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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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森鷗外『文づかひ』 

『文づかひ』は『舞姫』、『うたかたの記』とともに、鷗外森林太郎が軍医としてドイツに留学した折の見聞がもとになって成立した、いわゆる「ドイツ三部作」を構成する短篇である。
この作品は、洋行帰りの将校たちと一緒に自分もその一人としてさる宮様に招かれた小林大尉が、乞われるままにザクセンで経験した風変わりな一件の思い出を語る、という体裁になっている。時節は九月初めの秋のこと、ザクセン軍団の演習の終了後に、友人の士官であるメエルハイム男爵ともども、小林はビュロオ伯の城に宿泊した。伯の娘イイダ姫はメエルハイムの許嫁であるが、将来の夫の敬愛ぶりと比べて、その態度は不思議とさめている。一夜明けて国王との謁見を済ませた小林は、イイダ姫から、国務大臣ファブリイス伯爵の夫人に一通の密書を届けてもらいたいと頼まれる。彼女にとっては伯母に相当するはずの夫人となぜこんな迂遠な方法で連絡をとろうとするのかも、親しくもない外国人の自分がなぜ配達人―題名の「文づかひ」とはこのことだろう―に選ばれたのかも不可解なまま、小林は、ともかく約束を果たすべく、年が明けてからようやく機会を見つけて手紙をファブリイス伯爵夫人に手渡すことに成功する。しかるに一月中旬のこと、ザクセン王宮の式典に赴いた彼が目にしたのは、何食わぬ顔で王妃付の女官を務めるイイダ姫の姿であった。彼女はメエルハイムとの結婚を好ましからず思い、ずっと独身でいられるよう伯母を介して女官の地位を手に入れたのである。
尋常でないのは、いよいよ小林にイイダが種明かしをするときの彼女の言葉である。なんとなれば、おそらく大方の現代の読者の予想とは裏腹に、メエルハイムには特にこれといって度し難い欠点(悪徳)があるわけでもなく、しかもイイダには彼以外に誰か愛する男性がいるわけでもなければ、ましてや小林に恋心を抱いていたというわけでもないからである。

「近比(ちかごろ)日本の風俗書きしふみ一つ二つ買はせて読みしに、おん国にては親の結ぶ縁ありて、まことの愛知らぬ夫婦多しと、こなたの旅人のいやしむやうに記したるありしが、こはまだよくも考へぬ言(こと)にて、かかることはこの欧羅巴(ヨーロッパ)にもなからずやは。いひなづけするまでの交際(つきあい)久しく、かたみに心の底まで知りあふ甲斐(かい)は否(いな)とも諾(う)ともいはるる中にこそあらめ、貴族仲間にては早くより目上の人にきめられたる夫婦、こころ合はでも辞(いな)まむよしなきに、日々にあひ見て忌(い)むこころ飽(あ)くまで募(つの)りたる時、これに添はする習(ならい)、さりとてはことわりなの世や。」
「メエルハイムはおん身が友なり。悪しといはば弁護もやしたまはむ。否、我とてもその直(すぐ)なる心を知り、貌(かたち)にくからぬを見る目なきにあらねど、年頃つきあひしすゑ、わが胸にうづみ火ほどのあたたまりも出来(いでこ)ず。ただ厭(いと)ふにはゆるは彼方(あなた)の親切にて、ふた親のゆるしし交際の表(おもて)、かひな借さるることもあれど、唯二人になりたるときは、家も園もゆくかたもなう鬱陶(いぶ)せく覚えて、こころともなく太き息せられても、かしら熱くなるまで忍びがたうなりぬ。何ゆゑと問ひたまふな。そを誰か知らむ。恋ふるも恋ふるゆゑに恋ふるとこそ聞け、嫌ふもまたさならむ。」
「あるとき父の機嫌好(よ)きを覗得(うかがいえ)て、わがくるしさいひ出でむとせしに、気色(けしき)を見てなかば言はせず。『世に貴族と生れしものは、賤(しず)やまがつなどの如くわがままなる振舞、おもひもよらぬことなり。血の権の贅(にえ)は人の権なり。われ老(おい)たれど、人の情(なさけ)忘れたりなど、ゆめな思ひそ。向ひの壁に掛けたるわが母君の像(すがた)を見よ。心もあの貌(かおばせ)のやうに厳(いつく)しく、われにあだし心おこさせ玉はず、世のたのしみをば失ひぬれど、幾百年(いくももとせ)の間いやしき血一滴(ひとしずく)まぜしことなき家の誉(ほまれ)はすくひぬ。』といつも軍人ぶりのこと葉つきあらあらしきに似ぬやさしさに、兼ねてといはむかく答へむとおもひし略(てだて)、胸にたたみたるままにてえもめぐらさず、唯(ただ)心のみ弱うなりてやみぬ。」
「固(もと)より父に向ひてはかへすこと葉知らぬ母に、わがこころ明(あか)して何にかせむ。されど貴族の子に生れたりとて、われも人なり。いまいましき門閥、血統、迷信の土くれと看破(みやぶ)りては、我胸の中に投入るべきところなし。いやしき恋にうき身窶(やつ)さば、姫ごぜの恥ともならめど、この習慣(ならわし)の外(と)にいでむとするを誰か支ふべき。『カトリック』教の国には尼(あま)になる人ありといへど、ここ新教のザックセンにてはそれもえならず。そよや、かの羅馬教(ローマきょう)の寺にひとしく、礼知りてなさけ知らぬ宮の内こそわが冢穴(つかあな)なれ。」
「わが家もこの国にて聞ゆる族(うから)なるに、いま勢ある国務大臣ファブリイス伯とはかさなる好(よしみ)あり。この事おもてより願はばいと易(やす)からむとおもへど、それの叶(かな)はぬは父君の御心(みこころ)うごかしがたきゆゑのみならず。われ性(さが)として人とともに歎き、人とともに笑ひ、愛憎二つの目もて久しく見らるることを嫌へば、かかる望をかれに伝へ、これにいひ継がれて、あるは諫(いさ)められ、あるは勧められむ煩(わずら)はしさに堪(た)えず。いはんやメエルハイムの如く心浅々しき人に、イイダ姫嫌ひて避けむとすなどと、おのれ一人にのみ係ることのやうにおもひ做(な)されむこと口惜(くちお)しからむ。われよりの願と人に知られで宮づかへする手立(てだて)もがなとおもひ悩むほどに、この国をしばしの宿にして、われらを路傍の岩木などのやうに見もすべきおん身が、心の底にゆるぎなき誠をつつみたまふと知りて、かねて我身いとほしみたまふファブリイス夫人への消息(しょうそこ)、ひそかに頼みまつりぬ。」(注1)

愛情とは無縁で味気ない貴族の結婚、ただ栄誉ある家名を存続させるためだけの非人間的な結婚というものに嫌気がさしたので、許婚(メエルハイム)に対してははなはだ気の毒だが、自分としてはそれから自由になりたい……ここまではよい。だが、上述したとおり、イイダ姫は「年頃つきあひしすゑ、わが胸にうづみ火ほどのあたたまりも出来(いでこ)ず」という以外にこれといってメエルハイムを拒絶する明確な理由を挙げていないし―「何ゆゑと問ひたまふな。そを誰か知らむ。恋ふるも恋ふるゆゑに恋ふるとこそ聞け、嫌ふもまたさならむ。」―、代わりに選んだ宮廷の生活も「礼知りてなさけ知らぬ」、つまり儀礼ずくめで自然な感情の発露などどこを探しても見当たらない「冢穴(つかあな)」同然であるということは百も承知なのである。残るのはたかだか自分の意志でこの生活を選択したという自負心くらいのもので、しかも「われ性(さが)として人とともに歎き、人とともに笑ひ、愛憎二つの目もて久しく見らるることを嫌へば」という自覚からうかがえるように、元来内気で他人との感情的な交流を苦手とするイイダ姫にとっては、こういう満足感が孤独な代物であることは大して苦にならないものらしい。というよりも、昨日知り合ったばかりの日本人の将校に何も事情を教えないまま密書を託すという賭けに彼女が打って出たのは、知人連中に心配されるのが煩わしかったからであり―「かかる望をかれに伝へ、これにいひ継がれて、あるは諫(いさ)められ、あるは勧められむ煩(わずら)はしさに堪(た)えず」―、ひいてはメエルハイムが、イイダ姫の行動に対して彼自身の及ぼす影響力について思い上がった勘違いを起こすことがないよう、あくまでことを隠密に運びたかったからであるという。なんと身も蓋もない、散文的な白々しさだろう。たとえ許婚その人に関わるものであろうと、いかなる外的な動機をもおそらく外的である以上は不純とみなして己の行為から追放しかねない勢いで、「いはんやメエルハイムの如く心浅々しき人に、イイダ姫嫌ひて避けむとすなどと、おのれ一人にのみ係ることのやうにおもひ做(な)されむこと口惜(くちお)しからむ」などという寒々しくもとげとげしい台詞を口にするとき、一体イイダ姫はどんな表情をしていたのか、そもそも何らかの表情を浮かべていたのか、とんと私には想像がつかない。
なるほど、イイダ姫の懊悩など所詮衣食住に困らない貴族の贅沢なわがままにすぎないと一蹴することは可能だろうし、そのような貴族的な悩みの背後にはなにやら鷗外その人の「我々武士階級はこんなに気苦労が多いのだ。恐れ入ったか」という屈折したいやみな気取りが見え隠れするようでもあり(もっとも森家は武士ではなくて藩医であるが)、しかも「近比(ちかごろ)日本の風俗書きしふみ一つ二つ買はせて読みしに、〔中略〕かかることはこの欧羅巴(ヨーロッパ)にもなからずやは」というくだりからは、実地の見聞にもとづく(書物頼みではない)正確な日欧比較文化論をなしうる人材は自分くらいのものだというひそかな自信のつぶやきも聞こえてくるようで、そうなるとイイダ姫の、うわべは無口で無感情だがどうかするとピアノの演奏などの折には内に秘められた激しいものが暗示されることもあるという、当初小林にはまるで「スフィンクス」のごとく謎めいて見えた様子とは(注2)、要するに中井久夫が江戸期の武士の倫理として指摘し、鷗外にその「一つの秀抜な形態」が現れていると論じたような「自己抑制」の態度(注3)が、一人の女性に託して美的に理想化された―若干の崩しあるいはほころびの追加によって、演技的・人為的・意志的性格を強調された―結果ではないか、という気もしてくる(むやみと家名にこだわって息子を自分の管理下に置こうとするイイダの父方の祖母には、いくぶん鷗外の母の姿に重なるところがある)。もとより、登場人物が理想や理念の体現者として、こんな人間がいれば面白かろうという作者の価値観を反映するのはそれ自体としては当たり前のことで別段まずいとも思わないが、その理想の内容が自己抑制であり自己規律である場合、イイダ姫のように一応は運命に抗って巧みに目標を達成できたとしても、どこか鬱屈した煮えきらない感じが払拭できないのは不可避であろう。加えて忘れてはならないのは、鷗外がこれに先立つ『舞姫』では、恋愛を捨てて官途を選ぶ太田豊太郎の苦渋の決断を通じて、留学中の苦い思い出を清算しようとしていたことである。『舞姫』のエリスが豊太郎との結婚の望みを絶たれて発狂するのと比べると、『文づかひ』のイイダ姫が結婚の煩わしさに堪えかねて自ら女官を志願するという成行きは、読み方次第では一種の空想的な自己免責であり、迂遠な自己弁護の試みでもありうるはずなのだ。こういうところに鷗外森林太郎という人間の、意外な小心翼々たる一面が露呈していると私は思う。
しかし矛盾するようだが、私は作家としての鷗外が好きである。というよりも非常に尊敬しているし、不当に閑却されていると信じる晩年の史伝物についてはそのうち何か書きたいと思っているくらいだ。なぜならば、第一に鷗外はニヒリストでも生きていてよろしいと太鼓判を押してくれるからであり、第二に鷗外はニヒリストがいかに生きればよいかを教えてくれるからである。ただし、この場合の「ニヒリスト」とは「何々主義者」(「虚無主義者」)という意味ではなくて、もっぱらある一定の気質の所有者を指す。自己をあるときは複数の糸の重なる交点に、またあるときは何も荷を積んでいないくせに威風堂々と道をふさぐ巨大な大八車になぞらえ、「意地」が人間の行動の原理でありうることもよく知っていた鷗外は、自身が大いなるニヒリスト(虚無の人)であった。『文づかひ』は日本語の文学に恋愛至上主義が定着するよりも早く、恋愛に向かない人が恋愛の外で生きることをあっさりと肯定しているのみか、そのための実践的な方策まで例示している。そしてその点が大変貴重なのであり、明治24年(1891年)に世に出たこの小説が、少なくとも私にとっては今日なお新鮮さを失っていない理由でもあるのだ(注4)。よしんば愛のように高い価値を認められている感情であろうと、事実として自分の中に「ない」ものを「ある」と強弁するのは不誠実だという理屈も成り立つ以上、これを簡単に人間性を斜に構えて愚弄する作品であるとして片づけるわけにはいくまいと思う。たぶん、鷗外は、我々は自分でそう思っているほど(あるいは西欧の藝術が鑑賞者に思わせたがっているほど)人間的でも情熱的でもないと感じていたのだ。そして、自分の冷淡さに気づくとともに訪れる解放というものは、たぶんそれなりに侮りがたいものであって、私としてはこれをただちに倫理的でないと断じるのには躊躇を覚えるのである。

『文づかひ』の文章は引用からもわかるように言文一致体(口語体)ではなくて擬古的な文語体、いわゆる雅文体であるが、論理的骨格の強靭さ、描写の造形的な確かさ、心理分析の綿密さ等々において、明治の日本が新たに知ったヨーロッパの文学からの影響の痕跡は歴然たるものがあり、絢爛豪華な浪漫的文飾は―その最たるものが、ザクセン宮廷における舞踏会の名高い場面であろう―むしろ十数年後の自然主義の勃興(島崎藤村の『破戒』は明治39年、田山花袋の『蒲団』は同40年の発表である)をもあらかじめ相対化してしまいかねないほどに先駆的な、即物的に乾いた観察眼を覆い隠している。後藤明生は夏目漱石が自然主義文学を横目でにらみつつ考えていた「写生文」について、第一に深刻ぶった人生論とは絶縁していること、第二に対象物に対して余裕のある態度で接すること、第三に滑稽の分子があること、第四に筋書よりも文体が優位にあること、という四つの特徴を列挙しているが、「滑稽の分子」という第三の点を除けば、実はこれらは『文づかひ』の雅文体にもすでに見出せる要素なのではなかろうか(注5)。
いや、もちろん、雅文体はいついかなるときも美しいのに対して写生文はそうではなく、そもそも森鷗外の作品において「美」が占めるべき地位は、夏目漱石や後藤明生の小説の場合とは比べ物にならぬほど高かったとか、後藤にとってはおそらく最も重要だったはずの「滑稽の分子」、つまり笑いへの通路が欠けている以上はいくら他の三つの特徴が揃っていても写生文として完全でありえないとかの異論はすぐに思いつく。とはいえ、『文づかひ』の雅文体は、姉妹に交じるイイダ姫についてはっきり「外の姫たちに立ちこえて美しとおもふところもなく」と断定したり(注6)、年配の女官たちの華やぎを失った外見に残酷なほど無遠慮な視線を注いだりと―「ザックセン王宮の女官はみにくしといふ世の噂(うわさ)むなしからず、いづれも顔立(かおだち)よからぬに、人の世の春さへはや過ぎたるが多く、なかにはおい皺(しわ)みて肋(あばら)一つ一つに数ふべき胸を、式なればえも隠さで出(いだ)したるなどを」(注7)―、むしろことさら「美しくない」対象を選んだ上でそれをいかに美しく装うかという、錬金術的な問題に腐心している観もある。おそらくは士大夫たらんとする自意識の鋭敏さが、鷗外をして、幻滅すること、突き放すことを、写生文に先駆けて書くことの方法論として発見せしめたのではあるまいか。たしかにイイダ姫の美は外見ではなくてその「心」(内面)の奥深さに存するということになっているが、あくまでもそれは、「茂れる林もあるべく、深き淵(ふち)もあるべしとおもはるるこの少女が心」という凝った修辞によって、すなわち言語的な装置によって初めて確立をみることのできる美なのである。少なくとも我々読者にとってはそうであるほかない(注8)。イイダ姫を慕う羊飼いの少年の容姿の「欠唇(いぐち)にていと醜(みにく)かりければ」(注9)という描写といい、士大夫としての鷗外が婦女子や無教養な人間のことを結局自分と同等とは思っていなかったことの証拠として読めそうな箇所は他にもあるが、ではこうした態度は、漱石が唱え、後藤が踏襲する「大人が小児を視る如き立場」(注10)と同じなのかどうか、違うとすればその違いは鴎外文学における「笑い」の不在、あるいは不足という問題とどういう関係にあるのか。
鷗外は、はたして自分が他人から笑われるという状況を想像することのできる人だったのだろうか。この点私には確信がない。ただ、知的な―知的すぎる―ニヒリストである彼が、意図してかどうかはいざ知らず、美の仮象を隠れ蓑にした、幻滅すること、突き放すことという運動の全般化を通じて、自己の空虚さ(自己において愛する能力は欠落しうる、そしてそれゆえ無尽蔵とも生得的とも限らないという問題)を認識することになったのは、自然主義はおろか漱石と比較した場合にもやはり特筆に値する、否定しがたい功績だと思うのである。


(1)森鷗外『文づかひ』、『舞姫・うたかたの記 他三篇』(岩波文庫、2004年第42刷)91-94頁。
(2)同書75-81頁。
(3)中井久夫『分裂病と人類』(東京大学出版会、2000年第12刷)80-87頁。
(4)北村透谷が論文「厭世詩家と女性」で「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり、恋愛ありて後(のち)人世あり、恋愛を抽(ぬ)き去りたらむには人生何の色味かあらむ」と宣言して大きな反響を呼ぶのは、翌明治25年のことである。
(5)後藤明生「講義録より―夏目漱石『写生文』」、『日本近代文学との戦い―後藤明生遺稿集』(柳原出版、2004年)所収。
(6)森鴎外『文づかひ』、『舞姫・うたかたの記 他三篇』(前掲書)76頁。
(7)同書89頁。
(8)同書84頁。
(9)同書79頁。
(10)後藤明生「講義録より―夏目漱石『写生文』」、『日本近代文学との戦い―後藤明生遺稿集』(前掲書)170頁。
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