にふさわしいとは思えない、異常に味つけの濃い料理にせよ(薬の摂りすぎで生徒の味覚が鈍っているから、というのが一応の理由である)、C校舎の日々は病を治療するというよりも、どちらかといえば人為的に作り出し、回復の時を先延ばししているような観さえある。

 そんな益体のないことを考えていると、教室中を巡回している機械がわたしの机に白い袋を置いてくれる。投薬の時間だ。ひとりひとりに相応(ふさわ)しい薬の量と種類は機械が判断し処方してくれる。楽なものだ。考える必要はない。だからみんな、考えない。
 わたしは白い袋を開く。錠剤。カプセル。粉薬。注射もある。嚥下(えんか)の手助けになるどろどろと固体感のある液体に、嘔吐(おうと)したときのエチケット袋まである。わたしは手のひらに山盛りになる錠剤を口に含み、素直に飲みこんだ。味覚はもう随分と麻痺(まひ)してしまった。砂を口にいれるような違和感。
 周りを見ると、みんな同じようにしている。最初のうちは薬を嫌がる生徒もいたが、このC校舎ではこれこそが授業なのだ。卒業したいなら与えられた投薬をきちんと摂取しなくてはいけない。この学校を卒業するころには『一般人』に『成長』できる。
 それはC校舎の生徒が唯一、崇拝している希望だった。だからそれを馬鹿(ばか)にされるとみんな怒る。そうだ。わたしたちは自分の身体を壊したくて薬を摂取しているわけでも、身体を苛(いじ)めて楽しんでいるわけでもない。必要なことなのだ。投薬も何もかも。
 わたしたちは努力しているのだ。輝ける未来のために。
 その事実は、自覚は、わたしたちの誇りだった。
 だから本当にこんなので『一般人』になれるの? なんて疑問は、口にできる空気ではなかった。誰(だれ)もが流されるままに、強迫観念に突き動かされて与えられた課題をこなしていった。ついていけなかった生徒たちは―いつのまにか消えていた。C校舎の最奥で治療を受けているという話だが、たぶん嘘(うそ)だろう。死んだのだ。
 弱ければ死ぬ。適応できなければ死ぬ。シンプルだ。余所(よそ)の校舎だって同じだろう。どれだけ授業についていけたか、どれだけ積み重ねることができたかで、卒業後の進路が決まる。人生が決まるのだ。
 C校舎では、その目的地と脱落の条件が、余所よりちょっと酷薄なだけだ。(注27)

ここで「わたし」、つまり烏魔カカシの頭を一瞬よぎった疑問―「本当にこんなので『一般人』になれるの?」という疑問―は、たぶんC校舎の生徒であれば誰しも一度は抱くものであろう。なにしろ教科書の内容でさえ、怪しげな器具と薬物の助けを借りて脳に直接注入されるのだ。「特に両目と両耳に負担がある」らしく、着用後は「針を刺されるような頭痛」に襲われるというこの器具もやはり、生徒の健康にはよくなさそうである(注28)。そして案の定、第五巻『ママはあなたが嫌いみたい』に至って、そもそも帝都世紀末学園そのものが、三つに分裂した日本の上に君臨する大国の利益を増進するための「優良な家畜小屋」として創設された経緯が明かされるとともに、「C校舎の出来損ないたち」にはもっぱら「投薬実験などの消耗品として」の役割のみが期待されていたという衝撃的な事実が判明するのである(注29)。換言すれば、C校舎の生徒たちが味わってきた苦境は、もちろん架空のものではないにしても、多分に外から強制された人工的なものであった、ということになる。
思うに、自分たちの弱さを逆手にとって相手を威圧しようと彼らがもくろむときに当てが外れてしまうのは、このかぎりで必然的な結果なのだ。それこそは、C校舎の誇る大劇場において、「魔王」を名乗るシャムの号令と同時に、各自が思い思いの魔物に扮した生徒たちがシロオに襲いかかった直後、彼らが身をもって経験しなくてはならなかったことである。

 次々と駆逐されていく魔物たちを見て、シャムが金切り声をあげた。
『ちょっと!? 乱暴はやめなさいよ―その子は肺の病気で、あ、あっ、その子は見てわからないの車椅子(くるまいす)で……てっ、手加減しなさいよ!!
「ふざけないで」
 魔女は一喝した。
 それは魔物すべてを吹き飛ばすような怒号だった。
甘えんじゃないわよ!!
 言葉のとおりに凄(すさ)まじい勢いで松葉杖(まつばづえ)をつく生徒の腹を蹴りつけ点滴を腕にさした生徒の頸骨(けいこつ)を蹴り砕き血の気のない病人たちを遠慮なく躊躇(ちゅうちょ)なく撃滅していく。何も感じていないわけではない。シロオは生徒たちを愛している。唇を噛(か)みしめ血を零(こぼ)し涙を溢(あふ)れさせそれでも彼らの考えを正すため心を殺して鬼となっているのだ。
「手加減してほしいなら最初からそう言いなさいよ!! 病人扱いしてほしいなら病室に引っこんでなさいよ!! 怪我(けが)が痛いなら無理して動かず安静にしてなさいよ!! 人並みに扱ってほしいんでしょう―他(ほか)の校舎のみんなと平等に! 公平に! 扱って欲しいんでしょう!? 平等っていうのはねぇ、公平ってのはねぇ、こういうもんなのよぉぉお!!
 嵐のように周囲の人垣を吹き飛ばし、魔女は獰猛(どうもう)に吼(ほ)えた。
「病人だから!? 怪我人(けがにん)だから!? 自覚があるなら身の程を弁(わきま)えなさいよ!! 精一杯に生きている!? 将来のために努力している!? だから何よ!? そんなのは誰(だれ)だって一緒だわ―自慢するほどのものでもないわよ!! 自分たちだけが苦しいと思ってんじゃないわよ!! どいつもこいつも胸くそ悪い……甘えんじゃないわよ!!」(注30)

ここでシロオが叫ぶ思想は、こと「戦争を利用する者」に限って実は戦争と無縁であるということ、あるいはまた「各人に、特別な自分の戦争、特殊な自分の傷があるなどと語るのも恥辱である」ことを力説するとき、ドゥルーズの念頭にあったはずの考えと共鳴するものであろう。再び『意味の論理学』を参照すると、個体以前の純粋な出来事の非人称的な特異性の光輝について考察しながら、彼は次のように書いているからだ。

それゆえに、私的な出来事もないしそれとは別の集団的な出来事もない。個人的なものも普遍的なものもなく、特殊性も一般性もない。すべては特異的である。そうしてすべては、同時に集団的で私的であり、特殊的で一般的であるが、個人的でも普遍的でもない。私事でない戦争があるか。逆に、戦傷でない傷があるか。社会全体に由来しない傷があるか。座標軸を、言いかえるなら社会的な非人称的特異性をまったく持たない私的出来事があるか。しかしながら、戦争が全世界に関わるなどと語るのはまったく恥辱である。そんなことは真実ではない。戦争を利用する者、戦争に奉仕する者、つまりルサンチマンの連中には、戦争は関わらないからである。そして、各人に、特別な自分の戦争、特殊な自分の傷があるなどと語るのも恥辱である。そんなことは、傷口を引っ掻く者、苦渋とルサンチマンの連中についてなら、真実ではない。それは自由な人間についてだけ真実なのである。というのも、自由な人間は、出来事そのものを捉えるからであり、出来事が実現するがままであっても、役者として出来事の反‐実現を操作するからである。そのとき、自由な人間だけが、あらゆる暴力を唯一の暴力において把握し、あらゆる致死的な出来事を〈唯一の出来事〉において把握することができる。(注31)

たとえ傷口が正真正銘の本物であっても、それを見せびらかして同情を買おうとする一方で同時に他人を攻撃するような振舞いは許されるものではない。いわんや、本人がどういうつもりでいようとも、日々の生活が傷口の完治を目指してではなくて、実はあべこべにそれの維持という方針に沿って組織されていたのであれば、なおさらである。
しかし、この一見すると手厳しい批判も、見方によっては、結局のところC校舎の生徒たちの病気や怪我は彼ら自身が思いこんでいるほど手の施しようがないものではないことの証明とともに、むしろ錯覚からの解放と真の自立への第一歩とを準備してくれるものでありうる。そのかぎりで、この批判には虚構の打破による現実性の救出という性格を認めてよいはずだ。だからこそ、「怪獣」烏魔カカシに苦戦を強いられるシロオを手助けすべく、かすかに残っていた「先輩」こと淀川ドロシーの人格の助言に従ってミミクロが分身の術の虚構性を暴露する以下の場面が、『案山子たちのグランギニョル』の大詰めを形作る決戦の、そのまた終幕でなくてはならないのである。

「恋塚(こいつか)くん」
 
 不意に、声がした。
 魔女を取り囲んだ十六人のなか、唯一、戦闘態勢をとらず、何だか手持ちぶさたに突っ立っていた『怪獣』が、暇つぶしみたいに語りかけてきた。たまたま俺のそばにいたその人物は誰(だれ)を模倣しているのか、誰の人格なのか、考えなくてもわかった。
 先輩だ。
〔中略〕
 劣勢にいる魔女を一瞥(いちべつ)し、困ったように笑って、先輩は無力な俺に歩みよってきた。三つ編みはない。でも先輩だった。優しくて。可愛(かわい)くて。俺が好きだった先輩だ。
「ずぅっと言いたかったんですけど」
 先輩は血まみれの俺のそばで、小柄な体躯(たいく)で精一杯に偉そうに胸をはり、腰に手を当てていつものようにお説教してきた。
〔中略〕
 そして俺の魂にまで響く、助言をくれた。

「あなたはシロオちゃんの魔法なんですよ」

 それは、どういう意味だろう。
〔中略〕
「あなたは魔法です。シロオちゃん専用の魔法です。それを忘れないで。魔法がじょうずに魔女の望むとおりの奇跡を起こしたら、『怪獣』なんかには負けません。だから……がんばって、ね。シロオちゃんを―守ってあげてください」
〔中略〕
 おまじないだって―信じればたまには実現する。C校舎のおまじない、伝説だった怪獣は実体化した。だったら馬鹿(ばか)で愚かで幼い子供が夢想した魔法だって。ただ虚栄心と向こう見ずな妄想から魔女になりたいと思った女の子の願いだって。
 実現することがあるかもしれない。
 いいや。今―ようやく、魔女になりたいと願った女の子の祈りは届くのだ。俺はそう信じた。手にした麻酔銃を必死に掴(つか)み、今まさに窮地の敵や味方に嬲(なぶ)り殺されようとしている幼なじみの元へ駆け、その傍(そば)で全身の力を振りしぼって。
シロちゃん!!
 あぁ出来損ないの魔法にできたことは、迫りくる十六人の『怪獣』へやたらめったら麻酔銃の弾丸を吐き散らしたことだけ。どれが虚像でどれが本物か見抜くことは俺にはできない。だができるだけ選択肢を減らすことはできる。弾丸が素通りし背後の壁や観客席が穿(うが)たれるものは偽物だ。弾丸を放つ放つ放つ。偽物。偽物。偽物だらけだ。
 ぜんぶ―偽物!?
「成る程」
 魔女が笑みを浮かべた。久しぶりの不敵な笑みだった。そうだ。俺は忘れていた。座頭衆の末裔(まつえい)たる忍者―数戯(すうぎ)ヤンマが用いた分身の術で生みだされる虚像は十六人。実体をもつ本物はそのどれでもない。隠れ潜み必殺の機会を待つ十七人目がいるのだ。
 弾丸に虚像を抉(えぐ)られ消えていく『怪獣』たちを見届け、魔女は大きく身を翻(ひるがえ)し、何やら自信満々に―いつもの彼女らしく吶喊(とっかん)を放った。
「侮られたものね……私は魔女よ? 魔女なのよ!?」
 そうだったな。おまえは魔女だ。
 今までは魔法が怠けて働かなかったせいで、何かと失敗していただけなんだよな。
 ごめんな―魔女。
「催眠術もッ、くだらない幻術もぉ……この偉大なる魔女である私には通用しないわ―そこよッ、小細工を弄(ろう)した己の愚挙に恥じいり吹っ飛べ『怪獣』ッッ!!」
 そして頭上から迫っていた十七人目の『怪獣』に、つまり実像をもった本体に、魔女は乾坤一擲(けんこんいってき)の気魄(きはく)を結集させた渾身(こんしん)の蹴(け)りをぶちかました。
 決着。(注32)

ここで見落とせないのは、「俺」、つまり恋塚ミミクロが、たびたび確認してきたように、シロオにとっては、現実的であることをとうにやめてしまった、五感で知覚することのできない人物であるということに加えて、彼に助言を与える「先輩」つまり淀川ドロシーもまた、元来烏魔カカシが殺した生徒の死体を第二大日本帝国に出荷するときに名乗っていた架空の人物にすぎず、したがって確たる実体を具えた独自の人格ではなかったということ(注33)、そして両者が力を合わせてシロオのために起こしてやる奇蹟、あるいはとっておきの「魔法」とは、要するにカカシの十六人の分身を銃撃で雲散霧消させることによる、それらがもともと単なる虚像にすぎないことの証明であり、それに尽きるということ、この三つである。この三つは、我々に何を教えてくれるのか。ここで起きているのが、ちょうど円環が狭まるようにそれ自身の中心、現実的なものという核へ向かって虚構が自壊してゆく過程にほかならない、ということである。
それゆえにこの場面は、続く第四巻『絶叫メリーゴーランド』における、シロオの「魔法」の破綻、すなわちミミクロとの再会を予告する、一種の布石ともなりうるのだ。すでに判明しているように、彼女にかけられた「魔法」もまた、「催眠と暗示、および薬物などを用いた人格の歪曲(わいきょく)」(注34)として、つまりは人工的な手段による現実からの強制的な乖離として定義できる以上、虚構的な性格を帯びているからである。運命の皮肉か、はたまた理の当然というものか、てっきり死に別れたものとばかり思っていた「クロちゃん」こと恋塚ミミクロにシロオを再会させたのは、何ら単独的で代替のきかない彼の現実的な個性ではなくて、D校舎(通称「汚染区域」)を舞台にシロオ自身が企画した次期生徒会総選挙において、彼女と組んで一緒に本戦(の第三試合)に出場すべき相方としてミミクロその人の名が電光掲示板に表示されたこと、そして機転をきかせたミミクロが、日頃からシロオが彼のつもりで持ち歩いている黒猫のぬいぐるみにそっくりな着ぐるみを急遽調達し、それに身を包んで再登場したことであった(注35)。この状況は、一体どう説明すればよいのか。『案山子たちのグランギニョル』の内容を読み終えた者にとっては、あまり頭を悩ませずとも答は明瞭だろう。墓標のごとき掲示板の中にしか見当たらない、文字通り名のみの存在であった「恋塚ミミクロ」が、目で見て手で触れることのできる生身の肉体とともに驚異的な復活を遂げた、あるいは生命なき彼の身代わりにすぎなかった黒猫のぬいぐるみが、思いがけずその正体を現し、血が通い、呼吸する「クロちゃん」本人へと変化した…シロオの立場になってみれば、起きたのはこういうことである。これを、作品の中にしかいなかった登場人物が現実化すること、あるいは現実への虚構の侵入として考えることは、さほど強引な説明ではあるまい。
虚構の輪が自壊を繰り返しながら狭まって、その奇蹟的な収縮の果てに、およそありそうにない恩寵の類にも似た最高度の新しさと充実と尊厳を平凡な現実にもたらし、あるいはむしろ回復させること―まさしく魔法のような驚きと喜びに我々読者をも巻き込まずにいないこの一連の過程は、それでいて、自らの手でそれを演出したミミクロが、彼自身も感極まってか再三にわたって「魔法は解けた」という確認を地の文の中で発するに及んで(注36)、逆説の頂点に達することになる。この逆説に直面して、ドゥルーズの絶筆とされる小論「現働的なものと潜在的なもの」〔« L'actuel et le virtuel »〕が、その第一部では「現働的なものが次第に拡がり、次第に遠ざかり、多種多様になってゆく〔自らとは〕別の潜在性に取り巻かれているケース」を考察したのに対して、第二部では叙述の力点を「円環が狭まっていくとき、そして潜在的なものが現働的なものに近づいて次第に区別されなくなっていくとき」に移し、現働的な(actuel)ものがそれ自身の潜在的な(virtuel)ものと共存し、結晶化としての最小回路の中で両者が区分されつつも識別不可能になる様子を追跡しようと試みているのを思い起こすのは、はたして的外れだろうか(注37)。
そのことの是非はともかく、少なくとも一つたしかなことがある。それは、第三巻『案山子たちのグランギニョル』が、先立つ二冊―副題なしの第一巻、および第二巻『超悦者ジュリエット』―と比べると、傷口とその周りに生じた問題とが、本質的に現実的というよりも虚構的な性格のものである点で異なっていながら、しかも他方で後に続く二冊―第四巻『絶叫メリーゴーランド』、および第五巻『ママはあなたが嫌いみたい』―と比べても、作者に対する作品の、あるいは創造者に対する被造物の反抗という垂直的な関係ではなくて、水平的な関係、すなわち血のつながりこそないものの世界に二人きりの人間兵器としてお互いの人格を交換するほどに深く結びついた、迷ヒ処トトロと烏魔カカシという奇妙な姉弟の間の愛が主題である点に明確な違いが存する、ということだ。それは、さながら自らの鏡像に籠絡された主体がそれに対して覚えるような、とことん閉鎖的で出口のない愛であり―思い起こせば、カカシは、口づけを交わした直後の姉が彼自身の人格を再現してみせるのに接して、「そうだ、まるで鏡を覗(のぞ)きこんだときのような」という感想を抱いたのだった(注38)―、その中ではいかなる反抗も、たとえ兆しが芽生えたところで結局は未遂のままに終わるほかない。なにしろ、嫉妬に狂って大切な親友(断花シャム)に重傷を負わせたあげく勝手に自滅した姉の死体を迫りくる炎と煙に悩まされながら粉々に破壊している最中ですら、「お姉ちゃん……ごめんなさい……」という謝罪の言葉のとめどない連呼からもわかるとおり、カカシの心の中はもっぱら猛烈な悔恨と自責の念のみで占められていて、到底こんな始末に負えない厄介事を起こして自分に迷惑をかける彼女への悪意が意識化される余地はないようなのだ(注39)。トトロはトトロで、そんな弟が亡き姉を思うあまりに陰惨な連続殺人事件に手を染め、シャムを騙し、シロオを挑発してとうとう倒されたあげく治療を拒んで自ら死を選んだという成行きに満足して、ミミクロのために用意していた録音の中で「わたしは死んだ。弟も死んでくれた。わたしを追いかけて、同じ地獄に堕(お)ちてくれた」と語っており、これには聞き役に徹するミミクロとしても、一方ではどこか釈然としない印象を抱きながら―「あの魔女すらも物語の脇役(わきやく)にして、『眠り姫(姉)』と『怪獣(弟)』が紡ぎだした陰惨な演劇(グランギニョル)は終わった。誰(だれ)も救われなかった。みんなが等しく哀(かな)しみと罪の汚泥と血にまみれた」―、彼は彼でいっそシロオが自分と一緒に死んでくれればよかったと願ったためしが皆無ではないだけに返す言葉がなく、結局は「けれど―すべてが、無意味だったとは思わない。/あの結末を幸せな終わり(ハッピーエンド)と思ったものが、たった独りでも……いたのだから」という、中途半端に好意的な総括で応じることを余儀なくされる(注40)。
ここで私は、この論稿の冒頭で書いたことに、そろそろ立ち戻らなければならない。「双子同然の対を作る姉弟の、自己完結を求めて何が何でも外界の影響を拒もうとする強固な意志こそが、『案山子たちのグランギニョル』の筋書を突き動かす最大の原動力なのである」という点については、たったいま証明したばかりだ。残るは、この小説が『魔女の生徒会長』全巻を通じてちょうど折り返し地点を占める(全五冊中の第三巻である)ことに注目したのが、どの程度正当な判断であったかを確かめることである。しかしこの確認も、いまやそれほど手間取るとは思えない。というのも、これまたすでに述べたように、第四巻『絶叫メリーゴーランド』と第五巻『ママはあなたが嫌いみたい』はともに、作者に対する作品の、あるいは創造者に対する被造物の反抗が主題であるからだ。それは、D校舎が舞台の第四巻においては、いままでシロオにかかっていた「魔法」はどうやら何者かの悪意ある陰謀によって人為的にもたらされた結果らしいという新たな事実の判明から、また、かつて魔素を克服するために奇怪な研究を積み重ねた果てに獅子守(ししもり)フォルテシモが開発した糸状の新生物である「悪魔の双子」こと境(さかい)ガガガラとグググチの兄妹が、フォルテシモの妹にしてD校舎総代表でもあるメゾピアノにシロオの魔法が解けた責任を問われ、抵抗もむなしくばらばらにほどかれて吸収されてしまうという悲劇的な筋書からわかることである。同様に第五巻には、魔素汚染で肺を病んだシロオの妹であるルリヲ―五歳の頃には、シロオがミミクロと野外で元気に遊ぶ姿を羨むあまり、毎日のように姉の目を盗んでは彼女になりすまして「ミミクロお兄ちゃん」を彼の家に訪ね、逢瀬を重ねていたという―が登場し、人格の模写と自己暗示の「魔法」を使った入れ替わりの技術によって、自らが犯した通り魔殺人事件の罪をシロオに着せて彼女を厄介払いするとともに、自分は世間から隔離された帝都世紀末学園の中で姉の代わりにミミクロとしあわせに暮らすという邪悪な計画を明かすのである。「同様に」と書いたが、幸いオセロの大活躍のおかげで未然に防がれたこの入れ替わりの計画が、作者に対する作品の、あるいは創造者に対する被造物の反抗とどう関係するのか。それを理解するには、プラトン哲学においては、差異がそれ自体として肯定されることなく同一性と類似性から出発して思考されるのがつねであるため、いたるところで見本(モデル)としての原本(オリジナル)に複写(コピー)が隷属するという結果を招くことになると指摘した上で、必ずや階層的な上下関係をもたらさずにはいない両者の概念そのものを疑い、むしろプラトンが追放しようと望んだ見せかけ(シミュラクル)を呼び戻すことでプラトン主義の転倒を図ってはどうか、と提案するドゥルーズの不敵な姿勢が参考になる(注41)。つまり、我々がルリヲの失敗から教訓として学ぶべきなのは、嬉々としてシロオを拷問する彼女の前で怒りに震えるミミクロの頭に思い浮かんだ批判が示すように―「入れ替わりなど―言語道断。絶対に、受けいれられない。それに、他人の人生を奪っても、それは所詮(しょせん)、偽りなのだ。そこに幸福はない。ルリヲにはそれが理解できていない」(注42)―、他人の人生を横取りしたところで出来合いの見本をまねるのと変わらないのだから、そのような安易な手段に頼るべきではない、ということなのではないか。彼女がしていることは、「怪獣」烏魔カカシの分身の術が破られたとき、あるいはシロオの「魔法」が解けたときのような、先に我々が検討した虚構の輪の自壊による収縮と比べれば、未知の現実の発見へと到達するのではなくて既知の現実の隠蔽から出発するのであるから、まるで方向が反対である。実際、ルリヲは独力でこんな陰謀を思いついたわけではなく、彼女にこの計画を入れ知恵したのも、それどころか獅子守フォルテシモの研究成果である「糸」を応用して病弱だった彼女の身体を強化してやったのも、シロオとルリヲの実の母にして、例の大国の代理人として三つの大日本帝国の管理を司る、「ママ」と呼ばれる人物であった。このママこそが『魔女の生徒会長』という小説の黒幕であり、シロオたちの最後の、そして最強の敵である。それゆえ、自らの後継者になるはずだったシロオの素行がミミクロとの交際を通じてすっかり悪化してしまったのに苛立つ彼女が、ルリヲを操るために弄する「あなたが良い子でいるかぎり、あなたの望みは叶(かな)うでしょう」(注43)という甘言は、帝都世紀末学園そのものが大国のための「優良な家畜小屋」として創設されたというおぞましい真実を明かした上で、なお平然と全生徒に子が親に果たすべき奉仕を要求するときの高飛車な台詞―「生んであげたのは、わたしたちです。あなたたちは、わたしたちの所有物です」(注44)―とあいまって、本作が究極的には創造者に対する被造物の反抗、ひいては独立という目標に向かわなくてはならないことを、逆説的ながらすこぶる雄弁に教えてくれるのである。
こうして、『魔女の生徒会長』の第三巻『案山子たちのグランギニョル』が単に位置の上で全篇の中間を占めるのみならず、内容に関してもいわば蝶番の役を実際に果たしていることは確認できたと信じる。あえて単純化するなら、第一巻や第二巻におけるオセロやジュリエットらの物語が負の領域(マイナス)からゼロへの上昇だったのに対して、第四巻や第五巻への筋書はゼロから正の領域(プラス)への上昇として要約することも可能であろう。それゆえに、中間を占める第三巻は、迷ヒ処トトロと烏魔カカシの間の、さながら向かい合わせの鏡の間で生じる鏡像の限りない反射を思わせる、他人が割り込む隙のない閉鎖的な愛の物語として、基本的にはそれ自身の内部で完結しなくてはならないのである(なお、C校舎の生徒を悩ます病気や怪我が、もちろん架空のものではないにせよ、「治療のため」という名目で入学後に強いられたおかしな日課のせいでかえって悪化していった可能性については先に指摘した。換言すれば、彼らが一様に「人並み以下の状態から成長して一般人になる」という目標に向かって努力を重ねているとしても、それは先行するオセロやジュリエットらの物語とは似て非なるものであり、いわばその戯画なのだ)。これは例えば第二巻のジュリエットにとって、自分の鏡像を見るという行為が―ずっと幼い時分に失った視力が、ロミオ少年に投げつけられた石のせいで幸か不幸か一時的に回復したために、彼女は水たまりの泥水に映った人間とも思えぬ醜悪な顔を目にするはめになった(注45)―、ラカンやメルロ‐ポンティの説とは裏腹に、自らの美と価値についての確信を粉砕される絶望的な幻滅の体験にしかならないのと比べると、なんとも対照的である。こうなれば、『魔女の生徒会長』を現象学への批判として読むという私の試みにも、新たな展望が開けてくるというものだ。なんとなれば、この閉鎖性はまた、トトロの説明を信じるならほかならぬ彼女の人格を演じてきたせいで、周囲を欺いているという罪悪感から「自分は汚れている」という病的な妄想に悩むようになったらしいカカシが、姉の浪費を支えるのと、自分の価値を実感したいという二重の動機で手を出した男子生徒相手のいかがわしい「仕事」―詳細は略されているが、たぶん売春まがいの内容であろう―を終えた後で、シャワーを浴びながら自身の肉体的存在そのものを端的に「汚れ」と同一視するに至る、以下の場面にもありありと反映していると考えてよいからだ。

 どんどん、汚れていく。
 熱い液体を浴びる。ぜんぶぜんぶ汚れも気持ちの悪さも何もかも洗い流せればいいのに。汚れが落ちない。拭(ぬぐ)っても拭っても。たぶん肉を削(そ)ぎ落とし何もかも消し去らないと、わたしの汚れもまた洗い流せはしないのだ。(注46)

注目すべきは、「熱い液体を浴びる」という一文から、実際には身を清めているはずのカカシが、まるでいままさに精液を顔面に浴びて汚されているかのような両義的な趣が生じてくることだ(ちなみに、「両義性」はメルロ‐ポンティの哲学にとっては最も重要な概念の一つである)。生身の「肉」そのものを捨てでもしないかぎり、どこにもこの「汚れ」から脱する出口はない。晩年のメルロ‐ポンティが『見えるものと見えないもの』で探究していた「肉」の存在論と感性論に対する異議申し立てとして、これほど痛烈なものはめったにない。
ただしこの閉鎖性ないし自己完結性は、あくまでも「基本的には」そうだということであって、実際には、ミミクロが敵(カカシ)の十六人の分身を銃撃で雲散霧消させることで、絶体絶命の窮地に陥ったシロオの逆転勝利を手助けする、という成行きの内に認めうる、虚構の自壊による収縮とその後に結果として見出されるひとかけらの現実という構図が、続く第四巻における両人の再会のために布石を準備していることはすでに検証済みである。いや、それどころか、この構図はそもそも『案山子たちのグランギニョル』の結末において、カカシの自我が先に死んだ姉(トトロ)の後を追うようにこの世から消滅し去った後もなお彼の身体に残る、これはこれで奇蹟か魔法のような淀川ドロシーの意識の存立を支えているはずなのだ。はっきりそう書いてあるわけではないので推測にすぎないが、こんなことになったのはどうやら、死んでいった60人分の生徒たちの生涯が忘却されるのは忍びないので、可能ならば自分の代わりに別の誰かに記憶してもらいたいというカカシの遺志と、常日頃から自分たちの仲間(書記)として「淀川ドロシー」に接してきたシロオ以下生徒会の面々の、彼女と別れたくないという懸命な思いとの相乗効果が原因らしい。「自分で自分がわからない」(注47)目覚めの経験、それに加えて期待や愛を寄せてくる他者との関係が私の実存に及ぼす存在論的な影響力、この二つはいずれも、自然的態度―もっぱら目前の雑多な諸対象に関心を払いつつ、自らが生きる世界そのものについては暗黙の前提として自明視するのみでことさらその存在を問わない日常的な意識の態度―から脱却し、現出してくる事象そのものの本質をその与えられ方ともども純粋に看取すべく余計な判断を停止させる、という還元(Reduktion)の方法の深化が、やがてフッサールをして主観による世界の構成という理論すら想到せしめたことを思えば、現象学にとってはそうなじみ深いものではなさそうである。
第一、シロオの猛攻に全く同じ動作で応じて彼女を翻弄するカカシの戦いぶりを見たミミクロは、なんとも意味深長なことに、「鏡に反射した虚像が実体をもったみたいだ」という印象を抱いているのだ(注48)。この観点からすれば、それに続く分身の打破の場面も、何はさておき乱立する鏡像の破壊という文脈の上で読むことは可能だし、むしろ絶対にそう読まなくてはならないはずである。例えば、スピノザ的な心身の並行論―精神と身体の間に存するのは実在的な因果関係ではなく、単に一方が能動的(受動的)であるときにはつねに他方も能動的(受動的)であるという類の並行関係のみである、と考える理論―を引き継ぎつつもそれを経験主義的な方向へと転用することで、「〈精神的‐物理的〉に取って代わる言わば〈裂的‐体的〉(schizo-corporel)並行論―要するに、〈分身論〉」を提案する江川隆男が、そのようにして精神の本質の触発と身体の本質の変形、あるいは「鏡に映る諸器官の総体としてのわれわれの現実の有機的身体」から、それとは別の身体、かつてドゥルーズが「器官なき身体」と名づけたものへの変身とを企てながら、そのためには「ラカンの鏡像段階を生み出す鏡」を含む、ありとあらゆる鏡の「徹底した破壊作業」が欠かせないと主張しているのを知るとき(注49)、この信念はいよいよ動かしがたい。ついでながら、この鏡の破壊という作業が、例えば幼児の身体から大人の身体への変化や記憶喪失のごとき、我々が死体になる以前にも到来しうる死の経験、あるいはむしろそれを通じた不死性の体験のためのいわば条件として考えられていることも(注50)、あたかも『案山子たちのグランギニョル』の結末における「あたし」こと淀川ドロシーの目覚めを小説の外から予言するかのような趣があり、これはこれで無視できない。
しかしこの傾向は、第五巻『ママはあなたが嫌いみたい』の終盤で描かれるシロオとママの決戦の場において、もはや単なる現象学への批判にはとどまることなく、フッサール的な「自分が語るのを‐聞く」という明証性の権威に比べればいかにも対極的なものと評さざるをえない積極的な代替案、つまり誰かを応援するために「全員で教わった歌を‐聞かせる」という行動に結実するのだ。その口火を切ったのは、他のどの校舎の連中よりも『案山子たちのグランギニョル』と縁が深い、これまでずっと人並み以下という地位に甘んじてきたはずのC校舎の生徒たちである。

 鞠(まり)のように飛び跳ね、魔女は床を転がる。
 残るのは血の痕(あと)だ。
 思わず飛びだしかけた俺たちだが―。
 そうだ。
 この程度で、魔女がやられるものか。
「歌いなさい」
 魔女が飛び跳ねた。相手の攻撃など意にも介さずに。否、顔面からは滂沱(ぼうだ)と血を流し、決して軽傷とはいえないダメージを負いながら、それでも楽しそうに。闘技場のようになっている、体育館の中心、生徒に取り囲まれたその真ん中で敵と相対する。
 最悪で最強の難敵と、遊ぶような気軽さで、一対一で殴りあう。
「とびきり愉快に歌いなさい!」
 その言葉の意味が、周りにはすぐに伝わることはなかった。だがその楽しそうな姿と表情、声を確認し、盛大な溜息(ためいき)をつくものがいた。断花(たちばな)シャムだ。猫の帽子をかぶった彼女は、自棄(やけ)になったように地団駄を踏み、みんなを見回した。
 そして彼女の属するC校舎の生徒たちを見つめると、片手を掲げた。
 指揮者のように。
 それに導かれ、かすかだが歌声が生じる。弱々しい、その旋律。病弱で、だからこそ虐げられてきたC校舎の生徒たちの、それでも澄んだ美しい音色だ。
「悔しいけれど、他(ほか)にできることがありません」
 シャムが涙目になって、それでも吼(ほ)えた。王者のように。
「それでも、歌えますわ! 応援はできるし、気持ちは伝えられます! わたくしたちは出来損ないなんかじゃない!! そうでしょう、皆さん!! 声を嗄(か)らして主張しましょう、誰(だれ)に恥じることもない、わたくしたちの生命(いのち)を!!」
 歌声が重なっていく。
 この学園で暮らしているかぎり、嫌でも聞き慣れてしまう、あのメロディ。素(す)っ頓狂(とんきょう)で、意味がわからず、ほとんど迷惑でしかなかった。でも、だからこそ覚えている。この学園らしい―それは魔女の歌だ。魔法の国からやってきた、魔女っ娘(こ)シロオたんの歌。
「断花のやつは、C校舎で聖歌隊を結成したらしいからな」
 ジュリエットが感心したように、満足そうに頷(うなず)いた。シロオに助力をしようと踏みだしかけていた足を止め、むしろこっちのほうが面白そうだと大口を開いて。
「聞きにいったことがあるが、なかなか大した歌声ぢゃぞ。『通常より劣っている』などと卑下することはない。『魔界』の連中の歌声を、妾(わらわ)は誇りに思う。よぉし、皆のもの! 我らも歌おうぞ!! 四面楚歌(しめんそか)というものを、とくと味わわせてやれい!!」
 そしてジュリエットも歌いだす。お世辞にも上手とは言えなかったが、声量は人一倍だ。俺(おれ)たちの主軸だった人物の熱唱に導かれ、体育館に割れんばかりの声が轟(とどろ)いた。最初は恥ずかしそうにしていたのが、誰もが声を振り絞り、最後は全力で。
 馬鹿(ばか)げた光景だった。
 だが間違いなく力を有していた。
 腹の底から震えるような大合唱のなか、魔女は両手を広げる。すでに血まみれだ。小柄で、頼りない。だがその姿は魔法のような歌声に支えられ、揺るぎなくそこにある。表情は満面の笑みだ。手を叩(たた)き、闘うのも忘れて囃(はや)している。
「ほら、ほら、もっと大きな声で! こういうのはね、みんなで歌うのが楽しいのよ!!」(注51)

この全校生徒の声援に後押しされて、シロオはついに実の母にして宿敵のママを打ち負かし、学園に迫る大国の脅威をひとまずは撃退することに成功する。冷酷非情にして傲岸不遜な母親と絶対に和解の余地のない仇敵として真正面から対決すること、そして、ただでさえ常人ならば身体の他のどの部位にもまして当人の性格や内面の変化を色濃く表出するはずなのに、ことこの場合に限ってはその種の個性的な色調をもともと欠いている顔面を―「視覚。嗅覚(きゅうかく)。聴覚。触覚。味覚。五感としての、感覚器としての機能しか有さない顔の部分。そこに表情はない。感情もない。機械と同じだ。そこからは何も読み取れない。かすかに浮かんだ嫌悪のようなものも、雑音として処理される。/残ったのは、完全な無表情」(注52)―子(娘)が自らの意志で蹴り砕いて彼女を絶命させること、このような成行きは、はたして母との関係における深刻な不足やそれゆえの不満を成長の過程で経験せずに済んだ男性作家に思いつくものであろうか。むしろ、絶えざる母の不在が自分の中に残した傷跡への対処の努力が、他人に依頼するわけにはいかず、自分で自分に施すしかない痛々しくも孤独な手術の行程に似たものが、ここに隠れていると感じるのは気のせいだろうか。少なくとも、ラカンの理論の中でもことのほか謎めいている「母による去勢」と同様の発想は(注53)、そのような背景からでないとなかなか生じてこないように思える。いずれにせよ、我々はすでに、ジョー・ブスケの箴言に即してドゥルーズが熱心に説く「運命愛」の思想を知っている。もう一度、先に引用した『意味の論理学』の中の一節を読み返してみよう。

出来事は、到来することの中で、把握されるべきもの、意志されるべきもの、表象されるべきものである。さらにブスケは述べている。「君の不幸の人間になれ。君の不幸の完全性と閃光を受肉することを学べ」。これ以上のことは言えないし、一度も言われたことはない。すなわち、われわれに到来することに値する者になること、したがって、到来することを意志し到来することから出来事を解き放つこと、自己自身の出来事の息子になること、そして、それによって再び生まれること、出生をやり直すこと、肉の出生と訣別すること。出来事の息子であって、自分の作品の息子ではない。出来事の息子だけが、作品そのものを生産するからである。(注54)

いまや『ママはあなたが嫌いみたい』の検討を経てこのくだりを再読する我々には、傷跡への対処を迫られて四苦八苦するのは、なにもシロオたち登場人物ばかりではなさそうだという印象が避けがたい。「自己自身の出来事の息子になること、そして、それによって再び生まれること、出生をやり直すこと、肉の出生と訣別すること」―そのとき初めて人は真の創造者になることができるというこの理を、『魔女の生徒会長』に匹敵するほどの説得力で教えてくれる小説は稀であろう。というよりも、『ママはあなたが嫌いみたい』を読み終える瞬間を目前にして、名残惜しさを噛みしめる我々をまるで小粋な別れの挨拶のように不意打ちするわずか二頁足らずのミミクロの回想が、かつてシロオが子どもらしい無邪気な正義感から「悪いやつから世界を救う、正義の魔女になるわ!」と宣言したときの情景を忘れかけていた記憶の奥底から発掘してくるに及んで(注55)、虚構の自壊による収縮と、その果てに残るひとかけらの現実という我々が何度か出会った構図は、頭の中で思い描いた夢を自らの手で実現することとして新たに規定しなおされ、それとともに作家の執筆活動そのものを祝福し始めるかのようなのだ。さながら全篇の前置きのごとく第一巻の冒頭に置かれた警察の資料―この文書が、ルリヲの犯した大量殺人事件の容疑者としてシロオを追跡するにあたって作成されたものであることが判明するのは、ようやく第五巻に入ってからである―の中に記録されている、幼なじみに毒を盛った直後のシロオが口走った「私は友達を生け贄にして―悪魔と契約した魔女なのよ!」という痛々しくも錯乱した叫び(注56)よりもさらに古いはずのこの輝かしい宣言は、それでいてあの叫びに一連の波乱万丈の物語を隔てて事後的に呼応することで、いまや誰の目にも否定しがたい具体性を伴って生成してきたばかりの作品それ自体に、「出生をやり直す」ための傷や死のような出来事への対処、あるいは浄化に似た過程としての性格を与え、そのようにして他の誰にも肩代わりすることの不可能な励ましを創造者に投げ返す。なぜ、出生をやり直すための試みなのか。それは、ここで起きているのが起源の再設定だからである。なぜ、浄化に似た過程なのか。それは、完結を目前にした地点でほかならぬ当の作品の誕生に関わるいきさつが判明するというこの巧みな構成が、文学史における立派な先例には違いないプルーストの『失われた時を求めて』の終盤で、ついに書くべき小説の理念を発見すると同時に執筆への着手を決意した話者を脅かす、残り時間の少なさゆえの焦りや自身の創造力への疑念―「いったいまだ間に合うのだろうか。そして私はまだそれができる状態にあるのだろうか」(注57)―とはいかにも対照的な、何の屈託もない熱烈な希望の宣言を以てあの叫びの錯乱に対峙し、そしてそれを虚構として、すなわち錯覚や虚妄の類として雲散霧消させてしまうばかりか(なぜなら、「魔女になる」ことは決して身近な誰かを犠牲として要求するような、後ろめたい悪事の一種ではなかったからだ…)、より古くて真正なものの権威の事後的な参照という形式でそのことを遂行するので、その結果時間のねじれが、筋書の進行自体にさながらメビウスの輪の上をたどる線のような趣を、要するにヘーゲルならばさだめし「無から無への運動」(注58)とでも呼びそうな、仮象の揮発していく過程としての虚構的な性格を最終的に与えるからだ。陰から陽への変化は、ここでは、前者から出発して進んできたはずの歩みが円環状に曲がり、出発点をすぐ間近に控えた、ただし面に関してだけはいつの間に裏返ったのやらまるで正反対と評さざるをえない地点、すなわち後者へと我々を導いていく―という風に生じる。
これほどの必死さで自律性を求める作品のあがきは、一体いかなる動機を、いかなる孤独を寓意的な反転の背後に隠しているのか。おそらくこの問いは、母親がいない、いやむしろ要らない生として自律性がこの場合に意味すべきものの内実を理解するとき、多くの読者にとって避けがたくなる。とはいえ、痛々しかろうとなんだろうと、安易な同情は慎むべきだろう。大体、これが同時に生み落とされたばかりの作品から作者への別れ際の挨拶でもあらねばならないことは、シロオたちの運命に一喜一憂してきた果てに、真の独立を求めて大国の陰謀に抗い続けるという決意を新たにする彼女の英姿に全校生徒ともども喝采を送る我々読者にとっては明々白々である以上、慰めなどという湿っぽい態度は場違いに決まっている。それに、ともかくドゥルーズの信念によれば、これまでの人類史において、あらゆる真正の思考は裂け目の縁で生れてきたし、あらゆる偉業は裂け目から生じてきたのである。

何故、裂け目が望ましいのかと問い尋ねられるとすれば、それは、おそらく、裂け目を通って裂け目の縁でだけ思考してきたからであり、人類において善良で偉大であったことはすべて、自己破壊を急ぐ人びとにおける裂け目を通って出入りするからであり、われわれが勧誘されるのは、健康よりは死であるからである。(注59)

日日日の傷跡、あるいは裂け目の実態について、ここでこれ以上立ち入った穿鑿をしたがるような無遠慮な趣味は私にはない。むしろ私に興味があるのは、結局そこからは何が出てくるのかと問うてみることだ。例えば、そこからはC校舎の生徒たちの澄んだ歌声が流れてくるはずである。もしも真剣に耳を傾ける者がいれば、そして一人また一人と合唱の輪に加わる者の数が増えれば、とびきり元気な新生児の産声のように、その歌声は全世界を揺るがすに違いない。


(1)日日日『魔女の生徒会長III 案山子たちのグランギニョル』(MF文庫、2008年)232-238頁。引用に際して、原文中の傍点が付された箇所を太字の表記に改めた。
(2)メルロ‐ポンティ「幼児の対人関係」(滝浦静雄訳)、『メルロ=ポンティ・コレクション 3 幼児の対人関係』(木田元編、みすず書房、2001年)78頁。
(3)坂部恵「人称的世界の論理学のための素描」、『坂部恵集 3 共存・あわいのポエジー』(岩波書店、2007年)205-206頁。
(4)メルロ‐ポンティ『見えるものと見えないもの』(滝浦静雄・木田元訳、みすず書房、1989年)192-193頁。
(5)ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念』(小出浩之・新宮一成・鈴木國文・小川豊昭訳、岩波書店、2000年)95頁。
(6)同書109頁。
(7)若森栄樹『精神分析の空間』(弘文堂、1988年)241-246頁。
(8)同書248頁。
(9)ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念』(前掲書)135頁。
(10)ジャック・デリダ『声と現象』(林好雄訳、ちくま学芸文庫、2005年)178頁。
(11)同書215-216頁。
(12)日日日『魔女の生徒会長II 超悦者ジュリエット』(MF文庫、2008年)178頁。
(13)ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』(財津理訳、河出文庫、2012年)301頁。
(14)日日日『魔女の生徒会長II 超悦者ジュリエット』(前掲書)270-272頁。
(15)日日日『魔女の生徒会長III 案山子たちのグランギニョル』(前掲書)302-303頁。
(16)メルロ‐ポンティ『見えるものと見えないもの』(前掲書)117-118頁。
(17)メルロ‐ポンティ「序」(海老坂武訳)『シーニュ I』(みすず書房、1969年)20頁。
(18)メルロ‐ポンティ「他者の知覚と対話」(木田元訳)、『メルロ=ポンティ・コレクション 3 幼児の対人関係』(前掲書)198-200頁。
(19)ジル・ドゥルーズ「内在―ひとつの生……」(小沢秋広訳)、『狂人の二つの体制 1983-1995』(河出書房新社、2004年)300頁、『意味の論理学 上』(小泉義之訳、河出文庫、2007年)258頁、ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグ』(江川隆男・増田靖彦訳、河出文庫、2011年)112頁、ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』(前掲書)269頁。
(20)ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 上』(前掲書)259-261頁。
(21)日日日『魔女の生徒会長V ママはあなたが嫌いみたい』(MF文庫、2009年)265頁。
(22)日日日『魔女の生徒会長IV 絶叫メリーゴーランド』(MF文庫、2008年)213-216頁、『魔女の生徒会長V ママはあなたが嫌いみたい』(前掲書)129頁。
(23)日日日『魔女の生徒会長III 案山子たちのグランギニョル』(前掲書)11-12頁。
(24)同書290-291頁。
(25)同書137、143頁。
(26)同書115頁。
(27)同書125-126頁。
(28)同書128-129頁。
(29)日日日『魔女の生徒会長V ママはあなたが嫌いみたい』(前掲書)291-292頁。
(30)日日日『魔女の生徒会長III 案山子たちのグランギニョル』(前掲書)216-217頁。なお、原文では「溢(あふ)れさせ」の「溢」の字体が違うが、表示できないので引用文のとおりに改めた。
(31)ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 上』(前掲書)265頁。
(32)日日日『魔女の生徒会長III 案山子たちのグランギニョル』(前掲書)276-280頁。なお、「今まさに窮地の敵や味方に嬲(なぶ)り殺されようとしている幼なじみの」は原文通りである。「敵や」はともかく「味方に」とは不可解な気もするが、もし書き損じの類でないとすれば、目下シロオを窮地に追いこんでいる「怪獣」烏魔カカシが生徒会書記の淀川ドロシーとしてこれまで半年間シロオに協力してきたことを指すか、あるいは話者であるミミクロ自身の己の無力さを歯がゆく思う気持ちが反映した自虐的な修辞であろう(もちろん、両方が正しいという可能性もある)。
(33)同書249-250頁。
(34)日日日『魔女の生徒会長V ママはあなたが嫌いみたい』(前掲書)129頁。
(35)日日日『魔女の生徒会長IV 絶叫メリーゴーランド』(前掲書)195-213頁。
(36)同書207、209、214頁。
(37)ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグ』(前掲書)253頁。
(38)日日日『魔女の生徒会長III 案山子たちのグランギニョル』(前掲書)236頁。
(39)同書241-243頁。
(40)同書298-302頁。
(41)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(財津理訳、河出文庫、2007年)188-196、338-344頁。
(42)日日日『魔女の生徒会長V ママはあなたが嫌いみたい』(前掲書)189頁。
(43)同書110頁。
(44)同書293頁。
(45)日日日『魔女の生徒会長II 超悦者ジュリエット』(前掲書)185-186頁。
(46)日日日『魔女の生徒会長III 案山子たちのグランギニョル』(前掲書)131-132頁。
(47)同書306頁。
(48)同書264頁。
(49)江川隆男『死の哲学』(河出書房新社、2005年)43-46、104-106頁。
(50)同書110-116頁。
(51)日日日『魔女の生徒会長V ママはあなたが嫌いみたい』(前掲書)300-304頁。
(52)同書282頁。
(53)同書291頁。
(54)ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 上』(前掲書)260-261頁。
(55)日日日『魔女の生徒会長V ママはあなたが嫌いみたい』(前掲書)323頁。
(56)日日日『魔女の生徒会長』(MF文庫、2007年)15頁。
(57)マルセル・プルースト『失われた時を求めて 13 第七篇 見出された時II』(鈴木道彦訳、集英社文庫、2007年)253頁。
(58)ヘーゲル『大論理学 2』(寺沢恒信訳、以文社、1983年)30頁。
(59)ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 上』(前掲書)279頁。
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category: 『魔女の生徒会長』

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