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一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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日日日『のばらセックス』16 

(一)ドゥルーズの時間論
ジル・ドゥルーズは主著『差異と反復』〔Différence et répétition〕(1968年)の第2章「それ自身へ向かう反復」で、三つの局面ないし三通りの総合から成る独自の時間論を彫琢した。
その内実は、第一に想像力による諸瞬間の縮約ないし受動的総合、すなわち習慣にもとづく連続性への期待としての「生ける現在」であり、これが時間の土台(fondation)である。しかるに、現在は不断に過ぎ去る。ドゥルーズによればこの事実を説明してくれるのが、彼が時間の根拠(fondement)と呼ぶもの、すなわち本来的な記憶としての過去であり、そもそも第一の総合(習慣)は、このいっそう深い受動的総合(記憶)の中でこそ生じる。そして、この場合の過去とは決してかつて現在であったものがその後変質をきたした結果なのではなく、むしろ一つ一つの古い現在が―能動的総合としての(派生的な)記憶によって―個別的に対象化される境地(場)としての、一般的な意味での過去、つまり「純粋過去」なのだという。過去が現在としてのそれ自身と同時的であるということ、どの新たな現在にも過去の全体が共存しているということ、過去一般という純粋な境地は過ぎ去る現在にあらかじめ先立っていなくてはならないこと、結局のところどの現在も、いわば円錐の頂点として、最高度に縮約された状態における過去全体以外の何ものでもないこと(ベルクソン)、これら四つの逆説が、純粋過去に関しては無視できない。
ところで、即自的に保存されているそのような過去をまた我々自身のためにも救出したければ、一体どうすればよいのだろうか。プルーストの長篇小説『失われた時を求めて』の話者(主人公)が幼年期を過した架空の田舎町コンブレーを例に挙げつつドゥルーズが述べるところを信じるなら、その答は想起(アナムネーシス)、すなわちいまだかつて現在的であったためしのない本質が忘却のただなかで遂げる復活である。

事実、想起(アナムネーシス)は、〔派生的な〕意志的記憶のあらゆる能動的総合とは本性上異なるひとつの受動的総合、つまり〔本来的な〕非意志的記憶を指示している。〔『失われた時を求めて』に登場する〕コンブレーという町は、それがかつて現在(プレザン)であった〔現前した〕ようには、またそれが現在でありうる〔現前しうる〕ようには、再び出現することはない。むしろ、その町は、それがかつては現在であったその〔古い〕現在にも、それが現働的な現在でありうるようなその現働的な現在にも、共に還元されえないということを、結局はそれら二つの現在の衝突に乗じて開示してしまうようなひとつの純粋過去が存在するのであって、コンブレーは、かつて生きられたためしがない光輝のなかで、まさにそうした純粋過去として再び出現するのである。古い現在は、忘却が経験的に克服されるかぎりにおいて、忘却の彼岸において、能動的総合のなかで、表象=再現前化されるがままになる。だがしかし、コンブレーが、かつて現在であったためしがない〔純粋〕過去という形式で、すなわちコンブレーの即自という形式で出現するのは、まさに忘却のなかにおいてであり、記憶にないほど古いものとしてである。過去の即自というものが存在するのであれば、想起(アナムネーシス)こそが、その即自の可想的存在(ヌーメノン)〔経験の対象にはならない本体〕であり、あるいは、それにエネルギーを備給する思考である。想起(アナムネーシス)は、わたしたちを、単純に、現働的な現在から古い現在に送り返すのではないし、わたしたちが抱いた最近の愛情を小児期の愛情に、またわたしたちの愛人をわたしたちの母に送り返すのでもない。その場合でもやはり、過ぎ去るそれらの現在に乗じてそれらを利用し、表象=再現前化の下で出現する純粋過去を、たとえば、かつて生きられたためしがなく、愛人なるもののかなたに、そして母なるもののかなたにありながら、その愛人とともに共存し、その母と同時的であるような聖処女を、それら過ぎ去る現在どうしの関係は説明してくれないのである。現在は現実存在し(エグジステ)〔外に立ち〕、〔純粋〕過去だけが存続する(アンシステ)〔内に立つ〕。そして、現在がそこで過ぎ去り、諸現在がそこで衝突する当の境地を、その過去だけが供給するのである。(注1)

一度も現在的であったためしのない、それでいて現在が過ぎ去るという事態を理解しようとすればどうしてもその根拠として不可欠であるような純粋過去を想起すること―この発想がそれ自体として独創的でもあれば興味深いものでもあることは論を俟たない。
とはいえ、ドゥルーズの時間論の神髄は、これに続く第三の局面、すなわち、デカルトの説の不十分さを批判するカントが、規定作用と未規定なものの間、「私は思考する」という文と「私は存在する」という文の間に、「未規定なものがそのもとで(規定作用によって)規定されうるようになる当の形式」、「存在と思考をア・プリオリに関係させている内的な《差異》」として持ち込んだ、「規定されうるもの」という論理的価値であり、あるいはそのような形式としての時間である。そして実は、先回りしてドゥルーズの時間論の結論を明かしてしまうと、これ(自我に亀裂を走らせる空虚な形式)によって初めて、彼にとっては最も大切な、未来という時間が導入されることになるのである。

私の未規定な存在は、ひとつの現象の存在として、すなわち、時間のなかで現われる受動的あるいは受容的な現象的主観として、時間のなかでしか規定されることができないのであり、したがって、私が〈私が思考する〉において意識する自発性は、実体的かつ自発的な存在者の属性としては理解されることができず、ただ、ひとつの受動的な自我における触発としてだけ理解されうるのであって、その受動的な自我は、おのれ自身の思考、すなわち、おのれ自身の知性、すなわちおのれがそれによって《私》と言える当のものが、その受動的自我によっては活動せず、ただその自我においてかつその自我に対して活動する、ということを感知するのである。〔中略〕思考の能動性が、受容的な存在者へと、つまり受動的な主観へと振り向けられるので、この受動的な主観は、その能動性を働かせるというよりは、むしろそれをおのれに表象=再現前化するのであり、その能動性の主導権を手に入れるというよりは、それの効果を感じるのであって、結局、その能動性を、おのれのうちにおいてひとつの《他》なるものとして生きるのである。「私は思考する」と「私は存在する」に、「受動的、受容的な」自我を、すなわち受動的な位置(カントが直観の受容性と呼ぶもの)を付け加えなければならない。言い換えるなら、規定作用と未規定なものに、規定されうるものの形式を、すなわち時間を付け加えなければならないのである。とはいえ、「付け加える」というのは、まずい言い方である。なぜなら、むしろ差異をつくる〔差をつける〕ことが、そして差異を存在と思考のなかに内化することが問題だからである。《私なるもの》には、一方の端から他方の端まで、言わば亀裂が入っている。《私》は、時間の純粋で空虚な形式によってひび割れている。この形式のもとで、《私》は、時間のなかで現われる受動的な自我の相関項になっている。《私》のなかの或る裂け目、亀裂、そして自我における或る受動性こそ、時間が意味するものなのである。こうして、受動的な自我とひび割れた《私》との相関関係が、超越論的なものの発見を、あるいはコペルニクス的転回の境地を構成するのである。(注2)

思考そのものに時間の形式を持ち込むこと、これがもたらす成果とは、ドゥルーズによれば神の死、ひび割れた「私」、受動的な自我であり、それらの帰結を追求したのはカントその人ではなくて、詩人ヘルダーリンだったのだという。もっとも、先に検討した第二の時間、すなわち記憶が、一方では純粋過去として表象(再現前化)の根拠でありながら、他方ではそれ自身が根拠づける相手であるはずの表象(再現前化)に相関的でもあるほかないということ、すなわち記憶の領域では依然として、見本の側の同一性と、それの影像の側の類似性とが支配しており、その結果として根拠は円環を形成してしまい、思考に運動を導入するのではなくて心に周期的な運動を導入するにとどまるということ、このような記憶の弱点を克服したのは、まぎれもなくカントの功績である。こうなると時間は、循環や周期性からも、またいかなる内容からも解放されて、空虚な形式としての純粋な順序と化す。いわば歴史哲学への詩学の応用の試みとでも形容できそうなヘルダーリンの批評―とりわけ『オイディプスへの注解』―における卓抜な表現を借用するなら、それはツェズーア(Cäsur)、すなわち区切りもしくは「中間休止」によって前後に分断される、直線的な時間である。そのような「前」と「後」は互いに不等であり、非対称的であり、したがって何人にも後戻りを許さないのである。

 時間の空虚な形式あるいは第三の総合とは、何を意味するのだろうか。デンマークの王子〔ハムレット〕は、「時間はその蝶番から外れてしまった」と語る。〔中略〕蝶番、カルドーcardoとは、時間によって測定される周期的な運動が通過するまさに機軸的(カルディナル)な点に、その時間が従属しているということを、保証するものである(その時間は、宇宙にも魂にも同様に必要な時間、すなわち運動の数である)。反対に、おのれの蝶番から外れてしまった時間は、発狂した時間を意味している。発狂した時間とは、神が時間に与えた曲率の外に出て、おのれの単純すぎる循環的な形態から自由になり、おのれの内容をつくってくれたもろもろの出来事から解放され、おのれと運動との関係を覆してしまうような、そうした時間であって、要するに、おのれを空虚で純粋な形式として発見する時間なのである。事物は(円環という単純すぎる形態に即して)時間のなかで繰り広げられるのだが、それに反して時間は、それ自身が繰り広げられる(すなわち、円環であることを公然とやめるのである)。時間は、機軸的(カルディナル)なものであることをやめて、順序的(オルディナル)なものに、つまり、純粋な順序としての時間へと生成するのである。ヘルダーリンは、時間は「韻を踏む」のをやめる、なぜなら、時間は、〔詩の〕始まりと終りがもはや一致しなくなるような「中間休止」の前半部と後半部に、おのれを不等に配分するからであると語っていた。わたしたちは、時間の順序を、以上のような中間休止に応じた不等なものの純粋に形式的な配分として定義することができる。そうなれば、〔詩の〕長かったり短かったりする過去〔前半部〕と、その過去に反比例する未来〔後半部〕が区別されるわけだが、ただし、その場合、そのような未来と過去は、時間の経験的あるいは動的な規定ではなくなって、時間の静的な総合としてのア・プリオリな順序に由来する形式的かつ固定的な特徴になる。その場合、時間はもはや運動に従属していないがゆえに、そうした総合は必然的に静的なものである。もっとも根本的な変化の形式〔順序〕があるわけだが、この変化の形式は変化しないのである。《私》の亀裂を構成するものは、まさに、中間休止であり、またその中間休止によって〈これを最後に〉順序づけられる〈前〉と〈後〉である(中間休止は、まさしく亀裂が誕生する点なのである)。(注3)

それではなぜ、円環状ではなくて直線状の、空虚な形式としてのこの第三の時間が、ドゥルーズにとって大切なのか。この問いに答えるためには、不等な諸部分としての時間の総体(すなわち「前」と「後」)を包摂する、行動の映像(イマージュ)に注目しなくてはならない。彼はこれを象徴とも呼んでおり、中間休止はその中で決定されるのである。この観点から、第三の時間そのものにおける三つの局面―「前‐中間休止‐後」、あるいは「過去‐現在‐未来」―を論じるなら、以下のようになる。

総体としての時間に妥当するそのような象徴は、多くの仕方で表現されている。たとえば、〈時間をその蝶番から外す〉、〈太陽を炸裂させる〉、〈火山のなかに身を投じる〉、〈神あるいは父を殺す〉。その象徴的な映像は、それが中間休止を、そして〈前〉と〈後〉を寄せ集めているかぎりにおいて、時間の総体を構成する。しかしその映像は、それが、〈前〉と〈後〉を不等なものとして配分するかぎりにおいて、時間の系列を可能にする。映像における行動がその時間においては「私には大きすぎる」ものとして定立される、といった〔第一の〕時間が、実際、いつでも存在するのである。そこにこそ、過去あるいは〈前〉をア・プリオリに定義するものがある。出来事はそれ自体成就されるのか否か、行動はすでに起されているか否か、ということはほとんど重要ではない。過去、現在、そして未来が配分されるのは、そのような経験的な基準によるのではない。オイディプスはすでに行動を起してしまった。ハムレットはまだ起していない。しかしいずれにせよ、彼らは、象徴〔行動の映像〕の前半の部分を過去のなかで生きるのだ。彼らは、行動の映像を彼らにとって大きすぎるものとして受け取っているかぎり、彼ら自身、過去のなかで生き、過去のなかに投げ返されているのである。第二の時間は、中間休止それ自体を指し示すものであり、したがってその時間は、変身の現在であり、行動に〈等しく‐なる〉ということであり、自我の二分化であり、行動の映像への理想自我の投射である(そのような時間は、ハムレットの航海によって、あるいはオイディプスの尋問の結果によって示されている。主人公は行動を起すことが「可能」に〈なる〉ということだ)。未来を発見する第三の時間に関してはつぎのように言えよう。すなわち、その時間が意味しているのは、出来事や行動は、自我の一貫性を排除する秘密の一貫性を有しているということであり、この秘密の一貫性は、出来事や行動に等しくなった自我に背を向けるということであり、まるで新しい世界を孕むものが、多様なものに生じさせるものごとの炸裂によってもぎ取られ散らされるかのように、その秘密の一貫性は、自我を無数の断片に砕いて投射するということである。自我が等しくなってしまった当のもの〔出来事、行動〕は、即自的には不等なものである。そのようなわけで、時間の順序に従ってひび割れた《私》と、時間の系列に従って分割された《自我》は、互いに対応し、共通の結末を見いだす―名もなく、家族もなく、資格もなければ、自我も《私》もない人間のうちに、秘密の所持者にしてすでに超人たる「平民」を、すなわち、そのバラバラになった肢体が崇高な映像の重力に引き付けられてそのまわりを回るような超人を見いだすのである。(注4)

この引用文の内容は、おそらく『のばらセックス』の読者にとって決定的なものである。そのことは、過去がそれ自体としては―この時間においては、行動が「私にとっては大きすぎる」手本として現われるがゆえに―欠如による反復であるのに対して、他方ではまた、現在(中間休止)における変身によって構成される別の反復、等しくなることによる反復を準備するものでもある、ということ、すなわち反復は何か新しいものが産出されるための歴史的な条件であり、そもそも行動というものの条件であるということをドゥルーズが我々に説くに至っていよいよ明らかである。なぜならば、このようにして産出される新しいものとは、欠如とも等しくなることとも違う、過剰による反復であり、未来であるかぎりでの未来、永遠回帰としての未来の反復であるからだ。
いささか謎めいたというか、もってまわった書き方をしてしまったが、詳しい検討は後回しにして、とりあえず引き続き彼の考えに耳を傾けてみよう。例えば、フランス革命の立役者たちは「復活したローマ人」としての自らを生きるべく定められていたのであり、ついで行動を起こすことが可能になるや、自らを歴史的過去に属する人物と同一視するという条件において、本来的な過去の様態で反復を行うことで本格的に行動を開始したのである。

わたしたちは、過去を構成しているそのような様態でいったん反復し、変身の現在においてもう一度反復するという条件のもとではじめて、何か新しいものを産み出すのである。そしてこの産み出されるもの、つまりそれ自身絶対に新しいものは、これまた、反復、換言すれば、今度は過剰による第三の反復、すなわち永遠回帰としての未来の反復にほかならない。なぜなら、たとえわたしたちが、永遠回帰を、あたかもそれが、時間の全系列あるいは時間の総体の全体に関与するかのように、つまり、未来におとらず過去や現在にも関与するかのように説明するにしても、この説明は導入的なものにとどまるだけであって、それが有する価値は、問題的で未規定な価値にほかならず、それが有する機能は、永遠回帰の問題を立てるという機能にほかならないからである。永遠回帰は、その秘教的な真理性において、系列たる第三の時間にしか関わらず、また関わりえないのだ。永遠回帰の規定は、ひたすらそのようなところにある。それゆえに、永遠回帰は、文字通り、未来への信仰、未来における信仰と言われるのである。永遠回帰は、新しいものにしか、すなわち、欠如〔過去〕を条件として、しかも変身〔の作用者、現在〕を介して産み出されるものにしか関与しない。しかし永遠回帰は、条件作用者も還帰させることはない。反対に、永遠回帰は、その遠心的な力のすべてによって、それらを追放し、それらを否認する。永遠回帰は、所産を自律的なものにし、作品を独立させる。永遠回帰は、過剰による反復であって、これは、そのような欠如もそのような〈等しく‐なる〉ということもまったく存続させないのだ。永遠回帰は、それ自身新しいものであり、まさに新しさの全体である。永遠回帰はそれだけで、系列たる第三の時間であり、未来であるかぎりでの未来である。(注5)

こうして空虚な形式としての第三の時間が行き着く先として導入されたドゥルーズ的な永遠回帰は、字面とは裏腹にいかなる循環性とも同一性とも無関係であるどころか、むしろそれらを振り払ってしまうとともに、根拠を没落せしめて、他なるものの偏心的で脱中心化した円環、無名の平民をその彼方に到来させるように働くのである。

クロソウスキーの言うように、永遠回帰とは、私自身の一貫性も、私自身の同一性も、自我の、世界の、神の同一性も、すべて排除することによってはじめて定立される秘密の一貫性である。永遠回帰が還帰させるものは、〈平民〉、すなわち〈名もなき人〉である。永遠回帰は、おのれの円環のなかで、死んだ神とひび割れた自我を招き寄せる。永遠回帰は、太陽を還帰させはしない。なぜなら、永遠回帰は太陽の炸裂を前提にしているからだ。永遠回帰は、星雲にしか関与せず、星雲と混じり合っており、星雲のためにしか運動しないのである。〔中略〕順序としての時間が《同じ》ものの円環を打ち砕き、時間を系列に変えるのは、系列の終りに《他》なるものの円環を再形成するためでしかない。順序の「これを最後に」が現にあるのは、ただひたすら秘教的な最後の円環〔永遠回帰〕の「その都度」のためである。形式としての時間が現にあるのは、ただひたすら、永遠回帰における非定形なものの啓示のためである。極限的な形式性が現にあるのは、ただひたすら、過度に非定形なもの(ヘルダーリンにおける無形なものUnförmliche)のためである。こうして、根拠は、無底(サン・フォン)に向かって、すなわち、それ自身において回転し、そして〈将‐来〉しか還帰させない普遍的な脱根拠化に向かって、越えられてしまったのである。(注6)

ここで注意すべきは、同一性や循環性を排除するということは、決して単なる破壊に終わることなく、以下の著者自身による簡明なまとめの一節からもうかがえるように、作者の消去に伴う作品の独立という肯定的な成果を必ずもたらすという点であろう。だからこそ、先にも触れたように、この時間論の要となるのは過去でも現在でもなく、未来ではなくてはならないのである。

 さてこうなると、現在と過去は、以上のような時間の第三の総合においてはもはや、未来の二つの次元でしかないのである。すなわち、条件としての過去、そして作用者としての現在。習慣の総合たる第一の総合は、過去と未来が依存している受動的な土台において、生ける現在としての時間を構成していた。さらに、記憶の総合たる第二の総合は、現在を過ぎ去らせ別の現在を到来させる根拠という観点から、純粋過去としての時間を構成していた。しかし、第三の総合においては、現在はもはや、消去されるべく予定された当事者、作者、作用者でしかない。過去はと言えば、それはもはや、欠如によってことにあたる条件でしかないのである。所産がその条件に対して無条件的な性格をもっていること、および、作品がその作者もしくは当事者に対して独立していることを、或る未来が同時に肯定するのだが、こうした未来を、時間の第三の総合が構成するのである。現在、過去、未来が、三つの総合を通じてそれぞれ《反復》として開示されるのだが、ただしこの開示は、きわめて異なった様態でなされるのである。現在は反復者であり、過去は反復そのものであるが、しかし未来は反復されるものである。ところで、その総体において把握された反復の秘密は、反復されるもの、すなわち〔過去と現在によって〕二度〈意味される(シニフィエ)〉ものにある。最高の反復、それは、他の二つの反復をおのれに従属させ、それらから自律性を剝奪する未来という反復である。なぜなら、第一の総合は、内容と土台としての時間にしか関わらず、第二の総合は、根拠としての時間にしか関わらないのだが、第三の総合はそれらを越えて、時間の順序、総体、系列、および究極目標に関わっているからである。(注7)



(二)ジャック・ラカンの「もの」
1895年10月8日のこと、ジークムント・フロイトは、医師で生物学者だったヴィルヘルム・フリースに二冊のノートを送った。記念碑的な大著『夢解釈』の発表(1900年)に先立つこの時期、まだ精神分析という新しい心の理論の創始者として世に知られる以前のフロイトが試みていたのは、神経学者として積み重ねてきたそれまでの知見を活かして臨床的な精神病理学のために基礎づけを提供することだったのであり、その成果をかねて親しく文通していた友人に問おうとしたのである。やがてフリースの没後他人の手に渡り、フロイト自身は破棄を望んだにもかかわらず結局1950年に初めて日の目を見たこの手稿が、いわゆる「心理学草案」である。その中には、想起と判断という心的活動の発生をめぐって、乳児の体験を再構成しようとした以下のくだりが存在する。いまだ活発に動き回って欠乏を自力で満たす術を知らないこの未熟で無力な生き物にとって、乳を飲ませ、かいがいしく身体的な世話を焼いてくれる母親(最も身近な養育者)は、唯一の充足の源泉でありながら、まさにそうであるがゆえにこそ、空腹なのに授乳が遅れたとか、肌寒いのに毛布を掛けてくれなかったとかのちょっとした不手際が理由となって、容易に憎しみの対象へと変わりうる。そのような両義的な同類として、いわば人間の原型でもあるこの母親にはすでに二面性が見出されるのであり、そこにさらに重なってくるのが、彼女に関して主体(乳児)が形成する知覚複合体の中の、主体自身の行動の想起を介して同一化しうる部分と、そうでない部分との区別である。そしてこの後者こそ、のちにジャック・ラカンが、主体にとってどこまでも外的で異質でありながら同時に最も近くて親密でもあるという逆説に注目しつつ、「外密性」なる奇妙な造語を献呈することになる当の相手なのであり、フロイトはそれを「ダス・ディング(das Ding)」すなわち「もの」というそっけない語で呼んでいる。訳文中に出てくる「事物」とは、ほかならぬこの「ダス・ディング」のことだ。

 知覚が提供する対象が主体と類似のもの、すなわち同じ人間であると想定しよう。この場合の理論的関心もまた、援助を与えてくれる唯一の力がそうであるように、そうした対象が同時に最初の充足的対象であること、さらには最初の敵対的対象であることで説明できる。こうした理由で、人間は認識することを同じ人間において学ぶのである。このとき、この同じ人間から発する知覚複合体は、一部は、例えば視覚の領域でのその人間の容貌のように、新しくて比較できないものであろう。他の視覚的知覚、例えばその人間の手の動きの知覚は、主体のうちで自分の身体についての自身のきわめてよく似た視覚的印象の想起に的中するだろう。この視覚的印象には、自分自身で体験した動きの想起が連合しているのであるが。対象のさらに他の知覚は、例えば対象が叫んだ場合、自分が叫んだことの想起を、それと共に自身の痛みの体験の想起を呼び起こすだろう。このようにして同じ人間の複合体は二つの構成部分に分かれるのであって、その一つは恒常的な組織体によって印象を与え、事物としてまとまっているが、もう一方は想起の作業によって理解されうる、すなわち自身の身体の情報へ帰着されうるものである。知覚複合体をこのように分解することがその複合体を認識すると呼ばれ、判断を含んでおり、目標を最終的に達成すると終結となる。(注8)

ラカンがほかならぬこのくだりを参考にしつつ、1959年から翌年にかけてのセミネール(ゼミナール)『精神分析の倫理』〔L'éthique de la psychanalyse〕で―とりわけその第IV講と第V講で(注9)―本格的に術語として導入した「もの(la Chose)」とは、端的には「近親相姦の対象」として定義され、「主体にとって外部ではあるが最も親密であり、構造的に接近不能で(近親相姦の)禁止として印され、主体が至高善として想像する主体の存在そのもの」である(注10)。それは、福原泰平の表現を借りるならば「一般に乳児期において始原の母親から乳児に与えられた、すでに失われてしまった原初の快なる感覚の記憶痕跡」であり、象徴界(le symbolique)、つまり言葉の世界に参入するとともに始原にあったはずの存在の充溢から切り離されるという運命に囚われた人間主体にとっては、二度と再会できる見込みはないにもかかわらず、一生そのまわりで堂々巡りを続けなくてはならない現実界(le réel)の核心である(注11)。

 このように「もの」とは私の始原にあって私にとって最も本質的なものでありながら、われわれの外部へと奪われた到達しえぬ地点にあるようなものであった。先にも外密性として述べたように、これは日頃から慣れ親しんだ身近なものでありながら、一方で無限の彼方にあってとらえがたい不可能なものなのである。
 フロイトはこれを隣人という概念でとらえようとする。隣人とは始原にあった母のことでもあり、それは一見身近な人間と見えながら、決してそこにわれわれがなにかを見て、これに一体化することができるといった人物のことではない、隣人は自己の内部にあって親しいものでありながら、自分を呑み込んでしまいそうな不気味さをかねそなえた違和感を持つ異次元の異物のことである。われわれは次元を異にするそれと出会おうとしながらも、常にそこから離脱し、出会いそこねていくという経験を繰り返している。
〔中略〕
 われわれは影を介して「もの」の幻影と出会う以外には手段を持たず、直接「もの」を見聞きすることなどできることではない。それは見ると同時に失われ、不甲斐ないどこにでもころがっている醜い物体へとすぐに変貌する。われわれが目にする至高の物体であるはずの対象は、燃え尽きた花火の黒く焦げた残骸であり、美しい蝶(ちょう)のはらわたを剥き出しにした死骸のようなものとしてその形態を露呈する。
〔中略〕
 それでもわれわれはヴェールの向こうの「もの」の呼びかけに応じて、それにひたすら接近しようとする。しかし、結局無いものとしてしかそこにない「もの」を手にすることはできず、その欲望は満たされぬままに「もの」のまわりをめぐってその出発点へと戻ってゆく。「もの」とはあくまで虚なる焦点としてあり、至福の場所にありながら欠けたものとして何ものをも満たさず、われわれの欲望をどこまでも喚起するだけの位置にとどまる。
「もの」との出会いはあくまで出会うことに失敗した出会いとしてあり、出会うことが奪われることであるような根源的な出会いである。
〔中略〕
 このように、われわれが出会いそこねていく「もの」とは、主体がその成立の時点において失った、主体における本質的な喪失物のことである。それは主体の側においては、最初の充足体験の記憶として、また母なるものとの接触による快なるものの痕跡としてその跡を残すことになる。しかし、すでにこれらはラカンのいうように主体において取り返しがたく失われており、満足の体験それ自体を取り戻そうとしても、もはやそれを手にすることは不可能であった。
 それでも主体は「決定的な声」を聴いた者として「もっと光を!」と欲望し、原初にあるはずの「もの」それ自体を再現しようとやっきになる。以後、主体の最大の課題はイデアの想起よろしく、忘れ去った天上の記憶をそれとして回復することとなった。
 元に戻ることが一生の仕事になる、という一つの倒錯がここに成立する。これは言い換えれば母なるものとの一体化を回復する試みであり、それによって主体は母なるものに呑み込まれ、みずからの存在をこの合一の中に解消してしまうという自己の死をも含みこむ危険極まりないものであった。そのため、主体は先にも述べたように、「もの」の手前に禁止の標識を立ててこれを取り締まり、「もの」に接近することを固く禁じたのである。
〔中略〕
 しかし、罪を恐れるあまり、「もの」に接近することを回避することは、主体の本質を構成するはずの「もの」の呼びかけを無視することになる。人間存在の根底にある「もの」の決定的な声を聴きながら、これにかかわらないなどということが、われわれ人間にとって許されることだろうか。世俗の法が「もの」の呼びかけに勝るなどということがあってよいことだろうか。〔中略〕
「もの」のありかはラカンのいうように、人間世界においては常に禁じられた地点に求められ、そこに近づく人々に罪の烙印を押すという構造を創りだす。フロイトはここに原父殺しの神話における罪の源泉を理論化した。つまり、この罪は「もの」への接近をマークする印としてあったわけである。
〔中略〕
「もの」は一つの物体として目に見える形で存在しているわけではない。それは不可能なものとして禁止の彼方に、それに枠づけられたシルエットとしてその姿をほのめかすだけなのである。 
 不可能なものがわれわれの知らない世界の外側で、その出現の時を待ちながら脈々と存在してきたわけではない。禁止の札を立てることによって、それは法という標識の前にはじめて出頭してきたものでしかない。この標識なくして「もの」は決して存在しえないのである。人はこうした「もの」と掟との同時出頭性の中に、不可能な対象を禁じられたものの彼方で捕まえようとやっきになっている。
 このように、失われた不可能な対象は現実世界で捕まえることができるようなものではないが、人々の中に悦びへの可能性の次元を切り開いていく。実際、人間は前にも述べたように、現実の対象があるかないかという存在の次元を特別重視しているわけではない。そうではなく、それが快か不快かといった快感への傾向、つまり失われた悦びの回復への虚(うつ)ろな幻影を優先して、その決定的な判断をくだしているということができるのである。これがフロイトにおいて、存在判断よりも属性判断が優先されるということの重大な意味となっている。(注12)

癖のある文章を長々と引用してしまい恐縮だが、文意そのものは十分に明瞭だろう。それにしても、このように「虚なる焦点」ないし「主体における本質的な喪失物」として、「禁止の彼方」から間断なく我々に呼びかけ、しかも我々の探求から逃れ続ける「不可能な対象」との避けがたく挫折に終わる関係という相から見てみれば、欲望の生に定められた運命たるや、なんともいじましいというか、みすぼらしいかぎりではないか。それは、つねに同一の不動なる「もの」(至高善)に隷属したまま否定神学的な磁場の中で延々と翻弄され続ける一方で、しかも結局はこの「もの」本体よりも手近な代理の対象に甘んじることをいつも余儀なくされるという運命であり、この意味で欲望の生は二重の劣位を強いられているのだ。

(三)ドゥルーズの精神分析批判から日日日へ
こうしてようやく我々は、『のばらセックス』の本文を参照する準備が整った。といっても、何も難しいことはない。我々はさしあたりただ、日日日のこの小説と、『差異と反復』の第2章でドゥルーズが展開した時間論との間に認めうる、驚くべき符合に目を見張るだけでよいのである。
少なくとも、主人公のおちば様がたどる、いまだかつて実在したためしのない彼女の母親―全人類が崇拝する神のような存在である坂本のばら様―に変装し、そしてその上で自らの死を衆目の前で上演する、というii章「謝肉祭のハーモニー」の成行きは、ドゥルーズが純粋過去(第二の総合)と、未来としての未来に通じる空虚な形式としての直線状の時間(第三の総合)について書いていることに、かなりの程度まで重なると判断してよいのではないか。なにしろこの母親たるや、二千年の時を隔てて復活したこの世で唯一の女性として全人類の崇拝を一身に集めながらも、その正体は生来の性別を捨てた彼女の父(綿志)の兄(緒礼)であるのだし、他方で謝肉祭(カーニヴァル)に浮かれる町の喧噪の中に繰り出した彼女の見た目は、単に母親そっくりなどという次元を超えて、一時的とはいえ素肌を覆う特殊な着ぐるみのおかげで「二千年ぶりの女性、この世で唯一の女性、坂本のばら様そのもの」(注13)なのである。そして、前者、つまり純粋過去についてプルーストの『失われた時を求めて』におけるコンブレーの町の復活を例に挙げつつドゥルーズが書いていることが正しいなら、想起(アナムネーシス)においては「かつて生きられたためしがない光輝のなかで」即自的な過去(過去それ自体)が「記憶にないほど古いものとして」出現するのであり、それゆえ「想起(アナムネーシス)は、わたしたちを、単純に、現働的な現在から古い現在に送り返すのではないし、わたしたちが抱いた最近の愛情を小児期の愛情に、またわたしたちの愛人をわたしたちの母に送り返すのでもない」のだから、むしろそれが垣間見せるのは「母なるもののかなた」だったのである(注14)。同様に、後者、つまり自我に亀裂を走らせる中間休止によって不当な前と後に二分される、純粋な形式ないし順序としての第三の時間についても、我々がすでに学んだとおり、反復はそもそも行動というものが可能になるための条件であるという真理を、中間休止における変身、あるいは行動の映像(イマージュ)への「等しくなること」が教えてくれたのである。思うにおちば様の変身に次ぐ自殺は、「女性一般の不在(絶滅)」という現実を、または「母親の不在(非存在)」を、自他双方のために確認すべく反復しているのだ。
とりわけ、先に私が「おそらく『のばらセックス』の読者にとって決定的なものである」と感じた以下のくだりには、ここでもう一度読み返してみるだけの価値があるはずだ。

総体としての時間に妥当するそのような象徴は、多くの仕方で表現されている。たとえば、〈時間をその蝶番から外す〉、〈太陽を炸裂させる〉、〈火山のなかに身を投じる〉、〈神あるいは父を殺す〉。その象徴的な映像は、それが中間休止を、そして〈前〉と〈後〉を寄せ集めているかぎりにおいて、時間の総体を構成する。しかしその映像は、それが、〈前〉と〈後〉を不等なものとして配分するかぎりにおいて、時間の系列を可能にする。映像における行動がその時間においては「私には大きすぎる」ものとして定立される、といった〔第一の〕時間が、実際、いつでも存在するのである。そこにこそ、過去あるいは〈前〉をア・プリオリに定義するものがある。出来事はそれ自体成就されるのか否か、行動はすでに起されているか否か、ということはほとんど重要ではない。過去、現在、そして未来が配分されるのは、そのような経験的な基準によるのではない。オイディプスはすでに行動を起してしまった。ハムレットはまだ起していない。しかしいずれにせよ、彼らは、象徴〔行動の映像〕の前半の部分を過去のなかで生きるのだ。彼らは、行動の映像を彼らにとって大きすぎるものとして受け取っているかぎり、彼ら自身、過去のなかで生き、過去のなかに投げ返されているのである。第二の時間は、中間休止それ自体を指し示すものであり、したがってその時間は、変身の現在であり、行動に〈等しく‐なる〉ということであり、自我の二分化であり、行動の映像への理想自我の投射である(そのような時間は、ハムレットの航海によって、あるいはオイディプスの尋問の結果によって示されている。主人公は行動を起すことが「可能」に〈なる〉ということだ)。未来を発見する第三の時間に関してはつぎのように言えよう。すなわち、その時間が意味しているのは、出来事や行動は、自我の一貫性を排除する秘密の一貫性を有しているということであり、この秘密の一貫性は、出来事や行動に等しくなった自我に背を向けるということであり、まるで新しい世界を孕むものが、多様なものに生じさせるものごとの炸裂によってもぎ取られ散らされるかのように、その秘密の一貫性は、自我を無数の断片に砕いて投射するということである。自我が等しくなってしまった当のもの〔出来事、行動〕は、即自的には不等なものである。そのようなわけで、時間の順序に従ってひび割れた《私》と、時間の系列に従って分割された《自我》は、互いに対応し、共通の結末を見いだす―名もなく、家族もなく、資格もなければ、自我も《私》もない人間のうちに、秘密の所持者にしてすでに超人たる「平民」を、すなわち、そのバラバラになった肢体が崇高な映像の重力に引き付けられてそのまわりを回るような超人を見いだすのである。(注15)

さしあたり、この一連の文章は読む者をして次の二点に想到させてくれる。第一に、上述のごとく『のばらセックス』ii章の成行きが狭義の中間休止に相当するのだとすれば、それに先立つ「前」の時間、つまりII章「ずっと薔薇色なわけがない」においては、必ずや映像における行動が「私には大きすぎる」ものとして現れてこなくてはならないはずだ、ということである。そして事実、義父の「あいちゃん」こと坂本逢の館に監禁され、召使に強姦されて心身が疲弊したおちば様は、指一本という奇妙な姿で自分の前に現われた母親ののばら様―実は彼女本人ではなく、逢の弟でおちば様の実父である綿志がラジコンのように操作していた―から、この「あいちゃん」は偽物であり、彼の父親(つまりおちば様の祖父)が化けているのだと明かされるに至って、主役の重荷に耐えかねて泣き言をこぼすのである。

「何で、あたしばっかり……」
 あたしは、ついに泣き言を漏らした。我慢して、戦いつづけて、もうだいぶ―くたびれていた。疲れきっていた、もう嫌だった。
 女に生まれただけで。
 あたししか、いないってだけで。
 こんなふうに、物語の主人公じみた、過酷な運命なんて遠慮したい代物に―人生を踏みにじられるのはもうたくさんだった。当たり散らしたかった、せめて文句を言いたかった。あたしをこの世に産み落とした、この世界でいちばんの女性に。
「あたしは、お母さんとはちがう。もう無理だよ、ぐずっ、限界だよ―あたしは、のばら様みたいになれない。枯れて、踏みにじられる、おちばだよ。くすんだ、つまんない、おちばだよ。お母さんがそんなふうに生んだんだ……!」(注16)

とはいえ、ほどなく彼女はこのような愚痴を振り捨て、のばら様の後押しと協力を得て自らの手で逢の偽物を絞殺する。どうやらかつて彼女が誰にもまして慕っていた「あいちゃん」本人のための復讐も兼ねているらしいこの殺人は、これはこれで、彼女がこの世に生を享ける以前のほとんど神話的な歴史の筋書、すなわち坂本三兄弟(逢、綿志、緒礼)が妹である女性(すなわちのばら様)の力を借りて横暴な父親を打倒する、という「のばら様の、英雄譚(たん)」を反復しているのだ(注17)。第二に、ドゥルーズが列挙している行動の映像の具体例のうち、少なくとも「太陽を炸裂させる」および「神あるいは父を殺す」という二つについては、労せずして『のばらセックス』の作中にほとんど文面そのままの状態で見つかる、ということである。なんとなれば、のばら様は「この世界の中心で、輝きつづけていた太陽」(注18)と呼ばれているのみか、ii章のおちば様はこの母親を―自殺を通じて―殺害するに先立って、「いちど、きれいな太陽を見あげると」(注19)という仕草を示しているからだ。むろん、世界で唯一の女性として人々が信仰してやまない坂本のばら様の神性については(注20)、いましがた確認したばかりの父殺しという行為と同様、多言を要しない。
しかしそれ以上に決定的なのは、同一性や循環性を排除する純粋な形式ないし順序としての時間の先に見えてくるもの、すなわち未来であるかぎりでの未来としての永遠回帰に関する、引用文の末尾にある説明だろう。それは、無名の平民の還帰であり、他なるものの偏心的で脱中心化した円環の生成、さらには作品の独立であった(注21)。そしてドゥルーズが書いているとおり、行動ないし出来事に等しくなってしまった結果として自我に亀裂が走るということが、そのために不可欠な代償なのである。「そのようなわけで、時間の順序に従ってひび割れた《私》と、時間の系列に従って分割された《自我》は、互いに対応し、共通の結末を見いだす―名もなく、家族もなく、資格もなければ、自我も《私》もない人間のうちに、秘密の所持者にしてすでに超人たる『平民』を、すなわち、そのバラバラになった肢体が崇高な映像の重力に引き付けられてそのまわりを回るような超人を見いだすのである」。はたしてこれを、のばら様に変身したおちば様がii章で遂げる母殺しとしての自殺を反復するかのような、坂本三兄弟の次男にして彼女の生みの親でもある緒礼がIII章で被る磨滅―「身体の七分の一ほどしかない、それは緒礼さんの残骸だった」(注22)―に厳密に呼応する文章として、あるいはむしろ彼の運命の予言として読むのはいけないことだろうか。なにしろ、緒礼のこの断片化によってこそ、女性の量産という最大の偉業が達成され、それは以下のごとく神聖性から解放された他者性(異性としての女性)の端的な肯定と、停滞から脱した時間の流れの再開という結末に通じているのである。

 世間には、これまでいなかった女が溢れた。
 のばら様が独占していた珍獣としての、あるいは至宝としての価値は下落した。数が多いものは、需要と供給の法則にのっとり、価値が目減りするのだ。女性の神性は下落し、単なる『男性とは異なるもの』になった。
 自然界では、ごく当たり前なんだけど。
〔中略〕
 神話の時代は終わり、男女が当たり前に紡いでいく、二千年前に中断していた歴史が再び動き始める。あたしは、その曙(あけぼの)を眺めていこう、のんびりと―あたしなりに。(注23)

それでは、『差異と反復』の時間論と『のばらセックス』との間の、これらの符合が我々にとって最終的な成果だと考えてよいのだろうか。否である。なんとなれば、ほかでもなくドゥルーズその人が、自らの時間論を精神分析理論の知見と照らし合わせつつ反復しているという事実がある以上、それをも無視するわけにはいかないからだ。先にラカンの「もの」に言及したのも、実はこのための下準備のつもりだったのである。
さて、ドゥルーズによれば、心的生において時間の第一の総合、つまり生ける現在に相当するのは、散在した興奮を拘束する受動的総合としての習慣による―例えば目は、光にもとづく散在した興奮を身体の表面上の特定の部位で再生することによって形成されるのであり、この意味でそれ自体が拘束された光である―エスにおける組織化なのであり、諸々の局所的なナルシシズム的自我を生ぜしめるそのような組織化は、快原理に先行しているのみならず、むしろそれこそが初めて快原理を可能ならしめるのである。しかるに、続く第二の段階においては、一方ではそれらの受動的な自我に対して現実原則に従う能動的総合が働くことによって大域的な自我が発生するとともに、他方ではその能動的総合にとって相補的な、受動的総合のある深化が起きる。これが、能動的活動の虚焦点としての潜在的対象の構成である。両者の関係は、幼児における歩行の開始という具体例に即して、次のように整理されうる。

歩き始めたばかりの幼児は、おのれの興奮を、それが内因的なものであり幼児自身の運動から生じるものではあっても、受動的総合において拘束するだけで済ましているわけではない。幼児はけっして内因的な仕方で歩いたのではない。幼児は、一方で、興奮の拘束という段階を越え出て、ひとつの〔現実的な〕対象の定立、あるいはそれへの志向性へ向かう。たとえば、努力の目標としての母、すなわち、「現実において」能動的に立ち戻るべき項としての、つまり幼児がそれと比べて自分の成功と失敗を測るその項としての母。しかし幼児は、他方でしかも同時に、自分のためにそれとは別の対象を、つまりまったく別のタイプの対象を構成するのであって、それは、幼児の現実的な能動的活動の進歩を統制し、その失敗を補償するようになる潜在的な対象あるいは焦点〔虚焦点〕なのである。たとえば、幼児は自分の口のなかに指を何本か入れ〔おしゃぶりをし〕、他方の腕でそのような〔潜在的な〕焦点〔としての母〕をかき抱き、そしてその潜在的な〔焦点としての〕母という観点から状況の総体を把捉するのである。幼児の視線は現実的な母〔という対象〕に向けられるということ、かつ、潜在的な〔母という〕対象はみかけの能動的活動(たとえば、おしゃぶり)の項になっているということは観察者に誤った判断を吹き込むおそれがある。おしゃぶりは、受動的総合の深化において観照さるべき潜在的な対象を提供するためにしか、なされないのである。現実的な母の方は、逆に、能動的総合における行動の目標として、かつそうした行動の評価の基準として役立つためにしか、観照されないのだ。〔中略〕まことに、拘束という受動的総合から出発して、あるいは拘束された興奮から出発して、幼児は二重の系列に沿っておのれを構築するのだ。もちろんその二つの系列は、対象的(オブジェクタル)なものである。一方は、能動的な総合の相関者としての現実的な対象の系列であり、他方は、受動的総合の深化の相関者としての潜在的な対象〔虚焦点〕の系列である。深化した受動的自我が、いまやおのれをナルシシズム的映像で満たすのは、まさしく虚焦点を観照することによってである。一方の系列は、他方の系列なしには存在しえないだろう。(注24)

このような、現実的な対象の系列と潜在的な対象の系列の二重性は、自己保存欲動と性欲動との分化に呼応するものでもあるという。もっとも、ここでのドゥルーズの哲学的関心にとって両者は決して等価ではなく、だからこそ彼は、潜在的な対象を現実的な対象から採取する分離の働きについてひとしきり考察すると、今度は前者が後者の中に体内化されているという事態へと筆を進めるのである。明らかに、叙述の力点が置かれているのは、後者つまり現実的な対象ではなくて、前者つまり潜在的な対象である。

分離の本領は、現実的な対象からひとつの部分を抜き出すことにあるばかりではない。抜き出された部分は、潜在的な対象として機能することによって新たな本性を獲得する。潜在的な対象は、〈部分対象〉なのである。そう言えるのは、たんに、潜在的な対象が、現実的なもののなかに残存している対象を欠いているからというだけでなく、さらに、潜在的な対象が、それ自身においてかつそれ自身に対して、〈分裂〉し、二分化され、互いに一方が、つねに、他方において欠けているような二つの潜在的な部分になるからである。要するに、潜在的なものは、現実的な対象に関わる大域的な特徴には服従していないのだ。潜在的なものは、その起源からしても、またそればかりでなくその固有な本性からしても、切れ端であり、断片であり、剥皮である。潜在的なものは、それ自身の同一性において欠けるところがあるのだ。〈良い母と悪い母〉、あるいは父親的二重性に基づく〈謹厳な父と遊んでくれる父〉は、二つの部分対象ではなく、分身においておのれの同一性を失ってしまっているものとしての同じもの〔自体〕なのである。能動的総合が受動的総合を越え出て、大域的な〔自我の〕統合および全体化可能な同一的な〔現実的〕対象の定立へ向かうとき、受動的総合は、深化しながら、おのれ自身を越え出て、全体化されえない部分対象の観照へ向かう。(注25)

このように分離についての考察が、潜在的な対象に特有な、つねに部分的にして断片的であるという性格を教えてくれるとすれば、体内化という事態は、潜在的な対象を現実的な対象の中に解消すべく統合してしまうどころか、逆に現実的な対象の中から何がそれに欠けているかを告げることで、そのような統合や全体化を拒む異分子を表わしている。

体内化は、〈分離〉に対立するどころか、反対に分離を補完するものである。だが、潜在的な対象は、どのような現実のなかに体内化されていようと、どの現実のなかにも統合されてはいないのである。潜在的な対象は、現実のなかに、むしろ植え込まれ、打ち込まれているのであって、現実的な対象のなかに、その対象を補う半身を見いだすことはなく、反対に、その現実的な対象のなかに、あい変わらずその対象に欠けている別の潜在的な半身を証示しているのである。メラニー・クラインが、どのようにして母の身体は潜在的な諸対象を含むのかという点を指摘しているが、その場合、母の身体は潜在的な諸対象を全体化あるいは包括していると考えるべきではなく、またそれらの対象を所有していると考えるべきでもなく、むしろ、それらの対象が母の身体に〔中略〕植え込まれていると考えるべきである。(注26)

したがって、両者つまり分離と体内化には、潜在的なものとしての潜在的なものの権利を認めるよう我々に迫ってくるという点が共通している。ここからドゥルーズは、大胆にも、潜在的な対象は純粋過去の切れ端である、という非常に興味深い帰結を引き出そうとする。

 潜在的な対象は、本質的に過去的なものである。〔中略〕潜在的な対象は古い現在なのではない。なぜなら、現在という質と、過ぎ去るという様態は、能動的総合によって構成された系列であるかぎりでの現実的なものの系列に、いまやそれしかないといったやり方で関与するのだが、しかし純粋過去は、すなわちおのれ自身の現在と同時的で、過ぎ去る現在に先立って存在し、あらゆる現在を過ぎ去らせる過去としてすでに定義された純粋過去は、潜在的対象の質を表わしているからである。潜在的対象は純粋過去の切れ端である。虚焦点〔潜在的対象〕に対する私の観照の高みからしてはじめて、私は、過ぎ去る私の現在と、虚焦点が体内化されている現実的対象の継起とに立ち会い、それらを司るのだ。その理由は、そうした虚焦点の本性に見いだされる。現前する現実的(レエル)対象から採取されている潜在的対象は、本性上、その現実的対象と異なる。潜在的対象は、それがそこから抜き出されてくる当の現実的対象に比べて、何ものかが欠けているばかりでなく、さらに、それ自身において、何ものかが、すなわち、つねに自己自身の半身であるものが欠けているのであって、潜在的対象は、自己自身のそうしたもうひとつの半身を、異なるもの、不在のものとして定立するのである。ところでこの不在〔のもの〕は、やがてわたしたちが見るように、否定的なものとは反対のもの、つまり永遠の〈自己の半身〉である。こうした不在のものは、存在するべきところには存在しない場合にのみ、それが存在するところに存在しているのである。それは、存在しないところで探し求められる場合にのみ、それが発見されるところに存在しているのである。またそれと同時に、不在のものは、その不在のものを持つ者たちによっては所有されていないのであり、逆に言えば、不在のものは、その不在のものを所有していない者たちによって持たれるのである。不在のものはいつでもひとつの「存在していた」ということなのである。(注27)

そして彼によれば、このような純粋過去としての潜在的な対象―決してそれが存在すべきところに存在しない、それ自身の断片にしてそれ自身の過去であるような何か―についての最も洗練された説明は、ジャック・ラカンの精神分析理論、なかんずく現実的なものとの対比における、象徴的なものの概念の内に見つかるのだという。

わたしたちにとって以上のような意味で範例的に思われるのは、ラカンの著作〔『エクリ』〕の或る箇所であり、そこで彼は、潜在的対象をエドガー・ポーの盗まれた手紙になぞらえている。ラカンの教えるところでは、現実的対象は、現実原則のゆえに、どこかに存在するかあるいは存在しないかのいずれかであるという法則に従っているのだが、潜在的対象は反対に、それがどこへいってしまおうと、それが存在するところに存在しかつ存在しないということを特性としているのである。「隠されているものとは、結局のところ、あるべき場所に欠けているものでしかないのであって、それはちょうど、図書館のなかで或る一冊の本の行方がわからなくなったときに、その本を探すといったことで表現されるような事態である。これはあるべき場所に欠けている、と文字通りに(ア・ラ・レトル)〔その手紙において〕言えるのは、その場所を変えうるもの、すなわち象徴的なものに関してだけである。なぜなら、ほかならぬ現実的(レエル)なものこそが、その現実的なものにどれほどの混乱がもたらされうるにせよ、〔あるべき場所に〕つねにどんな場合でも現存するからであり、またあるべき場所をおのれの足裏にくっつけて運んでゆき、その際おのれをあるべき場所から追放しうるようなものについては何も認めないからである」。純粋過去、すなわちその普遍的な可動性、普遍的な遍在性が、現在を過ぎ去らせ、そして永遠に自己自身と異なるような純粋過去に、過ぎ去り、そして自己と共に運び去られる現在を、これほどうまく対立させた者はだれもいなかった。潜在的対象は、ひとつの新しい現在と比べて過ぎ去っている〔過去である〕というのではまったくないし、その対象がかつては現在であったという場合の現在と比べて過ぎ去っている〔過去である〕というのでもない。潜在的対象は、凝固した現在のなかで、その対象がそれであるところの当の現在〔現前するもの〕と同時的であるものとして、換言すれば、潜在的対象が、一方では同時にそれであるところの当の部分を他方では欠いているものとして、すなわち、潜在的対象があるべき場所に存在するときに遷移したものとして、過ぎ去っている〔過去である〕のだ。だからこそ、潜在的対象は、自己自身の断片としてでしか現実存在(エグジステ)しないのだ。すなわち、潜在的対象は、失われたものとしてでしか見いだされず―再発見されたものとしてでしか現実存在(エグジステ)しないのである。この場合、紛失と忘却は、乗り越えられるべき規定だというわけではなく、反対に、忘却のただなかで、かつ失われているかぎりにおいて、再発見されるようなものの客観的な本性を指示しているのである。潜在的対象は、現在〔現前するもの〕としての自己と同時的であり、おのれ自身にとっておのれ自身の過去であり、現実的な系列のなかで過ぎ去るあらゆる現実に先立って存在するのであって、まさにそのような対象こそが純粋過去に属しているのである。潜在的対象は、純然たる断片であり、自己自身の断片である。だが、たとえば身体的な経験におけるように、質を変化させ、現実的諸対象の系列のなかで現在を過ぎ去らせるのは、まさにそうした純然たる断片の〔現実的対象への〕体内化なのである。(注28)

このように、純粋過去としての潜在的な対象というものは、根源的に失われたものとして再発見される、という以外のあり方を通じては知られることがない。しかるに、ここに一つの奇妙な事実がある。すなわち、潜在的な対象に固有のそのような性格を我々に教えてくれる、いましがた読んだばかりのドゥルーズの文章―「すなわち、潜在的対象は、失われたものとしてでしか見いだされず―再発見されたものとしてでしか現実存在(エグジステ)しないのである。この場合、紛失と忘却は、乗り越えられるべき規定だというわけではなく、反対に、忘却のただなかで、かつ失われているかぎりにおいて、再発見されるようなものの客観的な本性を指示しているのである」―は、むしろ現実界の核心を占めるあの「もの(ダス・ディング)」について語るときのラカンの言葉づかいにそっくりなのである。ラカンは言う。

 もし〈もの〉が根本的に覆われていなかったとしたら、我々は〈もの〉とのあいだに次のような関係を持たずにすんだでしょう。つまり、〈もの〉を把握するためには〈もの〉を取り囲み迂回せざるをえないという関係です。精神というものは全てそれを余儀なくされているのです。そして、〈もの〉が確かに認められるところでは、〈もの〉は飼い慣らされた領野に認められます。ですから、そのような領野について、〈もの〉はつねに覆われたひとまとまりとして現れる、と定義できます。
 〈もの〉は、フロイトが快原理という主題系を基盤にして定義した心的構成のなかでこのような場所を占めています。この〈もの〉とは、現実界に属しており原初的な現実界であるにもかかわらず、シニフィアンを言うなれば受苦するものだからです。ここで現実界とは、まだ我々が限定すべきではないひとつの現実界、全体性における現実界、主体の現実界でありながら、主体が彼の外部にあるものとして関わっている現実界のことだと理解して下さい。
〔中略〕
 一方で、発見に対する反応の以前として、つまり「再発見されたwiedergefundene」対象が存在する以前として、フロイトが示したものは、まさに〈もの〉の領野に位置づけられなくてはなりません。「再発見された」、これこそがフロイトにとっては、対象がもつ主導的機能に関わる根本的な定義です。この定義の逆説についてはすでに触れました。逆説というのは、この対象はすでに実際に失われていたとは言えないからです。対象とはその本性上再発見された対象です。対象が失われていたというのはその帰結です。しかしそれは事後的にそうなのです。ですから、対象は再発見されますが、対象がすでに失われていたということを我々はこの発見によってしか知りえないのです。
〔中略〕
 これが、覆われたものとしての〈もの〉の第二の特徴です。つまり〈もの〉はその本性上、対象の再発見という形で、他のものによって表わされるのです。(注29)

はたして、ドゥルーズは潜在的な対象の概念を創造するにあたって、「もの」についてのラカンの所説を参考にしたのだろうか。のちに『精神分析の倫理』と題して刊行されることになる一連のセミネール(ゼミナール)において、この発言をラカンが口にしたのは1960年1月27日のことであり、一方ドゥルーズの博士学位主論文である『差異と反復』が上梓されたのは1968年のことであるから、少なくとも時間的には十分な余裕があったと判断してよさそうである。だが、いま私の手元にはこれ以上の資料があるわけでもないので、あまり憶測をたくましくするのは気が進まない。
ただ、使う用語こそよく似ていても、ラカンが現実的な(réel)ものについて語りつつ、どうやら紛失という特徴を再発見の結果として考えようとしている―「対象とはその本性上再発見された対象です。対象が失われていたというのはその帰結です」―のと比べて、ドゥルーズの叙述はもっぱら潜在的な(virtuel)ものに焦点を合わせながら、紛失を積極的な規定として評価しようとしている―「この場合、紛失と忘却は、乗り越えられるべき規定だというわけではなく、反対に、忘却のただなかで、かつ失われているかぎりにおいて、再発見されるようなものの客観的な本性を指示しているのである」―という対照性は見落とせない。もちろん、対象(「もの」)の見失いや忘却について、それが避けがたいことをラカンの考えに即して理論的に証明することなら可能であるにせよ(注30)、そのような対象、ないし「もの」に関して、ドゥルーズがしているように、そもそも現在的であったためしがないという意味での潜在性を云々するなどということが、はたして許されるのだろうか。
換言すれば、ドゥルーズはラカン的な「もの」が本来現実界に属する、というよりも主体にとって最も原初的な現実そのものにほかならないという事情は承知した上で、強引にそれを潜在的なものの領域の解明のために転用し、独自の理論的展開を試みているのではないか、ということだ。そうだとすれば、その操作はほとんど牽強付会に近い(第一、ラカンその人の関心にしてからが、ドゥルーズが『差異と反復』を執筆していた頃はともかく、もっと後年になると明らかに象徴界から現実界に移っているのだ)。
とはいえ、象徴的器官としての男根、ないしファルス(phallus)について、それが幼児にとっては、母の中の欠如を埋め合わせるものであり、つまりは母の欲望の対象である(具体的には子である幼児自身、ついで父が母に愛されるゆえんであると思しい彼の持ち物を指す)という精神分析の知見を参照しつつ―ちなみに、少し前に『差異と反復』から引用したくだりの中の「不在のものは、その不在のものを持つ者たちによっては所有されていないのであり、逆に言えば、不在のものは、その不在のものを所有していない者たちによって持たれるのである」(注31)という箇所は、この間の機微を念頭に置いた記述であろう―、「おのれ自身の不在と、過去としての自己とを証示していること、本質的に自己自身に対して遷移していること、失われているかぎりでしか見いだされないこと、分身において同一性を失うようなつねに断片的な存在であること」等々の理由から、これこそ部分対象としての潜在的対象の典型であるとドゥルーズが書くとき(注32)、我々としては、少なくとも『のばらセックス』という小説の批評にとっては、あるいはこのほうがラカン的「もの」よりも好都合かもしれない、という予感が抑えがたい。例えば、義父の「あいちゃん」の館に監禁されたおちば様の前に現われた母の指、あるいは指の姿になった母とは、もっぱら母の側で探し求められるというそのようなファルスのことではないのか。

 あたしの眼の前で、何かが動いた。ちいさい。虫? と思って悲鳴をあげそうになる。暗闇に慣れた目でそれを凝視し、あたしは想像よりもなお気味の悪いものを見つけてしまって、絶句する。
 指に見えた。
 人間の指だ。
 人差し指だか中指だかはわからないが、天井をさして一本の指が立っている。その根元には蜘蛛(くも)の足みたいな、機械の質感があるものが複数生えていて、その指を自立歩行させている。(注33)

単に残余の身体から分離された小部分であるのみならず、その状態のままで、つまり部分的かつ断片的であることをやめないで活発に動き回り、持ち主であるのばら様がとうの昔に死んでいるという衝撃的な真相を告げるこの指は(注34)、辛うじて保存された小脳のおかげでまがりなりにも彼女自身の人格のなごりをとどめているという表向きの説明とは裏腹に、すでに触れたとおり、実際には彼女本人ではなく、おちば様の実父である綿志が操作していたのであり(注35)、そしてその事実の発覚がきっかけとなって、母親の絶対的な不在といういっそう衝撃的な真理―坂本のばら様という女性はもともと坂本三兄弟の合作であり、一度もこの世に存在したためしがなかった―を、主人公であるおちば様が知ることになるのである。このような成行きと相性がよいのは、やはりラカンの説く現実的な「もの」以上に、ドゥルーズの説く純粋過去としての潜在的対象であろう。
とりわけ、現働的な現在から古い現在に向かって生じる反復の実態を問う中で、反復強迫に関する精神分析の理論はなおあまりにも現実主義的・唯物論的・主観的ないし個人主義的であり、古い現在における同一性の原理と現働的な現在における類似の規則とに支配されていて、したがって不十分であるという趣旨の批判を展開するに先立って、その場合の古い現在は反復されるべき「もの(chose)」の不動の源泉であるはずだと彼が書いているのを読むと、ことによると『差異と反復』の時間論、なかんずく純粋過去の理論には、ラカン的な「もの(das Ding/la Chose)」の概念の改作という意図が隠れているのではないか、という我々の印象はひとしお強まるのだ。

 もとより、いま検討しているのは、反復が有する精神分析的な、すなわち愛に関する遊び=ゲームの全体である。現実的(レエル)な系列において、一方の現在から他方の現在へ向かって、すなわち現働的な現在から古い現在へ向かって遂行されるような反復を理解することができるかどうか、それが問題なのである。そのような反復があるとするなら、古い現在は、或る複雑な点の役割を、言わばあるべき場所にとどまって引力を発揮するような究極的なつまり根源的な項の役割を果たすだろう。その古い現在こそが、反復さるべきものchoseを提供するだろうし、またその古い現在こそが、反復の全過程の条件となるだろう。(注36)

それでは、ドゥルーズ自身はどう考えるのか。この文脈で同一性の原理と類似の規則の支配に従うことを拒むとは、一体何を意味するのか。二つの現在の系列(古い現在と現働的な現在)は、実は何らかの潜在的対象、ファルスがそうであるようにたえず循環する同一性を欠いた対象に対して共存しているのであり、したがってどちらかが根源的でどちらかが派生的であるような関係にはないこと、それゆえ反復や遷移や偽装はそれら自体が説明の原理として肯定される必要があること―これが彼の出した独創的な答である。

 これまでわたしたちは、反復の過程を考えるにあたって、その難しさを何度も強調してきた。二つの現在、二つの〔原〕光景、あるいは二つの出来事(幼児期のものと成人期のもの)を、時間によって隔てられたそれぞれの実在性(レアリテ)〔現実〕のなかで考察する場合、古い現在は、現働的な現在に間隔を置いて作用し、その現働的な現在を〔おのれをモデルにして〕つくりながら、反対にその現働的な現在からおのれの全有効性を受け取るというのは、いったいどうしたことであろうか。また、時間的間隔を埋めるために必要不可欠な想像的な働きを援用する場合、その想像的な働きは、反復を独我論的主体の錯覚としてでしか存続させないにもかかわらず、結局のところそれら二つの現在の全実在性を吸収してしまわないというのは、いったいどうしたことであろうか。しかし、それら二つの現在〔古い現在と現働的な現在〕が、もろもろの実在的(レエル)なものからなる系列のなかで可変的な間隔を置いて継起するということが真実であるとしても、それら二つの現在はむしろ、別の本性をもった潜在的対象に対して共存する二つの現実的な系列を形成しているのである。しかもその別の本性をもった潜在的対象は、それはそれでまた、それら二つの現実的な系列のなかで、たえず循環し遷移するのだ(たとえ、それぞれの系列のもろもろの位置や項や関係を実現する諸人物、つまり諸主体が、それらとしては依然、時間的に区別されているにしてもである)。反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではなく、むしろ、潜在的対象(対象=x)に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成されるのだ。潜在的対象は、たえず循環し、つねに自己に対して遷移するからこそ、その潜在的対象がそこに現われてくる当の二つの現実的な系列のなかで、すなわち二つの現在のあいだで、諸項の想像的な変換と、諸関係の想像的な変容を規定するのである。潜在的対象の遷移は、したがって、他のもろもろの偽装とならぶひとつの偽装ではない。そうした遷移は、偽装された反復としての反復が実際にそこから由来してくる当の原理なのである。反復は、実在性(レアリテ)の〔二つの〕系列の諸項と諸関係に関与する偽装とともにかつそのなかで、はじめて構成される。ただし、そうした事態は、反復が、まずもって遷移をその本領とする内在的な審級としての潜在的対象に依存しているがゆえに成立するのだ。したがってわたしたちは、偽装が抑圧によって説明されるとは、とうてい考えることができない。反対に、反復が、それの決定原理の特徴的な遷移のおかげで必然的に偽装されているからこそ、抑圧が、諸現在の表象=再現前化に関わる帰結として産み出されるのである。そうしたことをフロイトは、抑圧という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧〉と考えてしまってはいたのだが。ひとは、抑圧するから反復するというのではなく、かえって反復するから抑圧するのである。また、結局は同じことだが、ひとは、抑圧するから偽装するのではなく、偽装するから抑圧するのであり、しかも反復を決定する焦点〔潜在的対象〕の力によって偽装するのだ。偽装は反復に対して二次的であるということはなく、それと同様に、反復が、究極的あるいは起源的なものと仮定された固定的な項〔古い現在〕に対して二次的であるということもない。なぜなら、古い現在と新しい現在という二つの現在が、共存する二つの系列を形成しており、しかも、それら二つのなかでかつ自己に対して遷移する潜在的対象に即して、それら二つの系列を形成しているのであってみれば、それら二つの系列のどちらが根源的でどちらが派生的だ、などと指示するわけにはいかないからである。それら二つの系列は、〔ラカン的な〕複雑な相互主体性のなかで、様々な項や様々な主体を巻き込んでおり、しかもそれら主体のそれぞれは、おのれの系列におけるおのれの役割とおのれの機能とを、おのれが潜在的対象に対して占めている非時間的な位置に負っているのである。この〔潜在的〕対象そのものに関して言うなら、それを究極的あるいは根源的な項として扱うのは、なおさら不可能なことである。もしそんなことをすれば、その対象が本性の底の底から忌み嫌う同一性と固定した場所を、その対象に引き渡すことになってしまうだろう。その対象がファルスと「同一化」されうるのは、ファルスが、ラカンの表現を用いるならば、あるべき場所につねに欠け、おのれの同一性において欠け、おのれの表象=再現前化において欠けているかぎりのことなのである。(注37)

決して実在するものとして表象の中に現前することはないまま、つねにそれ自身に対して遷移し、探す者の目から逃れ去って循環し続ける潜在的対象、および、この対象に対して共存する新旧二つの対等な現在の間で生じる、偽装としての反復―ドゥルーズがことさらラカンを引き合いに出しながらここで試みている精神分析理論の変奏、ないし精神分析批判の当否は、このような構図をこのとおりに積極的に肯定できるかどうかにかかっているはずである。かつて実在したことのある不動の同一的な根拠も、ましてやそれの抑圧も、反復や遷移や偽装に先行しているわけではない。
いまや我々には、『のばらセックス』こそが、以上のようなドゥルーズの思考の理路に狭義の哲学の外から最も力強く呼応する実例であることが理解できる。少なくとも確かなのは、生来の性別を捨て、「文字どおり、己を殺して」(注38)偶像としての女性(坂本のばら様)を演じ続けたあげく狂気の所業(弟との近親相姦、および娘の強姦)に走り、その結果名前も人格も失うはめになった緒礼、他の全人類と同様、娘であるおちば様もその正体を知らぬまま探し求めてやまない母なるもの、ただし「架空の母親」(注39)である彼が、つねにそれ自身に対して遷移を続け、決して現前するものとして把捉することのできない潜在的な対象に相当するということだろう。実際には巻頭の時点で―「ななちゃん」こと坂本綿志として―姿を見せているにもかかわらずついに生身の坂本緒礼本人として娘と言葉を交わすことはないまま、女性の量産と引き換えに力尽きて廃人と化し、「身体の七分の一ほどしかない」残骸として再登場する(注40)という彼の運命も、疑いなくそう考えるよう促している。
だが、それだけではない。そもそも主人公であるおちば様にしてからが、幼少期に生みの親である緒礼に強姦されており―そしてこの事件は、それ自体が、かつて坂本三兄弟がでっちあげた、幼いのばら様が強姦されたという架空の事件を反復しているのである(注41)―、ゆえにI章「きれいな薔薇には棘がある」において彼女が加工種(エルフ)の男性たちに犯されるという成行きは、それとの関係によってすでに反復(二回目の性交)なのであり、にもかかわらず続くi章「殺人鬼のシャンソン」の末尾で恋人(ソプラノ)と交わる彼女がことさら自身の処女性に言及するのは(注42)、これはこれで、修辞の力を借りた演出の中で初回を反復しようとする意志の表れなのである。おそらく、『のばらセックス』の作中で起きる出来事は、そのほとんどがこのように何らかの意味で反復として規定することが可能なのであって、しかも、「おちば様はソプラノのものを貪り、何度も求め」(注43)、「これで何度、交わっただろうか。六回? 七回? 十回以上?」(注44)、「何度も何度も何度も、繰りかえし水をたらふく飲まされて、すぐに排泄(はいせつ)させられて」(注45)、「身体の奥にある気持ちのいいつぶつぶを、ソプラノがひとつずつ潰して、何度も掻きむしってくれる」(注46)、「何度、そのちいさな膣のなかに精を吐きだしたことか」(注47)…等々のくだりが教えてくれるとおり、反復の歴然たる影響力は個々の文章の中にまで及んでいるのである。とりわけII章「ずっと薔薇色なわけがない」を読めば、そこにはまた遷移と偽装も欠けてはいないことが明らかになる。かねて憎からず思っていた義父の「あいちゃん」(坂本逢)から、結婚と、瀕死ののばら様に代わる新たな三人目の女子の出産、すなわち母親の地位の代行とを要求され、彼の館に監禁されたおちば様は―ちなみにこの際彼女は、かつてI章でのばら様(緒礼)から受けた「身体が書き換えられるような激痛」(注48)を反復するかのごとき、「お腹の奥で何かが書き換えられている」ような苦痛を与えられている(注49)―、しかしなぜか義父本人ではなくてその召使、研究所で生まれた女性の出来損ないにして、身体の一部に過剰で奇形的な女らしさ(複数の乳房)を宿すシオン(姉音)に連日強姦され、あるときなどは大量の水を無理やり飲まされて疑似的な妊娠と不毛な出産(もちろん、排尿は決して新生児へと結実することがない)の体験を繰り返すことになる(注50)。これらがおおむね「遷移」の相を表わしているとすれば、くみしやすいもう一人の召使であるセノン(妹音)を性的に誘惑して味方につけ、すでに触れたようにこれまた「のばら様の、英雄譚(たん)」(注51)を反復するという形で、実は「あいちゃん」の父親が化けていた彼の偽物をやはり演技を駆使して性的に籠絡してしまい、ついで自らの手で殺害する、という章の大詰めにおけるおちば様の行動のほうは、明らかに「偽装」の相を反映しているのである。やがて直後のii章「謝肉祭のハーモニー」がこの親殺しを今度は父ではなくて母に対するものとして反復することだろうし、そこに導入される虚構の現実化、あるいはむしろ有効化(effectuation)という状況は―「TVのなかの、夢のなかの住民だった母親、憧れと―愛されなかったことへの怨みがぎゅうぎゅうに詰まった、ほとんど崇拝の対象。そんな相手が、自分の恥ずかしい部分に手を添えている。少年はそんな嘘みたいな事実に、正気を失わんばかりになっていた」(注52)―、全篇を締めくくるべくさらに後続するIII章「いつかは散る薔薇」において、緒礼によってもっと完全に達成されることだろう。「もっと完全に」とはつまり、同一性を保つ根源としての母あるいは「もの」(ラカン)が至高善の王座から最終的に失墜し、代わりに複数の、無数の仮面が乱舞を始めるということ、そのような成果に緒礼の尽力を通じて万人が与るに至るということだ(注53)。先に私が『のばらセックス』の読者にとって決定的なものと考え、二度にわたって参照した、時間の空虚な形式あるいは第三の総合についてのドゥルーズの文章は、こうして三度(みたび)我々の行く手を照らしてくれることになる―「その時間が意味しているのは、出来事や行動は、自我の一貫性を排除する秘密の一貫性を有しているということであり、この秘密の一貫性は、出来事や行動に等しくなった自我に背を向けるということであり、まるで新しい世界を孕むものが、多様なものに生じさせるものごとの炸裂によってもぎ取られ散らされるかのように、その秘密の一貫性は、自我を無数の断片に砕いて投射するということである」。そしてここから、劣らず決定的と思える以下の帰結が生じる。すなわちドゥルーズは、我々の愛情を母なるものの(母という「もの」の)磁場から解放するとともに、むしろ母そのものを際限なき仮面の戯れへと粉砕しようともくろむのである。

要するに、究極的な項などは存在しないのであって、わたしたちの愛は母なるものを指し示してはいないのである。母なるものは、たんに、わたしたちの現在を構成する系列のなかでは、潜在的対象に対して或るひとつの場所を占めているだけであって、この潜在的対象は、別の主体性の現在を構成する系列のなかで、必然的に別の人物によって満たされ、しかもその際、つねにそうした対象=x〔潜在的対象〕の遷移が考慮に入れられているのである。それは、言ってみれば、『失われた時を求めて』の主人公が、自分の母を愛することによって、すでにオデット〔スワンの妻になる人物〕に対するスワン〔主人公が子どものころに知り合った人物〕の愛を反復しているようなものなのだ。親の役割をもつ人物はどれも、ひとつの主体に属する究極的な項なのではなく、相互主体性に属する中間項〔媒概念〕であり、ひとつの系列から他の系列へ向かっての連絡(コミュニカシオン)と偽装の形式であって、しかも、その形式は、潜在的対象の運搬によって規定されているかぎりにおいて、異なった諸主体にとっての連絡と偽装の形式なのである。仮面の背後には、したがって、またもや仮面があり、だからもっとも隠れたものでさえ、はてしなく、またもやひとつの隠し場所なのである。何かの、あるいは誰かの仮面をはがして正体を暴くというのは、錯覚にほかならない。反復の象徴的な器官たるファルスは、それ自体隠れているばかりでなく、ひとつの仮面でもある。(注54)

もともと緒礼は兄(逢)や弟(綿志)と同じく「父の遺伝子をそのまま複製した、クローン人間」として生まれ、「坂本のばら様と同じ顔をした、三兄弟」の一人(次男)であった(注55)。換言すれば、坂本三兄弟においては、いわば生まれつき素顔そのものが仮面であり、仮面以外の素顔はなかったのである。いまやその彼から、またしてもクローン技術によって「ほとんど同じ見た目」をした「坂本のばら様の、量産品」、おちば様の妹たちが何人も誕生する(注56)。本来ならばここで、『差異と反復』第2章を締めくくる、永遠回帰としての未来の時間において主役を務める見せかけ(シミュラクル)についての一連の記述の検討に入らなくてはなるまいが―見せかけ(シミュラクル)は、第一にそれを構成する諸系列の非類似と、諸視点の発散とを内化しているがゆえに、同時に複数の事物を見せてくれ、複数の物語を教えてくれるものであるばかりか、第二に「同じもの」ではなくて「他なるもの」という見本を非類似の源泉として指示し、ひいては第三に、見本(モデル)と複写(コピー)という階層的な対立図式そのものに異議を唱えるのだという(注57)―、すでにこの記事は当初予定していた分量を大幅に超過しているので、その検討は他日にまわさざるをえない。
ともかく以上のような次第で、哲学的な美と強さの点で『のばらセックス』に匹敵する小説がそうざらにあるとは、私には思えない。これは、厳密な意味で各人のための書物、我々一人一人を欲望する者として個体化に(したがってまた孤立性に)与らしめる書物であると同時に、まさしくこの普遍的な当事者性の達成ということのゆえに、真に万人のための書物でもあるのだ。以前私は日日日を「現代のスピノザ」と呼んだことがある。それに加えて、いまや次のことも認める必要があるようだ。やはりスピノザ主義者だったドゥルーズの哲学は、他のどの日本語の小説にもまして巧みに『のばらセックス』において反復された、つまり新たな生命を獲得したのである。


(1)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(財津理訳、河出文庫、2007年)235-236頁。ただし引用に際して、訳文中の「コンブレ」を「コンブレー」に、「アクチュアル」を「現働的」に、「エレメント」を「境地」に改め、また傍点が付してある箇所を太字の表記に改めた。
(2)同書238-240頁。ただし引用に際して、訳文中の「先験的」を「超越論的」に、「エレメント」を「境地」に改めた。
(3)同書245-246頁。
(4)同書247-249頁。ただし引用に際して、訳文中の「イマージュ」を「映像」に、「セリー」を「系列」に、「イデア的な自我」(原語は« un moi idéal »である)を「理想自我」に改めた。
(5)同書250-251頁。ただし引用に際して、訳文中の「セリー」を「系列」に改めた。
(6)同書251-252頁。ただし引用に際して、訳文中の「セリー」を「系列」に改めた。
(7)同書257-258頁。ただし引用に際して、訳文中の「セリー」を「系列」に、「最終目的」(原語は« le but final »である)を「究極目標」に改めた。
(8)ジークムント・フロイト「心理学草案」(総田純次訳)、『フロイト全集3』(岩波書店、2010年)44頁。
(9)ジャック・ラカン『精神分析の倫理(上)』(小出浩之・鈴木國文・保科正章・菅原誠一訳、岩波書店、2002年)63-105頁。
(10)「もの」、R.シェママ・B.ヴァンデルメルシュ編『新版 精神分析事典』(弘文堂、2002年)488頁。
(11)福原泰平『ラカン 鏡像段階』(講談社、2005年)210-211頁。
(12)同書211-220頁。
(13)日日日『のばらセックス』(講談社、2011年)274、279頁。
(14)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(前掲書)235-236頁。
(15)同書247-249頁。
(16)日日日『のばらセックス』(前掲書)212頁。
(17)同書215-216頁。
(18)同書148頁。
(19)同書290頁。
(20)同書262、290頁。
(21)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(前掲書)251-252、257-258頁。
(22)日日日『のばらセックス』(前掲書)376頁。
(23)同書381-382頁。
(24)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(前掲書)271-272頁。訳文中の「セリー」を「系列」に、「イマージュ」を「映像」に改めた。
(25)同書274-275頁。ただし引用に際して、« lambeau »の訳語を「切片」から「切れ端」に改めた。
(26)同書275-276頁。
(27)同書276-278頁。引用に際して、訳文中の「セリー」を「系列」に、「切片」を「切れ端」に、「控除されている」(原語は« prélevé »である)を「採取されている」に、「もっている」・「もたれている」を「持つ」・「持たれる」に、それぞれ改めた。
(28)同書278-280頁。訳文中の「置き換えられているものとして」(原語は« comme déplacé »である)を「遷移したものとして」に改めた。
(29)ジャック・ラカン『精神分析の倫理(上)』(前掲書)177-178頁。引用に際して、訳文中の「快楽原則」を「快原理」に改めた。
(30)若森栄樹『精神分析の空間』(弘文堂、1988年)194-195頁。
(31)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(前掲書)278頁。
(32)同書280頁。「置き換えられていること」を「遷移していること」に改めた。
(33)日日日『のばらセックス』(前掲書)159頁。
(34)同書161頁。
(35)同書238-289頁。
(36)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(前掲書)281頁。引用に際して、訳文中の「セリー」を「系列」に、「アクチュアル」を「現働的」に、「プロセス」を「過程」に改めた。
(37)同書284-287頁。引用に際して、訳文中の「プロセス」を「過程」に、「アクチュアル」を「現働的」に、「セリー」を「系列」に、「置き換えられる」・「置き換え」を「遷移する」・「遷移」に、「審廷」を「審級」に、「男根(ファルス)」を「ファルス」に、それぞれ改めた。
(38)日日日『のばらセックス』(前掲書)265頁。
(39)同書290頁。
(40)同書376頁。
(41)同書117-118、265-266、347頁。
(42)同書109頁。
(43)同書110頁。
(44)同書182頁。
(45)同書190頁。
(46)同書284頁。
(47)同書343頁。
(48)同書46頁。
(49)同書156頁。
(50)同書188-190頁。
(51)同書216頁。
(52)同書286-287頁。
(53)ただし、枝川昌雄著『ラカン空間を読む』(青山社、2008年)218-221頁にも書いてあるとおり、「もの(das Ding)」とは厳密には母の身体そのものというよりも、むしろ「『母の身体』を代入することの可能な構造的な枠組み」として、「シニフィアンの連鎖によって構成される象徴界に空いた裂け目、穴」として考えられるべきであり、だからこそそこへと表象の世界が収斂していく当の欠如でありうるということ、そしてラカン自身がメラニー・クラインのよく似た理論に対して自説の差別化を図るという文脈においてまさしくこの点に言及していることは、ともに注意されてよい。
(54)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(前掲書)287頁。引用に際して、訳文中の「セリー」を「系列」に、「置き換え」を「遷移」に、「男根(ファルス)」を「ファルス」に改めた。
(55)日日日『のばらセックス』(前掲書)258-259頁。
(56)同書375頁。
(57)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(前掲書)341-344頁。
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category: 『のばらセックス』

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