Admin New entry Up load All archives

つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

category: スポンサー広告

CM: -- TB: --   

プルースト『囚われの女』 

『失われた時を求めて』の第五篇である『囚われの女』の後半部は、集英社文庫版(鈴木道彦訳、全13巻)では第10巻に相当する。その内容は、ヴェルデュラン夫妻のパリの館での夜会を舞台に、シャルリュス男爵が夫妻をさしおいて我が物顔で取り仕切る故ヴァントゥイユの七重奏曲の演奏と、これをきっかけとする「私」(話者)の藝術論の深化に続き、締めくくりとして、男爵がヴェルデュラン夫人の陰謀によって寵愛するモレル(ヴァイオリニスト)との仲を引き裂かれるという悲劇的事件が前半で描かれるのに対し、後半を占めるのは一転して「私」とその恋人であるアルベルチーヌとの同棲生活の模様であり、いまや好きなだけ贅沢ができても不自由なことでは囚人同然の暮らしに不満を募らせる中で、不実にして淫蕩な同性愛者という本性を隠しきれなくなってきた彼女と話者の間の軋轢が、とうとうアルベルチーヌの失踪という取り返しのつかない結末を迎えるまでのいきさつが追跡されている(この間、とある夕べに話者がアルベルチーヌに語る文学論は、プルースト自身の基本的な考えを述べたものとして興味深い)。

ただし、この記事は以下のごく短いくだりのための覚え書にすぎない。

Nous causâmes. Tout d'un coup nous entendîmes la cadence régulière d'un appel plaintif. C'étaient les pigeons qui commençaient à roucouler. « Cela prouve qu'il fait déjà jour », dit Albertine; et le sourcil presque froncé, comme si elle manquait en vivant chez moi les plaisirs de la belle saison: « Le printemps est commencé pour que les pigeons soient revenus. » La ressemblance entre leur roucoulement et le chant du coq était aussi profonde et aussi obscure que, dans le septuor de Vinteuil, la ressemblance entre le thème de l'adagio qui est bâti sur le même thème-clef que le premier et le dernier morceau, mais tellement transformé par les différences de tonalité, de mesure, etc. que le public profane, s'il ouvre un ouvrage sur Vinteuil, est étonné de voir qu'ils sont bâtis tous trois sur les quatre mêmes notes, quatre notes qu'il peut d'ailleurs jouer d'un doigt au piano sans retrouver aucun des trois morceaux. Tel, ce mélancolique morceau exécuté par les pigeons était une sorte de chant du coq en mineur, qui ne s'élevait pas vers le ciel, ne montait pas verticalement, mais, régulier comme le braiment d'un âne, enveloppé de douceur, allait d'un pigeon à l'autre sur une même ligne horizontale, et jamais ne se redressait, ne changeait sa plainte latérale en ce joyeux appel qu'avaient poussé tant de fois l'allegro de l'introduction et le finale. Je sais que je prononçai alors le mot « mort » comme si Albertine allait mourir. Il semble que les événements soient plus vastes que le moment où ils ont lieu et ne peuvent y tenir tout entiers. Certes, ils débordent sur l'avenir par la mémoire que nous en gardons, mais ils demandent une place aussi au temps qui les précède. Certes, on dira que nous ne les voyons pas alors tels qu'ils seront, mais dans le souvenir ne sont-ils pas aussi modifiés? (注1)

私の手で日本語に訳すと、こうなった。

私たちはおしゃべりしていた。突然私たちは一つの嘆くような呼び声の規則正しい調子を耳にした。鳩たちがくうくうと鳴き始めていたのだった。「してみるともう夜明けなのね」、とアルベルチーヌは言った。そしてほとんど眉をひそめんばかりにした、あたかも私のもとで暮らしていてはうるわしい季節の諸々の快楽を取り逃がしてしまうかのように。「鳩たちが戻って来たからには春が始まっているということよ」。鳩たちの鳴き声と鶏鳴との間の類似の深くてしかも不分明なことはちょうど、ヴァントゥイユの七重奏曲における、アダージョの主題と〔前後の残り二つの楽章の主題〕との間の類似と同じくらいだったのでありそれは最初と最後の曲(モルソー)と同じ鍵となる主題にもとづいて築かれたものではあるが、しかし調性や拍子等々の諸差異によってはなはだしく変形されているために素人の公衆は、ヴァントゥイユについての著作をひもとくと、それらが三つとも四つの同じ音符にもとづいて築かれているのを見て驚かされるのであり、しかもその四つの音符というのはピアノ上で一本の指で弾くことはできても三つの曲(モルソー)のどれ一つとして見出せはしないのだ。そのように、鳩たちによって演奏されるこの憂鬱な曲(モルソー)は一種の短調の鶏鳴だったのであり、これは空の方へと高まってはいなかった、垂直に登ってはいなかった、そうではなくて、驢馬の鳴き声のごとくに規則正しく、甘美さで包蔵され、一羽の鳩から別の鳩へと一本の同じ水平的な線の上を進行していた、そして決して身を起こすことはないのだった、その横ざまの嘆きをあれほど何度も導入部のアレグロとフィナーレが発していたかの喜ばしい呼び声へと変えることはないのだった。私はあたかもアルベルチーヌが近々死のうとしているかのように自分がそのとき「死」という語を発音したことを知っている。どうやら諸々の出来事というものはそれらが起きる瞬間よりも広大であるらしくてそこにすっかり収まりきるというわけにはいかないのである。たしかに、それらは我々が保存するそれらの記憶によって未来へとはみ出している、しかしそれらはまたそれらに先立つ時間にも一つの席を要求するのだ。たしかに、我々はそれらがやがて存在するとおりのありさまでそれらを見るわけではないと言われよう、しかし回想の中でもそれらはやはり変更されるのではないか。(注2)

そもそも冒頭からして「突然私たちは…」などといささか強引に始まる点は否めない上に、推敲が不完全なまま作者が没したという事情を反映してか文法的に怪しい箇所もあり―« la ressemblance entre le thème de l'adagio »云々というところがそれで、このままでは「アダージョの主題」と何との間に類似が存するのかが不明なので、やむなく亀甲括弧に頼り、「アダージョの主題と〔前後の残り二つの楽章の主題〕との間の類似」という風に補って訳した―、最後は一見脈絡なくアルベルチーヌの死の予感が割り込んでくるという具合で、ここだけ読めばあるいは散漫に思えるかもしれない。それどころか、原著巻末の「注記と異文〔Notes et variantes〕」を参照すると、ほかならぬプルースト自身がこのくだりに次のような但し書きをつけているそうである。曰く、「これはたぶん別の春の回帰の折、もっと以前、肉付けを要していそうなところにあったほうがよい。ここだとこれはたぶん無用である〔Ceci peut-être mieux à un autre retour du printemps, antérieurement, là où il y aura à étoffer. Ici c'est peut-être inutile〕」(注3)とのことで、作者にこのような判断を下されてしまうと、私としてもあまりこのくだりに執着するのは気が引ける。
けれども、他方でこの但し書きは当のくだりの内容の出来不出来に関しては何も述べていないし、実はこの但し書きもまた抹消の憂き目にあっているという事情からすると、どうやらプルースト自身にもこれをどこに排列するかという件に関しては迷いが残っていたらしい。であるなら、とりあえず校訂者の見識を信用し、刊本として世に出た版の一頁として、このくだりをも他の(無数の)頁と同等に尊重することはあながち過分な扱いではあるまい。というより、直筆の草稿を参照する機会もない一読者にすぎぬ私としては、結局そうする(つまり、校訂者を信用する)より他に選択肢がないのである。

さて、プルーストが、あるいは話者が認め、また認めさせようとしているような、ヴァントゥイユの作曲した七重奏曲と明け方の鳩の鳴き声との並行性とは一体いかなるものか。いや、読めば誰でもわかるとおり、並行性がこの二者の間に存するなどと考えては不正確に陥る。実際に比較されているのは、あくまで「鳩たちの鳴き声と鶏鳴との間の類似」と「ヴァントゥイユの七重奏曲における、アダージョの主題と〔前後の残り二つの楽章の主題〕との間の類似」、つまりは二つの項ではなくて二とおりの類似という関係であり(レヴィ‐ストロースなら「変換規則の束」とでも呼びそうである)、しかもどちらの類似も一目瞭然とはいかず、むしろ反対に「深くてしかも不分明〔profonde et aussi obscure〕」という点こそが両者の共通性であるとはっきり書いてあるからだ。
換言すれば、これはもはや常識的な意味では類似などというものではない。少なくとも素人の聴衆にとっては、七重奏曲―あいにく構成は明記されていないが、「三つの曲(モルソー)」という表現から、中間を緩徐楽章が占める三楽章形式であると推定できる―のアダージョの主題と両端楽章の主題との間には、ヴァントゥイユの研究書にあたらないかぎり到底見抜けないような極小の類似しかなく、ということはとりもなおさず、極大の差異が働いているに等しいわけである。だから、二つの関係の間に存する真の共通性とは、結局どちらの関係においても、一方の項と他方の項とが「似ても似つかない」ということなのだ。それでも話者が両者(鳩の鳴き声と鶏鳴との関係、ならびに七重奏曲のアダージョの主題と両端楽章の主題との関係)をともに「類似」と定義すること、ひいては鳩の鳴き声を「一種の短調の鶏鳴」として把握することが可能なのは、ひとえにヴァントゥイユの作曲の場合は、似ても似つかない三つの楽章が、いずれも根底に存する「四つの音符」に由来しているからである。この間の機微は、あるいは我々をドゥルーズの美学(そして哲学)の核心とも呼ぶべき、差異と反復の弁証法に導いてくれるものではなかろうか。現に、『プルーストと記号』の第一部第4章にはこんなことが書いてあるのだ。

 本質というものはただ単に特殊的で、個体的〔individuelle〕であるにすぎないのではなく、かえって個別化するもの〔individualisante〕である。本質はそれが具体化する場にあたる諸物質を、同じくまたそれが様式(スティル)の何重もの環の中に閉じ込めている諸対象をもそれ自体が個別化しまた規定する。ちょうどヴァントゥイユの赤みを帯びた七重奏曲や白色のソナタ、あるいはワーグナーの作品における美しい多様性がそうだ 。つまり本質とはそれ自体で差異なのである。しかしそれは多様化を生ぜしめ、かつ自らを多様化するような能力(プヴォワール)をば、自己と同一的に、自らを反復する力能(ピュイサンス)をも持つことなくして、持ちはしない。終極的な差異である、本質というものに関しては、なにしろそれは入れ替え可能ではなくて何ものもそれと置き換えられるわけにいかない以上、それを反復すること以外に人は何をなしうるはずがあろうか。それゆえ一曲の偉大な音楽は再演されることしかできないし、一篇の詩は、暗記され〔心によって学ばれ〕そして暗唱されるほかない。差異と反復は外見上でしか対立していない。その作品が我々に「同じだけれどしかも別だ」と言わせないような大藝術家などいはしないのだ。
 つまり差異は、ある世界の性質として、変化に富んだ数々の環境を踏破し、そして数々の多様な対象を結び合わせるような一種の自己反復を通じてしか確立される〔肯定される〕ことがないのである。反復はある起源的差異の諸々の度合を構成するが、しかしまた多様性は劣らず基本的なある反復の諸々の水準を構成する。一人の大藝術家の作品に関して、我々は言う。これは水準の差異を除けば、同じものであると―しかしまたこうも言う。これは度合の類似を除けば、別なものであると。真実には、差異と反復は分離不可能にして相関的な、本質の二つの力能(ピュイサンス)なのだ。ある藝術家は自らを反復するがゆえに老けこむのではない。というのも差異が、反復の能力(プヴォワール)であるのに劣らず、反復とは差異の力能(ピュイサンス)であるからだ。ある藝術家は、「脳の衰弱によって」、彼が自らの作品中でやむにやまれず表現してきたもの、彼が自らの作品によって判別しかつ反復してこなくてはならなかったものを、まるで既製品同然に、生の中に直接的に見つけることのほうをより簡単だと判断するときに老けこむ 。老けこみつつある藝術家は生に、「生の美しさ」に信頼を寄せる。しかし彼はもはや藝術を構成するものの代用品、外的である以上機械的と化している反復だとか、物質の中に再び陥ってしまってもはやそれを軽やかで精神的なものに変えるすべを知らぬ凝固した差異だとかしか持たない。生は藝術の二つの力能(ピュイサンス)を持っていない。生は両者を受容はしてももっぱらそれらを降格させるのみであるし、最も低い水準、最も弱い度合でしか本質を再生産してはくれない。(注4)

この一連の文章は、自然的な生に対する藝術の優位性という観点からも貴重なものである。実際、プルーストが執拗な半過去形の否定文に訴えつつ―「これは空の方へと高まってはいなかった、垂直に登ってはいなかった、そうではなくて〔中略〕一羽の鳩から別の鳩へと一本の同じ水平的な線の上を進行していた、そして決して身を起こすことはないのだった、その横ざまの嘆きを〔中略〕かの喜ばしい呼び声へと変えることはないのだった」―鳩たちの間の「横ざまの〔latérale〕嘆き」の連鎖を形象化するかのような文の姿態そのものを介して証明しようとしているとおり、自然的な生というものは、藝術作品(七重奏曲の両端楽章)の歓喜に満ちた垂直性とは対照的な水平性によって、かつまたその嘆かわしい水平性ですらも結局は比喩という藝術的な経路を通じてしか表現されえない(「一種の短調の〔en mineur〕鶏鳴」)という厳然たる事実によって、二重の劣等性を刻印されざるをえない。それどころか、始まったばかりの七重奏曲に耳を傾ける話者は、ヴァントゥイユの別の作品(ピアノとヴァイオリンのためのソナタ)における「鳩のくうくうという鳴き声〔roucoulement de colombe〕」との対比から、いま自分が聴いているものはむしろ「神秘的な鶏鳴〔un mystique chant du coq〕」のようなものだという印象を受けていたのであり(注5)、だとすれば鳩の鳴き声と鶏鳴との比較は、これ自体が、表向きは自然界の中で終始しながらもおそらく最終的にはヴァントゥイユの作曲家としての功績に数え入れられなくてはならないのである。
こうして、「鳩たちの鳴き声と鶏鳴との間の類似」と「ヴァントゥイユの七重奏曲における、アダージョの主題と〔前後の残り二つの楽章の主題〕との間の類似」という、二とおりの(類似の)関係は、何はさておきどちらの関係においても、実は一方の項と他方の項とが「似ても似つかない」ものであるがゆえに並行的でありうること、かつこの並行性は、前者(「鳩たちの鳴き声と鶏鳴との間の類似」)つまり自然の側にではなくて、後者つまり藝術(「ヴァントゥイユの七重奏曲における、アダージョの主題と〔前後の残り二つの楽章の主題〕との間の類似」)の側に根ざしており、したがって発見の方途としての人工的な技術への依存という偏りを免れがたいこと(そしてこの生に対する藝術の優位性を、七重奏曲と、ピアノとヴァイオリンのためのソナタとの対比が補強してくれること)、この二つの論点を確認した以上、七重奏曲の三つの楽章の主題はいずれも「四つの音符」に由来するというプルーストの説明からは半ば離脱することになるのを覚悟で、我々としては、七重奏曲を構成する「三つの曲(モルソー)」と鳩たちの歌う「憂鬱な曲(モルソー)」とは、本来いかなる上位の有機的な全体性に所属する部分でもなく、そのわけはそもそもその種の全体性が与えられることは決してありえないからだ…という点を強調してもかまわないのかもしれない。再びドゥルーズを参照するなら、これこそギリシャ的な理性(ロゴス)の君臨する世界との断絶において、『失われた時を求めて』が真に時間を題材(ないし主役)とする作品たりえた要因なのである。

 反対に〈時間〉を、対象〔objet〕とする、あるいはむしろ題材〔sujet〕とする一つの作品がある。それはもはや貼りなおされることのできない断片の数々を、同じ嵌め絵(パズル)の中に入りはせず、一つの先行的な全体性に所属してはおらず、一つの一体性から流出することはたとえ失われた一体性からであってもない破片(モルソー)の数々を関わり相手とし、自らとともに引きずっている。たぶんこれこそがかのもの、時間なのだ。適応させられることを潔(いさぎよ)しとしない、同じ律動に即して展開することのない、そして文体の河が同じ速度で押し流すことのない寸法も形態も相異なる部分らの終極的な実存なのだ。宇宙(コスモス)の秩序は崩壊し、数々の連想の鎖と数々の交流しない観点との中で細分された。諸記号の言語活動は不幸と嘘との資源へと還元され、それ自体のために語り始める。それはもはや存続する〈理性(ロゴス)〉に依拠してはいない。ひとり芸術作品の形式的構造のみは自らが使用する断片的な材料を、外的な指示〔référence〕なしに、寓意的もしくは類比的な格子なしに解読できることだろう。(注6)

ここでは「破片」と訳した「モルソー(morceau)」は、『囚われの女』から引用したくだりの訳文に現われる、七重奏曲を構成する「三つの曲(モルソー)」、および鳩たちの歌う「憂鬱な曲(モルソー)」と同じ語である。そして、このような破片と破片の間の関係は、友愛というよりも闘争に似ているのである。

 おそらくこのことこそが還元不可能な数々の繰り広げの律動や数々の折り解きの速度に即した、『失われた時を求めて』における調律されざる部分らのこの異常な押し流しを説明してくれるものである。ただ単にそれらが一緒になって一つの全体を組み立てることがないばかりでなく、それらはおのおのが〔もしあれば〕そこからそれが引き抜かれるはずのある全体、ある別な部分の全体からは異なる全体に関して、諸宇宙間の一種の対話において証言するようなことがないのだ。しかしそれらが世界の中に投影され、それらの照応することなき縁(ふち)にはおかまいなく一方らが他方らの中へと乱暴に挿入される際の力は、それらが双方とも部分として認知はされるが、それでいて一つの全体を組み立てることはたとえ隠された全体をであってもなく、数々の全体性から流出することはたとえ失われた全体性からであってもないというようにする。倦まずたゆまず数々の破片を諸破片の中に置き続けた結果、プルーストは我々にそれらを全員、ただしそこからそれらが派生してくるはずの、またはそれ自体がそれらから派生してくるはずの当のある一体性への参照〔référence〕は抜きで思考させる手段を見つける。(注7)

たしかに、破片と破片の間には、機械の働きという表現が何ら類比でなくなるような正真正銘の「共鳴」が成り立つこともあり、そこにはそれなりの生産的な成果が伴っているのではあるが、ただし、すでに破片同士の齟齬という時間の定義が予想させていたように、その成果はかつて見られたことのある対象の忠実な再現からはおよそ程遠いものであるほかはない。

共鳴の秩序はそれが活用する抽出のまたは解釈の諸能力(ファキュルテ)〔facultés〕によって、また生産の様態でもあるそれの産物の性質によって判別される。もはや集団のもしくは系列の、ある一般的な法則ではなく、ある単独的な〔特異的な(singulière)〕本質、想起に関する諸記号の事例においては局所的なもしくは局所化する本質、芸術に属する諸記号の事例においては個体化する本質だ。共鳴は諸部分対象によってそれに供給されそうな数々の破片に立脚してはいない。それはよそからそれのもとにやって来そうな数々の破片を全体化することはない。それはそれ自体がそれ自身の諸破片を抽出する、そしてそれらをそれらの固有な合目的性〔finalité〕にしたがって共鳴させるが、しかしそれらを全体化するのではない、なにしろつねにある「格闘」が、ある「闘争」ないしある「戦闘」が問題であるからだ。そして共鳴の過程によって、共鳴用の機械の中で生産されるもの、それは単独的な〔特異的な(singulière)〕本質、共鳴する二つの瞬間よりも上等な〈観点〉であり、一方〔の瞬間〕から他方〔の瞬間〕へと赴く連想の鎖とは絶縁しているのだ。その本質における、かつて生きられはしなかったようなコンブレー。いまでかつて見られたためしがないような、〈観点〉としてのコンブレーである。(注8)

この共鳴の秩序と、プルーストが劣らず関心を払う「死の観念〔l'idée de la mort〕」との間に認めうる、一見したところ解決しがたい矛盾は、この観念そのものを、過去から現在への運動の対にほかならない逆方向の運動、すなわち現在から過去への運動の産物として把握することで藝術作品の形式的な構造の中に位置づけるとともに、時間の可視化という特有の役割を持たせることで雲散霧消するという。なんとなれば、そもそも死の観念は「ある一定の〈時間〉の効果から成り立つ」からである。

一人の同じ人物の二つの状態が与えられ、一方は回想される古い状態、他方は現働的な状態であるとすると、一方から他方へかけての老化の印象は古いほうを「はるか遠いという以上に、ほとんど本当らしからぬある過去の中に」、あたかも地質学上の数々の紀(ペリオド)が流れ去らなくてはならなかったかのように後退させる効果がある。というのも「流れ去った時間の鑑定においては、厄介なのは最初の一歩だけだからだ。人はまずはこれほど多くの時間が過ぎ去ったということを、そして次にはそれ以上多くの時間は過ぎ去らなかったということを思い描くのに多大な苦労を経験する。人は十三世紀がかくも遠いということを決して思い浮かべてはこなかった、そしてその後はなおも十三世紀の教会が存続しえているということを信じるのに苦労を覚えている」。それだからある過去から現在へという、時間の運動は、逆方向への、あるより振幅の大きな強いられた運動〔un mouvement forcé d'amplitude plus grande〕で二重化を遂げるのであって、それは二つの瞬間を一掃し、両者の隔たりを際立たせ、そして過去をいっそう遠く時間の中へと押し戻す。時間の中で一つの「地平」を構成するのはこの第二の運動である。それを共鳴のこだまと混同してはならない。それは時間を無限に膨張させるが、対して共鳴は時間を最大限に縮約するのだ。死の観念というものはこうなれば一つの切断であるというよりもある混淆もしくは混同の効果である、なにしろ強いられた運動の振幅は死者らによってと同じく生者らによっても占められており、皆が死につつある者らで、皆が半ば死んでいるか墓場へと走りつつあるからだ。しかしこの半分の死〔cette mi-mort〕とはまた、度外れな振幅のただなかで、人間たちを怪物じみた存在者として描写することができる以上巨人らの背丈なのでもあって、連中は「彼らに対して空間の中に取っておかれるじつに制限された席よりも別して広々とした一つの席を〈時間〉の中で占める、それは反対に度を越して延長された席なのだ、なにしろ彼らは同時的に、巨人らのごとく、諸々の歳月の中に浸(つ)かり、彼らによって生きられた、かくも離れたあまたの時代に触れるからである―それらの時代の間にはこれほど多くの日々が配置されにやって来た―時間の中で」。こうなると、ほかならぬそのことによって、我々は反論ないし矛盾を解決する寸前にある。死の観念はそれをある生産の秩序に結びつけなおすこと、ゆえにそれに藝術作品の中で持ち前の席を与えるということが可能であるかぎり一つの「反論」であることをやめる。振幅の大きな強いられた運動は後退の効果もしくは死の観念を生産する一つの機械である。そして、この効果の中で、可感的になるのは時間それ自体である。(注9)

おそらく、本来ならば生命の復活の季節であるはずの春の到来を、それも黄昏時ならばまだしもよりによって新たな一日の始まりを告げる明け方に悟りつつ、なぜか早くもアルベルチーヌの死を予感してしまう『囚われの女』の話者の脳裏に思い浮かんだ、出来事の範囲はそれが実際に起きる(と、我々から認められる)瞬間だけに収まりきるものではなく、本当はその瞬間以後にも、いやそれどころかその瞬間以前にも際限なく延長していくことが可能であるという直観―「どうやら諸々の出来事というものはそれらが起きる瞬間よりも広大であるらしくてそこにすっかり収まりきるというわけにはいかないのである。たしかに、それらは我々が保存するそれらの記憶によって未来へとはみ出している、しかしそれらはまたそれらに先立つ時間にも一つの席を要求するのだ。たしかに、我々はそれらがやがて存在するとおりのありさまでそれらを見るわけではないと言われよう、しかし回想の中でもそれらはやはり変更されるのではないか」―は、このような観点から読み直すことができるはずである。というよりも、「私はあたかもアルベルチーヌが近々死のうとしているかのように自分がそのとき『死』という語を発音したことを知っている」という一文から察するに、ほかならぬ当の予感こそが、その憂愁をたたえた不吉な表情の奥から、いつか話者もしくは読者によって、「逆方向への」、つまり現在から過去への「あるより振幅の大きな強いられた運動」の行先として然るべく読み直されることを待ち望んでいたのではないか。
もちろん、ストア派と同じくドゥルーズにとっても、そもそも出来事(événement)とは物体の表面で繰り広げられる非物体的な効果にほかならず、その時間は限界づけられた現在(クロノス)としてではなく、過去と未来への無際限な引き裂き(アイオーン)として理解されなくてはならないという事情も無視できないし(「西尾維新『零崎人識の人間関係 戯言遣いとの関係』」)、そう考えてくればプルーストの時間論とドゥルーズの出来事論との親和性をいっそう基本的な層で概念化することもできそうだが、短い断章に対してあまりくだくだしく注釈を連ねるのもなにやら無粋な気がするので、そのあたりは他日を期して検討することにしたい。擱筆に先立ってとりあえず忘れないうちに書き留めておきたいのは、第一に「魂の不死性の可能な唯一の証拠」を提供してくれなくてはならない、非物質的な本質による物質の「脱物質化」の事例としての藝術(注10)と、「私や私の身体と極限的ないし確定的な関係にあるもの、私の内で設立されるものであり、同時に、私と無関係なもの、非身体的で不定で非人称的なもの、それだけで設立されるもの」である死(注11)という、両極端と呼んでよい二とおりの受肉の仕方が両方とも姿を見せる点で、このくだりが出来事の非物体的・非物質的な地位をこれ以上なく簡潔に裏書きしてくれること、そして第二に、それゆえ作者の逡巡はいざ知らず、『囚われの女』の刊本のどこかに今後とも残されてよいだけの哲学的な価値を、私としてはどうしてもここに認めざるをえないこと、この二つである。


(1)Marcel Proust, À la recherche du temps perdu, texte établi par Pierre Clarac et André Ferré, Paris, Gallimard, « Bibliothèque de la Pléiade », 1954, III, p.401.
(2)なお集英社文庫版で該当する箇所は、『失われた時を求めて 10 第五篇 囚われの女』(鈴木道彦訳、2007年)377-378頁にある。
(3)Marcel Proust, À la recherche du temps perdu, III, op. cit., p.1092.
(4)Gilles Deleuze, Proust et les signes, Paris, P.U.F., 2007, p.62-64: « L'essence n'est pas seulement particulière, individuelle, mais individualisante. Elle-même individualise et détermine les matières où elle s'incarne, comme les objets qu'elle enferme dans les anneaux du style: ainsi le rougeoyant septuor et la blanche sonate de Vinteuil, ou bien la belle diversité dans l'œuvre de Wagner. C'est que l'essence est en elle-même différence. Mais elle n'a pas le pouvoir de diversifier, et de se diversifier, sans avoir aussi la puissance de se répéter, identique à soi. Que pourrait-on faire de l'essence, qui est différence ultime, sauf la répéter, puisqu'elle n'est pas remplaçable et que rien ne peut lui être substitué? C'est pourquoi une grande musique ne peut être que rejouée, un poème, appris par cœur et récité. La différence et la répétition ne s'opposent qu'en apparence. Il n'y a pas de grand artiste dont l'œuvre ne nous fasse dire: "La même et pourtant autre"./C'est que la différence, comme qualité d'un monde, ne s'affirme qu'à travers une sorte d'auto-répétition qui parcourt des milieux variés, et réunit des objets divers; la répétition constitue les degrés d'une différence originelle, mais aussi bien la diversité constitue les niveaux d'une répétition non moins fondamentale. De l'œuvre d'un grand artiste, nous disons: c'est la même chose, à la différence de niveau près ― mais aussi: c'est autre chose, à la ressemblance de degré près. En vérité, différence et répétition sont les deux puissances de l'essence, inséparables et corrélatives. Un artiste ne vieillit pas parce qu'il se répète; car la répétition est puissance de la différence, non moins que la différence, pouvoir de la répétition. Un artiste vieillit quand, "par l'usure de son cerveau," il juge plus simple de trouver directement dans la vie, comme tout fait, ce qu'il devait distinguer et répéter par son œuvre. L'artiste vieillissant fait confiance à la vie, à la "beauté de la vie"; mais il n'a plus que des succédanés de ce qui constitue l'art, répétitions devenues mécaniques puisqu'elles sont extérieures, différences figées qui retombent dans une matière qu'elles ne savent plus rendre légère et spirituelle. La vie n'a pas les deux puissances de l'art; elle les reçoit seulement en les dégradant, et ne reproduit l'essence qu'au niveau le plus bas, au degré le plus faible ».
(5)Marcel Proust, À la recherche du temps perdu, III, op. cit., p.250.
(6)Gilles Deleuze, Proust et les signes, op. cit., p.136-137: « Au contraire une œuvre qui a pour objet, ou plutôt pour sujet, le Temps. Elle concerne, elle traîne avec elle des fragments qui ne peuvent plus se recoller, des morceaux qui n'entrent pas dans le même pazzle, qui n'appartiennent pas à une totalité préalable, qui n'émanent pas d'une unité même perdue. Peut-être est-ce cela, le temps: l'existence ultime de parties de tailles et de formes différentes qui ne se laissent pas adapter, qui ne se développent pas au même rythme, et que le fleuve du style n'entraîne pas à la même vitesse. L'ordre du cosmos s'est effondré, émietté dans des chaînes associatives et des points de vue non communicants. Le langage des signes se met à parler pour lui-même, réduit aux ressources du malheur et du mensonge; il ne s'appuie plus sur un Logos subsistant: seule la structure formelle de l'œuvre d'art sera capable de déchiffrer le matériau fragmentaire qu'elle utilise, sans référence extérieure, sans grille allégorique ou analogique ».
(7)Ibid., p.148-149: « C'est sans doute cela qui rend compte de cet extraordinaire entraînement de parties inaccordées dans la Recherche, à des rythmes de déploiement ou des vitesses d'explication irréductibles: non seulement elles ne composent pas ensemble un tout, mais elles ne témoignent pas chacune d'un tout dont elle serait arrachée, différent du tout d'une autre, dans une sorte de dialogue entre les univers. Mais la force avec laquelle elles sont projetées dans le monde, insérées violemment les unes dans les autres malgré leurs bordures non correspondantes, fait qu'elles sont reconnues les unes et les autres comme parties, sans composer pourtant un tout même caché, sans émaner de totalités même perdues. A force de mettre des morceaux dans les morceaux, Proust trouve le moyen de nous les faire penser tous, mais sans référence à une unité dont ils dériverraient, ou qui en dériverait elle-même ».
(8)Ibid., p.182-183: « L'ordre de la résonance se distingue par les facultés d'extraction ou d'interprétation qu'il met en jeu, et par la qualité de son produit qui est aussi bien mode de production: non plus une loi générale, de groupe ou de série, mais une essence singulière, essence locale ou localisante dans le cas des signes de réminiscence, essence individuante dans le cas des signes de l'art. La résonance ne repose pas sur des morceaux qui lui seraient fournis par les objets partiels; elle ne totalise pas des morceaux qui lui viendraient d'ailleurs. Elle extrait elle-même ses propres morceaux, et les fait résonner suivant leur finalité propre, mais ne les totalise pas, puisqu'il s'agit toujours d'un "corps à corps," d'une "lutte" ou d'un "combat." Et ce qui est produit par le processus de résonance, dans la machine à résonner, c'est l'essence singulière, le Point de vue supérieur aux deux moments qui résonnent, en rupture avec la chaîne associative qui va de l'un à l'autre: Combray dans son essence, tel qu'il ne fut pas vécu; Combray comme Point de vue, tel qu'il ne fut jamais vu ».なお、コンブレーは『失われた時を求めて』の話者が幼少期を過ごした(架空の)田舎町で、そこの風物や人々は第一篇『スワン家の方へ』の前半部に詳しく描かれている。
(9)Ibid., p.190-192: « Deux états d'une même personne étant donnés, l'un ancien dont on se souvient, l'autre actuel, l'impression de vieillissement de l'un à l'autre a pour effet de reculer l'ancien "dans un passé plus que lointain, presque invraisemblable," comme si des périodes géologiques avaient dû s'écouler. Car "dans l'appréciation du temps écoulé, il n'y a que le premier pas qui coûte. On éprouve d'abord beaucoup de peine à se figurer que tant de temps ait passé, et ensuite qu'il n'en ait pas passé davantage. On n'avait jamais songé que le XIIIe siècle fût si loin, et après on a peine à croire qu'il puisse subsister encore des églises du XIIIe siècle." C'est ainsi que le mouvement du temps, d'un passé au présent, se double d'un mouvement forcé d'amplitude plus grande, en sens inverse, qui balaie les deux moments, en accuse l'écart, et repousse le passé plus loin dans le temps. C'est ce second mouvement qui constitue dans le temps un "horizon." Il ne faut pas le confondre avec l'écho de résonance; il dilate infiniment le temps, tandis que la résonance le contracte au maximum. L'idée de la mort dès lors est moins une coupure qu'un effet de mélange ou de confusion, puisque l'amplitude du mouvement forcé est occupé aussi bien par des vivants que par des morts, tous des mourants, tous à demi morts ou courant au tombeau. Mais cette mi-mort est aussi bien stature de géants puisque, au sein de l'amplitude démesurée, on peut décrire les hommes comme des êtres monstrueux, "occupant dans le Temps une place autrement considérable que celle si restreinte qui leur est réservée dans l'espace, une place au contraire prolongée sans mesure, puisqu'ils touchent simultanément, comme des géants, plongés dans les années, à des époques vécues par eux, si distantes ― entre lesquelles tant de jours sont venus se placer ― dans le temps." Voilà que, par là même, nous sommes tout près de résoudre l'objection ou la contradiction. L'idée de la mort cesse d'être une "objection" pour autant qu'on peut la rattacher à un ordre de production, dont lui donner sa place dans l'œuvre d'art. Le mouvement forcé de grande amplitude est une machine qui produit l'effet de recul ou l'idée de la mort. Et, dans cet effet, c'est le temps lui-même qui devient sensible[...]».なお引用符でくくられた文章は、どちらも第七篇『見出された時』が出典である。
(10)Ibid., p.56-57, 60-61, 64.
(11)ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 上』(小泉義之訳、河出文庫、2007年)264頁。
スポンサーサイト

category: プルースト

CM: 0 TB: 0   

日日日『アンダカの怪造学VII Pandora OnlyOne』 


『三、ニ、一、―スタート!』
 同時に生徒たちは腕(うで)を振りあげ、声を揃(そろ)えて唱和した。
『現界(カナイ)の扉(とびら)を打ち開けて!』
 遠く水平線まで、虚界(アンダカ)まで届く呪文(じゅもん)の声音が高らかに響(ひび)きわたった。

                     ✡ ✡ ✡

 怪造学という学問がある。
 かぎりなく遠い隣(とな)りの世界―虚界(アンダカ)。その虚界(アンダカ)に存在する怪造生物(モンスター)と呼ばれる生物を召喚(しょうかん)し、その生態を研究し考察し虚界(アンダカ)の全(すべ)てを知ろうとする学問である。
 怪造学に必要不可欠な虚界(アンダカ)からの怪造生物(モンスター)召喚技術を怪造といい、それには呪文と呪印と呼ばれる手続きが必要となる。呪文とは虚界(アンダカ)の地名などからなる定められた言葉を唱えることで、呪印とは手首に嵌(は)めた《門(GATE)》に直接的な刺激(しげき)を与(あた)えるための腕や指の動きだ。
 それらを正しく実行し、虚界(アンダカ)を明瞭(めいりょう)に想起(イメージ)し、怪造生物(モンスター)を怪造したいという気持ちを強くもつことで、怪造学者(モンスティスト)の指先はようやく異世界まで届く。
「現界(カナイ)の扉を打ち開けて、虚界(アンダカ)の闇(やみ)に歩を進め、死人漁(あさ)りの魔窟(まくつ)を越(こ)えて」
 ほかの生徒が唱える呪文や呪印の動きに惑(まど)わされず、伊依はあくまで己(おのれ)の脳裏(のうり)に精緻(せいち)なイメージを描(えが)きだす。怪造はほかの思考にかかずらったまま片手間にやれるものではない。全神経を緊張(きんちょう)させ、細心の注意を払(はら)って行わなければ命の危険すらある。
 憑(つ)かれたように呪文は自動的に唇(くちびる)から飛びだし、腕も指先も滑(なめ)らかな呪印を刻む。ここまで怪造を当たり前のようにできるようになるには、血の滲(にじ)むような努力が必要だった。けれど、それはふつうなのだ。周りの生徒たちも、みんな同じ。
 怪造の腕前(うでまえ)には、所詮(しょせん)はみんな怪造学者見習(モンスティスト・エッグ)だ、そんな大したちがいはない。
 ならばあとは戦略と戦術の勝負である。
「―見つけた」
 伊依のつぶやきに、何人かの生徒が呪文と呪印をつづけながら驚(おどろ)いたようにこちらを振りかえってきた。最後尾(さいこうび)あたりに位置した伊依はそちらに微笑(ほほえ)みかけ、ばちばちと激しい火花をまとった《門(GATE)》を胸の前でしゃんと擦(こす)りあわせる。
 ほかの生徒と比べて、格段に早い怪造。けれどそれはべつに伊依が特別に怪造が巧(うま)いということではなく―。
「《疾風鼠(タタタット)》、怪造!」
 瞬間(しゅんかん)、伊依の手首で光が螺旋(らせん)を描き、虚界(アンダカ)からひとつの怪造生物(モンスター)が怪造される。
 人間の頭部ほどの大きさをした、デフォルメされた鼠(ねずみ)みたいな外見の怪造生物(モンスター)である。全体的に丸い身体(からだ)に、鼠にしては長すぎる耳が生えている。背中からお尻(しり)にかけて細かい棘(とげ)が生えていて、長い長い尻尾(しっぽ)の先には可愛(かわい)らしいリボンがあしらわれている。
 ぱっちりお目々にやる気を充満(じゅうまん)させ、「ω」なお口を精悍(せいかん)に引きしめて、下級三位の怪造生物(モンスター)―《疾風鼠(タタタット)》はちょこまか生徒たちの足下(あしもと)をすりぬけて機敏(きびん)に走っていく。
 長期戦を覚悟(かくご)し、みんなはできるかぎりレベルの高い怪造生物(モンスター)を怪造しようとしたのだろう。ランク的に最下層に位置する下級三位の怪造生物(モンスター)を怪造したのは伊依だけだったらしい。最短の呪文と呪印を呆気(あっけ)なく終えて―かくして最初の怪造を実行したのは空井(すかいい)伊依となった。(注1)

のっけから引用、しかも同じ作品とはいえ記事の表題とは違う巻(第VI巻「飛べない蝶々の鳥かご迷路」)が出典ということでなんとも恐縮だが、下手に私の言葉で長々と設定を解説するよりも、単刀直入に作品そのものをして語らしめるほうがまだるっこしくなくてよいと判断した上での処置である。舞台は古頃(こころ)怪造高等学校がある夢追坂(ゆめおいざか)の町の砂浜で、いましも謎の新入生・志田桐涼女(しだぎり・すずめ)の提案により、生徒会長の座を賭けて怪造生物(モンスター)を使った障害物競走「魔王杯」が始まったところ、読んでおわかりのとおりいち早く首位に躍り出たのは主人公の空井伊依(すかいい・いより)である。
怪造学はまだまだ発展途上にあり、未開拓な部分の多い学問だ。世間的な評価はそれほど高くなく、むしろいかがわしいものと見る風潮が一般的である。正式な怪造学教授(レイ・モンスティア)も全世界にたった七人しかいない。やっかいなことに、現に怪造生物(モンスター)の中には人間にとって危険な種族もいれば、人間に対して明確な敵意を抱く個体もいるという事実が、そのような白眼視に拍車をかけている。また、そうでなくても現界(カナイ)に存在している間は、怪造生物(モンスター)は怪造した者の魔力=生命力を糧として食いつぶすので、用が済めばさっさと「怪消」して虚界(アンダカ)に帰してしまうのが普通であるという。しかし、怪造生物(モンスター)は便利な道具でもなければただ怖いだけの敵でもないと信じる伊依は、この常識に抗い、人間と怪造生物(モンスター)が仲良く共存できる社会を目指して、「怪造生物(モンスター)は友達」という自論を普及させようとしている。そんな彼女の理想が何度となく試練にさらされ、そのつど挫折しそうになりながらも、友人たちの、そしてほかならぬ怪造生物(モンスター)たちの助力を得ては辛くも危機を脱し、さらに懐の深い確固たる思想へと成長していく過程が、いわば『アンダカの怪造学』の筋書を貫く骨組に相当する。
ところで、虚界(アンダカ)から怪造生物(モンスター)を召喚する技術、すなわち「改造」ならぬ「怪造」とは、そもそも一体何なのか、あるいは何の寓意なのか。作中に現われる多種多様な怪造生物(モンスター)たちはいずれも人間とは違うという点において、創造されたものの普遍的な符丁たる目新しさを不可避的に帯びざるをえないが、他方で全くの虚無に由来するわけではなく、あくまでもともと住んでいた世界、すなわち虚界(アンダカ)から呼び寄せられたにすぎないという点において、ある厳然たる他者性をも同時に伴っており、このゆえに怪造した者自身にとってすら―少なくとも、まだまだ未熟で日々研鑽を積まなくてはならない伊依たち怪造学者見習(モンスティスト・エッグ)にとっては―完全には把握しきれない未知な要素を、換言すれば物語られるべき個々別々の経歴を秘めている。となれば、例えばベルクソンが、彼が「想話機能」と名づけた精神の一能力について述べていること―それは「小説家や劇作家にあっては、異様なほど生き生きとしている」・「我々が自分で自分自身にその経歴を物語って聞かせるいろんな人物を創造する能力」であるという(注2)―などを参考に、怪造学は虚構の創造という行為を暗示している、と考えてはなぜいけないのか。
いけない理由はもちろんない。それどころか、例えば第V巻でひとりの知的な怪造生物(モンスター)が述懐する、「現界(カナイ)のようにリアルじゃない」・「とても抽象(ちゅうしょう)的で曖昧な世界」(注3)という虚界(アンダカ)観に呼応するかのように、第IX巻では、「虚界(アンダカ)は私たちが本や映画のなかに幻視する曖昧(あいまい)な虚構(きょこう)のような」・「概念的な世界」(注4)であるとあからさまに断定する研究者すら出てくるのだ。ただ、それでも私としては、いましがた自分の手で書きつけた命題、すなわち怪造学は―ひいては『アンダカの怪造学』という小説は―、虚構の創造という行為を暗示している、という命題に、二つの観点から留保をつけたい、あるいはむしろ精密化を施したいと思う。奇妙なことに、両者は並立的ではなく、むしろ互いに逆の方向を目指している。
第一の異議は、上の命題の不十分さを衝く。というのも、偽の施設を作り出して来訪者の眼を欺くという策略が第IV巻(「笛吹き男の夢見る世界」)から第V巻(「嘘つき魔女の見つめる未来」)へ、また自分以外の生命を貪欲に捕食して同化する強大な怪造生物(モンスター)―《零時鏡(バロンヘロメロ)》や偽の魔王(悲哀大公)、そして双方と面識のある《肉体道楽》ことヴェクサシオン―との対決が第IV巻から第VI巻(「飛べない蝶々の鳥かご迷路」)へ、さらに暴力ではなくて話し合いによる解決という選択が第V巻から第VII巻(「Pandora OnlyOne」)へと引き継がれていることから明らかなように、以前私に「筋書の水準での隠喩、あるいは底抜けの寓意の連鎖とでも称すべきもの」と書かせたような構造、すなわち「ある状況が相似形だったもう一つの状況を連想させるような、というよりも前者があくまでも、それ自身の上に折り重なった後者の拡大版として呼び起されるような構造」(日日日『のばらセックス』7)は、日日日の他の小説と同様、『アンダカの怪造学』においても健在であるばかりか、ときにはこの第VII巻における戦橋舞弓(たたかはし・まいゆみ)のごとく、先行する世代の人々(自分の母親と、先輩の祖父)の間で見られたのと同じ情景を目下自分たちが再演していることに気づいて、文字どおり「かつての出来事の再現」という感傷的な意識が芽生える者すらいるほどなのだ(注5)。この、確固たる始点と終点とを具えた直線的な進行の対極にあるような、それ自身の中心へと渦を描きながらとめどなく落下してゆくブラックホールか蟻地獄を思わせる趣向は、単に虚構の創造という行為への暗示程度にとどまるものではなく、むしろそれを超えてさらに生々しい自律性へと、例えばフーコーが、死を前にした言語の再出発が必然的に出くわすことになる「物語の物語という、ひょっとしたら果てしなく続くのかもしれない入れ子構造」とも、はたまた「際限ない鏡の戯れ」を思わせる「言語そのものによる言語の表象への本質的帰属性」、ないし「二重化による始原的折り返し」とも呼ぶものにもとづいて予感した、「文学の存在論」へと我々をいざなっているのではあるまいか(注6)。
これに対して第二の異議は、上の命題の過剰さ、もしくは偏りを是正しようとする。というのも、再び以前私が書いたことを引用するなら、一般論として虚構作品に登場する(作者の手で登場させられる)人物たちはともすれば身の丈を超える使命に引きずられがちなものであるからして、「一個の個人として『ただ生きている』ことをよしとしてもらえる状況が、逆説的にも虚構のキャラクターにとっては一種の贅沢たりうるのであり、近年の虚構作品はそのような状況の達成をわりと風潮として目指しているのではないか」(日日日『のばらセックス』6)、という疑問が成り立つこともまた不可避だからだ。事実、怪造学会の叡智を結集して封印してきた「魔王」が、総長である激流院潮静(げきりゅういん・うしおしずか)の不在につけこんでついに復活を遂げるや否や、虚界(アンダカ)を総べる四大公の一員、竜族の憤怒大公の軍勢を現界(カナイ)に侵攻させるという緊迫した状況にもかかわらず、第VII巻のそこかしこにどこか作り物めいた虚無的な雰囲気が漂っているのは偶然ではない。このそこはかとない虚無感は、どうやら主な登場人物が誰もかれも自分にあてがわれた役割のことをよく知っており、皮肉にもまさにそれゆえにこそ、当の役割に心底納得して無邪気に没入することができないという事情に起因するようだ。「あらかじめ何と喋るか決まっている舞台(ぶたい)の台本を読みあげるような」調子で、しかも「それを嫌(いや)がるふうに」語る憤怒大公の言い知れぬ倦怠感(注7)、「魔王であることに自覚的であるらしい」魔王のわざとらしい独り言(注8)、かりそめにまとっていたにすぎない人間の外見を振り捨てて本来の姿に戻ったにもかかわらず、「舞台(ぶたい)劇にて演技中ってかんじかな」などとうそぶく喜悦大公の軽口(注9)…いずれの例も、とりあえずはそう考えておいてさしつかえない。また、もともと虚界(アンダカ)の重鎮でもなんでもなく、一介の小学生にすぎないはずの御剣真子(みつるぎ・まこ)ですらもが、闇宮影文(やみみや・かげふみ)こと虚無大公との交流を通じて「“何者でもないわたし”」(注10)を発見して覚える解放感は、いわば裏側からこの間の事情を補強している。ここにおいて、虚構の創造という行為への暗示は、よしんば『アンダカの怪造学』に認めることができるにせよ、最終的な目的地というよりは一時的な経由地として位置づけたほうが良心的ではないかと思えてくるのだ。

いかにも、二つの観点は上述のとおり方向に関しては正反対である。しかし、この第VII巻「Pandora OnlyOne」に至って、叙述の渦がついに伊依その人に及んで彼女を巻き込む地点で、両者の合流を思考しなくてはならない瞬間が到来する(ただしそれは、必ずしも伊依本人の身に即してというわけではない)。順を追って整理しよう。表題にもなっている怪造学会の切り札《独唱第五番(パンドラ・オンリーワン)》とは、虚界(アンダカ)の支配者であるはずの魔王のそれをもしのぐ絶対的な命令権、すなわち「虚界(アンダカ)の全てのものに対する、強制的な支配権」(注11)を指しており、このような大それた権限が伊依に託された―そして、実際に彼女がそれを行使して憤怒大公の軍勢を撤退させることに成功した―のは、ひとえに寂憐院(じゃくれんいん)という彼女の血脈の特質ゆえである。その特質とは、その気になれば伊依が「魔姫(まき)さん」と呼ぶ虚界(アンダカ)の姫、すなわち怪造学会の面々の思惑どおり伊依に連れられて牢獄から脱出した彼女の祖先の力を借りて、魔王の側の俗に言う「惚れた弱み」につけいることのできる能力にほかならない。これ以上に詳しい背景の説明は、魔姫自身の語る身の上話に譲ろう。そのほうが効率的だからである。省略したくないのでまたしても少し長い引用になるが、虚界(アンダカ)の創世の秘密が開かされるこの数頁にはそれだけの価値がある。

『伊依ちゃん、あなたのお望みに適(かな)うかはわかりませんが……今回、こうして竜の軍隊が攻(せ)めてきて、戦争になってしまった、その理由をお教えします。あまり……面白(おもしろ)くもない、退屈(たいくつ)なお話ですが、それであなたの不安が少しでも消えるなら……』
 魔姫は遠い目をして、溜息(ためいき)をひとつ吐(は)きだした。
『昔―』
 何年前だか、明言はされなかったけれど―それは昔なのだろう、記憶(きおく)を辿(たど)り、思いだすのも億劫(おっくう)だというような、そんな気配が感じられた。
『ひとりの女がおりました』
 淡々(たんたん)と、感情を交えず。
 これまで秘(ひ)められてきた、ひとつの真実を。
『女は未来が見える……ということになっておりました』
 未来が見える?
 どきん、と痛いほど胸が高鳴った。
 どこかで、聞いた、話だ。
 伊依は魔姫を見あげる。思えば最初から、不思議な親近感があった。
 この女性は、まさか―。
『もちろん神様ではない、魔物(まもの)でもない、ただの人間に未来を見通すことなどできるわけがありません。未来など見えません。見えないのです! けれど、不確かのことの多いこの世の中で、未来に不安をもつ人間は決して少なくありませんでした』
 それは―伊依は聞かなくても知っている。
 ひとつの、虐(しいたげ)げられた一族の話だった。
『この国の偉(えら)いひとたちは』
 くすっ、と魔姫は笑った。
 歪(ゆが)んだ笑(え)みだった。哀(かな)しい、笑みにしては哀しすぎる表情だった。
ある程度まで未来を決めてしまうことを望みました』
 それは、ある一族に課された任務―お役目。
『その女は、今年一年の予定をあらかじめ詳細(しょうさい)に決めてゆきます。もちろん根拠(こんきょ)のない、予言と呼ぶのもおこがましい、適当です。けれど、それは現実になってしまう。未来は女の言ったとおりの方向に動かされてしまう。国の偉いひとたち―政治家や、大富豪(だいふごう)や、各界に影響(えいきょう)力のあるひとたちが、こっそり集まって、女の予言を聞いて、未来をそのとおりにするのです』
 くすくす笑っていた。何もかも諦(あきら)めた人間にだけできる虚(うつ)ろな表情だった。それはかつて伊依もよく浮かべていた笑みだ。この笑みを浮かべ、だんだん心が壊(こわ)れていくのを待つしかないのだ、その一族の人間は―。
 『未来がある程度まで予測できないと不安だと、ただそれだけの理由で為(な)される予言……けれど、現実はたしかにその予言に左右され、嘘(うそ)だったはずの言葉は時空を超(こ)えて真実になる。女は、未来が見える……ということに、されてしまいました』
 自分の言うとおりに世界が動く。少なくとも国家はそのとおりの未来をつくる。発言が、重い。一言一言が、誰(だれ)かの命を左右する。
 耐(た)えられない。壊れていく。
 伊依の母も堪(こら)えきれずに壊れて死んだ。
『女の名前は寂憐院(じゃくれんいん)』
 壊れた笑みで、魔姫が言った。
『わたしです』
「ご……先祖、様?」
 恐(おそ)る恐る伊依がつぶやくと、魔姫は寂(さび)しそうに首を傾(かし)げた。沈黙(ちんもく)が何よりの肯定(こうてい)となった。寂憐院。未来視の一族。嘘つきの一族! 未来なんか視(み)ることはできないのに、嘘をついて、偽(いつわ)りの予言を紡(つむ)ぎつづける罪深き一族。それはかつて伊依の魂(たましい)を縛(しば)りあげていた名前で、今も決して無縁(むえん)ではいられない―宿命の名前だった。
『ここまでが、前提』
 魔姫は虚ろに空を見あげた。雨は止(や)まない。
『その様子だと、伊依ちゃんも知っていた無駄話(むだばなし)のようですね……では、これはご存知でしょうか? 虚界(アンダカ)が創造された理由―』
 虚界(アンダカ)が。
 創造?
 虚界(アンダカ)。限りなく遠い隣(とな)りの世界。奇妙(きみょう)な生物たちが息づく、異世界。伊依が友達と呼んだ怪造生物(モンスター)たちの故郷。
『わたしはね、そう、ただ少し現実を忘れたかっただけなのです』
 弁解するのではない、ただ弱音を吐(は)きだすような、吐露(とろ)だった。
『自分の思うとおりに形成されていく気持ちの悪い現実を、自分の言葉どおりに失われていく無数の命を、自分のあやふやな予言に従い、そんなものに頼(たよ)らなくては進む方向も定められない弱い―弱い人間たちを……忘れたかった、一瞬(いっしゅん)でも、それだけが―望みだったのに、あぁ』
 そして、ぽつりと誰かのことを呼ぶ。
あのひとは―』
 それは、誰のことだろう?
『ほんとうに、異世界を……わたしの思うとおりにならない、もうひとつの世界を……創造してしまった。方法は、わかりません。わたしの理解が、及(およ)びません。けれど彼は……あのひとは、ほんとうに異世界を創(つく)りあげてしまった―そして、そのわたしのために用意されたちっぽけな世界に、名前をつけたのです………虚界(アンダカ)と』
 虚界(アンダカ)が。
 ひとりの女のために創造された世界?
 未来視の女―寂憐院の始祖、予言の宿命を背負わされた悲運の人物。そんな彼女を救うために、誰かが虚界(アンダカ)を創造した? 彼女の嘘の予言が効力をもたない、もうひとつの世界を創って―彼女の心を慰め、救(すく)おうとした誰かがいた?(注12)

以上のくだりは、これに先立つ巻のどの頁よりも思弁的な含蓄の点でまさっており、まぎれもなく『アンダカの怪造学』という作品の核心を解き明かしてくれる鍵である。ただし、ここで魔姫が「あのひと」と呼んでいる虚界(アンダカ)の創造者とはどうやら怪造学会総長の激流院潮静その人であるらしいこと、かつて彼は彼女に現世のしがらみを捨て、虚界(アンダカ)へ逃れて二人きりで暮らそうと提案したものの、ほかならぬ魔姫が「役目を捨てて、何でもないわたしになるのが、とても怖くて」(注13)躊躇したせいでこの逃避行は予定が狂ってしまったこと、さらに潮静は失踪後のことを考えてあらかじめ自分たち二人の「複製」を用意しており、あいにく現在の魔姫には、長らく虚界(アンダカ)で囚われの身であった彼女自身と、伊依の代に至るまで現界(カナイ)で続いてきた寂憐院の血統の始祖とのどちらが本物でどちらが複製なのかも、また先ごろ復活した魔王―その風貌は長らく総長の近くに仕えてきた副総長・久渡貴乃子(くど・きのこ)の目から見ても、彼と「瓜二(うりふた)つ」で「相似(そうじ)ではなく完璧(かんぺき)に合同」(注14)である―と、怪造学会の面々を率いてそれに立ち向かう総長・潮静とのどちらが本物でどちらが複製なのかもはっきりせず、思い出そうにも記憶が混乱する一方であること、等々の点を補足しておく必要がある。一筋縄ではいきそうにないこれらの問題は、もっと後の巻でさらなる波乱を惹き起こすことになるのだが、一応この記事は第VII巻についてのものであるから、ここでは詳しく立ち入らないことにする。

それはさておき、私は先に、この魔姫による身の上話が、既述の二つの観点の合流を思考することを強いる、という意味のことを書いた。二つの観点とは、筋書の水準での隠喩、ないし状況の拡大的な反復がもたらす蟻地獄状の構造と、登場人物が役割から解放されることによる「“何者でもないわたし”」(御剣真子)の肯定である。もう一度、虚界(アンダカ)の創造以前の彼女が一体何を嘆き、何に絶望していたかを読み返してみよう。するといやでも気づかされるのは、彼女にとっては、現実が自分の作品同然であることが忌まわしいという事実である。これは決定的で、絶対に見落としてはならない点だ。これがもし、ままならぬ現実というものにうんざりして、つまりは現実の世界が自分の思惑に忠実でないことに苦しんで、その結果小説が代表するような、何から何まで作者自身の(そしてある程度までは読者の)思ったとおりに決めることが可能な虚構の世界への想像的逃避を試みる、という反対の行動であれば、我々にとって特に珍しくはない。文学はしばしばそのような行動に走る人物を描いてきたし、第一我々自身の人生を振り返ってみても、この種の行動は、まんざら身に覚えのない経験というわけでもあるまい。ところが、魔姫の、また彼女に始まる寂憐院の血脈に属する人々の場合、これとはまったく事情が異なる。良心に背いても予言者の役割を演じ続けるほかなかった彼女にとって、現実とは、引用文中の台詞を借りるなら、ひたすら「自分の思うとおりに形成されていく」ものであり、まさにそうであるがゆえに「気持ちの悪い」重荷でしかなかったからだ。
ここにおいて、二つの観点のうちの前者、すなわち蟻地獄的な筋書の水準での隠喩が、一言一句に至るまでことごとく的中する(人為的に的中せしめられる)「適当」な(無根拠な)予言として―予言者本人の世界にはどんなにわずかな自由といえども残してくれない、恐るべきまがいものの予言として―非常に極端な形態で作品内に定着をみていることは誰の目にも明白であろう。けれども、事態をさらに複雑にする二重のひねりが存在する。その第一点はある奇妙な符合であり、実はこの符合を発見したことが、そもそも私がこの記事を書こうと思いたった動機でもあるのだ。以下に掲げるのは、この第VII巻に先立つ第VI巻「飛べない蝶々の鳥かご迷路」の第V章からの引用である。魔王の怪造に失敗して一度は命を落としながら、いまや親友の魅神香美(みかみ・かみ)を独占したい一心でヴェクサシオンの陰謀に加担する志田切涼女が、根深い他人への不信感の底から投げかける問いかけ、あたかも言語活動全般に懐疑を突きつけんばかりの問いかけに対して、伊依が渾身の答として、自分はつねに自らの発言に責任を持つ覚悟がある、嘘つきになるつもりはさらさらない、という揺るぎない信念を口にする場面だ。

「ふふん、だけどね―伊依ちんと初めて会ったときにも言ったけれど、言葉って、みんな偽物(にせもの)なの。舌って、嘘をつくための器官なの。喋(しゃべ)れば喋るほど嘘が積み重なって、伊依ちんが語った思想、思考、その全(すべ)てが次々と嘘に侵略(しんりゃく)されていく」
 暗闇(くらやみ)のなか、光を弾(はじ)かない彼女の双眸(そうぼう)はひたすらに暗かった。
「あたしと会話するってことは、そういうことだよ? 自ら嘘の泥沼(どろぬま)をつくりあげ、そこで溺死(できし)していくの。あなたの言葉全てを、思想全てを、あなたは自ら嘘にして自滅(じめつ)するの。……そんなあなたを見てあたしは笑ってあげる。馬鹿にして、あなたの全てを否定してあげる。それでいいなら―どうぞ、喋りなよ?」
 髪(かみ)の毛(け)を撫でられ、魅入(みい)られるような涼女の瞳(ひとみ)を、伊依は黙(だま)って眺(なが)める。どうして彼女はこんなにも、言葉というものを拒絶(きょぜつ)して、世界を汚(きたな)く思い、人間を穢(けが)らわしく思い、怯(おび)えるみたいに―遠ざけようとするのだろう。
 そういうのは、寂(さび)しい。
 そういうひとほど、助けてあげたい。
 誰かを遠ざけようとするひとは、誰かに傷つけられたくないひとだ。ならば伊依は、自分だけはだいじょうぶだと、まずこの少女に告げる必要がある。手負いの獣(けもの)に手を差しのべれば嚙(か)みつかれるのが当然だが、自ら痛みを恐(おそ)れずに手を差しのべないと、震(ふる)えるその生き物を抱(だ)きしめて、温めることもできない。
 伊依は涼女をじっと見つめた。たぶんこの少女とは、そういう方法でしか解(わか)りあえない。けれど完全に断絶していないなら、伊依は手を伸ばしたいと思う。
「全ての言葉が嘘なわけじゃないよ」
 だから伊依は、思ったことをすなおに告げた。
「嘘じゃない言葉を喋る方法が、ひとつだけあるよ」
「…………?」
 涼女は怪訝(けげん)そうだ。倒(たお)れ伏(ふ)した伊依のそばに体育座りして、世にも不思議そうに眉(まゆ)をひそめている。そんな彼女に、ようやく助けたいと心の底から思えたひとりの少女に、伊依は笑みを浮(う)かべて軽(かろ)やかに言った。
「嘘をほんとうにしちゃうんだよ」
「は……?」
 涼女は、ぽかんとした。一言では意味がつうじなかったらしい。まぁそうだろうと思いながら、伊依は懇切丁寧(こんせつていねい)に言葉を重ねる。
「だからね、喋った言葉に現実を追いつかせるの。言葉を口にしたときにはそれが嘘でも、がんばってその嘘を現実にするために動くの。あたしは、だいたいそんなかんじだなぁ。喋っちゃった言葉は、決してなかったことにはできないけど、だったらその言葉がほんとうになるように行動すればいいんだよね」
 なかば自分に言い聞かせるように、伊依は丁寧に囁いた。
「『友達だよ』って言ったら、そのときは相手があたしを嫌(きら)いで、拒絶しても、時間をかけて『友達だよ』を現実にする。ほんとに、友達になれるように努力する。それでいつか友達になれたら、最初にあたしが言った『友達だよ』は時空を越(こ)えて真実になるわけだよ」
 神妙(しんみょう)に、嘘の天使の言葉への返答として、宣言する。
「言葉は全て嘘かもしれない。でも言葉どおりの現実になるよう努力して、実現できたら、それは嘘じゃない。言葉って、そういうものだと思う。そりゃ喋る言葉ってのは、薄(うす)っぺらな嘘かもしれないけど、声ってのは、ただの味気ない空気の振動(しんどう)かもしれないけど、それは宣言で、約束なの。その約束を破らないように行動して、言葉どおりの現実をつくれば―嘘だった言葉はほんとうになるの。わかる?」
〔中略〕
「あたしはいつも、そうしてる。そりゃ力不足で嘘が嘘のままになることのほうが多いけど、それでも嘘をほんとうにできるように、努力してる。少なくとも―気持ちのうえでは、あたしは喋るとき、ぜんぶほんとうのつもりで喋ってるよ」
 嘘なんかついたことがないとは言わない。言葉というのは未完成で、矛盾(むじゅん)や語弊(ごへい)が溢(あふ)れていて、端(はし)から端まで真実な言葉なんて存在しないのだろう。百聞は一見にしかずというが―どれだけ言葉を並べても、万言(まんげん)を尽(つ)くして描写(びょうしゃ)しても、物事を誰かに伝えるというのは不可能だ。涼女の語った『言葉はぜんぶ偽物(にせもの)』というのは、そういうことだろう。
 だけれど、嘘(うそ)だった言葉を、時空を越えてほんとうにすることはできる。その努力を、伊依は怠(おこた)らない。この世に溢れた、ほかのどんな言葉が嘘でも―。
「あたしだけは絶対に、あたしの言葉を裏切らない」
 真っ直(す)ぐに前を見て、宣戦布告のように伊依は言った。(注15)

あいにく伊依の真摯な台詞が涼女の心境に巻き起こした変化については実際に第VI巻にあたって確かめてもらうしかないが、ここで指摘したい符合とは、いましがた彼女が語ったばかりの「嘘をほんとうにしちゃう」・「喋った言葉に現実を追いつかせる」・「言葉どおりの現実をつくれば―嘘だった言葉はほんとうになる」等々の一連の信条が、ひいては発言後の行動次第で口に出した言葉は「時空を越(こ)えて真実になる」という言い回しまでもが、我々がすでに知っている、続く第VII巻で身の上話を語る魔姫の発言―「現実はたしかにその予言に左右され、嘘(うそ)だったはずの言葉は時空を超(こ)えて真実になる」―とぴったり重なってしまうという、見まがいようのない事実である。
我々はこの符合を、どう評価すればよいのか。魔姫と伊依は赤の他人ではなくて祖先と子孫の関係にあるのだから、口調が似るのは当然だとでも考えておけばそれで済むのだろうか。しかし、言葉に現実が追いつくという一見同一の現象は、明らかに伊依にとっては個人的な努力の成果として肯定的な性格を持っているのに対して、魔姫にとっては逆に、望みもしないのに大勢の他者の生涯を左右してしまうという忌まわしい宿命を意味するとともに、身の丈に余る予言者の役割から逸脱することを許してもらえない己の無力さを証明するものでもあって、いずれにしても明らかに否定的な性格を持っているのだから、この歴然たる対照のおかげで、そのような安直な考え方はたちどころに禁じられてしまう。もちろん、一見同一の現象と呼びはしたが、伊依の場合は日頃からごく身近な範囲の中で目標を立てては自分の手でその実現に努めてきたのに対して、魔姫の場合は実に丸一年間の一国全体が予言の対象であるばかりか、その実現も彼女の与り知らぬところで、完全に「国の偉いひとたち」の関心に沿って進むのがつねだったわけで、ほんの少し内実をかえりみただけでも両者の相異は明白だ。しかしだとすると、このように正負に関してのみならず寸法や担い手に関しても対照的な二つの事例が、ほとんど同じ語句によって象られていることの面妖さはいよいよ際立ってくる。あるいは、この対照性は、特に余計な手心を加えることなく、そのまま受容するという反応を我々に要求しているのかもしれない。そうだとすれば、『アンダカの怪造学』第VII巻は、せっかく伊依が前の巻で披露してくれた信念から意味ないし価値を剝奪するとまではいかずとも、それを魔姫の台詞との対比の中で相殺し、巨大な上位の文脈、すなわち作品それ自体の自律的な運動としての、例の始点も終点も知らないまま渦を巻き続ける蟻地獄構造に従属させ、そのようにしていわば産物として相対化することになりはしないか。
この憶測を裏づけるものが、先に「二重のひねり」と呼んだものの第二点として挙げなくてはならない、《独唱第五番(パンドラ・オンリーワン)》の絶対的な命令権だ。元来虚界(アンダカ)は魔姫のために創造された世界である以上、どの住民も彼女の意向には逆らえない、ゆえに一時的に彼女と一体化している伊依の意志にも従うほかない…というのがこれの原理である。虚界(アンダカ)最強の竜、憤怒大公といえどもこの点例外ではなく、あわや現界(カナイ)を滅ぼすかと思われた彼とその軍勢は、結局「良いって言うまで現界にこないで!」という伊依の依頼ないし指令を受けて、あっけなく怪消されてしまう(注16)。ということはつまり、《独唱第五番(パンドラ・オンリーワン)》が発現している間は、口に出した言葉を自分自身の手で現実に変えていくという伊依の責任感も、自分の発言が自分の直接的な管轄の及ばない領域で勝手に他者の運命を左右してしまうことを危惧する魔姫の思いも、ある意味でもろともに裏切る形で現実が言葉に追いつき、一致することが避けられないのだ(この一致は、伊依にとってはあくまでも魔姫の権威を借用した結果にすぎないし、また魔姫から見れば、伊依への信頼から自発的に手を貸しているとはいえ、依然として自分の役割を他人に利用されていることに変わりはない)。

私が言及した二つの観点のうちの片方、すなわち筋書の水準での隠喩、ないし状況の拡大的な反復に由来する蟻地獄状の自律的構造が、このように二重のひねりによって念入りに保証されている以上、もう一方の観点、すなわち登場人物が筋書の中で担うべき重責を免除され、役割から解放されたひとりの個人としてあるがままに肯定してもらえるという恩寵のほうは、少なくともこの第VII巻においては、必然的に影が薄くなり、せいぜい真子の独白を通じて、いわば今後なおも追究していくべき課題として導入されるにとどまる(本格的な展開をみることがない)としても、それは仕方がないというものだろう。すでに触れたように、そもそも渦中の人である魔姫にしてからが、せっかく潮静が自分のために準備してくれた「役目を捨てて、何でもない、わたしになる」(注17)可能性を前にして尻込みしてしまったと告白しているのであり、ほかならぬ彼女のそのためらいが、目下生じつつある未曾有の脅威―魔王が復活を遂げて現界(カナイ)の侵略に着手した―の発端(あるいは少なくとも、遠因)でもあるらしいことを思えば、なおさらである。
とはいえ、まさしくこの告白が同時に明かしているように、一切の役割から解放された固有の生は、少なくとも可能性ないし萌芽としては、他のどの登場人物をもさしおいて、いち早く魔姫一人のためにお膳立てされていた(お膳立てされなくてはならなかった)ということも、また確かなのである。再び彼女の身の上話を参照しつつ先に述べたことを繰り返せば、「ほんとうに、異世界を……わたしの思うとおりにならない、もうひとつの世界を……創造してしまった」という「あのひと」(激流院潮静)の行為が、魔姫にとって最も意想外で何よりも驚異的な救済でありえたとすれば、その理由は―我々の常識的な感覚とは反対に―、彼女の周囲の現実が隅から隅まで彼女の作品同然で、どこにも責任逃れを許すような未知の部分を残してはくれないという事情が、前提として先行していたからである。しかし、この「彼女の嘘の予言が効力をもたない、もうひとつの世界」は、あくまでももともと魔姫のために創造された未知なる世界であるから、彼女にとってどこまでも謎めいた魅力を秘めていることは間違いないとしても、他人、少なくとも創造者その人にとってまでそうであるか否かは定かでない。それどころか、『アンダカの怪造学』は、先立つ巻でも何度となく確認してきたように、この第VII巻においても、怪造学会総長・激流院潮静の分身である魔王という存在を(この際、どちらが「本物」でどちらが「複製」かという問いは後回しにしてもかまわない)「虚界(アンダカ)の支配者にして、虚界(アンダカ)そのもの」であると定義しており(注18)、そのようにして読者に魔王=創造者と虚界(アンダカ)とを同一視するよう促している観すらあるのだ。その一方で当事者双方の観点に立てば、ほかならぬ創造者(潮静)と被造物(魔王)との関係こそが、親しみどころか抜きがたい憎悪に満ちた、作中で最も根底的な対立を形成している。
したがって、受け手(魔姫)の視点から見て未知なるものという唯一無二の価値を発揮する贈り物は、だからといって他人にとってもそうであるとは限らないし、とりわけ贈り主(潮静)にとっては、むしろそうでないと考えたほうが蓋然性が高い。こう書けばなにやらわかりきったことをさも事新しげに指摘しているようでもあるが、主人公である伊依の信念すら超越した次元で、底知れぬ無根拠性を背景にして、ひたすら筋書がそれ自体へと折れ曲がり、際限なく重複し、延々と再帰的に渦を巻く非人称的な運動(フーコーが命名した、「文学の存在論」が考察すべき対象)を追い続けてきたかのような『アンダカの怪造学』の叙述全体の中に置いてみれば、この命題が告げているのは決して凡庸な内容ではない。おそらくはこれこそが、私が本稿の冒頭近くで提起した留保付きの推測、すなわち怪造学は―ひいては『アンダカの怪造学』という小説は―、虚構の創造という行為を暗示しているのではないか、という推測が要求する、真の相方だったのだ。虚構の創造とは、ありのままの実存を肯定してもらえることを必要とする誰かへの愛ゆえの、一種の贈与である(本来的には贈与でしかありえない、贈与であるべきだ)、とでも定式化できそうなこの発見は、「では、魔姫は潮静のおかげで創造者(作者)から鑑賞者(読者)の立場に移行しうるとして、潮静が誰かのおかげで同様の移行を経験することはありえないのか」…という仮定的な問いかけを通じて、たとえ我々の探究がひとたび黒幕としての創造者を突きとめたところで終焉を迎えはしない、無限に続く創造行為の連鎖を予感させずにはいない。虚構が一つの贈与であるとすれば、何らかの価値、少なくとも奥深い謎という価値を虚構が有するのは、あくまでもそれを創造した作者にとってではなく、もっぱら鑑賞者ないし読者にとってであるはずだからだ。「君たち。学校の授業での九割は役に立たないぞ」(注19)だの、「まるで人生に必要ないお勉強」(注20)だのといった、どこまで本気なのか判然としない、既存の教育制度に対するいささか素朴すぎる呪詛をはじめとして、各巻の「あとがき」にしきりと小説家を志す小中学生への励ましのごとき内容が頻出するのは、こう考えてくると腑に落ちる。

たぶん、日日日の小説はそのほとんどが何らかの意味で虚構論として読むことができるはずだが、中でも『アンダカの怪造学』は、このように贈与の問題系へと開かれている点で、群を抜いた原理的な徹底性を授かっている。ことわっておかねばならないが、これは一つも傷のない、完璧な作品というわけではない。例えば、「すべからく」(ぜひとも)を「ことごとく(一人残らず)」という意味で用いるのは看過しがたい誤用であるし(注21)、爆川嫌凪(はぜかわ・やなぎ)は自分と同じく怪造学教授(レイ・モンスティア)である不動霧晴(ふどう・きりはる)とは犬猿の仲だが戦闘力では彼に及ばないため、「嫌凪は彼に勝ったことが一度もない」(注22)とはっきり書かれているにもかかわらず、同じ巻の終盤の喧嘩では彼を圧倒しているばかりか、おかしなことに不動自身がこれに先立っておじけづいている描写があるのも(注23)、ただちに矛盾とまで呼べるかどうかはともかく、いまいち釈然としない。また、「子供ども」(注24)も「子供たち」、あるいは単に「子供」と書き改めるべきだろう。いくら強い力で人体が投げ飛ばされ、地面に叩きつけられたからといって、下は岩場ではなく、もともと海辺の砂浜だったのが目下「足をずぶずぶ飲む泥沼(どろぬま)みたい」に変わっているはずだから、「即死(そくし)しても、おかしくはない」(注25)という文章が出てくるのも不可解だ。さらに、これは必ずしも作家の責任ではなかろうが、第VII巻の挿絵には人物が二人とも読者に背を向けて立っている構図のものが三枚もあり(166-167頁、298-299頁、387頁)、なにも「時間が足りなかったので手を抜いたのか」などと邪推するつもりはないけれども、結果的には、挿絵本来の機能(活字を追う読者の想像を助けながら、独自の存在感で本を彩るという機能)を十分発揮しえていないように思えるのが惜しい。けれども、他方でこれらの瑕瑾を打ち消して余りある鮮烈な美をたたえた頁がそこかしこに散らばっているのも事実であるし―こういう読み方はあまり作者に喜ばれないかもしれないが、とりわけ第IV巻の「monologue please smile, my precious.」における虚無大公と喜悦大公の対面の場や(注26)、第V巻の「序章」における憤怒大公と悲哀大公の対話の模様(注27)、第VI巻の同じく「序章」における卒業式の情景(注28)などは、本筋を中断する間奏曲、もしくは本筋を縁取る枠組でありながら、極上の逸品である。引用しているときりがないので、ぜひともご自分の目で確かめていただきたい―、それにもしかするともっと貴重かもしれない、原理的な徹底性ゆえの貧しさも、逆説的なことに忘れがたく豊かな刻印を読者の脳裏に残す。
貧しさゆえの創意工夫から生まれる豊かさ、それは子どもの遊びの特権である。やみくもに登場人物の数を増やすのではなくて、代わりに分身もしくは変装の系列を組織しようとする執拗な傾向もさることながら、この組織化が単なる遊びに終わらず、例えば偽の魔王(悲哀大公)を怪造することで総長(激流院潮静)を怪造学会本部の外におびき出し、その隙を突いて本物の魔王の復活を誘発するという、ヴェクサシオンの一応成功裏に終わった陰謀(第VI巻)からもわかるように、ときには小説の本筋そのものの進展にも寄与していること、また消化器官を模した迷路や(注29)「生きて動いて拡大する」城(注30)など、いまだ生命活動に密着した、あるいは辛うじてそこからの離脱を果たしたばかりの、そしてその意味において未熟で幼いとも形容できそうな空想が随所に姿を見せること、さらに、やはりヴェクサシオンが典型的に代表するような、単に筋書の内部で個体として主人公たちに敵対するだけではなく、各登場人物の個性を呑みこんで一様な混沌へと溶解させることで筋書の歩みそのものを台無しにしかねない掟破りの脅威に対処すべく、主人公の側も《独唱第五番(パンドラ・オンリーワン)》のごとき反則技に訴えることによる、一段上の超越的な階層(メタレヴェル)への飛躍を強いられること…こうした一切は、『アンダカの怪造学』を、何かしら子どもの共同的な遊戯に、経験の不足を如実に反映する狭く制限された諸条件と、それゆえに避けがたくなる手段の大胆さ―例えば、「タッチ!」「バリア!」というやりとりの後に続く、「『その』バリアを破るタッチ」・「『その』タッチを防ぐバリア」・「『その』バリアも破ることのできるタッチ」…というお決まりの単調なクレッシェンドの大胆さだ―とによって特徴づけられる、誇張的な演技を交えた鬼ごっこのようなものに近づけることになる。横幅が足りないとき、横溢する生命力はひたすら縦に積み重なって伸びていくほかはあるまい。
贈与が成り立つためには、贈り主と受け手と贈り物という、三つの項が欠かせない。創造者に対する被造物の反逆という『ギロチンマシン中村奈々子』(徳間デュアル文庫)の二元論的な構図と比べれば、拡大と充実の跡は歴然としている。のみならず我々はここに、自ら創造した作品にどうしようもなく惚れこんでしまった創造者を待ちかまえる袋小路という、同様に二元論的な『蟲と眼球…』(メディアファクトリー)の構図からの洗練をも認めるべきなのだろうが、それでも個人的には、この袋小路を前にしても断じて後退することを肯んじないで、とうとう性欲の起爆力によって突破を果たしてしまった『のばらセックス』(講談社、2011年)が教えてくれる、創造と愛との直接的な一体性、あたかも「より高い次元の情緒は自己充足的であることに留意しよう」と書くベルクソンの、「創造的エネルギーは愛であり、それは愛されるに値する存在を自分自身から引き出そうと欲するだろう」(注31)という主張の正しさを立証するかのような一体性に強く惹かれる。だが、それはそれとして否めないのは、『アンダカの怪造学』は、たとえそれほどの強度に達していない瞬間にあってすら、私にとって生体が内蔵を必要とするように必要であるということである。肺であれ胃腸であれ、内臓というのは見て楽しいものではないし、自分の内臓ともなればそもそも肉眼で見ること自体が至難の業だ。それでも、我々は内臓の働きなしでは片時も生存することができず、したがって意識的な精神活動を営むこともできない。やはりベルクソンの言を信じるなら、藝術をまさに藝術たらしめる高度の形式的な自律性は、究極的には各人の生の内面性と衝突するものではないのだ。藝術作品における同じ形式の執念深い反復は、我々が通常自らの自我であると信じている当のものを律動に乗せて押し流してしまうのだが、ただしその行き先は収拾のつかない全くの混沌なのではなくて、むしろ我々はほかならぬ自分たちの生が予想だにしなかった深い情動によって染め抜かれるのに驚くのである。音楽であれ文学であれ建築であれ、この点では変わりない(注32)。
私は過疎の田舎で生まれ育ったから、コンピューターゲームのように文化的な遊びを同世代の友と楽しむ機会などなかったし、家族をはじめ生身の人間に関して愉快な思い出は皆無に近い。ただただ粗暴で、野卑で、愚鈍なだけの動物的な連中、吐き気を催すほど退屈で一刻も早く死んでほしい連中というのが、肉親および故郷の人々に私が抱きうる唯一の印象である。なんとも陰惨で我ながら気が滅入ってくるし、実際申し訳ないとは思うが、これはあくまで感情の問題で、意志や知性の力ではどうしようもない。だから、たとえ正の方向ではなくて負の方向においてであれ、家族が、特に親子の関係が何かしら重大なものであるという前提に立脚する作品のことも、またそのような作品を創造しようという気になるほど「恵まれた」環境で育った作者のことも、私は羨ましくてならないし、それでいてたぶんそういう作品や作者が自分の共感の、つまり結局は理解力の埒外に位置していることも認めざるをえない(注33)。興味深いことに初めて知り合う都会人は判で押したように決まって私が小説を書いているものと思いこみ、ついでそうでないと聞いて驚くのだが、これはどうやら私のように四六時中本を手放さない者は自分でも筆を執って小説を書こうと試みるのが都会の慣わしであることに起因する現象らしく、この事情に思いあたったとたん、要するに自分は人間へのまともな(人間的な)関心を育むことを許すような環境で育ってこなかったのだと気づいて私は愕然とした。しかるに、『アンダカの怪造学』は、どうやらこの第VII巻に至って、例えば衝動的で辛抱が足りないという欠点を自覚しながらも、その実観念的な語彙を使いこなして理路整然と自分の性格を分析してのける御剣真子の妙に大人びた独白―「優等生のわたしと、ほんとはどこにでもいる女の子なわたし。/ふたつは乖離(かいり)していて、うまく融合(ゆうごう)しない」、「行動がぜんぶ感情を中心にしてるのは、なんというかお子様の証拠(しょうこ)かも」(注34)云々という、およそ天真爛漫なところのない独白―からもうかがえるように、小説家志望のませた子どものための本としての相貌を隠そうとしなくなるように思えるのだ(これ自体が作者の計算から生じた結果なのか、それともそうでないのかは判定しかねる)。本当に衝動の赴くままに生きている小学生であれば、真子のような独白をしたがるはずはないし、そもそもする能力を持ち合わせないはずである。これはやはり、明確に受け手を想定した贈り物、すなわち活字の世界に没頭するあまり年相応の無邪気さを忘れてしまった内省的な読者が、衝動的な生という憧れの対象をありありと思い描くのを助けてくれるような、用途の限られた散文なのだ。同様に、最強の怪造生物(モンスター)であることに頑なにこだわり続けるヴェクサシオン=寂憐院友樹(じゃくれんいん・ゆうき)の妄執を支える、求めて得られぬ父の愛への飢えにしても、いくら哀切だからといって個別の事件としての重みを過度に付与するよりは(それは、作品としての最終的な一体性を危険にさらすことだ)、むしろ「子どもにとって最も恐ろしい経験とは一体何か」という一般的な問いに呼応するような、知性によって抽出された法則(「それは、異性の親の愛を失うことである」という答)の実例として読むべきなのではないか。この場合、異種混淆的でいかなる特定の形にも束縛されないことは、「何ものらしくもありうる」という強みから「何ものらしくもありえない」という弱みへと、すなわち父親の愛の印からこの愛の喪失の印へと変遷し、そして絶望した当事者の身の上に「不定形」な外見を、あるいはもっと端的に述べるなら型崩れを招来しながら、作品の形式的構造をそれにおさまりきらない異物の側から間接的に照らし出す、というよりも光らせるのだ(注35)。換言すれば、ヴェクサシオンにおける形態の欠落(何ものらしくもないこと)は、親に見捨てられるという好ましくない結果に通じるがゆえに、そもそもこの結果と同じ意味で破滅的な一本の過程である。不定形という否定的な陰画を迂回しつつ、ここで自らの本質を明瞭な形態性として暗示したがるもの、それはほかならぬ理念的な(夢見られた)子どもらしさである。しかるに「暗示したがる」ことは、「明示できる」ことからは二重の意味で隔たっているのだ。そんな風なことを考えながら読むと、「ファンタジーって、今の子供たちは絵本や小説よりも、むしろゲームで触(ふ)れる機会が多いのかなぁと思います」というわけで、「ちょっとゲームっぽいこともやっとくべきかなぁと今回、いろいろ勉強して」試してみたので出来栄えはともかくせめて努力は認めてほしい、という第VI巻の「あとがき」の妙に弁解がましい文章―「意外に難しいんです、小説でゲームっぽいことを面白(おもしろ)くやるのは……」―にしても(注36)、またこの第VII巻の同じく「あとがき」に現れる、「僕はネットもしないゲームもしないTVも見ない映画も観(み)ない漫画(まんが)もあんまり読まないという偏食家(へんしょくか)で、〔中略〕あんまり最近の流行とかわかりません」・「感性が古いのは気にしてるんです」云々という自虐的な反省にしても(注37)、うわべの気楽そうな調子とは裏腹に、深刻な苦闘を隠している、とまではいかずとも、なかなか意味深長なものに思えてくるのではなかろうか。
そろそろ自分の人生への愚痴になりそうなのでこのあたりで切り上げるべきだろうが、とにかく偽装的な(擬態としての)子どもらしさが端々まで行き渡っている『アンダカの怪造学』の各巻は、虚構論であるのみならず、虚構論であることによって一つの贈与論でもあり、そして贈与論であるのみならず、贈与論であるかぎりにおいて一つの贈与でもあること、それゆえに一度も子どもらしい子ども時代をひたむきに送ることのできなかった私のような者にとっては、美しかろうとそうでなかろうと関係なく、どこをとってもとびきりの贈り物であるということ、これだけは最後に確認しておきたい(注38)。


(1)日日日『アンダカの怪造学VI 飛べない蝶々の鳥かご迷路』(角川スニーカー文庫、2007年)179-182頁。なお、原文では「見つけた」に傍点が付してある。
(2)ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』(平山高次訳、岩波文庫、2006年第28刷)237-238頁。
(3)日日日『アンダカの怪造学V 嘘つき魔女の見つめる未来』(角川スニーカー文庫、2006年)198頁。
(4)日日日『アンダカの怪造学IX Hyper SamuraiSoul』(角川スニーカー文庫、2008年)100頁。
(5)日日日『アンダカの怪造学VII Pandora OnlyOne』(角川スニーカー文庫、2007年)274-275頁。念のために付記しておくと、本文中に挙げたのはあくまで最も大規模でそれゆえ目立つ事例というにすぎず、観察の対象をもっと微細な次元に移しさえすれば、類例はただちに数限りなく見つかる。現界(カナイ)の事情に疎い闇宮血影(やみみや・ちかげ)が、見よう見まねで人間の習慣に溶け込もうとした結果猥本の内容を大真面目で実行に移してしまうという頓珍漢な振舞いを性懲りもなく何度も繰り返していること―『アンダカの怪造学V 嘘つき魔女の見つめる未来』(前掲書)362-363頁、および日日日『アンダカの怪造学VIII Every DayDream』(角川スニーカー文庫、2008年)160-162頁―などは好例であろう。
(6)フーコー「言語の無限反復」(野崎歓訳)、『フーコー・コレクション2 文学・侵犯』(小林康夫・石田英敬・松浦寿輝編、ちくま学芸文庫、2006年)95-98頁。
(7)日日日『アンダカの怪造学VII Pandora OnlyOne』(前掲書)170頁。
(8)同書241頁。
(9)同書263頁。
(10)同書155頁。
(11)同書334頁。
(12)同書316-320頁。原文において傍点を伏された個所を、太字の表記に改めた。
(13)同書320頁。原文では、「何でもないわたし」に傍点が付してある。
(14)日日日『アンダカの怪造学VI 飛べない蝶々の鳥かご迷路』(前掲書)458頁。
(15)同書361-365頁。
(16)日日日『アンダカの怪造学VII Pandora OnlyOne』(前掲書)338頁。
(17)同書320頁。上の注(13)でもことわっているように、原文では、「何でもないわたし」に傍点が付してある。真子の台詞(155頁)との同型性を読者に気づかせるためかもしれない。なお、「あとがき」の「②、丸裸(まるはだか)の私」以下の短い記述も参照せよ(392-394頁)。
(18)同書54頁。
(19)日日日『アンダカの怪造学V 嘘つき魔女の見つめる未来』(前掲書)457頁。「学校の授業での」は「学校での授業の」の誤記ないし誤植かもしれないが、一応原文を尊重しておく。
(20)日日日『アンダカの怪造学VII Pandora OnlyOne』(前掲書)391頁。
(21)日日日『アンダカの怪造学IV 笛吹き男の夢見る世界』(角川スニーカー文庫、2006年)276頁。
(22)同書88頁。
(23)同書362-365頁。
(24)日日日『アンダカの怪造学V 嘘つき魔女の見つめる未来』(前掲書)308頁。
(25)日日日『アンダカの怪造学VI 飛べない蝶々の鳥かご迷路』(前掲書)403-404頁。
(26)日日日『アンダカの怪造学IV 笛吹き男の夢見る世界』(前掲書)230-231頁。
(27)日日日『アンダカの怪造学V 嘘つき魔女の見つめる未来』(前掲書)12-18頁。
(28)日日日『アンダカの怪造学VI 飛べない蝶々の鳥かご迷路』(前掲書)12-15頁。ただし、卒業生代表を務める虚島罠奈(こじま・わなな)の別れの言葉に現われる「精廉(せいれん)と」は、「清廉と」の誤記ないし誤植であろう(14頁)。
(29)同書381頁。よく似た発想は、例えば『蟲と眼球…』にも存在する。
(30)日日日『アンダカの怪造学VII Pandora OnlyOne』(前掲書)238頁。
(31)ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』(前掲書)311-313頁。
(32)ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』(合田正人・平井靖史訳、ちくま学芸文庫、2002年)25-30頁。
(33)こんなところで唐突に引き合いに出してはなはだ済まないとは思うが、五月のコミティア104の会場で、カタログの表紙を描いておいでだからという場当たり的な理由で購入した高畠エナガの『100-HANDRED-[ハンドレッド]』(集英社、2012年)に対しても、読後いの一番に覚えたのが「なんでそんなに家族にこだわるの? (家族なんか)どうでもいいじゃん」という身も蓋もない醒めた感想だった。むろん、この事実は作品の質に関して何事をも証明するものではなく、単に私の性格上の欠点を証言しているにすぎない。
(34)日日日『アンダカの怪造学VII Pandora OnlyOne』(前掲書)154-155頁、248頁。ただし、巴已己巳(ともえ・いこみ)こと喜悦大公といっしょに経験した一連の「冒険」を記憶の中で整理する真子には、いまや「その日を区切りとして、わたしは大人になったんだ」という自覚が芽生えているのも事実である(251頁)。
(35)日日日『アンダカの怪造学VI 飛べない蝶々の鳥かご迷路』(前掲書)415-421頁。
(36)同書474-475頁。
(37)日日日『アンダカの怪造学VII Pandora OnlyOne』(前掲書)394-395頁。
(38)これはもとより私一人の個人的な感慨にすぎず、読む人が変われば『アンダカの怪造学』はそれに応じて新たな魅力を発揮するに違いない。私はいまだに『ささみさん@がんばらない』のアニメ版について、監督が例えば山本寛だったらどうなっていたか、作画が京都アニメーションあたりであればどうだったか、脚本はあれ以上にわかりやすく凝縮するわけにはいかなかったのか…などと埒もないことどもを思いめぐらす夜があるのだが、日によっては、時ならぬ「魔王」(と「勇者」)ものの流行というか、「魔王(勇者)もこう見えてなかなか苦労人(善良、可憐、世間知らず、…等々)なんですよ。どうです、意外でしょう」と言わんばかりの脱力的な調子で始まる作品がしきりと目につく昨今の風潮を思うにつけても、いっそ『アンダカの怪造学』をアニメ化してしまえば、ひたすら役柄の意識化と定型の相対化とを推進しているようでいて、その実さまざまな仕方で我々を贈与等の対人的な行動へと駆り立てる原始的な情動(愛憎)を露呈させることもおろそかにしない…というよりもむしろ、単なる作為性の強調による遊戯的な解体の運動以上にこの赤裸々な露呈こそを究極的な目標にしているらしい原理的な徹底性が、ともすれば皮肉(イロニー)の再来のために緊張が途切れがちな作風に快く浸りながらも若干食傷気味の諸氏に目新しさを感じさせるのではないかと夢想することもある(ちなみに次点として気になる候補は、『ギロチンマシン中村奈々子』である。いかんせん『アンダカの怪造学』は長大なので、規模の点ではこちらのほうが手頃かもしれない)。

category: 『アンダカの怪造学』

CM: 0 TB: 0   
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。