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一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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日日日『のばらセックス』11 

『のばらセックス』におけるアレゴリー、と銘打った連載もどきの第二回目でございます。
面倒な人は(一)から(四)までを飛ばして(五)から読み始めてもたぶん問題ないはず。

(一)欲動理論の歴史
今回はまず、フロイト(Sigmund Freud, 1856-1939)の欲動理論を参照することから始めたい。
「欲動(Trieb)」とは精神分析にとって最も基本的な概念であり、本来ならば安易な要約は慎むべきかもしれないが、一応彼の晩年の説明を借用すると、「外的刺激とはちがって、身体内部の刺激源から発し、恒常的な力のように作用するもの」と定義でき、身体内の興奮状態を源泉としつつ、その解消という目標に向かい切迫してゆく過程で「さまざまな心的作用をひきおこす」、「ある種のエネルギー量」であるという(注1)。
このような抽象的な定義を見ると、欲動の内実にはいくつかの下位区分がありうることが予想できる。そして事実、フロイトの欲動理論は何度かゆゆしい変遷を経ているのである。すなわち、『性理論のための三篇』(1905年)から始まる、性欲動(これ自体がさらなる細分化を受けつける)と自我欲動(自己の保存に関わる欲動)との対立は、やがてナルシシズム(自己愛)の研究が進むとともにさほど決定的ではなくなり、元来は自我と区別すべき対象に関わる性欲動の活動力を指していた「リビード」の源泉も、むしろ自我そのものに求められるようになる。「ナルシシズムの導入に向けて」(1914年)によれば、性欲動はあとになって自我欲動から独立を遂げるのであり、子供を世話してくれる養育者に劣らず、世話を受ける子供自身をも、その根源的な対象の候補として勘定しなくてはならない(前者が依托型、後者がナルシス型の対象選択である)。したがって自我こそが「リビードの大貯蔵槽」なのであり、いわゆるナルシシズムの事例では外的対象から自我への「リビード」の撤収が起きている。性欲動と自我欲動の間にあった葛藤の現場は、こうして「対象リビード」と「自我リビード」の間に移る。そして『快原理の彼岸』(1920年)に至って、個々の細胞への「リビード」の拡張とともに、性欲動と自我欲動は、生命の結束を推進する「エロース」の働き(プラトン)の下に同根の欲動(生の欲動)として把握され、「死の欲動」と対立することになるのである。

(二)『快原理の彼岸』―死の欲動の発見
『快原理の彼岸』が達成したこの最後の段階を、もう少し詳細に追ってみよう。フロイトは本書において、不快を興奮の量の上昇、快をそれの減少として定義した上で、抑圧された不快な過去の体験を繰り返し再現しようとする、ある種の神経症患者の一見すると不可解な傾向に着目する。そして、このような「反復強迫」の現象は、ことによると不快を避けて快を選ぶ人間の心の一般的な原理、すなわち快原理の支配に服さず、それを超出するような性格のものではないか、という問いを提起してから、単純な有機体の組織と、外界からその有機体を襲う刺激との関係についての思弁へと進む。そして、刺激保護のためにやがて有機体の外部層には皮膜が形成されるはずであること、しかしながら過剰な外界からの刺激はこの保護を部分的に破綻させてしまうこと、また有機体の内部からやってくる興奮は、皮膜という手段では防ぎようがないこと、したがってこの二通りの場合においては、快原理による支配を貫徹するための準備として、すでに生じてしまった興奮を拘束し、どうにか折り合いをつけるという課題が避けられなくなること、などの考察を経て、「欲動とは、より以前の状態を再興しようとする、生命ある有機体に内属する衝迫である」という命題にたどり着く(注2)。欲動の本性に関するこのような理解は、自ずとフロイトの目を進化の偶然性へと開き、進歩主義への懐疑を読者の内にも掻き立てずにはいない。

 したがって、有機体のあらゆる欲動は守旧的であり、歴史的に獲得されたものであって、退行を、つまり、以前のものの再興を目指すのだとすれば、有機体が進化してきた結果とは、妨害し逸脱させる外的影響のおかげだとしなければならない。初歩的生命体はその始めより変化を望まず、もし事情が同じなら、ただ同じ生の経歴を繰り返したことだろう。しかし、地球は進化し、太陽と地球の関係も進化する。結局のところ、この進化の歴史が有機体の進化のうちに刻印されて、われわれのもとにまで残されているに違いないのだ。有機体の守旧的な欲動は、生の経歴に押しつけられたこれらの変更をことごとく受け入れ、反復すべく保存しておきながら、しかしまさにその結果として、それ自身が変化と進歩を追求する力であるかのような、人を欺く印象を与えずには済まなくなる。その実、欲動は以前からの目標を新旧のやり方で達成しようとしているだけなのである。あらゆる有機体が追求するこの最終目標についても、それが何であるかを言えないことはない。生命の目標がいまだかつて達成されたことのない状態であるならば、それは欲動の守旧的本性に矛盾することになろう。その目標はむしろ、生命あるものがかつていったん放棄したものの、あらゆる進化発展の迂路を経ながら帰り着こうとする昔の状態、生命の出発点である状態でなければならない。生命あるものはすべて内的根拠に従って死に、無機的なものへと帰ってゆくということを、例外なき経験として仮定することが許されるなら、われわれは次のようにしか言いようがない。すなわち、あらゆる生命の目標は死であり、翻って言うなら、無生命が生命あるものより先に存在していたのだ、と。(注3)

このような思考の理路をたどった結果、前述したように、フロイトはとうとう、「リビード」の概念を個々の細胞間の関係にまで一般化することで、従来の欲動理論の対立図式を相対化する、エロースないし生の欲動対死の欲動という新しい大きな二元論を構想するようになったのである(注4)。この観点から見れば、自我欲動と性欲動は質的には似たようなもので、実際に機能する際の単位の違いによって区別されるにすぎない(前者は細胞間で、後者は個体間で発揮される)。いずれにせよ両者はもっぱら合一ないし結合の原理、すなわちエロースとして定義できるのであり、有機体の内部で結託して、解体や断片化を司る死の欲動に対抗する役割を果たしている。
ところで、いましがたの引用から読み取れるような、フロイト的な欲動の二元論、とりわけ死の欲動の根源性という発想は、若干の特徴をベンヤミンのアレゴリー論と共有している。例えば『ドイツ悲哀劇の根源』をひもとけば、生の欲動と死の欲動ならぬ象徴(シンボル)と寓意(アレゴリー)の対立についての、以下のごとき叙述に読者は出くわすのである。

 シンボルにおいては、没落が美化されることによって、変容した自然の顔貌が救済の光のなかでつかのま現われるのに対し、アレゴリーにおいては、歴史の死相が硬直した原風景として考察者の目のまえに広がる。歴史は、最初からそこにつきまとっている時宜を得ないこと、痛ましいこと、失敗したことのすべてが、一つの顔貌―いや、一つの髑髏となってはっきり現われる。(注5)

これを読めば誰しも、アレゴリー(寓意)表現と死との親密性について、書き手がこれ以上ないほど断定的な確信を持っていることを疑えまい。いかなる事物もアレゴリー表現においては固有の生涯を全うすることができず、むしろ何らかの他のものを意味するほかなく、しかもそのことは当の事物自身の手柄ではない。アレゴリーを論じるベンヤミンの文章が、決まって「死」や「瓦礫」を召喚することになるのはそのためだ。それゆえまた、アレゴリーは生命や全体性とは相性が悪く、むしろそれの反対物をはびこらせることになる。

 今日でもけっして自明となっていないことであるが、アレゴリーとは、人にかかわるものより事物的なものが優位にあるという点、総体的なものより破片のほうが優位にあるという点でシンボルの対極をなしており、まさにだからこそ、同等の力づよさをもってシンボルに対抗しているのである。アレゴリー的擬人化ではつねに勘ちがいされてきたことながら、その任務は、事物的なものを人に擬すことではなく、むしろ人として飾りたてることによって、事物的なものを逆にいっそう堂々と仕立てあげることにあった。(注6)

人間に対する事物の優位とは、無機的なものへの回帰の異名でなくて何であろうか。また全体に対する断片の優位とは、有機体にとっての結合の原理が被った敗北の結果でなくて何であろうか。要するに、ベンヤミン的なアレゴリーの原理とは、フロイトの用語に翻訳すれば、そのような結合の原理にほかならない生の欲動(自我欲動と性欲動)を脅かす、死の欲動に相当するのだ。
こうなればアレゴリーへの偏愛が、ベンヤミンをして、フロイトと同様の、そしてアレゴリー詩人ボードレール―「ボードレールにとっては、アレゴリー的経験がまず第一次的なものだったのである」(注7)―と同様の、進歩への深刻な不信感(注8)を抱かせたとしても、何ら不思議な点はない。より正確を期すなら、「歴史のなかで人類が進歩するという観念は、歴史が均質で空虚な時間をたどって連続的に進行するという観念と、切り離すことができない」という理由で、ベンヤミンはそのような連続性の打破を求めるのであり、そして思考の歩みが停止し、「抑圧された過去を解放しようとする戦いにおける革命的なチャンスのしるし」を目ざとく認めて、例えばある時代のある作家のある作品を、あたかもそれが歴史経過の全体を凝縮しているかのように救済せんとする瞬間に賭けるのである。ゆえに彼が理解したかぎりでの史的唯物論の方法は、「加法的」ではなく「構成的」であるべきで、連続的な前進ではなくてむしろ「ショック」を原理とするのでなくてはならない(注9)。ちなみにベンヤミンは、あるボードレール論の中で『快原理の彼岸』を援用して、ボードレールは「ショック経験を彼の芸術活動の核心に据えたのであった」という所見を記している(注10)。
第一に死、すなわち無機的なものの勝利と、第二にそれに伴う断片化、および第三に進歩への懐疑、少なくともこの三点を、死の欲動とアレゴリーの共通点として認めてよいとすれば、我々としてはここで少々寄り道をして、フロイトの欲動理論そのものにもっと踏み込むことで、『のばらセックス』におけるアレゴリー表現の検証という最終的な計画にとっても何か役立ちそうな知見を得られるのではないかという思いを抑えられない。
単刀直入に打ち明けるなら、サディズムとマゾヒズムの本性についてのフロイトの洞察が、有効な指針を与えてくれそうだというのが我々の直観なのである。『性理論のための三篇』(初版1905年)の時代にはまだ、フロイトは両者をごく簡単に考えており、異性の抵抗を打ち破る必要から大抵の男性の性欲にはサディズムが混ざっていて、マゾヒズムはその派生物、自分自身に向き直ったサディズムにすぎないと書いている(注11)。しかしその後、『快原理の彼岸』での死の欲動の発見とともに、このような単純な説明の不十分さが露呈する。

そこでむしろ、このサディズムというのは本来死の欲動なのであって、それがナルシス的リビードの影響によって自我から押し退けられ、対象に接するようになってはじめて表に出てくるようになるのだ、と仮定する方がよいのではないだろうか。そうなってサディズムは性機能に奉仕することになる。〔中略〕実際、こう言ってもよいくらいなのだ。つまり、自我のうちから外へ押しやられたサディズムが性欲動のリビード成分に道を指し示し、それ以降リビード成分は対象に向かって押し寄せることになるのだ、と。(注12)

このように、有機体自身における生の欲動と死の欲動との対立を最も基本的な構図として想定した場合、自己保存にとっては厄介この上ない死の欲動の一部は外に投げ出され、その結果外界の諸対象を制圧するという性行動の課題にとっての道しるべと化す。したがってサディズムは、単に男性的な性欲につきもののおまけなどではなく、より原始的で根源的な死の欲動の名残なのであり、それどころかむしろ死の欲動こそが、逆説的にも有機体内部から厄介払いされる過程で性欲の順調な発達を手助けしているとさえ考えうるのである。これとともにマゾヒズムの評価も一変する。なぜならば、もしも死の欲動の破壊作用の舞台が元来有機体自身だったという前提が正しければ、それをマゾヒズムと名づけても一向に差し支えないはずだからであり、こうしてフロイトはマゾヒズムの派生的性格という仮説を捨て、「マゾヒズムはまた第一次的なものでもありうるだろう」と断定するに至るのである(注13)。

(三)『自我とエス』における快原理とサディズム
『自我とエス』(1923年)で明確な定式化をみた個人の心の三重構造は、快原理とサディズムに関する考察のさらなる深化を可能にした。フロイトは本書において、狭義の「自我」の奥底に潜み、快不快の区別しか関知しない無意識的な存在である「エス」と、エディプスコンプレクス―異性の親への愛着と同性の親への敵意―の時期を経て形成される「超自我」、すなわち片親との同一化(基本的に男子の場合は父親、女子の場合は母親に対するものだが、実情はもう少し複雑であるらしい)から生じ、不埒なエディプスコンプレクスを抑圧して「自我」に懲罰を加える良心の審級とを、解明しようと努めている。このように、エスと自我と超自我という三者の区別とともにようやく精神分析的な心の理論の役者が出揃うのだとすれば、その結果は欲動理論に何をもたらすのだろうか。
まず確認すべきなのは、エロースもしくは生の欲動と死の欲動との対立という、欲動の二元論については何ら変更の必要がないということである。

一方は、性欲動ないしはエロースと称されているもので、他方の欲動に比べてはるかに賑やかで目立っており、それと分かりやすい。この欲動には、制止されていない本来の性欲動、ならびに、そこから転じて目標制止されたり昇華されたりした欲動の蠢きが含まれているばかりでなく、自我がもっているとみなさざるをえない自己保存欲動も含まれている。精神分析研究の初期には、この自己保存欲動は、それなりの理由をもって、性的な対象欲動に対立するものとされていたものである。これに対して、もう一方の種類の欲動は、はっきりそれと指し示すのがなかなかむずかしく、われわれとしては結局、サディズムを、この種の欲動の代理表現とみなすことになった。生物学に依拠した理論的考察にもとづいてわれわれが仮定したのは、有機的生命体を生命なき状態へ引き戻すことを使命としている死の欲動である。その使命は、エロースが、小片となって飛び散った生命基質をどんどん大きくまとめあげることによって生命をより複雑なものにし、むろんそうすることで生命を保存しつづけることを目標としているのと対極にある。が、その一方で、この二つの欲動はともに、きわめて厳密な意味で守旧的に振る舞い、生命の発生によって乱された状態を修復することをめざす。(注14)

このように、結合の原理としてのエロース(生の欲動)と、解体の原理としての死の欲動との区別、ならびに両者が共有する守旧的性格については、『快原理の彼岸』以来変わっていない。しかし、エスと自我の関係が新たにもたらした収穫として、少なくとも二つの推測を挙げることができる。第一に、エスは、不快な緊張の放散による解消が愛を通じてリビード的に行われるか憎しみを通じて破壊的に行なわれるかの違いに無頓着らしい。また第二は、エスのリビードの露骨に性的な性格を変容せしめること、すなわちフロイトの用語では「脱性化ないし昇華」によって、エロースに由来するエスの内部の混乱を収拾することに貢献するのが自我の機能ではないかという―ナルシシズム(自己愛)の理論の仕上げとも称すべき―推測であり、それとともに、「生の騒音はほとんどがエロースから」、否むしろ「エロースに対する闘争から発している」という印象が避けがたくなる。

快原理は、生の流れの攪乱者としてのリビードに対する闘争においていわば羅針盤として働くことによって、エスに奉仕しているのであり、この見方は退けることはできない。フェヒナーのいう恒常性原理が生を支配しているとすれば、生とは死への滑走だということになるのだろうが、だとすると、そうしたエネルギー水準の低下を阻止し、新しい緊張を導入する欲動欲求こそが、エロースすなわち性欲動の要求ということになる。エスは、快原理、すなわち不快の知覚に導かれて、さまざまな方法でこのエロースの要求から身を守ろうとする。その際、まずなされるのは、脱性化されていないリビードの要求にできるだけ迅速に譲歩すること、つまり、他ならぬ性的追求を満足させるために奮闘することである。これよりはるかに実りが多いのは、いわば性愛的緊張を満載した運び手である性基質を射ち出す方法であるが、これはそうした満足の一形態として、あらゆる部分的要求を一気にまとめてかなえさせるやり方である。性行為における性物質の射出は、いわば肉体と胚形質の分離にあたる。だからこそ、完全な性的満足のあとの状態は死と類似しているし、いくつかの下等動物では、死と生殖行為が一致することにもなるわけである。これらの下等動物が生殖がもとで死にいたるのは、満足によってエロースが排出された後では、死の欲動が、思いのたけおのれの意図を貫徹することができるようになるからである。(注15)

たとえ、快が興奮の量の減少、不快がそれの増加であるという、『快原理の彼岸』の冒頭以来の見解が相変わらず健在だとしても、ここには快原理の性格について、いっそう徹底的な規定があると感じられる。性欲動としてのエロースの華やかな活躍は、実際には死への道行きとしての個体の生涯にとって突発的な椿事に似た障害にすぎないこと、最終的に勝利を収めるのは必ず、個体の生涯の前後を画する無機的な状態への回帰を導く死の欲動であるほかないこと、そして結局、快楽は―たとえ性的な快楽ですら―エロース(生の欲動)に対する闘争の中で優先的に厄介払いすべきなのは一体どのリビードであるかをエスに教えることで、死の欲動の円滑な貫徹に貢献するのであり、したがってそもそもエロース(性欲動)の味方ではないこと、こうしたことを読みとるべきではなかろうか。これは、常時快原理の言いなりになっているわけではなく、それなりに道徳的であろうと努めている自我と、エスの側の完全なる無道徳性とを対比することで、初めて可能になった理論的展望である。
これに対して超自我は、過剰なまでの厳格な道徳性で自我の振舞を律するという役割を担っている。以下の引用文にも書いてあるとおり、超自我の出自を二つの方向から検討してみれば、このような威信は造作なく説明することができるものである。

第一に、超自我は、自我がまだ脆弱だったころに生じた最初の同一化であるという点、第二に、超自我は、エディプスコンプレクスの跡継ぎであり、したがって自我のなかにきわめて重要な対象を引き入れたという点である。超自我と、その後に生じる自我変容との関係は、いわば、幼児期の一次的〔性器期前の〕性段階と、思春期以後の性生活との関係に匹敵している。つまり、超自我は、のちのあらゆる影響を受け入れはするものの、父コンプレクスからの出自によって与えられた性格、すなわち、自我に対立して自我を制御するという能力については、一生涯これを保持しつづけるということである。超自我は、自我のかつての脆弱さと依存性の記念碑であって、そのため、成熟した自我に対しても支配権をふるいつづける。子供が理屈ぬきで両親に従わなければならない強迫のもとにあったように、自我は、超自我の定言命法に従順に従うわけである。(注16)

ついでフロイトは超自我の活動の例証として、自身の精神分析家としての長年の経験の中から、メランコリーと強迫神経症における無意識の過大な罪責感を引き合いに出す。

まずメランコリーに目を向けてみると、そこでは、強すぎる超自我が意識をのっとり、まるで、個人がそなえているありったけのサディズムをわがものとしたかのように、容赦ない激しさでもって、自我に対して怒り狂っているということが分かる。サディズムについてのわれわれの見解に即して言えば、超自我のなかに破壊的成分が堆積して、これが自我に対して鉾先を向けたということにでもなるかもしれない。この場合、超自我のなかで支配的になっているのは、死の欲動が純粋培養されたような状態であって、自我が事前に躁に転化することによってこの暴君から身を守らないかぎり、じっさい超自我は往々にして、自我を死にまで駆り立ててゆくことになる。(注17)

メランコリー(鬱病)患者の重苦しい罪責感の実態は、当人の内部にいまなお君臨する親の面影が暴君と化し、サディズムないし死の欲動そのものとして自我を苛んでいることなのだ。対して強迫神経症の場合はこれほど事態は深刻でなく、エスの中で愛の衝動が同一の対象への破壊衝動へと転化してしまった結果、自我が責任を問われて超自我に批判され、進退窮まったあげく自虐に走ると考えておけばよいらしい。
ところで、『ドイツ悲哀劇の根源』でのベンヤミンの診断によれば、まさに底無しの悲哀の淵にとめどなく沈んでゆくメランコリー気質への注目こそが、バロック期の悲哀劇(Trauerspiel)の著しい特徴の一つであると考えなくてはならないそうである(注18)。この関連からいかなる帰結を引き出せるかは、のちほどまた機会があろうから、ここでは触れないでおく。とにかく、死の欲動とアレゴリーとの近縁性を裏づける傍証の一例として、念頭に置いておくべき指摘ではあろう。

(四)「マゾヒズムの経済論的問題」―三つのマゾヒズム(女性的、性源的、道徳的)
以上のごとく、フロイトは、『快原理の彼岸』では有機体を断片化する解体の原理としての死の欲動の発見とともに、マゾヒズムはサディズムから後になって派生したにすぎないという説を捨て、ついで『自我とエス』では、個人の心の三重構造という仮説から出発しつつ、快楽はエロース(生の欲動)を相手どって闘争を続けるエスに指針を与えるにすぎず、性欲動の味方ではないこと、また超自我はエディプスコンプレクスの継承者であり、ときには親の代理として、さながら死の欲動そのもののように、苛酷な懲罰を自我に課してくるものであることを論じたのである。二つの著作を熟読すれば、超自我が発揮する死の欲動としてのサディズムに匹敵するだけの、強力なマゾヒズムが自我の基底に見出せるのではないかという予想を誰しも立てずにいられまい。
そして事実、そのとおりのことを「マゾヒズムの経済論的問題」(1924年)は主張しているのである。ただしまず前提として、ある理論的修正を確認しておく必要がある。すなわち、『快原理の彼岸』の冒頭で提起され、また『自我とエス』が追認していた、興奮の量的増減という概念による快と不快の定義は、この論文に至ってはっきりと放棄されるのである。

 まだ記憶に新しいように、われわれは心の出来事をすべて支配している原理を、フェヒナーの安定性への性向の特殊なケースだと捉え、心の装置は、そこに流れ込む興奮の総量をゼロにするか、少なくともできる限り低い水準にとどめるという意図をもつと考えた。バーバラ・ロウはこのように仮定された努力を涅槃原理と呼ぶのを提案し、われわれもそれを容認する。ところがわれわれは十分に考慮することのないまま、快‐不快原理をこの涅槃原理と同一視してしまった。そうなると、あらゆる不快は心の装置における刺激緊張の高まりと、あらゆる快はその低下と一致することになり、また涅槃原理(およびそれと同一のものと見なされる快原理)は、不安定な生命を無機的な静止状態へと導くことを目標とする死の欲動に全面的に奉仕し、そして、生命がその終局へ向かって進むのを妨げようとする生の欲動、つまりリビードのさまざまな要求に対して警戒する機能を持つことになろう。しかしこのような理解が正しいはずがない。われわれは刺激量の増大と減少を緊張の感情次元において直接感じるように思われるし、また快に満ちた緊張や不快な弛緩というものがあることも疑う余地がない。そのような快に満ちた刺激増大を示す例として、性的興奮の状態がおもだって目につくけれども、ただ一つの例というわけではない。快と不快は、刺激緊張と呼ばれる量的契機に大きく関わっているとはいえ、その量の増減に結びつけてはならない。思うに、快と不快は、この量という要因に依存するのではなく、質的としか言い表しようのない量的要因のある性格に依存しているのである。この質的な性格がどのようなものであるのかを示すことができるとすれば、われわれは心理学において大きく前進することになろう。それはもしかすると、リズム、すなわち刺激量の変化・増大・低減の描く時間的経過かもしれないが、われわれには分からない。(注19)

このように、興奮の量的増減に直接訴える説が無効を宣告されることは、快原理の死の欲動からの独立性を高めることになる。しかしその一方で、ほかならぬこの事実が、両者の間に、ある質的変化を挟んだまぎれもない系譜的関係を樹立することにもつながるのである。

 いずれにしても、死の欲動に属する涅槃原理が、生命体の内部で何らかの変様を被り、この変様を通じて快原理となったこと、そして両原理を同一のものと見なすのを今後避けるべきであることを、われわれは認めなければならない。この考察に従って進んでいくならば、この変様がどのような作用によって生じたものであるのかを推察することはむずかしくない。死の欲動と並んで、生命のプロセスの調整にこのような仕方で強引に割り込んだのは、生の欲動すなわちリビード以外のものであるはずがない。こうしてわれわれは、僅かではあるが興味深い一連の関係を手にした。すなわち、涅槃原理は死の欲動の傾向を表現し、原理はリビードの要求とその変様を代表し、現実原理は外界の影響を代行する。(注20)

三つの原理の目標を順に挙げれば、涅槃原理の場合は「刺激負荷を量的に低減すること」、快原理の場合は「この負荷を質的に性格づけること」、現実原理の場合は「刺激放散を猶予し不快な緊張を一時的に容認すること」であるという。現実原理についてはさておき、この引用文からうかがえる死の欲動または涅槃原理と快原理との関係は、フロイト自身も書いているように非常に興味深い。なにしろ、生の欲動(エロース)だけでは快原理を産出することなどできず、決定的な素材は死の欲動そのものに起源を有しているというのであるから、大変読者の意表を突く見解であろう。そして、生の欲動が介入して死の欲動と入り混じった場面の、いわば証言者として呼び寄せられるのが、まさしくマゾヒズムにほかならないのである。ここに、いわば死の欲動の仮装としての生の欲動、および快楽として感じられる苦痛―フロイトは「苦痛快(Schmerzlust)」と書いている―というものを認めうるのだとすれば、マゾヒズムが、意味する側(形式)と意味される側(内容)の齟齬ないし乖離というベンヤミン的なアレゴリーの原理に接近することはほとんど不可避であるように思える。ともあれ、ひとまずは論文の内容を整理しておこう。
フロイトはマゾヒズムを三種に区分して、それぞれを「性源的」・「女性的」・「道徳的」と名づけ、ついでまず女性的マゾヒズムの特徴を、ある種の男性が思いめぐらす典型的な性的空想を通じて提示する。

マゾヒズム倒錯者の実際の儀礼は、それが自己目的として遂行されようと、あるいは精力を奮い立たせ、性交の準備をするためであろうと、それらの空想と完全に一致する。いずれの場合でも―それらの儀礼は実際、空想を戯れとして遂行するにすぎない―空想の顕在内容は次の通りである。すなわち、猿ぐつわをかまされ、縛られ、殴打され、鞭で打たれ、何かと乱暴に扱われ、無条件の服従を強いられ、汚され、辱められる、というものである。きわめてまれに、ごく限られた範囲内ではあるが、身体毀損ということもこの内容のなかに含まれることがある。直ぐさま容易に思いつく解釈は、マゾヒストは、小さな、寄る辺のない、甘ったれた子供、しかもとくに、やっかいな子供として扱われることを欲しているということである。個別事例を引き合いに出すまでもなく、〔空想の〕素材はまったく同種のものであり、どんな観察者にも、また精神分析家でない者にも分かりやすい。しかし、もしマゾヒズムの空想がとりわけ豊かに仕立て上げられている諸例を研究する機会が得られるならば、それらの空想が、その人物を女性的なものの特徴を示す状況に置くこと、すなわち去勢され、交接され、または子供を産むことを意味していることが容易に発見される。(注21)

そして、かかる「女性的マゾヒズム」の基礎にあるのが、苦痛快としての「性源的マゾヒズム」である。すでに『性理論のための三篇』は、有機体の内的な出来事の強度が一定の量的閾値を上回るとたん、副作用ないし随伴現象として性的興奮を生じる可能性を指摘していた(注22)。性源的マゾヒズムの解明のためには、この「共興奮(Miterregung)」の理論に加えて、多細胞生物の成立の過程にまでさかのぼり、生の欲動に属するリビードと死の欲動との角逐を再構築することが必要となる。

(多細胞)生物においてリビードは、細胞を支配する死の欲動あるいは破壊欲動にぶつかる。この欲動は細胞を破壊し、個々の基礎的有機体をすべて無機的静止状態(たとえこの静止状態が単に相対的なものであるとしても)へ移行させようとする。リビードは、この破壊欲動を無害なものにするという課題を背負い、そして、この破壊欲動の大部分を、ある特殊な器官系、すなわち筋肉の活動の助けによって外向きに転じさせ、外界の諸対象へと向かわせることによって、この課題から放免される。そういうわけでこの欲動は破壊欲動、制圧欲動、力への意志と呼ばれるのであろう。この欲動の一方の部分が直接に性的機能に奉仕させられ、そこで重要な役割を果たすことになる。これが本来のサディズムである。もう一方の部分は外へ移転されることなく、有機体内部に留まり、そこで先に述べた性的な共興奮によってリビード的に拘束される。そこのうちにこそ本来の性源的マゾヒズムが認められるべきである。(注23)

むろん、哺乳類、わけても我々人類は、多細胞生物としては最も複雑で高等な部類に属しているのだから、他の生物以上に、死の欲動がたどったこの変質の恩恵に与っている。性源的マゾヒズムとは、ほとんど生命の発生の時点にまで深く根を張っている、死の欲動の完全なる追放の失敗、すなわち(生の欲動の側の)妥協の試みの痕跡にほかならない。死の欲動は「飼い馴らされる」に至ったというフロイトの表現(注24)が指しているのは、そういうことだ(両者の性質がそれまでは申し分なく対極的な関係にあったはずだという事情を考慮するなら、生の欲動が死の欲動を馴致できたのは、圧倒的な勝利ゆえではなく―この仮定は明らかに事実に反しており、現にあらゆる生物に共通する死の運命とは相容れない―、むしろ反対に、ある時点で力尽きてしまって追放作業の継続が困難になったせいだと判断するほうが自然なのではなかろうか)。ならば、死の欲動のうちで外界に投げ捨てられた分、すなわちサディズムと、有機体の内部に残ったそれ以外の分、すなわちエロースの価値を帯びつつ荒れ狂う死の欲動としてのマゾヒズムとを比べた場合、前者よりも後者のほうが根源的である(由緒正しい)ことははっきりしている。

 いくつかの不正確な点を度外視するならば、有機体において働いている死の欲動―原サディズム―はマゾヒズムと同じであると言うことができる。その主な部分が外界の諸対象に移し置かれた後、その残余として内界には本来の性源的マゾヒズムが残る。それはリビードの一構成要素となっていながら、なおも自己自身を対象とする。このようにマゾヒズムは、生命にとってきわめて重要な死の欲動とエロースとの合金が生じた形成場面の証人であり、名残なのである。(注25)

詳細な生理学的機構を解明することはフロイト自身にもできなかったとはいえ、統一を乱す破壊的な死の欲動を外部に追放するための有機体の努力を通じて快原理が成長してきたこと、とはいえこの追放は結局中途半端なままに終わらざるをえず、狭義の苦痛快はもとより、いまなお性的興奮をはじめとする、快適な緊張の諸例が我々自身の体験の中にも見つかること、こうした事情について熟考を重ねれば、(性源的)マゾヒズムは到底サディズムを補完する対にすぎないのでも、ましてやサディズムから派生したのでもなく、あべこべに、我々自身がそうであるような型の生命体の起源と同じくらい古いのだという思いを誰しも抱かざるをえまい。
死の欲動の発見(『快原理の彼岸』)から、快楽はエロースの味方ではないのではないかという疑惑(『自我とエス』)を経て、いまやエロースはそれ自身の領分の中に馴致すべき死の欲動の危険を抱えこんでおり、この油断の許されない状況は多細胞生物の、そして多細胞生物における快原理の発生の時点にまで遡及しうるものであることが判明した(「マゾヒズムの経済論的問題」)。エロースに対する自我とエスの共闘という説明は、放棄されるわけではないが、たぶんさらに原始的な段階へと席を譲る。外部へと放散すべき刺激と、放散後の快適な内部との対照の下には、放散しきれなかった刺激が快楽の条件になるという両義的な変化が横たわっている。マゾヒズムの問題は、快楽の背後に見え隠れする死の欲動へと考察者の目を開かせるのだ。この意味で、快原理の正体はいわば内なる外としての変装した死の欲動なのであり、それはことによると自我の輪郭を決壊させることをあきらめず、いまだにその機会を虎視眈々と狙っているのかもしれない。快楽は、自らのこのまがまがしい相貌を、徳の雄々しさを称賛し続けて倦むことを知らないストア派流の蔑視―「徳というものは快楽を欠くことがしばしばで、まして快楽を必要とすることなどいっさいないものなのである」(注26)―からも、矯正を要する軟弱な情念と思われているものの中に来るべき社会秩序の予兆を読みとるフーリエ流の讃歌―「神が若い娘に気晴しと快楽の嗜好を授けているのは、隠遁の嗜好を要求する結婚にも所帯生活にも彼女たちを運命づけていないことの証拠である」(注27)―からも、精神分析が誕生するまで何世紀にもわたって、こっそりと守り通してきたように思える。
マゾヒズムの第三の型、すなわち「道徳的マゾヒズム」は、すでに『自我とエス』が論じていた、メランコリーや強迫神経症の患者を苛む無意識の罪責感、あるいはフロイトがより正確だと考える用語法では「懲罰欲求」の中に認めることができる。注目に値するのは、ここでは一見すると他のマゾヒズムの形態と比べて性的な雰囲気が稀薄だという点である。理由は明快である。自我にとっての理想としての、超自我ないし良心の要請を達成できないと自我は不安を覚える。そして超自我の権威は、エディプスコンプレクス(異性の親への愛着と同性の親への敵意)という性的な現象が抑圧され、克服された後に確立したものなのである。

 すでに述べたように、自我が自分が奉仕する三つの審級のそれぞれの要求を互いに調和させ、和解させる機能をもつならば、その場合、自我は、自ら目標として追い求める模範を超自我のうちにもつと言うこともできよう。つまりこの超自我は、外界の代わりだけでなくエスの代役も務めるのである。エスのリビード的蠢きの向かう最初の対象、すなわち両親が自我の内へと取り入れられ、そのさい両親に対する関係は脱性化され、直接の性目標から逸らされることによって、超自我が発生したのである。このような仕方によって、はじめてエディプスコンプレクスの克服が可能になったのである。こうして超自我は、取り入れられた人物の本質的な性格、その力、厳格さ、監視し処罰する傾向を保持する。先の論考において述べたように、自我の内に導入されるに伴って二欲動が分離し、厳格さがさらにいっそう強化されたと十分考えることができる。そういうわけで、超自我、そのなかで働いている良心は、超自我によって庇護されている自我に対して、冷酷で、残忍で、容赦のない態度をとるようにもなる。カントの定言命法は、エディプスコンプレクスの直系の遺産相続人なのである。(注28)

しかし、フロイトは『自我とエス』で収めたこの成果に飽き足らず、さらなる所見として、「超自我の強化されたサディズム」と「自我によるマゾヒズムの追求」とは区別したほうがよい、と提案している。前者と違って、後者は容易に意識化できないのがつねであるという観察からは、以下のごとき大変興味深い帰結が生じてくる。

われわれは、「無意識の罪責感」という表現を、両親の力によって懲罰されたいという欲求〔懲罰欲求〕であると翻訳することができた。ところで、父親に撲たれたいという欲望が、空想(ファンタジー)の中に非常に頻繁に現れる場合、この欲望は、父親との間で受動的な(女性的な)性的関係を結びたいという別の欲望にきわめて近いものであること、そしてこの欲望の退行的な歪曲であることが分かっている。この説明を、道徳的マゾヒズムの内容に当てはめると、その秘められた意味が姿を現す。良心と道徳は、エディプスコンプレクスの克服、つまりその脱性化によって発生したものである。しかし、道徳的なマゾヒズムを通して、道徳が再び性化され、エディプスコンプレクスがあらためて生命を与えられ、道徳からエディプスコンプレクスへの退行の道が拓かれる。これは道徳にとっても、個人にとっても、利益となることではない。たしかにその人は、自我のマゾヒズムと並んで、倫理性を十分あるいはある程度は保持することができるかもしれない。しかしその人の良心のかなりの部分が、マゾヒズムの内に消失してしまいかねないのである。(注29)

このくだりを読むと―あからさまにそう明言されているわけではないものの―おそらく道徳的マゾヒズムは、自我の側の女性的マゾヒズムによる超自我の誘惑であり、見方によっては自我が女性として超自我の支配に挑む逆襲の試みとして理解することさえ可能ではないかと思えてくる。マゾヒズムの地位がサディズム以上に特権的であることは、すでに性源的マゾヒズムを検討している最中から予想できたことではあったが、道徳的マゾヒズムにおいてもやはり確認できると判断してさしつかえあるまい。これこそは、サディズムとマゾヒズムの厳密な相補性という常識に異議を唱えつつ、ともに超自我の法の逆転を目指している点は同じでも、前者のイロニー(皮肉)が悪の理念に訴えて権力の否定に進むのとは違い、後者のヒューモア(諧謔)はむしろうわべの服従の陰に嘲弄、挑発、批判の力能を隠しており(注30)、それゆえ「マゾヒズムとはいかに超自我が破壊されたか、何者の手でか、そして何がこの破壊から出てきたのかを物語る一つの歴史である」(注31)と書くとき、ドゥルーズが考えていることなのであろう。「怯えている自我に」超自我が「優しく元気づけるように語りかける」ところにヒューモア(ドイツ語では「フモール」)が生じるというフロイトの説の、微妙にして決定的な改変である(注32)。

(五)『のばらセックス』における女性的マゾヒズム
さて、ここまでフロイトの欲動理論を、特にサディズムとマゾヒズムの本性に焦点を合わせつつ、『快原理の彼岸』(1920年)、『自我とエス』(1923年)、「マゾヒズムの経済論的問題」(1924年)と年代順にたどってきた。そしてそれは同時に、快原理と死の欲動との絆が明らかになるまでの道程でもあり、またマゾヒズムの存在感が徐々に増してくる過程でもあった。
この間、『のばらセックス』におけるアレゴリーの分析、という本来の課題は、片時も我々の頭を去らなかったのであり、ただそのための準備作業として、多少詳しくフロイトの考えを追っておくことがどうしても不可欠だったのである。
看板に偽りあり、という状態をこれ以上長引かせるのは気が引けるから、準備が万端整ったいまとなっては、すみやかに本題に入ることが望ましい。
以下で立証を試みるのは、『のばらセックス』は「マゾヒズムの経済論的問題」の正確な文学的対応物として読むことができるということである。すなわち本論文が提示する、「女性的」・「性源的」・「道徳的」というマゾヒズムの三つの様態は、どれもこの小説の中に見紛いようもなくはっきりと姿を現しているのである。
まず、女性的マゾヒズムについてはどうだろうか。フロイトによれば、「猿ぐつわをかまされ、縛られ、殴打され、鞭で打たれ、何かと乱暴に扱われ、無条件の服従を強いられ、汚され、辱められる」ばかりか、ときには「身体毀損」も加わる空想が、その何よりの特徴であった。ところで、『のばらセックス』の作中で主人公のおちば様が、鞭打ちを除けばここで列挙された項目をことごとく経験していることは疑いようがない。
しかし、これに対してはすぐさま二つの異論が返ってくることを予想できる。「第一に、この一連の屈辱的な扱いが空想であるのはあくまでも作者(日日日)および読者にとってであって、おちば様は現実に(ただし空想内で、一人の登場人物として)それを耐え忍ばねばならない立場にあるのだから、彼女を空想する主体として定義することはできない。また第二に、そもそも彼女自身は自分が攻撃されることを望んでいるわけではなく、他人が一方的に与える苦痛の被害者でしかないのだから、マゾヒズムという語の使用は適切でない」…という異論だ。
しかし、一度にこの両者にお引き取りを願うには、本文を注意深く読むだけで十分である。というのも、おちば様が何らかの性的な事件に巻きこまれるたびに、決まってある特徴的な精神状態が先行しているからだ。その精神状態とは、夢を見ることにほかならない。引用によって確かめてみよう。

 眠らないあたしにとって、それは珍しい体験。つまり夢を見ていた。子供のころの夢だ。〔中略〕
 強い痛みであたしは目覚める。
 激しい時差ボケじみた、あるいは酷い風邪でもひいたみたいな、全身の痛みと倦怠感。身体がまったく思うように動かずに、視界もあやふやで、まだ夢でも見てるみたいだ。(注33)

 また夢を見ていた。
 だから意識を失うのはいやなのだ。夜にだって眠りたくない。自分の意思とは無関係に、強制的に流れこんでくる、夢は暴力的だ。でも、夢でしかもう、母に会えない。(注34)

 ソプラノは、よくわからなくて戸惑う。〔中略〕夢のように興奮した。〔中略〕
 おちば様は夢うつつな独り言を終えると、微笑む。
「好きよ、ソプラノ」
 その、ただの言葉に、くらくらする。
 ソプラノは夢中で、母の乳に吸いつく赤ん坊みたいに、彼女の血を啜った。(注35)

この第三の引用文では、おちば様ではなくて彼女の恋人(ソプラノ)が主語である。その点は前後の他の引用文との違いとして認めなくてはならないが、いずれにせよ彼女自身も「夢うつつ」の境地にあることは疑いえない。

 また夢だ。くだらない夢だ。夢というもの全般が、くだらないものだ。嫌だな、眠ることが嫌いだ。意識を保っていないと、不安で仕方なくなる。(注36)

 夢からさめてもまだ夢のなかみたいな。(注37)

 嫌な夢を何度も見て、夜中に目が醒める。室内とあたしの身体はナノマシン(正確には、視認できるほどのおおきさの機械群)が洗浄し、昼間の情事の残り香のひとつもない。
 それこそ、悪夢みたいに、現実感がなかった。(注38)

 夢を見ているような。
 自我がとろけて、あたしは『あたし』を喪失し―他人の物語のなかに没入する。世界観に絡めとられ、感情移入して、集中して読書してるときのように。(注39)

さて、フロイトの主著である『夢解釈』(初版1900年)によれば、「夢の内容は一つの欲望成就であり、夢の動機は一つの欲望である」(注40)。そしてまさに、この著作で初めて、フロイトは親が死ぬ夢の分析を通して、「片方の親への恋着と他方の親への憎悪」(注41)、すなわちのちに「エディプスコンプレクス」と名づけられることになる幼児の心の機微についての理論を公然と打ち出したのである。この、夢は往々にしてエディプスコンプレクス的な欲望の成就として解釈できるという命題の普遍性は、ソプラノの存在ゆえに一見例外的とも思えた第三の引用文が含む、「母の乳に吸いつく赤ん坊みたいに」というさりげない直喩によって補強される。
他方で彼は「懲罰夢」、すなわち本来ならば抑圧されていなくてはならないはずの、道徳的な規範の観点からは許されざる欲望の成就を罰することに主眼があるような夢の存在も認めており、これはこれで広義の欲望成就の一種らしい(注42)。その実態が超自我ないし良心の欲望成就であることについては、後年追加された原注によるお墨つきがある(注43)。むろん、エディプスコンプレクスにおいて幼児が望んでいる近親相姦と親殺しは、罰当たりの最たるものであり、だからこそ『自我とエス』によれば、超自我の権威の確立にとって決定的な機会は自我とエディプスコンプレクスとの格闘の内に存しているのである。
では、おちば様の恋人(ソプラノ)のみならず、『のばらセックス』の主人公である彼女自身のエディプスコンプレクスというものを想定することも可能だろうか(この場合、おちば様は女性であるから、その内容は当然「父親と性交し、母親を殺害する」というものでなくてはなるまい)。間違いなくそれは可能であり、それどころか作品が読者に要求してさえいる想定である。おちば様はII章で、義父の「あいちゃん」こと坂本逢(に化けた祖父)の館に監禁され、はっきり結婚と妊娠を求められた上で―「おちばちゃん、私の妻になりなさい。そして子供を産むんだ」(注44)―強制的に妊娠を容易にする肉体改造を施され、召使のシオンに連日強姦される(逢本人は多忙だというのが一応の理由だが、変装がばれるのを恐れているのかもしれない)。この悲惨な体験が、相手が逢本人でありさえすれば、またこれほど手口が強引でさえなければ、むしろ彼女の幼児期の欲望の成就であるということは、例えば「むかし、あいちゃんが好きだった」おちば様が、自分から彼に求婚したときの記憶―「もし、あたしが偉くなって、おおきくなって、のばら様よりずっと立派になったら。/―あたしをお嫁さんにしてくれる?」(注45)―が夢の中で再現していることからわかる。またii章では、彼女は母親であるのばら様(実は坂本三兄弟の合作による架空の女性であり、最初から存在していなかった)に変装して公衆の面前でいったん自らを恋人に殺させるのだが、その直前の「いちど、きれいな太陽を見あげる」(注46)という行為は、のばら様の危篤を聞いたときの「この世界の中心で、輝きつづけていた太陽が。/死ぬ……」という彼女の感想(注47)を思い出すとなかなか意味深長である。要するに、「父親と性交し、母親を殺害する」という、おちば様の女性的なエディプスコンプレクスの文面は、ただただ彼女の心身の蹂躙でしかないような、奇怪に歪曲された形で実現しており、しかもそれを縁取る枠組としては、判で押したように決まって「夢」が召喚されているのである。
こうなれば、先の二つの異論に対してどう答えるべきかも見当がつくというものだ。その答は―「この作品は、エディプスコンプレクス的な欲望の成就という性格と、それを抑圧しようとする懲罰夢の性格を併せ持つ両義的な夢に似ている。ゆえに、たとえおちば様は筋書を自ら生きる主人公であるという事実は無視できないにしても、あたかもマゾヒストの見る夢がその当人の自我と超自我との関係をどぎつく強調しながら上演しているかのように、延々といたぶられる彼女が同時にある意味で筋書の作り手であることも不可能ではない」というものである(夢の主人公と夢の作り手は、えてしてただ一つの同じ名前を持っている)。まさにドゥルーズが書いているとおり、「たとえ夢を見ていないときですら、マゾヒストは自分が夢を見ているのだと信じる必要がある」(注48)。なお、「馬鹿げた夢幻を終わりにするってだけよ」(注49)や、「ソプラノも、あなたみたいに、悪夢と戦う、です」(注50)等の台詞が、夢から覚醒しようとする意志を表明していることも傍証として役に立つ。
もしも『夢解釈』に依拠したこのような読み方が正しいとすれば、女性的マゾヒズムの残りの部分との符合を見つけることはもはやそれほど難しくない。マゾヒストが「小さな、寄る辺のない、甘ったれた子供、しかもとくに、やっかいな子供として扱われることを欲している」というフロイトの指摘に対しては、「あたしの心のなかに、屋敷に置き去りにされたちいさな自分自身がいて、その子はずっと寂しがっていた」(注51)というくだりをはじめ、実例となるような文章を作中からいくつも拾い出してあてがうことが可能だろう。また、マゾヒズム的な空想はみな「その人物を女性的なものの特徴を示す状況に置くこと、すなわち去勢され、交接され、または子供を産むことを意味している」という点についても、まさしく「子宮に仕込まれた罠」(注52)を奪われ、武装解除された上で、女子の妊娠という明確な目的のために強姦され続けるおちば様の状況そのものだ。もっとも、フロイトがこの手のマゾヒズムを、なんなら「幼児的」と名づけてもよさそうなのにあえて「女性的」と呼んだのは、どうやら彼の経験上患者が決まって男性だったという理由もあるようだが(注53)、『のばらセックス』の筋書は、「あたしは男のようになりたい」(注54)と願ってきたはずのおちば様が、自らの意志で女性としての生を選択するようになる過程としても読めぬことはないから、この問題点はあまり深刻なものではない。
たしかにIII章(「いつかは散る薔薇」)では、もはや小説の結末が間近いというのに、彼女は自身の懐妊につながる性交の場面を、真の父親である坂本綿志の主観を通じて射精に至るまで追体験しているが、だからといって女性化の過程が振り出しに戻ることはない。それというのも、どうやら坂本三兄弟は三人の男性である以上に、超自我と自我とエスの体現者であるからだ。まず、エディプスコンプレクスにまつわる懲罰夢の側面が本作にあるのだとすれば、おちば様の思慕の対象にして彼女を苦境に叩き落とす義父、つまり「あいちゃん」こと坂本逢は必然的に超自我でなくてはならない。そして事実、逢はもともと抗いがたい絶大な権力をほしいままにする父親(おちば様の祖父)の代理として作られた人物なのであり、しかも作中で登場するのは偽物で、正体は彼の姿形や立ち居振舞を真似たこの父親自身であるらしい以上、このように何重かに入り組んだ父性を刻印されている彼を超自我と同一視することは、ほとんど強制的な命令として読者に課せられている感さえある。そして、長兄の逢が超自我であるなら、残る二人をそれぞれ自我とエスに割り振るのも自然なことであるはずだ。もっぱら臓器移植等の肉体的な面で父を支えることを求められた二男の緒礼は、肉体を女性に変化させることも、その姿で弟(綿志)を強姦して子(坂本おちば)を出産することも可能な愛欲の塊であるからして、快原理にひたすら身を任せるエスの権化なのだろう(緒礼=「おれ」が日本語の一人称としては最も粗野なものであることも、実は小説の冒頭から顔を出しているにもかかわらず、基本的には裏方に徹しており、ほとんど本音を語る機会を与えられることがない彼の寡黙さも、どこまでも無意識的な心の部分であるというエスの本性にこそふさわしい)。となれば、三兄弟の中で最も知的かつ常識的な、出ずっぱりの末弟綿志が自我に相当することは明白である。したがって、綿志の射精を彼女が追体験する場面は、別に彼女の男性らしさを再確認しているわけではなく、彼女もまた綿志(=「わたし」)同様―おちば様の日頃の一人称は「あたし」なのだから―、フロイト的な心の三重構造では「自我」にほかならないことの表れなのだろう。こうして、もともと限りなく実の父と娘の間柄に近い「あいちゃん」こと逢(の偽物)と彼女との関係を、超自我と自我の関係として読むことには十分な根拠があることが証明できた。
『のばらセックス』における女性的マゾヒズムの調査を締めくくるにあたって、できればベンヤミンとの関係についても何か書いておきたかったのだが、あいにく詳細な検討は他の機会にまわさざるをえない。とりあえずここでは、ベンヤミンのアレゴリー論の中で特権的な位置を占める詩人ボードレールの、妊娠に対するある種の嫉妬に関する指摘―「ボードレールが妊娠をいわば不公正な競争と理解したのは、男性の性の苦難の道〔という考え方〕に合っている」(注55)―を引くにとどめておこう。

(六)『のばらセックス』における性源的マゾヒズム
「マゾヒズムの経済論的問題」は女性的マゾヒズムに続いて、「性源的マゾヒズム」を俎上に載せ、その起源は有機体の外部に放棄されなかった分の死の欲動が、生の欲動によって飼い馴らされ、リビード的に拘束された時点にまでさかのぼるという仮説を提示した。この場合、死の欲動の破壊性を持て余した有機体が、それを自らの内部から外部へと移そうとして努力するという成行に着目すれば、マゾヒズムはサディズムを補完するどころかむしろ生命の古い体制の痕跡であり、快原理は死の欲動がかぶった仮面のようなものとなる。
さて、シオンによる最初の強姦の際に、おちば様は早くも瀕死の重体に陥る。

 身体がどんどん、冷たくなっていくのがわかった。
 あたしの身体と心は、ゆるやかに死に向かっていた。
 …………。(注56)

しかし、彼女が真に恐れているのは苦痛そのものではなく―「でも、痛みならいい。我慢できる」(注57)―むしろ、快楽のほうらしい。例えば、目下ひどい目にあっているのはほかならぬ「あいちゃん」のせいだというのに、優しく傷を治療してもらうとおちば様が彼を許す気になってしまうのは、健全な判断力を麻痺させる快楽のせいだ。

 あたしたちは肉の身体で生きている。肉を癒し、快楽を与えてくれたものを無条件で味方と信じる。(注58)

性行為が心身の死に直結するとき、そしてまた快楽が恐怖の的でしかないとき、「いかなる人物、いかなる事物、いかなる関係も、すべて任意のほかのことを意味することが可能である」という、ベンヤミンのアレゴリー(寓意)論を貫く原理(注59)を想起するのははたして的外れだろうか。妊娠するのにふさわしい年齢にはまだ手が届かないはずの14歳のおちば様が、強引に機械の力を借りて体質を作り変えられる経緯を読むに先立って、ベンヤミンがアレゴリー表現の特徴の一つとして「時宜を得ないこと」を挙げていることに注意するなら(注60)、この想起はそれほど場違いなものとは感じられないはずである。ちなみに、精神分析によれば通常の人間の性生活では、性欲の蠢きは幼児期にある程度発達してからいったん潜伏期に入り、その後思春期になると再び活発化するのであり、このことをフロイトは「二節性」という語で表現している(注61)。
そのような経験を積んだ彼女が、いわばアレゴリー(寓意)の機構に通じたマゾヒストとして、シオンの暴行に対して試みるせめてもの抵抗は、嫌がらせを意味するような甘い睦言であり、サディズムとマゾヒズムが必ずしも互いに相手を補完する関係にはないことの、まことに良質な証拠になっている。

 だんだん気持ちよくなってきて、おおきな声をだして感じていると、シオンが見る見る不機嫌そうになる。どう考えてもサディストな彼は、あたしが悦ぶと満足できないのだ。
 あたしが泣き叫び、ゆるしを請うて、はじめて充実するゆがんだ嗜好。
「んっ……気持ちいい、よ―シオぉン、んくうっ……」
 たっぷり蜂蜜をかけた声で言ってみると、シオンは拳を握りしめ、すぐに「黙れ!」とひときわおおきく叫ぶと、あたしの口を手のひらで塞いだ。(注62)

しかし、これはどちらかといえば、超自我のサディズムに対して自我が性的な誘惑による反撃を企てる、道徳的マゾヒズムの事例に近づいている。
本来的な性源的マゾヒズムと呼ばなくてはならないのは、むしろ機嫌を損ねたシオンがおちば様に注射した媚薬の効果のほうだろう。

 全身の新陳代謝が、無理やり活発にされたみたいだ。身体の奥が炎でも投げこまれたみたいで、かきむしりたくて、血管が膨らむようだ。細胞という細胞が壊れ、内容液を吐きだして、壊れていくみたいな……。
『あたし』という輪郭が崩れて、中身が溢れちゃいそうな。(注63)

すでに『快原理の彼岸』において、フロイトの思弁を死の欲動の発見へと導いたものは、有機体の皮膜が過剰な外界からの刺激を受ければ破綻をきたすし、また有機体自身の内部に由来する興奮に対しては無力であるという事情だったことを思い出そう。ここの描写は、快原理が死の欲動の質的変化の結果であるなら、何かの拍子に自我の輪郭を突き破ってしまうこともありうるのではないかという、我々が先に(四)(「『マゾヒズムの経済論的問題』―三つのマゾヒズム(女性的、性源的、道徳的)」)で提示しておいた予測を裏づけてくれる。実際、このあとすぐ、シオンに無理やり大量の水を飲まされたおちば様は、「まるでナイフを突き刺されて、出血するみたいに」はしたなく失禁してしまうのである。とはいえ、それが同時に「気持ちのいい行為」でもあるのは、あながち媚薬のせいばかりではなく、死の欲動の解体作用が有機体の内部でエロース的な価値を帯びたもの、という、性源的マゾヒズムの定義そのものの然らしめるところであるに違いない(注64)。この情景はやがて、ii章では斬首からの流血(注65)に、またIII章では、やはり「出血」に似た綿志の射精の追体験(注66)へと引き継がれてゆくはずだ。
再びベンヤミンを参照すれば、バロックの悲哀劇においては、身体を介した外界との接触から精神が強いられる、自律性の剥奪と受動性の押しつけとが劇中の興味の中心でなくてはならない。

デカルトの二元論だけがバロック的なのではない。精神と身体の干渉に関する学説の結論として、受苦(パッシオン)〔情念〕の理論が最大の問題になる。というのも、精神は、それ自体だけなら純粋でおのれの理を守りとおす理性であるが、しかしその精神を外界と接触させるのはただ一つ、身体の感応だけである以上、いわゆる悲劇的葛藤などよりも精神が受ける苦痛の暴力こそが、激しい情動の基盤と見なされて当然だったからである。(注67)

このゆえに、アレゴリー(寓意)を好む悲哀劇の舞台には、しばしば死体が転がるという結果になる。「身体のアレゴリー化は、死体に即してのみ、精力的に貫徹できるのである」。精神は、身体的な拷問の中で抵抗することを通じて身体ならざる何者かとしてその実存を確認され、ついで死体のもとで、身体を単なる物体ならざる有機体たらしめていた、もはや不在の何者かとして暗示される。どこまでも否定的であるほかないこのような成行を、飽くことなく描き続けた劇作家たちを鼓舞していたのは、生命の過程がそれ自身の懐に、いわば内なる外として死の欲動を抱えこんでいることへの直観だったのではなかろうか。

(七)『のばらセックス』における道徳的マゾヒズム
「マゾヒズムの経済論的問題」が取り上げる第三のマゾヒズムは、道徳的な型のものであり、これと超自我の側のサディズムとの混同を、フロイトは厳に戒めていた。真の道徳的マゾヒズムとは、我々の印象では、むしろ自我による超自我の性的な誘惑、あるいは自我が超自我の支配に対して挑む女性的な逆襲のようなものなのである。
そうだとすれば、我々の考えでは、フロイト的な自我の三重構造を借用して登場人物をそれぞれに割り当てた場合、「あいちゃん(坂本逢)」は超自我であり、おちば様は坂本綿志同様に自我なのであるから(むろん坂本緒礼はエスに相当するわけだが、ここでは無視してよい)、道徳的マゾヒズムが異論の余地なく成立するためには、おちば様が逢に性的な手段で復讐を遂げることが必要であるはずだ。さて、『のばらセックス』を実際に読んだ人ならだれでも知っているように、まさしくそのとおりのことが作中では起きている。すなわち、自分を苦しめる「あいちゃん」が本人ではない可能性を知った彼女は、II章の大詰めの場で、偽りの懐妊によってすっかり油断した彼を試すために性交をねだり、誘いに応じた逢の隙を突いて、睾丸を蹴りつぶした上に鎖で絞め殺しているからである。

 そして背負い投げの姿勢で、思いっきり引っぱった。
「ぐっ、が」
 あいちゃんが藻掻くが、どうにもならない。あたしは顔を真っ赤にして、お腹の重たさを苦にしながら、懸命にちからをこめる。
「がああ―」
 動物じみた、あいちゃんの金切り声。彼が何と言おうとしたのか、絞殺されている最中なので、判断はできなかった。でも、あいちゃんなら、死ぬときもエレガントなはずだ。
 娘を犯そうとして抵抗され、挙げ句に殺されるような間抜けじゃない。
 〔中略〕
 十四歳になったあたしは、お父さんのかたちをしたものの、息の根をとめる。
「さよなら」
 振りまわされていたあいちゃんの手足が、ぱたりと落ちた。抵抗が弱まり、その身体がぐっと重たくなる。死んだ。
「…………」
 あたしは前時代にあったという残虐な刑罰、絞首刑の項目を思いだし、どんな人間でも確実に死ぬと判断される時間をきっちりと待った。(注68)

たしかに、「あいちゃん」の代わりに連日彼女を犯すことに従事してきた、筋金入りのサディストであるシオンを籠絡することはできていないが、このように一番の元凶である超自我本体を汚辱の中に葬り去ることに成功した以上、そんなことはもはや問題にならない。それに、シオンの弟であるセノンのほうは、やはり首尾よく彼女の誘惑に屈し、助けを呼ぶのに利用されているのである。この際、セノンの「背中に爪で刻み込んだメッセージ」が手掛かりになったという事実は(注69)、アレゴリー(寓意)的にそれ自身ではない何か他のものを意味する事物は「隠された知の領域をひらく鍵」とならなくてはならず、さながら紋章のように確固たる型であることを求められる結果、バロック的な知の世界では「アレゴリーが書きものの性格を帯びる」、というベンヤミンの主張との照合を要求しているように私には思えてならない(注70)。
おそらくこのあたりで我々は、せっかくエディプスコンプレクスからの超自我の発生とともに性の磁力が及ばぬ高みに築き上げられた道徳が、マゾヒズムを追求する自我のせいで再び性的な性格を強めてしまうことに難色を示すフロイトには―もちろん、満腔の感謝の念をこめて―別れを告げ、ドゥルーズとベンヤミンに教えを乞うべきなのであろう。
マゾヒズムをヒューモア(諧謔)的な法の逆転の試みとして理解し、「期待と宙吊りとの経験がマゾヒズムには本質的に所属する」と看破してのけるドゥルーズから我々が学ぶのは、「マゾヒズム的な諸々の光景は肉体を吊るしたり、緊縛し、引っ掛け、磔刑に処したりといった真実な儀式を含有している」(注71)ことのみならず、「マゾヒストとは純粋状態の期待を生きる者のことである」(注72)という教えでもある。「あいちゃん」の館でのばら様を名乗る一本の指(実際には綿志が操作していた)によって手錠の鍵を外されたにもかかわらず、「時機を見計らう必要がある」(注73)と考えて当面はおとなしく服従を続けようとするおちば様の覚悟と、さきほどの引用文にもあったように、「あいちゃん」(の偽物)をとうとう自らの手で「絞首刑」に処したとき、彼女が「どんな人間でも確実に死ぬと判断される時間をきっちりと待った」こととが、いかにマゾヒズムの本性に照らして必然的な成行であるかは、この二つの教えを考慮することで明らかになる。
よく似た期待の姿勢や宙吊りという状況は、ベンヤミンの言葉を借りれば、「果てしなく準備をつみ重ね、まわりくどく、ためらうことに快感を覚えるといった類のバロック的構成」(注74)にも行き渡っているはずであり、それゆえ、ドゥルーズが述べているように、本来ならば超自我(良心)に屈伏していなくてはおかしいはずの自我が反対に超自我を嘲弄するという構図までもが、まるで道徳的マゾヒズムとバロック的なアレゴリーの美学とに共通であるかのように見えても何ら不思議ではない。

こうしてキリストですらも、かりそめの日常的なよるべない次元へおし込まれることになるが、これは、このうえなく明確な身ぶりなのである。ここでシュトルム・ウント・ドラングがいやおうもなく思い浮かぶのだが、メルクがこう書いている。「この偉大な男が厩で生まれ、牛とろばにはさまれながら、おむつをして寝ていたのを知ったところで、彼から奪えるものなど何一つない」。なんといっても、このように啖呵をきる身ぶりの侮辱するようなところ、ぶしつけなところがバロック的なのである。シンボルが自分のなかに人間を引き入れるのに対し、アレゴリー的なものは、上から降ってくる志向を存在の基底から迎え撃ち、このようにしたたか面を突く。(注75)

おそらくは、悠々と組み伏せたはずの孫娘に、次の瞬間には股間を蹴りあげられて悶絶する偽の「あいちゃん」(超自我)の滑稽で無残な死に様のみならず、終章(III章)で女性の量産に挑んで力尽きた瀕死の坂本緒礼(エス)を前に、おちば様が「万感の思いをこめて」、さながら彼の代辯者として「ファック」の一言とともに「天に指を突きつける」仕草もまた(注76)、このような文脈の延長線上で把握しなくてはなるまい。『のばらセックス』からうかがえるベンヤミンのアレゴリー論との共通性については、他にも不本意な性行為と重労働との間の類比や(注77)価値評価の恣意性など(注78)、まだ考えるべき論点がいくつかありそうだが、どうやらすでにこの記事は長くなりすぎたようなので、ひとまずこのあたりで切り上げることにしよう。
いまはただ、静かだが確実な将来への希望を約束するIII章(「いつかは散る薔薇」)の大詰めの頁、すなわち死体同然の重体で再登場する、真の母親(にして父親)である緒礼とおちば様の再会と、二千年間もの空白を飛び越えた女性たちの再来とを告げる奇蹟的な頁のために、門出の祝福のつもりで、ささやかながら引用の花束を手向けることにしたい。超自我のサディズムに苛まれるメランコリー気質の人が、バロック的なアレゴリーの弁証法を通過し終えた場合に一体いかなる転回を経験することになるのかを―(三)(「『自我とエス』における快原理とサディズム」)で予告しておいたとおり―知ってもらいたいからだ。

 まさにつぎの点こそ、メランコリックな沈潜の本質である。メランコリックな沈潜は、その究極の対象のなかに埒もないものをもっとも完全に確保していると思っているが、その究極の対象がアレゴリーに急変する。究極の対象は、無のなかに姿を現わし、その無を満たし、そしてその無を否定する。ちょうどアレゴリーの志向が、最後には死骸の光景にどこまでも忠実にとどまることはせず、忠実を捨て復活へ飛び移るのと同じように。(注79)




(1)フロイト『続・精神分析入門講義』第32講(道籏泰三訳)、『フロイト全集21』(岩波書店、2011年)124-125頁。
(2)フロイト『快原理の彼岸』V(須藤訓任訳)、『フロイト全集17』(岩波書店、2006年)90頁。
(3)同書91-92頁。原文で傍点を伏してある箇所を、太字の表記に改めた。
(4)同書107-111頁。
(5)ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(岡部仁訳、講談社文芸文庫、2001年)262頁。
(6)同書299頁。
(7)ベンヤミン『パサージュ論 第2巻』(今村仁司・三島憲一訳、岩波現代文庫、2003年第2刷)318頁。
(8)同書341-342、373頁。
(9)ベンヤミン「歴史の概念について〔歴史哲学テーゼ〕」、『ベンヤミン・コレクションI』(浅井健二郎編訳・久保哲司訳、ちくま学芸文庫、2004年第2版第5刷)658-662頁。
(10)ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」、同書426-430、431頁。
(11)フロイト『性理論のための三篇』第一篇(渡邉俊之訳)、『フロイト全集6』(岩波書店、2009年)201-204頁。
(12)フロイト『快原理の彼岸』VI(須藤訓任訳)、『フロイト全集17』(前掲書)111-112頁。
(13)同書113頁。
(14)フロイト『自我とエス』IV(道籏泰三訳)、『フロイト全集18』(岩波書店、2007年)37-38頁。原文で傍点を伏してある箇所を、太字の表記に改めた。
(15)同書46頁。
(16)同書47-48頁。
(17)同書54-55頁。
(18)ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(前掲書)214-249頁。
(19)フロイト「マゾヒズムの経済論的問題」(本間直樹訳)、『フロイト全集18』(前掲書)287-288頁。原文で傍点を伏してある箇所を、太字の表記に改めた。
(20)同書288-289頁。原文で傍点を伏してある箇所を、太字の表記に改めた。
(21)同書290頁。
(22)フロイト『性理論のための三篇』第二篇(渡邉俊之訳)、『フロイト全集6』(前掲書)263頁。
(23)フロイト「マゾヒズムの経済論的問題」(本間直樹訳)、『フロイト全集18』(前掲書)292頁。
(24)同書292頁。
(25)同書293頁。
(26)セネカ『幸福な生について』、『生の短さについて 他二篇』(大西英文訳、岩波文庫、2010年)146頁。
(27)シャルル・フーリエ『四運動の理論(上)』(巖谷國士訳、現代思潮社、1974年第3版)195頁。
(28)フロイト「マゾヒズムの経済論的問題」(本間直樹訳)、『フロイト全集18』(前掲書)296頁。なお「先の論考」とあるのは、具体的には『自我とエス』(特にそのV節)を指す。
(29)同書298-299頁。
(30)Gilles Deleuze, Présentation de Sacher-Masoch, Paris, Les Édition de Minuit, 1967, p.75-79.
(31)Ibid., p.111: « Le masochisme est une histoire qui raconte comment le surmoi fut détruit, par qui, et ce qui sortit de cette destruction ».
(32)フロイト「フモール」(石田雄一訳)、『フロイト全集19』(岩波書店、2010年)273頁。Cf. Gilles Deleuze, Présentation de Sacher-Masoch, op. cit., p.107-108.
(33)日日日『のばらセックス』(講談社、2011年)42-46頁。
(34)同書62頁。
(35)同書109-110頁。
(36)同書138頁。
(37)同書140頁。
(38)同書205頁。
(39)同書320頁。
(40)フロイト『夢解釈』第2章(新宮一成訳)、『フロイト全集4』(岩波書店、2007年)161頁。
(41)同書338頁。
(42)フロイト『夢解釈』第7章C節(新宮一成訳)、『フロイト全集5』(岩波書店、2011年)352-353頁。
(43)同書251頁(原注200)。
(44)日日日『のばらセックス』(前掲書)145頁。
(45)同書140頁。
(46)同書290頁。
(47)同書148頁。
(48)Gilles Deleuze, Présentation de Sacher-Masoch, op. cit., p.64: « Le masochiste a besoin de croire qu'il rêve, même quand il ne rêve pas ».
(49)日日日『のばらセックス』(前掲書)270頁。
(50)同書369頁。
(51)同書181頁。
(52)同書165頁。
(53)フロイト「マゾヒズムの経済論的問題」(本間直樹訳)、『フロイト全集18』(前掲書)290-291頁。
(54)日日日『のばらセックス』(前掲書)14頁。
(55)ベンヤミン『パサージュ論 第2巻』(前掲書)335頁。
(56)日日日『のばらセックス』(前掲書)178頁。
(57)同上。
(58)同書180頁。
(59)ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(前掲書)276頁。
(60)同書262頁。
(61)フロイト『性理論のための三篇』第二篇(渡邉俊之訳)、『フロイト全集6』(前掲書)256-257頁、『自我とエス』III(道籏泰三訳)、『フロイト全集18』(前掲書)31-32頁。
(62)日日日『のばらセックス』(前掲書)183頁。
(63)同書185-186頁。
(64)同書189-190頁。
(65)同書292頁。
(66)同書338頁。
(67)ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(前掲書)353頁。
(68)日日日『のばらセックス』(前掲書)228-229頁。
(69)同書202-204、233-234頁。
(70)ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(前掲書)293-294頁。
(71)Gilles Deleuze, Présentation de Sacher-Masoch, op. cit., p.62: « Appartient essentiellement au masochisme une expérience de l'attente et du suspens. Les scènes masochistes comportent de véritables rites de suspension physique, ligotage, accrochage, crucifixion ».
(72)Ibid., p.63: « Le masochiste est celui qui vit l'attente à l'état pur ».
(73)日日日『のばらセックス』(前掲書)165頁。
(74)ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(前掲書)291頁。
(75)同書292頁。
(76)日日日『のばらセックス』(前掲書)378-379頁。
(77)同書182-183頁、ベンヤミン『パサージュ論 第2巻』(前掲書)426頁。
(78)同書222-227頁、ベンヤミン『パサージュ論 第2巻』(前掲書)429-430頁。
(79)ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(前掲書)380頁。
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プルースト『ソドムとゴモラ』2 

以前、プルーストの『失われた時を求めて』から第四篇『ソドムとゴモラ』を選び、集英社文庫版(全13巻)では第7巻に相当する、その前半部を分析したことがあった(プルースト『ソドムとゴモラ』)。
今回はその後日談っぽく、続く後半、すなわち『失われた時を求めて 8 第四篇 ソドムとゴモラII』を検討してみたい。

まず、以前の分析の成果を簡単に要約しておこう。我々は、『ソドムとゴモラ』における筋書の水準での隠喩の連鎖の追跡を試みたのだった。そしてこの追跡は、やがて相継ぐ相似性の諸系列の発見に至り、その結果として我々は、「この世界では似ること、あるいは自分を相手に(ときには以前の自分自身に)似せることが、そのまま強さであり、美しさであり、正しさなのだ」と書かずにいられなかった。ただし話者自身は例外で、いったんはこの相似性の連鎖に引き込まれながらもただちにそこから追い出され、その後は「ひたすら他人の相似性を詮索するか(母は祖母へと非の打ちどころのない変身を遂げ、アルベルチーヌには同性愛の疑惑がつきまとう)、それとも対照性の混迷の中をさすらうかが彼の運命となるわけである」というのがあのときの診断だった。
この、相似性からの追放という事態が、いっそう大々的に、前巻の終わりを引き継いで海辺の保養地バルベックという舞台で拡散してゆくのが、『ソドムとゴモラ』の後半の隠れた構造である。
例えば、冒頭にいきなり告げられてそれっきりで、一見すると特に伏線として機能している様子もないニシム・ベルナール氏の同性愛にまつわる逸話を読んでみよう。せっかくレストラン「サクラ亭」のボーイと仲良くなれたというのに、幸福は長続きせず、たちどころに相似性が彼を裏切り、締め出してしまう。

けわしい顔立ちのこのボーイは、頬が真っ赤で、まさしく首にトマトをのせているとしか見えなかった。そしてこれとまったく同じトマトが、彼の双生児の兄弟の顔だった。なんの下心もなく眺めれば、この双生児の兄弟が瓜二つなのはなかなか美しいもので、まるで自然が一時的に産業化して、同一製品を売り出したかのように見える。ところがあいにくニシム・ベルナール氏の見方は異なっていて、この類似は外面的なものにすぎなかった。二号トマトがもっぱらご婦人たちを喜ばせることに熱中するのに対して、一号トマトはある種の男たちの好みに応じるのもいとわないのだ。ところでベルナール氏が、反射神経に動かされるのと同じく一号トマトと過ごした楽しい時間の思い出にもつきうごかされて、のこのこ〈サクラ亭〉にあらわれるたびに、この近眼の年老いたイスラエル人は(もっとも双生児の兄弟をとりちがえるのに、かならずしも近眼である必要はなかったが)、知らず知らずにアンフィトリオンを演じて、双生児の兄弟の一人に、「どうだね、今夜逢引をしないかね?」と話しかけてしまう。そしてたちまち彼は、こっぴどく「ぶんなぐられる」のだった。この仕打ちが、同じ食事のあいだにふたたび繰り返されることさえあった。彼が一号トマトとのあいだで始めた話を、もう一人のトマトに向かってつづけようとしたからだ。とうとうそのうちにトマトにうんざりした彼は、食べられるトマトも連想ですっかりきらいになったので、グランドホテルで隣にすわった旅行客がトマトを注文するたびに、その男にこうささやいた、「存じあげないかたなのに、差し出がましくこんなことを申して失礼ですが、いまトマトを注文なさったのを耳にしましたのでね。今日のトマトはくさっておりますよ。これは、あなたのために申し上げているんです。だって、私にとってはどうでもいいことですから。トマトは絶対にいただきませんのでね」。(注1)

長々と引用したのは、さながら序文のように残りの本体から独立して巻頭を飾るこのくだりが、どうやら実際には以下の小説の進路にとってかなり決定的な模範の役割を帯びていそうだからにほかならない。少年の赤ら顔とトマトとの相似、自然界と産業界との相似、ベルナール氏とアンフィトリオンとの相似、この一切が、双生児同士の外見の相似と結託して彼の肉体にひどい痛手を負わせるばかりか、余勢を駆って本物のトマトに対する彼の感情の中にまで反発を植えつけるべく逆流してくる。
考えてみれば、私が相似性の系列を評価し、さらにはそれに魅惑される側の立場にいるかぎり、私はその系列の外に立たざるをえない。仮に意識というものが外界と自己との差異への注意から、定義上つねに不可分だとすれば、何かに似ることに成功すること、つまりはその何かに主観的になりきることと、ほかならぬその相似を客観的に観察することとを、意識的な操作によって同じ瞬間に両立させるのは至難の業であろう。
ブルジョワ出身であるだけになおのこと貴族らしい振舞の模倣に熱中してきたはずのカンブルメール若夫人が独創性を礼賛するのを聞いても、話者がそこに矛盾を感じないのは、おそらくそのことと無縁ではない(注2)。同様に、ヴェルデュラン家の夜会で毎度のように孤立無援の窮地に追いこまれ、出席者たちの笑い者にされる気の毒なサニエットの立場も、いじめとは誰か(被害者)の疎外を伴う相似性の支配の一例にほかならないという観点から把握しなくてはならないのである。

ほとんどすべての信者がぷっと噴き出さずにはいられなかった。彼らはまるで人食い人種の一団が、傷を受けた白人を見て血の味を呼びさまされたかのようだった。というのも、模倣の本能と勇気の欠如とは、大衆を支配するのと同様に社交界をも支配するからだ。つまりだれかばかにされている人を見るとみながこれをあざわらうのだが、十年もたって相手がどこかの社交クラブで尊敬を集めていると、みなが平然と同じ人物をもてはやすことになる。民衆が王を追放したり、王に喝采したりするのも同様である。(注3)

このように、あまりにも頻繁に相似性の秩序の部外者として扱われてきたサニエットは、もはやとっておきの気の利いた駄洒落を口にしても―決まって誰かがまんまと彼からそれを聞き出して吹聴した後なので―かえって盗作者呼ばわりされ、非難される始末である(注4)。
顔なじみのはずの二人のボーイが、一方はひげを生やし、他方はひげを剃ったせいで誰だか思い出せなかったのだと話者が悟った直後の、「あたかも、綿密な家宅捜索を逃れた品物が、なんのことはない、暖炉の棚におかれていて、だれの目にも見えていたのに、だれもそれに気づかなかったようなものだ」という感慨も、前巻での相似性の組織化とは打って変わって、今度はそこから観察者が遠ざけられる過程こそが小説の主題とならねばならないことを暗示しているようだ(注5)。この直喩の要点は、起こっているのが距離を確認することではなくて確認されざる隔離であるということ、すなわち問題の品物が観察者と当初から全く無縁なのではなく、あくまでも意識は及ばないが手の届く範囲にさりげなく、しかし堂々と居座っているということであろう。この反省をさらに進めてゆけば、やがて、「人間は、たえずこちらに対して位置を変えるものだ。身体には感じられなくとも永遠につづくこの世界の歩みにおいて、私たちは人間を束の間の光景のなかで動かないものとしてとらえるが、それはあまりに短い一瞬なので、彼らを引っぱってゆく運動があることは感じられない。しかし記憶のなかで、二つの異なった時点でとらえられた彼らのイメージを選びさえすればよいのだ」という助言に至ることは明白である(注6)。さらに、この目立たない通時的な変化の方向を思考の中で回転させれば、陰口の心理的な価値についての箴言が出てくる。「人が実体と思っていても実はその外観にすぎないものがあり、精神がそういうものにかんするまやかしの見方の上に安住するのを、こうした陰口が妨げるのだ」というその箴言は、自分が他人に見せたいと思う自画像と、自分の姿を見て他人が作り上げる肖像とが、たとえ表面的には一致しているように思えても、決して油断してはならないという意味である(注7)。ここでも相似性は当事者に背き、ほかならぬ私(意識)が知らぬ間に除け者にされるのだ。
そのような事例が度重なれば、相似性は単に人間を裏切るばかりでなく、それ自体が反発を買うようになるか、または人間同士を反目させるようにしか働かなくなるのも当然というものだ。寵愛するヴァイオリニストのモレル(話者の大叔父の従僕の息子)を改名させ、今後はシャルメルと名乗らせたいというシャルリュス男爵の希望が、にべもなく拒絶されて挫折を強いられるのはそのためである。

最後の論拠としてシャルリュス氏は、自分にその名の従僕がいたことをつけ加えるという、へまなことを思いついてしまった。それはこの若者の憤懣をいっそうかき立てることにしかならなかった。「昔、私の祖先が、王様の従僕や給仕頭という肩書を誇りに思っていた時代があったのだよ」「別な時代には、私のご先祖さまが、おたくのご先祖さまの首をちょん切らせたこともあったんですよ」とモレルは昂然として答えた。(注8)

持ち前の美貌と音楽の才能でシャルリュスに取り入り、従僕の階級から脱出しようとするモレルの強烈な上昇志向にとっては、男爵の従僕との相似性など願い下げで、むしろ貴族と庶民との昔ながらの対立こそが真似るべき手本なのである。
ところがこんな心ない反抗に悩まされ、ぞんざいな仕打ちを受けてひどく傷ついたシャルリュスは、なんとか相手の関心を惹きつけようとして一計を案じ、モレルとの交際の件で自分の悪口を言いふらした将校たちに決闘を挑むと言い出す。幸いにしてこの狂言は功を奏し、話者を使者として手紙を書き送った結果、一度は冷淡に立ち去ったヴァイオリニストは戻ってきて、シャルリュスにすがりついてどうか思いとどまってくれと哀願する。こうしてうわべだけとはいえ目的を達成した以上、当然ながら、もともと本気ではなかった決闘の予定は流れてしまい、有頂天になったシャルリュスは「トビト書」(旧約聖書外典)の叙述を借りてモレルをトビアになぞらえ、自分はトビアをその父親であるトビトのもとに導いた大天使ラファエルになったつもりですっかり悦に入るが、その際奇妙な台詞を話者に対して口走っている。「つまり、あいつはとても頭がいいので、すぐに分かったのです、これから彼がそのそばで暮らす〈父親〉というのは、肉体上の実の父ではない。実の父親はひげなど生やしたどこかの醜悪な召使いのはずだが、そうではなくて精神上の父、この〈私〉だということをね」というのがその台詞だ(注9)。これが奇妙なのは、前後の脈絡からすると、結局トビア(モレル)を導く大天使も、トビアを迎える父親(トビト)もともにシャルリュスその人であるということになってしまい、つじつまが合わなくなるからである。どのみちモレルがシャルリュスを心底愛しているわけではない(いわば有力な後援者として、体よく利用しているにすぎない)という事情を考慮に入れるなら、ここには貧弱で不完全な相似性(現実との合致を欠く、狂言じみた決闘の誓い)か誇張された相似性の戯画(大天使=シャルリュスとトビト=シャルリュスの共存)しかなく、ゆえに効果も中途半端で、表面的なものにとどまらざるをえない、と結論づけてよさそうだ。
このあたりから顕著になってくるのは、いまや相似性は当事者を締め出すばかりでなく、むしろ真正な効力を当事者に及ぼすことができないまま、それ自体が堕落し、空疎になり、形骸化しつつあるということである。当初は単なる意地の悪さと思えた事例も、あまり頻発するようであれば、ことによると無力さの表れではないかという疑いは避けがたくなるからだ。例えば、ヴェルデュラン家の新しい客人の目を欺く、まるで御殿のように立派な売春宿がそうであり(注10)、またシャルリュスと同じく男色の趣味があるゲルマント大公に連れこまれたそこの一室で、男爵の監視に勘付いて、動揺のあまり逆に覗き見するシャルリュスを戦慄させてしまう、幽霊のように血の気の失せたモレルの姿―「彼が目の前に見たのはたしかにモレルだが、まるで異教の神秘と魔法が実際にまだ存在しているかのように、それはむしろモレルの亡霊であり、ミイラになったモレルだった」(注11)―も、さらには翌晩、ゲルマント大公が「自分の家にいるという感じを出すために」別荘に飾っておいたシャルリュスの写真(シャルリュス男爵はゲルマント公爵の弟で、ゲルマント大公とはいとこの関係にある)の視線に射すくめられてモレルが陥った恐慌も(注12)、やはり相似性の滑稽な戯画の好例なのであって、こうした事例はいずれも、外観が内実を忠実に反映せず、それどころかあてどなく遊離しては勝手な効果を撒き散らすという事態に積極的に加担しているのだ。
こうなれば、似ることが即強さであり、美しさであり、正しさであるという、前巻で確立されたはずの原理もいささか眉唾物に思えてくる。たまに外観の領域で終始する忠実な模倣があったとしても、それは例えばカンブルメール一族の間で定着している老侯爵夫人ゼリアの面妖な書き癖(丁重さを表わそうとしてよく似た形容詞を三つ重ねるものの、選択がまずいせいで決まって強調の度合いはだんだん低くなる)だの、珍妙な肉体的特徴(一方的に喋りまくった後で一息ついて唾を飲みこむ、うっすら口髭が生えている)だののように、毒にも薬にもならないか、あるいは少々不快ですらある類のものばかりだろう(注13)。おそらく多くの読者にとってやはり不快であり、また噴飯物でもあるに違いないのは、何かにつけて比類のない家柄の高さを鼻にかけるシャルリュス男爵の、いかにも大貴族らしい傲岸不遜な態度を、一介の従僕の息子にすぎないモレルふぜいがいそいそと模倣したがることである(注14)。
しかし、不快程度で済めばまだよい。終章(第4章)においてふとした会話がきっかけで話者を苛むのは、アルベルチーヌの同性愛疑惑の再燃であり、彼が入りこめない不吉な相似性の楽園、すなわち男性ではなくて女性を愛する女性たちが住む「未知の大陸(terra incognita)」の啓示なのだ(注15)。ここに至って相似性の秩序は、話者の決定的な隔離と同時に完全に価値が逆転し、はっきりと否定的な性格を帯びる。いまや彼の目に恋人は海への連想を伴って映ることをやめ、代わりにかつて田舎で目撃した少女たち(ヴァントゥイユ嬢と、その親友であり、アルベルチーヌが知り合いだと言ったばかりの女性)の同性愛の場面をそっくりそのまま反復するかのようである。

私が恐れていたこと、ずっと前からアルベルチーヌについて漠然と疑っていたこと、私が本能で彼女の全存在から引き出していながら、自分の希望する方向に理屈をねじ曲げて少しずつ否定してきたこと、それはやはり本当だった! アルベルチーヌの背後に見えるのは、もはや山々のように連なる青い海の波ではなく、モンジューヴァンの部屋だった。その部屋で彼女は、聞きなれない快楽のうめきのようなもののまじる笑い声をもらしながら、ヴァントゥイユ嬢の腕のなかに倒れかかる。〔中略〕かつてアルベルチーヌがロズモンドの肩にあごをのせ、にっこり笑って相手を見つめながら首筋に口づけをしたときの優美な仕草に、私はヴァントゥイユ嬢のことを思い出しながらも、動作が同一の線を描くからといってそれをかならず同一の傾向に由来するものと解釈することには、ためらいを覚えたものだった。だがこの仕草をアルベルチーヌは、ほかならぬヴァントゥイユ嬢から学んだのかもしれないではないか?(注16)

「私」の推測と現実との相似性は、二人の少女(アルベルチーヌとヴァントゥイユ嬢)の見せた仕草の相似性に立脚しており、仮に正しければ、アルベルチーヌの性的な嗜好の相似的性格(同性愛)という、「私」にとっては恐るべき帰結をもたらすことになる。そこにさらなる追い打ちをかけるのは、幼児期に田舎の家の寝室で味わった、階下の母との一時的な離別の悲しみであり、また知人であるシャルル・スワンをかつて苦しめた、恋人(高級娼婦のオデット)の秘められた生活への狂おしいほどの関心である(注17)。新旧の状況間の相似性は、ここではただ苦しみを倍加することにしか役立たない。しかも、このような内心の激動を経験しても部屋の様子が従来どおりで(注18)、前日と同じように規則正しく日が昇ることはむしろ神経を逆撫でする苛立ちの種であるから、話者としては何が何でも己の境遇の悲劇的な変化を外界に投影せずにはいられない。環境が不断に更新するそれ自体との相似性は、内面と環境との相似性へと置換されるべきなのだ。そしてその結果は、「これは夜明けとともにかならず荘重にくり返される私の日々の悲しみであり、私の傷の流す血であった」(注19)というくだりからわかるように、苦悩の永続的な記念碑の建立である。
前巻ではあれほど感動的だったはずの母と亡き祖母との相似も(プルースト『ソドムとゴモラ』)、もはや意味が変質してしまい、「私」が祖母に迷惑をかけるという状況の反復を招いてしまう。寂しさのあまり隣室の祖母の来援を願い、それでいて彼女が勧める日の出の美には見向きもせず、虚弱なくせに反抗心から酒に手を出した「私」の不行跡は、嗚咽で母を呼び寄せ、朝日の背後でこれ見よがしに女性と戯れるアルベルチーヌの幻に恐れおののき、にもかかわらず母の優しさにつけこんで彼女が不賛成だったアルベルチーヌとの結婚を強硬に主張するという言動の中に、きれいに再現しているからである(注20)。

こうして、『ソドムとゴモラ』が前半に続き後半もまた「めくるめく相似性の世界」であることは、おおざっぱとはいえ証明できたように思う。ただ、その相似性が、話者(主人公)はもちろん、それ以外の登場人物たちをも、当事者であるかぎりにおいて裏切ってしまい、ついで形骸化して真正な相似性の空疎な戯画(いわば相似性の相似性)となり、最後には自他の苦悩の原因にして増幅要因という新たな性格を隠そうとしなくなる、という点に違いがあるのである。
むろん、この一連の質的な変容は、おおよそ『失われた時を求めて』の中間に位置する第四篇『ソドムとゴモラ』が、私が考えるように作品全体にとっての蝶番の役目を果たすべきであるとするなら、そのかぎりではきわめて合理的なことだ。つまり、本巻における相似性の諸相が、一方では先立つ第7巻からの奇怪な変質を遂げつつも、他方では次の第五篇『囚われの女』(第9、10巻)の内容―嫉妬の虜囚になった話者はパリでアルベルチーヌと監禁同然の同棲生活を送る中で、精神的な影響力を行使して彼女を自分と同じような教養の持主にしようとするが、結局囚われの身のアルベルチーヌは遠くから彼を魅了する憧れの対象だった頃の美を喪失し(注21)、その上執拗な追及に負けてうっかり過去の同性愛の行状を告白してしまい、話者を苦しめるようになる―を予告するものでもあるという事態の中には、単なる偶然以上のものがあると認めなくてはならないはずなのである。


(1)『失われた時を求めて 8 第四篇 ソドムとゴモラII』(鈴木道彦訳、集英社文庫、2006年)17-19頁。なお、アンフィトリオンはモリエールによる同名の喜劇の登場人物で、本物の下僕と偽の下僕を前にして混乱させられる。
(2)同書176-177頁。
(3)同書187-188頁。
(4)同書195頁。
(5)同書308頁。
(6)同書373頁。
(7)同書427頁。
(8)同書457頁。
(9)同書480-481頁。
(10)同書484-486頁。
(11)同書494頁。
(12)同書496-498頁。
(13)同書508-509頁。
(14)同書512-514頁。
(15)同書569頁。引用に際して、「未知の土地」から「未知の大陸」へと訳語を改めた。
(16)同書571-572頁。
(17)同書580頁。
(18)同書589-590頁。
(19)同書594-595頁。
(20)同書595-600頁。
(21)『失われた時を求めて 9 第五篇 囚われの女I』(鈴木道彦訳、集英社文庫、2007年)327-329頁。

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ルソー『言語起源論』 

ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-1778)の思想における「自然(nature)」の概念は、謎めいた多義性に包まれている。

例えば『人間不平等起源論』をひもとけば、そのことは誰の目にも明らかである。ルソーはまず、文明に毒される前の、不平等とは無縁な、自由で孤独な野生人の天真爛漫な生活への憧憬を高らかに歌い上げる。その真率な調べを耳にしてなお、しばしば彼に帰せられる、「自然に帰れ」という標語の正しさを信じずにいることは難しい。にもかかわらず、原注IXで彼自身がこの標語の趣旨をきっぱりと却下しているとおり(注1)、「自然状態(l'état de nature)」の平和はいつまでも続くわけではない。やがては文明が生じ、家族単位での定住が始まり、農業や冶金、それに富の私有などの革新的な発明が続き、ついには社会と政府の結成が避けがたいものとなる。国家が成長するにつれて、当初は貧富の差にすぎなかったものが治者と被治者の差異になり、ついでいよいよ強権的な色彩が増して主人と奴隷の関係になる。
事態をややこしくするのは、ルソーにとってはこの一連の過程もまた、これはこれで人間という種にとって「自然」なことであり、少なからず偶然の出来事が関与しているとはいえ、それでもなお世界の所与の諸条件から出てくる、事柄の本性(nature)にかなった過程であるらしい、ということである(注2)。だからといってこの過程が、少しも彼の目に好ましく映るようになるわけではない。そしてそのことが、『人間不平等起源論』を、『社会契約論』などの他の主著と比べてもひときわ悲観的な性格の書物にしている。
ゆえに、一度は退散したはずのホッブズ的な「自然状態」、普遍的な闘争の状態が(注4)、文明の発展の果てに舞い戻ってくる。それこそは、ただ一人の最強者の足元で臣民が全員平等に圧政に苦しむ、専制主義にほかならない。

ここが、不平等の最後の到達点であり、円環が閉じて、われわれが出発した点に接する極点であり、ここで、すべての個々人が、無であるからふたたび平等になり、臣民には支配者の意志以外にはもう法律がなく、支配者には自分の情念以外の規制がなく、善の観念と正義の原理がふたたび消えてしまうのである。ここで、すべてはもっとも強い者の法律のみに、したがって、われわれが出発点とした自然状態とは違った新たな自然状態にまた戻るのである。一方は純粋な形での自然状態であるのに、他方は極端な腐敗の結果である。とはいえ、この二つの状態のあいだにはほとんど相違がなく、政府の契約は専制主義によってはなはだしく破られているので、専制君主は、もっとも強い者であるかぎりにおいて支配者であり、追放できるようになるとすぐに、暴力に対して少しも抗議できないのである。サルタンを殺したりその地位から退けてしまう暴動は、前日にサルタンが臣民の生命や財産を自分の思い通りにしていた行為と同じように、法律的な行為である。ただ力のみが支え、ただ力のみが倒し、すべてのことはこのように自然の秩序に従って行なわれ、この短くてしばしば起こる革命が、どんなものであろうと、だれも他人の不正を嘆くことはできず、ただ自分自身の軽率さかその不幸を嘆くことができるだけなのである。(注3)

もちろん、ホッブズによる主権の理論そのものがどの程度強権的であるかは、別途慎重に考えて結論を下すべき件である(注5)。それよりもここで注意しておきたいのは、先に「自然状態」を人類史上最も平和な時期として思い描いたはずのルソーが、いままたその語を、ただし今度は専制主義を指すのに用いているという事実なのだ。この奇妙な混乱は、文明や社会に対する彼の不信感がどれほど根深いものであったかを察しようと努める者にとってしか解消できないものに思える。なにしろ、引用文の冒頭に「不平等の最後の到達点」とあるとおり、少なくともうわべはこの専制主義が文明の歩みの行き詰まりなのであり、それの打倒後に続くべき、より合理的な政体については、ただそれとなく暗示されるのみにとどまっているのである。人間の本性(nature)はあまりにも腐敗し、自らの故郷であるはずの自然(nature)の理を忘れ果ててしまったので、それにとってはもはや本来の自然状態の正反対、すなわち暴力沙汰による玉座の奪い合いが日常茶飯事と化し、引用文の末尾にあるとおり「自然の秩序」であるも同然なのだ。それどころか、たかだか数回「この短くてしばしば起こる革命」によって専制主義が打倒されたところで、一向に事態の根本的な打開にはつながらないおそれさえあるほどである。
ルソーの政治哲学の実践としてのフランス革命は、絶対王政を打倒したまではよかったが、有機的組織への分割を忌避する以上結局は破壊的な恐怖(テロル)を招来せざるをえなかったというヘーゲルの批判も(注6)、また抑圧者(専制君主)の抑圧というヘーゲル的な「否定の否定」の理屈を援用することで、『人間不平等起源論』からことさら来るべき社会変革への鼓舞を引き出そうとしたエンゲルスの生真面目さも(注7)、ルソー本人のこの妥協を知らぬ悲観論の前ではいささか精彩を欠く。

人間にとっては他の動物とは違い、自然の懐からの離脱こそがむしろ自然な運命であること、にもかかわらずそれは、少なくともルソーその人にとっては大いに悲しむべき、埋め合わせることのできない決定的な損失を意味すること、この二点は『言語起源論』、特にその第16章(「色彩と音響との偽の類似」)に至っていよいよ顕著である。
「言語は最初の社会的な制度であって、ただ自然のなかにある原因のみが、その形態のもとになっている」(注8)・「単純な音は、自然に喉から出てくる。口は多かれ少なかれ自然に開かれる」(注9)・「そういうわけで、自然のものである声と音、抑揚と諧調は、約束事である分節の助けを少しも必要としないから、人々は話す代わりに歌うだろう」(注10)・「私たちの探求においては、自然の命じるところを忠実に追っていくよう努力しよう」(注11)・「自然が気前のよい南の風土では、情熱から必要が生じてくるが、自然がけちくさい寒い地方では、必要から情熱が生じる」(注12)・「音の美しさは自然のものである。〔…〕けれどもその快さは、自分たちの親しんでいる旋律豊かな調子によって生気を与えられていなければ、少しも魅力のあるものとはならないだろうし、甘美な楽しみになることもないであろう。〔…〕私たちの協和音も、素朴な耳には雑音としか聞こえない。自然の釣合いが変質させられてしまえば、もはや自然の快さが実存しなくても驚くにはあたらない」(注13)…このように一見したところでは、自然というただ一つの源泉から、言語と音楽がともに滾々と流れ出てくるのであり、両者は人間の魂の情念のほとばしりそのものなのだ。その源泉に魅せられ、惹きつけられる一方のルソーには、文字(書き言葉)や和声の複雑な体系などは、話し言葉や旋律の素朴さと比べて、基本的には忌まわしく煩わしい不自然な夾雑物としか思えない。
しかし、問題の第16章を読むと、どうやら自然と人間の魂との関係という観点から、この構図を考え直し、もしかすると手直しする必要がありそうだという感じを抑えることができない。ここでルソーは、絵画よりも音楽のほうが優れた芸術であるという主張を裏づけようと試みている。そして彼によれば、その根拠はなんと、絵画のほうが音楽よりも自然に近いということなのである。おそらくそれは、第14章の末尾の和声批判―「和声だけでは、ただそれだけに依存しているような表現のばあいでも、不十分である。雷、小川のせせらぎ、風、嵐などは、たんなる和音だけではうまく表現できない。どんなにしてみても、騒音だけでは精神に何も訴えない。聞いてもらうためには、事物が話しかけねばならないし、いかなる写生においてもつねに、ある種の言説が自然の声を代補するのでなくてはならない」(注14)―が暗に予告しているように、我々人間が誰しも意味の世界の住民であらざるをえず、したがって自然の声にじかに接する機会を永久に奪われており、仮に復帰をもくろんだところで、適切な人為的工夫という新規の媒介を経ないかぎり実現の望みは薄いという事情のせいなのだ。
この一見逆説的な主張を、もう少し立ち入って検討してみよう。一体いかなる点で、音楽が絵画よりも優れており、また前者よりも後者のほうが自然的だというのか。まず、色彩の配置は空間的だが音の流れは時間的である。それゆえ、「色彩は生命のない存在の装いであり、どんな物質にも色彩がある。だが音は動きのあることを知らせ、声は感じやすい存在がいることを知らせる」と判断してよいことになる(注15)。また、色彩については唯物論的な扱いが許されるが、音はそうでない。なぜならば、第一に色彩を決定する光線の屈折角度とは違って、発音物体の振動数は正確に測定できないし、第二にある色は他の色に囲まれていてもはっきりそれと認識することができるが、ある音の性格はその他の音と一緒に組織化されないかぎり決まらないからである。さらに、日の光さえあれば目は労せずして色彩を知覚できるのに対して、和声が耳に届くためには、誰か生きた人間がいて実際に演奏しているという条件が必須である(和声に対する評価が否定から肯定へと転じたことは、たぶん、音楽が絵画に対していかほど決定的な勝利を収めなくてはならないかを間接的に教えている)。

以上のことから、絵画のほうが自然に近く、音楽はより人間の技術にもとづいていることがわかる。また、音楽は人間を人間に近づけ、同類がいるという何らかの思いをつねにいだかせるので、それだけに音楽のほうが強く人々の関心をひくということができる。絵画はしばしば死んでいるように生気がなく見える。見る人を砂漠の奥まで連れていくかのようである。けれども音声記号が耳に達すると、それは自分に似た存在がいることを告げてくれる。その記号は、いわば魂を表わす器官なのだ。聞き手に孤独を描いてみせても、その声があなたは独りではないという。小鳥は鳴くが、人間だけが歌をうたう。歌を聞き、あるいは交響楽を聞くと、だれでもすぐに、ああここには感じることのできる者がもう一人いると思わずにはいられないのである。(注16)

要するに、音楽の価値は―まるで死んでいるように見えることが稀でない絵画という藝術の、「砂漠」を思わせる寂寥とは違って―他人の現前の確実な証拠(記号)であるという点に求めなくてはならない。その点は、デリダも指摘しているとおりである(注17)。自然から遠く離れてしまった人類にとっては、同類の魂のほうが風景よりも親しみが持てるのであり、その意味で自然な相手なのだ。しかし、抽象絵画を知らない時代の作曲家であるルソーの筆は、ここからさらなる逆説へと進んでゆく。

ふつうなら聞くことのできないものを描きだすことができるということも、音楽家の大いなる特権の一つである。画家には、見ることのできないものは表現できない。ただ動きによってのみ働きかける芸術のいちばん不思議なところは、休息のイメージをさえもつくりだせることにある。眠り、夜の静けさ、孤独、そして沈黙でさえも、音楽の画面のなかに入ってくる。たとえば単調で変化にとぼしい朗読を聞いていると眠りに落ちこみ、その朗読が終わった瞬間、目が覚めるように、ざわめきが沈黙の効果を生み、沈黙がざわめきの効果を生みだすことは、よく知られている。(注18)

このようなくだりを読むと、「どの程度まで人間が生まれつき怠惰であるか、想像もつかないほどである」云々(注19)というとある注の中の文も、滑稽な誇張の面白味を失って、なにやら鬼気迫る色合いさえ帯びてくるようだ。無為とは、生きた人間の内外をかわるがわる腐蝕する抗いがたい解体作用の一例なのだろうか。
人間の沈黙の表現であらざるをえないことが絵画の欠点であったのに対して、音楽の長所は自然の沈黙をさえ表現できることである。もちろん、一方の欠点と他方の長所を同列に並べて論じるのは、本当はおかしなことだろう。けれども、その不当な操作を誘発するかのように、ルソーがことさら「描きだす(peindre)」や「音楽の画面(les tableaux de la musique)」等の表現を選んでいることも確かなのだ。音楽の甚だしい専横は、ついには絵画性の横領に至る。そのような書きぶりは、次の引用における音楽のさらなる長所の列挙、なかんずく「砂漠(désert)」への再度の言及によって補強される。

だが音楽は、さらに深く私たちの心に、他の感覚がひき起こすのと同種の情感を、聴覚を通じてよびさます。その関連は、心に強い印象が与えられないと感じられない。絵画にはその強さがないので、音楽が絵画からひきだすような描写を、音楽からひきだして表現することはできないわけだ。たとえ自然の全体が眠っているようなときでも、それを見つめている人は眠っておらず、そして音楽家の技術は、対象の感覚しがたいイメージに、その対象の現前が見ている者の心にひき起こす動きのイメージを置き換えるところにある。音楽家は、海を波立たせ、火災の炎を燃えあがらせ、小川の水を流れさせ、雨を降らせ、激流を溢れかえらせるだけではない。荒れはてた砂漠の恐ろしさを描きだし、地下の牢獄の壁の陰惨な感じを深め、嵐をしずめ、大気を静かな澄みきったものにし、そしてオーケストラで、小さな森にすがすがしい風を送り、よみがえらせるであろう。むろん音楽家はそういったことを直接表現するのではない。そのような状景を見れば感ずるにちがいない情感を、魂のなかによびさますのである。(注20)

自然の眠りと音楽家の不眠との対照は、すでに検討した、絵画を通じて自然そのものと交際することよりも音楽を通じて同類と交際することのほうが人間にとっては自然なのだ、という命題、およびその理由が、絵画は「しばしば死んでいるように生気がなく見える」(そしてそれゆえ、「見る人を砂漠の奥まで連れていくかのようである」)というものであったことを思い出すならば、いっそのこと自然の死と、なすすべもなくそれを看取るしかない人間たちとの対照とすら形容したくなる。末尾近くでせっかく喚起される再生の予感(澄みきった大気とすがすがしい風)も、音楽家が自由にできるのは状景そのものではなくて、あくまでも情感上の等価物にすぎないことの確認とともに、かえってこの対照性を深めるばかりである。

自然は人間の内部ですでに息絶えており、人間と人間を結びつける藝術(技術)の絆の実態は、人間たちがこぞって自然のための喪に服することにほかならず、まさしくその点においてことのほか人間的と呼ぶに値すること、これが『言語起源論』から読みとれる両者の関係である。ルソーの自然讃美らしきものの正体は、自然の死を嘆く哀悼なのである。


(1)ルソー『ルソー選集 6』(原好男・竹内成明訳、白水社、2004年第3刷)110頁。
(2)同書26-27、59-60、70頁。
(3)同書93-94頁。
(4)同書49-51頁。
(5)特に『リヴァイアサン』の第二部、第20章「父権的および専制的支配について」と、第21章「臣民の自由について」を参照する必要があるはずである。邦訳では、ホッブズ『リヴァイアサン(二)』(水田洋訳、岩波文庫、2004年第22刷)70-105頁に相当する。
(6)ヘーゲル『精神の現象学 下巻』(金子武蔵訳、岩波書店、2002年)897-907頁。革命時のテロルをルソーの影響として把握する見方は、他には例えば『法の哲学II』(藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシックス、2001年)219-220頁からもうかがえる。もっとも、ともすれば修辞の過剰な感傷へと流れがちなルソーの著作のある種の水っぽさを考慮しても、ヘーゲルの『哲学史 下巻の三』(藤田健治訳、岩波書店、1967年)でのルソーの扱いは短すぎて少々物足りない(46-48頁)。なお、『社会契約論』の「一般意志」を恣意と同一視するヘーゲルの曲解に対する批判の例としては、フリードリッヒ・ミュラー『疎外と国家』(清水正徳・山本道雄訳、福村出版、1974年)の、特に第12章と第13章(62-77頁)、およびブルース・ハドック「ヘーゲルの社会契約論批判」(山田正行訳)、D.バウチャー/P.ケリー編『社会契約論の系譜』(飯島昇蔵・佐藤正志訳者代表、ナカニシヤ出版、1997年)198-219頁(第8章)がある。
(7)エンゲルス『反デューリング論 上巻』(粟田賢三訳、岩波文庫、1967年)232-234頁。おそらくエンゲルスのこの著作へのごく簡潔な示唆が、ドゥルーズの論文「カフカ、セリーヌ、ポンジュの先駆者、ジャン=ジャック・ルソー」(宇野邦一訳)、『無人島 1953-1968』(前田英樹監修、河出書房新社、2003年)108頁に存在する。
(8)ルソー『ルソー選集 6』(前掲書)137頁。
(9)同書146頁。
(10)同書147頁。
(11)同書163頁。
(12)同書180頁。この一文は、ともにやむにやまれぬ意思疎通のための媒体であるとはいえ、南国の言語と北国の言語では起源が異なることに注意を促している。ルソーによれば、前者は男女間の恋愛の中から発達してきたのに対して、後者は実用的な労働の場面に由来しているのである。
(13)同書190頁。ただし引用に際して、原文(Jean-Jacques Rousseau, Essai sur l'origine des langues, Édition critique, avertissement et notes par Charles Porset, Paris, A. G. Nizet, 1976, p.157: « Quand les proportions naturelles sont altérées, il n'est pas étonant que le plaisir naturel n'existe plus »)を参照した上で、訳文中の「自然の均斉がこわれたところに、自然の快さが存在しなくても驚くにあたらないだろう」を、「自然の釣合いが変質させられてしまえば、もはや自然の快さが実存しなくても驚くにはあたらない」へと改めた。
(14)同書192頁。ただし、訳文中の「すべて写生においては、ある種の語りかけで、自然の声をつねに補っておかなければならないである」(最後の「ならないである」は「ならないのである」の誤植だろう)を、「いかなる写生においてもつねに、ある種の言説が自然の声を代補するのでなくてはならない」に改めた。原文(Jean-Jacques Rousseau, Essai sur l'origine des langues, op. cit., p.161)は« il faut toujours dans toute imitation qu'une espéce de discours supplée à la voix de la nature »である。
(15)同書196頁。
(16)同書197-198頁。
(17)ジャック・デリダ『根源の彼方に―グラマトロジーについて(下)』(足立和浩訳、現代思潮新社、2002年第11刷)108-109頁。
(18)ルソー『ルソー選集 6』(前掲書)198頁。ただし原文(Jean-Jacques Rousseau, Essai sur l'origine des langues, op. cit., p.175)を参照して、「大いなる」(grands)を補い、また「音楽の表現」を「音楽の画面」(les tableaux de la musique)に改めた。
(19)同書171頁、原注(1)。「生まれつき」の原語は« naturellement »(「自然と」)である(Cf. Jean-Jacques Rousseau, Essai sur l'origine des langues, op. cit., p.109, note[1])。
(20)同書198-199頁。ただし、訳文中の「溢れかえさせる」を「溢れかえらせる」に改めた。また、「対象の感覚しがたいイメージに、その対象の現前が見ている者の心にひき起こす動きのイメージを置き換える」も、「対象の眠ったようなイメージを、その光景を見ている者の心にひき起こされた動きのイメージにおきかえ、表現する」という訳を、私(引用者)の判断で改めたものであり、原文(Jean-Jacques Rousseau, Essai sur l'origine des langues, op. cit., p.177)は« substitüer à l'image insensible de l'objet celle des mouvemens que sa présence excite dans le cœur du contemplateur »である(この際「に」と「を」を入れ替えたのはフランス語の構文を尊重したつもりなのだが、音楽家が「対象の感覚しがたいイメージ」の代わりに「動きのイメージ」を創造する、という関係がややわかりにくくなった気もする。仏文和訳の宿題として、今後とも考えていきたい)。

(付記)注(13)の« étonant »(« étonnant »でない)、注(14)の« espéce »(« espèce »でない)、注(20)の« substitüer »(« substituer »でない)や« mouvemens »(« mouvements »でない)と、引用したフランス語原文の中に若干現代の表記とは異なるものが混じっているが、いずれも原著からの忠実な転写である。

category: ルソー

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日日日『のばらセックス』10 

『のばらセックス』におけるアレゴリー、という主題で、少し連載じみたものを書いてみようと思う。
たぶん全部で四回くらいの見当で、主にベンヤミンに依拠しつつ、折に触れてドゥルーズの文体論(『プルーストと記号』)やフロイトの欲動理論にもご登場願う予定でございます。

第一回ということで、まずは書き出しの検討から始めたい。

あたしには健康で文化的な最低限の生活を送る権利がある。職業選択や結婚や信仰の自由も与えられている。だけど、あたしの人生はあたしのものじゃない。ファック。ファック。ファック。(注1)

最初の二つの文が、日本国憲法への暗示を含んでいることは一見して明らかである。具体的には、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」、いわゆる生存権は第25条が保障しており、また「職業選択の自由」については第22条に規定がある。さらに「結婚や信仰の自由」についても、このとおりの表現は日本国憲法の中に見当たらないとはいえ、第24条や第20条の趣旨から難なく導き出すことが可能であろう。

ところで、以上のごとき諸権利の主語、すなわち人権の享有主体は、一体誰なのか。
いましがた言及した条文がいずれも日本国憲法の第3章に属し、かつ章全体の題名が「国民の権利及び義務」であることにかんがみれば、その答が「国民」であることは間違いない。事実、第25条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」となっている。要するに、この書き出しをそのまま受け容れた場合、話者である坂本おちば様は一人の日本国民である、ということを何はさておき認める必要があるはずだ。

しかしこの前提は、読者が「だけど、あたしの人生はあたしのものじゃない」という箇所にさしかかるや否やとたんに怪しくなってくる。並みの日本国民が、それほど徹底的な不自由を法的な次元で甘受しなくてはならない境遇にあるとは到底思えないからだ。
いや、少なくとも一人の例外がいる。ほかならぬ日本国憲法によって、自分のものではありえない人生を歩むことを定められた人物が、少なくとも一人存在する。開巻早々に第1条が名指ししているその例外的な人物とは、もちろん天皇陛下のことである。曰く、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」…さて、この条文を読むかぎり、生身の人間でありながら同時に一国の「象徴」たる天皇陛下を、日本国民の一員に数え入れてよいとはなかなか思えない。もっとも学説上は、天皇・皇族も日本国籍を有するれっきとした日本国民であり、ゆえに日本国憲法が定める人権の享有主体であると考えなくてはならないらしいが、それでも「皇位の世襲と職務の特殊性から必要最小限度の特例が認められる」由であり、したがって結局はやはり、やんごとなき方々の人権の享有には一定の制限が設けられるのである(注2)。個人的な関心の赴くままに生物学を研究することはできてもそのために公務をおろそかにするわけにはいかないとか、立場上ローマ教皇と会談することはできてもキリスト教に入信するわけにはいかないとか、実例はいくらでも思いつく。ご生誕の瞬間からお隠れになるまで一生ずっとこの調子では窮屈でお気の毒だと感じるか、伝統とはおおむねこうしたものだと割り切ってむしろ敬愛の念を覚えるか、そのあたりは人それぞれ意見があろうが、とにかく、御所の内で無制限の職業選択の自由や信教の自由がまかりとおれば天皇家の根幹が瓦解してしまうのは目に見えている。
この種の不自由さが特に顕在化するのは、何かの拍子に従来どおりの皇位継承が期待しにくくなった場合であろう。日本国憲法の第2条によれば皇位は世襲であり、皇室典範の規定に則ることになっている。そして皇室典範はその第1条で、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定めている。したがって当然ながら、「皇統に属する男系の男子」が一人もいなくなってしまえば、その時点で皇室の存続は不可能になる。一般の家庭であっても、子宝に恵まれるかどうかの問題はしばしば小さからぬ関心を惹起するものであるが、こと皇位継承という観点から考えるかぎり、天皇家においては夫婦間に男子が生まれた場合とそうでない場合との間に、段違いの大きな差があることは否めない。
ヘーゲル(『法の哲学』)によれば、君主とは国家における主体性、すなわち意志の自己規定の原理の究極的な体現者であらねばならず、したがって理想的には「いっさいの他の内容を度外視したこの個人として存在し、そしてこの個人は、直接的自然的な仕方で、すなわち自然的出生によって、君主の位に即(つ)くように定められている」というのが望ましい君主のあり方らしい(注3)。ヘーゲル的な立憲君主は、諸々の個人的特性(身長、体重、容姿、知能、食べ物の好き嫌い等々)を問題にされてはならず、ただ血統によってのみ「形式的決定を行なう頂点」という立場を占め、そこから「われ意志す」というたった一言を法律に追加する(注4)。天皇の地位が世襲であり、あくまで生物的な原則を守っていることは、ヘーゲルが哲学的に正しいと考えた君主像に完璧に合致する。

さて、ようやくこのあたりから本題に入る。以前の記事(ブルクハルト「芸術作品におけるアレゴリー」)でも述べたように、ベンヤミンによればアレゴリー(寓意)は、シンボルつまり象徴との対比において、記号と意味の乖離という特徴によって定義することができるようだ。
だとすれば、『のばらセックス』の冒頭で話者として現れる主人公のおちば様が、一方では日本国憲法の文言をほとんど逐語的になぞりつつ、自らが権利や自由の主体としての日本国民の一人であることを確認しておきながら、他方ではじつに二千年間も途絶えていた女性の再来(しかも、実際には本人が信じていたように二人目ではなくて一人目)であり、その比類なき貴重さゆえに、国家の手で性別を隠したまま生活を管理されている―「あたしは国の大事な資産で、厳重に保護をされている。動物園の生き物みたいに。誰もいない檻のなか……」(注5)―という事情を考慮するとき、表面上の自由から不自由な内実へと読者を導くこの距離には、それ自体としてアレゴリー的な調子があると考えてもよいのではないか。そして、生物的な稀少性ゆえに完全には日本国民の一員たりえない人間として真っ先に思い浮かぶのは、上述のとおり天皇・皇族にほかならない。
もちろん、仮に両者間に目立つ差異が皆無であるか、あるいは全く不規則な差異しかなかったとすれば、このような疑いの生じる余地はない。ともに国家が保護すべき貴重な存在であるといっても、片や天皇が代々男系で続いてきた由緒正しい血統の保持者として頻繁に公的な式典に姿を見せるのとは対照的に、片やおちば様は「何百万分の一っていう遺伝子のいたずら」によって二千年の断絶を飛び越えて出現した、最重要の国家機密としての「女性という怪異」(注6)なのであり、また前者が実質的な権力こそ有さないもののいまなお形式的には大臣を任命する立場にあり、その権威の維持には次代を担う男子の誕生が欠かせないのとは対照的に、後者はII章に入ると絶大な権力の持主である義父の「あいちゃん」こと坂本逢(じつは偽物らしいのだが)の館に監禁され、新たな女子の懐妊を求められて来る日も来る日ももりもり強姦される。
この複数の対照性の確認によって、生物学的な要因ゆえに残りの日本国民(全員が男性!)とは決定的に異なる扱いを受けなくてはならず(注7)、さりとて天皇・皇族そのものでもない(例えば、「坂本」という苗字がある)おちば様のどっちつかずの存在論的な身分が、一応は前者に属しつつしかも他方では後者への参照を促すような性格をも併せ持ち、なおかつ双方を隔てる溝を消去しないというアレゴリー(寓意)的な関係性は、弱まるどころかむしろ強化される。彼女がいわば天皇という特異な存在のアレゴリー(寓意)なのではないかという思いを抱かずにいることは、このようにいっそう具体的な比較の観点からも難しくなってくるのだ。ついでながら日日日の作品からうかがえる天皇家への暗示については、以前の記事でも触れたことがある(日日日『ささみさん@がんばらない7』)。
そしてその判断は、すでに引用した日本国憲法の第1条によれば、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるという事情を思い合わせるならいよいよ不可避である。なぜならば、少なくとも、象徴(シンボル)を偏重してきた伝統的な美学の姿勢に一石を投じようとするベンヤミンの考えでは、寓意(アレゴリー)は象徴の不遇な隣人として日陰の境遇に甘んじてきたがゆえに、まずは両者の概括的な対比を通じて把握されるべき対象だからである。

シンボルにおいては、没落が美化されることによって、変容した自然の顔貌が救済の光のなかでつかのま現われるのに対し、アレゴリーにおいては、歴史の死相が硬直した原風景として考察者の目のまえに広がる。歴史は、最初からそこにつきまとっている時宜を得ないこと、痛ましいこと、失敗したことのすべてが、一つの顔貌―いや、一つの髑髏となってはっきり現われる。そして、たしかにそのような髑髏には、表現の「シンボル」的な自由がいっさい欠けており、形態の古典的調和や人間らしさもことごとく欠けている―しかし、人間存在そのものの自然本性ばかりか一個人の伝記上の歴史的なことまでもが、このようにもっとも深く自然の掌中にとらわれた姿で、謎の問いかけとなって意味深く現れてくるのである。これがアレゴリー的な見方の核心、すなわち、歴史を世界の受苦の歴史として見るバロック的、世俗的な解釈の核心にほかならない。(注8)

おそらく、この引用文中で「シンボル」(象徴)に帰せられている「自由」とは、表現の闊達さ、流麗さにほかならず、それ以外の表現法がことごとく無骨に見えてしまうような唯一無二の的確さを指すのであろう(ゆえにそれは、天皇陛下がまさにそうであるように、生身の個人そのものが「象徴」の役目を果たす場合に経験せざるをえない不自由さと矛盾しないし、それどころか別の生き方の可能性をことごとく締め出すという点において、この不自由さの原因でさえある)。ここではその他の論点を逐一点検することはしないでおくが、ともかく、ベンヤミンにとってアレゴリー(寓意)がシンボル(象徴)の対極にある美学的概念であることは疑問の余地がない。両者の対照、すなわちアレゴリー(寓意)の場合だと「歴史は、最初からそこにつきまとっている時宜を得ないこと、痛ましいこと、失敗したことのすべてが、一つの顔貌―いや、一つの髑髏となってはっきり現われる」という事態は(注9)、いっそう整理すれば、以下のごとき原理から派生してくるものにほかなるまい。

いかなる人物、いかなる事物、いかなる関係も、すべて任意のほかのことを意味することが可能である。この可能性は、世俗の世界に対しては破壊的ながらも正当な判決を下す。つまり世俗の世界とは、細部などさほど厳密に問題とはならない世界だとされるのである。しかし、とりわけアレゴリー的文典解釈が念頭にある者にとっては、まったく誤認しようもなくあきらかになることがある。つまり、こういった意味を指し示す働きのあるどの小道具も、すべてまさにほかのことを指示することによって壮大な力を獲得するのであって、その力によって小道具は、世俗的な事物とは比較しえない姿で現われ、一段と高い次元に押しあげられ、それどころか神聖視されることもありうるのである。したがって世俗の世界は、アレゴリー的な考察で位置が高められると同時に、価値が下げられることになる。(注10)

この一連の考察はそのまま、『のばらセックス』の冒頭を飾る、おちば様の「あたしの人生はあたしのものじゃない。ファック。ファック。ファック」という憤りを理解するための決定的な鍵でありうる。世界にただ一人の女性として、あるときは過剰に思い入れのこもった崇拝や畏怖の念を寄せられて当惑し、またあるときは権威の独占を狙い、そのためには利用する相手の意向を無視した非道な手段を執ることも辞さない輩に人格を蹂躙されるおちば様は、いずれにせよつねに他者の期待によって翻弄される中で、彼女自身が実感する己の価値以上に高い(高すぎて迷惑な)位置に、分不相応にも縛りつけられてしまうからだ。さらにいましがた「世界にただ一人の女性」と書いたが、公にこの肩書をほしいままにしているのは彼女の母親であるはずの(しかし、実際には存在したためしのない)坂本のばら様であるから、この表現は不正確である。ゆえにおちば様を評価する男たちはみな、のばら様同様に彼女もまた「女性」であるというただ一点のみに着目しているか、もしくはii章でのように、変装した彼女ののばら様と寸分たがわぬ外見に惹かれているにすぎない(注11)。まさに引用文中にあるとおり、アレゴリー(寓意)表現においてはいかなる個々の人物・事物・関係も「ほかのことを意味すること」によって、「位置が高められると同時に、価値が下げられることになる」というわけである。この落差が、ことあるごとに彼女を悩ませ、ベンヤミンの語彙を借りるなら「悲哀(トラウアー)」をもたらすことで彼女を「沈思家(グリュープラー)」にする。「あいちゃん」の館でおちば様が口にする「何で、あたしばっかり……」という修辞疑問文型の泣き言は(注12)、「すでに大問題の解答を手にしながら、次いでその答えを失念してしまったような人物」(注13)という、ベンヤミン的な沈思家の定義と一緒に読まなくてはならないのである。
このように考えてくれば、『のばらセックス』という作品のアレゴリー(寓意)的な性格は、とりあえず主人公については立証できたように思う。次からは、小説の内容のさらに立ち入った検討を進めたい。


(1)日日日『のばらセックス』(講談社、2011年)8頁。なお、原文では「あたしのもの」に傍点が付してある。
(2)芦部信喜『憲法 第四版』(岩波書店、2007年第2刷)86-87頁。
(3)ヘーゲル『法の哲学II』(藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシックス、2001年)320頁。なお、この引用ではやむなく太字に改めたが、原文では最初の「この」と「出生」の二語に傍点が付してある。
(4)同書322-323頁。
(5)日日日『のばらセックス』(前掲書)17頁。
(6)同書261、346頁。
(7)同書161-162頁。「女ってのがいちばん生物的なもんなのだ!」という台詞が出てくる。
(8)ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(岡部仁訳、講談社文芸文庫、2001年)262-263頁。
(9)ちなみに、『のばらセックス』(前掲書)122頁では、カーニバルのための仮装を準備中のおちば様が「頭蓋骨のかぶりもの」を装着している。
(10)ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(前掲書)276-277頁。
(11)日日日『のばらセックス』(前掲書)282-290頁。
(12)日日日『のばらセックス』(前掲書)212頁。
(13)ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論 第2巻』(今村仁司・三島憲一訳、岩波現代文庫、2003年第2刷)427頁。

category: 『のばらセックス』

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四ツ星レストランおかん『むかしんちといつつの短編』 

今回は、同人誌を取り上げてみたい。
東方Project(同人シューティングゲーム)の二次創作の集いである、第9回博麗神社例大祭(2012年5月27日)でサークル「四ツ星レストランおかん」が発行した、『むかしんちといつつの短編』である。
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サークルの作品としては通算47冊め、東方ものの総集編としては3冊めにあたるようで、一見した感じではあまり量産のきく絵柄とは思えないのに、なんとも旺盛な創作意欲には恐れ入るほかない。表題どおり、「むかしんち」をはじめ6つの既刊作品が収録されていて、とても読み応えがある。
どれも面白いのだが、ここでは「あめのひ」と「やくもしんぶん」の二篇を紹介したい。

第2作「あめのひ」は、急な雨のために外で遊べなくなった橙がてるてる坊主を作っていると、藍さまに髪が伸びているのを注意されてしぶしぶ散髪してもらうというお話で、橙の腕白ぶりが実にほほえましい。
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「どさどさ」「ちょきちょき」「くしゃくしゃ」「きゅっ☆」
(橙)「『てるてるぼうず』/っていうんだよ!!」「これを/つるすとあめが/やむんだって!!」(右の図より)
(藍)「橙、/てるてる坊主かい」「それにしても/ずいぶんたくさん/作ったね」(左の図より)

ここで気になるのは、なぜ散髪なのか、ということだろう。単に切る必要があったから、雨のせいで屋内に閉じ込められているから、とのみ説明して済ませるのは、いくらもっともらしくてもいささか物足りない。というのも、それはあくまで登場人物たちの側の都合であって、作品の外にいる作者や読者の立場から見れば、何か別の理由があってもよいはずだからだ。考えうる候補としては、一体どんなものがありそうだろうか。KC460036_convert_20120707165632.jpg
「ほらごらん、/こんなに伸びてる/じゃないの」(右頁、藍さま)
「とこやさん/ちくちくするから/きらい....」(左頁、橙)

私は、この見開き頁で散髪を受けている橙の恰好に注目すべきだと思う。そう、床屋に行って理容椅子に座ると否応なしにかぶせられる、あの袖なしのポンチョというかマントである(「散髪マント」もしくは「散髪ケープ」という名称らしい)。無地の、足元まで届く末広がりの布きれで全身をすっぽりと覆い尽くされ、首根っこを結び目で絞めつけられる橙の姿は、てるてる坊主そっくりではないか。しかもこのときの「きゅっ☆」という擬態語は、先に掲げた図(二つ並んだうちの右側の図)を見返せば明らかなように、てるてる坊主の首根っこで結んだ紐を橙が引っ張るときの擬態語と全く同じだ。この一致が単なる偶然でないことは、やはり橙が布をはさみで切っていたときの「ちょきちょき」という擬音語が、彼女の髪を藍さまがはさみで切り落とす音として再生することからわかる(橙の作ったてるてる坊主は詰め物こそ新聞紙だが、外側は断定が難しいもののどうやら白布のように見える。仮に完全に紙製だった場合、「髪」は同音異義語だから頭部に限って語呂合わせの面白さが出てくる可能性はあるが、大まかな形態の類似が基盤である以上、やはり布製と考えておくほうが、頭部以外の全身に広がる材質の共通性を確保できるので無難であろう)。
そしてもちろん、散髪が終われば下の図のとおり―さすがに丸坊主とまではいかないが―、確実にやる前よりも橙の髪は短くなるのである。しかも藍さまによれば、ふだんの散髪よりも今回のほうが一段と短い(ということは坊主頭に近い)仕上げらしい。
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「いつもよりも/短めに切ってみたけど...」「ほらごらん、/さっぱりして 前より/かわいくなったじゃない」

要するに、この作品で橙が髪を切られることには、彼女が作ったてるてる坊主に外見を似せてもらうという意味があるのではないか。当事者たちの意識が届く範囲を超えるこんな大仰な事情を理由として持ち出すのは、因果関係の説明としては少々型破りかもしれない。だが、例えばジャン‐ピエール・リシャール的な「テーマ批評」を参照するまでもなく、このように先立つ場面を手本として新たに同型の場面が生じてきては、部分と部分の間に共鳴を形成していくのは、藝術作品の自律的な展開を貫く論理のあり方としてはむしろ自然だろう。
それがはっきりするのは、雨に濡れたせいで落ちかけた藍さまの式を紫さまが直そうとする、結末の場面である。散髪を嫌がる橙と同様、藍さまが「ちくちくするから」いやだと言って駄々をこねると、橙をたしなめたときの「そんな事言ってるとみんなに笑われちゃうよ」という台詞をそっくりそのまま彼女から投げ返されてしまう(もっとも橙が口にするときはひらがなだけで、漢字が混じっていないという細かい違いはある)。この、発言者の交替を伴う同一の台詞の忠実な反復からは、散髪時に見られた「橙:八雲藍」の関係が「八雲藍:八雲紫」の関係に等しいことが、如実にうかがえるのだ。橙の場合はてるてる坊主を作るという能動的な行為が、髪を切られるという不本意な受動的経験に通じているように、藍さまの場合は橙の髪を切るという能動的な行為が、式を貼り直されるという不本意な受動的経験に通じている。加算から減算に転じるか、減算から加算に転じるかという対照的な違いこそ認められるものの、いずれの場合にあっても、行為そのものが行為者の身の上にはね返ってきて、いわば作品が作者を呑み込んでしまう点は同じである。つまりは作品が、作者の境遇もしくは運命を予告していたことになるのだ。

ある意味でこれとよく似たことが、第5作「やくもしんぶん」でも成り立つ。
八雲一家に「文々。新聞」の契約延長を迫り、必死で藍さまの説得に努める鴉天狗の射命丸文をよそに、橙が黙々と何か書いている。
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(文)「という訳で/いかがでしょう/引き続き/契約を...」
(藍)「それなんだけど/ちょっと迷って/いるんだよ」「貴女の新聞、/内容が少々ゴシップに/寄りすぎな気がして/今後どうしようかと...」
(文)「な、な、/何を仰いますか」
「皆様が知りたがっている/情報を、より早く/正確にお伝えするのが/当新聞の...」
(藍)「私はもっと/生活に即した情報が/載っていると/嬉しいのです」
(文)「そこを何とか/半年だけでも...!/汚れのよく落ちる/天狗の洗剤をお付け/しますから...!!」
(字が細かくて見づらいと思うので、上半分を占める大ゴマの中の台詞を書き出してみました)

…やがて思わぬ伏兵が射命丸を脅かす。橙は射命丸の真似をして、自分でも手書きの新聞を作っていたのだ。
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「だいして/『やくもしんぶん』/です!!」
「ありのままの/らんさまのすごいところ/いっぱいかいたよ!」

いかにも子供が書いたという印象の稚拙な手作り新聞で、受け取った藍さまも苦笑い気味だ。親子(親子同然の関係にある両名)の仲睦まじさを確認する役には立つとしても、客観的な情報源としての価値はどう考えても高くない。
ところが「やくもしんぶん」を読んだ藍さまは、親ばかが発動したのか、にわかに射命丸の嘆願に対してつれない態度をとりはじめる。
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(文)「ときに/お二人さん...」「私の新聞の/話の方は....」
(藍)「ん?」「んー...」
 「そうだねー」「悪いけど/やっぱり...」
 「『やくもしんぶん』もあるし、/『文々。新聞』は、しばらく/止(と)めてもらうことにするよ」
(文)「えぇえー!!」

先に分析した「あめのひ」では、行為そのものが行為者の身の上にはね返り、作品が作者を呑み込んでしまうという構図をうかがうことができたわけだが、今度もそれに劣らず深刻な事態が生じている。「やくもしんぶん」が「文々。新聞」を、贋物が本物を駆逐してしまうのだ。相異は、前者が能動と受動の反転をめぐる力関係の劇だったのに対して、後者は真偽の次元で起きる逆転の劇であるということだろう。もっとも、驚愕する射命丸が手に持っている洗剤の箱に、「天狗も驚く/白さと香りの!/天狗/洗濯用洗剤」と書いてあることからすれば、またしても、作品が作者の境遇ないし運命そのものの予言と化していることは明らかだ(この洗剤は彼女自身ではないにしても、いずれ天狗族の誰かの手で作られた製品であるに違いない)。そもそも前述のとおり、橙が新聞を作ろうと思い立ったこと自体が、射命丸の真似なのである。してみれば、本作(「やくもしんぶん」)の筋書は先の作品(「あめのひ」)の構図をさらに深化させたところに成り立つものであって、必ずしも両者は対等な関係にないのかもしれない(ただし実際の執筆順序は収録順とは逆で、「やくもしんぶん」が先、「あめのひ」が後である)。
いずれにせよ双方の作品に共通する原理を求めるとすれば、それはたぶん、何らかの形で虚構が現実に対して優位に立ち、現実を侵蝕するという点、あるいはむしろ自らの色で現実を染め上げるという点に落ち着くのではなかろうか。
もとより私は以上のような見方が絶対に正しいと主張するつもりはないし、また仮に正しいとしても作者の意図的な計算が働いているのかどうかも、サークル「四ツ星レストランおかん」の作風としてこれが通例なのかどうかも判定できる立場にない。ただ、この『むかしんちといつつの短編』が、虚構の権利の称揚として、まことに水際立った模範的な一例たりえていると思えたので、やむにやまれぬ個人的な讃嘆の念に押されて、忘れないうちにそのことを書き留めておきたかったのである。

(付記)引用した画像は全て手元の携帯電話で私が撮影したものです。少々見苦しいかもしれませんが、なにとぞご容赦ください。

category: 同人誌

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