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一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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西尾維新『零崎人識の人間関係 戯言遣いとの関係』 

全4冊の『零崎人識の人間関係』のうち、「戯言遣いとの関係」を主題としている(はずの)本作の舞台は、『クビシメロマンチスト』のいわば舞台裏に相当する。あの小説の副題(「人間失格・零崎人識」)であたかも指名手配犯のごとく名指されつつも結局狂言回しのような存在に終始した観もある、殺人鬼零崎人識(ぜろざき・ひとしき)による「京都連続通り魔事件」の顛末を知るには、本作を読まなくてはならない。

もっとも、「顛末」という語が適当かどうかはわからない。
序章ないし前置きに相当するはずの―しかしわざわざ「まえおかない」という副題を従えた―第零章において、推理小説の荒唐無稽さを嫌い、ほとんどの殺人は怨恨がらみの突発的なものにすぎないといういかにも刑事らしい信念を抱く佐々沙咲(ささ・ささき)のもとを、8年前に事件を解決に導いたということになっている哀川潤(あいかわ・じゅん)が訪れることから本作は始まる。訪問の目的は、当時嘘の報告をしたことの謝罪と、謝るのが遅くなってしまったこと自体に関する謝罪だという。それならそれで彼女が佐々に改めて事件の真相を物語るという体裁でもよさそうなものだが、実際にはそうなっていない。合計12名もの一見無関係な老若男女の命が無残に刈り取られたこの事件のいくつかの局面が、切れ切れに、誰とも知れぬ非人称の話者により、再び8年の時をさかのぼって叙述されるというのが本作の形式である。そうである以上、馬鹿丁寧な二重の謝罪をしておきながら哀川自身が話者になることはないというちぐはぐさを通じて、この短い章(それ自体がちぐはぐな、「まえおかない」前置き)もすでに予告している、そのような形式上の断片性を無視してまで「顛末」という語を使用することには、誰しも躊躇せざるをえまい。
断片性と並ぶ本作の特徴として挙げたいのは、「戯言遣いとの関係」と副題に銘打ってあるにもかかわらず、『クビシメロマンチスト』で話者を務めた鹿鳴館大学の戯言遣いこと「いっくん」(まあ、呼び名は他にも「いーちゃん」やら「いーたん」やらいくつかあるわけだが)本人と零崎人識とが作中で接触することはないという事実である。したがって、両人の直接的な対面の模様については、あの小説に書かれた以上に詳しい情報が得られるわけではない。もっとも第一章から第五章までの扉には、『クビシメロマンチスト』で二人が交わした会話の一端と思しきものが毎回載っているのだが、それを除けば本作では、零崎人識の「戯言遣いとの関係」はあくまでも間接的なものにとどまっている。少なくとも第一章から第四章までは、鎖のように二人の間をつなぐ人々や出来事のほうに焦点を合わせているのが明白である。この一見意表を突く構成も、戯言遣いその人ではなくて、戯言遣いとの「関係」それ自体が本作の主題であらねばならないとすれば、あるいは当然の結果かもしれない。とはいえ彼の存在感がまるきりの皆無に近いというわけでもない。むしろ逆に、ただいるだけで周囲の人々の運命に皮肉な番狂わせを生ぜしめ、事態の進行を予定通りの軌道からずらしてしまう「戯言遣い」の攪乱的な機能は、どの章においても健在そのものだ。

第一章は「いっくん」の鹿鳴館大学のクラスメイトであり、「何かの間違いで生きているような―何かの間違いで死んでいないような感覚」(注1)を抱えているせいか、推理小説における殺人の美化に日頃から違和感を覚えていたという江本智恵(えもと・ともえ)が事実上の視点人物である(ただし形式上は三人称であって、一人称ではない。以下の章もその点は同様である)。
彼女は、帰宅する途中で奇しくも零崎が死体を解体し終えた現場を目撃し、自分まで殺されてはたまらないという一心で会話を続けていく中で、「作品と作者は―別物だよ」とも、またそれゆえ―作者同様現実の世界に生きる読者に作品が影響を及ぼすこともないので―、そもそも「人との出会いで、人は変わらない―人との関係で、人は変わらない」とも、口にすることを余儀なくされる。このような意見は、推理小説観にうかがえるような江本の日頃の信条を明確化したものにすぎないにせよ、「人間が人間を変えたりできるかよ」という持論を披露する零崎との対話がこの明確化に一役買っているのも確かであろう(注2)。そしてその結果、一度は彼女を殺しかけた零崎が何を思ってか立ち去った後の江本は、彼女と同質のように思えるが、それでいて彼女以上に自己否定的な人物であるクラスメイトの戯言遣いが放つ怪しい求心力に、素直に身を委ねてみようという気になる。むろん、この心境の変化(根本的には自発的な変化)が、つねづね推理小説でたとえれば自分には被害者の役割こそふさわしいと思ってきた彼女を、皮肉にも本当に「第一の被害者」にしてしまうということは、『クビシメロマンチスト』を読んだ者なら誰でも知っていることだ。

第二章で江本の位置を引き継ぐのは、『ヒトクイマジカル』に登場した、高都大学人類生物学科助教授の木賀峰約(きがみね・やく)である(なお、大学教育における「助教授」の廃止と「准教授」の新設は平成19年度のことだ)。彼女は、師と仰ぐ西東天(さいとう・たかし)の狂気すれすれの天才に魅せられ、普通の人間でなければ自分の助手になる資格はないと言われながらも、ひたすら逸脱のみを欲して、彼が始めた研究(不死の研究)に20年間も従事してきた。ところがある日、授業を行う予定だった大学の教室で、血だまりに浮かぶ細切れの肉片と化した死体とともにいる零崎に遭遇した木賀峰は、殺人鬼の型破りな言動に圧倒されたあげく、追い打ちのように「人が人を殺すなんて、普通だよ」と言われてしまう(注3)。恋心にも似た執着で不在の師の逸脱ぶりに憧れてやまない彼女が、とても追いつけそうにない自分以上の異常者と認めざるをえない初対面の少年からこんな台詞を聞かされるという状況の皮肉さは、やがて零崎が起こした事件への興味が、彼女をして戯言遣いに注目させることになったという章末のさりげない一節によっていっそう強化される。『ヒトクイマジカル』を読んだ者なら誰でも知っているように、彼を研究所に招いた日の晩、木賀峰約は実験体の円朽葉(まどか・くちは)ともども、西東の差し金で訪れた匂宮出夢(におうのみや・いずむ)に惨殺されてしまうからだ。

第三章では、浪士社大学に通う七々見奈波(ななななみ・ななみ)が下宿を追い出されて途方に暮れ、あてもなく哲学の道を歩いていると、反対側からやってきた零崎と鉢合わせし、殺人鬼とは気づかぬままつい言葉を交わし始めてしまう。もっとも、「家がない」という彼女の悩みを聞いた零崎は、「家族なんてのは、要するに縁を切れない他人だろ」・「家なんて、離れられない異邦だろ」などと明らかに見当はずれの返答で応じており、正常な対話とはなっていない(注4)。やがて七々見の心が自分とは違い、家族のしがらみから自由であると勘違いした零崎は、「俺はあんたが羨ましい」と呟きながらナイフを構えて彼女に近づくが、間一髪のところで現れた浅野みいこ(どうやら自警団に参加し、木刀を携えて一帯を見回っているらしい)を見て逃走する。残された七々見はこれが機縁となって、浅野や「いっくん」の住む「骨董アパート」に転がりこむことになり、ひとまず居住に関する心配事からは解放されたようだ。ここでは、運命の皮肉は七々見の境遇そのものの中というよりも、それと彼女の代わりに殺されなくてはならなかった「第五の被害者」の境遇との間にあることは、地の文が目ざとく指摘しているとおりである。

第四章では佐々沙咲が再び登場し、江本智恵が殺された件の捜査の一環として、「骨董アパート」を訪ねて「いっくん」に聞き取り調査を試みる。『クビシメロマンチスト』(第3章)を読むかぎり、この事情聴取では「いっくん」の側がかなりの精神的緊張を強いられており、「完全敗北にすら届いていない」などという感想を漏らしているのだが(注5)、本作を読むと佐々のほうも、ともすれば常識的な価値観を突き崩し、混乱させてしまうかのような戯言遣いの非人間的な雰囲気に接して猛烈な悪寒を覚え、ずいぶん苦慮していたことがわかって興味深い。強いて勝ち負けを問うなら、その後丸腰の零崎に道を訊かれたにもかかわらず、戯言遣いの毒気にあてられたせいで、相手の正体に気づかぬままむざむざ取り逃してしまった佐々のほうが、むしろ敗者なのではなかろうか。第零章で披露された殺人犯に関する彼女の信念を、まるで嘲笑うかのように零崎がうそぶく、「本当は理由なんかいらねーし、本当は動機なんかいらねーんだ」という皮肉な発言は、余計その感を強くする(注6)。

第五章は大詰めの章で、推理を積み重ねて犯人の思考に迫ろうとする哀川潤が、いよいよ零崎人識と対決するに至った経緯が明らかになる。といっても、いったん第零章の時間に戻って佐々に語りかける彼女の台詞からもわかるように、実際には哀川が乗り出した時点で「事件は既に終わっていた」のであり(注7)、結局彼女のついた「嘘」とは、あたかも放っておけばまだまだ続く通り魔事件を自らの手で終息せしめたかのように報告したことだったのであろう。
では、12人もの老若男女を無差別に殺害した零崎人識の狙いは一体何だったのか。彼自身の答を聞こう。

「俺は心って奴を探してたのさ」
「…………」
「人間の身体じゃなくて、人間の心のほうに興味があった。心とかいう器官が、人間の身体のどこにあるのかを、俺は必死こいて探してたんだ―あんたのいうところの解剖学でな」
 俺は自分を人間じゃないと思っている。
 自分を鬼だと思っている。
 だが、人間と鬼との違いはなんだ?
 俺と人間とは何が違う。
 殺人鬼と殺人犯は何が違う。
「心があるかないかだろう―人間は心許(こころもと)ないし、殺人鬼は心がない。それが違いじゃねーのかよ。そこしかねーだろ、相違点は」
「……なるほどねえ。卓見だ」(注8)

つまり、殺人はあくまでも結果にすぎず、重点はむしろ解体の過程のほうにあったのであり、その際零崎が探し求めていたものは「心」、それも数多くの死線を乗り越えてきた分、市井の人々との隔たりを強く意識せざるをえなかった彼にとってはひとしお不可解な、殺し屋でも殺人鬼でもない一般人の心だったのである。
しかしながら哀川潤は、心理学の知見によれば人間の精神はおおよそ12種類程度に分かれると言い、ゆえに極力属性の重複が生じないよう心がけながら12人を解体し終えたにもかかわらず―江本智恵や木賀峰約が死を免れたのはただ一点、一度観察し終えた相手と同じ類型に属する個人をまたしても解体するのは無駄だというだけの理由にすぎない―、心という器官を発見できなかった零崎は、もはや通り魔としては何一つやるべきことが残っておらず、完全に手詰まりの状態に追いこまれていると看破する。

「だからお前の解剖学は、もう終わってる。なのにお前はそれに気付かず、ありえない十三番目のカードを探して、未だ京都をうろうろしていたというわけさ―」
「終わってる―」
「そう。零崎くん」
 ばしゃり、と。
 川の流れの中、一歩足を進めて。
 静かに告げる哀川潤。
「お前、終わってるんだよ」
「……それを告げに来てくれたってわけかい? 物語に終わりを告げる者―あんたは名探偵か」
「そう。お前が犯人だ」(注9)

けれども哀川潤の真骨頂は、このような絶体絶命の窮地に(勝手に)陥った敵に対してもなお進むべき進路を示せるというところに、あるいはあえて進路を示してやるというところにある。なぜならば彼女は、『ネコソギラジカル』に書いてあるとおり、肉体的にも精神的にも規格外の性能を持った(持たされた)新種の人類として誕生したからである。そもそも哀川は零崎をおびき寄せるために、何らかの策を弄したわけではない。単に夜の五条大橋を渡っていただけだ。それでいて横合いから突進してきた零崎のバイクは、あやまたず彼女を撥ねて一緒に鴨川に転落している。いまだ解体したことのない人間の類型をしゃにむに探し求める彼の心眼は、知らず知らずとはいえ立ち向かうべき相手を正しく見抜いていたのだ。

「あたしは栄えある十三人目の人類だよ。なにせ、マッドサイエンティスト三人衆の手によって、元からそういうコンセプトで創作されてっからな。あたしはお前が殺してきた十二人の、誰ともキャラがかぶってねえはずだぜ―何せあたしは新人類。そういう風に作られている―あたしは誰にも似てねえ、オリジナルだ。だからこそ」
 だからこそ。
 お前はあたしを撥ねたんだろう?
 楽しげに、哀川潤は―そう言った。
〔中略〕
「ゆえに殺人鬼。お前にチャンスをくれてやる。あたしを殺せるという―あたしを解せるという、最大のチャンスを」
 言いながら、哀川潤は親指で自分を示す。
 格好をつけ。
 思い切り、見得を切るよう―堂々と。(注10)

この度量の大きさ、ないし図太い不敵さは、単なる感傷的な共感とも、何も考えずにとりあえず相槌を打つ者の底の浅い同調とも全く異なる。少なくとも通り魔としての行状に対しては、彼女はほとんど悪魔的な哄笑を浴びせるとともに、まるで零崎の鬱屈を一息に晴らしてやろうとするかのように真正面から否定し去っている以上、その点に関して疑問の余地はありえない。

 哀川潤は―思いの限り哄笑する。
「うわははははははははははははは!」
 人間のように笑う。
 心の赴くままに―大いに笑う。
「だっけどよお、零崎くん!」
 そして哀川潤もまた、臨戦態勢に入った。
 今まで正面から対峙しておきながら、しかも出会いがしらにバイクで轢かれておきながら―相手の一撃目をかわしてようやく、ここで初めて哀川潤は、臨戦態勢に入ったのである。
「無駄だとは思うぜ―どんだけ人間をほじくり返しても、心なんて器官は見つからねえよ! 前言をあーっさり撤回させてもらうけど、あたしの中にもお前の中にも、誰の中にもそんなもんはねえ!」
「ああ!? なんだってえ!?」
 その言葉に激昂したように―自分のこれまでの、通り魔としての行いを全否定するような、哀川潤のその言葉に。
 零崎人識は、彼らしくもなく怒鳴る。
 悲痛のように叫ぶ。
「ふざけんな! だったら心はどこにあるんだよ!」
「決まってんじゃねえか」
 哀川潤は。
 にやりと得意げに微笑し―その質問に答えた。
「心ってのは、それぞれの心の中にあるんだよ」(注11)

せっかくありったけの切実さをこめて「心はどこにあるんだよ」と問うたのに、「心ってのは、それぞれの心の中にあるんだよ」などという返事を聞かされれば、何やらはぐらかされたようで、人によっては落胆や憤懣を感じるかもしれない。しかし、この「哀川潤のふざけているとしか思えない、言葉遊びのような回答」ないし「つまらない戯言」には、それでも零崎人識の心に響く何かがあったらしく、申し訳程度の戦闘を経て彼はあっさりと逃走を選ぶ(注12)。もっとも『クビシメロマンチスト』にはその後の経緯として、一度大阪に落ち延びてから、追撃をかわすために再び京都に戻ったところ図らずも「いっくん」の命の恩人になってしまう数奇な巡り合せなども書いてあるわけだが、ともかく京都連続通り魔事件は、鴨川で彼が哀川潤に背中を見せた時点で、名実ともに真の終結を迎えることになる。

さて、そもそも私がこの記事を書き始めたのは、以前「西尾維新論のために」(こちらを参照)で提唱した、哲学の世界において西尾維新に対応する存在は17世紀のドイツ人ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716)であり、ライプニッツを措いてほかにないという命題を、あの論文とは別の角度から確かめ、補足しておきたいという動機があったからである。そして、「心ってのは、それぞれの心の中にあるんだよ」という哀川潤の啖呵は、この確認のための絶好の機会を与えてくれるように思えるのだ。ただし予告しておくと、今回はライプニッツというよりもドゥルーズ寄りの結論になっている。
ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925-1995)によれば、アリストテレスやデカルト(ひいてはアントワーヌ・アルノーのようなデカルト派の哲学者)に共通する、「主語‐繋辞‐属詞」という帰属の図式に対抗して、「主語‐動詞‐補語」という包摂の図式に与する点で、ライプニッツは古代のストア派と連帯するのだという。

主語はその統一性によって定義され、述語は一つの能動あるいは受動を表現する動詞として定義される。ライプニッツは、主語‐繋辞‐属詞という帰属の図式をよく知っている。私は書くものである、私は旅するものである……しかしアルノーが親しんでいるこの「一般文法」の図式は、包摂には全然適合しない肯定の概念と区別の理論をともなっている。主語動詞補語の図式にもとづくライプニッツの包摂これは古代から帰属の図式に抵抗してきたものである。ここには一つのバロック的文法があり、述語は何よりもまず関係であり出来事であって、属性ではない。ライプニッツが属性のモデルを用いるとき、それは類と種の古典的論理の観点に立ち、もっぱら名目的な要求にしたがっているだけだ。彼は包摂を基礎づけるために、このようなものを用いているのではない。述語をつけること〔述語化〕は、帰属させること自体ではない。述語とは、「旅の実現」であり、一つの行為、運動、変化であり、旅するものの状態ではないのだ。述語とは命題そのものである。「私は旅する」を、「私は旅するものである」に還元できないように、「私は考える」を「私は考えるものである」に還元することはできない。思考とは恒常的な属性ではなく、一つの思考から別の思考へのたえまない移行としての述語なのであるから。
 述語が動詞であるということ、そして動詞が繋辞と属詞に還元できないということ、これこそはライプニッツの出来事の概念の基礎なのである。かつて初めて、出来事が概念の状態にまで高められるに価すると判断されたことがある。それはストア派によってであり、彼らは出来事を、属性にも性質にもすることなく、命題の主語の非物体的な述語としたのだ(「木は緑である」ではなく、「木が緑になる……」)。こうして彼らは、命題は物について、一つの「存在方式」manière d'êtreを言表し、アリストテレス的な本質‐偶有性という二者択一におさまらない一つの「相」を言表していると結論したのである。動詞「である」êtreに代えて「生起する」s'ensuivreをおき、本質に代えて方式をおいたのだ。ついでライプニッツが出来事に関する第二の偉大な論理を作りだす。世界そのものが出来事であり、非物体的(=潜在的)述語として、一つの地にほかならないそれぞれの主語の中に包摂されているにちがいない。そこから各々がその観点に対応する様式を抽出するのだ(もろもろの相)。世界とは述語化そのものであり、もろもろの方式は特別な述語であり、主語は、世界の一つの相から別の相へと移るように、一つの述語から別の述語へと移るのだ。様式という対が、形式と本質の王位を奪う。ライプニッツはこれを彼の哲学のしるしにした。ストア派とライプニッツは、アリストテレスの、またはデカルトの本質主義に対抗するマニエリスム〔方式主義〕を発明したのだ。バロックの構成要素としてのマニエリスムは、ストア派のマニエリスムを継承し、それを宇宙全体に拡げる。(注13)

デカルトは、「私は考える」という真理に気づいたことから一足飛びに、「私とは考えるもの(res cogitans)でしかない。言いかえれば精神、すなわち魂、すなわち知性、すなわち理性である」(注14)と結論してしまった。これでは精神そのものが、一種の「もの(res)」、すなわち物体であるかのように扱われても仕方ないし、現に『情念論』ではデカルト自身が、精神は脳の松果腺を介して肉体と結合するという説を唱えている(注15)。そのような(悪名高い)荒技から学ぶべきなのはおそらく、次のことではなかろうか。つまり、デカルトの誤りとは―仮にそのようなものがあるとすればの話だが―、心身の二元論そのものというよりも、むしろこの二元論を徹底しなかった(徹底できなかった)ことなのである。そしてそうだとすればデカルトにとっては、「おまえの肉体を解剖させてくれ、俺はおまえの心を知りたいから」という零崎人識の依頼を拒否することは至難であるはずだ。
しかしストア派やライプニッツは違う。前者(ストア派)にとっては、あらゆる物体は最初から全面的な混合を遂げている一方で、よしんば「属性」の概念を採用するにしても、それは物の性質としてではなく、動詞が表現する出来事として非物体的に理解しなくてはならないのである。すでに引用したドゥルーズの文章からも読みとれるとおり、そのような態度は「存在方式」ないし「存在の仕方」(« manière d'être »)に注目する点で、後者(ライプニッツ)のバロック的マニエリスムをも予告している。

例えば、メスが肉を切り裂くとき、第一の物体〔メス〕は、第二の物体〔肉〕の上に、新たな特質ではなく、新たな属性、〈切られる〉という属性を産出するのである。属性は、実を言えばいかなる実在的性質も指示しない。例えば、〈白〉や〈黒〉は属性ではなく、一般にいかなる形容辞も属性ではない。それどころか、属性はつねに動詞によって表現される。これは、属性が〈存在〉ではなく、〈存在の仕方〉(manière d'être)、つまりストア派の人々によって彼らのカテゴリーの分類のなかの〈様態(ポース・エコン)〉と呼ばれるものであることを意味する。この〈存在の仕方〉は、言わば存在の限界、表面にあり、またそれは、存在の本性を変化させることができない。(注16)

物体の領域と非物体的なものの領域とが、このように截然と区別されねばならないということは、この引用文の筆者である哲学史家エミール・ブレイエの挙げる例が、まさしく刃物が肉を切り裂くという出来事であるだけにひとしお興味深い。ナイフを振るって人体を際限なく細かく切り刻む零崎人識は、ただただ物体の表面に非物体的な効果を産出しているにすぎず、何度そのような凶行を繰り返したところで、目で見て手で触れることのできるような器官としての「心」に到達するわけにはいかないことを、ストア派の哲学者ならば彼に教示できそうだからだ。
もっとも、存在するのはあくまでも物体のみであって、非物体的なものはその表面で、物体同士の能動‐受動の効果として成立するというストア派の唯物論にあっては、「魂」は物体の側に分類される。それゆえ一見すると、そのようなストア派の説は、殺人鬼の「解剖学」への反論を通じて「心」の物体性を否定するかのような哀川潤の台詞―「心ってのは、それぞれの心の中にあるんだよ」―とも、また要塞の征服を説明するにあたって、当事者の思惑に対しては無視を決めこんだまま、「火薬の粉末」だの「大砲の銅の砲身」だのにしか言及しようとしない歴史家の愚かしさを例に挙げて「余りに唯物論的な哲学者」を批判しつつ(注17)、魂の基底たる単子(モナド)は「いはば非物体的自動体」(注18)であると主張するライプニッツとも、あまり相性がよくないという観を呈している。しかしこの障害は、ある自伝的な趣のある文章の中でライプニッツが「原始的な力」を魂に即して考えようとしていること(注19)、およびストア派の唯物論も、少なくともブレイエの認識では力の概念抜きには成り立たず、その点で現代人から見ると、むしろライプニッツに通じるような力動的「唯心論」としても読めるということを考慮するなら、あるいは回避することができるのではないか。

 原因とこの原因を展開し明らかにする物体との深い融合こそが、あらゆる種類の非物体的な働きの否定と、われわれがここで考察すべき肯定的言明―「存在するすべてのものは物体である」―に達するのである。この種の「唯物論」を理解するために思い起こすべきは、ストア派の人々が、他の古代人と同様、物質の慣性という概念、つまりわれわれの時代の唯物論の根本的要請をもたなかったということである。この要請に従えば、あらゆる力は、それが物質にとって外部から与えられたものである以上、物質にうわべ上存在するだけである。こうした理由からも、われわれが力をある非物質的なものとして表象するのは容易である。というのは、力は物質の本質に属さないからである。この意味においてストア派は、ライプニッツ的な力動説を有する―たしかにこうした力動説の影響なしにストア派はなかった―のと同様に「唯心論的」でもあるだろう。ストア派が成し遂げた長い活動のなかで、ストア派が、その自然学においてさえ、神秘主義の出現に好意的な、際立って精神的な側面を提示したという契機がたしかに存在する。ひとは、われわれの存在の土台を構成するこの内的な力に思いを凝らすことによって、世界の包括的な形態に自らを結びつけ、その形態において自らが生きているのを感じ取る方法を見出すのである。いずれにせよ、すべての古代人にとって物体そのものは、本質的に、またそれ自身において能動的である。それゆえ、〈すべては物体である〉という主張のもっぱら意味するところは、われわれが先に定義したような原因とは物体であり、この原因の働きを受けるもの(ト・パスコン)もまた物体だということである。これは、世界のうちに能動性という自発的原理の存在を少しも拒絶することなく認めることである。(注20)

ストア派の自然学によれば、宇宙の最も原初的な存在者とは「火」にほかならず、いかなる物体もこの原初の「火」が示す多様な緊張の諸状態である。ゆえに「諸物体の間の区別は、一般的形相によって把握されるのではなく、むしろこうした緊張の度合の差異によって理解されるのである」(注21)。この「〈強度の差異〉である緊張の諸状態」が各物体にもたらす統一は、名詞が名指すことのできる「実体的一者」ではなくて、あくまでも動詞が表現すべき「多様体としての内的な統一性」でしかありえない(注22)。
ただしドゥルーズの主著『差異と反復』(1968年)の第5章(「感覚されうるものの非対称的総合」)によれば、「『強度の差異』という表現は、一種の同語反復である」という。なぜならば強度も差異も、ともに齟齬の別名であるからだ。

強度とは、感覚されうるものの〔充足〕理由たる差異の形式である。一切の強度は、差異的=微分的な強度であり、〔媒介されていない〕それ自身における差異である。いかなる強度も、〈E-E'〉―そこでは、Eがそれ自身〈e-e'〉を指し示し、eは〈ε-ε'〉を指し示す等々―といったぐあいになっている。すなわち、どの強度もカップリングであり(そこでは、対をなすいずれの要素も、別のレヴェルに属する諸要素の対をさらに指し示し)、こうして強度は、量のもつ、もともと質的な内容を開示するのである。無限に二分化され、際限なく共鳴してゆく差異の以上のような状態を、わたしたちは齟齬(ディスパリテ)と呼ぶ。齟齬、すなわち差異、あるいは強度(〈強度の差異〉)、これらは現象の充足理由であり、現象するものの条件である。(注23)

このような発想から出発して、ドゥルーズは強度の特徴を三点列挙している。すなわち強度とは、第一に「即自的に不等なもの」であり、また第二に「差異を肯定すること」であり、そして第三に「折り込み」なのである(注24)。
ここで我々は再び、「心ってのは、それぞれの心の中にあるんだよ」という哀川潤の啖呵を想起しなくてはならない。なんとなればこの台詞の趣旨は、第一に「それぞれの心」が各自に独自の「中」を創造する折り込みの働きそのものであり、そしてこの折り込みの働きを離れて「心」一般を論じるのは空疎であるということ、第二にそれゆえまさしく、すぐ前の引用文でのドゥルーズの表現を借りるなら、心とは定義上一方では「それ自身における差異」として差異の肯定でもあり、また他方では「無限に二分化され、際限なく共鳴してゆく差異」(「齟齬」)として即自的に(それ自身に即して、それ自体として)不等なものでもある、ということ以外ではなさそうだからだ。この二段階の整理から、少なくとも哀川潤にとって、「心」とは強度的なものであると結論づけることが可能になる。事実、『ネコソギラジカル』では、彼女は戯言遣いにこんなことを言うのだ。

「いーたん。生きるってのは、どういうことだと思う?」哀川さんは言う。「あたしはね―生きるってのは、《生きてると思うこと》だと思う」
 それは―
 零崎人識が、言った言葉だ。
 正に、零崎一賊の、零崎人識が。
「自己の生命活動の認識こそが、生命の意味だと思う。ジェットコースターが気持ちいいのはそのためだろ」(注25)

誰しもここのくだりを読めば、「ひとは、われわれの存在の土台を構成するこの内的な力に思いを凝らすことによって、世界の包括的な形態に自らを結びつけ、その形態において自らが生きているのを感じ取る方法を見出すのである」という、先に引いたブレイエの文章との共鳴に驚かざるをえまい。たとえストア派に従えば「魂」を物体の一種として理解することが一向にさしつかえないとしても、その理解はあくまでも全宇宙を貫く強度(「火」)の波動を背景にすることで、自己の身体において初めて可能になるものであって、そうである以上やはり、零崎人識の「解剖学」が器官としての「心」(魂)をいくら熱心に客体の中に探し求めても見出せず、挫折を強いられることは必然的なのである。我々が分解や解体という手段に頼っているかぎり、諸器官の有機的組織を超えた生の強度に達することは望めない。
しかし共鳴はそれだけにとどまらない。というのも、哀川潤のこの発言が零崎人識の言葉―「俺は生きるってのは、《生きていると思うこと》だと、最近、思ったんだよな」(注26)―と同じであることに、「いーたん」(「いっくん」)が気づいたという事実は、単子(モナド)の根本的な自発性についてドゥルーズが書いていることの例証となりうるからである。ドゥルーズによれば、「実体や魂は『すべてを自分自身の底から取り出す』」。つまりライプニッツのマニエリスムには、「属性の本質性に対立する方式の自発性」に加えて「形式の明るさに対立する暗い底の遍在」が必要なのであり、この両者から彼は諸実体についての総体的な定式、すなわち「これらにとってすべては自分自身の底から、完璧な自発性によって生まれる」という定式を編み出すのだ(注27)。さて、『零崎人識の人間関係 戯言遣いとの関係』の第一章で江本智恵に日頃の信条の明確化を促したのが、「人間が人間を変えたりできるかよ」という零崎の言葉であったように、その後の各章でもことあるごとに彼は、木賀峰約や佐々沙咲の内心の独白を見透かしたような鋭い(ナイフのように鋭利な)寸言を投げかけている。この観点からすれば、実は零崎はすでに「それぞれの心」をいわば横断的に渡り歩くことを通じて「心」一般についても何らかの概念を作ることができているはずなのだ。おそらく彼に欠けていたものはただ、この自らの知についての自覚だけである。それゆえ第五章で哀川潤が、「つまらない戯言」―「心ってのは、それぞれの心の中にあるんだよ」―によってその自覚を喚起しなくてはならないわけであるが、だからといって彼女がいわば教師として、絶対的な権威と化すわけではない。そのことは、少なくとも三重の理由を挙げて説明できる。第一に、この同語反復的な(だから、一見すると「つまらない」)命題は聞く者にたかだか自らの知に気づくきっかけを与えるにすぎず、決して新たな知識の伝達でも大仰な命令でもない。第二に、この手の「戯言」は元来「いっくん」ないし「いーたん」の本領であって哀川の本分ではないし、彼は彼で初対面の瞬間から「そこに鏡があった」と思ったほどの直観的な親しみを零崎に対して感じており、年齢も性別も異なる彼女よりはずっと零崎に近い(注28)。第三に、『零崎人識の人間関係 戯言遣いとの関係』の内容(京都連続通り魔事件)は、虚構世界内の年表上では『ネコソギラジカル』の内容に先立つものの、他方で(本としては先に刊行された)後者の叙述の順序に従うかぎり、零崎人識こそが最初に、強度の実感として生を定義する考え方を「いっくん」ないし「いーたん」に話した人物なのであって、哀川潤は二人目である。この三重の理由を考慮すれば、そのような生の定義は、決して哀川潤一人の発明でも、ましてや彼女の独占物でもなく、「いっくん」こと戯言遣いを介して零崎人識もまた「自発的に」、この知に関与しうるということは明白ではなかろうか。まさしくライプニッツが的確にも書いているとおり、「反省作用は我々に自我といふものを考えさせ」、そればかりか「我々の思惟の主要な対象を供給するものでもある」が、そもそも魂が「自分の襞を一度にすっかり展開することはできない」(なぜなら、「その襞は無限に及んでゐるのである」から)という条件を欠けば、そのような反省の作用が成り立たないということもやはり本当なのである(注29)。

もっとも、ドゥルーズの関心を惹きつけるのはできあがった「私」や「自我」よりも、むしろ「個体化」の過程のほうである。『差異と反復』の山場と判断してよさそうな第4章(「差異の理念的総合」)の後半によれば、「潜在的なもの」が「可能的なもの」と同じであると信じるのは誤りである。

なぜなら、可能的なものは、実在的(レエル)なものに対立し、したがって、可能なもののプロセスは、「実在化(レアリザシオン)〔実現〕」であって、反対に、潜在的なものは、実在的なものに対立せず、それ自体ですでに、まったき実在性を所有しているからである。潜在的なもののプロセスは、現働化(アクチュアリザシオン)なのである。(注30)

このように、「可能的(possible)‐実在的(réel)」という対と「潜在的(virtuel)‐現働的(actuel)」という対は別物であるから、両者を混同してはならない。

すなわち、一方では可能的なものが概念における同一性という形式を指し示し、他方では潜在的なものが理念における純粋な多様体〔多様性〕を指示しており、そしてこの多様体が、先行条件としての同一なものを根底から排除するからである。結局、可能的なものが「実在化(レアリザシオン)〔実現〕」をもくろむ以上、可能的なものは、それ自体、実在的なもののイマージュであるように考えられ、実在的なものは、可能的なものの類似であるように考えられるのである。だからこそ、似ているものを似ているものによって二重化してみても、現実存在によって何が概念に付け加えられているのかは、ほとんどわからないのだ。そのようなところに、可能的なものの足らぬ点(タール)がある、すなわち、可能的なものとは、実は、後から生産されたものであり、またその可能的なものに類似している〔実在的な〕ものに似せて、あたかも以前から存在するかのように捏造されたものである、ということを暴く〔天秤の〕分銅(タール)がある。それとは反対に、潜在的なものの現働化(アクチュアリザシオン)は、差異によって、発散によって、あるいは異化=分化によって遂行される。そのような現働化は、原理としての同一性とは無縁であり、またそれにおとらず、プロセスとしての類似とも無縁である。現働的な諸項は、その諸項が現働化することになる潜在性とは、まったく類似していない。質や種は、それらが具現することになる差異的=微分的なもろもろの関係=比とは類似していない。もろもろの部分は、それらが具現することになる諸特異性とは類似していないのだ。この意味で、現働化、つまり異化=分化は、真の創造なのである。現働化は、あらかじめ存在するひとつの可能性の限定などによって遂行されることはない。或る生物学者たちがやっているように、「ポテンシャル」を語り、そして、このポテンシャルがあたかも論理的な可能性と混じり合っているかのように考えて、異化=分化を全体的な力能のたんなる限定として定義するというのは、まったく矛盾した話である。おのれがポテンシャルあるいは潜在的なものであるがゆえにおのれを現働化するということは、つねに、潜在的な多様体に類似せずに対応しているもろもろの発散する線を創造する、ということなのである。潜在的なものには、解かれるべき問題としての、果たされるべき仕事の実在性がある。問題こそがまさに、もろもろの解を方向づけ、条件づけ、産み出すのだが、しかしそれらの解は、問題の諸条件とは似ても似つかぬものなのだ。(注31)

すなわち、可能的なものが実在的なものの似姿にすぎず、同一性の原理に立脚しつつ類似によって実在化するのとは違い、潜在的なものの現働化は差異そのものの働きによって進行する創造の過程である。いまだ現働的ではなく潜在的だが、しかも実在的ではある対象、すなわちすでに差異化=微分化(différentiation)の作用によって十分に規定され、異化=分化(différenciation)による現働化を間近に控えた多様体、これがドゥルーズ的な「理念(イデア)」の身分である。そして「理念(イデア)」の現働化とは、質的で延長的な異化=分化であって、それは強度による質や延長の創造であるとともに、強度が質や延長の中で折り解かれることで取り消される過程でもある。
『差異と反復』第5章に現れる、「個体化は強度的である」という主張は(注32)、そのような差異化(微分化)済みの理念の異化(分化)の過程に対して、強度が保つべき独立性の証拠として、「諸強度量の本質的なプロセス」たる個体の生成を考えようとする姿勢に支えられている。ドゥルーズによれば個体化の作用とは、「齟齬の働きの諸要素を統合して、それらを、内的な共鳴を保障するカップリングの状態に置くこと」にほかならず、異化=分化による質や延長の創造に先行し、これを生じさせるものである(注33)。

強度は、差異的=微分的な諸関係=比よりほかに何ひとつとして表現せず、前提もしない。個体は、諸《理念(イデア)》以外の何ものも前提していないのである。ところで、《理念(イデア)》における差異的=微分的な諸関係=比はまだ、種(あるいは属、科など)であることはまったくないし、同様に、それら関係=比のもろもろの特別な点はまだ諸部分ではない。それら関係=比はまだ、まったく質も広がりも構成していないのだ。ところが、たとえ当該の諸エレメントに応じてレヴェルが変化するにしても、すべての《理念(イデア)》は、そろって共存しているし、すべての〔差異的=微分的な〕関係=比、それらのヴァリエーション、および〔特別な〕点もすべて、共存しているのである。言い換えるなら、諸《理念(イデア)》は、まったく異化=分化différenciéesしていないにもかかわらず、十全に規定されている、つまり差異化=微分化différentiéesしているのだ。そのような「区別(ディスタンクシオン)」の様態は、わたしたちには、《理念(イデア)》の交錯に対応しているように思われた、すなわち、《理念(イデア)》の問題的な特徴に対応し、そして《理念(イデア)》によって表象=再現前化される潜在的なものの実在性に対応しているように思われたのである。だからこそ、同時に〈判明(ディスタンクト)で‐曖昧(オプスキュル)〉であるということが、《理念(イデア)》の論理的特徴だったのである。《理念(イデア)》は、判明である(スベテノ仕方デ規定サレテイル)場合にのみ、曖昧である(異化=分化していない、他の諸《理念(イデア)》と共存している、他の諸《理念(イデア)》と「交錯(ペルプリケ)」している)のだ。折り込みという以上のような新しい次元において、諸《理念(イデア)》がもろもろの強度もしくは個体によって表現されるときには、いったい何が起っているのか、これを知ることが問題なのである。(注34)

諸理念(イデア)の「交錯(perplication)」から出発して、ドゥルーズはたびたびライプニッツの名を引き合いに出しつつ(注35)、強度から創造されながらも差異を取り消す傾向のある「折り解き(explication)」としての異化=分化とは対照的な、強度の「折り込み(implication)」、さらには強度の「包蔵」という彼の用語(注36)を借りて個体化の過程を描き出す。「包蔵する諸強度(深さ)は、個体化の場を、すなわち個体化する諸差異を構成している。包蔵された諸強度(もろもろの距離)は、もろもろの個体的差異を構成している。したがって、包蔵された諸強度は、必然的に、包蔵する諸強度を満たしている」(注37)。そして個体化にはこの包蔵の働きが欠かせないのだとしたら、個体化の現場は我々の自我の外ではなく、むしろ自我の人称的な輪郭の中もしくは下に求めなくてはならないということは、容易に予想できる。

わたしたちは、おのれを展開してはまた包蔵しなおすあらゆる深さと距離、あらゆる強度的な魂によってつくられている。包蔵しながら包蔵されるもろもろの強度、もろもろの個体的差異と個体化する差異、これらは、個体化の場を貫いて絶えることなく互いに浸透しあっている。そしてわたしたちは、ほかならぬそれらの強度と差異をまとめて、個体化のファクターと呼ぶのである。個体性は、《自我》の特徴ではなく、反対に、崩潰した《自我》のシステムを形成し育むものである。(注38)

ドゥルーズはここからさらに、個体化はむしろ、異化=分化の形態に属する「私」や「自我」という折り解かれたものを転倒しかねない性格を持つのであって、ちょうど「折り込みという強度的なレヴェルが、折り解きという延長的かつ質的なレヴェルから区別されるのと同じ意味で、個体は、《私》と自我から区別されるのである」(注39)とも述べている。
ここでまたしても西尾維新の小説に戻ると、先の検討の結果として、「心ってのは、それぞれの心の中にあるんだよ」(『零崎人識の人間関係 戯言使いとの関係』)という台詞には、「生きるってのは、《生きてると思うこと》だと思う」(『ネコソギラジカル』)と同様に、強度のそれ自身への折り込みという特徴を認めることができた。いまや両者には、それに加えて(というよりも、それゆえに)「包蔵」的な個体化という相もまたあると考えてよいように思う。ことに前者は、すでに12通りの人間の類型をことごとく解体し終え、可能性の完全な消尽に直面してなすすべもなく途方に暮れているかのような零崎人識に、なお「彼の追い求めていた答」(注40)を示唆することで、活を入れることができている。この事実は、可能性とははっきり区別すべき潜在性の権利と、潜在的なものの現働化が経由しなくてはならない、まるで現にある「私」(自我)を転覆するかのような個体化の過程というものとを視野に入れないと、説明がつかないのではなかろうか。ちなみに「折り込み(implication)」と「折り解き(explication)」は、原語ではともに「襞(pli)」を含んでおり、ドゥルーズはこの語を表題に掲げた1988年のライプニッツ論(『襞―ライプニッツとバロック』)において、多を包含する一としての「単子(モナド)」と、それにまつわる折り込みと折り解きの運動とを、新プラトン主義からライプニッツが受け継いだ思想的遺産として挙げつつも、両者を包括する「折り合わせ(complication)」の語は、個体を埋没させる汎神論の危険を伴っていたので、継承するわけにいかなかったのだと指摘している。ライプニッツの宇宙には「それぞれが独自の還元不可能な観点を保存する無数の個体化された魂」(注41)が不可欠だからである。そして「世界とは、モナドあるいは魂の中で現働化される潜在性であるが、また物質や身体において実在化されねばならない可能性である」(注42)。この、『襞―ライプニッツとバロック』における魂と身体の役割分担は、現働化の心的な性格を明確にしていると同時に、概して可能的なものの実在化に対しては冷淡だった観もあるドゥルーズの哲学が、他人(ライプニッツ)の説の祖述を通じてとはいえ晩年に多少調子の変化をきたしたことを暗示しているように思えて、個人的には興味深いものだが、その点の穿鑿はさておき、彼の他の著作と比べたとき、身体をいくら細かく分解しても心が特定の器官として見つかるわけではない、という『零崎人識の人間関係 戯言遣いとの関係』の内容との相性が、際立ってよさそうなのは確かである。
しかし、世界を現働化されるべき(ただしすでに実在的な)潜在性として考える発想自体は、『襞―ライプニッツとバロック』が初出ではなく、すでに20年前の『差異と反復』からもうかがえるものだ。ドゥルーズはそのことを、「世界は一個の卵だ」と表現していた。「現働化されるべき潜在的な質料としての差異的=微分的な諸関係=比を表現する」(注43)強度の差異を折り込んだこの卵のことを、フェリックス・ガタリとの共著『千のプラトー』(1980年)は、諸器官の有機的な組織化に抗おうとする「器官なき身体(Corps sans Organes, CsO)」という名で呼ぶ。

 CsOは強度にしか占有されないし、群生されることもないように出来ている。強度だけが流通し循環するのだ。CsOはまだ舞台でも場所でもなく、何かが起きるための支えでもない。幻想とは何の関係もなく、何も解釈すべきものはない。CsOは強度を流通させ生産し、それ自身、強度であり非延長である内包的空間spatiumの中に強度を配分する。CsOは空間ではなく、空間の中に存在するものでもなく、一定の度合をもって空間を占める物質なのだ。この度合は、産み出された強度に対応する。それは強力な、形をもたない、地層化されることのない物質、強度の母体、ゼロに等しい強度であり、しかもこのゼロに少しも否定的なものは含まれていない。否定的な強度、相反する強度など存在しないのだ。物質はエネルギーに等しい。ゼロから出発する強度の大きさとして現実が生産される。それゆえ、われわれはCsOを有機体(オルガニスム)の成長以前、器官(オルガヌ)の組織(オルガニザシオン)以前、また地層の形成以前の充実した卵、強度の卵として扱う。この卵は軸とベクトル、勾配と閾、エネルギーの変化にともなう力学的な傾向、グループの移動にともなう運動学的な動き、移行などによって決定されるのであり、副次的形態にはまったく依存しない。器官はこのとき純粋な強度としてのみ現われ、機能するからだ。器官は閾を超え、勾配を超えながら、変化していく。(注44)

この文章はまるで、『クビシメロマンチスト』の筋書本体から完全に締め出された無題の前置き(ただしルー・ザロメの箴言が扉に掲げられている)が、なぜか作中の事件に当事者としては関わってこない零崎人識と「僕」(いっくん)との会話で幕を開け、その上「僕」にとっては「鏡面領域」か「水面に映った向こう側」同然の彼との邂逅が、にもかかわらず最終的な安定ではなくてむしろ開始(「一個世界が崩壊する物語」の開始)でなくてはならない(注45)、という一見不可解な事態を解明するために書かれたかのようだ。「零崎人識(ぜろざき・ひとしき)」という名前を「0=」と書き直してみればそのことはただちにわかる。彼こそは卵としての器官なき身体であり、「強度=0」という究極の非物体性である。ストア派は、諸物体を貫く原初の「火」の緊張によって一つにまとまった宇宙の外に無限の「空虚」を想定したが、宇宙の完結性・完全性が損なわれることがないよう、宇宙がこの「空虚」の中に存在するという表現は拒み、両者の間のいかなる関係をも注意深く取り除こうとした。ブレイエの翻訳者である江川隆男は、このストア派の「空虚」がグノーシス主義によって被った変容に触れつつ、「それは、あたかも鏡の向こう側に反映されたかのようなまったく別の実在性であり、鏡のこちら側のすべての実在性があたかもそこから生じてくるような〈卵〉、宇宙の原初的な間隔である」(注46)と書き、これを強度によってのみ占有されうるが、それ自体としては不毛で無益で消費不可能な「器官なき身体」として考えている。けだし慧眼であろう。もちろん、強度がゼロであるということは、卵が無差別的であることを意味しない。「理念(イデア)」としての卵もしくは世界は、いまだ異化(分化)していないという点で曖昧ではあっても、差異的(微分的)な規定は欠けておらず、それゆえ判明なのである。さて、哀川潤が京都連続通り魔事件の真相に迫ることができたのは、「無差別殺人があまりに無差別過ぎること」に気づいたことがきっかけとなり、どうやら一度解体した相手と同類の人間は避けるという、消極的な選別の原理が犯人を動かしているらしいことに思い至ったからである(注47)。換言すればこの事件において、零崎人識のまなざしにはひたすら差異のみが映っており、個々の標的の人格的な重みは二の次であるか、あるいはそもそも眼中にない。

「強度=0」の空虚であるがゆえに、「器官なき身体は死のモデルである」。『千のプラトー』に先行するドゥルーズとガタリの共著『アンチ・オイディプス』(1972年)はそう断定する(注48)。そして器官なき身体が、有機体ないし有機的組織化に対立するものとして、器官の反発や吸引によって作動し始めるとき、それは「死のモデル」を「死の経験」へと翻訳し、転換する過程(内部から出現する死の、外部から到来する死への変換)として考えることができる。

 しかし、不明瞭さが重なってくるようである。モデルと区別される死の経験とは、いったい何なのか。これはやはり、死の欲望なのか。あるいは死に向かう存在なのか。それとも、たとえ思弁的なものにせよ、死の備給なのか。いや、こうしたものではまったくない。死の経験は、無意識にとって最も普通の事柄なのだ。なぜなら、それはまさに生の中において、生に対して成立し、あらゆる移動、あらゆる生成において、移動と生成としてのあらゆる強度において成立するからである。それぞれの強度の特性とは、自分自身において強度=0を備給することであり、強度はゼロを起点とし、無限の度合において増減するものとして、ある瞬間に生みだされてくる(クロソウスキーが語っていたように、「何かの流入とは、単に強度の不在を意味するためにだけ必要なのだ」)。私たちは、この意味において、吸引と反発の諸関係が、いかにして感覚や感動の諸状態を生みだすかを示そうとした。〔中略〕これらの感動が、死の無意識的な経験を導く。死とは、あらゆる感情において感じられるものであり、あらゆる生成〔なること〕において、到来することをやめず、到来することを完了しないものであるからである。―別の性になること、神になること、ある人種になることにおいて、器官なき身体の上に強度の地帯を形成しながら。あらゆる強度は、固有の生のうちに死の経験を営み、これを内包している。そしておそらく、あらゆる強度は最後には消え、あらゆる生成は、それ自身、死への生成となる! こうして死は現実に到来する。ブランショは、まさに、このような二重の性格、死の還元しがたい二つの様相を区別している。ひとつは、外観上の主体が、〈ひと〉として生き続け、旅を続けるという様相である。「ひとはたえず死ぬことをやめず、いつまでも死に切らない。」もうひとつは、この同じ主体が、〈私〉として固定され、実際に死ぬ、すなわちついに死ぬことをやめるという様相である。なぜなら、最後の瞬間が実際に到来することによって、この主体はついに死にたえ、この瞬間は、こうして主体を〈私〉として固定し、強度を解体し、強度が内包するゼロにまで強度を返すからだ。(注49)

ここでの眼目は、第一の様相から第二の様相へのこの移行が表すものが「人称論的な深化」ではなくて、再出発を期した「死の経験から死のモデルへの回帰」であるということだ。生成もしくは強度の生としての死の経験を導く主体は誰とも知れぬ「ひと・誰か(on)」にすぎないのであるから、「私」は蚊帳の外である。かといってこの主体がとうとう「私」として死ぬときも、それはいささかも「私」が誇れるような自分一人の手柄ではなく、かえって「死のモデル」としての器官なき身体(強度=0)の再出現と、循環の再開とに間を置かずつながってゆくにすぎない。
死がこのようにドゥルーズ哲学の中で特権的な地位を占めているとすれば、一体何が、いかなる動機がそのような地位を正当化するのか。『襞―ライプニッツとバロック』はこの間の事情について、非常に明快な答を教えてくれる。潜在的なものとしての潜在的なもの、また可能的なものとしての可能的なもの、すなわち純粋で端的な出来事の地位を、現働的なものや実在的なものとの区別を通じて見定める必要があったのだ。

 現働化の過程は配分によって進行するが、実在化の過程は相似によって進行する。このことは特別にデリケートな論点をもたらす。なぜなら、もし世界がモナドにおける現働化と、身体における実在化という二重の過程にとらえられるなら、世界そのものはいったい何からなっているのか。現働化され実在化されるものとして、それをどのように定義すればよいのか。われわれは様々な出来事に遭遇する。アダムの魂は現働的に罪を犯す(目的因にしたがって)、また彼の身体は実在的にりんごを飲み込む(動力因にしたがって)。私の魂は現働的な苦痛を感じ、私の身体は実在的な衝撃を受け取る。しかしそれ自身の実在化からも、それ自身の現働化からも、同時に区別されるような出来事の秘密の部分とは一体何なのか。もちろんそれは外側に位置するものではないのであるが。例えば、外的な実在性ではなく、魂におけるその親密性でもないあの死というもの。われわれが見たように、それは理念性としての純粋な屈折であり、中性の特異性であり、ある非身体的なものであると同時に苦しみを感じないものであり、ブランショのように言うとすれば、それがなしとげられても現働化されず、それが実行されても実在化されないような「出来事の部分」なのである。それはあらゆる表現に属する表現可能なもの、あらゆる実在化に属する実在化可能なもの、〈単なる出来事〉Eventum tantumであって、魂と身体はこれにふさわしくあろうとするが、しかしこれは決して到来することがなく、しかもわれわれをたえず待ち続けるのである。つまり純粋な潜在性と可能性、ストア派的な非身体的様式からなる世界、純粋な述語。中国(あるいは日本)の哲学者ならこういうかもしれない。世界とは〈円環〉であり、出来事の純粋な「貯蔵庫」〔蔵〕であり、おのおのの自我において現働化され、一つ一つのものにおいて実在化されると。ライプニッツの哲学は、アルノーへの手紙に書いてあるように、精神的なモナドとの関連でも、物質的な宇宙との関連でも、世界があらかじめこのように理念的に実在することを要求し、出来事のあの沈黙し、陰に隠れた部分を要求するのである。出来事について語りうるとしたら、それを表現する魂と、それを実現する身体に既に組み入れられたものとして語りうるだけである。しかし、そこからのがれてしまうあの部分がなければ、われわれは出来事についてまったく語ることができないだろう。このことがいかに困難でも、ある海戦については、それを導く魂からも、それをやってのける身体からも逸脱する潜勢的なものから出発して考えなければならないのだ。(注50)

つまり死は、それ自体として特別なわけでも、ましてや望ましいわけでもなくて、むしろあらゆる出来事に潜む潜在性と現働性との、または可能性と実在性との二重性、ひいては両義性の証拠であるがゆえに貴重なのである。死というものをこのように理解することは、諸々の出来事に対して我々がいかなる態度でのぞむべきかを決める上でも少なからず参考になるはずだ。
『差異と反復』と並ぶ主著である『意味の論理学』(1969年)の中で、ドゥルーズが、出来事の真の「原因」である物体の混在と「準‐原因」としてのもう一つの出来事との区別、また前者(物体の混在)に対応する時間である、限界づけられた現在としての「クロノス」と、後者(出来事)に対応する時間である、過去と未来という二方向への無限なる分割としての「アイオーン」との区別等に立脚しつつ探究しているのは、何よりも、出来事を把握し、意志し、表象しようとする、ストア派の賢者の果敢な企てである。

 ストア派の賢者は、準‐原因に「自己同一化する」。ストア派の賢者が居を構えるのは、表面であり、表面を横切る直線の上であり、線を引いたり線を駆け巡る無作為抽出点である。また、ストア派の賢者は射手のようである。ただし、この射手との比較は、賢者の意図についての道徳的な隠喩の類として解されるべきではない。〔中略〕弓引く者が到達すべきは、矢で狙われたものが、矢で狙われないもの、言いかえるなら、矢を射る者でもある地点であり、矢が真っ直ぐに飛びながら自己自身の目標を創造する地点であり、標的の表面がまた直線・矢・射手・発射・発射場である地点である。これこそが、東洋的なストア派の意志、選択以前の意志(pro-airesis)である。ここで賢者は出来事を待つ。言いかえるなら、賢者は、純粋な出来事を把握する。すなわち、その永遠真理において、その空間的‐時間的実現とは独立に、アイオーンの線に従って永遠に来たるべきものであり常に既に過ぎ去ったものとして把握する。しかしまた、同時に、同じ機に、賢者は、受肉を意志する。すなわち、非物体的な純粋出来事が、事物の状態と自己自身の身体において実現すること、自己自身の肉体において実現することを意志する。賢者は、準‐原因に自己同一化して、準‐原因の非物体的効果を「身体化すること」を意志する。効果は原因の遺産であるからである(ゴルドシュミットは、散歩することという出来事に関して、とてもうまく語っている。「散歩は、存在様式としては非身体的であり、そこに自己を表出する主導原理の効果の下で身体をまとう」。そして、このことは、散歩と同じく、傷や弓射ることについても真実である)。しかし、出来事が、物体的原因の深層によって、また、物体的原因の深層において、既に生産されつつあるのでなければ、賢者が非物体的出来事の準‐原因になってその受肉を意志することができるだろうか。病気が身体の奥底で準備されているのでなければ、賢者にそんなことができるだろうか。準‐原因は創造しない。準‐原因は、「操作[=手術]」し、到来するものを意志するだけである。だから、ここで、表象と表象の使用が介入する。宇宙的な混合において、非物体的出来事を生産する万物の現在において、物体的原因が相互作用するとき、準‐原因は、この物理的原因性に裏地を付ける仕方で操作して、出来事を現在において受肉する。この現在は、最も限られ最も正確で最も瞬間的な現在であり、未来と過去が分割される点で捉えられる純粋な瞬間であって、もはや自己に過去と未来を取り集めるような世界の現在ではない。役者は瞬間にとどまるが、役者が演ずる人物は、未来の中で希望したり恐怖したり、過去の中で思い出したり後悔したりする。この意味において、役者は表象する[=上演する]。演技可能な瞬間の最小時間を、アイオーンに従って思考可能な最大時間に対応させること。出来事の実現を混合なき現在に限定すること、限りなき未来と過去を表現するほどに瞬間の強度を高め緊張したものにし瞬間的なものにすること、これが表象の使用である。パントマイム師であって、占い師ではない。最大の現在から、小さな現在としてのみ語られる未来と過去へ向かうことは止めて、反対に、限りなき未来と過去から、絶えず分割される純粋な瞬間の最小の現在へと向かうことになる。このように、ストア派の賢者は、出来事を把握し意志するだけでなく、出来事を表象しそれによって出来事を選別する。そうして、パントマイム師の倫理は、必ずや意味の論理に続く。純粋な出来事から出発して、パントマイム師は、実現を導いて裏地を張り、混合なき瞬間を援用して混合を測定し、混合がはみ出すのを防ぐのである。(注51)

たとえ病気や死のごとき、常識的には恐れられている出来事であっても、否むしろ、賢者本人の身体の奥底に真の原因があるそのような出来事が相手であるからこそなおさら、準‐原因との同一化によってそれを把握し―「病気と死は、出来事そのものであり、そのままで二重の原因性の管轄下にある」(注52)―、意志されたものへと変容せしめることが賢者にはできる。この迎撃が成功するかどうかは、ひとえに、出来事の現働的な部分から潜在的な部分への、またクロノスからアイオーンへの、表象を駆使した飛躍が鍵を握っている。

 一方にはつねに限定された時間としての現在があり、これは、物体の運動を計測すると同時に、その当の物体があたかも空間を占有するかのように占めるべきクロノスの現在である。〔中略〕 
 さてこれに対して、他方には〈無限なる時間〉としての過去と未来があり、そこではあらゆる現在がこの二つの方向に無限に分割され引き裂かれる。言い換えると、ここでの問題は、もはや〈物の状態〉のうちで現働化した行為=活動という、時制的にも人称的にも、活用された動詞によって表わされる出来事ではなく、無‐時制的で非‐人称的な〈動詞の不定法〉によってしか表現されない出来事が過去と未来という非物体的な潜在性において展開されるということである。何故なら、アイオーンという時間においては、過去は単に〈過ぎ去った現在〉ではなく、また未来は単に〈到来する現在〉ではないからである。〔中略〕〈物の状態〉が自らの占める現在=現前を示すのに対して、〈出来事〉は、自らの現在=現前を示すことなしに、むしろ〈それ以前〉と〈それ以後〉、あるいは〈何が起こったのか〉と〈何が起こるのか〉をわれわれに突きつけるのである。そのようにして、われわれは実際に出来事を理解するのである(それゆえ、ある特異な出来事がわれわれにこうした〈それ〉や〈何が〉を「思考せよ」と命令するときもあるだろう)。しかし、ある〈出来事〉がどこから始まってどこで終わるのか、〈出来事〉が非物体的である限り、それを現在によって規定された〈物の状態〉のように指示し、規定することはできないだろう。こうしたことが可能になるのは、ただ〈物の状態〉を対象として、それらの諸状態を実際に比較した場合だけである(例えば、自動車事故を考えると、その出来事の始まりと終わりを〈時間‐空間〉のなかの一点として指定することはできないだろう。何故なら、出来事についていかにそこで始点と終点を特定したとしても、われわれが理解するその出来事は、その特定された始点では、既に始まっているかもしれないし、あるいは未だに始まってないかもしれない、またその特定された終点では、既に終わっているかもしれないし、あるいは未だに終わっていないかもしれないからである。この場合、〈時間‐空間〉のなかである程度われわれが明確に規定できるのは、例えば、単に自動車の進路や車体の物体的変化という物の状態の比較を通して特定できるものだけである)。(注53)

等質な現在の連続としてのクロノス(この場合、過去と未来は現在の別名にすぎない)とは異なる時間である、過去と未来への絶え間ない引き裂きとしてのアイオーン(この場合、現在とはアイオーンの線上を自由に転移する動的な瞬間でしかありえない)へのこの飛躍において、ストア派の賢者はドゥルーズが書いているように、いわばパントマイムを演じる役者になるのだ。

 役者は、神のごときものではなく、反‐神のごときものである。神と役者は、時間の読み方で対立する。人間が過去や未来として捉えるものを、神はその永遠の現在において生きる。神はクロノスである。神の現在は円全体であるが、過去と未来は特定の区画にだけ関係する次元であり、残りのものは外に放置される。反対に、役者の現在は、最も狭く最も収縮し最も瞬間的で最も一時的な点であり、この直線上の点は、絶えず線を分割し自ら過去‐未来に分割される。役者はアイオーンに属している。最も深く最も充実した現在、油の染みのごとく浸透して未来と過去を包括する現在に代わって、限りなき過去‐未来が出現する。そして、鏡ほどの厚さもない空虚な現在が、限りなき過去‐未来を映し出す。役者は表象する。ただし、役者が表象するものは、常に未だ来ぬものと既に過ぎ去ったものである。しかし、役者の表象は、非情であるし、切断なしに、能動も受動もなしに、分割され二分される。この意味で、コメディアンのパラドックスがある。すなわち、コメディアンは、絶えず先立つものと絶えず立ち遅れる者、絶えず希望するものと絶えず回想するものを演ずるために、瞬間に留まるのである。コメディアンが演ずるのは、決して人物ではなく、出来事の要素が構成するテーマ(複雑なテーマあるいは意味)、つまり、個体と人格の限界から実効的に解放されて交流し合う特異性が構成するテーマである。役者は、非人称的で前個体的な役割に自らを開くために、常にまだ分割可能な瞬間へ、その人格性のすべてを差し出してしまう。だから、常に役者は、別の役を演ずる役を演ずる状態にあるわけである。役と役者の関係は、未来と過去と、それらに対応するアイオーンの線上の瞬間的な現在との関係と同じである。したがって、役者は出来事を実現するのだが、出来事が事物の深層で実現されるのとはまったく別の方式によってである。あるいはむしろ、役者は、この宇宙的で物理的な実現に対して、別の特異な仕方で表面的な実現によって、その分だけ明確で鋭利で純粋な実現によって、裏地を張るのである。役者の実現は、宇宙的で物理的な実現に境界を定めて、そこから抽象的な線を引き出し、出来事の輪郭と光輝だけを保存する。自己自身の出来事のコメディアンになること、実現。(注54)

『襞―ライプニッツとバロック』等の後期の著作ではあまり目立たない、「反‐実現」(« contre-effectuation »)というこの概念は(注55)、ドゥルーズ的な「運命愛(Amor fati)」に単なる諦念とは違う、ヒューモア(諧謔)的な活気を与えている当のものである(注56)。
ゆえに病気や死のごとき出来事への言及が目立つとしても、これは悲観主義とは違う。

 何故、出来事は、ペスト・戦争・傷・死のタイプばかりなのか。幸福な出来事より不幸な出来事の方が多いと言っているだけなのか。そういうことではない。あらゆる出来事について、二重の構造が肝要だからである。たしかに、出来事には、実現の現在の時期がある。出来事が、事物の状態・個体・人格に受肉する時期である。ほら、時期が来た、と語って指示される現在の時期である。そして、出来事の未来と過去は、この決定的な現在に応じて、出来事を受肉する者の観点から裁かれるだけである。しかし、他方で、すべての現在から逃れ、そのものとして摑まえられる出来事、これの未来と過去がある。というのも、出来事は、事物の状態の制限から自由であり、非人称的で前‐個体的で、中立的で、一般的でも特殊的でもない、端的な出来事(eventum tantum)であるからである……。あるいはむしろ、出来事の現在とは、出来事を表象する動的瞬間の現在、常に過去‐未来に二分され反‐実現と呼ぶべきものを形成する現在にほかならない。前の場合には、私にとって、自分の人生が余りに弱すぎるように見える。人生は現在の一点に逃げ込み、人生と私の関係は指定可能になってしまうからである。後の場合には、人生に対して私の方が余りに弱すぎ、私には人生が余りに大きすぎるように見える。人生は、私とは無関係に、現在として指定可能な時期とも無関係に、未だ‐未来と既に‐過去に二分される非人称的な瞬間とだけ関係して、到る所にその特異性を投げるからである。この両義性が、本質的に傷と死の両義性、致死傷の両義性であることを示したのが、モーリス・ブランショにほかならない。死は、私や私の身体と極限的ないし確定的な関係にあるもの、私の内で設立されるものであり、同時に、私と無関係であるもの、非身体的で不定で非人称的なもの、それだけで設立されるものである。一方に、実行され完了される出来事の部分があり、他方に、「完了しても実行されない出来事の部分」がある。したがって、実現と反‐実現のように、二つの完了がある。この点で、死と致死傷は、類例のない出来事なのである。各出来事は、死のごとく、二重であり、その分身[=複製]において非人称的である。「死は現在の深淵である。死は、私と無関係な現在なき時間であり、それに向かって私は駆け出しようのないものである。というのは、死にあってはが死ぬのではないからだ。私は、死ぬ力能を失った。死にあってはヒトが死ぬのだ。ヒトは絶えず死に、ヒトは死ぬことを止めない」。(注57)

我々が引用文の中でブランショの名に遭遇するのはこれで三度目であるが、「致死傷の両義性」という表現を伴うここでの参照は以前にもまして、彼の考え方がドゥルーズの出来事論にとって有益であった理由を解き明かしてくれる。
さて、少し長い回り道になった気もするが、出来事の潜在的な部分に関するライプニッツやストア派(そしてブランショ)の理論をドゥルーズから学んだことで、いまや我々は『零崎人識の人間関係 戯言遣いとの関係』の最終章を、然るべく読むことができるようになっている。それというのも、この小説を支配しているのは、クロノス的というよりはアイオーン的な時間であると判断しなくてはならないからだ。『千のプラトー』の文学論を信じるなら、「何が起きたのか」という問いが中篇小説(ヌーヴェル)の、「これから何が起きるのか」という問いが短篇小説(コント)の本質であるのに対し、長篇小説(ロマン)の場合は双方の要素を取り込みつつも現在の時点で何かが起きる。しかるに推理小説は折衷的なもので、この三者の性格を併せ持つ。

なぜなら、たいていの場合、殺人や窃盗の部類に属する〈何か=未知数〉がすでに起きてしまっているのに、起きたことは、模範となる探偵が規定する現在時の中で、これから発見されるように仕組まれているからだ。(注58)

だとすると、『クビシメロマンチスト』の内容を承知している読者にとっては、いやそれ以外の読者にとっても第零章を読了した時点で早くも、殺人事件の概要も犯人の名前も未知ではなくなり、唯一謎のまま残っていた「動機」の問題については、ほとんど読者に手掛かりらしい手掛かりが与えられぬまま、第五章で名探偵(哀川潤)に問いつめられた犯人(零崎人識)が自分から正解を喋ってくれる『零崎人識の人間関係 戯言遣いとの関係』は、いわば疑似推理小説と規定すべきである。そしてこの疑似推理小説は、長さの点からも、また名探偵が乗り出した時点で、実は「事件は既に終わってしまっていた」(注59)という点からも、おそらく中篇小説(ヌーヴェル)に近い。ゆえにこの作品は、ことさら「まえおかない」と扉に書いてある前置き(第零章)はおろか、8年前の行状について、もう事後だからと考えて思い切ることがいまだにできず、依然として自問を重ねる零崎の姿を描く最終章に至ってなお、すでに起きた出来事に関する「何が起きたのか(一体何のつもりで、彼は12人もの人間を解体したのか)」という問いを中心にして編成されるのではあるが、しかも他方では第零章と対をなすかのようにことさら「しまらない」と扉に書いてあるこの最終章は、締めくくりの頁において「京都連続通り魔事件。/その犯人の行方は未だ―杳(よう)として知れない」(注60)とも告げている(要するに零崎は、哀川が手をまわしたこともあって、8年にわたり官憲の目を逃れ続けているのである)。この二つの事実(過去と未来という二方向への引き裂き)は、零崎が「心」を探しつつ人間を解体する場面を彼自身の視点から現在進行形で叙述する頁が最後まで存在しないという第三の事実とあいまって、出来事が自らは現在(現前)を回避しながら、ただひたすら「それ以前」と「それ以後」への無限の分割を登場人物と読者の双方に突きつけるという構図に帰結するように思える。
『零崎人識の人間関係 戯言遣いとの関係』の時間が、このようにクロノス的というよりはアイオーン的であるということが本当だとするなら、それは必ずしもいわれのないことではない。最終章で比叡山を訪れ、売店の鈴無音々(すずなし・ねおん)に語りかける零崎は、あたかも「死のモデル」たる「器官なき身体」(『アンチ・オイディプス』)のごとく死を撒き散らしてきた(他の主体たちを次々に強度=0へと還元してきた)8年前の己を回想し、そしてあたかもストア派の賢者のごとく、自らの病気と死への「運命愛」を見出しているかのようであるからだ。

「あーあ。締まらねえな―まあいいっか。推理小説のラストだって、大抵はそんなもんだしな」
「推理小説?」
「おうよ。推理小説ってさ、犯人つかまったり、謎が解けたりすりゃ、それでさくっと終わるじゃん。ハッピーエンドでも大団円でもなく、しれっと終わるじゃん。でも現実って違うよな―解決編のあとでも終わりゃしねえ。どころか、そこからがようやく始まりだ―」
 事件なんてもんはよ。
 圧倒的な現実って奴の前じゃあ―なんの力も持たないのさ。
「そう考えると、名探偵ってのはずるいよなあ。バカンス気分で殺人事件にかかわって―犯人の側は、その事件を一生引きずらなきゃいけねえってのにさ。いや、つまりこりゃあ、物語の主役は探偵じゃなくて犯人って話なのか?」
「始まりとか終わりとか言うなら」
 お釣りの十円を渡しながら。
 鈴無は、おざなりに答えた―それはやはり説教でも何でもない、ただの感想だった。
「個人的に人を殺した時点で、もう終わっているでしょう―どんな余生を送ろうとも」
「そりゃそうか」
 青年は笑う。
「終わってるよな、確かに」
「あなたはさっきから一体、何が言いたいんですか?」
「戯言だよ」
 あるいは殺人鬼の独り言さ、と青年は言った―そのしたり顔がムカついたので、
「そんなの、殺人鬼じゃなくて病気でしょう」
 と、鈴無は言ってやった。
 これこそ戯言だったけれど―青年は、鈴無のその言葉に、大いに納得したように、「なるほどな」と、頷いた。
「確かに、病気だわ。終わりがねーほど終わってる病気だわ。それを一生引きずるのも一生背負うのも嫌だっつーなら、軽く自殺でもするしかねーよな―ああ、そういうのもあったか。推理小説で、犯人が自殺して終わるパターン。ありゃいいよな。あれこそ、わかりやすい物語の終わりだぜ。終わりが見たきゃあ死ねばいい。お前が主役であるのなら、か」(注61)

どう考えても逮捕されれば極刑は免れない殺人鬼であるにもかかわらず、陰性の罪悪感とはおよそ無縁なせいかどこか憎めないところがあり、あまつさえそこはかとない諧謔(ヒューモア)―戯言遣い風の皮肉(アイロニー)とは対照的な―さえ漂わせているここでの零崎人識に、賢者の風格を認めるのは見当違いだろうか。ともかく彼が、確かにひとたびは彼自身の管轄下で物の状態として―例えば、筋肉の運動や細切れの死骸として―設立をみた、出来事の現働化した部分と、彼自身の管轄から離れて非物体的に―死骸がとうに片付けられてもなお当事者たち(零崎、哀川、佐々…)の反省の対象であり続ける、やむにやまれぬ「心」の探求として―設立される、出来事の潜在的な部分とを区別するために、すなわち限界づけられた現在としての「推理小説」の時間(クロノス)の枠内に収まる出来事と、狭義の「推理小説」の時間の枠からはみ出すような過去と未来への無限の引き裂き(アイオーン)を伴う端的な出来事(eventum tantum)とを区別するために、「事件」と「圧倒的な現実」との区別に訴えていることは間違いない。そして、彼が実際に自殺を遂げたかどうかはいざ知らず、いかにもブランショ的な「致死傷の両義性」の趣がある「終わりがねーほど終わってる病気」を迎撃する手段としての自殺は、実行者が殺人鬼である以上、「自己自身の出来事のコメディアンになること」としての役者じみた「反‐実現」(『意味の論理学』)に接近するということも、私にはやはり間違いのないことと思えてならないのだ(ここで不意に思い出したが、生来蒲柳の質で晩年には肺病を患っていたドゥルーズは、1995年に自宅の窓から投身自殺を遂げたのだった)。


(1)西尾維新『零崎人識の人間関係 戯言遣いとの関係』(講談社、2010年)39頁。
(2)同書50、53頁。
(3)同書78頁。
(4)同書100頁。
(5)西尾維新『クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識』(講談社文庫、2008年)165頁。
(6)西尾維新『零崎人識の人間関係 戯言遣いとの関係』(前掲書)126頁。
(7)同書145頁。
(8)同書152頁。
(9)同書157-158頁。
(10)同書158-159頁。なお、原文では「そういう風に作られている」に傍点が付してある。
(11)同書161頁。
(12)同書161-162頁。
(13)ジル・ドゥルーズ『襞―ライプニッツとバロック』(宇野邦一訳、河出書房新社、1998年)91-93頁。なお、太字の箇所にはいずれも、原文では傍点が付してある。また、引用に際して原著(Gilles Deleuze, Le pli: Leibniz et le baroque, Paris, Les Éditions de Minuit, 1988, p.72)を参照した上で、「存在方式」の直後に原語(« manière d'être »)を補った。
(14)ルネ・デカルト『省察』(山田弘明訳、ちくま学芸文庫、2006年)48頁(第二省察)。
(15)ルネ・デカルト『情念論』(谷川多佳子訳、岩波文庫、2008年)30-34頁(第31-34節)。
(16)エミール・ブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』(江川隆男訳、月曜社、2006年)25-26頁。
(17)ライプニッツ『形而上学叙説』(河野与一訳、岩波文庫、2005年第5刷)111-116頁(『形而上学叙説』第19、20節)。
(18)ライプニッツ『単子論』(河野与一訳、岩波文庫、2006年第18刷)229頁(『単子論』第18節)。
(19)同書62-63頁(『実体の本性及び実体の交通、並びに精神物体間に存する結合に就いての新説』第3節)。
(20)エミール・ブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』(前掲書)16-17頁。
(21)同書146頁(訳者による附論「出来事と自然哲学―非歴史性のストア主義について」第一部IV)。
(22)同書149頁(同上)。
(23)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 下』(財津理訳、河出文庫、2007年)146頁。
(24)同書170-187頁。ただし、« implication »の訳語を「巻き込み」から「折り込み」に改めた。
(25)西尾維新『ネコソギラジカル(下) 青色サヴァンと戯言遣い』(講談社、2009年第2刷)411頁。
(26)同書151頁。
(27)ジル・ドゥルーズ『襞―ライプニッツとバロック』(前掲書)98頁。
(28)西尾維新『クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識』(前掲書)76頁。
(29)ライプニッツ『単子論』(前掲書)237、272頁(『単子論』第30、61節)。
(30)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 下』(前掲書)118頁。ただし« actualisation »の訳語を「現実化」から「現働化」に改めた。
(31)同書119-121頁。ただし引用に際して、「現実化」を「現働化」に、「アクチュアルな」を「現働的な」に改めたほか、「分胴」も誤植と判断し、「分銅」に改めた(原語は« tare »である)。
(32)同書211頁。
(33)同書206-211頁(引用文の出典は208頁である)。
(34)同書221-222頁。ただし引用に際して、傍点が付されている箇所を太字の表記に変更し(せざるをえず)、「巻き込み」から「折り込み」へと訳語を改めた。
(35)同書224、227頁。
(36)ライプニッツ『単子論』(前掲書)278頁(『単子論』第73節)。
(37)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 下』(前掲書)225頁。ただし引用に際して、« enveloppantes »および« enveloppées »の訳語を、「包み込む」および「包み込まれている」から、「包蔵する」および「包蔵された」へと改めた。また« les différences individuantes »の訳語も、原著(Gilles Deleuze, Différence et répétition, Paris, P.U.F., 1968, p.326)を参照した上で、「個体化の諸差異」から「個体化する諸差異」に改めている。この「個体化する(individuantes)」という形容詞は他動詞の現在分詞に由来するから、個体を新たに生ぜしめること、ないし他を個体としてあらしめる働きを指す(自ら個体となることではない)。
(38)同書228頁。ただし引用に際して、「また包み込みなおす」と「包み込みながら包み込まれる」を、「また包蔵しなおす」と「包蔵しながら包蔵される」に、また「個体化の差異」も「個体化する差異」に改めた。
(39)同書237頁。ただし引用に際して、「巻き込み」を「折り込み」に、「繰り広げ」を「折り解き」に、それぞれ改めた。
(40)西尾維新『零崎人識の人間関係 戯言遣いとの関係』(前掲書)162頁。
(41)ジル・ドゥルーズ『襞―ライプニッツとバロック』(前掲書)43頁。
(42)同書179頁。
(43)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 下』(前掲書)218頁。引用に際して、「現実化」を「現働化」に改めた。
(44)ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『千のプラトー 上』(宇野邦一・小沢秋広・田中敏彦・豊崎光一・宮林寛・守中高明訳、河出文庫、2010年)314-315頁。太字の部分には、原文では傍点が付してある。
(45)西尾維新『クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識』(前掲書)6-11頁。
(46)エミール・ブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』(前掲書)198頁(訳者による附論「出来事と自然哲学―非歴史性のストア主義について」第二部XIII)。
(47)西尾維新『零崎人識の人間関係 戯言遣いとの関係』(前掲書)154-157頁。
(48)ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 下』(宇野邦一訳、河出文庫、2006年)210頁。
(49)同書211-213頁。
(50)ジル・ドゥルーズ『襞―ライプニッツとバロック』(前掲書)180-181頁。原文で傍点を伏してある語(「もの」)を、太字の表記に改めた。なお「潜勢的なもの」の原語は« un potentiel »である(Cf. Gilles Deleuze, Le pli: Leibniz et le baroque, op. cit., p.142)。
(51)ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 上』(小泉義之訳、河出文庫、2007年)254-257頁。原文で傍点を伏してある箇所を、太字の表記に改めた。
(52)同書196頁。
(53)エミール・ブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』(前掲書)157-159頁(訳者による附論「出来事と自然哲学―非歴史性のストア主義について」第一部VI)。原文で傍点を伏してある箇所を、太字の表記に改めた。
(54)ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 上』(前掲書)261-262頁。原文で傍点を伏してある箇所を、太字の表記に改めた。
(55)もっとも、ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』(財津理訳、河出文庫、2012年)269頁には用例がある。
(56)ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 上』(前掲書)262-263頁。
(57)同書263-264頁。末尾の引用文は、モーリス・ブランショ『文学空間』からで、現代思潮新社版(粟津則雄・出口裕弘訳、2000年第17刷)215頁に相当する。また原文で傍点を伏してある箇所を、太字の表記に改めた。
(58)ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『千のプラトー 中』(宇野邦一・小沢秋広・田中敏彦・豊崎光一・宮林寛・守中高明訳、河出文庫、2010年)63頁。
(59)西尾維新『零崎人識の人間関係 戯言遣いとの関係』(前掲書)144頁。
(60)同書170頁。
(61)同書168-169頁。
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ポーとマラルメの「眠る女」 

近代的な推理小説の創始者として名高いポー(Edgar Allan Poe, 1809-1849)は、周知のようにアメリカ文学史上最高の抒情詩人でもあった。

数ある佳品の中から、ここでは「眠る女」("The Sleeper")を取り上げたい。といっても最終的な目的は、マラルメによるフランス語訳の検討である。しかしそのための準備として、まずはポーの詩そのものを読んでおく必要があるので、創元推理文庫版から、福永武彦の訳文で引用する(なお巻末の一覧表によれば、本作の発表は1831年の由である)。

時は六月の或る真夜中に、
幽玄の月の光に照らされて私は立つ。
阿片のような蒸気は、露と濡れ、おぼろげに、
金色をなすその縁(ふち)から立ち昇り、
一しずくまた一しずく、しずやかに
ひっそりした山の頂きへと滴(したた)り落ちる、
ねむたげに、また音楽の音(ね)のように
広い谷のすべてに忍び入る。
ローズマリイの樹は墓の上で首を振り、
睡蓮は波の上をしだらにただよう。
その胸のあたりを霧につつまれ、
物みなはいま永遠(とわ)の憩いに朽ち果てる。
忘却の河にも似て、御覧! 湖は
うつらうつらとうたた寝をむさぼるよう、
たとえ千金を抛(なげう)っても目を覚まそうとしない。
すべて「美しいもの」は眠る! ―見よそこに
アイリーンは横たわる、彼女の「運命」と共に! (注1)

ここまでが第一連である。せっかく夜の自然が見る者を魅了する玲瓏たる風情をたたえているというのに、「墓」や「永遠(とわ)の憩い」、はたまた冥界にあるという「忘却の河」(レーテー)などの語がその中に紛れ込み、そこはかとなく不吉な調子を醸し出していることは明らかだ。「眠る女」という表題にもかかわらず、冒頭に現れる人物は誰とも知れぬ「私」であり、その恋人かあるいは妻か、眠っているアイリーンなる女性の登場は最後の行まで待たねばならない。おそらくその理由は、彼女が、この不吉な経緯の主催者ではなくて犠牲者であり、それゆえ事態を好転させる権限を持たないからであろう。そうだとすれば、感嘆符付きの「彼女の『運命』と共に(with her Destinies)」という表現も、単なる言葉のあやではなくて、詩の構成そのものが反映しているような厳然たる事実を、ことさら言語化することで追認しているのだ(ある人にとって不幸、ないし少なくとも不本意なことでありながら、当人が意志的な対処によってはねのけることは難しい一連の出来事の襲来というものは、ほとんど運命ないし宿命の定義そのものである)。とはいえ彼女自身が、まるで眠っているように穏やかに見えるというだけの死者なのか、それともまだ息があるのかは定かでない。続いて第二連に移ろう。

おお輝かしい女性よ! それは正しいことか―
この窓が夜に開かれてあるのは?
気まぐれな風は樹の梢から、
格子窓を越えて笑いながら吹きこみ―
形ない風は、魔術師のむれ、
あなたの部屋をひらひらと往き復る、
そして天蓋の帳(とばり)を、そんなにも不意に―
そんなにも恐ろしげに―揺り動かす、
あなたのまどろむ魂がその下に隠れている
縁(ふち)飾りのある閉じられた目蓋(まぶた)の上を、
そのために床(ゆか)をかすめ壁に流れ、
帳(とばり)の影は亡霊のように浮びまた沈む!
おおいとしい女性よ! あなたは怖くないのか?
何故に、また何ごとを、あなたはここに夢みるのか?
きっとあなたは来たのだろう、遠い海原を越えて、
これらの苑(その)の樹々にとって一つの奇蹟と見えるために!
異様である、あなたの青白い顔色は! あなたの装いは!
異様である、何にもまして、あなたの丈長い髪は、
そしてこのすべて荘厳な静けさは! (注2)

この第二連は、どうやら先の第一連では問われなかったアイリーンの生死について考え始めることを読者に命じているようだ。「まどろむ魂(slumb'ring soul)」とあるからにはまだ絶命していないと思いたくなるが、風の強い夜なのに起き上がって窓を閉めようともせず、あまつさえ「亡霊」同然の帳の影に跳梁を許しているところからすると、その反対のほうが正しいような気もしてくる。
特に、彼女を「いとしい女性」と呼ぶほど親しい仲であるはずの「私」が、一向にアイリーンに声をかけて覚醒を促すことなく、ただただ「青白い顔色」をはじめとする彼女自身の様子と、あたりにただよう「荘厳な静けさ」とを前に、繰り返し「異様である」と独白するほかないことに注意するならなおさらだ。もしも相手が睡眠中の妻か恋人ならば、「あなたは怖くないのか?」などというまわりくどい問いかけはよして、「アイリーン、起きておくれ。風で帳がはためいて気味が悪いから窓を閉めたいと思うが、かまわないかね」とでも、直接本人に語りかければよい。なんなら優しく体をゆすって起こそうとするのも一つの手だろう。それをしないのは、おそらくやっても無駄だからではないのか。また風が吹いている以上全くの無音ではないはずなのに、「荘厳な静けさ」を「私」が感じずにいられないとすれば、それはつまりアイリーンがもはや決して、寝返りの突発的な音はおろか、かすかではあっても規則正しい呼吸の音すら立てることができない身になりおおせているからではないのか。よもや妖精の類ではあるまいに、「一つの奇蹟」と名づけたくなるほど場違いで異邦人風の雰囲気が否みがたいことも、彼女がすでにこの世のものでなく、死体と化しているがゆえに、いまここに存在する彼岸の暗示でありうるのだと考えれば納得がいく。したがって「まどろむ魂」だの「夢みる」だのという表現は、いわばアイリーンの死という現実をありのまま認めたがらない、「私」の願望の投影にすぎないのだ。そのことは、続く第三連を読めばいっそうはっきりする。

女性は眠る! おお彼女の眠りの
長く続き、尚もさらに深くあれ!
天はその神聖な奥処(おくか)に彼女を守れ!
この部屋がより神々しいものに変り、
この臥床(ふしど)がより憂鬱なものに変って、
彼女が永遠にその眼を開くことなく
そこに横たわることを、私は神に祈る、
屍衣をまとった蒼ざめた幽霊たちのさ迷う間! (注3)

先の第二連の内容を信じるかぎり、この部屋に「亡霊」ないし「幽霊」(ghosts)が集まってくるのは、ほかならぬアイリーンが窓を閉めないからである。そしてたぶん、もはや窓を閉めることに限らず、あらゆる意志的な動作を今後一切禁じられた彼女の現状、すなわち生者ではなくて死者であるということが、連中の親近感を掻き立てるからでもあると判断してよいはずだ。それなのに「私」はあべこべの理屈にすがり、亡霊の彷徨の中に生者が混じっていることがばれると危険なので、その期間中はアイリーンが眠り続けることが望ましいと主張している。この小細工は「屍衣をまとった蒼ざめた(pale sheeted)」なる形容を、まるで第二連では彼女もまた「青白い顔色(pallor)」や「装い(dress)」の異様さが目立っていたという事実など忘れたかのように、亡霊たちに押しつけることで完成する。しかし、所詮は小細工にすぎず、いかに取り繕おうともアイリーンの死が疑いえないことは、彼女の眠りが「永遠に(forever)」続きますように、と私が祈らざるをえないことからわかる。永遠に(死ぬまで)目覚めることがない昏睡中の女性というものは、医者にとってはともかく、夫か恋人にとっては結局死んでいるのと大差ない。その不条理を忍んでまで、「私」がこのように祈らずにはいられないのは、もはやアイリーンが目を覚ますときが絶対に訪れないのを心のどこかで承知しているからだろう。愛する女性の死という、受け入れがたい、しかも変えることのできない現実を前にしつつ、抗いがたい運命の成行に、彼女の得になるような良い意味を付与してやることで、せめて自分の祈りが聞き届けられたかのような体裁を維持したいという「私」の願望が透けて見えるようだ。
ちょうど狭義の推理小説に限らずポーの短編の多くがそうであるのと同様、このように「眠る女」もまた、未知の、だが読者が丹念に証拠を拾い集めればおぼろげながら予想できる、衝撃的な真相をまるで器のように保蔵しているのである。この場合その真相とは、恋人もしくは妻である女性の死という、悲痛な単一の観念にほかなるまい。しかるにこの観念は、それ自体が空虚さの価値を帯びている。なんとなれば、親しい人がこの世から消え去るという事態は、ある空虚さが我々の暮らす環境の中に、と同時に我々の心の中にもまた生じることを意味するからだ。そのことがこの詩に、うわべの明快さとは裏腹の底知れぬ奥行きをもたらしている。そして内容が空虚そのものであるとき、包むものであり覆うものであるという器の性格もまた純化を遂げることは必至である。ひたぶるに詩の純粋さを追い求めたマラルメがこの作品のフランス語訳を作ろうと思い立ったのも、そのあたりの事情と無縁ではないはずだ。締めくくりにあたる第四連で我々が見届けるのは、ほかならぬこの関係(内容の空虚化に比例する、器の側の純化)さえも形象化してしまう、詩人の力技である。

わが愛するひと、彼女は眠る! おお彼女の眠りの
覚めることなく、尚もさらに深くあれ!
ひそやかに蛆虫どもよ、彼女のまわりを這いまわれ!
遥かな森のなかに、おぼろげにそして古びて、
彼女のために、さる丈高い納骨堂の開かれんことを―
さる納骨堂の―昔それはしばしば鎖(とざ)した、
黒い翼の羽ばたくその扉を、
彼女の高貴な一族の葬儀を飾る
誇らしげな、紋章つきの棺衣(かんい)の上に―
さる奥津城(おくつき)の―人里を離れ、ぽつねんと、
その入口に嘗て彼女は幼い日、
幾つもの役にも立たぬ石ころを投げこんだもの―
さる墓どころの―その軋る扉の中から二度と
ふたたび彼女が木霊(こだま)を奪い取ることはないだろう、
身の毛もよだつ思いがする、哀れ罪深い子供よ!
その内側に呻いていたのは死者たちにすぎなかったから。(注4)

すでに何度か分析の中で英単語を使ったが、この第四連に限っては、あとあと必要にもなるので、原詩をそっくり以下に掲げておく。

My love, she sleeps! Oh, may her sleep,
As it is lasting, so be deep!
Soft may the worms about her creep!
Far in the forest, dim and old,
For her may some tall vault unfold ―
Some vault that oft hath flung its black
And wingéd pannels fluttering back,
Triumphant, o'er the crested palls,
Of her grand family funerals ―
Some sepulchre, remote, alone,
Against whose portal she hath thrown,
In childhood, many an idle stone ―
Some tomb from out whose sounding door
She ne'er shall force an echo more,
Thrilling to think, poor child of sin!
It was the dead who groaned within. (注5)

さて、アイリーンがすでに死者の世界に足を踏み入れていることは、この第四連に至ってほとんど確実であるが、にもかかわらずそのような断定は最後までない。「蛆虫」による侵蝕への言及についで、彼女には納骨堂に葬られる資格があることさえ認めているというのに、「私」(もしくはポー)の筆の歩みはアイリーンを死者の境遇に極限まで近づけはしても、ついに両者の完全な同一化を描写しようとはしない。しかし逆説的なようでも、まさしくこの欺瞞的な不完全性こそがアイリーンの息の根を、二重の意味で完全に止めることになるのだ。
上述したとおり、もしもこの詩の中で、中心を占める空虚としての親しい人の死と、それを包みもしくは覆う器としての「私」の強辯という二元論的な構図が機能しているということが本当なら、一族の骨が横たわる納骨堂(vault)の扉、奥津城(sepulchre)の入口、墓どころ(tomb)の木霊と続く演出の系列は、まことにその構図に対応する感覚的な表現として的確であり、しかも純粋な、つまりは空しい器から内なる核心たる空虚への進行を形成している。すなわち読者は、なおも若干の希望を残すかのような多義性から出発し("vault"の原義は「アーチ形屋根」である)、ついで婉曲な雅語(「奥津城」という訳語の選択からも推察できるように、"sepulchre"ないし"sepulcher"は古語らしい)を経て、もはやどうあがいてもごまかしようのない、墓そのもの("tomb")の前に引き出され、そこで生物が立てる音とは似て非なる音を、無機的な物質の反響(「木霊」)を聞くのである。そうである以上、いわば第四連の詩行の並び方そのものが彼女を殺すのであり、それもおそらくは「アイリーンは死んだ」という文よりも徹底的に殺すのだ。器の背後の空虚があまりにも(空虚として)完璧であれば、その空虚は覆いを破って出現するや否や、登場人物ごと詩の言葉をも有無を言わさず呑み込んでしまうはずだからである。まさしく、「木霊(こだま)」の発生は一度きりで、かつその一度きりの「木霊(こだま)」がたちどころに、それを発生させた者(つまり、一番空虚の近くにいた者)の命取りになるのだ。このいささか抽象的な思考は、より具象的な次元へと移してみれば、死者の呪いと呼ばれてきたものに等しい。「二度と/ふたたび彼女が木霊(こだま)を奪い取ることはないだろう」以下の三行、特に「哀れ罪深い子供よ」という呼びかけは、どうやら祖先の亡骸に対して無礼な振舞(小石を投げつけること)に及んだために、彼女が死の呪いをかけられてしまったという因果関係を秘めているようだ。結局、アイリーンは単に一人の死者であるわけではない。空虚の露呈と死者の呪いという、二重の(しかし本質的にはたった一つの)原因によって、詩の手前ではなく詩の中で殺されるのである。「眠る女」は、本質的には「モルグ街の殺人」や「マリー・ロジェの謎」と同じく、一つの殺人事件なのだ。

マラルメ(Stéphane Mallarmé, 1842-1898)の独創性は、この、「私」が詩の冒頭からいわば探偵役として現れることからも否定しがたいはずの他殺という事態を、あくまでもポーの原詩の翻案ではなく、フランス語への翻訳という手段を通じて(ただし韻文訳ではなく、形式は散文詩である)、自殺に変換してしまったことにある。上首尾か不首尾かはいざ知らず、その手腕を詳らかにするためには、他の連を飛ばして一気に第四連を読んでみるのがよい。

Mon amour, elle dort! oh! puisse son sommeil, comme il est continu, de même être profond. Que doucement autour d'elle rampent les vers! Loin dans la forêt, obscure et vieille, que s'ouvre pour elle quelque haut caveau ― quelque caveau qui souvent a fermé les ailes noires de ses oscillants panneaux, triomphal, sur les tentures armoriées des funérailles de sa grande famille ― quelque sépulcre, écarté, solitaire, contre le portail duquel elle a lancé, dans sa jeunesse, mainte pierre oisive ― quelque tombe hors de la porte retentissante de laquelle elle ne fera plus sortir jamais d'écho, frissonnante de penser, pauvre enfant de péché! que c'étaient les morts qui gémissaient à l'intérieur. (注6)

続けてこれの拙訳を以下に示す。原詩と比べて、多少趣が変化していることがわかるはずだ。

私の愛する人、彼女は眠る! おお! どうか彼女の眠りが、それが続いているからには、同様に深くもあらんことを。なにとぞ蛆どもが彼女の周囲を穏やかに這いまわりますように! 暗くて古びた、森の中遠く、彼女のためにさる丈高い納骨所が開かれんことを―その揺れ動く羽目板の黒い両翼を、勝ち誇って、彼女の偉大なる一族の相継ぐ葬儀を飾った紋章つきの幔幕の上にしばしば閉ざしたさる納骨所が―さる人里離れた、孤立した奥津城もだ、そこの門に向かって彼女は、若い頃、多くの無益な石ころを投げたことがある―さる墓穴もなのであってそこのよく響く扉の外に彼女が木霊(こだま)を発せしめることはもはや決してあるまい、こう考えて身震いした女、哀れな罪の子が! 内部で呻いているのは死者なのだわ、と。

いかがだろうか。誤訳なのか故意の改変なのかはともかく、一読して後半の流れがポーの原作と同じではないと私は感じる。まず、"She ne'er shall force an echo more"の"force"は「(木霊を)奪い取る、強奪する」という意味であって、明らかに動作主である彼女は墓穴の外に立っていそうなのに、マラルメはこれを使役の助動詞(faire)とともに、« elle ne fera plus sortir jamais d'écho »―「彼女が木霊(こだま)を発せしめることはもはや決してあるまい」―と訳している。少なくとも、この「発する」ないし「出る」(sortir)という自動詞は、一時的にせよ墓穴の中に視点を置いた者でないかぎり使う気にならない語であろう。むろん「発せしめる」ことならば墓穴の外からでも可能なわけだが、きっぱりと死者の静寂に対決する"force"の強引な能動性と比べれば、まるで最初から彼女が死者の側の自発性をあてにしていたようでいまいち頼りないし、なにやら不審な馴れ合いの気配すらある。どのみちアイリーンも死者であるらしいことはポーの原作以来変わっていないわけだが、マラルメの翻訳で読むとそのことが驚愕を呼ぶ真相としての衝撃力を失って、自明の事実をただ確認しているにすぎないかのような印象が生じるのだ。
続く« frissonnante de penser »も、たぶん英文仏訳としては不適切である。マラルメは、« frissonner »(震える)という自動詞を現在分詞の女性形に活用しているので、「こう考えて身震いした女」とでも和訳するほかないのだが、対してポーの"Thrilling to think"は、"It is thrilling to think"ということであって、「考えるだに身の毛もよだつ」という一般論のはずだからだ(先に引用した福永武彦の訳文では、「身の毛もよだつ思いがする」となっている)。つまり、原詩ではアイリーン自身が思考して身震いするわけではない。もっとも動詞としての"thrill"自体には「ぞくぞくする」という自動詞としての意味もあるが、それよりはやはり、「(物事がそれに接する人を)ぞくぞくさせる」という、他動詞としての用法のほうが主流であろう。マラルメが英語の教師だったことを思えば意外な気もするが、こと恐怖を煽る演出にかけては、当時はおろか今日に至るまで滅多に右に出る者のいない天才的な冴えを発揮するポーの、ある種のあざとさが、世紀末風の繊細な自意識の人にして、露骨さよりも暗示を尊ぶ象徴主義者であるマラルメには、少々刺激的すぎて気に食わなかったのか。
しかし、理由はどうあれ、一般論だったはずのものをアイリーン個人の感慨として仏訳してしまったことの代償は高くつく。これでは、"poor child of sin"もしくは« pauvre enfant de péché »―どちらも直訳すれば「哀れな罪の子」だが、「罪の子」とは「死者を冒瀆した罰当たりな子」という意味だろう―が宙に浮いてしまい、効果が半減するのである。というのも、死者が無礼な子孫を自分たちのもとに引き寄せ、墓穴の同居人にしてしまうという恐るべき「運命」(第一連最終行)、ないし死者の手で生者にかけられる呪いが、客観的に実在するという前提を(詩的に)採用した上で読むのでないかぎり、アイリーンが自分一人の頭の中でいかにおどろおどろしい空想を思いめぐらして怯えようと、彼女の哀れさはたかが知れているからだ。遊び半分にやったたわいないいたずらが本当に自らの死を招き寄せてしまうからこそ、アイリーンは「哀れな罪の子」なのであって、そうでないなら彼女はせいぜい「哀れ」ではありえても、よもや「罪の子」(罰当たりな子)ではありえまい。しかるにマラルメの仏訳は、最終行の冒頭に―原作では、この一行はthat節ではないにもかかわらず―接続詞の« Que »(…と、…ということを)を追加している。そしてこの追加の結果として、最終行の内容は« penser »(考える)の目的語以外ではありえなくなり、アイリーンの主観的思考に従属せしめられるのである。もとよりポーの原作においても、死者の呪いを示唆するはずの最終行を、「考える(think)」の目的語として読むこと自体はさしつかえないはずだが、そのことを、「考える」者をアイリーン個人に限定した上で文法的に明確化するというマラルメの選択は、度重なるほのめかしの果てにようやく姿を見せた「死者」の一語から、脅威的な敵対者としての迫力を剥奪してしまう一方なのだ。むしろ、"within"が、« dedans »(内に)というそっけない直訳を避けてかどうか、ともかく事実としてやや丁寧に« à l'intérieur »(内部で)と訳されていること、および« intérieur »という語には「内面」や「内心」という意味もあることからすれば、死んだ祖先の居場所をアイリーンの心の中に比定することさえ、マラルメにとっては不自然でないのかもしれない。このような死者との親密さは、「眠る女」を創作中のポーには到底思いもよらなかったものだろう。
以上より、マラルメは「眠る女」をフランス語に訳すにあたって、推理小説風のポーの演出を素直に踏襲せず、アイリーンをあたかももともと墓穴の内部の住民の仲間であるかのように描き(「発せしめる」)、一般論だったはずの死者の呪いに対する恐れもアイリーンの個人的な感慨へと還元してしまい(「こう考えて身震いした女」)、その結果彼女に対する死んだ祖先の関係も、現実的な脅威というよりは空想的な性格のものになり、のみならず一種の親密性さえ帯びかねない(「内部で呻いているのは死者なのだわ、と」)、ということが判明した。

ところでここに、事実とすれば非常に興味深い一つの符合についての推測がある。マラルメは1867年頃からしばらくの間、自己の起源としての祖先に殉じるかのように、精神的な再生を期して真夜中に哲学的自殺を遂げる人物を主人公とする、小説とも散文詩ともつかぬひどく晦渋な作品に執念深く取り組んでいる。そして、とうとう完成するには至らなかったものの、没後1925年になってようやく、『イジチュールまたはエルベノンの狂気』〔Igitur ou la folie d'Elbehnon〕と題されて日の目を見た一連の草稿には、批評家(「テーマ批評」の大御所)ジャン‐ピエール・リシャールによれば、ポーの「眠る女」からの影響が若干痕跡を残している可能性があるというのである。
もっとも、リシャールが具体的に強調しているのは、「揺れ動く羽目板」と祖先の発する「口笛」という二つの着想にすぎない(注7)。両者とも、仮に「眠る女」が典拠であるのなら第四連に由来するはずであるが(注8)、いましがた我々が検討してきたように、マラルメによるこの詩のフランス語訳が、いわば他殺から自殺への転換と、祖先の内面化とを伴っているのだとすれば、直接的な影響関係についてはともかく、翻訳者としてのマラルメはそもそもポーの中に自分が見たいものだけを見ていると考えたほうが、実態に近いのではないかと思えてくる。雑誌への発表を経て、1888年からは『エドガー・ポー詩集』中の一篇としてマラルメの評釈つきで読めるようになったこの仏訳版では、むしろポーの原作の「イジチュール化」が著しいからだ。
リシャールの整理によれば、『イジチュールまたはエルベノンの狂気』における死から復活への転機を司るのは、意識の本性たる「反射」の概念にほかならない。

したがって「最初の拡大」に続いて、反射による中心の方向への回帰が行われたのである。しかし忘れてならないのは、以後空無となった中心に、それでもなおひとつの現前が、あるいは少なくとも存在のなごりが存続していることだ。「たしかに〈真夜中〉の現前が続いている」―この存続する現前がなければ、〈夜〉それ自体に関するいかなる認識も可能ではなかっただろう。反射するふたつの波の回帰は、たしかに中心の空無に消え去ってしまっただろう。しかし実際には、執拗な拡張のようなものが中心に発生し続けていて、その離心的流出はたちまち反射的還流に突きあたる。この回帰がこの往路にぶつかる瞬間に、ちょうど襞において起こるのと同様に、中性化、およびその運動の運動それ自体への具体的で完全な接合が生じる。この結合から生じた、かすかに振動する不動状態が、そのときまさにみずから消滅した私の具体的な意識化のようなものとなる。マラルメが後年メーテルランクに関して語るように、音それ自体がなければ、われわれは「谺(エコー)の意識」を楽しむのだ。しかもマラルメにとって、エゴに等しいのである……。(注9)

もしもこのような整理が正鵠を得ているのだとすれば、おそらくマラルメによる「眠る女」の翻訳の終盤が、英文仏訳としてはいささか怪しげな代物になったことには、彼なりの文学的かつ形而上学的な必然性があったのである。なぜならば、このように谺ないし木霊(Écho)がエゴすなわち我(Ego)に等しく、そして自殺を経ながらも反射によって自らの消滅を認識する、「襞」のごとき「かすかに振動する不動状態」こそが意識にほかならないというのなら、ポーの「私」のように、愛する女性の死を認めまいとして悪あがきのような強辯を重ね、真相を糊塗し続けるのも、またポーのアイリーンのように、死者としての確たる自覚を持つことがついにできないまま、一方的に祖先の呪いに打ち負かされるのも、マラルメにとってはとても満足できる成行ではないはずだからだ。それゆえ、第三連の"pale sheeted"―「屍衣をまとった蒼ざめた」―(注10)が« aux plis obscurs »―「暗い襞に身を包んだ」―になり(注11)、また第四連の"sounding door"(「軋る扉」)が« la porte retentissante »(「よく響く扉」)になることで着々と準備されてきた「反射」の運動は、そのままマラルメのアイリーンの、結末でのたたずまいに帰結するのである。もう一度、読み返してみよう。

彼女が木霊(こだま)を発せしめることはもはや決してあるまい、こう考えて身震いした女、哀れな罪の子が! 内部で呻いているのは死者なのだわ、と。

おそらく、アイリーンが「身震いしている(frissonnante)」のは、彼女が死者の呻き声を、墓穴同然の己の内部(intérieur)に抱えこんでいるからでもあるのだ。それが今後谺ないし木霊となって外部に漏洩することがないのは、呻き声が根絶されるからではなく、絶対的な内部としての意識が生成を遂げ、いかなる振動であっても生じたそばから吸収し、いわば糧として同化してしまうからではないのか。
リシャールは引き続き『イジチュール』について、「思考が自己を掌握しうるのは、その思考もふたたび逃亡し失跡するという結果に導く運動の内部においてのみである」がゆえに、自殺後に復活した「私」(意識)にはおよそ基盤というものが欠けており、「魂の内部の、その透明さによって照らしだされた中心に、墓としての夜が、天空の透明さと同じくらいめくるめくこちら側が、ぽっかりと穴を開ける」とも書いている(注12)。せわしなく果てしなく内外を往還し続ける「反射」の対として、内面が内面それ自体の中心へと吸収され、ついには消滅するという「解放」の運動をマラルメは考えていた。「再創造された彼の思考の場においては永遠に静謐な彼も、彼の見いだされた人格の自由な限界のなかではうち震えているのである」(注13)。この二つの運動の統合は、『イジチュール』では反響を生み出す螺旋状の落下として表現されることになるのだが、そこまで積極的な仕方ではないにせよ、「眠る女」のフランス語訳においても、「反射」そのものから誕生した「かすかに振動する不動状態」としての内部もしくは意識が、他方では以後一切の反射運動を吸収する墓穴のごとき静謐な空間でもあることを通じて成就しているのではないか。原詩の"Thrilling"を他動詞でなく自動詞の現在分詞として読むという、マラルメの一見強引な操作は、こうして思いのほか広い射程を持っており、マラルメ流の意識ないし自我の定義そのもののに根ざしていることが明らかになった。
しかしながら、たとえマラルメが、自分が見たいものだけを相手の作品の中に見ているのだとしても、その相手がポーであるということは些事ではない。彼が「眠る女」の仏訳を発表したのは『イジチュール』の時期よりも10年ばかりのちのことだが、ポーの翻訳の試み自体は1860年頃にまでさかのぼることを裏づける証拠もあるそうで(注14)、結局リシャールの推測どおり、『イジチュール』の執筆時には「眠る女」も英語で読了していたのだろう。加えて少年マラルメにとっては、ボードレールでさえも何はさておきポーの紹介者として輝いていたということが本当であるなら(注15)、彼のポー体験は期間の長さと思い入れの深さという二点において際立っており、もとより単純な誤訳ということは考えにくい。したがって「眠る女」の仏訳の第四連に見つかった原作との相違点は、『イジチュール』での形而上学的探求が挙げた成果を、何とかして尊敬する先輩詩人の作品の中に盛りこみたい、そしてそのようにして師をしのぐ独創性を贈与するとともに自分の成長を報告し、恩返しを果たしたいという気負いの然らしめる結果だったのではないか。『エドガー・ポー詩集』の評釈(Scolies)の部ではこの詩について、「全巻を通じて最も異常なる、最も確実な魅力がある諸篇の一つ〔un des morceaux les plus extraordinaires, au charme le plus sûr qui soient dans tout le livre〕」(注16)とまで書き、ほとんど手放しで絶賛しているマラルメが、それでいてほとんど具体的な分析らしきものを読者に提示しようとはしないという不釣り合いのおかしさは、そう考えて初めて、例えば自画自賛の回避として説明がつくように思える。
マラルメ訳『エドガー・ポー詩集』の巻頭を飾る「エドガー・ポーの墓」(注17)は、目下「〈彼自身〉へとついに永遠が彼を変えつつあるそのような男〔Tel qu'en Lui-même enfin l'éternité le change〕」であるこの詩人の何よりの特徴を、彼が生前から作品の中でひたすら死の観念を追究してきたことに求め、「死がこの奇妙な声の中で勝ち誇っていたことを〔Que la mort triomphait dans cette voix étrange〕」(注18)今世紀(19世紀)が遅まきながらようやく知り始めたのを祝っている。このソネットをマラルメの基本的なポー観を表白したものとして読むなら、「眠る女」の『イジチュール』風の翻訳をも、辞書的な正確さとは次元を異にする、詩的な忠実さという基準に則って評価する余地が垣間見えてくるはずだ。


(1)E.A.ポー「眠る女」(福永武彦訳)、『ポオ 詩と詩論』(創元推理文庫、2005年第13版)90-91頁。
(2)同書91-92頁。
(3)同書92頁。
(4)同書93頁。
(5)Edgar Allan Poe, "The Sleeper," in Poems and Prose, London, Everyman's Library, 1995, p.18-19.
(6)Edgar Allan Poe, « La Dormeuse », Traduction de Stéphane Mallarmé, in Œuvres complètes, texte établi et annoté par Henri Mondor et G. Jean- Aubry, Paris, Gallimard, « Bibliothèque de la Pléiade », 1945, p.203.
(7)J.-P.リシャール『マラルメの想像的宇宙』(田中成和訳、水声社、2004年)260頁(203頁(**)への原注)。
(8)なお、「揺れ動く羽目板」の原語は« oscillants panneaux »で、"pannels fluttering back"の訳語である。この« panneau »という語には「罠」の意味もあるが、『イジチュールまたはエルベノンの狂気』の世界でも、邦訳版(秋山澄夫訳、思潮社、1997年)の訳注(78頁)によれば、とりあえず板戸や通路のつもりで「羽目板」と読んでおけばよいらしい。またポーは"groan"と書き、マラルメはそれの訳語として« gémir »を選んでおり、どちらの動詞も「呻る」という意味だから「口笛」よりは重苦しいはずだが、『イジチュール』の舞台が墓を含むことにも留意すれば、リシャールの推測はさほど突飛でもないと思う。
(9)J.-P.リシャール『マラルメの想像的宇宙』(前掲書)204頁。
(10)Edgar Allan Poe, "The Sleeper," in Poems and Prose, op. cit., p.18.
(11)Edgar Allan Poe, « La Dormeuse », Traduction de Stéphane Mallarmé, in Œuvres complètes, op. cit., p.203.
(12)J.-P.リシャール『マラルメの想像的宇宙』(前掲書)209頁。
(13)同書210頁。
(14)「マラルメ訳『エドガー・ポー詩集』〔訳者による〕評釈 SCOLIES」の、訳者(松室三郎)による解題より、『マラルメ全集II 別冊 解題・註解』(筑摩書房、1989年)289-291頁。
(15)同書289頁。
(16)Stéphane Mallarmé, Œuvres complètes, op. cit., p.239.
(17)Stéphane Mallarmé, « Le Tombeau d'Edgar Poe », Œuvres complètes, op. cit., p.70.
(18)ちなみに、ボードレールは彼が訳したポーの作品集(『異常な物語集』)に序文として付した論文「エドガー・ポー、その生涯と作品」において、死に際のポーの状態を形容して「まだ生きてはいるものの、〈死〉がすでにその王権をもって刻印した身体」と書いている。全くの憶測にすぎないが、マラルメの名高い詩句がこの表現を下敷きにしている可能性はないのだろうか。なお、引用は『ボードレール批評3』(阿部良雄訳、ちくま学芸文庫、1999年)102頁からである。

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