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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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日日日『のばらセックス』13 

「『のばらセックス』におけるアレゴリー(寓意)」なる題目で、以前から折を見て書いているものの続き(前回の記事はこちら)に取り組んでいるのだが…いやはや難物である。書けん、ほんまに書けん。
もっともいかがわしさを引き受ける覚悟であえて主張してしまうと、小生この小説は究極絶対の普遍的真理にして全人類を導く教科書であるから、分析の作業を面倒だからという理由で放棄するのは決してよろしくないと信じているのだけれど、それにしてもこう難航するとは思わなかった。
まあ、あれだ。『ささみさん@がんばらない』のほうは、自己同一性の混乱への志向―あるいはいっそう表現の正確を期すなら、対人関係の網の目の中である者の占めていた地位に別の者を再配置し、そのようにして正当な権利者がつつがなく愛を享受するのを妨害してやろうという趣向(この点は『ちーちゃんは悠久の向こう』以来一貫している)―やら書き手の女性性(異性の立場をあたかも我が身のこととして主体的に想像できるのは、まぎれもなく藝術家としての長所である)やらがもりもり入り込んでいるせいで、結果的にいまいち「萌え豚ホイホイ」としては煮え切らないものになっているというか、いざ父や夫の視点に立って特定の女性キャラクターを気楽に愛でようというつもりで鑑賞し始めるとどこかで裏切られちゃうこと必定の作品であるがゆえに、アニメ化したところでオタクの固定客はそこまで期待できないんじゃないかなー、みたいな不遜なことをぼんやり考える一方で、それに比べて『のばらセックス』はなんといっても坂本緒礼がいるだけに心強いというか、彼の狂気の愛が招いた女性の量産という奇蹟を通して、「おまえらここまで行き着かないといかんぜよ」的なドスの利いたオタクへのアジテーションがびしびし伝わってくるようでまことに頼もしく、漫画化するならぜひとも第I、ii章はエレクトさわる御大に、そして第i、II、III章は鈴木狂太郎さんにお願いしたい(第III章は『魔法教えました!!』所収の「茜色! 覗いていろ!」の感じで)! だとか、「身体の奥にある気持ちのいいつぶつぶを、ソプラノがひとつずつ潰して、何度も掻きむしってくれる」(注1)とある以上、おちば様の女陰はいわゆる「カズノコ天井」型であって「ミミズ千匹」型ではないのだなあ、ということはやはり日日日の書法はアレゴリー的な細分化(ヴァルター・ベンヤミン)に近いのであって、もしも西尾維新=ライプニッツ(この等式については「西尾維新論のために」を参照のこと)が似たような描写を手がけるとすればきっと「身体の奥にある気持ちのいいひだひだ」と書いてくれるのだろうなあウフフ(注2)…などという埒もない妄想をついたくましくしたりして、それで分析が進まなかったのである。じつに楽しい。
いや、もっと正直になるべきだろう。実は『のばらセックス』の第III章「いつかは散る薔薇」があまりにエロく、読んでいるとむやみと男性と性交がしたくて悶々としてくるので批評どころではなかったのである。ああ恥ずかしや恥ずかしや(しかし私はともかく、男子中学生がこの章を読んだらなんだか性的嗜好に取り返しのつかない影響を受けてしまいそうで、空恐ろしいことこの上ないな…)。

ただ―あまり弁解じみたことばかり書き綴るのもどうかとは思うが―、そもそも原理的な次元で合理的言説(ロゴス)への翻訳を拒むような要素がこの小説の、特に第III章にあるのも確かだろう。
あ、以下ラカン派精神分析の用語とか説明抜きで混じってくるんで本来は公開に適さないような気もするが、主に自分用の覚え書ですのでそのあたりはひらにご容赦ください。
例えば次のくだりである。

 それは絶対に噛み砕いてはいけない禁断の果実。舐めて味わう大事な大事なおちんちん。(注3)

たぶん他の作家、少なくとも男性作家であれば、ここはもっと別の書き方をするのではないか。つまり、第一文の「禁断の果実」なる隠喩に続けて、次の文でもなにがしかの隠喩を使用するか、もしくは第一文と第二文の順序を逆にし、まず「おちんちん」という正しい名称を挙げてから「禁断の果実」という隠喩に訴えるか、するところだろうと思うのだ。それなのに実際は、ご覧のとおり「禁断の果実」という隠喩の作りかけた秩序がその直後にもう「おちんちん」という正しい名称の登場によって突き崩されている。一応精神分析的には、藝術家といえどもめったなことでは現実的なファルス(男性器)を表象することはできないはずなのに(注4)、その前提が成り立たない。というか、言語や表象の秩序に風穴を開けるような形で唐突に現実的な「おちんちん」が闖入してくる。こういうものを強いて理性の言葉(象徴界)に翻訳しようとするのは、私にはなにかどうしようもなく徒労であるような気がしてならない。
同時に見逃してはならないのは「以前はよりあたしを苦しめるために眼球とかに射精したし」(注5)なる一文の存在で、ここを読むと他の多くの作家・藝術家とは違って、少なくともこの小説の場合、作者の動機が去勢(母の身から引き離されること)の否認というよりはむしろその逆、つまり去勢が不完全に終わったこと、換言すれば母との別れが、彼女の意志に関与の余地が与えられないほどの理不尽な事件として突発したことの否認であるように思えてくる。
しかしここから生じてくる(はずの)自主的な去勢への意欲は、とうとう私の身体から肉を削ぎ落として骨だけを残すまでに徹底されるや―「あたしたちは肉の身体で生きている。肉を癒し、快楽を与えてくれたものを、無条件で味方と信じる」(注6)なるくだりは欺瞞という負の価値を開示するのに対して、「ばちんばちんという互いの肉が当たる音は、もはや骨と骨がぶつかってがちんがちんになる」(注7)は正の価値を帯びていることに注目すべし。まったく、肉こそが真理と信じるメルロ‐ポンティに爪の垢を煎じて飲ませたいような冴えた指摘である―反転を遂げ、それにつれて「あたしの人生はあたしのものじゃない」(注8)という巻頭の自覚もまた、「外はきっと、あんたたちが胸を張って暮らせる世界だから」(注9)なる台詞からもうかがえるように、負から正への符合の逆転を経ることになる。自分の人生が徹頭徹尾自分だけのものであるわけではないということ、まさにこの命題がもたらす逆説的な豊かさを、性愛の経験を通じておちば様は学んだのだ。なんとなれば、我々は性愛の場において、他者の存在の侵入とそれに伴う自らの心身の流出とを、一方では逃れがたい宿命として思い知らされながら他方ではしばしば同時に目的として切に欲さずにいられないから、おまけに自分一人に限らず、誰しもそのように感じていることをも予感するからである。
となれば、社会常識的に見て明らかに男根への暗示として理解されうる、最初の頁の「ファック。ファック。ファック」(注10)という仕草との対照において、最後の頁の「みんな満面の笑顔で、ピース!」(注11)は単なる「平和(ピース)」や「勝利(Victory)」にとどまらずに"Vagina"すなわち膣をも意味しなくてはならないわけだが、そうなると男根的でない象徴界、あるいは女陰的な象徴界…などというけったいな代物を考えなくてはならなくなり、どうにもこのあたりで精神分析的な整理の試みが行き詰ってしまうようなのである。困ったことだ。
したがってまた、我々はいくら主人公だからといっておちば様一人を過度に英雄視して礼讃するわけにはいかない。彼女の変身はたぶん、主として自己中心的な立場からの脱却に認めうるものであるからだ。というか、『のばらセックス』の中から英雄的な壮挙を果たした登場人物を誰か一人選ぶとすれば、結局のところ彼女以上の自己犠牲的な創造のわざを実行した人、すなわち文字どおり我が身を削って彼女とその妹たちをこの世に送り出した緒礼(のばら様)こそが真っ先に名指されなくてはならないはずである。
とはいえ劣情に負けて実の娘を強姦したという行状からしてもなかなか緒礼の評価は難しく、おちば様にとっても、またおそらく大半の読者にとっても、彼の印象は卑小と偉大の間を揺れ動いて一定しないというのが正直なところではあるまいか。こうなるとジル・ドゥルーズの『意味の論理学』ではないが、ついパラドクス(逆説)の生産性などとうそぶきたくなってくる。
もっとも狭義の文学的な文脈に話題を限定するのであれば、より簡明なのは、例えば『プルーストと記号』の第一部4章にある、次の一節などだろう。ドゥルーズはここで、個別化をもたらす究極的な差異としての本質を藝術作品がいかに体現するかを究明せんとしつつ、本質(essence)を「スティル(style)」、すなわち文体もしくは様式そのものとして定義するに至っている。

 ある世界の性質であるがゆえに、本質というものは決してある対象とは混じり合わず、かえって反対に二つの全く異なる対象を近づけるのであり、それらに関して人は両者とも啓示的な環境においてこの性質を持っていると正(まさ)しく気づくのだ。本質がある物質の中に具体化するのと同時に、それを構成する終極的な性質はゆえに自らを相異なっているが、この光り輝く物質の中でこねあげられ、この屈折を生ぜしめる環境の中に浸(つ)かった二つの対象に共通な性質qualité commune〕として表現する。様式(スティル)〔文体〕が存するのはその点である。「描写される場に姿を見せていた諸対象は描写中で果てしなく継起せしめることができるが、作家がやがて二つの異なる対象を取り上げ、それらの関係、科学の世界において因果の法則という唯一無二の関係がそれにあたるような関係に藝術の世界において類比的である関係を定立し、そして両者をある美しい文体(スティル)の必然的な何重もの環の中に閉じ込める瞬間になってようやく真理は開始することであろう」。これはつまり文体(スティル)とは本質的に隠喩(メタフォール)であるということだ。しかし隠喩(メタフォール)というもの〔la métaphore〕は本質的に変身(メタモルフォーズ)〔métamorphose〕であり、そうしていかに二つの対象がそれらに共通性質を授ける新しい環境において、それらの規定を交換し、ひいてはそれらを指示する名前を交換するかということの次第を指している。こうして、エルスチールの絵では、海が陸地に、陸地は、海になっており、町は「海の用語」でしか、そして水は、「都会の用語」でしか指示されない 。つまり様式(スティル)は、物質を精神化して本質に適合的なものとするため、不安定な対立、起源的な折り合わせ、本質それ自体を構成していた本源的諸元素の闘争と交換とを再生産するのである。ヴァントゥイユのもとでは、格闘技のように二つの動機(モチーフ)が闘っているのが聞こえる。「本当を言えば、ただもっぱら力同士の格闘なのだ、というのもこれらの存在者が対決するとしても、それは両者の物理的身体を、両者の外観を、両者の名前を取り払われた上でのことなのだから…」 。一つの本質とはつねにちょっとした世界の誕生である。しかし様式(スティル)とは継続され屈折せしめられたこの誕生、諸本質に適合的な物質の中に見出されたこの誕生、対象らの変身と化したこの誕生である。様式(スティル)は人間ではない、様式(スティル)、それは本質それ自体である。(注12)

このゆえにドゥルーズにとって藝術作品とは、真理を生産する一種の「機械」であらねばならない(注13)。そしていみじくも『プルーストと記号』第二部1章が「反理性(Antilogos)」と題されていることからもわかるように、文学作品もまたそのような強度の両義性、ないし逆説性の機械であるからには、知性の先行性は、有機的な全体性ともどもあくまで拒絶されるべきなのだ。いかにも、所与としての全体とそれを見抜く理性、というギリシャ的な発想に則った作品が現に存在するという事実は否めない。しかし、ドゥルーズの考えでは、それには時間が欠落しているのだ。

 反対に〈時間〉を、対象〔objet〕とする、あるいはむしろ題材〔sujet〕とする一つの作品がある。それはもはや貼りなおされることのできない断片の数々を、同じ嵌め絵(パズル)の中に入りはせず、一つの先行的な全体性に所属してはおらず、一つの一体性から流出することはたとえ失われた一体性からであってもない破片の数々を関わり相手とし、自らとともに引きずっている。たぶんこれこそがかのもの、時間なのだ。適応させられることを潔(いさぎよ)しとしない、同じ律動に即して展開することのない、そして文体の河が同じ速度で押し流すことのない寸法も形態も相異なる部分らの終極的な実存なのだ。宇宙(コスモス)の秩序は崩壊し、数々の連想の鎖と数々の交流しない観点との中で細分された。諸記号の言語活動は不幸と嘘との資源へと還元され、それ自体のために語り始める。それはもはや存続する〈理性(ロゴス)〉に依拠してはいない。ひとり藝術作品の形式的構造のみは自らが使用する断片的な材料を、外的な指示〔référence〕なしに、寓意的もしくは類比的な格子なしに解読できることだろう。(注14)

末尾でドゥルーズが「寓意的もしくは類比的な格子」をも拒否している点については、名前は同じであってもベンヤミン的な「寓意(アレゴリー)」は一般的な用法よりもかなり彼独自の哲学的含蓄がこめられた概念になっており、むしろ先の引用文中の表現を借りるなら、「不安定な対立、起源的な折り合わせ、本質それ自体を構成していた本源的諸元素の闘争と交換」という、ドゥルーズ的な文体の諸特性を深く刻印されていることを指摘しておく必要があるのかもしれない。それはさておき、『失われた時を求めて』の作中には、フェルメールの描いた『デルフトの眺望』の小さな黄色い壁面、ヴァントゥイユの作曲したソナタが含む小楽節、バルベックの地にある教会の竜の彫刻と、まさしく不協和な諸部分の事例がめじろおしである。我々はそれらから何を学ぶべきなのか。

バルベックの竜ども、フェルメールの壁面、小楽節という、神秘的な観点らは、シャトーブリアンの風と同じことを我々に言ってくれる。それらは「共感」抜きで作用する、それらは作品を一つの有機的全体性にするのではなく、かえってむしろある結晶化を規定する一つの断片として機能する。我々がやがて見るように、藝術にとっても性(セクシュアリテ)にとっても、プルーストのもとでは植物の手本(モデル)が動物的な全体性のそれに入れ替わっているのはたまたまではない。かかる作品は、時間を題材〔sujet〕とするのだから、格言(アフォリズム)によって書く必要すらも持たない。〈反(アンチ)‐理性(ロゴス)〉という文体〔un style Anti-logos〕の何重もの紆余曲折と環との中でこそその作品は終極的な諸破片を集めなおすため、全ての諸断片を数々の相異なる速度で押し流すために必要なだけの迂回を行なうのであってそれらのおのおのはある異なった集合へと送り返すか、あるいは全くいかなる集合へも送り返さないか、あるいは文体の集合以外のいかなる集合へも送り返さないかである。(注15)

しばし引用が続いたので改めて要約すると、第一に隠喩(メタフォール)ないし変身(メタモルフォーズ)としての文体は「いかに二つの対象がそれらに共通性質を授ける新しい環境において、それらの規定を交換し、ひいてはそれらを指示する名前を交換するかということの次第を指している」こと、第二にそのような逆説の編成であることによって、文体は当然にも互いの間の共感を欠く諸部分の齟齬から切り離せないこと、第三にかくして時間そのものが作品の題材‐主体(sujet)とならねばならないとともに、植物が動物の代わりに手本の位置を占めるようになること、この三点はともかく確認しておきたいところだ。
さて、この三点を念頭に置いた上で再び『のばらセックス』に戻ると、いずれの論点ももののみごとに作品の実態に符合しているということに、誰しも驚かされるはずだ。あとの二点から検討を始めると、まず共感なきちぐはぐな諸部分の並存(第二点)については、相継ぐ勘違いや欺瞞の連続が作品の筋書そのものを形成しているという事態からたやすく読みとることができる。なかんずく見逃せないのは、野性的で人の世の理を十分に解さない加工種(エルフ)のソプラノが、まさにそれゆえにおちば様にとって魅力的な恋人となりうる(注16)と同時に、他方では―その善良で素朴な性格とは裏腹に―流血を伴わぬ性行為では興奮できない残虐なサディストでもあり、したがって対人関係においても、のみならず彼自身の内部にも齟齬を抱えこんでいる存在であるばかりか、その男性器は「嘘ばかりの彼の身体のなかで数少ない正直な部分」(注17)として、身体の残りの部分をさしおいて例外的な厚遇に値するという事実であろう。次に時間の作用、および植物的な比喩の特権的な地位(第三点)も、多少身を入れて通読すれば誰しも見落としようがないほどに明らかだ。例えば、前者については、「彼らがあたしにしたことは、いまも激痛をともなって刻みこまれているけれど。乗りこえていける、まだ、子供なあたしたちだから。/すべての痛みを傷を、成長の糧にできる、きっと」(注18)や、空行が前後を区切る「三年がすぎた」(注19)―余談ながらこんな風に一切の不純な説明を除去して一挙に時の経過を加速させてしまう空行はフローベールの『感情教育』にもあり、プルーストはこれを同書のいかなる文章よりも美しいと評価した(注20)―等の箇所を、また後者については「植物刑」の制度を、そしてそれに加えておちば様の名前の由来―「おまえの名前は、祈りだ。〔中略〕派手なばかりの薔薇よりも、この世界の肥やしになる落ち葉になってほしかった」(注21)―をも参照しなくてはなるまい。
しかし、この二点にもまして基本的なのは第一点、すなわち藝術作品を藝術作品たらしめる文体ないし様式(スティル)というものは、何はさておき互いに遠く隔たった二つの異なる対象の間に共通性質(qualité commune)を樹立し、そのようにして逆説の編成から真理を生産する運動であらねばならないという論点であろう。すでに見たとおりドゥルーズが例として挙げているエルスチールの絵では、「海が陸地に、陸地は、海になっており、町は『海の用語』でしか、そして水は、『都会の用語』でしか指示されない」。これに近い状況も、探そうと思えば『のばらセックス』の中にいくらでも見つかるはずである。わかりやすいものとしては、次の台詞が好例であろう。

「ね、あんた童貞でしょ?」
 耳元で囁いてやると、セノンは面白いぐらいに全身をびくんと痙攣させた。
「あたしが捨てさせてあげる、あんたのおちんちんの処女膜―だから、お願い、あたしの味方になって。たくさん、あたしのなかでシコシコしてあげる、おしっこにしか使ったことないあんたの童貞ちんこ。だから、ね、あたしを助けて……」(注22)

おそらくこれが『のばらセックス』全篇を通じて最も猥褻な台詞であり、その種のものとしては谷崎潤一郎作『刺青』の掉尾を飾る「お前さんは真先に私の肥料(こやし)になったんだねえ」(注23)などと並んで日本文学史上に残るべき屈指の力作と思える。この猥褻さの由来はやはり主として、女性器のごとき男性器(「あんたのおちんちんの処女膜」)と自慰のごとき性交(「たくさん、あたしのなかでシコシコしてあげる」)という逆説的な比喩を通じて、通常は能動的であるはずの男性の性行動に女性的ないし幼児的な受動性を人為的に刻印してしまう過程に求めるべきなのではないか。いまだ経験したことのない未知の快楽を前にして童貞の男子が覚えざるをえない期待も不安も、これによって否が応でも強調されるというものだ。
問題は、この種の逆説的な生産性が単にいましがた引用した台詞にとどまらず、『のばらセックス』を最初から最後まで貫いていることである。少女のように可愛らしい年下の恋人(ソプラノ)がその実残虐な殺人鬼でもあったり、憎からず思っているとはいえ父に相当する男性(義父の「あいちゃん」こと坂本逢)から結婚を迫られて困惑するもなぜか本人ではなくて召使に強姦され、あげくは偽物とわかったこの父(実は祖父)を自分の手で絞め殺す羽目になったり、自ら愛する母(のばら様)に扮して、破廉恥な性的饗宴の中で彼女の姿を穢してから快楽の絶頂で首を切り落とさせたりと、おちば様が作中で経験する諸々の事件はことごとく同時に正負の二方向に引き裂かれており、まさにその亀裂から筋書を前へ前へと推進する原動力が絶え間なく生じてくるのだ(注24)。
なるほど、日日日の他の作品をひもとけば、「顔で笑って心で泣いて」的な外面と内面の背反をいくらでも拾ってくることはできるのだろうし、あまつさえ『私の優しくない先輩』のごとく、心それ自体の二方向への分裂から好悪の差し引き勘定を経て発生してくる感情の強度に関しても、事例に事欠かないで済みそうではある(注25)。だがそれでも『のばらセックス』が特別でありうるのは、肉体的快楽そのものが精神に対して発揮する暴力性と欺瞞性とを通じて、いわば「快原理の彼岸」(フロイト)に達する視野を読者に開いてくれるからでもあり(「日日日『のばらセックス』11」)―この点において、本作は一見ポルノグラフィでありながらも同時に苛烈なほど禁欲的な書でもあるのだ―、またひいては、男性である緒礼が(女性化した上で弟と交わって)子を出産し、娘であるおちば様が(怪しげな機械を介して)父である綿志の射精を我が身のこととして追体験するというこよなく極端なねじれの中で、逆説性がほとんど個人の実存の根底に抜きがたく食い入った、生成の欠くべからざる条件として現れてくるから、そしてそのようにして存在論的な価値を帯びてしまうからでもある。むろんこの場合の「個人」とは、緒礼と綿志がともに日本語の一人称である「俺」と「私」に通じる一方で、おちば様はときに一人称(「あたし」)で話者を兼ねる主人公であるということからも明らかなように、言語を通じて自己意識を表出するかぎりにおいて全ての読者が共有せざるをえない人称としての「我」であり、それ以外ではありえまい。
このような作品を前にして、出来合いの理性的な枠組を押しつけて事足れりとするような怠慢は許されまい。というよりも我々が『のばらセックス』から読みとるべきなのは、知性を含めてありとあらゆる諸能力を、有無を言わさず活動へと押しやる、最も根底的な触発の力としての生の逆説性そのものではないのか。
どうやら記事が書けない理由をああだこうだと考えているうちに、いつの間にやら一本記事ができてしまったようなので、ここらでそろそろ切り上げることにしたい。と、その前にもう一度『プルーストと記号』を引用して、本質が宿る諸記号に対する知性の避けがたい事後性という問題について、ドゥルーズの考えを参照しておくとしよう。もっとも彼は創作家の態度について述べているのだが、『失われた時を求めて』と同様に『のばらセックス』もまた一種の藝術家小説であり、小説家の心がまえを探究した小説であるという私の考えに何ほどかの妥当性があるとすれば(「日日日『のばらセックス』7」「日日日『のばらセックス』9」)、そして上述したようにこの小説における逆説の機構が頁を開く者一人一人の生を巻き込んでしまうような性格を持っているのだとすれば、以下の省察を『のばらセックス』の読者の参考に供したところであながち場違いとも限るまい。

 プルーストはプラトン派である、ただし漠然とではない、なぜならば彼はヴァントゥイユの小楽節に関して諸本質ないし諸〈理念(イデー)〉を引き合いに出すからだ。プラトンは諸々の出会いと諸々の暴力という記号〔旗印〕の下にある思考の像(イマージュ)を我々に提供する。『国家』中のある文章(テクスト)で、プラトンは世界における二種類の事物を区別する。思考を非活動的なままにしておくか、あるいは思考に対してもっぱら活動の外観という口実をしか与えない諸事物と、思考させてくれる、思考することを強いる諸事物である 。前者は再認の諸対象である。全ての諸能力(ファキュルテ)〔facultés〕はこれらの対象に対して行使されるが、ただしある偶然的な(コンタンジャン)〔contingent〕行使においてなのであって、それが我々に「これは一本の指だ」、これは一個の林檎だ、これは一軒の家だ…、等々と言わせる。反対に、思考することを我々に強いる数々の他の事物がある。もはや再認可能なreconnaissables〕対象ではなく、かえって暴力を振るう事物、出会われるrencontrés〕記号だ。これは数々の「同時に反対な知覚」である、とプラトンは言う。(プルーストはやがて、二つの箇所に、二つの瞬間に共通な感覚と言うことだろう。)感覚的記号は我々に暴力を振るう。それは記憶を動員する、それは魂を運動させる。しかし魂は魂で思考を動かし、感性の強制をそれに伝え、思考されなくてはならぬ唯一の事柄として、本質を思考することをそれに強いる。こうなると諸能力(ファキュルテ)〔facultés〕はある超越的な行使の中に入り、そこではおのおのが自らの固有な極限に立ち向かって合流する。記号を把握する感性。それを解釈するものである、魂、記憶。本質を思考することを強いられた思考。ソクラテスは正当にもこう言うことができる。私は友人である以上に〈愛神〉である、私は愛する者である。私は哲学〔知への愛(la philosophie)〕である以上に藝術〔技術(l'art)〕である。私は善意(ボンヌ・ヴォロンテ)というよりはむしろ、シビレエイであり、強制と暴力であると。『饗宴』、『パイドロス』および『メノン』は三つの偉大なる諸記号の研究である。
 しかしソクラテスの守護神(ダイモーン)、皮肉(イロニー)は、諸々の出会いに先んじることに存する。ソクラテスのもとでは、知性がなおも諸々の出会いに先立つのだ。それはそれらを惹き起こす、それはそれらを掻き立てまたそれらを組織する。プルーストの諧謔(ヒューモア)はある別な本性のものである。ギリシャ的皮肉(イロニー)に対抗するユダヤ的諧謔(ヒューモア)だ。諸記号に対する天分に恵まれていること、それらの出会いに自らを開くこと、それらの暴力に自らを開くことが必要である。知性はつねに事後にやって来る、それは事後にやって来るときに優良であり、事後にやって来るときにしか優良でない。プラトン主義に対するこの差異が他にもたくさんの差異を誘発するのはいかにしてかを我々は見届けている。〈理性(ロゴス)〉などありはしない、数々の象形文字(ヒエログリフ)があるだけだIl n'y a pas de Logos, il n'y a que des hiéroglyphes〕。思考するということ、それはだから解釈することである、それはだから翻訳することである。諸本質とは一度に翻訳すべき事柄でも翻訳自体でもあり、記号でも意味でもある。それらは思考することを我々に強いるべく記号の中に巻きつく、それらは必然的に思考されるべく意味の中に解(ほど)ける。いたるところに象形文字(ヒエログリフ)があり、その二重の象徴は出会いの偶然(アザール)〔hasard〕と思考の必然性である。「偶発的にして不可避」。(注26)




(1)日日日『のばらセックス』(講談社、2011年)284頁。
(2)ライプニッツ哲学における「襞(pli)」の概念の諸相については、ジル・ドゥルーズ著『襞―ライプニッツとバロック』(宇野邦一訳、河出書房新社、1998年)が参考になる。
(3)日日日『のばらセックス』(前掲書)299頁。
(4)藤田博史『人形愛の精神分析』(青土社、2006年)66-70頁。
(5)日日日『のばらセックス』(前掲書)303頁。
(6)同書180頁。
(7)同書304頁。引用に際して、傍点が付してある箇所を太字に改めた。
(8)同書8頁。引用に際して、傍点が付してある箇所を太字に改めた。
(9)同書379頁。
(10)同書8頁。
(11)同書386頁。
(12)Gilles Deleuze, Proust et les signes, Paris, P.U.F., 2007, p.61-62: « Etant qualité d'un monde, l'essence ne se confond jamais avec un objet, mais au contraire rapproche deux objets tout à fait différents, dont on s'aperçoit justement qu'ils ont cette qualité dans le milieu révélateur. En même temps que l'essence s'incarne dans une matière, la qualité ultime qui la constitue s'exprime donc comme la qualité commune à deux objets différents, pétris dans cette matière lumineuse, plongés dans ce milieu réfractant. C'est en cela que consiste le style: "On peut faire se succéder indéfiniment dans une description les objets qui figuraient dans le lieu décrit, la vérité ne commencera qu'au moment où l'écrivain prendra deux objets différents, posera leur rapport, analogue dans le monde de l'art à celui qu'est le rapport unique de la loi causale dans le monde de la science, et les enfermera dans les anneaux nécessaires d'un beau style". C'est dire que le style est essentiellement métaphore. Mais la métaphore est essentiellement métamorphose, et indique comment les deux objets échangent leurs déterminations, échangent même le nom qui les désigne, dans le milieu nouveau qui leur confère la qualité commune. Ainsi, dans les tableaux d'Elstir, où la mer devient terre, la terre, mer, où la ville n'est désignée que par des "termes marins", et l'eau, par des "termes urbains". C'est que le style, pour spiritualiser la matière et la rendre adéquate à l'essence, reproduit l'instable opposition, la complication originelle, la lutte et l'échange des éléments primordiaux qui constituaient l'essence elle-même. Chez Vinteuil, on entend lutter deux motifs, comme dans un corps à corps: "corps à corps d'énergies seulement, à vrai dire, car si ces êtres s'affrontaient, c'est débarrassés de leur corps physique, de leur apparence, de leur nom...". Une essence est toujours une naissance du monde; mais le style est cette naissance continuée et réfractée, cette naissance retrouvée dans des matières adéquates aux essences, cette naissance devenue métamorphose d'objets. Le style n'est pas l'homme, le style, c'est l'essence elle-même ».たぶん察しがつくとは思うが一応補足を加えておくと、エルスチールとヴァントゥイユはともにプルーストの『失われた時を求めて』に出てくる架空の人名で、前者は画家、後者は作曲家である。
(13)Ibid., p.176.
(14)Ibid., p.136-137: « Au contraire une œuvre qui a pour objet, ou plutôt pour sujet, le Temps. Elle concerne, elle traîne avec elle des fragments qui ne peuvent plus se recoller, des morceaux qui n'entrent pas dans le même pazzle, qui n'appartiennent pas à une totalité préalable, qui n'émanent pas d'une unité même perdue. Peut-être est-ce cela, le temps: l'existence ultime de parties de tailles et de formes différentes qui ne se laissent pas adapter, qui ne se développent pas au même rythme, et que le fleuve du style n'entraîne pas à la même vitesse. L'ordre du cosmos s'est effondré, émietté dans des chaînes associatives et des points de vue non communicants. Le langage des signes se met à parler pour lui-même, réduit aux ressources du malheur et du mensonge; il ne s'appuie plus sur un Logos subsistant: seule la structure formelle de l'œuvre d'art sera capable de déchiffrer le matériau fragmentaire qu'elle utilise, sans référence extérieure, sans grille allégorique ou analogique ».
(15)Ibid., p.138-139: « Les dragons de Balbec, le pan de mur de Ver Meer, la petite phrase, mystérieux points de vue, nous disent la même chose que le vent de Chateaubriand: ils agissent sans "sympathie", ils ne font pas de l'œuvre une totalité organique, mais fonctionnent plutôt comme un fragment qui détermine une cristallisation. Nous le verrons, ce n'est pas par hasard que le modèle du végétal chez Proust a remplacé celui de la totalité animale, tant pour l'art que pour la sexualité. Une telle œuvre, ayant pour sujet le temps, n'a même pas besoin d'écrire par aphorismes: c'est dans les méandres et les anneaux d'un style Anti-logos qu'elle fait autant de détours qu'il faut pour ramasser les morceaux ultimes, entraîner à des vitesses différentes tous les fragments dont chacun renvoie à un ensemble différent, ou ne renvoie à aucun ensemble du tout, ou ne renvoie à aucun autre ensemble que celui du style ».
(16)日日日『のばらセックス』(前掲書)261頁。
(17)同書298頁。
(18)同書354頁。
(19)同書379頁。
(20)フローベール『感情教育(下)』(生島遼一訳、岩波文庫、2004年第19刷)292頁、プルースト「文体とその周辺」(鈴木道彦訳)、『プルースト評論選I 文学篇』(保苅瑞穂編、ちくま文庫、2002年)229-230頁。なお、『感情教育』の訳者の名(「遼一」)が含む「遼」の字体は、岩波文庫版だとしんにょうの点が二つなのだが、表示できないようなので一つに減らさざるをえなかった。
(21)日日日『のばらセックス』(前掲書)212、373頁。
(22)同書202-203頁。
(23)谷崎潤一郎『刺青・秘密』(新潮文庫、2004年第71刷)17頁。
(24)なお以前も私はこの作品について、「めまぐるしくなるほどあちらこちらに、状況の反復や対称や反転がはりめぐらしてある」(「日日日『のばらセックス』7」)と書いたことがある。
(25)日日日『私の優しくない先輩』(2010年、講談社)118頁。
(26)Gilles Deleuze, Proust et les signes, op. cit., p.122-124: « Proust est platonicien, mais non pas vaguement, parce qu'il invoque les essences ou les Idées à propos de la petite phrase de Vinteuil. Platon nous offre une image de la pensée sous le signe des rencontres et des violences. Dans un texte de la République, Platon distingue deux sortes de choses dans le monde: celles qui laissent la pensée inactive, ou lui donnent seulement le prétexte d'une apparence d'activité; et celles qui donnent à penser, qui forcent à penser. Les premières sont les objets de recognition; toutes les facultés s'exercent sur ces objets, mais dans un exercice contingent, qui nous fait dire "c'est un doigt", c'est une pomme, c'est une maison..., etc. Au contraire, il y a d'autres choses qui nous forcent à penser: non plus des objets reconnaissables, mais des choses qui font violence, des signes rencontrés. Ce sont des "perceptions contraires en même temps", dit Platon. (Proust dira: sensations communes à deux endroits, à deux moments.) Le signe sensible nous fait violence: il mobilise la mémoire, il met l'âme en mouvement; mais l'âme à son tour émeut la pensée, lui transmet la contrainte de la sensibilité, la force à penser l'essence, comme la seule chose qui doive être pensée. Voilà que les facultés entrent dans un exercice transcendant, où chacune affronte et rejoint sa limite propre: la sensibilité qui appréhende le signe; l'âme, la mémoire, qui l'interprète; la pensée forcée de penser l'essence. Socrate peut dire à bon droit: je suis l'Amour plus que l'ami, je suis la torpille, la contrainte et la violence, plutôt que la bonne volonté. Le Banquet, le Phèdre et le Phédon sont les trois grandes études des signes./Mais le démon socratique, l'ironie, consiste à devancer les rencontres. Chez Socrate, l'intelligence précède encore les rencontres; elle les provoque, elle les suscite et les organise. L'humour juif contre l'ironie grecque. Il faut être doué pour les signes, s'ouvrir à leur rencontre, s'ouvrir à leur violence. L'intelligence vient toujours après, elle est bonne quand elle vient après, elle n'est bonne que quand elle vient après. Nous avons vu comment cette différence avec le platonisme en entraînait beaucoup d'autres. Il n'y a pas de Logos, il n'y a que des hiéroglyphes. Penser, c'est donc interpréter, c'est donc traduire. Les essences sont à la fois la chose à traduire et la traduction même, le signe et le sens. Elles s'enroulent dans le signe pour nous forcer à penser, elles se déroulent dans le sens pour être nécessairement pensées. Partout le hiéroglyphe, dont le double symbole est le hasard de la rencontre et la nécessité de la pensée: "fortuit et inévitable" ».なお、この原文を読めばわかるとおり、ドゥルーズは『メノン』でなく『パイドン』〔Phédon〕と書いているが、ソクラテスが「シビレエイ」になぞらえられるのは『メノン』であるので、訳出に際して書名を変更した。
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category: 『のばらセックス』

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