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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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日日日『大奥のサクラ 現代大奥女学院まるにっ!』 

『のばらセックス』におけるアレゴリー(寓意)の問題について考えようとする中で(日日日『のばらセックス』11)、『大奥のサクラ』も無視できなくなってきたので、簡単な覚え書きを残しておくことにする。

なんでもこれは「戦国時代、天下分け目の関ヶ原の合戦において豊臣側が勝利した、架空の歴史の延長線上としての『現代』が舞台になったお話」(注1)であり、時代はおよそ西暦2050年頃のこと、日本の首都は豊臣幕府の征夷大将軍のお膝元である大阪で、大阪城にある大奥女学院では、全国から集められた三千人の姫君たちが、上位に勝ち上がろうとして日々しのぎを削り、生死を賭した血みどろの戦いを繰り広げているという。まあ、大坂夏の陣ならばともかく関ヶ原の合戦は豊臣政権の内紛だから「豊臣側が勝利した」という表現は意味が通らないとか、そもそも秀吉が征夷大将軍にならなかった(あるいはなれなかった)以上、西軍(石田三成)が東軍(徳川家康)に勝ったところで豊臣氏(秀頼)が幕府を開くという結果にはつながらないんじゃないかとか色々気になる点はあるのだが、そういう野暮な問題はあまりしつこく追及するにも及ぶまい。
それよりも大切なのは、大奥に集った少女たちの大部分が、関ヶ原で西軍勝利の決め手となった「時空間爆弾」の名残で生まれたミュータントの子孫であり、一人一人が特異な身体能力を持つという点だろう。主人公の「百手姫(むかでひめ)」ことさくらの能力は植物の操作であり、彼女とともに暮らし、ともに戦う仲間たちも、薬師の水蛇(みずち)は体液の操作、師匠格の銀狼(ぎんろう)は自身の肉体の硬化と質量の増大というふうに、それぞれ異能の持主である。もちろん、例えば山田風太郎をかえりみるまでもなく、時代劇風の世界の中で多彩な登場人物が人間離れした身体能力をこれでもかとばかりに披露してくれる小説ならば、我々はすでに少なからず知っている。だが『大奥のサクラ』は、対戦相手を殺害するか瀕死に追いこむべしというこの上なく明確で単純な目標が全員に定められていることもあって、手に汗を握りつつ諸能力間の多様な駆け引きそのものに関心を集中するような読み方をどこかでやんわりと拒んでいるようでもある。水蛇同様に「体液操作」ができるという阿呆鳥(あほうどり)に至っては、自身の血液を固めて拳銃と弾丸を作ったり、他人に輸血して意志を支配下に置いたりと恐るべき万能ぶりであるし、以下で検討したい第2巻では、赫竜(あかとんぼ)が人工知能研究における「フレーム問題」を引き合いに出しつつ、普段は抑制しているが本来は際限なく周囲のものを燃やし尽くすのが自分の体質だと明かしている(注2)。この過剰さ、ないし外見上の適当さは、およそ我々が生きるとは身体的な存在として生きることにほかならず、そこには否応なしに他者を排斥する暴力性ないし遠心力が伴っているという命題を認めるとき、初めて説明がつくように思えるのであり、そしてこの命題は、『パサージュ論』のための草稿から次に引用するベンヤミンのアレゴリー観にも重なるところがあるはずだ。

アレゴリー志向には事物とのどのような親密さも無縁なのである。アレゴリー志向にとって、事物に触れるとは事物に暴力を加えることである。事物を認識するとは事物を見抜くことなのである。アレゴリー志向が支配するところでは、習慣というものは一切形成されえない。事物が捉えられた途端に、〔その事物が置かれている〕状況はアレゴリー志向によってすでに排除されてしまっている。(注3)

「アレゴリー志向にとって、事物に触れるとは事物に暴力を加えることである」という指摘は、この引用文を読んでいるだけでは少々唐突に思えるかもしれないが、そもそも『ドイツ悲哀劇の根源』によれば、ベンヤミンにとってアレゴリー表現とは「歴史を世界の受苦の歴史として見るバロック的、世俗的な解釈の核心」にして「人にかかわるものより事物的なものが優位にあるという点、総体的なものより破片のほうが優位にあるという点で」シンボル(象徴)に対抗するものでなくてはならず(注4)、それゆえ「生と芸術を美化し、それらを耐えうるように見せかける全体的とか有機的なものという仮象の追放」(注5)でもあったという事実からごく自然に出てくる判断であろう。同じく「事物を認識するとは事物を見抜くことなのである」という指摘も、もともと貧弱な仮象の輝きしか持たなかったバロック期の悲哀劇は、ある意味で最初から「作品の壊死」としての「批評による解体」を待ち受けていたという洞察を引き継ぐものであるとともに(注6)、さくらが銀狼に、さくらの恋人である将軍の御曹司豊臣秀影(ひでかげ)がさくらに擬態するという第2巻の仕掛けを準備するものとしても読めるはずである。
アレゴリー(寓意)における仮象の解体、総体の断片化は、さらに意味の恣意性、ないしアレゴリカー(寓意の作り手)への依存性とも不可分である。

 対象がメランコリーのまなざしにさらされてアレゴリー的なものとなり、メランコリーがその対象から生命を排出させ、対象が死物と化しながらも、しかし永遠に確保されたものとしてあとに残るとき、対象は無条件に身柄をアレゴリカーに引きわたされたまま彼のまえに横たわる。ということはつまり、対象はそのときから一つの意味、一つの意義を内から発することがまったくできなくなるということである。意味はといえば、アレゴリカーが与えるものが対象の意味となる。(注7)

この極端な恣意性を、ベンヤミンはトルコの後宮(ハレム)の太守の振舞になぞらえている。

恣意こそ、知の力をもっとも露骨に示す証左なのである。〔中略〕たしかにこれは、自然を支配している節約の法則には合わないだろう。しかし、意味が闇の太守として事物の後宮(ハレム)に君臨しているアレゴリーの快楽は、この浪費を比類なくよく表わしている。なにしろサディストは、対象を貶め、そのうえで―あるいはそうすることによって―対象を満足させてやるのが特徴なのである。はたしてアレゴリカーは、架空の残虐さにも実際に味わう残虐さにも酔いしれていたこの時代にあっては同じことをしている。(注8)

後宮(ハレム)、それは日本風に表現しなおせばまさしく「大奥」であり、それ以外の何ものでもない。もちろん、豊臣幕府の大奥女学院は血生臭い殺戮の場であってこの語が連想させる妖艶な雰囲気からは程遠いわけだが、一応序列が三位以上の者は将軍の側室に、一位だと正室になれるという決まりであり(注9)、「漁色」と将軍家の「血筋の確保」という後宮ないし大奥本来の機能も、完全になおざりにされているわけではない。そこに君臨するのは秀影の父、征夷大将軍豊臣吉刳(よしくる)である。彼は三年前、諸国漫遊中にさくらと知り合って恋に落ちた息子に教育を施すという名目で、彼女の故郷を焼かせ、その父を殺して秀影の目の前で食し、あまつさえ彼女の四肢を切り落としたことがある(したがって現在のさくらは義手と義足を身に着けて生活している)。たぶんこの時点で吉刳はとうに寵姫の絲妃(あらくね)によって精神を狂わされていたのであろうが、理由はどうあれ、秀影が彼から学んだ倒錯気味の帝王学は、それなりに傾聴に値する。

 吉刳は舌の上に脳の切れ端をのせて、口のなかでむちゃむちゃと噛みしめながら。
「おまえは痛みを知らなくてはいけないよ。哀しみを、絶望というものを知らなくてはいけないよ。秀影、可愛い秀影。どうしてだかわかるかな?」
 口調はあくまで優しかった。けれど、狩りの獲物を踏みにじり、血まみれにして、生き様を教える野獣の優しさだった。これは教育だったのだ、吉刳から秀影に対しての。
「おまえは支配者になるからだよ。この国でいちばん偉い権力者になるからだよ。つまり僕の息子だからだよ。だからおまえは愛を知り、それを踏みつぶされる痛みを知らなくてはいけないよ。楽しさを、幸福を知り、それを奪い去られる苦しみを知らなくてはいけないよ」
 素っ気ないと思うほどの無感情で、吉刳は淡々と語った。
「貧乏を、失恋を、激痛を、知らなくてはいけないよ―でなくては、満たされていても、それを自覚できない。感謝できない。感謝が必要だよ、秀影。僕たちはこの国を所有する、天下の大将軍。僕たちが抱えているものの重みの一端でも、おまえは実感する必要があるんだよ」(注10)

まず与え、しかるのちすみやかに奪うこと、あるいはむしろただ奪わんがためにのみ与えること、この理屈がいかに倒錯的に聞こえようとも、これは世にあふれかえるあまたの小説を貫くほとんど普遍的な原理にほかならない。ただ、通常の小説においては用心深く包み隠されているはずのこの原理が、まるで冗談のような「吉刳」という名の人物―彼は秀影の初恋を黙認することでまず「吉」兆を与え、しかるのち希望を残酷な手口で「刳」り抜く―の、「名は体を表す」を地で行くがごとき、「いちど限界まで肥満してから猛烈に肉を削ぎ落としたような皮のたるみ」(注11)に覆われた怪物的な身体の中に堂々と寓意化されているところが、ベンヤミン好みの語を借りるなら、「髑髏」か「廃墟」じみた不気味な相貌を『大奥のサクラ』に与えているのだ(注12)。さしずめ、新生児を見ようと思ったのにいきなり髑髏に出くわし、落成式に出席したつもりがいきなり廃墟を目にしたときの気分とでもいったところだろうか。もちろん、放火や殺人や人肉食がそれ自体として恐るべき所業なのは当然だが、そこに模範的を通り越して戯画的な誇張にまで達した仮象の没落と、被害者たちの嘆きを無視したまま己の凶行(ことに人体の寸断)に好き勝手な意味づけを行ってのける、アレゴリー的な「闇の太守」たる吉刳の極端な恣意性とが露呈しているからこそ、読者は戦慄を覚えずにいられないのである。

主である将軍からしてそのようなアレゴリーの権化なのであってみれば、大奥に暮らす少女たちの間では、先に引用した『パサージュ論』のための草稿に書いてあったとおり、「事物に触れる」ことがそのまま「事物に暴力を加えること」に等しく、生き抜くためには「事物を認識する」ことが「事物を見抜くこと」でなくてはならないことを肝に銘じる必要があるとしても何ら不思議はない。ただし、ここに触覚の直接性と視覚の間接性という別個の主題が流れこんできていることは見落とせまい。「暴力」は対象の存在を無に帰することもありうるが、「見抜く」だけならばとりあえず対象を物理的に損傷することにはならないからだ。そのような区別は古代ギリシャ以来ずっと西洋哲学にとってなじみ深いものであり、ベンヤミンの高名な論文「複製技術時代の藝術作品」にも余波を及ぼしている。この論文によれば、「いま・ここ」にしかないという特徴(かけがえのなさ)ゆえに伝統的な藝術作品が帯びる真正性の雰囲気は、複製技術の発達によって日に日に打ち壊されつつあり、藝術は複製技術を介して日に日に大衆にとって身近なものになりつつある。この「礼拝価値」から「展示価値」への転換において失われざるをえないある種の雰囲気、それが「アウラ」である。

そもそもアウラとは何か。空間と時間から織りなされた不可思議な織物である。すなわち、どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に現われているものである。夏の午後、静かに憩いながら、地平に連なる山なみを、あるいは憩っている者の上に影を投げかけている木の枝を、目で追うこと―これがこの山々のアウラを、この木の枝のアウラを呼吸することである。(注13)

マルクス主義者でありながらユダヤ神秘主義に裏打ちされた繊細な批評家でもあった1930年代半ばのベンヤミンは、一方では大衆化社会におけるこのような「アウラ」の凋落を哀惜しつつ、他方ではそこにファシズム的な「政治の耽美主義化」と共産主義的な「藝術の政治化」の双方に開かれた両義性を感じとってもいるわけだが、ここでそのような論文全体の構成にもまして注目したいのは、伝統的な藝術の世界と、映画が代表するような、複製技術の発達によって初めて可能になった新しい藝術の世界との対比、すなわち「アウラ」が健在な世界とそうでない世界との対比を、ベンヤミンははっきり「視覚」と「触覚」との対比として考えていたということである(注14)。「ある遠さが一回的に現われているもの」としての「アウラ」が失われつつあり、危機に瀕しているということが、ベンヤミンをして彼の生誕(1892年)よりも少し前の、ボードレールが生きた時代のフランスを、アレゴリー(寓意)の概念を媒介として、バロック時代のドイツ文化に重ね合わせて考察せしめた共通点なのであって、それというのも「アレゴリー的表現に傾く時代は、どうやらアウラの危機を経験したらしいことだけは確かである」(注15)からだ。そして、「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」という論文には、「ある現象のアウラを経験するとは、この現象にまなざしを打ちひらく能力を付与することである」と書いてあり、「アウラ」の視覚的性格をさらに厳密に定義しようとする努力がうかがえる(注16)。だとすれば我々は、断片化や意味の恣意性と並ぶベンヤミン的なアレゴリーの特質として、触覚が視覚を侵略し、あるいは圧迫するという事態を挙げても許されるのではなかろうか。
『大奥のサクラ』に描き出された大阪城の大奥女学院はまさしくそのような場所であり、そのことは何よりも第1巻の冒頭で、初めて大奥を訪れた秀影が、案に相違して少女たちの凄惨な殺し合いと、試合に熱狂して賭博に興じる大名や豪商との対照を目の当たりにすること、またこの悪趣味な見世物の中に選手として姿を現わした「百手姫」に、三年前別れてそれっきりだったさくらの面影を見出して驚きながらも、ひとたび始まった試合を止めることはできず、「あらゆる干渉を許さない絶対的な壁」であるという硬い「硝子壁(ショーケース)」(注17)越しに、彼女が命がけの戦いに挑む様をなすすべもなく眺めているほかないことから明らかである。「硝子壁(ショーケース)」の彼方には、どんなに些細な接触も油断すれば死に直結しかねない、戦国時代さながらの女たちの真剣勝負があり、手前には中で何が起きようとも手を出すことが許されない、まるで目そのものと化したかのような無力で無害な男たちがいる。そして主役はあくまでも前者のほうであり、後者は―興行を続けていく上で欠かせない出資者でもあるとはいえ―あくまでも観客という立場に徹している。もちろん、効果的な攻撃のためには正確な視認が必要なことは自明だし、観客抜きの興行というものも考えにくい以上、単純に触覚が視覚よりも上位にあるとは断定できない。なにしろ遠すぎて触れることができない対象にも、視線は一瞬で届くのだ。よって第1巻の時点では、触覚と視覚の関係は、一方的な侵略や圧迫というよりは単純な分離と考えておくほうがよいのかもしれない。ことに、秀影がさくらに触れることがかなわないのとちょうど対称的に、表向きは豊臣幕府内務監察局の二級職員「鴉」として仮面をつけて行動している彼の正体が、さくらには途中まで不明なままであること、換言すれば秀影の側には触覚的な不完全性が、さくらの側には視覚的な不透明性が課せられていることを思えばなおさらである。もっとも小説も中盤をすぎて第四幕にさしかかるあたりから、さくらは「鴉」が秀影その人であることにうすうす気づいているようなのだが、そのことは必ずしも第五幕の大詰めにおける秀影の名乗りの瞬間から劇的な衝撃力を奪うことにはならず、むしろ、大奥においては触覚と視覚の同期がどうあがいても例外的な幸福にすぎないことを立証しているようである(注18)。

この分離がはっきりと対立にまで高められ、触覚による視覚の駆逐の試みへと発展するのが第2巻である。ここでは今日の大奥を作り上げた諸悪の根源とされる、序列一位(すなわち将軍の正妻である)の強敵・絲妃(あらくね)を吉刳ともども打倒せんとするさくらたちの陰謀が筋書の中心を占め、銀狼とその母である序列四位の金獅子(きんじし)が絲妃に立ち向かうことになる。
絲妃の能力は名前の通り糸の操作である。極細の繊維を絡み付ければ人体を切断できるし、他人の神経系に介入すれば洗脳や拷問も思いのまま、糸を背中で縒りあげれば筋骨隆々たる八本の腕に早変わりという具合で、さすがは大奥の女王というべきか、「接触」の邪悪さ・狡猾さもここに極まった感がある。それに応じて視覚的な要素の貧弱さもまた顕著である。漆黒の衣装に身を包んだ彼女が潜む大阪城の「女郎蜘蛛の間」は、縦横無尽に人工の蜘蛛の巣が張り巡らされ、ほとんど光の射さない暗黒の部屋であるし、銀狼と対峙した絲妃は、失敗に終わったとはいえ手始めに相手の「眼球」をつぶそうとしている。たしかに彼女自身は盲人ではないが、銀狼の硬化能力を打ち破ってついに右手を切断することに成功したのは、絲妃が片目を、敵の弱点を解析できるという「夜鷹(よだか)」―すでに故人らしい―の眼球に取り換えていたからだ(換言すれば、絲妃の視覚的な優位は生来のものではない)(注19)。どうも糸を精製する能力は持たないことからすると、糸の操作に特化した独自の感覚が彼女の能力の正体なのだろう。おそらくそれは、己の筋繊維の活動を一本一本識別できるほどの精妙な感覚である。大奥が触覚の支配する空間であり、ほかならぬそのことによって血生臭い殺戮の場でもあることの証人として、彼女以上にふさわしい人材は他にいない。
対して、吉刳がまだ正気だった頃に最も彼の寵愛を受けていた金獅子は、純然たる視覚の世界に身を置いている。単に容姿が華やかで衣装も黄金色であるというだけでなく、本人は「分子操作」(注20)だと説明するその能力が、武器(鉄球)および彼女自身の透過性として、すなわちいかなる障壁をも潜り抜ける無遠慮さと、いかなる打撃によっても損なわれることのない手ごたえのなさとして発現しているという点において、金獅子はほとんど個々の視覚対象を超越しているような、見ることを可能にしてくれる条件そのもの、すなわち光の源なのである。「彼女は当時、『大奥』の頂点で燦然と輝く太陽だった」(注21)という文はそのことをはっきりと暗示、否明示している。これを逆に考えれば、金獅子は触覚の領域からは完全に締め出されているということに等しい。例えば、彼女は相思相愛の仲だった吉刳との間で、正常な性交によって子をなすことができなかった。息子の秀影は絲妃の力を借りた体外授精の賜物だし、銀狼ももともと捨て子で、狼に育てられていたのを金獅子が拾って養子にしたという関係である。
第2巻の筋書の悲劇性は、触覚と視覚という両極を代表するこの二人の関係が胚胎せざるをえなかった非対称性に由来している。子育てに専念したいという理由で正室の座を譲り受けたのをこれ幸いとばかり、吉刳の脳を改造して金獅子のことを忘れさせ、秀影を彼女のもとから引き離し、あの手この手で彼女を孤立させて大奥の中にいづらくした絲妃の執拗ないじめは、その実「柱の陰から、太陽を仰ぎみるように」(注22)金獅子の放つ輝かしい「アウラ」に惹きつけられる恋心の産物であり、吉刳に夢中だった彼女の心に、せめて憎悪によって己の存在を印象づけたいと願ってあがいた結果だったにすぎない。

「あんたはいつもそう、自分が周りからどういうふうに見られてるか知らないから―あたしみたいな女が、あなたに話しかけたら、恋なんてしたら……あなたを汚してしまう! だから、あたしは見てるだけでよかった。気持ちを秘めてるだけで満足だった……」
『絲妃』が、嘔吐(えず)くように。
「でも、こんなに好きなんやから―言わなくても伝えなくても理解してほしかった!」
 その、いびつだが素直な言葉に、『金獅子』はむしろ怒ったように。
「甘えるなよ、そんな遠くで好きだの愛してるだのどれだけ空虚な言葉を重ねても、私の心には届かんぞ」
「じゃあ、どうすればよかった―どれだけ愛しても、愛しても……。届かなかった、伝わる気がしなかった、だからあなたの周りで騒がしくしてる邪魔者をぜんぶ排除して、あたししか見えないようにして……!」
「あぁ、おかげでおまえがよく見える、今からおまえに会いにいくぞ!」
 どん、と『金獅子』が踏みこんだ。〔中略〕
「ひいいっ、待ってまだ待ってだってまだ愛される確信がないもの―やめて、あなたに嫌われたらあたしは生きている価値がない! 近づかないで、こないで! 勇気がでたら絶対に気持ちを伝える、その日を待ってあたしはあたしは……!!」
 八本腕が唸る、『絲妃』の悪意の結晶のようなそれが、『金獅子』の全身を打った。今度こそ牽制ではない、本気の打撃だ。血が飛んだ、骨が軋む音がした。
「何で避(よ)けへんのよォ!?」
『絲妃』が絶叫し、『金獅子』は笑った。
「馬鹿め、愛のある攻撃は痛くないぞ! むしろ心地よいわ!」
「ひいいいっ!?」
 理解不能、という表情で『絲妃』が連続攻撃、鈍い音がして『金獅子』が削られていく。だが歩みは止まらない。両手を広げ我が子を守ったまま、歩みゆく。
「もっと喧嘩をしよう、若者じみた理由で! 殴りあおう、罵りあおう、私たちに足りなかったのはそれだ! 遠慮をするなぁ、親友(とも)よ! 青春の鬱屈をぶつけてくれ、もっと殴ってくれ、もっともっと愛しておくれ―『絲妃』!!」
「何なの、何なの、今さらぁあああ!?」
『絲妃』が自棄(やけ)になったように連撃、そのたびに『金獅子』は震撼し、冗談みたいに血が噴出する。一秒ごとに建物が灰燼に帰すような重みでぶん殴られてるのだ、立っていられるのが不思議なぐらいだ、常人なら一撃で即死だ。(注23)

金獅子が殴打を避けようとしないのは、背後の銀狼を守るという意図ももちろんあるのだろうが、それだけにとどまらず、ちょうど光がそうであるように、何かにぶつかって痛みを感じるという経験からずっと逃避してきたかのような己の生き方を反省しつつ、絲妃の愛憎を真正面から受けとめ切ろうとする決意の表れだろう。とはいえこの対面は、臆病さが高じて錯乱に陥り、近づく者全てをたとえ恋しい人であっても破壊せずにはいられない絲妃と、単に肉体の厚みに拘束されないというだけではなく、まるで平面の像になろうとしているかのごとく本当に(物理的に)その厚みを削ぎ落とされて刻一刻と生命が薄れてゆく金獅子との対比を通じて、触覚の暴力性と視覚の彼岸性とを余計に強調することにしかならない。ここでの金獅子の言動が、勇気に加えてある種の捨て鉢な薄気味悪さをも漂わせているのは、たぶん、本来なら視覚の源泉として超然と遠方の高所にとどまっているべき太陽が、自分から触覚の世界に歩み寄ってきたことに原因がある。なにしろ「ある遠さが一回的に現われているもの」というベンヤミン的な「アウラ」の定義からすれば、遠さの喪失だけで「アウラ」が死ぬには十分すぎるほどであるからだ。遠くから視覚を介して憧れるだけだった対象を、いまや大衆は触覚的に我が物にしつつあるという現状認識を提示しつつ、必ずしも諸手を挙げてそのような事態の成行を歓迎するのではなしに、「アウラ」の凋落という観点から小さからぬ懸念を表明してもいる「複製技術時代の藝術作品」の分析の引き裂かれたような調子に、何かしら一脈通じるものがあるのではなかろうか。ともかくこの論文によれば―視覚が注意の集中と縁が深いのとは違って―、触覚とは新たな習慣の形成に役立つ感覚なのである(注24)。かつては「平和で、愛だけがあった」(注25)大奥を徐々に侵蝕してくる殺伐とした空気に耐えられず、全国を行脚して人助けに専念することでようやく自尊心を保っていた(銀狼との出会いはこのときのことで、かれこれ十年以上昔らしい)という金獅子を尻目に、とめどなく進んだ腐蝕の結果として、主人公であるさくらたちの世代にとってはもはや大奥は隅々まで殺戮と闘争が蔓延し常態化した戦場以外の何ものでもなく、その頂点には無敵の暴君絲妃が、まるで最初からいたような顔つきで―さながら巣の中心にいる蜘蛛のごとく―平然と居座り、一向に退く気配を見せないという事情は、このような、視覚との対照を通じて判明する触覚特有のしぶとい習慣形成力から説明すべきではないかとも思える(なお、「アラクネ」はギリシャ神話中の織物の名手の名で、女神アテナとタペストリーの腕前を競った結果、作品の出来栄えは認められたものの絵柄の主題が不敬だという理由で蜘蛛に変身させられたという)。
しかし、金獅子本人は果たして視覚の人と呼べるのだろうか。すでに書いたように彼女が「見ることを可能にしてくれる条件そのもの、すなわち光の源」なのだとすれば、彼女を評して絲妃が叫ぶ、「自分が周りからどういうふうに見られてるか知らない」という悲鳴からもうかがえるように、金獅子の眩く輝く魅力も透明性もあくまでも周囲の人々(吉刳、絲妃、銀狼…)の目にとって存在する特徴であるにすぎない一方で、彼女自身に具わった見る能力、ないし洞察力は、むしろ豪快な性格にふさわしく若干鈍そうですらある(長いつきあいだというのに、絲妃の悪意の裏に潜む恋心を見抜けなかったのが何よりの証拠だ)。吉刳の大奥の最古参にして、まがりなりにも血のつながった息子(秀影)がいるにもかかわらずいまだに処女であるという、過剰なまでの肉体的な純潔さからも明らかなように、金獅子の能力は生身の彼女にとっては結局主に極端な自己疎外、ないし身体からの意識の隔離をもたらす要因として働いている。なにしろ自分の手で自分の体に触ることならばたやすいが、自分の目で自分の顔を見るとなれば一苦労なのだ。他者の目には映っても自分では見通せない魅力をもてあまし、誰よりもそれに振り回されていたのは、もしかすると彼女自身ではなかったか。こう考えてくると、遠近法の西洋思想史を古代ギリシャから現代まで縦横無尽に駆け巡る中で神崎繁が突き当たった、見ることに定義上つきまとう間接性ないし距離は、単に大奥における視覚と触覚の分離のみならず、金獅子その人の全生涯を貫く宿命をも予告している観がある。

 見ることと動くこと、知ることと行為することは、一種の回転扉のようなもので、一方が他方を絶えず背後に退けるようにして交代するということが言われる。また、視覚は基本的に「距離の感覚」だとも言われる。つまり、触覚や聴覚と違って、一定の距離を置くことが条件となっている感覚だという意味である。眼の前にしているのに手を出せない、あるいは出してはならない。これが視覚の本性だとすれば、それが「何かを通して」という間接性の源であろう。〔中略〕
「遠近法」はその限りでいつまでも〈神話〉であることをやめない。それは寓話(アレゴリー)の、しかも最も重要な語りの様式なのである。(注26)

自ら視覚を行使するというよりも、大奥に暮らす誰もが憧れとともに仰ぎ見ずにはいられない、すなわち間に距離を挟みつつ「何かを通して」見るほかない、「眩しい太陽みたいな」(注27)視覚の絶対的な条件にふさわしいアレゴリー(寓意)とは、このように視線そのものというよりはむしろ遠近法であり、さらには光学(optics)であろう。
絲妃が雨あられと浴びせる殴打を金獅子が全身で受けとめ、触覚の破壊性に存分に身をさらす場面は、このような状況の決定的な転換として読むことができる。すでに引用したベンヤミンの文章によれば、アレゴリーを生ぜしめるのはそもそもメランコリー(憂鬱症)のまなざしである。

 対象がメランコリーのまなざしにさらされてアレゴリー的なものとなり、メランコリーがその対象から生命を排出させ、対象が死物と化しながらも、しかし永遠に確保されたものとしてあとに残るとき、対象は無条件に身柄をアレゴリカーに引きわたされたまま彼のまえに横たわる。(注28)

さて、『ドイツ悲哀劇の根源』は、ルネサンス期におけるメランコリーの寓意として、特に「犬」・「球」・「石」を挙げている(注29)。とすれば、20歳とは思えぬ幼い容姿に「尻尾」じみたポニーテールを生やし―たぶん、本人は金獅子に拾われるまで育ての親であった狼を真似ているつもりなのだろう―、本気を出すと「わんわん」と吼え(注30)、戦闘においては肉体を硬く凝固させて一時的に質量を増やすことで圧倒的な強さを発揮する銀狼は、少なくともうわべの特徴に注目するかぎりでは、何はさておきメランコリーの人であると考えなくてはならない。それゆえ彼女が立会人であることによって、絲妃との戦いを通じた金獅子の肉体の破壊は、はっきりとアレゴリーの生成として定義できることになるのだ。
それにしても、一体何のアレゴリー(寓意)なのか。接触全般からの隔離の中で、処女でありながら息子と娘がいるという齟齬ないし矛盾を抱えこんで生きてきた金獅子の経歴を考えてみれば、答は自ずと明らかであろう。それは「母」のアレゴリーでなくてはならない。

「俯(うつむ)くな、『銀狼』。私の子だろ、もっと誇り高くあるべきだ」
「せっしゃ おかあさま の …」
「私の子だ、忘れるな。子どもが何もできんのは当たり前だ、失敗してそれを糧にして成長するのだ愚かもの! 泣き言を吐いている暇があったら黙って私についてこい!」
〔中略〕
 このひとなら、この状況で、きっとこうする。
 親子ゆえの確信、確信したからこそ『銀狼』は泣く。
「おか あ さま …!」
 ぼろぼろと涙を零(こぼ)し、けれど拭(ぬぐ)って、母の背中を追う。
 忘れまい、この勇姿。
 我が人生に一片の悔いなし、そう全身で主張するかのような母の死に様よ!(注31)

このアレゴリー化が極限に達したとき、すなわちついに絲妃のもとにたどり着いた金獅子が彼女と静かに抱き合うとき、透過性はもはや触覚の欠落という宿業であることをやめ、あべこべに本来ならばありえない形で母子の一体性を創出することになる。

 母の背中が言っていた、今こそ親子になるべきだ。
〔中略〕
「おおおおおおお!!」
『銀狼』は気合いを入れて雄叫び、『金獅子』の背中に飛びこんだ。『金獅子』の分子操作能力が、『銀狼』を受けいれる。母の肉のなかを泳ぐ、出産の疑似体験のように―母のお腹(なか)を突き破り、『銀狼』が『絲妃』の前面に押しだされる。
 そのまま、左腕を突きだした。
 驚くほど呆気(あっけ)なく、それは『絲妃』の肋骨の真下から、潜りこんだ。
「げうっ―!?」
『絲妃』が目を剥(む)いて、口から大量に吐血した。『銀狼』は『金獅子』の体温を感じる、母に抱きしめられているのを理解する、ならば誰にも負けない。
 今こそ。
「てん に かわって あく を うつ」
 再び、本懐を叫んだ。
「どくふ『あらくね』ほろぶべし!!」(注32)

ここからさらに2頁を費やして描かれる絲妃への「過剰攻撃」は、『みにくいあひるの恋』と同様、恋愛が母子の愛に完膚なきまでに敗北を喫する事例として別個の注意深い検討を要するはずであるが、ともかく絲妃は銀狼の手で絶命に至らしめられ、瀕死の金獅子もほどなくその後を追うことになる。あえて作家の実人生について精神分析もどきの勘繰りを働かせるなら、あるいは幼い時分に(例えば小学生の頃にでも)母を亡くした経験に何とか理解可能な―許容可能ではないにしても―意味を与えたいという狙いが隠れているのかもしれないが、こういう憶測は若干悪趣味な気がするので深入りは避けたい。
それよりも気になるのは、死に際の金獅子が、一方的に「太陽」として仰ぎ見られる側の立場をついに脱して、逆に「太陽」を仰ぎ見る側にまわっていることである。

『金獅子』が『銀狼』の耳にくちびるを押し当て、母が赤ん坊にそうするように、めいっぱいの愛情をこめて。
「私はね、おまえのことが―だぁい好きなのだよ」
 その単純な、世界で百万回も口にされただろう言葉が、何より嬉しかった。
『銀狼』の頭をふさふさと撫でて、『金獅子』は愛しそうに。
「『銀狼』、泣くな。私の子……。胸を張れ、天晴(あっぱ)れだ。おまえは私の誇りだ、ううん―」
心を受け継ぐように。
「私の、太陽だ」
 それが最後だった。
 鼓動が止まった。(注33)

私は以前の記事の中で(日日日『ビスケット・フランケンシュタイン』)、「日日日(あきら)は現代のスピノザである」と書いたことがある。そのときは万物の「神」への内在―この場合の「神」はキリスト教的な超越神とは異なり、ほとんど自然そのものの異名である―や、心身並行論などに注目したのであるが、いましがた読んだばかりの『大奥のサクラ』第2巻の大詰めの場面は、この命題を少し違う角度から補強してくれることが期待できる。なんとなれば、ドゥルーズは『批評と臨床』(1993年)の最後を飾る論文「スピノザと三つの『エチカ』」で、「純粋に光学的なる世界に上昇することは、プラトンに対するプロティノス、デカルトに対するスピノザの役割なのだ」と述べて、スピノザの『エチカ』は第五部に至ってもはや情動でも概念でもない「本質」の書としての相貌を見せ始めること、そして本質の振舞は「光の純粋な諸形象」のそれに等しいことを、次のような言葉づかいで力説しているからである。

それらは、それ自体で「観想」なのである。それはつまり、神の単一性、主体あるいは客体(知覚対象)の単一性において、それらは観想するのと同時に観想されるということである。(注34)

「光の純粋な諸形象」といういささか謎めいた表現は、決して単なるしゃれた修辞の戯れとして受けとってはならず、観想するものと観想されるものとの一体性という独特な厳密さに沿って読まれなくてはならない。「光が光自身と闇とを顕(あら)わすように、真理は真理自身と虚偽との規範である」といったスピノザ自身の言葉づかい(注35)からもうかがえる光学的な原理を推し進めた結果として、視覚はもはや自己疎外的な原理であることをやめ、さりとて絲妃の痛々しい錯乱ぶりに表れているような触覚的な自己閉塞への退行とも違う、光源(太陽)の晴れがましい自己認識へと変じるのだ。その機微はとりわけ『エチカ』第五部の定理30において明らかである。

我々の精神はそれ自らおよび身体を永遠の相のもとに認識する限り、必然的に神の認識を有し、また自らが神の中に在り神によって考えられることを知る。(注36)

金獅子が絲妃に会うまでの己の「神様」のような思い上がりを、どこか懐かしむような口調で回想している一方で(注37)、銀狼はそんな彼女の体内に背中から潜った結果、「母の肉のなかを泳ぐ、出産の疑似体験」を経て自分もまた母と同じく、そして母にとって一つの「太陽」であることを確実に知る。あたかも二つの「太陽」が、視線の運動にとって不可欠な距離を抹殺することはないまま、しかも寓意(アレゴリー)的な形象としての同一性ゆえに、スピノザ的な、神における、また神を通じた自己の永遠性の観想によく似た結果を将来しているかのようである。
スピノザにおいては「すべては光であり、〈暗きもの〉も影にすぎない」。これこそドゥルーズが、スピノザ哲学は「バロックよりもビザンティウムに近い」と判定した理由である(注38)。わずかな示唆ではあるが、あるいはここからビザンティン美術におけるイコン(聖像)の伝統を想起するのもあながち牽強付会とはかぎるまい。というのも、岡崎乾二郎によれば、物理的にはあくまでも人間の手で描かれた対象にすぎないにもかかわらず、それほど単純な享受のあり方にやすやすと服さないところに、8世紀から9世紀にかけてビザンティン教会が聖像破壊運動(イコノクラスム)の激震を経たのちに確立をみた、イコンというものの特色があるからだ。真正面を向く巨大なキリストの顔は、決して我々によって見られる一方の客体なのではない。

むしろ人がイコンを通して観想すべきなのは、イコンそれ自体ではなく、その像が発出されたところの不可視の源、本来測り知れない無限定な源である。言いかえれば、その不可視の源から発出されたところの光によって、はじめて、それを見ている人間自身も含めて、すべての可視的な事物の姿が現れうる。(注39)

見る側(主体)と見られる側(客体)の常識的な関係を逆転し、我々自身を神のまなざしにとっての画面へと変ぜしめること、これが聖像破壊運動後のイコンという装置のそもそもの狙いなのであり、逆遠近法(空間は奥に行くにつれて小さくなるのではなくて朝顔形に開き、線は一つの焦点に収斂する代わりに鑑賞者の側に収斂してくる)の使用もそのためなのである。

 すなわちイコンを見ることは、逆にイコンによって自分たちが「見られていることを見る」こと、「それを知る」(観照)ことである。エイゼンシュタインが正確に警察の目になぞらえたように、イコンとはわれわれの世界を統制するところの存在であり、つまりイコンが表象なのではなく、それを見ているわれわれこそがイコンによって見られている表象だった。言いかえればイコンによって絵画として描かれていた(組織されている)のは、こちらの世界のほうだったのである。(注40)

イコンを前にした者は、像そのもの(その美)を見ることに関心を限定してしまうのではなく、むしろ光の遍在の中で、見られていることの自覚から光源の不滅性へと思いを馳せなくてはならない、すなわち観想を進めなくてはならない。いまわの際の金獅子が銀狼にささやく「私の、太陽だ」という台詞が、すでに書いたとおり「光源(太陽)の晴れがましい自己認識」をもたらすことは、このようにビザンティン美術の伝統という思わぬ方向からも裏づけることが可能なのだ。もっともビザンティンの美術家の間では、神の超越性が冒瀆されてはならない(鑑賞者が主体として、客体である神を一方的に見た気になるような像を作ってはいけない)という配慮が何よりも優先していたのに対して、スピノザによればそもそも「神はあらゆるものの内在的原因であって超越的原因ではない」(注41)。それゆえ観想が単に光源についての観想であるにとどまらず、というよりもまさしく光源についての観想であるかぎりにおいて、即見られる側の真の自己認識でもありうるのは、実際には前者(ビザンティンの美術家)にとってではなく、後者(スピノザ)にとってのみ成り立つことである。したがってまた、ベンヤミンの「ある現象のアウラを経験するとは、この現象にまなざしを打ちひらく能力を付与することである」(注42)という直観を参考に、瀕死の金獅子が娘の目前で「アウラ」を回復することになるという判断を下してよいのだとしても、それは銀狼の側が―大奥にいる他の少女らと同様に、主として触覚の世界で生きてきたにもかかわらず―、視覚の条件である距離ないし間接性を、無化することはないまま知らず知らずたぐり寄せ、ほかならぬ自らの内に宿してしまうという代償を不可分に伴っている。この距離の内在化ゆえに、いまや銀狼の立場からすれば、私にとって母が目には見えても手で触れることができないばかりでなく、私自身が母にとってそのような相手なのである。そこから私が、岡崎の表現を借りれば光の「不可視の源」と化すまではほんの一歩だ。これは結局母その人が、もはや太陽の地位を私に譲ってしまったがゆえに、直接私に触れることはおろか、直接私を見ることもできなくなるということと大差ない。
筆者はついさきほど、作家の実人生を立ち入って穿鑿するのは避けたいと書いたばかりだ。しかし、ここに至って読み終えた『大奥のサクラ』第2巻を閉じ、改めて「日日日」なる筆名のたたずまいに目をやれば―おのおのが「晶」一字に匹敵する大きな太陽(「日」)が三つも並んでいる上に、これでもまだ光度が足りないというのか、相当の無理強いを覚悟で「あきら」と読ませようとしている―やはり、スピノザ的(ビザンティン的)な「純粋に光学的なる世界」への上昇を望ませるような何ごとか、おそらくは触知可能性(tangibility)に由来する一体化の決定的な断念を強いるような何ごとかが、以前彼の身に、あるいは彼の母の身に到来したことを、単なる興味本位ではなくてもっと形而上学的な虚構論の観点から、ぶしつけとは思いながらも想像せずにはいられないのである。


(1)日日日『大奥のサクラ 現代大奥女学院まるいちっ!』(角川スニーカー文庫、2011年)317頁(「あとがき」より)。
(2)日日日『大奥のサクラ 現代大奥女学院まるにっ!』(角川スニーカー文庫、2012年)215-216頁。
(3)ベンヤミン『パサージュ論 第2巻』(今村仁司・三島憲一訳、岩波現代文庫、2003年第2刷)347頁。「どのような」には原文では傍点が付してあるが、太字に改めた。
(4)ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(岡部仁訳、講談社文芸文庫、2001年)263、299頁。
(5)ベンヤミン『パサージュ論 第2巻』(前掲書)336頁。
(6)ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(前掲書)289-290頁。
(7)同書293頁。
(8)同書295頁。
(9)日日日『大奥のサクラ 現代大奥女学院まるいちっ!』(前掲書)211頁。
(10)同書178-179頁。
(11)同書178頁。
(12)ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(前掲書)262、282頁。
(13)ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」、『ベンヤミン・コレクションI 近代の意味』(浅井健二郎編訳・久保哲司訳、ちくま学芸文庫、2004年第2版第5刷)592頁。
(14)同書624-625頁。
(15)ベンヤミン『パサージュ論 第2巻』(前掲書)421頁。
(16)ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」、『ベンヤミン・コレクションI 近代の意味』(前掲書)470-471頁。
(17)日日日『大奥のサクラ 現代大奥女学院まるいちっ!』(前掲書)6頁。
(18)第1巻の「あとがき」は、編集者との打ち合わせの思い出として、ご丁寧にも「校舎が硝子壁(ショーケース)で区切られてて、愛しいヒロインに触ることもできないんですよ!」なる作者の発言を紹介している(318頁)。このことからも、触覚と視覚の分離こそが『大奥のサクラ』の出発点(の一つ)であった可能性は決して小さくないと考えてよいのではないか。
(19)日日日『大奥のサクラ 現代大奥女学院まるにっ!』(前掲書)247-248頁。
(20)同書262頁。
(21)同書95頁。
(22)同書251頁。
(23)同書264-266頁。なお原文では、「あなたを汚してしまう」には傍点が付してある。
(24)ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」、『ベンヤミン・コレクションI 近代の意味』(前掲書)625-626頁。
(25)日日日『大奥のサクラ 現代大奥女学院まるにっ!』(前掲書)198頁。
(26)神崎繁『プラトンと反遠近法』(新書館、1999年)189-190頁。
(27)日日日『大奥のサクラ 現代大奥女学院まるにっ!』(前掲書)12頁。
(28)ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(前掲書)293頁。
(29)同書237-243頁。
(30)日日日『大奥のサクラ 現代大奥女学院まるいちっ!』(前掲書)230-231頁。
(31)日日日『大奥のサクラ 現代大奥女学院まるにっ!』(前掲書)267頁。
(32)同書270-273頁。なお原文では、「今こそ親子になるべきだ」には傍点が付してある。
(33)同書278-279頁。
(34)ドゥルーズ「スピノザと三つの『エチカ』」(守中高明訳)、『批評と臨床』(河出文庫、2010年)305頁。
(35)スピノザ『エチカ(上)』(畠中尚志訳、岩波文庫、2005年第50刷)145頁(第二部定理43備考)。
(36)スピノザ『エチカ(下)』(畠中尚志訳、岩波文庫、2005年第45刷)125頁。
(37)日日日『大奥のサクラ 現代大奥女学院まるにっ!』(前掲書)263頁。
(38)ドゥルーズ「スピノザと三つの『エチカ』」(守中高明訳)、『批評と臨床』(前掲書)291-292頁。
(39)岡崎乾二郎『ルネサンス 経験の条件』(筑摩書房、2001年)233-234頁。
(40)同書236頁。
(41)スピノザ『エチカ(上)』(前掲書)64頁(第一部定理18)。
(42)ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」、『ベンヤミン・コレクションI 近代の意味』(前掲書)470-471頁。
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島尾敏雄『魚雷艇学生』 

島尾敏雄(1917-1986)は昭和18年(1943年)、大学(九州帝国大学法文学部)を繰り上げ卒業したのち海軍予備学生を志願し、一般兵科に採用された。速成の訓練を経て早くも翌年には特攻隊(第十八震洋隊)を率い、指揮官として奄美群島加計呂麻島(かけろまじま)に赴任、翌昭和20年(1945年)8月13日に至ってついに出撃命令を受けながらも、発進命令が下らないまま敗戦の報に接している。
『魚雷艇学生』は、戦後の島尾がたびたび振り返らなくてはならなかった、海軍で過ごしたこの短い期間の前半、すなわち加計呂麻島に赴任するまでの訓練の日々が素材となっている、自伝風の趣のある全七章の連作短篇である(ただし途中から「私」は予備学生の身分を脱し、訓練を受ける側から将校として隊員に訓練を課する側にまわる)。刊行は1985年のことで、結果的にはこれが小説家としての島尾の遺作となった。

太平洋戦争(大東亜戦争)に何らかの形で自ら関わらざるをえなかった世代の作家が体験を小説に結晶化させた例なら他にもあるし、その中には坂口安吾の『白痴』、大岡昇平の『俘虜記』、大西巨人の『神聖喜劇』など、不朽の名作も多い。しかし『魚雷艇学生』は、戦争の讃美でもなく告発でもなく、ただただ「私」と世界との間の当惑と混乱に満ちた無意味な齟齬を、生の普遍の相としてどこまでも追究している点で比類なく特異な作品である。そのことは、旅順海軍予備学生教育部における訓練の開始を描く、第一章「誘導振」の冒頭からただちに明らかだ。

しかしはじめて着る第一種軍装の士官服は、なかなかからだになじまなかった。襟が何だか高く感じられて窮屈だったし、すぐにホックがはずれて不恰好に前が開いた。学生服ではどんなに背中を曲げた勝手な姿勢をしようと、ボタンがはずれるなど考えられもしなかったが、第一種軍装では、ちょっと前こごみになっただけで、胸の部分のホックがはずれ、一つがはずれるとそれにつれてその上下のいくつかもはずれてしまうから、いつも背筋を伸ばし胸を張っていなければならぬ緊張を強いられることになった。
 しかしその服装でからだを包んでいることに、妙に気持の昂揚があって、誇らしい気分に誘われた。誇らしい、と言っただけではうまく言いあらわせない。海軍士官の存在は、それまでの私にとって隔絶した世界のものであった。緒戦で戦死した九軍神と言われた海軍の青年士官たちの軍服姿は、及びもつかぬ所に属していた。それと同じ服装を今自分がからだにまとっている! 〔中略〕信じられそうもなかった現実が既にはじまっていた。それに包まれた肉体が、気儘(きまま)な大学生生活でたとえなまくらになっていようと、又実際の戦闘に役立つ技術を何一つ知らなくても、外から眺められた私は、海軍の仕組みの内がわの、いつでも戦闘行為の行なえる人間としか見えないにちがいなかった。(注1)

憧れの「第一種軍装」は、いざ実際に着てみると襟が高すぎ、ホックがすぐにはずれてしまうという。服としては欠陥品であろう(あるいは、首が短い一方で胴が痩せすぎという「私」の体型の問題かもしれないが、とにかく着心地のよい服でないことは間違いない)。しかしまさにその欠陥を補おうとすると、着用者(「私」)は否応なしに凛々しい姿勢をとることを強いられ、そのような外形(第一種軍装を身にまとい、背筋を伸ばして胸を張っていること)が続いて「私」の内面に軍人としての誇りをもたらす。といってもその誇りの内容は、雲の上のような存在だった「九軍神」が代表する海軍士官と自分がいま見た目を共有しているというだけのことで、対象はあくまでも外形である。当時の「私」はいざ知らず、現在からそれを回顧している執筆中の作者が、この機微をやや冷徹に突き放して観察していることは否めまい。服装そのものではなく、服装の欠陥への対処が内面を鼓舞していること、また内面の自信から、ひるがえって外形もまた士官らしく見えるに違いないという期待が改めて生じていること、この二点ゆえに、単に外形が内面を作るというよくある事態とは、いささか趣が異なるものを我々はここに識別せざるをえなくなるからだ(第一訓練はまだ始まったばかりで、「私」の精神も肉体も、軍人らしい実質などろくに具えてはいない)。つまり、外形はそれ自体として完結性を欠いているばかりか、外形に由来しつつもっぱら外形を参照するようなふがいない内面を隠しているのだから、羊頭狗肉という意味でも不完全性を刻みつけられることになる。外形に始まって外形に終わるこの回路は、あたかもただただ内面というものの独立性が錯覚にすぎないことを確認するためにだけ内面を経由するかのようでありながら、結局のところ外形をまさに単なる外形へと、すなわちきつい襟元とともすればはずれようとするホックとに悩まされる、元大学生の軍人らしからぬ心身に貼りついた、人目を欺く空疎な勇姿へと還元してしまう。そしてこの逆説的な成行きは、せっかく芽生えた誇りごと第一種軍装が剥奪され、もっとあからさまに齟齬を体現するようなみっともない「事業服」への切り替えが強制されるに及んでいよいよ本格化する。

 第一種軍装はしかし兵舎にはいり居住区を定められるとすぐに脱がされた。一人一人に与えられたチェストに納めたあとは、当分のあいだそれを身に着ける機会はやって来なかった。代わりに私たちが終日まとったものは、事業服と名づけられたちんちくりんな平常衣だ。木綿の頑丈な生地で、上衣は水兵服のそれに似て丈が短いから、腰をすっかりは覆うことにならず、どうかするとズボンとのあいだの隙間から、中に着込んだシャツがはみ出してしまうことになった。白の無地のせいで汚れも目立った。〔中略〕袖が短く、襟前もズボンも付け紐で結ぶことになっていたから、どことなく室内衣の感じがあらわれ、その姿で終日を過ごすことには、中腰のままに放置されたようで落ち着けぬ所があった。折り目も崩れ、膝も抜けやすく、肉づきのよい者など芋虫のようにごろごろした不細工な恰好になった。(注2)

いくら主観的には誇らしい自信に満ちていようとも、所詮「私」はいまだ華やかな第一種軍装に価しない素人だったのだということを、不恰好な「事業服」へのすみやかな移行はいわば背理法的に立証している。この移行はまことに迅速で、二つの引用文は、文庫版でほんの一頁ほどしか離れていない。そのつもりで両者を読み比べれば、嘲笑とも憫笑とも違う、なにやら得体の知れぬ苦笑いがほのかにこみあげてくるのを誰しも抑えられないのではないかと思う。そして、作中の「私」および歴史上の島尾氏に対してははなはだ申し訳ないようではあるが、このちぐはぐな喜劇性はのちのちまで『魚雷艇学生』を貫いて、この小説を傑作たらしめているというのが私の実感だ。
実際、仲間の平均年齢よりも若干年かさであること、「人並みはずれて弱い皮膚」のせいで毎日ハンモックを吊るたびに手の指の付け根にできた「肉の裂け目」が広がっていくこと(注3)など、どうしようもなく個人的で卑近な事情のために訓練の重圧は増し、「私」は―少なくとも主観的には―周囲から浮き上がってしまう。そしてこの齟齬を是正するというより、いったん脱色して透明にしてくれるのが、章の題名にもあった「誘導振(ゆうどうしん)」にほかならない。誘導振とは海軍体操の型の一つで、「両腕を前に真っすぐ伸ばして肩の高さまで持ち上げたあと、急に力を抜いて体側に落とし、そのはずみで又左右に伸ばしたまま肩の高さまで上げることを繰り返す運動」であるという(注4)。すなわち前方に突き出た両腕が、次の瞬間には体側へと後退して真下を指し、ついで間を置かず再び上昇して今度は左右を指したのち、また真下に戻ってから前進を再開する……という動作である。これが、「つなぎ目を支え、そしてそこからどのような動作へでも発動できる一つの基本運動の型」(注5)でありうるのは、腕を振って前後左右上下のいかなる方向をも不断に相殺し続ける上半身が、方向の端的な不在という価値を担う静止した下半身との対比を通じて、ひとたび設定されたはずの方向の打消しの連続という価値を明確に帯びるからであろう。誘導振をしている者は、自分がいかなる方向にも固定されず、さりとて現にいる地点にも安住しないことを示すために、ただそのためだけにその場でひたすら腕を動かし続けるのだ。おそらく、このように静止しているかと思えば腕だけが動いており、その動きも前向きかと思えば後退、後退かと思えば下向き、下向きかと思えば上昇、上昇かと思えば横向きと、めまぐるしい変転を重ねて決して一定しないために、この動作には不安定性をいわば可塑性(もっと実のある他の動作への出発点)として公認するようなところがあるのであり、だからこそ、あるとき皆と一緒に二時間にわたる誘導振をやらされた結果、「一種の至福の気持」を覚え、疲労の中で「不思議な快さ」を味わったという経験が、「私」にとってそれなりに肯定的な転機としての意味を持ちえたと考えるべきなのではなかろうか(注6)。
しかし、こんな裏口入学のように不規則な形で軍隊の組織に溶け込んだことの代償は、あとあとまで尾を引くことになる。以後『魚雷艇学生』は、あらゆる「私」の行為がことごとく裏目に出て、何かと居心地の悪い思いをもたらす様をもっぱら追い続けるはめになるからだ。そのことは、教官が言い渡した、最近温習(復習)の時間中にキャラメルをほおばっている不届き者がいるので、身に覚えのある者は当直将校室に来い、という注意を真に受けて出向いたところ、どうやら実際に出頭したのは「私」一人だったらしい、という挿話によく表れている。事務作業で忙しくしている教官―しかも、「私」よりも年下である―のもとにわざわざ足を運んで、たかがキャラメルごときのために自分一人頭を下げることの馬鹿馬鹿しさもさることながら、教官は教官でまさか本気にする奴がいるとは思わなかったと言わんばかりの心もち呆れた表情を見せており、まことに気まずいかぎりである。それでも形ばかりの制裁(殴打)を受けて一応区切りがついた気になっていると、やがて同じ分隊全員の前でたった一人の正直者として教官に持ち上げられてしまい、身の置き所のなくなった「私」は「すっかり意気が沮喪(そそう)した」という(注7)。考えてみれば、厳格な規則はあくまでも建前にすぎず、実際にはそれをかいくぐる道がいくらでも存在していて、しかも規則を課する側も課せられる側も暗黙のうちにそのことを了解しているという状況は、別に軍隊に限ったことではなく、世間の到る所に認めることが可能な、しごくありふれた状況にすぎまい。それなのに「私」は、公然と規則に逆らうよりももしかするともっと攪乱的なのかもしれない、あまりにも馬鹿正直に規則を遵守するという仕方で、この馴れ合いに亀裂を走らせてしまったのだ。いたたまれないのも当然だろう。これをしも読者が笑うのは酷というものであろうが、しかし例えばドゥルーズによれば、小うるさい法から馬鹿正直な遵守を通じておかしな帰結を導き出してしまうというのは、まさしくヒューモアの本質なのである(注8)。

自分ではちゃんと当直学生の任務を果たしていたつもりなのに、「にやにやするんじゃない」と言われていきなり当直将校に殴りつけられたり、せっかく旅順の町はずれにある学生倶楽部で羽を伸ばすことを許されたにもかかわらず、羊羹を食べて喫煙しただけでたちまち手持ち無沙汰に陥ってしまったりと、第二章「擦過傷」に入っても、「私」と環境との間のずれはなかなか消えてなくなろうとはしない。もっとも、大学で考古学を専攻したというある予備学生が、流暢な古墳の解説を(たぶん即興で)やってのける姿に接して、東洋史専攻の大学生だった人間として親近感を覚える場面―「私は独りぎめに自分は周囲に融け込めないなどと思ってきたことがおかしくなっていた。いろいろな人が居るものだな」(注9)―があるにはあるが、これですら、およそ古代史の研究とは縁のない、陸戦野外演習という無骨な行事の最中の例外的な一齣にすぎないし、しかもこの発見は「私」と彼を知己の仲にするわけでもなく、そのまま過ぎ去ってしまうのだ。おまけに、「私」自身ではどうしようもない肉体の問題がある。目のちらつきは幸い杞憂に終わったが、左足のくるぶしにこしらえた擦過傷のほうは、舎外での運動を休むことを余儀なくさせる。そしてその結果、正月になっても自由外出が許されない「私」たち残留組は、作りすぎて余った食事を烹炊処(ほうすいじょ、海軍用語で厨房のこと)からわけてもらうことになるのだが、この思わぬおこぼれに与ったことがどういうわけか残飯をせがんだという屈辱的な噂に変わってしまい、戻ってきた隊員たちを立腹させ、謝罪の要求を惹き起こすことになる。

私にはあれは残飯をもらいに行ったのとはちょっとちがうように考えられたのだ。残留者たちは一人一人自分の行為を悔い、分隊の名をけがしたことを謝罪した。私の番が来た。口が重くてしばらく黙っていた。「どうした」とか「恥を知れ」「早く謝罪しろ」などという言葉が耳にはいった。「あれは残飯をもらいに行ったのではない」、私がそう言うと、「弁解するな」「盗人たけだけしい」「貴様は謝罪せんつもりか」などという非難の言葉が返ってきた。〔中略〕私はあせっていた。ようやく、「分隊に迷惑をかけて申しわけない」と言ってしまったのだ。なお「それだけか」とか「横着だ」などという言葉を聞きながら重ねて「申しわけない」とぼそぼそつぶやいて頭を下げたのだった。私は自分の考えを貫き通せなかったことにがっかりしていた。いつかもこんな場面があったっけ。(注10)

末尾で回想されているのは、第一章のキャラメルにまつわる挿話のことだろう。もっともあのときは自分の非を認めるにあたってあまりに正直すぎたせいで「私」一人の名誉が変に周囲から浮き上がってしまったわけだから、罪状自体が架空の不名誉である今回の事件とはある意味で逆のはずだが、多勢に無勢と認めて口先だけでも素直に謝っておけばよさそうなものを、往生際が悪いせいで他の隊員たちに吊るし上げられてしまうという構図からは、世間ずれしていない「私」の不器用さが二つの事件に共通していることが伝わってくる。かといって「私」は、このような場面で己の正しさをあくまで主張し、謝罪の要求が不当であることを証明してみせるほどの勇気も持ち合わせてはいないのだ。最初からおとなしく頭を下げるわけでもなければ冤罪をはねつけるために戦うのでもなく、ひとたび始めかけた釈明を引っこめてもごもごと要領を得ない謝罪もどきでお茶を濁すという中途半端ぶりは、そのまま「私」と世界との相変わらず不安定な関係を表わしているかのようだ。
第三章「踵の腫れ」では舞台を横須賀に移し、水雷学校で過ごした第一期魚雷艇学生としての日々が描かれる。軍隊での暮らしも少しずつ板についてきたようで、「私」は魚雷艇の艇長を目指していっそう専門的な訓練に従事しようという意気込みでいるのだが、またしても肉体が足を引っ張る。右足の踵に腫れができたのだ。加えて年下の同期生たちの活気になじめなかったり、外出が禁止されたせいで校内に鬱屈した空気が蔓延したりと、あまり「私」の居心地はよくない。何より致命的なのは、踵の治療のために授業の進行から取り残され、肝心の魚雷に興味を抱けなくなったことであろう。
第四章「湾内の入江で」は、このようにして否応なく所定の課程が進行するにつれて、しだいに軍人らしく発達してきた外形と、その下に潜む生来の内面―この場合内面とは、社会的に通用する「私」の対極にあるような、心身両面を含む生身の「私」を指す―との間の齟齬を、前者に後者を合わせる形で埋めるよう「私」が急きたてられるいきさつを、主に大村湾沿いの川棚臨時魚雷艇訓練所(長崎県)での実践的な訓練の中で追跡している。例えば、横須賀を発って神戸の実家に立ち寄った「私」は、たしかに凛々しげな軍服姿を家族に見せることで満足を感じる。

家で過ごした日々はその時の私にはいささか切な過ぎるものがあった。まず父と妹にはじめて見せる自分の軍服姿がなぜあれ程誇らしかったものか。つい半年前にはからだのひ弱な大学生だった私が、今や軍服に身を固め、短剣を腰に吊って、父と妹に敬礼による挨拶などして見せることができたからか。そこにはちょっと信じられない程の変貌が横たわっていた。(注11)

しかし、ひとたび軍服から自由になると、まだ「私」の内面は、心身ともこの外形に釣り合っていないままであることがたちまちわかる。

 ところで軍服を脱ぎ、ふだんの着物に着替えて自分の勉強室にこもると、頼りないことに私はすっかりもとのままの大学生であった自分に返ってしまっていた。私は猫背に戻って書棚の本を並べ替え、或いは取り出しては中の幾ページかを拾い読みし、机の引き出しの中を片づけてみたり、切り抜きを貼ったスクラップブックのし残した整理をつづけるなど大学生の頃に繰り返した些事に手をつけていたのだった。(注12)

この喜劇的と呼ぶしかない外形と内面の乖離を修復する機会は、違例の丸一日の休暇の発端に忍び込んだ(というよりもそれを準備した)「特攻志願」の意志の有無への問いかけという形で、不意打ちのように到来する。

もっともその日一日の休暇が理由なしに与えられたのではなく、その直前にわれわれは重要な発表を突きつけられていたのだ。彼は先(ま)ずわれわれ魚雷艇学生の海軍兵科将校たらんとして努力した成果を認めた。訓練途上ではその山船頭振りを遠慮なしに指摘していた彼が、短期間内の達成にしてはよくやったと称揚したのだ。その評価の上に立って、魚雷艇学生が特攻隊に志願することが認められたと言った。或いは許可すると言ったのだったか。はじめ私はS少佐の言う意味がよく飲みこめなかった。しかしやがてそれは染みが広がるふうに理解できた。要するに海軍は魚雷艇学生の中から特攻の志願者を募っているのだ、口調はいつもと変わりはなく、言葉に衣(きぬ)をかぶせない言い方もそのままだったが、S少佐の表情の中に、いつもにない切なげなやさしさが感じられた。それはふだんにふと漂わす虚無的なかげりはすっかり影をひそめ、どことなく官僚的な事務処理の説明の調子の勝ったものになっていたのではあったが。〔中略〕しかしその時彼の口調から私が感じたのは、苦しげな表情とでも言えるものであった。勿論あからさまに口に出せぬ分だけ、彼のぶこつな容貌はやさしさにあふれていた。(注13)

島尾は、「彼」つまりS少佐を糾弾しているのではないことに注意しよう(なお、この少佐はその後、戦艦「大和」の水雷参謀として、沖縄戦で沈む艦と運命をともにしたらしい)。よしんば彼の責任を問おうとする気持ちがどこかにあったのだとしても、「いつもにない切なげなやさしさ」・「苦しげな表情」等の修辞はそれを打ち消して余りある。そうかといって特攻に赴く自分たちを英雄的に描きたいという虚栄心は、なおのことうかがえない。そもそもこの引用文は内容こそ読者にとって衝撃的でありながら、形式上は改行すらされることなく、いわば淡々と、S少佐の人となりの紹介から地続きになっているのだ。むろん、実際には志願を強いる暗黙の雰囲気があったことは想像するに難くないが、少なくとも小説としての『魚雷艇学生』においては、一切はまるで夢の中でのように―島尾敏雄には夢にまつわる作品群もある―抗いがたい宿命的な調子とともに進行し、「実はS少佐の言葉を聞き終わったときに既に、私は結局は志願してしまうにちがいない気がしていた」という予感が的中して、「私」はまるで他に選択などありえないかのように、「志願致シマス」という返事を提出してしまう(注14)。そして作中には、そう決意するに至った動機に関する明確な説明はない。そうである以上、我々としてはここにあれこれ恣意的な忖度を持ち込むのを慎み、自分はいまや軍人であるから軍人らしく振る舞おうという同語反復的な職業倫理以上のものを読みとらないよう注意すべきではないか。この職業倫理が、祖国のために命を捨てようという悲壮な覚悟でもなく、さりとて上官の期待を裏切るわけにはいかないという哀しい諦念でもないところに、本作の微妙さが(そして島尾敏雄という生き物の、文学者としての奥深い曲折が)潜んでいるように思える。
内面に対する外形の優越は、この一件をもって決定的となった観がある。その証拠に、外形はまるで内面を置き去りにするかのようにぐんぐん独り歩きし始め―この時期(昭和19年半ば頃)に「私」はれっきとした海軍少尉に任ぜられている―、「私」と環境との間の齟齬の原因は、もはや内面の―生身の「私」の心身の―至らなさというよりも、外形のこの突出ぶりに求めなくてはならないようなのだ。魚雷艇ではなく通称を「㊃(マルヨン)」という高速小舟艇、すなわち「震洋(しんよう)」の特攻隊への配置が決まり、「私」は再び横須賀の水雷学校に戻る。

しかし、第五章「奔湍の中の淀み」の題名からもわかるように、そこに待っていたのは、予想どおりの切迫した死へと「私」を押し流す「奔湍」ではなく、言い知れぬ弛緩の気配が漂う「淀み」であった。ひどく逆説的ながら、「私」の身分が急ごしらえの特攻隊を率いる将校として固まってきたことが、かえって境遇の中に暇を発生させていたのだ。

 特攻要員と決まった時は、情勢は甚だ逼迫(ひっぱく)していると思えた。しかも海軍の上層部が特攻作戦の採用を決意した以上は、充分に準備を整えた上で要員への志願を促したのだと考えていた。だから私たちが任地に赴けば、そこには完備された新兵器と組織が待ち受けているとばかり期待して来た。
 しかし実際はそうではなかった。差し当たって二個部隊ばかりが編成されてはいたが、どこで訓練をしているのかもわからなかった。狭い長浦湾ではとても無理だから、いずれ横須賀港外に出て行ってのことであったろうが、私の目にふれることは遂になかった。もしかしたら訓練に取りかかる段階にも至っていなかっただけでなく、部隊の編成さえまだ発令以前の仮のものだったのかも知れない。(注15)

外形の先行がもたらす逆説はこれだけではなく、初めて見た「震洋」が「うす汚れたベニヤ板張りの小さなただのモーターボートでしかなかった」ために落胆させられたこと(注16)、しかも何か構造上の欠陥があるらしく、料亭で担当の技術士官たちにその点を問いつめた大尉に促されるまま、上官にあたるはずの彼らを数人で打ち据えたところ「殴った私の腕に何かが逆流してくるような変な感触があった」こと(注17)などは、いずれも特攻要員としての立場が生身の「私」を勝手に引きずるところに起きた悲喜劇である。

宴席の勢いのまま仲間と行動を共にすることになった。海軍の中枢部につらなっていると考えていた海兵出身の大尉が誘導していることへのもたれかかりもあった。その曖昧さの中で行動した自分がすっきりしなかった。技術士官たちの、鬱屈した何かに怯んだ受身の表情は私をおびやかすに充分であった。(注18)

中でも、14名の艇隊員を預かりながらどう接してよいかわからず、「軍服を脱いでしまえば市井の一学生に立ちどころに舞い戻ってしまう」自分と違って相手は実務に精通した生粋の海軍兵だとばかり思いこんで引け目を感じていたものの、実際には「世帯苦(しょたいく)の染みついた世間人」が多いとわかり(注19)、それならば入隊してまだ日が浅いという点は共通だから、階級の差を誇示して無理に言うことを聞かせなくても、時間が経つうちに自ずと秩序が生まれてくるのを待てばよいと考えて無策のまま放任主義を続けていたところ、川棚への再度の転勤にあたって意外にも「艇隊員たちが私に惜別の気持を寄せているらしいこと」が判明し、謝絶したにもかかわらず心尽くしの贈り物として白木の箱を作ってくれるのだが、できあがった品はどう見ても「形の小さな柩(ひつぎ)」以外の何ものでもない、という悪い冗談のような章末の出来事は(注20)、おそらく外形というものの得体の知れぬ突出ぶりを「私」(および読者)に教えてくれる機会としては、作中で最も辛辣な部類に入る。そして「私」がこの出来事に加える分析は、それだけにますます冴えわたることになるのだ。

私が自分の性格を越えることは容易でなく、そのままにあらわれていたのは致し方ないが、それを彼らがどのように受けとめていたのか、私は我ながらわからなくなっていた。きっと自分で管理できると思っているよりもっとはみ出たものを私は表現していて、究極のところ彼らはそれに対応しなければならなかったにちがいなかった。(注21)

他人の善意に発する行為が「私」にとって脅威的な意味を帯びうるように、「私」の無関心な態度が他人の目にはありがたいものとして映ることもある。第六章「変様」以降のそこはかとなく晴れやかな雰囲気は、どうも「私」がこの理を悟って、従来よりも柔軟な姿勢で世界を迎え入れることができるようになったのがきっかけではないかと思える。ただし以下に引用するくだりは、一方ではさながら劇の筋書のごとく作中の時間を逸脱する将来の事件を要約している点で、このような自己の境涯に関する観察的態度の例証であると同時に、他方ではいまや自分自身が、やはり善意の結果として他人の生死の命運を分ける恐るべき立場にいることへのやり場のない苛立ち、ないし苛立ちによく似た名づけがたい激情を、異常に緊張した文体の中に封じ込めており、間違って置かれた墓碑銘のような印象を読者に与える。裏を返せば、配置上の冷静な工夫を忘れさせるほど、この一件は「私」の心に深々と食い入っていたのだ。

というのは私が最初に担当した横須賀鎮守府籍の艇隊員を、同期生Nの受け持っていた佐世保鎮守府籍のそれと交換したという事実が存在するからだ。しかもその艇隊員の誰一人としてその名前を私が覚えていないのは奇妙でさえある。その上それが極(ごく)初期の頃だったのか、或いはほぼ部隊の輪郭が形づくられつつあった時分だったのかさえもう思い出すことができない。結局私が交換した艇隊員を含めて編成された第十震洋隊はフィリピンのコレヒドール島で全滅してしまった。もっとも何人かは生存者が居たのかも知れず、現に私はその一人の名前を知らされているが、今その人を尋ねあてて会おうとするにはなかなかにためらいが妨げとなって決心がつき難(がた)い。とにかく第十震洋隊は全滅の悲運に遭遇した。担当艇隊員を艇隊長が勝手に交換などできるものかどうか確かではないが、現にわれわれはそれを行なった。北海道出身のNがどうしても横須賀鎮守府籍の隊員と共に特攻死を遂げたいと強く希望した結果、私に佐世保鎮守府籍の隊員の訓練を押しつけるようにして引き受けさせたからだ。〔中略〕そのようなことが可能だったのは、或いは訓練開始当初だったからという可能性は大きい。とにかく結果として、海兵出身の指揮官を迎えた彼の部隊はコレヒドール島に進出して全滅に遇(あ)い、私が彼から引き受けた佐世保鎮守府籍の艇隊員によって形成されかかっていた部隊は、なぜか指揮官の着任もおくれ、基地への進出ものびのびになっているあいだ、一時は先発する部隊の欠員補充部隊と化したりしながら、最終的に第十八震洋隊として奄美諸島の加計呂麻(かけろま)島が基地だと指示された十月の中旬には、当然数の多い当初の佐世保鎮守府籍の兵員の他に、他部隊に引き抜かれたあとの補充として呉(くれ)鎮守府籍と横須賀鎮守府籍の者が多数混入してきていて、いわば海軍用語で三鎮競技会風な多様な籍を持つ混合部隊が出来上っていて、海兵出の士官は遂にあらわれず、結局先任将校且(か)つ第二艇隊長たるべき私が代わりに指揮官として発令されたのであった。そして第十震洋隊のように全滅の悲惨には遭遇せず、八月十三日に特攻戦が発動されはしたものの、発進の号令がかからぬままに敗戦を迎え、隊員を一名も死に追いやることなく全員が生き残ったのであった。(注22)

「全滅してしまった」・「全滅の悲運に遭遇した」・「全滅に遇(あ)い」・「全滅の悲惨」と、さして長くない文章の中で執拗なほど何度も喚起される友人Nとその部隊(第十震洋隊)の「全滅」は、もとより「私」が意図したことではないとはいえ、その内訳がいかなる人々であったかは、「私」が親切のつもりで応じた予定外の隊員交換が決めたことである。「それなのに自分たちばかりおめおめと生き延びてしまって……」という「私」の(そして島尾の)忸怩たる引け目がにじみ出てくるような息苦しいくだりであるが、しかもなお全員の生還という結果はいまさら拒絶するわけにいかず、起こったとおりに受け入れるしかない現実である。「私」個人の有能さというよりも、「私」の部隊が刻々と成員の新陳代謝を繰り返しつつ、進出が遅れに遅れてもたついたことが、「私」たちをしてとうとう無事に生還せしめた(むろん、特攻隊の隊長としての「有能な」行動とは、自分を含む部隊の全員が敵艦への効果的な突撃を全うできるようにすることであって、定義上それ以外ではありえまい)。そのことを知りつつ『魚雷艇学生』を書き進める現在の「私」による回顧は、いきおい苦渋を免れないのではあるが、この引用文の後に空行をはさみ、再び何事もなかったかのように川棚で過ごした昭和19年(1944年)当時の視線に立ち戻って進む死地への道程は、むしろくよくよしても始まらないと言わんばかりの「やや投げやりな放胆」(注23)と晴朗の気配をたたえており、これはこれで「私」の外形ばかりが肥大し先行したことの成果の一つであろう。つまり、外形の複雑化に内面の変化が追いつけず、少し遅れてついてくるようであっても仕方ない、あるいはそれでかまわないということだ。年下の「私」にざっくばらんに接してくる叩き上げの兵曹長らとつきあう中で、生まれて初めて「私」が「世間」を知ったという逆説などは典型的である。

軍隊という社会が、初め私が考えていたようにはいわゆる世間と切り離された別世界の純然たる規律の世界でないことは次第にわかってきてはいたが、兵曹長たちと直接接触することにより、むしろいわゆる娑婆(しゃば)の世間よりももっとあらわな世間が凝結している世界のようにも感じ、身構える所があったのは、私の若さにちがいなかった。私は大学からいきなり海軍にはいり、基礎訓練や魚雷艇訓練を経過し、震洋に移って次第に海軍内での生活単位である部隊を形づくって行く中で、そして結果としてその部隊の指揮官配置に位置づけられて行った日々の中で、いわゆる世間というものをがっちりと覚えさせられたと言って差し支えなかった。私は一般世間に出てから世間を覚えたのではなく海軍の部隊生活の中で、それも特攻隊などと呼ばれる特殊な環境に囲まれながら、いわゆる世間というものを確かに教えこまれたと思っている。そしてそれらの教師の頂点に立っていたのが、部下の兵曹長たちであったと言えようか。(注24)

五人の練達の兵曹長を従える特攻隊の少尉の身分になったことが、すなわち一見世間から隔絶された海軍組織の中に組み込まれたことが、かえって第一章のキャラメル事件の頃は知らなかったはずの「世間」というものの厚みを教えることで、「私」の内面に確実な成長をもたらしてくれる。これは、軍隊の内部にもそれなりの自由があり、世間の空気が通っているということではない。少なくとも「私」にとっては順序が逆で、軍隊の中に埋没することこそが、全く思いもかけなかったことに世間という未知の鉱脈に通じていたのだ。狭く長い難所である伊ノ浦瀬戸の奔流を、総勢48隻もの「震洋」で一斉に通過して佐世保湾に出るという難しい課題をみごとに達成へと導き、合同突撃演習の標的になってもらうべく見ず知らずの軍艦の将校たちを説き伏せる「私」の颯爽たる英姿はなかなか印象的だが、将校たちが快く申し出を認めてくれたときの「余り簡単過ぎて気抜けした気分」と、せっかく危険を冒して出てきたのに、いざ演習となると「全体としての印象はやはり若者の集団モーターボート遊びと変わりはなかった」という感想とは、ここでも事態に逆説的なひねりを加えている(注25)。一方で、「私」の指揮官としての信望はすでに「私」の内面からは計り知れないほど大きく成長しており、誇張した表現をするなら「行くとして可ならざるはなし」といったところだろうが、他方でこれを反対の側から見れば、いまや軍人として何かをするたびに、否応なく拍子抜けや幻滅が「私」を見舞うということにもなる。

そればかりか、第七章「基地へ」に書いてあるとおり―そして先に触れた、14人の艇隊員たちが別離に際して贈り物として作ってくれた「柩(ひつぎ)」同然の白木の箱(第五章「奔湍の中の淀み」)も予告していたように―、正式に第十八震洋隊指揮官となった「私」は、一挙手一投足が一方的に他人の内面に大きく反響し、他人の外形を身構えさせる立場にある。例えば総勢180名あまりの隊員の中にたった二人しかいない大学卒業者を興味本位で呼びつけても、何ら親しい交歓は成り立たない上に、たちまち下士官から苦言を呈される始末である。不慣れな「私」は不用意にも特定の隊員に関心を示して、いたずらに隊の中に波紋を巻き起こしてしまったのだ。しかしその気まずい記憶も、「私の周囲には日と共に指揮官、つまり隊長としての雰囲気が、雪が降り積もるように濃くなって行った」ために、じきに薄れてしまう。

酒保の配給と称して、ウイスキーの角瓶(かくびん)や虎屋(とらや)の円筒形の羊羹などすぐには消化しきれぬ程沢山持ち込まれた。私の知らないところで兵曹長たちは需品の獲得に奔走し、それは忽(たちま)ち、部隊の細胞の隅々に浸透し、どんな手続きが取られるものか、隊長室の私の所にまで奔流の如く流れてきた。三度の食事は甚だ簡素なものであったが、たとえば夕食後の寂寥をまぎらわそうとウイスキーを飲むためのつまみが慾(ほ)しくなり、従兵に一言もらしただけで、普段の食事には見たこともない部厚なビーフ・ステーキが運びこまれ、その処置に戸惑ったことさえあった。それは一体彼らがどこから手に入れどこで消尽していたものやら。やはり部隊は私にとってなお一個の謎であった。(注26)

かくのごとく外形の突出は「私」に多大な物質的特権をもたらしてくれるのではあるが、この野放図な特権は、生身の「私」にとっては嬉しいどころかいささか不気味ですらあるようだ。自動車免許を持っていないくせに少し練習しただけで図に乗ってしまい、公道でトラックを乗り回すようになるが、案の定事故を起こしかけて間一髪で回避した一件を機にようやく運転から手を引いたり、やはり無免許で自動車を運転していて老婆を撥ねてしまったらしい別の部隊の高慢な指揮官を他山の石にしたりしながら、掣肘を加えられることのない隊長の身分が、それだけに強い自制心を必要とするものであることを、「私」は誰かに教わるのではなく、外形と環境との軋轢を通じて着実に学んでいく。
その学習の過程の最後を飾る、「私にとってはどうしても一つの儀式だったとしか思えぬ小事件」(注27)とは、料亭で五人の兵曹長と宴会を開いていたところ突如乱入してきた、見知らぬ下士官たちとの喧嘩である。

われわれが特攻隊であることなども口にしながら、兵曹長たちはなぜ襲撃をかけてきたかをなじっていた。しかしそれはかえって火に油をそそぐ結果でしかなかった。特攻隊が何だ、自分たちも何々だ、とか何とか叫びながらいきなりなぐりかかってきた。私も立ち上がった。それでもなお私は彼らはまちがってこちらの部屋にはいって来たのだろうぐらいに思っていた。まさかわれわれの隊を目当てにしての襲撃とはどうしても思えなかった。既に双方入り乱れての殴り合いになっていて、小柄ながら勝気の先任兵曹長など、顔を真っ赤にして上官に手向かうかなどと調子はずれの高い声で叫びながら、闖入者(ちんにゅうしゃ)に立ち向かっているのが見えた。何しろ相手がわの人数が多い故、とどめようのない乱れた形勢となった。はじめ私は双方の間に割ってはいるつもりで、やめろ、やめろ、やめんか、などとどなっていた。つかまえた相手のからだや腕の感触では、これはみんな相当腕っ節が強いな、という印象であった。と、その瞬間私は一人の男から顔にしたたかな一撃を受けた。一瞬目がくらむ程の衝撃であった。鼻に近かったらしく血が大量に奔出し、白いシャツが鮮血にまみれた。反射的に私はむらむらと湧き上がる押えようのない怒りを覚えた。私は手当たり次第に向こうがわの男たちを殴り返した。私はそれまでに人と腕力で争った覚えはない。一度小学六年の時にクラスの班長ととっ組み合いの喧嘩をしたが、殴り合うことはなく床をころげ廻ったぐらいなものだ。あとは商業学校の時に仲の良かった友人と齟齬をきたし口喧嘩をしたが、言い負かされてみじめな思いをした。唯一の例外は母親に乱暴な言葉で口答えする弟を思い切り殴ったことだが、逆に弟から下駄で額を叩き返されて血が出た。私はわざと血をぬぐわずに弟の目にさらしておくような仕打ちに出たこともあったっけ。そんな私が、いわばしん底から怒りを覚え、体力の限りを尽して見知らぬ屈強な男たちと殴り合ったなどと、今考えても、ひと事のような思いになる。やはり私が軍隊の階級の仕組みにまるごと寄りかかっていられたからだろうか。おそらくその場では私が一番上の階級に居た。われわれのがわの兵曹長が相手が下士官であることをとうに見破っていたのだから。しかし明らかにわれわれを上官と知り、且(か)つ特攻隊員とわかってもなぜ彼らは乱暴を中止しようとしなかったのか。その点に思い至ると、私には理解のできぬ不透明な何かを感じ、怒りは一層あおられるようであった。でもそれはいわば日々の鬱屈の爽快な発散の儀式だった思いもする。私自身気持の中に納得しかねるしこりを持ちながら、肉体の活劇からは甚だ単純なからだの解放と快さがもたらされてくるのを否定できなかった。何がきっかけであったか、潮が退(ひ)くようにさっと彼らが引きあげたあとも、何だかもっとつづけていたいようなあっけなさを感じた程だ。私の鼻血はすぐにとまったが、返り血を浴びたような恰好には、ちょっと凄惨な趣が漂っていたのかも知れない。やはり私が一番喧嘩下手ということだったのだろうか。兵曹長たちは、隊長も派手にやりましたですな、などと冗談を言いつつ、いたわりを見せてくれた。もしかしたらこの共同防衛の乱闘で五人の兵曹長とのあいだに気持の上の或る近寄りを進めたかも知れなかった。(注28)

奇妙なことに、この下士官たちが一体どんな因縁をつけて「私」たちに襲撃を仕掛けてきたものか、また特攻隊の威光はおろか階級の上下さえものともしないでしゃにむに殴りかかってくる蛮勇は一体何に由来するのか、そうした点についての説明は一切省略されており、人数や風貌さえ曖昧なままである。彼らはただただ、これまで軍隊という人為的組織の中で「私」が積み上げてきた(積み上げさせられてきた)特攻隊の指揮官としての外形を蹴散らすかのような、意味とも方向とも縁のない純粋な肉体的暴力として出現する。そしてそれにつられて生身の私も、外形をかなぐり捨て、生まれてこのかたほとんど知らないできた腕力の世界に衝動の赴くまま飛びこむことになるのだ。そこに生じる不思議な「からだの解放と快さ」は、兵曹長たちとの間に芽生えた「気持の上の或る近寄り」とあいまって、外形が結局は単なる外形でしかないことを、それはときにあっけなく瓦解することで我々の生を出会いの更新で満たしてくれるという知識とともに教えてくれる。
しかし、五人の中でもおそらく最も世故に長けた本部付の兵曹長―「本部付というのは部隊を一つの分隊(海軍の兵員教育訓練単位)と見立て、分隊員の経歴の事務処理を担当する分隊士の役割を受け持つ者の下に、主計兵、衛生兵、通信兵などが配属されていた」(注29)という説明からすると、要は基地隊長や整備隊長などが部隊にとっての客体を相手どるのに対して、本部付の者は部隊そのものの主体的な自己意識というか、反省的機能の権化と考えてよかろう―に焚きつけられて、「私」は相手方の隊長であるさる大尉を同じ料亭の一室に訪ね、せっかくの爽快な乱闘の記憶を汚すような陰惨な暴力に手を染めてしまう。以下がそれに先立つ談判の模様だ。

何の魔がさしたか、私はつい本部付の提案を受け入れる気になった。〔中略〕私は、自分が乱闘をとめにはいったのに貴隊の下士官から殴られ、一個の特攻隊を預かる身としては面目のない立場に立たされた、という点をつい強調する始末となった。内心は別にそんなふうには感じていなかったのに、その点で押すより致し方ない気持であったのがおかしかった。と、何が感情を刺戟(しげき)したものか、思わず私ははらはらと涙をこぼしてしまった。それは実に唐突なそして思いがけないことであった。私は少しも悲しくなどはなかった。大尉は、ではどうすれば納得するのか、とぽつりと言っていた。感情など金輪際表にあらわすような人ではなさそうだったのに、ついほだされたか思わず折れてしまった口振りであった。(注30)

さきほどは不意の肉体的暴力の出現という突発的な事件によって外形が打ち砕かれたというのに、ここではもう再び外形が先行し始め、あまつさえありもしなかった悲しみの感情を内面に誘発さえしている。少なくとも、実態はどうあれ「私」が本気で悲しんでいるようにしか見えないことが有利に働いて、この場の主導権は決定的に「私」の側に移るのだ。いや、「私」の傍らに控える本部付の兵曹長に、と書くほうが正確かもしれない。

私は、この事件について謝罪をしていただきたいと言った。ところが本部付がそばからしつこく口をはさんで、ただ口先の謝罪だけではうやむやになってしまうから、はっきりしたかたちで結末をつけてもらいましょうと、相手の大尉に聞こえよがしに私をあおりたてていた。つまり白シャツが鮮血にまみれる程も暴行を受けたことは歴然としているのだから、同じような方法で大尉にも私の仕返しを受けてほしいと言っているのだった。階級の下の者から暴行を受けたままで引き下がったとなれば、基地への出発を目前に控えた特攻隊員の士気を阻害すること夥(おびただ)しいという理屈もつけ加えながら。本部付の口振りにははじめからの陽気な調子があっただけでなく、執拗に食い下がって相手の大尉の受諾を迫る勢いがあった。私も思いもせぬ涙を落とした醜態のつくろいのためにも、その決着は致し方あるまいと思いはじめていた。いわば敵の牙城に侵入した以上手ぶらで帰るわけには行かぬではないか。このままでは部隊には帰れませんなどと私も口走ったのだった。どこまで本気なのか自分ながらわからない状態に陥っていた。(注31)

上級者には絶対服従という軍隊の掟は、一度の違反がきっかけとなって奇怪に歪曲され、反逆の連鎖を招く倒錯した形式主義へと変貌する。すでに「私」が下級の者から出血するほど殴られた以上、相手方の責任者である大尉も「私」から同様の仕打ちを受けるのでないかぎり、これほどの屈辱を晴らすことはできない(既述のとおり、この時点で「私」の階級は少尉であり、もちろん大尉よりも下である)……目には目を、歯には歯をという論法だ。本部付が見せるこの報復への熱意の中に、ドゥルーズが分析したような、悪の原理に遡行することによって法の秩序の転覆を目論む、サド的な皮肉(イロニー)の無政府主義に似たものを読みとるのは間違いだろうか。

ゆえに法はあるもっと高い原理へと乗り越えられる、しかしこの原理はもはや法を基礎づける〈善〉ではない。それは反対に〈何らかの悪の理念〉、意地悪になった〈至高存在〉であり、これが法を逆転するのだ。(注32)

とにかく事実として、「私」は本部付の悪魔的な雄弁に乗せられて、必ずしもそうすることを自分から望んでいたわけではないというのに、その大尉を殴ることになった。しかし、その殴打はさきほどの乱闘とは打って変わって、「私」の心に苦い後味を残す。

もしかしたら刺し違えもしかねまじき気配が伝わりでもしたのだったろうか、目前の未経験な学生上がりの若僧が何を小癪(こしゃく)なとばかり、突き放した態度を終始隠そうともしなかった大尉が、殊勝にも私の申し入れを受け入れようとしたのだ。私はもっと手強(てごわ)い相手と勝手にきめこみ、それだけの覚悟はきめていたのに。さていざその段になって解決がついてしまうと、私は急にもうどうでもよい気分になっていたのだが、まるで切腹の座にでも就く感じで、その特務大尉はずいと前に出ると正座の姿勢をとったのだ。顔には不本意な苦い表情をみなぎらせていた。彼にしてみれば、そばには自分の部下たちがこの始末のあと先をずっと見ているという意識が取り除けなかったにちがいない。しかも事の赴くままこのような事態に立ち至った。私は以前横須賀の料亭で技術大尉たちをやはり不本意で殴った光景が思い浮かんだ。その時は海軍兵学校出の大尉が、㊃要員になったばかりの私たち新任少尉にそれを命じる恰好になっていた。しかし今度は自分の意志で、ということになるが、そばの本部付が焚きつけなければ、このようなことにはならなかったにちがいあるまい。そこのところが私の心の底にへんにわだかまっていた。しかし勢いに乗った私は、結局介錯(かいしゃく)でもするような恰好でその特務大尉を殴ったが、何だか割り切れぬにごった思いが残った。四畳半の部屋にはやや殺気立った気配が立ちこめたと思え、私と本部付は長居は無用とばかり、すぐに引き上げたが、私にはどうにもすっきりしない気持がしこりとなって尾を引いた。隊長よくやりました、これでいいのです、などと本部付がはしゃいで言っていたが、私はどんな言葉も聞きたくはなかった。〔中略〕私はひどく孤独な思いに陥っていた。こんなふうでこれから先百八十名余りの隊員を率いて基地に赴き、そこを根城として特攻戦にはいってなどいけるものだろうか、と甚だ頼りない気持にさいなまれたのであった。(注33)

ここに書いてあるように、料亭で上官を殴りつけるという行為自体は第五章にも先例があり、「私」にとって初めての経験というわけではない。しかしあのときは「震洋」の構造上の欠陥という客観的な理由が一応存在したのだし、「私」をけしかけたのは部下ではなくて目上の大尉だった。それに対して今度は、理由の所在は純然たる面子の領域に限られている上に、本来ならば「私」の手足ともなるべき本部付の兵曹長が、あべこべに煽動者として「私」を先導している。この二重の差異を考慮に入れるかぎり、ここに第五章で起きた事件の反復を認めることができるという事実は、おそらく本部付が唱えるような形式主義のさらなる純化という観点から説明できるはずなのだ。客観的な理由の消失が外形に以前はなかった自立性を与え、軍隊の通例である上意下達を否定する本部付のでしゃばりは、その自立性をさらに倒錯へと推し進めて、少尉(「私」)が大尉に暴行を加えることを口八丁で正当化する。
軍隊の内部における世間知の学習という「私」がたどってきた特異な行程は、乱闘後の「解放と快さ」の中で、外形はついに外形でしかないということを確認させてくれたのだったが、その知識は、ゆえに外形は上手に逆用すれば復讐の道具にもなりうる、という、あまり愉快ではない新たな発見へと間断なくつながっていく。この理論から実践への移行において、殴る側の「私」はせいぜい本部付の、いかにも階級社会ならではの怨恨―彼は「向うがわの隊長が兵曹長を経て昇進した特務士官であること」を調べあげ、「なぜか敵意をむきだしにあらわすようであった」という(注34)。要は、自分と同じ兵曹長から大尉の地位に登りつめた相手の幸運に嫉妬しているのだ―にとって都合のよい媒体でしかなく、殴られる側の大尉ともども、単に外形のしもべとして、引用文中の表現を借りれば「事の赴くままこのような事態に立ち至った」にすぎない。軍隊は、そして「世間」は、どこまでも外形(肩書)が君臨し、内面(生身の個人)を引きずっていく空間であること、そして両者の間の齟齬に気づいた当座は多少息苦しいにせよ、所詮は逃れがたいことを理解してそのただなかで呼吸することを学び、外形を賢く操縦できるようにならねばならないこと、しかもそれ以外に個人が社会の中で他人と共に生きていくすべなどもともとありはしないのだということ、この酷薄な認識を、青二才の己に突きつけられた問いかけとして受けとめざるをえない「私」が、懸命な応答の中で成熟を遂げていく様子は、ついに佐世保港を発して島へと向かうことになった船の上で、赤痢患者の発生という思わぬ事故に接しても、「部隊の指揮官」たる「S少尉」としての自覚が「私」をして大過なく対処せしめた(注35)、という結末の挿話が暗示している。『魚雷艇学生』は、さながら「私」の自伝から軍歴の前半だけを抜き出したかのごとき観を呈しており、通り一遍の戦争文学ではない。しかし、まさしく外形と内面の関係について、個人と世界との関係についての、時代と地域の制約を超えた普遍的な洞察のゆえに、この小説は尊い。


(1)島尾敏雄『魚雷艇学生』(新潮文庫、2011年)7-8頁。なお、本文中では簡潔に「旅順海軍予備学生教育部における」と書いたが、厳密にはこの書き出しの時点では、「私」はまだ呉(くれ)海兵団の営舎にいるようだ。引用文を含む「第一種軍装」についての感慨を読み進めるうちに、読者はいつの間にか「私」たちが旅順に移動しおおせた姿を目の当たりにすることになる。おそらくこの不明瞭さは意図的なもので、頁の節約という狙いがあるのだろう(初めて「第一種軍装」に袖を通した場所が呉だったという史実は黙殺できないにせよ、呉から旅順への渡航の一部始終を叙述するのはいかにもくだくだしい)。加えて、時間的・空間的な秩序の解体は、「私」がまさにそうであるような気分の高揚した人間にとっては自然なことだから、これは美学的にも支持できる混乱である。
(2)同書10頁。
(3)同書15頁。
(4)同書18頁。
(5)同上。
(6)同書19-21頁。
(7)同書34頁。
(8)Gilles Deleuze, Présentation de Sacher-Masoch, Paris, Les Éditions de Minuit, 1967, p.77-79.
(9)島尾敏雄『魚雷艇学生』(前掲書)55頁。
(10)同書65頁。
(11)同書94頁。
(12)同書95頁。
(13)同書111頁。
(14)同書113-115頁。
(15)同書124-125頁。
(16)同書125頁。
(17)同書135頁。
(18)同書136頁。
(19)同書146-147頁。
(20)同書150-151頁。
(21)同書151頁。
(22)同書164-165頁。
(23)同書170頁。
(24)同書173-174頁。
(25)同書182-183頁。
(26)同書194-195頁。
(27)同書205頁。
(28)同書208-210頁。
(29)同書170頁。
(30)同書211-212頁。
(31)同書212-213頁。
(32)Gilles Deleuze, Présentation de Sacher-Masoch, op. cit., p.76: « La loi est donc dépassée vers un plus haut principe, mais ce principe n'est plus un Bien qui la fonde; c'est au contraire l'Idée d'un Mal, Être suprême en méchanceté, qui la renverse ».
(33)島尾敏雄『魚雷艇学生』(前掲書)213-215頁。
(34)同書211頁。
(35)同書219-220頁。

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