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一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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日日日『のばらセックス』12 

『のばらセックス』におけるアレゴリー(寓意)について。

一応以前の記事(日日日『のばらセックス』11 )の続きで、この主題の論考としては通算第三回ということになるのだが、期間が開きすぎて明らかに連載の体をなしていないのはいかがなものか。別に誰かに頼まれて書いているわけでもないとはいえ、自分でやると約束したことくらいは守りたいものだ。もともと我ながら呆れるほかない怠け癖をどうにかしたいという動機があって始めたのだが、やはり私にブログは向いていないのかのう…ま、愚痴はさておき、とりあえず書く。

以下で検討してみたいのは第ii章「謝肉祭のハーモニー」である。義父の「あいちゃん」こと坂本逢(に化けた祖父)の館から救出されたおちば様は、これまで自分の母親と信じてきた人物、すなわち男性しかいない世界に二千年ぶりに誕生した「女性」であり、全人類の憧れの的であるのばら様が、実は坂本三兄弟(逢、緒礼、綿志)の合作であり、主に次兄の緒礼―目下、娘を強姦した罪で「植物刑」に処され、記憶や人格を剝奪されている―が演じていた、架空の存在にすぎないことを知って動揺する。彼らは、強大な権力を一手に握る自分たちの父親に対抗するために、全世界を味方につける必要があったのだ。しかるにいまやおちば様の手で彼がこの世から葬り去られた以上(第II章「ずっと薔薇色なわけがない」)、のばら様という偶像もまた、完全に当初の存在意義を失っていると考えるほかない。
ここにおいて、母親ではなくて自分こそが「世界で一番目の」、そしてたった一人の女性であるという真実は、おちば様にある決意を促す。

 これでよいのかと考えた。おちば様は無知な子供で、これまで何度も騙されてきた。いまだに、すべてを理解しているとは言えないだろう。勝手に行動して、取りかえしのつかないことをしでかすより、誰もいない山奥にでも引きこもって何もかもを見ないふりをしたほうが賢いかもしれなかった。
 それでも。
 何もしないでむざむざ生き残るよりも、自分の未来のために殉じて死にたかった。
 怒りもあった。
 馬鹿にして、おちば様の人生を弄んできた運命とか悪意とかを、蹴り飛ばしてやりたかった。
 すべては三兄弟がお膳立てし、構築した神話で、つくりあげた偶像で、その残骸だった。
 彼らの敵はすでに倒れ、終わったはずの神話が壊れた蓄音機のように延々と垂れ流されている。
 けれど神はすでに死んだのだ。
 のばら様はどこにもいないし、彼女をずっと捜し求めるのも虚しいだけ。
 のばら様を乗りこえないかぎり、おちば様の人生は始まらない。(注1)

このような決意を胸に秘めて、おちば様は年に一度の謝肉祭(21日間の休暇)の最中に、一世一代の大芝居を打つ。のばら様に変装して群衆の中に姿を現わし―そして周囲の男性たちと猥褻な戯れを演じて彼女の品位を穢した上で(もっともこの件については偶然の要素がかなり働いているが)―、自身の首を、衆目の面前で加工種(エルフ)の恋人であるソプラノに切断させることで、誰もがのばら様への憧れを断念せざるをえない状況を作り出すことにしたのだ。
ここでは、彼女の行動を逐一追跡するのではなく、三つの局面を抽出することで、ヴァルター・ベンヤミンのアレゴリー論との接点を探ってみたいと思う。

(一)メランコリー
ベンヤミンは、『ドイツ悲哀劇の根源』において、バロック期の悲哀劇(Trauerspiel)を特徴づける「悲哀」の境地を、ルター派が上流階級の間に広めた憂鬱感から生じたものとして説明している。信仰の重視と善行の無効化は人生を平板化してしまいかねず、鋭敏な人ほど人生の意味を見失って倦怠に襲われがちだったのである。

悲哀とは、感情がこの空疎になった世界を仮面のようにあらたに生き返らせ、その世界をながめることに謎めいた満足をおぼえる心の応じ方である。どの感情も、一つの先験的な対象に結びついており、この対象を描き出すことが感情の現象学なのである。したがって、悲哀の理論は、古代悲劇の理論と対をなすものとしてはっきり姿を現わしたからには、まさにメランコリックな人のまなざしのもとに現われるこの世界を記述することでしか展開することはできない。(注2)

このように、世界の空疎さを目前に見ていながら、手の施しようもなくただいたずらにこれを弄び、これと戯れるような態度を指して、ベンヤミンはメランコリー(憂鬱)と呼ぶ。形式と内容の緊密な一体性ゆえにシンボル(象徴)を礼賛し、返す刀で両者の乖離を特徴とするアレゴリー(寓意)を、わざとらしくぎこちないものであるという理由で低く評価してきた美学の伝統に逆らって、まさに「歴史の死相が硬直した原風景として考察者の目のまえに広がる」というところ(注3)、あるいは「生と芸術を美化し、それらを耐えうるように見せかける全体的とか有機的なものという仮象の追放にかかわらなければならない」(注4)というところにアレゴリー的な表現の真骨頂を認めたベンヤミンが、アレゴリカー(寓意の作り手)が意味の賦与に関して保持する恣意的な権能を説明する中で、メランコリーの感情こそアレゴリーの苗床なのだと書くのはそのためであろう。

 対象がメランコリーのまなざしにさらされてアレゴリー的なものとなり、メランコリーがその対象から生命を排出させ、対象が死物と化しながらも、しかし永遠に確保されたものとしてあとに残るとき、対象は無条件に身柄をアレゴリカーに引きわたされたまま彼のまえに横たわる。ということはつまり、対象はそのときから一つの意味、一つの意義を内から発することがまったくできなくなるということである。意味はといえば、アレゴリカーが与えるものが対象の意味となる。(注5)

ところで、ドイツ語の「悲哀(トラウアー)」には「喪」という意味もある。そして、ベンヤミン(Walter Benjamin, 1892-1940)よりもだいぶ年上だが没年は近い精神分析の創始者フロイト(Sigmund Freud, 1856-1939)には、「喪とメランコリー」〔« Trauer und Melancholie »〕なる題名の著名な論文があり(1917年)、その中で彼は、メランコリーというものを「深い苦痛にみちた不機嫌と外的世界への関心の撤去とによって、愛情能力の喪失によって、および何ごとの実行をも妨げる制止と自尊感情の引き下げとによって」特徴づけ、最後に挙げた「自尊感情の障碍」がないことを除けば喪はメランコリーと同じものであり、両者はともに「愛された対象を喪失したことへの反応」であるとしつつも、喪の場合は対象となる人物が故人でなくてはならないのに対して、メランコリーの場合は「たとえば現実に死んだのではなくて、愛情対象であるかぎりにおいて失われてしまったのだ」と述べて二つの心境を区別している(注6)。となれば次に問うべきは、メランコリーを喪から分かつ「常軌を逸した自我感情の引き下げ、見事なまでの自我の貧困化」の所以である。フロイトはこの問いに答えるべく、メランコリー患者の自己告訴が、詳しく調べてみるとしばしば患者が愛しているか、またはかつて愛していた人物にこそ当てはまるという事実に注目を促す。メランコリー的な意気消沈は、その実反逆を裏に隠しているというのだ。そして彼は、何かの拍子に対象に対する幻滅を覚えた結果として、もはや対象そのものは愛情に値しないのに、愛情を捨てることはがえんじない患者が、リビード―辞書的な定義では、この語は「性的欲動にそなわった精神的エネルギー」を意味する(注7)―を対象から自我へと撤収させた上で、この対象の代わりの自我を、または自我における対象を徹底的に非難している…という仮説を立ててみせるのである。

 この過程を再構成するのは少しも難しくない。まず、ある対象選択、すなわち特定の人物へのリビードの拘束が存在した。次いで愛された人物の側から現実の侮辱や失望を蒙り、その影響によってこの対象関係は揺るがされた。それに続いて生じたのは、リビードをこの対象から撤収して新たな対象に遷移させるという正常な結果ではなく、別の、その実現のためにより多くの条件が要求されるように見える結果だった。すなわち、対象備給はほとんど抵抗力がないことが明らかにされ、撤去された。だが自由になったリビードは他の対象へと遷移させられず、自我の内に撤退させられた。しかしリビードはそこで任意の使用に供されたのではなく、断念された対象への自我の同一化を打ち立てるために使われた。そのため対象の影が自我の上に落ちて、自我はいまや、あたかも一つの対象のように、見捨てられた対象のように、ある特別な審級から判定することができるものになった。以上のような仕方で、対象喪失は自我喪失へと転換され、自我と愛された人物との間の葛藤は、自我批判と同一化によって変容された自我との間の内的葛藤へと転換されたのだ。(注8)

結局、フロイトによれば、メランコリーにおける病的なまでの自己批判は、いわばナルシシズム(自己愛)への退行としてのこのような葛藤の内面化に由来する、自己へのサディズムであるという。

愛情の対象それ自体は放棄されているのに、対象への愛情が放棄されることに抗い、ナルシス的同一化の中に逃げ込むと、この代替対象に対して憎しみが働き、それを罵り、貶め、苦しめる。そして憎しみは、その苦しみからサディズム的な満足を獲得する。メランコリーにおける明らかに享楽に満ちた自己虐待は、強迫神経症におけるそれに相当する現象と同様、サディズム的傾向ないし憎悪傾向の満足がそこに存することを教える。そうした傾向は一つの対象を目指しており、上述の経路をたどってわが身へと向き直ったのだ。〔中略〕
 このサディズムによってはじめて、メランコリーをこれほど興味深い、そしてこれほど―危険なものにしている、自殺傾向の謎が解かれる。(注9)

さて、ここで再び『のばらセックス』の第ii章に戻ろう。すると、ベンヤミンのメランコリー観を確かめたあとでは非常に興味深いことに、母親(のばら様)が存在しないという事実は、「おちば様にとって、世界が崩壊するようなものだ」と書かれているばかりか、彼女自身も「のばら様は、今の時代のみんなのアイドルで、お姫さまで、女神さまだよ―いなかった、なんてことになったら、信仰を奪われるみたいなもの。地面がなくなるみたいなものだよ」(注10)と発言していることがわかる。ここに、『ドイツ悲哀劇の根源』が指摘するような世界の空疎化という現象を認めることはいともたやすい。とはいえ自ら母親の姿に扮して謝肉祭に繰り出した時点では、もはやおちば様は当初の動揺から立ち直り(あるいは無理をしてでも立ち直ろうとし)、「彼女は偶像で、偽物で、実在しない。/だからそんなに追い求めても、虚しいだけ。/愛されなかったからといって、哀しむのは、悔しいだけ」と考えるようになっている(注11)。しかるに、この一見気丈な態度にもかかわらず、本当に彼女が母親への思慕を断念するには、あえて男たちのよこしまな欲望に裸身をさらし、母の姿を冒瀆させることが不可欠である。そしてそのことは、十分な愛を与えてくれなかった母親への「復讐」にほかならない。

 おちば様は、自分のそれとも共有している、のばら様の幻想を―子供からの、男からの崇敬をこれから穢す。貶め、踏みにじり、破壊する。
 愛されなかったことへの、それは復讐だ。(注12)

この決意のとおり、憧れののばら様の痴態を目のあたりにした男性たちが―大きなビッグフットの着ぐるみの中に隠れた下半身を、おちば様の恋人(ソプラノ)が夢中で貪っているのだ―矢も盾もたまらず放った大量の精液を全身に浴び、しかるのち電動ノコギリで自らの首を切り落とさせるという壮絶な死にざまを全世界に見せつけることで、彼女は母の「幻想」をまず汚辱の中に叩き落し、ついでものの見事に粉砕してのけることになる。愛の対象への非難に続いて自我と対象との同一化が生じ、それが強いサディズムの調子を帯びた「自己虐待」、ひいては「自殺傾向」に帰結するという、フロイトが「喪とメランコリー」で解明したメランコリーの心理との共通性は、誰の目にも明らかであろう。
それはまた、いま一度ベンヤミンを引用すれば、「感情がこの空疎になった世界を仮面のようにあらたに生き返らせ、その世界をながめることに謎めいた満足をおぼえる心の応じ方」(注13)であると同時に、「一つの意味、一つの意義を内から発することがまったくできなくなる」(注14)無力な対象に、どれほど辱めようと抗議が返ってくる恐れは皆無であるのをよいことに―なにしろのばらさまは架空の人物なのである―、好き勝手な意味を与える者の、換言すればアレゴリカー(寓意の作り手)の陰惨な喜びでもあるはずなのだ。結局はこのような屈辱的な扱いを受けねばならない対象のほうこそが、まさしく悲哀の当事者としての資格を有していることは、古代の神々は寓意的に解釈されることで唯一可能な救済に与り、キリスト教世界の中に生き延びることが可能になったが、他方でその代償として実体を失うほかなかったという事情についての、ベンヤミンの洞察からもうかがえるとおりである。

 罪に堕ちた自然は、口が利けず沈黙しているために、悲しむ。しかし、この一文を逆にすれば、もっと深く自然の本質に通じる。悲しみが、自然を沈黙させるのである。どんな悲哀にも無言への傾向があって、このことは、伝達する能力がないとか、伝達する気がないといったことよりも果てしなく甚大な意味がある。悲しんでいるものは、認識しえない者に自分が隅々まで認識されつくすのを感じる。名を与えられていても―たとえ名を与える者が神々にも等しい浄福の者である場合ですら―ひょっとしてつねに悲哀をそこはかとなく感じているのかもしれない。しかしそれ以上に、名を与えられずにただ読まれるだけ、それもアレゴリー的解釈者によって不確かな読まれ方をされ、しかもただアレゴリー的解釈者を通してのみきわめて意味深いものになってしまったことは、どれほど大きな悲哀であろう。(注15)



(二)異教の神々
いましがた書いたように、どうやらベンヤミンの考えでは、キリスト教以前の古代の神々が、場違いなものとして中世を生き延びてきたという事実が、西欧的なアレゴリー(寓意)の成立に著しい影響を与えたばかりか、むしろ近代的なアレゴリーを生み出した主たる要因ですらあるようだ。

アレゴリー的なものの概念は、神学的シンボルと一線を画すだけでなく、たんなる飾りことばとも明確な一線を画さないかぎり、悲哀劇を的確に捉えることはできない。アレゴリーは、なにも古代の神々を表わすためのスコラ学的アラベスク模様として発生したわけではない。よくアレゴリーのもっとも末期のできそこないを念頭に置き、遊興気分でわれ関せず然と高みにおさまりかえっているさまをアレゴリーの特徴にすることが行われるが、元来アレゴリーに固有なのは、まさにその反対なのである。もし教会が、信者たちの記憶から古代の神々をあっさり一掃することができたのならば、アレゴリー的解釈はけっして生まれなかっただろう。なにしろアレゴリー的解釈は、亜流の戦勝碑などではないからだ。むしろなにより、途絶えることのない古代の生命の生き残りを祓うためのことばなのである。(注16)

このような歴史的経緯を忘れないかぎり、アレゴリーを「神学的実体が自分にそぐわない環境、いや、それどころか自分とは敵対する環境のなかで生きつづけたもの」として定義することも許されるのだ(注17)。この場違いな感じは、キリスト教の教義があらゆる被造物に押しつける罪深さを、神々といえども免れることはできないという事情によって助長される。

アレゴリー的にほかの意味を指し示すものは、罪のために、自分の意味を自分自身のなかで満たすことができない。罪は、知のために世界を裏切るアレゴリー的考察者にとどまらず、彼の観想の対象にも内在している。このような見方は、自然をもろともに引きずりおろした被造物の堕罪の教義にもとづいており、東洋のアレゴリー的表現の修辞とは異なる西洋の深いアレゴリー的解釈の酵素をつくりだしている。(注18)

ここからベンヤミンは、アレゴリーの誕生に寄与した神々の性格の変化を、次のようにまとめてみせる。

 したがって、西洋のアレゴリー的解釈の根源におけるもっとも重要な三つの契機は、非古代的、反古代的だということになる。その契機とは、神々は異質な世界へそそり立つ、神々は悪となる、そして神々は被造物となる、という三つである。オリュンポスの神々の衣があとに残り、時代が経つにつれ、その衣のまわりにエンブレムが集まる。そして、この衣は、悪魔の肉体と同様に被造物的である。(注19)

では、神々が経験するこのような三重の変貌を、『のばらセックス』の第ii章の中に認めることははたして可能だろうか。間違いなく可能である、と私は考える。まず、この小説の登場人物の中にキリスト教徒と呼べる者は一人もいないが、にもかかわらずおちば様が第I章(「きれいな薔薇には棘がある」)で自らの境遇について、「奇跡のあとに緩慢につづく、退屈な聖書の中盤みたいな、消化試合のあたしたち」(注20)と感じていることからして、キリスト教の世界がある種の居心地悪さを伴う背景として暗示されていることは疑いない。その上で、「男性しか存在しない世界に、発生した女性という怪異」にして「二千年ぶりに発見された、珍獣」である「世界で一番目の女性」こと坂本のばら様が、その実坂本三兄弟の手で「つくられた偽物」にすぎず、「広告塔として創造されたフィクション」という意味で「神様みたいなもの」であるというくだりを読めば(注21)、「神々は異質な世界へそそり立つ」、および「神々は被造物となる」という二つの命題がどちらもこの小説において正しいという点については、誰しも得心が行くことだろう。
しかし、「神々は悪となる」という命題についてはどうだろうか。のばら様は世界でただ一人の女性として、万人の信仰の対象ではなかったのか。だが、すでに引用した文章からもわかるように、「のばら様の幻想」を穢すこと、「貶め、踏みにじり、破壊する」ことこそがこの第ii章の眼目なのであって(注22)、現にのばら様(坂本緒礼)の息子の一人である少年(おちば様にとっては兄にあたる)などは、母親のはしたない様子にすっかり幻滅して「ぼ、僕は! あなたを軽蔑する! さ、最低だ! 動物め! 僕の身体にあなたの血が流れているという事実を嫌悪するぞ!」と叫んでいるほどだ(注23)。もっとも彼はその直後、彼女の強引なフェラチオに負けて、思いきり「ママ」の顔に精液をぶちまけながらあっけなく失神してしまう。元来性的な色彩が濃厚だった男性たちの崇拝は、突き詰めればのばら様と一緒に罪深い穢れを満喫したいという願望に行き着くほかないのだ。汚辱と崇高という両極を非日常的な雰囲気の中で一挙に連続させてしまう神々しい両価性は、次の場面において最も顕著である。

 どうしたもんかと、そんな彼に手をのばしかけて―。
 瞬間だった。
 機関銃のように。
 周りでいつの間にか、こちらの行為に興奮して観賞していた男たちが―自ら擦りあげた男性器から、大量の精液を放ってきた。水まきをするみたいに、彼らの遺伝子のかたまりが、はだかのおちば様に注がれる。
 不意打ちだったので反応できず、目を丸くして、おちば様は汚されていく。異教の神像みたいに、腐敗した聖水をなみなみと浴びて、その火照った肌を彩られていく。
 このとき、坂本のばら様という女性は、ほんとうの意味で神になった。
 背骨が抜けるほどに心地よく、おちば様は目を閉じる。
 これが、架空の母親へ捧げる、彼らの信仰心。TVで、あらゆる情報媒体で偶像として賛美され、愛されてきた彼女への、自分たちの崇拝そのもの。(注23)

一読して明らかなように、ここではおちば様が「ほんとうの意味で神になった」のは「汚されていく」ことの結果にほかならず、同様に「腐敗した」聖水のごとき精液は男たちの「崇拝そのもの」である。そして、そのような、日常的な感覚にとっては嫌悪を呼び起こすはずの畏怖すべき不浄性の中にどっぷりと身を浸す主体が、ベンヤミンが論じたように、非キリスト教的な古代の宗教の奇怪に歪んだ生き残りであることを、「異教の神像みたいに」という直喩はあからさまに教えているのである。これほど切実に欲望される始原の女神としての女性とは、単におちば様や彼女の兄の母であるにとどまらず、万人にとっての母、いわば「母」の寓意(アレゴリー)なのではなかろうか。
ジュリア・クリステヴァは、この混濁し、穢れたものとしての「母なるもの」を「アブジェクト(abject)」(排除すべきおぞましきもの)と呼び、アブジェクトの魅惑を振り切ることで、すなわち「アブジェクシオン(abjection)」(棄却行為、おぞましさ)の試練を経ることで、人間は初めて自我の確立に向けた第一歩を、それとともに文化の一員としての第一歩を踏み出すのだと考えた(『恐怖の権力』)。その際彼女が、ユダヤ‐キリスト教的な伝統の検討に先立って実例として選んだのは、いわゆる未開の、いにしえの母系制を色濃く残す社会であり、なかんずく近親相姦の穢れを一身に背負って共同体から追放されるはめになる古代ギリシャの悲劇的英雄、すなわちオイディプス王であった。「アブジェクシオン〔おぞましさ、負性の作用性〕の神話的異態(ヴァリアント)の縮図」たる『オイディプス王』において、「穢れとは自=浄(プロープル)の境界侵犯としての近親相姦である」がゆえに、「つまるところ、誰かある者が、浄化の見込みなしにアブジェクシオンを人格化すれば、それは女、《あらゆる女》、《女全体》である」という(注25)。汚らわしくも魅惑的な、自他未分化の近親相姦的な母子の一体性、これがあらゆる人間の、少なくともあらゆる男性の至上の願望であることを、キリスト教世界における異教文学の筆頭であろうソフォクレスの『オイディプス王』とともに、『のばらセックス』もまた暴いているのである。もっとも、その成就が所詮は虚構的な性格のものでしかありえない―人間であること自体をあきらめるのでないかぎり―ことは、「これが、架空の母親へ捧げる、彼らの信仰心」という皮肉な一文が抜け目なく念を押しているとおりだ。
のばら様はもともと坂本三兄弟が作り上げた権力の道具にすぎず、生身の個人としては一度もこの世に実在したためしがないのだから、どうあがいても彼女への思慕は挫折するほかはない。男たちの空しい期待をいたずらに煽り立てるだけだった「架空の母親」のこの罪深さを、実際に彼女になりきることでまざまざと実感したためか、斬首の直前におちば様はこんな台詞を口にしている。

「さぁソプラノ、上手に殺してね」
 愛の言葉のように、おちば様は囁いた。
「今世紀最大の悪党、この世で一番目の女性―坂本のばら様を」(注26)

アレゴリーの生成の条件として「神々は悪となる」という命題を挙げたベンヤミンの直観は、このような文脈からしても『のばらセックス』において真なのである。

(三)断片化(斬首)
クリステヴァはまた、『斬首の光景』〔Visions capitales〕なる本も著しており、その中で古今の美術作品を渉猟しつつ、ギリシャ神話中の英雄ペルセウスによるメドゥーサ殺しから、子どもが息づまるような母との一体性を断ち切り、個としての自立に向かって歩み出すときの苦闘を読みとろうと試みている。蛇状の頭髪をふりかざし、いまにも人間を呑みこまんばかりの勢いで迫ってくるメドゥーサの首はさながら女陰のようであり、それゆえこの首を胴体から切り落とすという壮挙は、アブジェクシオンの好例である。

主体もなく客体もなく、べとべとし、ねばねばしたもののおぞましさ(アブ=ジェクトab-ject分離して、投げ出されたもの)以外の何ものでもない、あの古代の未分化状態を保持している原初の母として、メドゥーサは嫌忌すべきもの(アブジェクト)なのだ。(注27)

しかしながら、女性の斬首というものは、美術史上の表象としても、世界史上の事件としても、太古の昔ならばともかく、時代が下るにつれてしだいに影をひそめるようになってくる。たしかに旧約聖書の「列王記下」第9章22節には、犬の餌食になったイゼベル(イスラエル王アハブの妃)の頭蓋骨が出てくるが、クリステヴァの見るところ、このような描写はあくまで例外的なのだ。

 きわめて稀であるこの女性の頭蓋骨への言及は、少なくともある仮説によれば、女性に対してより頻繁におこなわれたという先史時代の頭蓋骨の儀式、さらには恐ろしいメドゥーサたちを思い出させる。良きにつけ悪しきにつけ、われわれのご先祖様はまず女性の頭を狙ったように思われる。〔中略〕それに言うまでもなく、数多くの女王が首を切られた。私はアンヌ・ボレイン、メアリー・スチュアート、マリー・アントワネットを思い出す。あなたはきっと別の女王のことを考えているにちがいない。それでも現代に近づくにつれ、斬首はますます男性を対象とするようになる。去勢が命じるのだ! そもそも、女性の何を切り落とせるというのかと、自問せざるを得ない。ただし、このように女性の斬首がまれになってゆくということは、もっとも認めるのが難しい、ある根本的に抑圧されたものを表しているのかもしれない。つまり、ひとがその頭を狙うのは、母親なのであり、彼女こそが首の光景(ヴィジョン・キャピタル)なのだ。母親の死活に関わるリビードの影響力はあまりに途方もないものなので、その影響力も同じように決定的な抑圧に値する。(注28)

実は、メドゥーサの頭から女陰を連想するのはクリステヴァの独創というわけではなく、フロイトに先例がある。とはいえ、彼の場合だと、この連想は去勢の威嚇という文脈の中でしか可能にならないような性質のものである。

 首の切断=去勢。メドゥーサに対する驚愕とはそれゆえ、なんらかの光景と結びついた、去勢に対する驚愕である。数多くの分析から、なにがこれのきっかけとなっているかがわかる。それまで去勢の脅しを信じようとはしなかった少年が女性器を目にすると、それがきっかけとなる。女性器とはおそらく、毛にくまどられた成人のそれであって、結局のところ母親の性器である。(注29)

もちろんクリステヴァも、別にメドゥーサの頭が去勢の脅威を表すと考えることを拒否しているわけではない。ただ、「それでも現代に近づくにつれ、斬首はますます男性を対象とするようになる。去勢が命じるのだ! そもそも、女性の何を切り落とせるというのかと、自問せざるを得ない」と書くとき、彼女は、去勢に関わる要素は時代を下るにつれて徐々に目立つようになってくること、それゆえ人類史のごく初期の時点においては、この神話の力点はむしろ母親からの分離という点にあったことを強調し、そのようにしてフロイトの直観を補足しているのであろう。
ことに、フロイトにおいてはまだ曖昧なところもあった去勢の概念が、その後の精神分析の発展の中で―とりわけフランスのジャック・ラカンの理論において―、さらなる拡張と明確化が施され、単なる男性器の現実的な切除にとどまらぬ広い意味を担わされるようになったこと、そして去勢の成果が、結局母と子の一体性に切れ目を入れて両者を別々の存在にしてしまうこととして定義されるようになったことを思えば、フロイトとクリステヴァによる二つのメドゥーサ論は、最終的に単一の構図の中に帰着させることができるのではないかという感じはなおさら強まってくるのだ。
この点について参考になるのが、メランコリー(憂鬱)にとりつかれた人の過剰な罪責感を手がかりにした、藤田博史による三通りの去勢の整理である。これは、ラカンの去勢論のあらましを示したものだ。

 それで先程の首を吊るタイプの精神疾患から少し話を広げていくと、首を吊るタイプの精神疾患というとまず最初に思い浮かぶのは「鬱病」です。鬱状態の人が自らの死を選ぶ時には首を吊ることが多い。一方、分裂病の人は首を吊るよりも、高い所から飛び降りる、電車に飛び込むなどの「飛び降りる(込む)」タイプの死を選ぶのですが、ここには非常に象徴的な意味がある。
 身体全体があるところにポンと運ばれてしまうのか、あるいは身体の一部が切断されるのか、締められるのかということで随分違うのです。鬱病の基本テーマはよく知られているように「罪責感」です。自分が何か悪いことをしたのではないか、自分に原因があるのではないかと自分を責めていく。その最終的な死を選ぶ手段が、首を吊る、つまり首を締める、「首の切断」というイメージに繋がっていく。
 つまり「罪責感」というのは「去勢」、何か身体の一部を「切り取る」とか「切り取られる」ということと深く関わっていることが、精神分析的にわかっています。「去勢」とは、文字通りの意味からいえば男の子のペニスを切り取ってしまうということなのですが、ユダヤ教などで行なわれる去勢の儀式「割礼」は、ちょちょっとメスを入れるという象徴的な行為になっています。実際におちんちんをちょん切ってしまうと、これは「現実的な去勢castration réelle」ということになってしまいます。
「象徴的な去勢」がいま問題になっているのですが、その前に「想像的な去勢」と呼ばれるものがあります。お母さんに対して男の子が自分の性器を行使することに対する禁止、これを「去勢」と呼ぶのです。つまり「去勢」とは、近親相姦の禁止のことなのです。「去勢」にはまず「想像的な」レベルでの「去勢」があります。それはまだ言葉を覚える以前の母と息子との密接な関係の間に父親の存在が入ってくる状態。つまりお母さんと息子がいつまでもそうやってくっついている状態はよくないのだ、と母子の二項関係の間に父親が介入してくる状態です。
 実際に言葉によってノンをつきつけた状態が「象徴的な去勢」ということになりますが、そうすることによって、母と子が引き離される。そこから人間が共通して持っている「永遠の喪失」が始まる。これは女の子も男の子も同じです。引き離されたその母親の代わりに、子供は言葉を摑んでしまうわけです。「ママ」という言葉を摑むことによって、現実の母の代替物を手に入れる。つまり言葉を発声することで、母をそこに再現するということが起こるのです。これが「象徴的な去勢」です。(注30)

すなわち、去勢とは必ずしも実際に男性器を切断してしまうことに等しいわけではなく、むしろ男女問わず誰もが成長の過程で、まずは「想像的」、ついで「象徴的」な性格の去勢をこうむらなくてはならないのであり、そうでないと母親から自立して一人前の主体になることができないというわけだ。母と子の一体性(近親相姦)を禁じる者としての象徴的な父の権威を、ラカンは「父の否(Non-du-père)‐父の名(Nom-du-père)」という語呂合わせで呼ぶ(注31)。男根の切除としての「現実的」去勢が生じるのは、むしろ象徴的去勢が失敗に終わったせいで主体が精神病に陥った場合であり、あくまでも例外的な事件である(注32)。こうした理論的前提の上に立って、藤田は「不浄なものを排除する力」としてのアブジェクシオンを象徴的去勢の手前の段階に位置づけている(注33)。このように、ラカンの去勢論を参照することによって、アブジェクシオンに力点を置いたクリステヴァのメドゥーサ論と、去勢の脅しに着目するフロイトのメドゥーサ論とを同一の構図の中に配置することができるのだ(まあ、クリステヴァのアブジェクシオン論が、ラカン派精神分析との理論的対話の中から生まれてきたことを思えば当然なのかもしれないが…)。
ただし、男女双方が想像的および象徴的な去勢をうけなくてはならないという点は共通でも、身体の構造上ペニスは男性にのみあって、女性にはないという事実は、必然的に去勢のあり方にも影響を及ぼすことになる。女性の去勢コンプレクスは、男性が経験するものと同じではないのだ。この問題は、すでにフロイトを悩ませていたもので、彼はこれを「解剖学的な性差の若干の心的帰結」〔« Einige psychische Folgen des anatomischen Geschlechtsunterschieds »〕(1925年)という論文で集中的に検討した。男子の場合はかなり簡単で、エディプスコンプレクス、すなわち母親への愛着と父親への敵意が、ペニスにおける自慰ともども、去勢の脅威によって、すなわちペニスを失うことへの恐れによって消滅するという経緯を考えることができる(もちろん思春期を迎えれば自慰は再開する)。それに対して女子は、当初は男子と同様に、母親を愛の対象としており、またクリトリスでの自慰を覚えるものの、やがて兄弟や遊び友達の股間に自分にはない大きな器官が生えているのを発見して、「ペニス羨望」に陥るのだという。

 両性の振舞いには興味深い対照性がある。小さな少年が女の子の性器の辺りを最初に見ると、彼は躊躇し、最初は殆ど関心を示さない。〔中略〕この観察が彼にとって意味をもち始めるのは、後になってから、つまり、去勢の脅威が彼に影響を及ぼすようになってからである。〔中略〕
 小さな女の子はこれとは異なる。彼女は一瞬で判断を完了し、決意する。彼女は自分がそれを持たないことを見て、知っており、そしてそれを手に入れようとする。(注34)

そしてフロイトは、ペニス羨望がもたらす結果として、概して女性は男性に対して劣等感を抱き、かつ男性よりも嫉妬深い性格になるのだという。この観察には多少フロイトの偏見が混じっているような気もしなくはないが、もっと重要なのは彼がこの二つに加えて第三の結果として挙げている、母親への情愛の薄れである。女子は、自分を不完全な体で産んだという理由で、それまでは愛していた母親を一転して恨み始めるというのだ。ここにおいて彼女は母親に見切りをつけるとともに、クリトリスにおける自慰―この行為は男子との、所詮勝ち目のない競合を意味する―をも放棄してしまい、ペニスの代わりに子どもを授かりたいという意図から、父親に接近するようになる。

 エディプスコンプレクスに関しては、これまで話題となっていなかったし、それはこれまでの議論に何の役割を果たしてもいなかった。さてしかし、女の子のリビードは―予め指示されたペニス=子供という象徴的等式に沿いながら、としか言いようがないが―あらたな態勢へと横滑りする。女の子はペニスへの欲望を放棄し、子供への欲望をそれに取って代え、この意図のもとに父親を愛の対象とする。今や母親は嫉妬の対象となり、女の子は小さな女性となったのである。(注35)

ここに至って初めて、女子は同性の親(母)を憎み、異性の親(父)を愛するというエディプスコンプレクスの図式に参入するのだ。そしてそれはとりもなおさず、社会的に正常と思われている女性の性的な対象選択の下準備にほかならない。

男の子のエディプスコンプレクスは去勢コンプレクスにおいて消滅するのに対して、女の子のエディプスコンプレクスは去勢コンプレクスによって可能ならしめられ、導入されるのである。その場合、去勢コンプレクスが、その内実の意味という点では、常に男性性に対しては、これを制止し制限するように、そして女性性に対しては、これを促進するように作用するのだ、ということを考慮するならば、この矛盾対立は解明される。(注36)

両性間のこの相異の結果として、男子においてはエディプスコンプレクスが去勢の脅威によって打ち砕かれたのち、父親の権威の内面化によって成立した超自我ないし良心がその相続者となってゆくのに対して―超自我の定義や出自については、「日日日『のばらセックス』11 」の(三)節を参照されたい―、女子の場合はエディプスコンプレクスが粉砕される動機がなく、ただゆるやかに抑圧されるというにとどまる。

明言は憚られるが、女性にとって道徳的正常さの水準は男性とは別なものとなるということに思い至らずにはいられない。女性の超自我は決して、男性の超自我に求められるほど厳格にも非人格的にも、その情動的根源から独立したものにもならない。女性は法的感覚と、生活上の大きな必然事に従おうという傾向が男性に比して貧しく、物事の決断において情愛や敵対の感情によって流されやすいという、昔から女性に対する批判が槍玉としてきた特徴は、右で導いたように超自我が緩和的に形成されることに十分な理由を見出すかもしれない。(注37)

このように、男子のエディプスコンプレクスに対しては、父親の権威(ラカンのいう「父の否‐父の名」)が去勢の脅しを通じて明確な禁止を課すのと比べると、女子のエディプスコンプレクスは、ある意味では突出した性器(男根)の不在という身体的条件から勝手に生じてくる劣等感や嫉妬の帰結であって、禁止しようにもペニスのようなとっかかりがなく、ことによると一生続くものでもありうる。
要するに、女性は男性とは違って、象徴的去勢に服さないとまでは断定できないにしても、全面的に服するわけでもないのだ。ラカンはここから、男根―なお、ラカン派精神分析では、想像的ないし象徴的な文脈で男根の表象を論じる場合に「ファルス(phallus)」という用語を使う―を通じて覚える享楽は、決して両性の一体化をもたらすのではなく、むしろつねに男性を女性から隔てる障害物なのであり、他方で女性自身は、その本性上、男性のように父の権威に対抗してその周りで結束することがなく、したがって「全てではない(一つの全体を形成しない)」ものとして、言葉にできない「補足的」な―神秘的な―享楽を全身で感じることになる…と主張するに至った。この意味において、「女性なるものなどありはしない」し、「性関係はない」のだ。物議をかもしたこの一連の主張は、例えばセミネール(ゼミナール)第20巻『アンコール』〔Encore〕(1972-1973年)に現われる。

 もう少し先まで行くとしましょう―ファルス的享楽とは障害物なのであってこれのせいで男性は、やがて私が言うように、女性の身体を享楽するに至らない、そのわけは正確にはなにゆえかというと彼が享楽する当のもの、それは器官の享楽に属するからです。(注38)

 これは本当のことであり、仕方がないことです、もし性関係が実存しないとすれば、婦人はいないのです。〔中略〕この性関係という件ですが、もしも一つの地点があってそこからそれが解明されうるはずだというのであれば、それこそまさしく婦人の側なのであります、経路を切り開かなくてはならないのが非‐全体の醸成に関してであるかぎりは。これがこの『アンコール』〔という表題〕の背後にひそむ、私の真の今年の主題でして、またこれが私のつけた表題の諸々の意味の一つなのです。たぶん私はこうすることで女性の性について若干の新事実を発出せしめるに至ることでしょう。(注39)

女性なるもの〔「ラ・ファム」〕などありはしない、普遍を指示するための定冠詞〔「ラ」〕は。女性なるものなどありはしないわけはなにしろ〔中略〕その本性からして、彼女は全てではないからです。/〔中略〕それでもやはり以下の事情が残っています。もし彼女が諸事物の本性によって排斥されているのだとすれば、それはまさしく次のことゆえなのです、全てではないがゆえに、彼女は、ファルスの機能が享楽ということで指示する当のものに対して、ある補足的な享楽を持ちます。(注40)

 ある享楽があります、なにしろ我々は目下享楽だけにかかずらっているからですが、身体の享楽です、それのありかは、こう表現することが私にできるとしての話だが―なんで本の題名にしていけないわけがあるものか、ガリレー叢書の近刊にはぴったりです―『ファルスの彼方に』。〔中略〕ファルスの彼方のある享楽…/〔中略〕彼女にはある享楽があります、実存しないし何も意味しないこの彼女には。彼女にはある享楽があってこれに関してたぶん彼女自身は何も知らない、自分がそれを経験するということを別にすれば―それなら、そのことなら彼女は知っています。彼女はそのことは知っています、もちろん、それが到来するときには。(注41)

 この私は、神秘主義的という語をペギーが使っていたようには使いません。神秘主義、それは政治でないものの全てなのではありません。それは何かしら真剣なもので、これについては何人かの人物が私たちに情報を教えてくれます、そして一番多いのは女性たちですが、あるいは〔女性でなくとも〕十字架の聖ヨハネのように天分に恵まれた人々であることもあります〔中略〕。〔中略〕女性たちと同じくらいよい男性たちもいるのです。そういうことも起こるのです。そして彼らも同時にそのことで同じくらい満足を覚えます。にもかかわらず、私は彼らのファルスを語りません、この資格で〔ファルスとして〕彼らを邪魔するものがあるにもかかわらず、彼らは垣間見ます、彼らは彼方に存在するようなある享楽があるに違いないという観念を経験するのです。これこそがそう、人呼んで神秘家というものです。/〔中略〕問題のハデウェイヒなる女性については、聖テレサについてと同様です―諸君はローマに例のベルニーニの彫像を見物しに行くだけでたちどころに彼女は享楽しているということが理解できます、疑いの余地はありません。それでは何を彼女は享楽しているのか。明らかに神秘家たちの本質的な証言、それはまさしく自分たちはそれを経験するが、しかし自分たちはそれに関して何も知らないと言うことです。/これらの神秘主義的なほとばしり、これはおしゃべりでもなく、駄弁でもない、これは結局のところ人が読みうる最上のものなのです―頁の下で全然結構ですから、どうぞ注記を―ジャック・ラカンの『エクリ』も追加すること、なぜならこれだって同じ秩序に属するのですからね。こうしておけば、自ずと、諸君はみな私が神はいると信じているということを確信されることでしょう。私は女性の享楽というものをそれが余計であるかぎりにおいて信じています、ただしこの余計ということ、諸君がそれに私がそれをうまく説明してのけるよりも先に幕を掛けてくださるということが条件ですが。/〔中略〕人が経験するがしかも人が何一つ知らないこの享楽、それは私たちを出で‐立つこと〔実存〕への途上に置くものではないのか。そしてなぜ〈他者〉のある顔を、神なる顔を、女性的な享楽によって支えられたものとして解釈してはいけないのか。(注42)

定冠詞によって指示できるような普遍的な「女性なるもの」などどこにも存在しないこと、ファルス的享楽―ラカンによれば、これは所詮「白痴の享楽(la jouissance de l'idiot)」としての自慰にすぎない(注43)―に従属したまま一生を終える男性とは違い、個々の女性はそれとは別の、補足的で余計な享楽の経験に開かれていることによって神に近いこと、したがってファルス的享楽をあきらめ、知の支配圏から離脱して神秘家になるのでないかぎり、男性は必ずや女性と出会い損ねる運命にあること…こうした主張は、我々がすで引用した『のばらセックス』の第ii章の、おちば様の死の直前の場面においていかなる諸原理が働いているのかを考えようとする者にとっては、かなり魅力的な候補であろう。ともかく、「こちらの行為に興奮して観賞していた男たちが―自ら擦りあげた男性器から、大量の精液を放ってきた」結果として、おちば様が演じる「架空の母親」、世界でただ一人の女性であるのばら様は「ほんとうの意味で神になった」が、その直後に真っ赤な鮮血を首から噴出させながら、驚愕する男性たちが制止するいとまもあらばこそ、彼らの面前でこの世から消え去るのである(注44)。
しかし、私はまだ、この章について試みることが可能な精神分析的批評が、ことごとく出尽くしたとは思わない。何よりも困ったことに、斬首そのものの場面の検討は、完了していないどころか開始してもいない。そこで、この検討のための準備として、二つのことを確認しておきたい。
まず第一点は、フロイト‐ラカンの精神分析的な観点からすると、女性らしさというものはどこまでも表層的な身体において、身体として編成されるのであり、そしてこのことが原因となって、母と娘の間には、しばしば、これ以外の親子関係では見当たらないようながんじがらめの同一化が発生する、ということである。例えば、斎藤環著『母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか』をひもとくと、次のようなことが書いてある。

 これは女性性の成立に関わる問題です。精神分析的に考えるなら、女性性とは徹底して表層的なものを意味しており、そこにいかなる「本質」もないとされます。そうした女性的な表層を見出す視線とは、男女を問わず、異性愛的な視線にほかなりません。言い換えるなら、ヘテロセクシズムを前提にしなければ、女性はその存在を一貫性のあるものとして主張できないのです。
 なぜ、このようなことが起きるのでしょうか。
 比喩的な言い方をすれば、それは女性が「身体」を持っているからです。もう一度繰り返しますが、「女性性」にはいかなる「本質」もありません(念のため断っておきますが、もちろんすべての「女性」個人は、「男性」個人と同様、なんらかの「本質」を持っています。ここで問題にされているのは「女性性」なる概念です)。それは女性の身体表面にのみ存在します。つまり、女性は表層的な存在であるがゆえに、身体を持つことができるのです。
 これに対して、男性は「身体」を持ちません。先ほど対人恐怖と摂食障害の対比のところで述べたように、男性には象徴的な意味での「本質」しかありません。男性らしさと考えられるものは文化ごとにも異なりますが、たとえば「論理性」「潔さ」「筋を通す」「我慢強さ」などは、ほぼ共通して挙げられる特性でしょう。おわかりの通り、これらはことごとく観念的、抽象的な特性です。
 これに対して「女性らしさ」を観念的に考えようとすると、ここに挙げたような「男性らしさ」の否定か例外にしかなりません(「非論理性」や「弱さ」など)。一方、積極的な意味での「女性らしさ」は、外見や所作などの身体性において表現される傾向にあります。
 これは「しつけ」を例にとるとわかりやすいでしょう。「男らしさ」のしつけはしばしば観念的になされがちであり、一方「女性らしさ」のしつけは、身なりやしぐさといった、身体性においてなされます。いうまでもありませんが、以上は「そうあるべきだ」という話ではなく、世間一般にはそういうことになっている(あるいは「なっていた」)、という意味です。
 おそらく身体感覚のありようにおいて、一般に男性のほうが女性に比べてはるかに鈍感なのは、こうした「しつけ」の影響もあるのでしょう。男性にとっての肉体は、まるで空気のように透明な存在です。男性が自分も身体を持っていることを思い出すのは、激しい疲労や痛みといった「問題」が生じた場合だけ、といえるほどです。一部の男性が好む「汗をかく快感」といったものは、肉体を酷使することによって自らの身体性をなんとか確認したいという欲望の表現なのかもしれません。もちろん彼らはファルス(ペニス)を持っていますが、それは身体器官というよりは、男性の本質を凝集した、文字通りシンボルとしての器官、ということになります。(注45)

明らかにこの説明は、女子は男子ほどには象徴的去勢の支配力を受けることがなく、その結果として「父の名‐父の否」の権威に匹敵するような、絶対的な「女性なるもの」(女性の普遍的本質)は存在しない、というフロイト‐ラカンの理論を下敷きにしている。

 女性たちにおける身体性へのこだわりは、これほどまでに根源的なものなのです。もしそうだとすれば、娘たちに「女性らしい」身体性を正確に教えられるのは、母親をおいてほかにありません。しかし、容易に予想されるように、しつけによる望ましい身体性の伝達とは、とりもなおさず娘の身体を支配することにつながってしまうでしょう。ならば、母娘関係が特別なものになるのは当然です。女性が女性らしくあるためには、その出発点において、つねに母親による支配を受け入れるという手順が必要とされるからです。
〔中略〕
 前章で述べたように、「男性らしさ」は抽象的な観念として伝達することができます。しかし「女性らしさ」を積極的に指し示すような観念はほとんど存在しません。それゆえ、母親が娘に伝えようとする「女性らしさ」は、きわめて個人的な内容のものにならざるをえません。それはほとんどの場合、娘を母親に身体的に同一化させよう、さらにいえば同一化によって支配しようという試みに限りなく接近するでしょう。(注46)

斎藤によれば、このような身体的同一化の行き過ぎが、娘による「母殺し」(母からの自立)を困難なものにしている、根本的な理由である。過剰な同一化は、必然的に、母を殺すことがとりもなおさず娘にとっての自殺でもあるという事態を招くからだ。また、身体の表層を整えることに特化した女子の教育は、たとえ一見すると上首尾に終わった場合であっても、娘の側に言いようのない空虚感をもたらさずにはいない。

 オリヴィエが指摘するように、女性の頭と身体はしばしば乖離してしまっています。
 この乖離ゆえに、私には女性の身体意識が、ある種の「操縦感覚」ではないかと思われることがよくあります。つまり、女性身体というモビルスーツを着用して、それを思い通りに操縦しようとしているような感覚です。女性においては、自分と肉体との間に距離がある、といいうるのではないでしょうか。(注47)

次に第二点として確認しておきたいのは、フロイトがいわば「解剖学的な性差の若干の心的帰結」の続篇として書いた、「女性の性について」〔« Über die weibliche Sexualität »〕(1931年)という論文の内容である。この論文によると、フロイトは、エディプスコンプレクス以前の、もっぱら母親を愛の対象としていた時期の女子の心についていっそう立ち入った探究を試みた結果、ある興味深い発見に到達したという。女性らしさを受動性と同一視する通念にとっては意外なことに、最終的に「母は私を女として産んだ」という非難をきっかけとした離脱に至るまでは、女子は母親を対象として能動的な満足を追究することも珍しくないことがわかったのだ。典型的な例はままごと遊びや人形遊びのような、虚構的なごっこ遊びである。その眼目は、当の女子にとっては、母親の模倣を通じて、すなわち自分が母親にされたことを母親の立場から反復することによって、受動性を能動性に、服従の経験を支配の行為に転換することにある。

 もうひとつの疑問は、幼い女の子は母親に何を求めているのか、もっぱら母親に拘束されているこの時期には女の子の性的目的はどのような類いのものなのか、という点である。分析素材から得られる答えは、われわれの予想とぴったり一致する。女の子が母親において達成しようとする性的目標には能動的な性質のものと受動的な性質のものとがあり、そのいずれであるかはその子がどのリビード期を通過しているかによって決まってくる。ここで特にわれわれの関心を引くのは、能動性と受動性との関係である。性の領域に限らず心的な体験のどの領域でも、受動的に得られる印象が子供の中に能動的な反応への傾向を呼び起こすのは容易に観察される。つまり子供は、前に誰かが自分に対して、あるいは自分に関して行ったことを自身でも行うことを試みるのだ。それは自分に課せられた外界に対する対処の作業の一端であり、時に子供は、内容が苦痛を伴うゆえ本来なら回避したいような印象をあえて反復しようと努めることすらある。子供の遊びもまた、このような、受動的な体験を能動的な行為によって補完しそういうかたちでいわば止揚しようとする意図のために用いられる。医者が、咽喉の奥を見るために、嫌がる子供の口を無理やり開けさせたりすると、医者が帰ったあと、その子は医者の真似をして、自分が医者に対してなすすべがなかったように、やはり自分に対して無力な幼い弟妹に対して、力ずくの振る舞いを反復することになるだろう。こういった場合、受動性に逆らい能動的な役割を好む傾向があるのは見まがうべくもない。この受動性から能動性への転換は、必ずしもすべての子供において規則的かつ強烈に認められるわけではなく、それが現れない子供もいる。なんなら、子供のこの行動から、将来、その子が性において示すことになる男らしさと女らしさの度合いを推測してもよいだろう。
 子供が母親を相手に最初にする性的な体験ないしは性的な色合いを帯びた体験は、もちろん受動的な性質のものである。子供は母親に授乳され、食べさせてもらい、洗ってもらい、服を着せてもらうし、排泄のいちいちにも母親から指図を受ける。子供のリビードのうち一部はこれらの経験に固執し、それらの経験と結びついた充足を楽しいと感じるが、別の部分はそれらを能動性へ転換することで自分の力量を試そうとする。母親の乳房では、最初、授乳されていたのを、能動的に吸うことが取って代わる。その他の点でも、子供は自立を、つまりそれまでは自分の身に起きていたことを自ら行ったり、あるいは自分の受動的な体験を遊びの中で能動的に反復したり、あるいは現実に母親を対象にして自分はそれに主体として臨むのを楽しむようになる。この後の点は実際の活動において生じることであるが、これに絡む疑念が経験によって払拭されるまで、私にも長いあいだ信じがたいものに思えた。
 幼い女の子が母親の体を洗ってやったり、母に服を着せたり、あるいは排泄欲求を満たすように注意するというのはあまり聞かない。女の子はなるほど折にふれて、じゃあこれから遊ぼう、私がお母さんで、お母さんが子供だからね、などと言ったりする。しかし女の子がこうした能動的な欲望を充足させるのは、大抵の場合、人形で遊ぶという間接的な仕方においてであり、その中で女の子は自ら母親を演じ、人形に子の役割をあてがう。少年と違って女の子が人形遊びを好むのは、通常は女らしさが早くに目覚めた徴と解されている。間違ってはいないが、ここで顔を覗かせているのが女らしさの能動性であること、そして女の子が人形相手に母を演じたがるのは、どうやら父という対象にはおよそ目もくれず、もっぱら母に拘束されているという排他性の証左であることを見逃してはなるまい。(注48)

それでは、斎藤環とフロイトの教えを念頭に置いて、『のばらセックス』の第ii章「謝肉祭のハーモニー」に戻ろう。するとまず読みとれるのが、まさしく『母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか』に書いてあったとおり、娘は母との関係において身体的な同一化を避けて通るわけにいかないこと、またそれゆえ、自分と自分の肉体との間に消しがたい距離が介在するという、ある種の「操縦感覚」として身体意識を習得せざるをえないことなのである。その証拠に、裸の母親(のばら様)の姿に変装してビッグフットの着ぐるみの中で登場の時機をうかがうおちば様の様子は、次のように描写されているのだ。

今、おちば様の着ぐるみの中身は、いつもの彼女の姿とちがっていた。背丈はすらりと高く、どこかマネキンじみているけれど麗しくも凹凸のある肢体で、胸元は肉感的だ。髪もかなり長く、派手な色をしていた。
 おとなの、美しい女性だ。
 けれど仕草はおちば様のまま、お年頃のまだ幼いともいえる女の子のものなので―ちぐはぐな感じだ。この見た目はいつものではなく、綿志に協力してもらって神経と繫いだ、いわば肉じゅばんだ。感覚のある、上っ面。おとなの女性の肉体を、身体のうえにそれこそ着ぐるみのようにまとっている。(注49)

もっとも、『母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか』は、書名からも明らかなように、母による娘の人生の支配という現象を解明するために、しつけの現場における同一化に注目していたわけであるから、母(のばら様)と水入らずで暮らした期間はわずか三ヶ月しかない(注50)おちば様の境遇をこの本に引きつけて考えようとするのは、いささか苦しいかもしれない。それでも寓意として読むなら、驚異的に冴えているというのが私の偽らざる実感だ。いずれにしても、ときとして過度の身体的な同一化ゆえに、娘にとって母を殺すことは自殺に等しい、という問題は、見まがいようもなくこの小説の中で作動している。
やや遅きに失した感もあるが、おちば様の斬首の場面を読んでみよう。

「さぁソプラノ、上手に殺してね」
 愛の言葉のように、おちば様は囁いた。
「今世紀最大の悪党、この世で一番目の女性―坂本のばら様を」
 お母さんを、とは言わなかった。
 刃が首の寸前に添えられる。摩擦熱が、皮膚をじりじりと炙る。悲鳴と怒号と騒音が、カーニバルの音楽にのせて、ハーモニーを奏でる。
 音と声の大海に、身体中で沈みながら。
「あたしね、あなたの子供を産むよ。きっとね、あたしがこれから殺す、のばら様みたいな―その生まれ変わりみたいな……」
 最後まで言えないまま。
 ソプラノが丁寧に、電動ノコギリの刃を落としてくる。
 痛みすら、ほとんどなかった。
 身体の奥に、繫がったままの恋人の熱いものが、たくさん注がれたのを感じながら―血液が飛び散り、男性の汚液にまみれたまま、おちば様の生首が切断されてごろりと転がった。(注51)

我々はすでに、ペニス羨望のせいで、女子は母親に対して自分を女として産んだことを非難するようになること、および、この非難をきっかけとして、ペニスの代替物として子どもを授かりたいという願いが、彼女を、正常とされる異性愛的な(男性を愛する)立場、すなわちエディプスコンプレクスに追いやることを、「解剖学的な性差の若干の心的帰結」から学んだ。また我々は、エディプス期以前の女子が、虚構的なごっこ遊び(ままごと遊びや人形遊び)の類を通じて、母親に受けた仕打ちを自分が母親になったつもりで反復すること、そのようにして受動性を能動性に転換しようと努めることを、「女性の性について」から学んだ。
フロイトの二つの論文に見出されたこの三つの論点を合わせると、ちょうどおちば様の末期の台詞にうまく重なるように私には思えてならない。すなわち、「あたしね、あなたの子供を産むよ。きっとね、あたしがこれから殺す、のばら様みたいな―その生まれ変わりみたいな……」という台詞は、おおむね次のようなことを表しているのではないか。彼女は、女性としてこの世に生を享けるという、自分が味わったむごい仕打ちの責任者である母親に愛想を尽かし―実際、第II章(「ずっと薔薇色なわけがない」)で連日強姦されたあげく、自分を監禁している義父の「あいちゃん」(坂本逢)が偽物であると聞いたとき、彼女は「当たり散らしたかった、せめて文句を言いたかった。あたしをこの世に産み落とした、この世界でいちばんの女性に」と感じて、母親であるのばら様の指(実は綿志が操作していた)に愚痴をこぼしている(注52)―、男性の恋人から子どもを授かろうとしているのであり(現にこの場面において、彼女の体内では終始恋人のペニスが忙しく動いており、ついには射精に至る)、しかもこの懐妊は、娘自身が受けた仕打ちを攻守所を変えて母親にやり返すこと、すなわち母親を自分の膣から産み落とすことにもなるという意味で、ごっこ遊びにおける受動性から能動性への転換に似ており、母親への復讐を兼ねているのだ。こう考えた場合に気になるのは、母親への情愛の薄れと子どもを妊娠することへの欲望はエディプス期の出発点を画する一方で、受動性を能動性に転換しようとする傾向は、娘が母親を、そして母親のみを好意的な目で見ていたそれ以前の時期に属するものであるという、ちょっとした時間的なずれがあることである。ただ、地の文に「お母さんを、とは言わなかった」と書いてあることを手がかりに、ここでは母への愛着でも母への反感でもなく、あくまで両者の中間に相当する、一方から他方への(愛着から反感への)離脱の瞬間に向かう行程が捕捉されていると想定することが許されるとすれば、あるいはこのずれも解消することが可能かもしれない。
しかし、はたしてこれで十分だろうか。ここまでつきあってくださった奇特な読者の方には申し訳ないようでもあるが、私としては、以上の作業をもってしても、いまだ『のばらセックス』第ii章の申し分なく徹底的な分析には届いていないように思えてならない。
我々は、一応女子の正常な(平均的な)発達過程の説明とされるものをそのまま受容するという姿勢をとってきたわけだが、この点は見直す余地があるのかもしれない。精神分析の理論を参照するにしても、例えばエレーヌ・シクスーが、男子にとっての去勢コンプレクスに相当するものは、女子にとっては断頭コンプレクスなのであり、父性的な権威が創設する象徴的な秩序に入るよう女性を追い立てるのは去勢の脅威ではなくて斬首の脅威である(注53)…と主張するときのような、抗議や抵抗の、あるいは少なくとも皮肉や諷刺の調子を考慮に入れるべきだったのかもしれない。ここから、損失を肯んじまいとする一心で断念を耐え忍ぶ男性とは逆に、女性は断念しないがゆえに一生損失とつきあわなくてはならない、という相異が生じてくるのだ(注54)。シクスーの主張が正しければ、フロイトが考えたように「女性にとって道徳的正常さの水準は男性とは別なものとなる」がゆえに「女性は法的感覚と、生活上の大きな必然事に従おうという傾向が男性に比して貧しく、物事の決断において情愛や敵対の感情によって流されやすい」(「解剖学的な性差の若干の心的帰結」)のだとしても(注55)、その理由は、女性の超自我が男性と比べて弱いからという以前に、実は象徴的去勢の段階で女子が男子以上の心的負担を抱えこむからではないのか。なにしろ、宦官やカストラートのことを考えてみればわかるように、男性は男根を失っても命まで失うとはかぎらないのに対して、首を失ってなお生きている女性はいないのだ(メドゥーサすら、この点で例外ではない)。「そもそも、女性の何を切り落とせるというのか」(『斬首の光景』)というクリステヴァの問いかけ(注56)をもう一ひねりして、まさしく切り落とすべき男根の不在こそが、刑吏の関心を女性の胴体から突き出た頭部へと誘導することになると考えるのは、いけないことだろうか。
ずいぶん遠回りになったような気もするが、ここでようやく、我々はベンヤミンのアレゴリー論と再会することになる。とりわけボードレールの詩のアレゴリー(寓意)的な志向からベンヤミンが読みとるものは、同時代の人や物を題材として選び、歌い上げること自体はやめない一方で、奇怪に歪んだ不恰好な表現の中で既存の秩序の居心地悪さや耐えがたさを執拗に告発しようとする、時代錯誤的な詩人の苛立ちに満ちた反抗にほかならない。

ボードレールのアレゴリーには、彼を取り巻く世界の調和のとれたファサードを取り壊すのに必要だった暴力の痕跡がつきまとっている。(注57)

ボードレールの破壊衝動は、それが向かう対象の廃棄には一切興味を示さない。このことはアレゴリーの中に表現されていて、アレゴリーの中の退行的傾向となっている。しかし他方でアレゴリーは、まさにその破壊的狂乱のなかで、芸術の仮象であれ、生の仮象であれ、すべての「既成の秩序」なるものから生まれて来る仮象つまり、生と芸術を美化し、それらを耐えうるように見せかける全体的とか有機的なものという仮象の追放にかかわらなければならない。そしてこの仮象の追放がアレゴリーの進歩的な傾向なのである。(注58)

女性の身体の「アウラ」―ベンヤミンがこの語によって名指そうとしているのは、「どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に現われているもの」(注59)、かけがえのない対象の唯一性の雰囲気である―の凋落という全般的状況の中で、娼婦がボードレールにとってモデルニテ(現代性)の特権的な寓意(アレゴリー)とならねばならないのは、このような文脈においてである。

売春婦はアレゴリーの勝利によって得られるもっとも高価な戦利品である―それは死を意味する生なのである。この性質は、売春婦から買い取ることができない唯一のものであり、ボードレールにとってはただそれだけが重要なのである。(注60)

したがって、クリスティーヌ・ビュシ‐グリュックスマンの言葉を借りるなら、ボードレール‐ベンヤミンにとっては、女性の身体こそが「現代的アレゴリーの解釈律」なのだ。

ベンヤミン的意味に捉えたアレゴリー、ロマン主義的批評とは逆方向のアレゴリーとして、現代のアレゴリーはモデルニテの根源―Ursprung―であるバロック的アレゴリーと共通した特徴がいくつかある。要約的にここで述べておくと、
 ―修辞的形相および解釈としてのアレゴリーにおいては、現実はその整理された美しき全体性の中で破壊されると同時に脱神秘化される。その破壊的意図の中で、アレゴリーは現実を断片化しながら裸にする。現実は廃墟の形をとって現れる。これは歴史自体がその再現および最もサトゥルヌス的様相の中に出現する過程である。
 ―このような過程はアレゴリーに特有の情動的エクリチュール、麻痺して絵となり自らを思い描くエクリチュールを招来する。ベンヤミンのアレゴリー解釈の鍵となる点の一つはまさに、その視覚的性格に立脚しているのである。すなわちアレゴリーはイメージ、見ること、可視と不可視、人生と夢を結びつける場面と関連しているのである。歴史は絵となって固定した両価性の中で一心に見ようとする。であるからアレゴリーは神秘神学と同じように身体の言語を実践する。それゆえにこそ「アレゴリーにおいて見る者の目に、石と化した原風景としての―als erstarrte Urlandschaft―歴史の死相がひろがっている」。
 ―悲劇的(トラジック)なるものとは違って、今や非宗教化した時間の知覚が感情の中に/を通ってやって来るのは、歴史がその「カタストロフィー派の」想像的側面―そこからカルデロンやシェイクスピア、グリューフィウスの演劇のモデルが生じる―の中でそこに出現するからである。Trauer―喪、悲哀―とSpiel〔劇〕なのである。従ってその知覚は情熱の類型学、ある人類学全体と重なり合う。
 ―この距離を置いた情熱あふれる情念のエクリチュールにおいて、極端と矛盾を決して止揚することなく登場させる主要な修辞的形相(フィギュール)はオクシモロン〔撞着語法〕である。焼けつく寒さとか暗い明るさと同じように、「虚無」は「飾り立てられている」。

アレゴリーとは反弁証法である、あるいはベンヤミンの表現を用いるなら、停止状態の弁証法すなわち凍結してイメージに固定した弁証法である、といってもよい。

これら主な特徴が全てアレゴリーを定義するものだとするならば、反対にそのモデルニテは、ベンヤミンによって死との関連という特定の点に結びつけられている。「バロックのアレゴリーは死骸を外側からだけ見ている。ボードレールはこれを内側からも見ている」。外側の世界を去って内側の世界に入り込み、フロイトの言葉を用いるなら、死を心内的イメージにすることによって、現代のアレゴリーはバロックのいくつかの限界を失って、以後二重の消滅という基底に確立される。バロックの不在‐現前の贖罪としての救済の消滅。現代は根底から非宗教となり、超越性のない、未来のない、常に新しく常に同じものによって周期化したものとなっている。すでにロマン主義、とりわけジャン・パウルのイロニーに明白な、相(あい)対するものの総体、「客観的な」隠喩の貯蔵庫としてのコスモス‐自然の消滅。
 そうなると、父子関係の一大モデルから追放され、自分自身の「奈落」によって真似されてますます「女性化していく」詩人の破壊的衝動に、一体いかなる「身体」が「身体」を与えて確かなものにすることができるだろうか。それは正しく女性的なものとしての身体であり、この身体がアレゴリーの眼差しのサディズム的倒錯的衝動を集中させる。「アレゴリーにとって物に触れるということは物を犯すことであり、物を知るということはその仮面を剝ぐということである」。これは文字通りに解さねばならない。その証拠に、
 ―ボードレールにおいて「バロックの細分化」(Barocke Detaillierung)〔中略〕がなされるのは、女性の身体に関してなのである。
 ―欲望/死、生気がある/生気がない、生/腐敗・骸骨等々といった両極端を隠喩化し、「生命のボードレール的イメージ」―Lebensbild―「発展することを知らない」このイメージの表現そのものであるこの「石と化した不安」―Erstarrter Unruhe―、が物質に変換する契機となるのは、またしても女性の身体、とりわけ売淫された身体なのである。
 ―最後に、現代のアレゴリーに対してその存在条件、その見え方、Bild〔絵、イメージ〕の周りをめぐるもの全て、を与えるのはつねにこの現実的かつ虚構的な身体なのである。であるから、すでに見たように「女性の身体」のシナリオは、「商品としての身体」のそれを隠喩化しているのである。(注61)

このように考えてくれば、娼婦に寄せるボードレールの並々ならぬ関心は、決して単なる好色趣味なのではなく、時代の犠牲者としての共感に裏打ちされたものであったと判断すべきであろう。事実、「芸術とは何か? 売春」(注62)とか、「栄光とは、一であり続け、特殊なやり方で売春することだ」(注63)とかのどぎつい警句を読むかぎり、どうやらボードレールにとっては、詩人としての自己規定にしてからが、娼婦への参照なしでは成り立たないらしいのだ。
それでもボードレールの心身は男性的な性格を完全に捨て去るには至らない。少なくともビュシ‐グリュックスマンの考えでは、ボードレールはとうとうアレゴリー的な硬直(石化)をもたらすメドゥーサのまなざし、女性的なもののまなざしを、彼自身のまなざしにすることには成功しなかったのだ。

 しかしながら、メドゥーサの眼差しは、実際は非常に「茫然自失させる、石と化す〔メドゥーサ化する〕」女性的なものの眼差しであるので、肉体を奪われたヨカナーンはサロメの前から逃げだし、イメージと肉体に夢中になったボードレールは、結果は失敗に終わるのだが、いつもその眼差しをわが物にしようと試みるのではないだろうか。というのも両価性は止揚不可能であるからである。快感とテロル、ヒステリー的「激怒」とメランコリックな退去は女性的なものとの関係にリズムを与えるのである。自然の側では、女性の欲望と出産に対する憎悪となる。「女は自然的だ、すなわちおぞましい」。だが反対に人工、イメージ、「反‐自然」の側でいうと、魅惑であり、さらにはビュトールとベルサニが明らかにしたように、他なるものとの雌雄同体(アンドロギュノス)的自己同定化となる。
 この両価性がボードレールの空想的でファンタスムを帯びたシナリオ―まさに死をもたらす深淵である「深層の母なるもの」に対して打ち明けた愛のシナリオ―と何かしら関係があるということが、彼自身の心的劇とアレゴリーの中に脚色されているソーマ〔身体〕の劇を一挙に結びつけるのである。情動(アフェクト)を剝奪され―断片・モデル・機械・骸骨としてファンタスムを帯び―たり、また魅惑された抒情的近接性に過剰に備給されたりして、愛とテロルの対象である身体は、詩的でナルシシスト的〈自我〉の完全性を絶え間なく挫折させている。この身体はむしろ〈他者〉の、あまりにも母性的過ぎる女性的なものの身体であって、これが吸血鬼化したり魅了したりしているのである。ボードレール的性愛(エロティック)は、この「新たな原風景」―ジョイス・マクドゥガル―の絶えざる再構成のようなものであろう。これは『おもちゃのモラル』の中に見事に示されている。すなわち部分的なものの礼讃であり、現実から遠ざけ幻想から遠ざける戯れを礼讃することである。どんなに熱烈であっても、欲望とは所詮これに過ぎない。すなわち欲望自身のメトニミー、裸の「こよなく愛しい」ひとのあの「朗々と響く宝石」、ヨカナーンのあの切られた首、これらの魅惑的な恐怖の全て……。
 見つつ見ないこと、再現しつつ再現しないこと、これは母との古層的触れ合いが行われたあの原初の状態が戻ることであるが、ボードレールに別の欲望する欲望、女性的なものという真の他者性を欲望することを禁じるであろう。というのは、ダンディーたる詩人はまず早熟のダンディーだったからである。「女に対する早熟な好み。僕は毛皮の匂いと女の匂いを混同していた。思い出すのは……。要するに僕は母をその優美さのゆえに愛していたのだった。だから僕は早熟なダンディーだったのだ」―『赤裸の心』―。香り、毛皮ついで髪、外見の優美さ、現れの神秘化としての思い出。全ては女性的なものの演劇性が遂には逆説的にもダンディーの演劇性を見出すことになる、この不吉な魅力をまとっているのである。まさに鏡の前で生きている彼は、自分の眼差しを眺めつつもつねにその彼方を見たいと願っている。遂にはボードレールが、自分の〈美〉の定義を神秘的で官能的、やつれてメランコリックな女の顔と同一視するまでに。女性的なものが想像域の貯蔵庫となり、現代的でバロック的性愛の場となるまでに。「女は必然的に暗示的である。女は自分自身の生とは別の生を生きているのである。女は自分が足繁く出入りし豊かにする想像力の世界の中に生きているのである」―『人工の楽園』―。(注64)

伊達男(ダンディ)としてのボードレールは、定義上女性的なものを真に自らの問題として生きることはできず、せいぜい母親との原初的な想像的一体性に遡行するくらいが関の山である。この点で彼の立場は、ペルセウスに首を切られるギリシャ神話のメドゥーサよりも、サロメに首を切られる新約聖書の洗礼者聖ヨハネ(ヨカナーン)に近い。
それと比べれば、世界でただ一人の女性である坂本おちば様が、公的にこの肩書を独占する架空の母親に扮して売春まがいの行為に走った上で自らの首を切断させる、という『のばらセックス』第ii章の筋書は、いかに尖鋭であり、大胆であり、深遠であることか。加えて作者(日日日)がれっきとした男性であるという事実は、読者の感嘆をいっそう大きくするに違いない。ロレンスやヘンリー・ミラーのように、作家は「書くことによって女性に〈なる〉」必要があり、それというのも「あらゆる生成変化は女性への変化に始まり、女性への生成変化を経由する」からだ、というドゥルーズとガタリの言葉は(注65)、まるでこの小説のためにあるようだ。エレーヌ・シクスーも、「もし女に《固有なもの(プロプル)》があるとするならば、それは、逆説的ですが、打算なしに自己を脱・固有化するという女の能力なのです」と力説している。そしてその理由は、まさに女性においては象徴的去勢が不徹底である結果として、性愛のあり方も、男性のように唯一の器官(男根)に中心的な地位が与えられることはないまま―ただし、「それは、女が未分化なマグマだという意味ではなく、女は自分の肉体や欲望を君主制化しないということです」と彼女はことわっている―、頭部と性器の間で不断に揺らいでいるからだ。

男のセクシュアリティは、ペニスを中心にめぐっていて、局部(パルティ)の専制の下、(政治的に解剖すれば)中央集権政体〔中心をもつ肉体〕を生みだしています。女の方は、頭・性器という対(カップル)のために、境界の内側にしか自己を刻みこまないようなこの局地化を自分自身に対して行ないません。彼女の無意識が世界的であるように、彼女のリビードは宇宙的です。(注66)

もっとも、生身の個人としてのボードレールはともかく、『悪の華』の詩人としての彼は、女性的な両価性を我がこととして経験すること、あるいはむしろ母なるものの重力を振り切って「真の他者性を欲望すること」も稀ではなかったのではないかという気がする。そのかぎりで、先に引用したビュシ‐グリュックスマンの所見には多少修正の余地があるようにも思えるのだ。というのも、『悪の華』の中には、例えば痴情のもつれから男に殺されてしまったらしい美女の生首を歌う、「殉教の女」〔« Une Martyre »〕なる作品が見出せるからである。

化粧品の壜の類や、金糸銀糸の織物や、艶(なまめ)かしい
  家具調度、大理石の置き物、
何枚もの油絵や豪奢な襞をなして裾を曳く
  香水の染みた衣装などの、ただなか、

まるで温室を思わせる、危険で宿命的な空気が漂い、
  今しも死んでゆく花束たちが、
ガラスの柩(ひつぎ)の中で、末期の吐息をついている、
  生あたたかい寝室のなかで、

首のない死体が、生々しく赤い血を、
  河のように迸(ほとばし)らせれば、
枕はすでに渇きを癒し、敷布はまるで牧場のように
  血をむさぼり飲む。

影の生む、蒼ざめた幻影(まぼろし)、私たちの眼を
  金(かな)しばりにする幻影にも似て、
頭は、堆(うず)なす暗色のたてがみと
  貴重な飾りものをつけたまま、

枕もとのテーブルの上、金鳳花(きんぽうげ)のように
  憩うている。なんの想いも宿さず
黄昏(たそがれ)のようにぼんやりと白い眼差しが
  ひきつった両の眼から洩れ出る。

〔中略〕

だがしかし、輪郭にまるみのない肩の
  優雅なやせ具合や、
とがり気味の腰や、いきり立った蛇のように
  きびきびした胴を見れば、

まだずいぶん若い女なのだ!―その昂(たかぶ)った魂と、
  倦怠(アンニュイ)にさいなまれた官能が、
道踏み迷った欲情の、血に渇く猟犬の群に、
  そっと戸を開けたのだろうか?

きみが、生きている間、それほどの愛をもってしても、
  満足させ得なかった、執念深い男は、
動かなくなって、意のままの、きみの肉体に、
  限りないその欲望をみたしたのか?

答えるがよい、穢らわしい死体よ! きみの硬い編み毛をつかみ、
  熱っぽい腕できみをもち上げて、
きみの冷たい歯の上に、別れの接吻をおしつけたのか?
  語れ、見るも怖ろしい首よ。

―嘲(あざけ)り笑う世間から遠く、不純な群衆からも遠く、
  物見高い司法官たちからも遠く、
静かに眠れ、静かに眠れ、奇怪な生き物よ、
  きみの不思議な墓の中に。

きみの夫は、世界を走りまわり、きみの不滅の形は、
  彼の眠るとき、傍らに見守る。
おそらくきみと同じように、いつまでも忠実な夫、
  死ぬまで心変わりはすまい。(注67)

これが単なる猟奇趣味や残虐趣味ではないことは、「―嘲(あざけ)り笑う世間から遠く、不純な群衆からも遠く」以下の最後の二連で、作者が死んだ女性への共感を隠そうとせず、繰り返し「静かに眠れ」と呼びかけながら、せめてもの慰めを送っている(ように読める)ことから明らかだろう。もっとも「おそらくきみと同じように、いつまでも忠実な夫、/死ぬまで心変わりはすまい」という締めくくりの詩句は、要するにもはや「なんの想いも宿さず」(第五連)、心変わりしようにも肝心の心が残っていない被害者(女)の亡骸と、もはや死ぬまで彼女の面影を忘れ去ることができそうにない殺人犯(男)の罪悪感とに言及しているわけであるから、慰めとは別に相当辛辣な皮肉の調子も混じっていそうだが、それでも「バロックのアレゴリーは死体を外側からのみ見るが、ボードレールはそれを内側から思い浮かべる」(注68)と書くベンヤミンの慧眼を信じるなら―そして、アレゴリーにおいては「総体的なものより破片のほうが優位にある」(注69)以上、もちろんこの無残に切り刻まれた「殉教の女」にも「アレゴリー的意図が働いている」のである(注70)―、いずれにせよ彼女の斬首が詩人にとって他人事でない深刻な事件であるということだけは、誰しも認めざるをえまい。
ボードレールはこの詩を真剣に作ったのであり、少なくとも遊び半分で作ったわけではない。この条件が満たされるかぎりで、私は、『のばらセックス』の第ii章「謝肉祭のハーモニー」を、「殉教の女」の正当な後継者として、自信をもって全世界に紹介できる。


(1)日日日『のばらセックス』(講談社、2011年)268-269頁。
(2)ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(岡部仁訳、講談社文芸文庫、2001年)216-217頁。
(3)同書262頁。
(4)ベンヤミン『パサージュ論 第2巻』(今村仁司・三島憲一訳、岩波現代文庫、2003年第2刷)336頁。
(5)ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(前掲書)293頁。
(6)フロイト「喪とメランコリー」(伊藤正博訳)、『フロイト全集14』(岩波書店、2010年)274-276頁。
(7)R. シェママ、B. ヴァンデルメルシュ編『新版 精神分析事典』(小出浩之・加藤敏・新宮一成・鈴木國文・小川豊昭訳、弘文堂、2002年)528頁。
(8)フロイト「喪とメランコリー」(伊藤正博訳)、『フロイト全集14』(前掲書)281頁。引用に際して、原文中の傍点が付してある箇所を太字に改めた。
(9)フロイト「喪とメランコリー」(伊藤正博訳)、同書284頁。
(10)日日日『のばらセックス』(前掲書)259-260頁。
(11)同書284頁。
(12)同書288頁。
(13)ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(前掲書)216頁。
(14)同書293頁。
(15)同書365-366頁。
(16)同書362頁。
(17)同書363頁。
(18)同書365頁。
(19)同書367頁。
(20)日日日『のばらセックス』(前掲書)11頁。
(21)同書261、264頁。
(22)同書268頁。
(23)同書285頁。
(24)同書289-290頁。
(25)ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力』(枝川昌雄訳、法政大学出版局、1984年)119-121頁。引用文中の〔〕は訳書のまま(訳者による補足)である。なお、「自=浄(プロープル)」というやや奇異な表記は、フランス語の「プロープル(propre)」という形容詞が、「自分自身の」を意味するとともに「清潔な」という意味でもあることを反映している。
(26)日日日『のばらセックス』(前掲書)291頁。
(27)ジュリア・クリステヴァ『斬首の光景』(星埜守之・塚本昌則訳、みすず書房、2005年)47頁。
(28)同書140-141頁。引用に際して図版番号の挿入を省略したほか、岩波版『フロイト全集』の表記に合わせて「リビドー」を「リビード」に改めた。「情欲」を意味するラテン語の単語としての"libido"は本来「リビードー」という発音で読まれていたようである。
(29)フロイト「メドゥーサの首」(須藤訓任訳)、『フロイト全集17』(岩波書店、2006年)371頁。
(30)藤田博史『人形愛の精神分析』(青土社、2006年)58-60頁。
(31)同書66-67頁。発音は両者ともに「ノン‐デュ‐ペール」である。
(32)R. シェママ、B. ヴァンデルメルシュ編『新版 精神分析事典』(前掲書)96頁。
(33)藤田博史『人形愛の精神分析』(前掲書)148頁。
(34)フロイト「解剖学的な性差の若干の心的帰結」(大宮勘一郎訳)、『フロイト全集19』(岩波書店、2010年)207-208頁。
(35)フロイト「解剖学的な性差の若干の心的帰結」(大宮勘一郎訳)、同書212頁。原文中の傍点が付してある箇所を太字に改めた。
(36)フロイト「解剖学的な性差の若干の心的帰結」(大宮勘一郎訳)、同書213頁。引用に際して、傍点が付してある箇所(第一文の全体)を太字に改めた。
(37)フロイト「解剖学的な性差の若干の心的帰結」(大宮勘一郎訳)、同書214頁。
(38)Jacques Lacan, Le séminaire XX: Encore, Paris, Seuil, 1975, p.13: « Je vais un peu plus loin ― la jouissance phallique est l'obstacle par quoi l'homme n'arrive pas, dirai-je, à jouir du corps de la femme, précisément parce que ce dont il jouit, c'est de la jouissance de l'organe ».
(39)Ibid., p.54: « C'est vrai, que voulez-vous, si le rapport sexuel n'existe pas, il n'y a pas de dames.[...]Cette affaire du rapport sexuel, s'il y a un point d'où ça pourrait s'éclairer, c'est justement du côté des dames, pour autant que c'est de l'élaboration du pas-tout qu'il s'agit de frayer la voie. C'est mon vrai sujet de cette année, derrière cet Encore, et c'est un des sens de mon titre. Peut-être arriverai-je ainsi à faire sortir du nouveau sur la sexualité féminine ».
(40)Ibid., p.68: « Il n'y a pas La femme, article défini pour désigner l'universel. Il n'y a pas La femme puisque[...]de son essence, elle n'est pas toute./[...]Il n'en reste pas moins que si elle est exclue par la nature des choses, c'est justement de ceci que, d'être pas toute, elle a, par rapport à ce que désigne de jouissance la fonction phallique, une jouissance supplémentaire ».
(41)Ibid., p.69: « Il y a une jouissance, puisque nous nous en tenons à la jouissance, jouissance du corps, qui est, si je puis m'exprimer ainsi ― pourquoi pas en faire un titre de livre?, c'est pour le prochain de la collection Galilée ― au-delà du phallus.[...]Une jouissance au-delà du phallus.../[...]Il y a une jouissance à elle, à cette elle qui n'existe pas et ne signifie rien. Il y a une jouissance à elle dont peut-être elle-même ne sait rien, sinon qu'elle l'éprouve ― ça, elle le sait. Elle le sait, bien sûr, quand ça arrive ».
(42)Ibid., p.70-71: « Moi, je n'emploie pas le mot mystique comme l'employait Péguy. La mystique, ce n'est pas tout ce qui n'est pas la politique. C'est quelque chose de sérieux, sur quoi nous renseignent quelques personnes, et le plus souvent des femmes, ou bien des gens doués comme saint Jean de la Croix[...]. [...]Il y a des hommes qui sont aussi bien que les femmes. Ça arrive. Et qui du même coup s'en trouvent aussi bien. Malgré, je ne dis pas leur phallus, malgré ce qui les encombre à ce titre, ils entrevoient, ils éprouvent l'idée qu'il doit y avoir une jouissance qui soit au-delà. C'est ça, ce qu'on appelle des mystiques./[...]Pour la Hadewijch en question, c'est comme pour Sainte Thérèse ― vous n'avez qu'à aller regarder à Rome la statue du Bernin pour comprendre tout de suite qu'elle jouit, ça ne fait pas de doute. Et de quoi jouit-elle? Il est clair que le témoignage essentiel des mystiques, c'est justement de dire qu'ils l'éprouvent, mais qu'ils n'en savent rien./Ces jaculations mystiques, ce n'est ni du bavardage, ni du verbiage, c'est en somme ce qu'on peut lire de mieux ― tout à fait en bas de page, note ― Y ajouter les Écrits de Jacques Lacan, parce que c'est du même ordre. Moyennant quoi, naturellement, vous allez être tous convaincus que je crois en Dieu. Je crois à la jouissance de la femme en tant qu'elle est en plus, à condition que cet en plus, vous y mettiez un écran avant que je l'aie bien expliqué./[...]Cette jouissance qu'on éprouve et dont on ne sait rien, n'est-ce pas ce qui nous met sur la voie de l'ex-sistence? Et pourquoi ne pas interpréter une face de l'Autre, la face Dieu, comme supportée par la jouissance féminine? »なお、« la face Dieu »は« la face de Dieu »に改めるべきかもしれないが、一応原文を尊重しておく。
ここに列挙されている人名はいずれもカトリックの神秘主義の系譜に属するもので、ペギー(Charles Péguy, 1873-1914)はフランスの詩人・思想家、十字架の聖ヨハネ(San Juan de la Cruz, 1542-1591)はスペインの司祭で聖テレサに協力してカルメル会の改革を進めた人、ハデウェイヒは13世紀のフランドルに生きたアントウェルペン出身のベギン派の修道女である。また聖テレサ(Santa Teresa, 1515-1582)とは、カスティーリャ地方のアビラ(Ávila)に生まれ育ち、「イエスのテレサ(Teresa de Jesús)」とも呼ばれるカルメル会の修道女であり、ベルニーニの手になる「聖テレサの法悦」があるのはローマのサンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会である。いましものしかかる天使に矢で貫かれようとしている聖女の官能的な表情が非常に印象的で、バロック期の宗教美術を彫刻の分野で代表する傑作として高く評価されることも多いこの作品は、スイユ社版『アンコール』の表紙を飾っている。
また、『エクリ』〔Écrits〕は神秘主義的かどうかはともかく晦渋な文体で名高い(悪名高い)論文集で、1966年に出版された。ラカンは執筆活動に専念するよりもセミネール(ゼミナール)の場で聴衆を前にして語ることのほうを重んじていたようで、「書かれたもの(複数形)」という身も蓋もない題名をつけられたこの本は、名実ともに彼の主著である。
(43)Ibid., p.75.
(44)日日日『のばらセックス』(前掲書)289-292頁。
(45)斎藤環『母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか』(NHKブックス、2008年)126-128頁。
(46)同書184-185頁。
(47)同書188頁。
(48)フロイト「女性の性について」(高田珠樹訳)、『フロイト全集20』(岩波書店、2011年)228-230頁。
(49)日日日『のばらセックス』(前掲書)274頁。
(50)同書42頁。
(51)同書291-292頁。
(52)同書212頁。
(53)エレーヌ・シクスー「去勢か斬首か」、『メデューサの笑い』(松本伊瑳子・国領苑子・藤倉恵子編訳、紀伊國屋書店、1993年)50-52頁。
(54)同書77-78頁。
(55)フロイト「解剖学的な性差の若干の心的帰結」(大宮勘一郎訳)、『フロイト全集19』(前掲書)214頁。
(56)ジュリア・クリステヴァ『斬首の光景』(前掲書)140頁。
(57)ベンヤミン『パサージュ論 第2巻』(前掲書)329頁。
(58)同書336頁。
(59)ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」、『ベンヤミン・コレクションI 近代の意味』(浅井健二郎編訳・久保哲司訳、ちくま学芸文庫、2004年第2版第5刷)592頁。
(60)ベンヤミン『パサージュ論 第2巻』(前掲書)349頁。
(61)クリスティーヌ・ビュシ‐グリュックスマン『バロック的理性と女性原理』(杉本紀子訳、筑摩書房、1987年)63-65頁。引用に際して、原文中の傍点が付してある箇所を太字に改めたほか、「囲り」を「周り」に書き換えた。また、鍵括弧でくくられた字句の出典は、「アレゴリーにおいて見る者の目に」以下が『ドイツ悲哀劇の根源』(前掲書)262頁、「『虚無』は『飾り立てられている』」がおそらくボードレールの詩篇「死の舞踏」(『悪の華』)の第四連であり、そのほか随所にベンヤミンの『パサージュ論』からの引用がちりばめられている。なお、サトゥルヌス(サートゥルヌス)は古代ローマの農耕神で、西欧では伝統的にメランコリー(憂鬱)を司る神と考えられてきた。
(62)ボードレール「火箭」、『ボードレール批評4』(阿部良雄訳、ちくま学芸文庫、1999年)39頁。
(63)ボードレール「赤裸の心」、同書120頁。なお、原文では「一」に傍点が付してあるが、引用に際して省いた。
(64)クリスティーヌ・ビュシ‐グリュックスマン『バロック的理性と女性原理』(前掲書)133-134頁。引用に際して原文中の傍点が付してある語(「自然的」)を太字に改めた。なお、「裸の『こよなく愛しい』ひとのあの『朗々と響く宝石』」というのは、ボードレールの詩篇「宝石」(『漂着物』)の第一連が出典であろう。
(65)ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『千のプラトー 中』(宇野邦一・小沢秋広・田中敏彦・豊崎光一・宮林寛・守中高明訳、河出文庫、2010年)242、245頁。
(66)エレーヌ・シクスー「新しく生まれた女」、『メデューサの笑い』(前掲書)148-149頁。引用に際して、注(28)でも説明したように、岩波版『フロイト全集』の表記に合わせるべく、「リビドー」を「リビード」に改めた。
(67)ボードレール「殉教の女」、『ボードレール全詩集I 悪の華他』(阿部良雄訳、ちくま文庫、1998年)251-255頁。
(68)ベンヤミン『パサージュ論 第2巻』(前掲書)330-331頁。
(69)ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(前掲書)299頁。
(70)ベンヤミン『パサージュ論 第2巻』(前掲書)379頁。
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