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一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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SAZ『柳生振感』 

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星の数ほど大勢いるエロ漫画家・エロ同人作家の人々。
その中で私が目下一番尊敬しているのが、サークル「SAZ」のsobaさんである。
まあ、顔もわからない相手から一方的に慕われても不気味というか有難迷惑かもしれんし、私は私でsobaさんの人となりはおろか、年齢や性別についてもとんと何一つ存じあげないので、いきなり尊敬とかほざくのはちと大げさすぎるかもしれん。
しかし、ここはあえてこの書き出しで押し通したい。というのも、あくまで私の勝手な印象ではあるが、sobaさんの作品は―まだ商業誌で発表した作品の分量が少ないからか単行本が出ていないという事情を考慮しても―、どうも、知名度(主におっぱいとか乳房とかバストとかの面で…)の割には然るべき評価に与っていないような気がするからだ。
「勝手な印象」、と書いたのは理由のないことではない。例えば、商業誌の世界に目をやれば、F4U、師走の翁、バー・ぴぃちぴっと、町田ひらく、クジラックスに東山翔と、周到にして鋭利なネームを振りかざして読者の脳(と股間)に殴りかかってくる大胆不敵な作家は大勢いる。しかるに、私が繰り返し本を手に取ることになるのは、どちらかといえばその種の人々よりも、犬星であり、井ノ本リカ子であり、藤ますであり、Dr.Pであり、みやもとゆうであり、らんちなのだ(注1)。思想的な深みや表現の冒険をあらわに感じさせるというよりは、いわばただただエロ漫画らしいエロ漫画というか、一見何のひねりもない甘美でお気楽な作品を描くことに徹した職人たちである(注2)。なにも、「エロ漫画なんて所詮気晴らしだから」という理由から無難な作品ばかりを選んでいるつもりはさらさらない。ただ、定型的ないし王道的な作風というものは、なるほど仕組が単純ではあっても、奇抜でトガった作風よりも簡単とは限らないし、ましてや価値が劣るわけでもないということ、このことは強調しておきたいのだ。
たぶん、こんな風に感じるのは、私があまりにも非文化的な環境で育ったせいだろう。世界が、そして人間が愛するに足る(aimable)ものでありうるということ、このことを私に教えてくれたのは、あいにくというべきか皮肉にもというべきか、生身の人間でも身近な家族や学校でもなく、もっぱら虚構作品だった。世界や人間が愛するに足るものであるのは、具体的には一体どういう状況においてなのか。この問いに答えようとする中で、たとえ唯一のではないにせよ、非常に有力な参照先として性愛の経験を引き合いに出しても、それほど頑固な反対を呼び寄せることにはなるまいと思う。さて、性行為は、愛し合う男女双方にとって(もしくは、いずれにせよ愛し合う参加者全員にとって)心身の満足をもたらす幸福な協働の体験であることが望ましい。この命題の説く道理はまことに単純で、誰でも知っている。けれども、これが実現をみるためには、相応の複雑な条件が揃う必要があることも、これまた周知のとおりである。王道的な作風のエロ漫画のまさしく「王道」(近道)たるゆえんは、面倒な条件抜きで一足飛びに我々を上の命題の模範的な実演に立ち会わせてくれるということ(教育的効果)に加えて、作中の一切の要素が挙げてことごとくこの目的のために奉仕していることにある。絵柄も、台詞も、筋書も、文句のつけようがないほど完成度が高く、しかもそれでいて当の目的との関係において余計な枝葉の突出は、ただの一例たりとも見当たらないというのが理想であろう。
そしてsobaさんの漫画は、同人であると商業であるとを問わず、この意味で大変王道的なのである。どこまでもなめらかで胸焼けがしそうに甘いその味わいは、さながら極上の砂糖やら卵やらバターやらクリームやらを惜しげもなく投入した高級な洋菓子のようだ。滋養に富むと思うか、とか、これだけ食べて暮らせるか、などと意地悪く問われればたしかに首を傾げざるをえないとはいえ、舌の上でとろける有無を言わさぬ美味には諸手を挙げて降参するほかない。それを可能にするのは、私の知るかぎり少なくとも同人界ではほとんど肩を並べる者のいない、sobaさんの類稀なる知性だ。気の利いた台詞回しの数々から察するに決して言葉を排列するのが苦手なわけではなさそうなのに(注3)―ついでながら、おおかた京阪のご出身だからであろうが、登場人物がときどき口にする関西弁も実に自然で読んでいて心地よい―、あくまであとがきの類で自己を饒舌に語ろうとはしない妙に慎み深い姿勢一つとっても、この人は到底一介の乳絵師などという肩書には収まりきらない曲者であると判断せざるをえない。いや、「肩を並べる者のいない」などと書いたのでは誤解を招きかねない。たぶん、学歴が高いとか、実験的な作風に意欲的であるとかの意味で、「最高」ないし「最強」の知性の持主を探そうとすれば他にも見つかるはずである。とすれば、sobaさんについては、知的であることが決して作品の王道性を邪魔する方向には作用しないという点に着目して、むしろ「最良」の知性の持主とでも考えておくのが適当かもしれない。仮に「然るべき評価に与っていない」という私の先の印象がなにほどかでも正しいとすれば、その原因の一端は、あるいはこの王道性のあまりに磨き抜かれたそつのなさを前にして、うっかり素通りしてしまう人が多い、ということに求めうるのではないか。とすれば、それを自分の舌で望むだけ味わいうるとは、なんと贅沢な特権であろう。トガりにトガった「前衛的」な作風に酔うのもやはり一つの贅沢であることは否みがたいものの、それでも私は、sobaさんのエロ漫画を読むたびに、ついついこんな身の程知らずの貴族的な感慨に耽ってしまうのである。強いて気がかりな傾向を挙げるなら、ときに個々の絵が一枚の春画として完結してしまい(下の図を参照のこと)、漫画としての筋書の全体的な流れが相対的に薄まることくらいのものだが、そもそもエロ漫画の世界においては、ほとんど読み始めた時点でどの読者にも「誰が誰と何をするのか」たやすく見当がつくことを思うなら、この点は別に致命的な問題ではない。

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左:『立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は18禁』(COMIC1☆5)の表紙(これが正しい反応なのかどうかわからないが、私はこの表紙を見るたびに、あまりに猥褻なので興奮するというよりもまず呆気にとられ、ついで思わず噴き出してしまうのがつねである)
右:『すきとおるそら』(COMIC1☆6)より(勃起した男根を斜め上から描くという難しそうな課題も、このとおりみごとに処理されている)

いまのところ、この思い切った甘さが美質として最高に輝くのは、生真面目そうな(それでいて好色な)姉もしくは姉に準じる立場の女性と、弟もしくはそれに近い立場の男性との和姦という構図を通じてであるようだ(特に商業作品からは、腰を据えてこの構図の可能性を探れるだけ探ってみようという意欲が感じられなくもない)。しかも、一見すると主に男性の読者を念頭に置いた作風にもかかわらず、その甘さは、例えば男性の側が揃って清潔感のある美男子である上、積極的に甘えるにせよ誘惑に応じるにせよ、ともかく決して女性の側の意向を無視して腕力に訴えるような真似はしてこなかったという事実からも首肯せざるをえないように、あるいはむしろ、ひたすら甘やかされる一方で一向に解放してもらえず、それどころかもっと甘えることを強要されてしまうという一種の共犯関係がときに成り立つことからも認めざるをえないように、単に男にとって好都合というだけではない(注4)。たぶん同人作品では『天草模様な陸%』(C79)あたりからsobaさんの作品においていよいよ顕著になってきたのは、私が上に書いた命題―「性行為は、愛し合う男女双方にとって(もしくは、いずれにせよ愛し合う参加者全員にとって)心身の満足をもたらす幸福な協働の体験であることが望ましい」―のとおり、男性に劣らず女性の快楽をもないがしろにすまいとする態度であり(注5)、それは『天草模様…』の数字のない「%」(事実上の第1巻)から「肆%ぷらす」までの四作を収めた総集編である『天草模様なEX%』(C82)に至って、愛欲に身悶えする女性の悦びを、ほとんど崇高なまでの強度で描き尽くした巻頭の驚異的な数頁(書き下ろし)へと結実する。あまり長々と引用しているとかえって「SAZ」としての同人活動に対する一種の営業妨害になりそうなので紹介はほんの数コマにとどめざるをえないが(下の図を参照のこと)、これを瞥見しただけでも、圧倒的な印象の一部は十分に伝わることと思う。その徹底ぶりたるや、何も知らない人が原作(『とある魔術の禁書目録』)の主人公は彼女(神裂火織)ですと言われれば、そのまま信じてしまうのではないかと思えるほどだ。むろん、ここに描かれているのが女性の自慰ではなくて男女間の性交である以上、射精が一つの山場を形成することは避けがたいわけだが、ただしそれはたった一度きりの山場ではない。最初の射精の後も性交が終わりを迎えることがないのは、あくまでも女性の側の要求の結果なのである。私の乏しい見聞の及ぶかぎりでは、男性向けのエロ同人の世界においてかくも陶酔的で力強い女性の性愛の肯定は前代未聞であり、その力強さはもはや生命の讃歌とすら呼びたい至純の域に達している。

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左:苗字ではなく下の名前で呼んで欲しいとねだるねーちん(「火織…/火織って呼んで/くれないと/ダメですぅ♥」)
右:名前を呼ばれるたびに好きすぎて絶頂するねーちん(「好き!/当麻が/好き好き♥」「好きすぎて/イくぅぅ…♥」)

このような観点から振り返ってみると、『天草模様な漆%』(C80)に現れる、女体をいわば衝立にすることで男性の側の顔と身体を読者の目から隠してしまうという凝った構図についても、単に男性の読者の視覚的な欲求に応えようとした結果というよりはむしろ、あくまでもこの場の主役が神裂火織でなくてはならないからだ…という風に、作中の女性の立場に即した見方をしたくなってくるから不思議である。

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『天草模様な漆%』より(「衝立」という語を用いたのは、右頁の下半分、および左頁の3コマ目についてである)

ただし、『天草模様なEX%』の全篇に顕著な傾向として見逃せないのは、身体的な現象としては男性が能動的に、女性が受動的に振る舞いつつ性器の結合に至るという一見通常の成人らしい性行動が、その実数々の台詞を通じて、フロイトによれば人間の欲動の発達史の中ではより原始的な層を形成するはずの、ほとんど食人的な吸入(体内化)と不可分な「口唇期(Orale Stufe)」の性欲の体制に沿って意味づけを施されているという事実である。それは、「私を全部/味わって/下さい♥」(巻頭の書き下ろしより)のごとき女性が男性に食べられるという状況のこともあれば、逆に、この総集編への収録に際して各篇の台詞に施された一連の興味深い加筆修正の一例である、「その前に…/先に神裂を/食べてからでも/いいか?」から「食べさせるのは/料理じゃなく/俺だけどいいか?」への変更(『天草模様な肆%ぷらす』より)が教えてくれるように、男性が女性に食べられるという状況のこともあるが、前者もまた後者を思わせるような、「当麻の/精子…♥」・「今度は私に/いーっぱい/食べさせて/貰えませんか♥」へと反転することからただちに察知できるように、むしろ身体的な次元での能動と受動の分割にそのまま従うわけではなく、あるいは未だそのような分割を知らない享受者の貪欲さ、換言すれば「…下さい」や「…貰えませんか」のごとき、もしも授乳の場で乳児が話せれば口にしそうな(考えようによってはまことに日本的な)「おねだり」風の言い回しにうかがえるいわば能動的な受動性にこそ、その表現上の特質を求めるべきであろう(遺憾ながら成人の規範的な言語体系はこの種の能動性に関して、よしんば少なからぬ羨望がこもっているにせよ、「図々しい」とか「厚かましい」とか、あまり好意的でない形容詞しか持ち合わせない)。
要するに、頼んだとおりにすぐさま自分を「味わって」もらえる、ないしは望みどおりのものを「食べさせて」もらえるような立場の者、つまりは居丈高になるまでもなく当然の権利として愛されることを存分に享受しうる者としてひたすら女性が得をしているわけで、ここに「主役」などという大仰な語を持ち出したのは、あるいは不適切だったかもしれない。なるほど、「愛される」という経験は、「愛する」という主体的で人格的な活動に比べて未熟なものかもしれないが、それでも愛された記憶という基盤なくしては、何人といえどもそもそも愛すること自体がおぼつかなくなってしまうというのも、また否みがたい真実であろう。この意味で、愛されることにつきまとう、十分に主体的ならざる点でいかにもとりとめのない未熟さとは、そのまま根源的な普遍性の異名なのである。
バルザックの『サラジーヌ』〔Sarrasine〕(1830年)の構造分析を試みる中で、Zというアルファベットは「去勢作用の頭文字」であり、しかもちょうど「図形的に逆の関係にある」Sという字にとって特にそうなのである(注6)、と論じつつ、鏡一枚分の厚みしかない斜線で辛うじて隔てられているにすぎない両者の間でいわばSのZ化(感染)が起きるまでの過程―彫刻家の青年サラジーヌ(Sarrasine)は美貌の歌手ザンビネッラ(Zambinella)を一目見て恋に落ちるが、その正体が去勢された男性(カストラート)であると知るに及んで、逆上のあまり相手を亡き者にしようとするも返り討ちにあい、失意の中で息絶える―を丹念に追ってゆくロラン・バルトの所説を換骨奪胎することが許されるなら、「SAZ」というサークル名においては、どっしりと安定した二本脚のAの左右対称性が媒介の役を務める結果、『サラジーヌ』とは逆に、いわばZのS化(馴致)が生じるのである。藝術家の創造行為の源泉は総じて去勢の否認であると考える精神分析的な観点にとっては、まことに頼もしい例証であろう(注7)。

読む者が大いなる愛によって魂を鼓舞され、世界と人間への信頼を捨ててしまうのが惜しくなってくるもの、たとえ何か嫌なことがあった日でも、ひとたび見入ればたちどころに苦悩が拭い去られたと感じるもの、それがsobaさんのエロ漫画なのだ。これが立派な藝術作品の証でなくて、一体何だろう(もっとも、他の作品はまだしも、こと『天草模様…』に関しては、長く眺めていようとすると、さながら新婚夫婦の夜の寝室のふすまをうっかり開けてしまったときのような気恥ずかしさと戦う覚悟が必要になってきそうだが…)。この人の描くはちきれんばかりに豊満な裸婦像には、間違いなくティツィアーノやヴェロネーゼやティエポロらのヴェネツィア派、もしくはルーベンスの傑作に通じるような、豪奢にして健康的な官能性の魅惑が息づいている。
とりわけ、内容の面での底抜けの楽天性に注目するばかりでなく、いかなる技術的な工夫がそれを形象化しているかという点にまで思いを致すなら、驚きの念はいよいよ深まってくる。『天草模様な漆%』における「衝立」状の女体の配置のことはすでに触れたとおりだし、一作ごとにデッサンの正確さと繊細さが増し、人物の表情にも写実性が加わってきた―とりわけ、ゴヤの版画のように美しい巧みな陰影法から生まれる人体の立体性、および女性のみならずしばしば男性の顔にも浮かぶ恥じらいや当惑の表情の絶妙さは、ほとんど他の追随を許さないとすら評価したくなる―とか、一部の台詞や擬音語の毛筆風の字体が読みやすくなってきたとかの変化はある意味で当然のことかもしれないが、だからといって見逃すわけにはいくまい(私は「美しい」陰影法と書き、また表情の「絶妙さ」と書いた。写実的で迫真的な画風の追求は、下手をすると画面の均衡を破ってしまい、滑稽さや醜怪さにも通じかねないものだが、sobaさんの場合はそのような行き過ぎに陥ることなく、あくまでも王道的なエロ漫画としての枠組の内部で全体的な完成度を高める一因として働いているのが特色である)。そればかりではない。例えば、『すきとおるそら』(COMIC1☆6)には、男性が射精に登りつめるまでの女性の描き方が心もち粗くなるという事態がなお見られた。あら探しのようで気が引けるが、下の図をご覧いただきたい。一気呵成の勢いを求めるあまりか見開きの左右で似たような表情が続いたり、局部(乳房や女性器)の強調に伴って身体全体の三次元的な明瞭さが若干犠牲にされ、腕や脚が読者の視界から逃れ出てしまったり…といった問題を、その気になれば指摘できるのではあるまいか。ところがこの問題点は、『天草模様なEX%』の巻頭を飾る書き下ろし漫画に至ってはっきりと改善をみているし―とりわけ、左手を顔に添えさせ、膝は屈曲させるという風に、姿勢に工夫を凝らして可能なかぎり女性の全身を一頁の中に押しこんでしまうことから生じる凝縮感がすばらしい―、同じ作品では、需要がある以上当然とはいえともすれば乳房を偏重しがちだった女体の描写についても、思い切ってお尻を大きく描くことで埋め合わせをしようと試みている観がある。このように、いちいち実例を挙げていけばきりがないが、sobaさんの同人誌には、ことさら奇をてらうような性格のものではないとはいえ、毎回何かしら新しい表現への挑戦があるのだ。

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『すきとおるそら』より、見開きで描かれた射精の場面(なお、右の頁の下のコマを見ると、あたかも女性の胴体から二本の首が生えているかのようであり、性的な一体感の希求を象徴的に表現したものとして興味深い。この頁からプラトンの『饗宴』におけるアリストファネスの発言を思い浮かべるのは、あながち的外れな連想ではないはずである)

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『天草模様なEX%』より、二度目の射精の瞬間(左)とお尻(右)

そして、先日(4月28日)COMIC1☆7で発表された『閃乱カグラ』の二次創作本、『柳生振感』はなんと凌辱物である。内容はたしかに何の変哲もない。春花に敗れた柳生が雲雀を人質にとられて手も足も出ないまま男子生徒たちに犯されるという、凌辱物のお手本のような無駄のない話だ。だが筋書の単純さにもかかわらず、sobaさんの作風には和姦が向いているという上述の観点からすれば、これは驚き以外の何ものでもない(注8)。『天草模様なEX%』ではあれほど堂々と女性の官能の悦びを肯定しておきながらこのような作品を描くのは、一種の変節ということにならないのだろうか。否、断じてそんなことはない。『柳生振感』の頁をぱらぱらとめくってみれば一目瞭然、性行為が男性のみならず女性にとっても至上の幸福でなくてはならない、という命題は、やはりこの作品においても貫徹されており、そのかぎり、これはやはり王道的な作風から完全に逸脱しているわけではないと評価できる。胸焼けがしそうな極上の甘さは、あくまで健在だ。もちろん、強引に犯されながら心ならずも快楽を感じてしまう女性、という想定は、現実の社会においてはしばしば男性の側の卑劣な身勝手さを正当化するために持ち出されるものだし、そのような困った事態に目をつぶることを推奨するつもりは毛頭ない。だが、虚構であることが自明な本作の鑑賞という文脈の中では、私としてはむしろ、「性欲が常人の15倍」になるという「特製の忍薬」を使ってまで柳生に性の悦びを思う存分味わわせてやろうとした作者の心意気に、とりあえず拍手を送りたいと思う。

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左:『コレ、気持ちいいッ…♡』『イくうぅぅ…ッ!!』
右:「もっとぉぉッ♡」「もっとッ/もっとッ/気持ち良く/してぇぇ!!」「あぅんッ♡」

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春花「この子達/特製の忍薬で性欲が/常人の15倍に/なってるの~/勿論さっき/貴女が咥えてた/“モノ”にも/タ~ップリ塗って/いるわよ?」

もう一点、本作には新しい表現への挑戦という面で、派手ではないものの見落とせない事実がある。下の図を見ればわかるように、素早い動作のときの手足の「かすれ」というか「ぶれ」を短い平行線の密集によって表現する技法が、随所で用いられているのだ。凌辱物である以上登場人物の動作が停滞してはならないという判断からかと思うが、やはりCOMIC1☆7で同時に頒布された会場限定本『天ぱい』(注9)にも同様の表現が出てくるので、あまり発想の源の穿鑿にこだわる必要もあるまい。上述のとおり、かねて私は、sobaさんの絵柄に対するほとんど唯一の恒常的な不安として、あまりに美しく磨き抜かれる(性的な意味で)一方で漫画としてはいささか静的すぎる傾向もありはしないか、とかすかに感じてきたのだけれど、どうやらそれは全くの杞憂だったようである。かえりみて自らの不明を恥じざるをえない。ということはつまり、sobaさんは大いなる愛の人であると同時に、ひとたび高度の完成を達成しても安住をよしとせず、つねに新たな境地の開拓に余念がない、という美徳をそのつどはっきりと作品の形で示してくれる名匠でもあることになる。かかる藝術家の作品は、内容以前に、作り手その人の内の、生き、感じ、思考する魂の確固たる実在を暗示することによって、すでにそれ自体が世界と人間とに寄せる我々の信頼を日々新たにしてくれるだけの力を具備しているのだ。

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『柳生振感』より、着衣を破かれて男根を口にねじこまれる柳生(指、乳房、男の下半身などの輪郭が、素早い動きのためにぶれて見える)

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『天ぱい』より、右下の当麻の指使いのぶれ具合に注目

いましがた「大いなる愛の人であると同時に」と私は書いたが、あるいはこの同時性はもっと根深いものとして考え直すべきかもしれない。というのも、仮に我々が愛という語につねづね託しているのに引けを取らない程度の活気なり深さなりの観念を、例えば「優しさ」や「親切」等の語にも託すことが可能でありさえすれば、おそらく私は前者(「愛」)ほど凶暴にも排他的にもなりえないという理由から後者を選んでいた―そして「愛」という概念は、もっぱら登場人物同士の関係のためにとっておこうと決めていた―はずで、波打ち、揺れ動き、際限なく襞を作るバロック的な姿態の絡み合いを通じてまず人物たちを照らし、ついで放射状に場面を満たし、ついにはその外にいるはずの読者の内面にまでやすやすと浸透してくる、この得も言われぬ雰囲気ないしは境地(element)としての、飽くことを知らない「優しさ」こそが、あるいは「親切」こそが、結局は豊満な女体への好みというわかりやすい共通点以上に、ヴェネツィア派やルーベンスとの親近性を形作る実質である…と考えることは、あながち無理でもなさそうだからだ。なんならこの雰囲気ないし境地を、ヒューモア(humor)という名で呼んでもよい。
いつかsobaさんの商業単行本を手に取ることのできるときが来るのだろうか。余人はどうあれ、私はそのときが一日も早く訪れることを切に願ってやまない。なんとなれば、甘さと強度を互いに相容れないものと決めつけることなく、代わりに双方を両立させようと試みること、というよりもほかならぬ甘さ「の」強度を可能なかぎり自然な形で追求することこそが、今後日本のエロ漫画が進むべき方向であると私は信じているからである。


(1)ついでながらお歴々の筆名はたまたま思い浮かんだ順に列挙したまでで、それ以上の他意はない。本当はアシオミマサトや鳴子ハナハルや関谷あさみや岡田コウや佐々原憂樹にも言及したかったところだが、そうなると分類のための土台そのものがぐらついてしまい、収拾がつかなくなりそうなのであきらめた。
(2)もちろん本文中の区分はあくまで相対的なものであって、例えば、師走の翁の作品が見せる、あくまでエロ漫画らしくまとまろうとするおそろしく優等生的な志向も、また犬星の平和そうな作品に伏流する陰にこもった凶暴性も、それはそれとして私は重々承知しているつもりである。ただ、前者については素朴さの表れというよりはやはり計算の産物であること、また後者については、基本的には露骨なものではなくて隠微な隠し味にとどまっていることも、同時に確認しておきたい。
(3)必ずしも愉快な例というわけではないが、『天草模様な陸%』における以下の対話が参考になる。

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左:神裂「…それでは/私の体だけに/虜みたい/じゃないですか」・「私は当麻の/全てが好きです/だからもっと/ちゃんとした/言葉で言って…」
右:当麻「お前の全部が/好きだ!」

微妙な違いとはいえ、「全て(le tout)」と「全部(toutes les parties)」は等価ではない。とりわけ、「…それでは/私の体だけに/虜みたい/じゃないですか」・「私は当麻の/全てが好きです/だからもっと/ちゃんとした/言葉で言って…」への返答としては、乳房や性器への言及に続く「お前の全部が/好きだ!」という台詞は、発言者の意図がどうであれ、依然として恋人をもっぱら「部分対象」(精神分析用語)の総和とみなしている点でいわば客観的に誠意が欠如しているにもかかわらず、この欠如を勢い(感嘆符)で何となくごまかしてしまった観さえある。この、男女の性欲のあり方の違いについてのまことに鋭い(作者の)直観がうかがえる微妙な齟齬は、幸いにして当面は特に問題として顕在化してはいないものの、『立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は18禁』(COMIC1☆5)に至って、ねーちん(神裂火織)に体型が近い、しかしながら性格はずいぶん異なる別の女性(オリアナ=トムソン)の誘惑に負けた当麻が浮気に及んでしまう…という憂慮すべき事件につながっていくのであり、そう思って読めばうわべの仲睦まじさとは裏腹に、これはなんとも意味深長な対話である。
(4)この点については、特に『すきとおるそら』における上条当麻が、『天草模様…』に登場するときと比べて、長さも尖り方もいくぶん控えめな髪形と、潤んだ大きな瞳とを持っていることに注意を促しておきたい。要は精悍さが減った分だけ、全体的にあどけない容貌になっているのである。単に執筆時の作者の気まぐれという可能性もあるが、私は相手の女性(オルソラ=アクィナス)の外見・人柄に合わせた意識的な描き分けだと思う(実際、内容を見ても、垂れたよだれで服が汚れて云々…という、いわゆる「幼児プレイ」的な要素がある)。続篇が出ればそのあたりの事情ももっと明確になることだろう。
(5)例えば、『境界線上のホライゾン』の二次創作本である『木葉な咲く夜』(C81)から引用した、以下の頁におけるトーリの台詞―「隠したって/無駄なんだよ」・「今 読んでいる/体感同人誌は/願望が具現化する/術式が組み込まれ/てるんだなぁ」云々―が参考になる。

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(6)ロラン・バルト『S/Z』(沢崎浩平訳、みすず書房、2004年第8刷)125頁。
(7)藤田博史著『人形愛の精神分析』(青土社、2006年)に即して、簡単にこのあたりの事情を整理しておく。まず、生まれて間もない子どもを魅了する最初の対象は、「眼差し」・「声」・「乳房」・「排泄物」の四つである。この時点での視覚はまだ、こちらから見るというよりはむしろ向こうから見られるという感覚であり、その最たるものが母の眼差しにほかならない。しかし、生後六か月から十八か月くらいの間に、鏡像という形で自分自身の姿を発見すると、見られることから見ることへの転換が始まる。そして母の不在を補うものとして言語が介入してくるととともに、欲望のあり方は本格的に受動から能動へと変化し、母の欲望の対象、つまり男根ないし「ファルス」でありたいという「存在形」の欲望が、父のように自分も「ファルス」を持ちたいという「所有形」の欲望へと変わる。もちろん個人差のあることは否定できないが、ともかく一般論としては(あるいは標準的な場合を念頭に置くかぎり)、欲望の性格は子どもの成長につれて受動的なものから能動的なものへと変化を遂げるほかないのである。

 実はある一群の人たち、「存在形」の欲望を捨てきれなかった人たち、あるいは「所有形」の欲望にうまく騙されなかった人たちがいて、そういう人たちをわれわれはとりあえず便宜上「性倒錯者」と呼んでいます。「性倒錯者」の欲望は存在形に留まり続けているというのが基本的な特徴です。〔中略〕
 人間存在という根本的な視点に立ち返るならば、「性倒錯者」のほうがより原初的な形に近いということも言えます。存在形の欲望が所有形の欲望に変わる。つまりここで起こっているのは「受動」から「能動」への変化です。欲望が受動態から能動態に変化するということなのです。(24-25頁)

この変化が、近親相姦を禁じる象徴的な「去勢」と呼ばれるもの、すなわち「否(ノン)」という父なる言葉の介入の結果である(59-60頁)。しかるに、引用文中に述べられているとおり、いわゆる性倒錯者は「はっきりとした形で言葉の介入が来ることを心のどこかで拒んでいる」(68頁)。そして藤田は、「創作活動と性倒錯的な心的機制がなにか相互にプラスの作用を及ぼしあっている」(71頁)という仮定から出発し、「『去勢』されて母親の代わりに言葉を摑まされた」我々の苦境を認めた上で、一足飛びに言葉、すなわち「知」の放棄に走るのではなく、むしろ言葉を逆用してぎりぎりの地点まで綿密な思考を積み重ねることで言葉以前の世界へのより効果的な接近を試みることを藝術家(人形作家)に勧める(79頁)。それというのも、創造性を支え、導く動機とは一種の再発見の希望であり、つまりは「かつて自分が聞いた『声』」や「かつて自分に投げかけられていた『眼差し』」に再会するための旅、というのが「創作活動に対する精神分析的な大きな見取り図」であるからだ(187頁)。
(8)ただし、たしか過去に会場限定のおまけ本や小説の挿絵などの実例があるので、凌辱物を手掛けるのがsobaさんにとって全く初めての経験というわけではないはずである。しかしその点を考慮しても、今回『柳生振感』がカラー表紙のオフセ本という形で、いわばサークルの看板商品として頒布されたことの重みが減るわけではない。
(9)この『天ぱい』は、胸を揉まれることにまだ不慣れそうなねーちんの初々しい戸惑いといい、いくぶん無機質な当麻の瞳の描き方(ほとんど黒一色で塗りつぶされている)といい、『天草模様なEX%』巻頭の書き下ろし以前の時期を意識した小品と考えて差し支えなかろう(第一、呼び名からして「火織」ではなくて「神裂」である)。おまけ本とはいえずいぶん軽めの癖のない雰囲気で、どうやら大学その他の機関で新年度が始まって間もない時期の催しであるCOMIC1で初めてサークル「SAZ」の同人誌に接する人を念頭に置いた、名刺代わりの一冊ではないかと思える(苦笑を誘う題名も、大変愉快なのはたしかだが、『天草模様…』のことをすでに知っている者にとっては必ずしも時宜を得たものではない)。この手の行き届いた配慮に思いを致すと、たとえ直接自分を対象にしたものではなくともつい感嘆の念がこみあげてくるのは私だけだろうか。
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category: 同人誌

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フランス・ブリュッヘンの来日公演(2013年4月) 

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四月に経験した私的な大事件といえば、なんといっても引っ越しだった。
たぶん借家住まいの人は誰しも経験がおありだろうが、完璧に「理想どおりの部屋」というのはなかなか見つからないものだ。どうせ引っ越し自体が避けられないなら家賃は安く、部屋は広く、交通の便はいまよりもよく…と虫のよい希望をいろいろと思い描いたところで、実際には必ずや妥協を余儀なくされるのが世の常である。最終的にはいくつかの候補の中から、私なりの基準で判断して他よりましと思えた物件を「エイやっ」と気合で決めたわけなのだが、これにしても線路が目と鼻の先にあるのと妙に室外の通路が狭いのとが気にかかる。また、都心に近い分定期券代が格段に安くなるのでその点はたしかにありがたいのだが、どうも自分の生活を振り返ってみると、実はもっと郊外の住み家を選んだほうが、定期券の区間内で好きなだけ公立図書館目当ての下車ができるという意味で、かえってお得だった可能性もあるのだ。まあ、これまで住んでいた部屋と比べれば、新しい住み家は一応いましがた挙げた三つの条件をいずれも満たしているし―つまり、より安く、より広く、より交通の便がよいというわけである―、「住めば都」という気持ちで鷹揚にかまえておればよいのだろう、きっと(どうしても我慢できないようなら半年後にでもまた引っ越せばよいだけの話だし。財布はその分痛むけどな!)。
ただし、これまた借家住まいの人には周知のことだろうが、部屋を選ぶのは厄介ではあっても、それなりの楽しさも伴う経験である。それよりも閉口したのは引っ越しの具体的な作業、つまり荷物を梱包して運搬するという作業のほうだ。新居まで電車を乗り継いでせいぜい30分ほどしか要しないのを幸い、引っ越し会社の人に任せるのは気が引けた趣味関係の品は何回かに分けて極力自分で運ぶことにしたのだが、いくつもの段ボール箱にぎっしりつまった本や同人誌の重いこと重いこと。でかいショルダーバッグを用意したので箱のまま抱きかかえて運ぶよりは楽だったが、よしんば重さには目をつぶるとしても、巨大な角ばった荷物を肩から下げていると足腰の動きを阻害されることはなはだしい。脚をまっすぐ前に踏み出すことができず、歩けないのだ。いやはや、あんなもの一人で持ち運ぶものではありませんな。皆も、変な意地を張らずに同人誌や本も引っ越し会社に任せるか、もしくは日頃から趣味の品々の運搬を手伝ってくれそうな友人を作っておくのがお勧めだよ!
…なんだかこの話題を続けていると私の思慮のなさ加減と天涯孤独っぷりを衆目にさらすだけの痛い結果に終わりそうなので(というか、もうそうなっている)、この辺でやめておこう。わざわざバッグを用意するにしても、なぜせめて路上を押して運べるキャリーバッグにしなかったのやら、思い返すほどに謎は深まる一方である…。

そんな全く個人的なごたごたに追われていたにもかかわらず、どうしても行きたい催しがあった。フランス・ブリュッヘンの来日公演である。会場はいずれもすみだトリフォニーホールで、4月5日こそ諸事情によりあきらめざるをえなかったものの(この日の曲目はモーツァルトの交響曲第40番とショパンのピアノ協奏曲第1、2番で、ピアノ独奏はユリアンナ・アヴデーエワさんだった)、18世紀オーケストラを率いた4日と6日の演奏、および15日の新日本フィルとの一夜は幸いにして聴くことができた。
曲目の選択に関しては異存がないわけでもない。まず、第一夜(4日)はベートーヴェンの交響曲第2番と第3番「英雄」だったのだが、世評はどうあれ、不幸にして私には、ブリュッヘンの音楽作りがベートーヴェンの曲とすごく相性がよい…という風には思えないのだ。どうせならハイドンを指揮してほしかった。私がいまだに、「モーツァルトやベートーヴェンもたしかにすばらしいが、ハイドンは彼らとは別格の、はるかに偉大な作曲家である」と、ごく自然に感じ、ごく当然のこととして信じているのは(そうでない他人が大勢いることを知ったときは実に衝撃的な思いがした)、間違いなく、ブリュッヘンと18世紀オーケストラによるハイドンの交響曲集(Philips、図1参照)をさんざんCDで聴いたからなのだ。あくまでも私見だが、モーツァルトの演奏にしても、録音に耳を傾けるかぎり、「リンツ」や「ハフナー」のような中期の交響曲のほうが、第40番や「ジュピター」より聴きごたえがあるように思う。おそらく、どこまでも均整と中庸を守りつつときおりほどほどの諧謔を織り交ぜてくる古典派的な形式美の世界に、これでもかとばかりに激烈な気迫で魂を吹きこみ、枠組に衝突するのをものともしないで力いっぱい暴れてみせるのがブリュッヘンの本領なのであって、ベートーヴェンのようにもともとあくの強い―そしてその点で彼に近い―作曲家が相手だと、このような流儀が作品そのものにうまく浸透していかず、一種の自家中毒とでも呼ぶべき結果をもたらしてしまうのではなかろうか。それでいて、第103番「太鼓連打」のフィナーレがなにやらフラクタル図形の生成を目の当たりにしているような不思議な快感を与えてくれることからもわかるように(マルク・ミンコフスキとルーヴル宮音楽隊の演奏では、フレージングの切り方がせっかちすぎてこうはいかない)、ハイドンの交響曲だと規模がちょうどよいのか、なぜかブリュッヘンは赫々と燃え盛りつつも形式への精妙な感覚が冴え渡るようなのも見落とせない点だ。

(図1)
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なんだか放言が過ぎるようで書いていて申し訳なくなってきたが、とにかくそんなわけで、私には当日会場の席に座った時点で、いまだ古典派の合理主義的な世界からベートーヴェンが脱しきっていない交響曲第2番のほうが、おそらく自分には「英雄」よりも違和感なく聴けるはずだという予感があった。そしてそれは的中した。第2番はいかにも試行錯誤というか、ベートーヴェンが彼独自の個性を確立する以前の時期の曲であって、軽妙で喜劇的な名作ではあるけれど、いわば調子の悪いエンジンがその場でぶるんぶるんとうなりをあげているような、どこかもどかしい単調さもある。古楽オーケストラとしては欧州随一であろう強力なティンパニと金管を擁した18世紀オーケストラの硬質な響きは、それを目もくらむような垂直の偉容に変貌させてしまう。不気味な真剣勝負のひとときだった。対して「英雄」は、CDを聴いたときと同様、第一楽章でしばしば急に遅くなる箇所が出てくるのにどうにもついていけない(もちろん遅いこと自体は別に欠点ではない。例えばクレンペラーやチェリビダッケのように一貫して遅いテンポを採用した場合には、それはそれで風格があって立派な「英雄」になるものだ)。なるほど、過去の名演として知られるもの、例えばフルトヴェングラーの録音からもテンポの急変は聞こえてくるが、あれは不世出の天才指揮者の名人芸という点を度外視するとしても、何はともあれ曲そのものの自然な呼吸に即した伸縮であるのに、ブリュッヘンの場合は、どうやらにぎやかなところは速く、弦楽合奏のみの部分は遅く…といった感じで機械的に緩急を決めているのか、かなり人工的な趣だ。痩せた響きの古楽器を用いながらこのような工夫を凝らすと、一つの楽章としての連続性が危うくなる。たとえるなら、勢いよくプールの壁を蹴って泳ぎ始めたはずの人が、なぜか何度となく動きを中断し、プールの底に足をつけてあてどなく佇立してしまう光景を見ているようで、暗中模索という意味での新鮮さは伝わってくるにせよ、いまいち気分が乗り切れない。古楽系の「英雄」としては、エマニュエル・クリヴィヌとラ・シャンブル・フィルハーモニック(naïve、図2参照)のほうが、あるいはトーマス・ヘンゲルブロックと北ドイツ放送交響楽団のほうが、前者は過剰な力みを排した終始速めのテンポで洗練された利口な演奏を繰り広げているという点で、また後者は、自身も弦楽合奏の歴史を熟知した指揮者が物理的に高性能な現代楽器群に古の奏法を仕込むことにより、極小から極大への、そして極大から極小への空前の劇的振幅―これぞ「英雄」の革新性であるとばかりに意気込んでブリュッヘンが狙ったはずの獲物―を、一貫性を失うことなく表現の中に定着しえているという点で、あるいはまさっているのではないか。一音一音を徹底的に管理せずには気が済まないらしいブリュッヘンの強烈な意志は、本来ならば第二楽章の悲愴な葬送行進曲でこそ威力を発揮するかとも思えるが、あいにく今度は第一楽章とは逆で、概して粘りが足りないというか、一貫してテンポが速めなので妙にあっさりした印象が生まれてしまう。また、物語的な展開にさほど思い入れがなさそうな彼の指揮のもとでは、後半の二つの楽章、特にフィナーレの変奏曲が、局所的には鮮烈な反面でやや流れが滞りがちで、ときに唐突とも感じられた。もともと「英雄」は全曲を一体のものとして破綻なく演奏しようと思うと何かしら知恵を絞る必要が出てくる曲のはずだが、ピエール・モントゥーやヘンゲルブロックと比べると、その手の大局的な視野は、ブリュッヘンの関心の中であまり大きな割合を占めてはいないようだ。

(図2)
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三日目、つまり6日の曲目は、シューベルトの交響曲第7(8)番「未完成」と、メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」の二曲だった。やはり曲の規模の問題か、シューベルトのほうが凄絶な名演だったように思う。私の考えるブリュッヘンの真骨頂は、一見健康そうな曲を誰にも真似のできない悪魔的な色で染め上げてしまうところにあった。そして、だからシューベルトなら交響曲第2番、メンデルスゾーンなら交響曲第4番「イタリア」あたりを演奏してほしい、あるいはいっそシューマンの第1番「春」か第2番、もしくはブラームスの第2番か第3番を聴きてえ、どうか聴かせてくだせえあたしのブリュりん、いやさブリュッヘン様…などと事前には思っていた。ところが、そんな身勝手なお願いをたちどころに粉砕してしまうような、聴く者を震えおののかせる「未完成」だったのだ。やはり比較的第一楽章は遅めで第二楽章は速いのだが、このような形式的に不備のある作品の場合だと、それが全体的な統一感を高める結果になっていたのが面白い。奏者たちは全員目が座りきっており、次の瞬間の我が身の安泰など毛ほども気にかけず、ひたすら一瞬一瞬の音に命がけで没頭していた。とりわけコントラバスの、曲の幕開けを告げる邪悪この上ない音色と、一糸乱れぬピチカートは忘れがたく、その後も何度か夢に見た。その瞬間の音に全身全霊を賭することによってこそ、何ら矛盾も不自然さもなく時間的な推移を表現できることがあるのだという一見逆説的な真理を、ただの一吹きの間に絶望の底から儚い希望へと転じるホルンが教えてくれるのだった。聴き終えてしばらく、私は拍手ができなかったことを告白せねばならない(このように恐るべき音楽に対して、軽々しい賛美の表明で応えるほかない自分の立場が無力に思えて歯がゆかった)。つづくメンデルスゾーンではこの生真面目さと一体感の強さが裏目に出たか、やはり短調の作品とはいえ演奏が曲想から微妙に乖離している感じを受けた。CDではペーター・マーク指揮オルケスタ・シンフォニカ・デ・マドリードの演奏(ARTS、図3参照)が定評のある名盤ということになっているのは、たぶん適度な投げやりさないし粗さが、滝のごとき自然な勢いを生みつつ随所で構造的な興味にも応えてくれる(内声部の動きを透かし見ることを可能にしてくれる)からではないかと思うのだが、ブリュッヘンの類稀な求心力が束ねる名人揃いの18世紀オーケストラには、狂的な推進力はあっても隙というか余裕は(ほとんど)ない。それでも第二楽章が民族舞踊風の爽快な活気というよりは死の舞踏のような怪しい雰囲気を漂わせていたのは面白かったし、しかもそれでいて、総じて明らかにベートーヴェンのときよりも流麗で情感のこもった仕上がりになっていたのは、あながち楽譜のせいばかりではあるまい。各楽器の音色もまろやかになり、調和が増していた。18世紀オーケストラの響きが、持ち前の個性を保ったままでもののみごとに初期ロマン派の語法を自家薬籠中のものとし、いわば「19世紀オーケストラ」に変身していたのだ。

(図3)
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最終日(15日)にブリュッヘンが指揮したのは新日本フィルハーモニー管弦楽団で、曲はシューベルトの交響曲第5番と、第8(9)番「ザ・グレイト」だった。第5番ではところどころで統率がやや不完全だったり、心もちリズムが曖昧になったりしたようでもあったが、それでも十分にすばらしい。なにより「ザ・グレイト」が、大きな感銘を与えてくれた。この曲は、ブリュッヘンと18世紀オーケストラによるシューベルトの交響曲全集(Philips、図4参照)の中で唯一私が抵抗感を覚えたもので、「ブリュッヘン印」とでも呼ぶほかない、さながらアンドロイドの筋肉繊維のきしみに耳を傾けているような心地になる猟奇的な音色といい、フィナーレの何かに憑かれたかのような常軌を逸した疾駆といい、あまりにも強すぎる表現意欲がどこか空回りしているように聞こえたものだ。だが、新日本フィルはもちろんブリュッヘンの子飼いではないし、そもそも生粋の古楽オーケストラではない。それゆえに指揮者の意図との間に適度な距離感が生まれえたのだ…などと書くとなんだか穿ちすぎの上、これ以前から共演を重ねてきた両者に失礼な気もしてくるが、ともかく18世紀オーケストラほど凶暴でも筋肉質でもなく、踏み込みが深くないことが結果的には好ましい方向に作用したというか、えぐさを軽減するように働いたのではないか(指揮者の方向性は全然違うが、ギュンター・ヴァントとベルリン・ドイツ交響楽団の「ザ・グレイト」が名演であるのと少し似た事情なのかもしれない。ついでながら、当日見たかぎりでは、新日本フィルの弦楽奏者は他の楽団と比べて女性の占める割合がかなり高いようだった)。といっても決して微温的なわけではなく、日本のオーケストラからはそう頻繁に聞けるとも思えない、ごつごつしたたくましいトゥッティの響きを堪能できたのは貴重な経験だった。

(図4)
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いずれの公演でも、ブリュッヘンは歩行に難があるらしく、車椅子に乗って入退場し、指揮の間もずっと椅子に腰かけていた。こんなことを書くのが許されるかどうか迷うのだが、正直なところ、見ていて鬼気迫るものがあった。痛々しく折れ曲がった枯木のような痩躯は、かつて私が録音を通じて、ハイドンの疾風怒濤期の交響曲群や、第82番「熊」をはじめとするパリ交響曲集、第88番「V字」に第92番「オックスフォード」、そしていまだに比肩するもののないロンドン交響曲集(特に第100番「軍隊」や第101番「時計」)の演奏に何度となく耳を傾けながら、憧れの中で思い描いていた颯爽たる英姿とはかなり違う。その事実が、無性に愛おしかった。稀代の藝術家の実演に生まれて初めて接したから―そして、もしかするとこれが最後かもしれない―という理由はもちろんあるが、きっとそれだけではない。私が感じていたものは一体何だったのだろう。敬老精神でもない。気力への気力、への尊敬であったか(ここ、書き損じではありませんことよ)。「ある英雄の思い出のために」―こんな副題をいまさらのように思いつきで記事に追加しても、どうにも恰好がつかないのである。
ありがとう、ミスター・ブリュッヘン。

category: 音楽

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