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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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志賀直哉『暗夜行路』 

『暗夜行路』の結末近く(後篇第四の十九)、鳥取県は大山(だいせん)の山腹から見た明け方の光景について。

筋書は丁寧に紹介するまでもないが、一応おさらいしておこう。
志賀の自画像と思しき作家の青年、時任謙作(ときとう・けんさく)はかねがね「誰からも本統に愛されていると云う信念を持てない」(注1)のを気に病んでおり、遠縁である愛子(祖父母の養子の娘)への求婚が実らなかった件を不可解に感じながらも、祖父の妾だったお栄への恋を募らせてゆく。しかし、自分が実は父の子でなく、祖父が母に生ませた子なのだと兄に教えられて、またもあきらめることを余儀なくされる。気を取り直して京都に滞在中、ふと見染めた直子という女性との縁談はうまくいき、幸福な家庭への意欲を新たにする謙作だったが、生まれて間もない長男が病死するに及んでその期待はもろくも崩れ去り、ついで留守中に妻が彼女の従兄と通じた事実を知って苦悩する。こうして「人と人と人との関係に疲れ切って了(しま)った」(注2)謙作は心機一転を求めて大山の霊場を訪ね、山中で自然界の清澄なたたずまいに融合することでとうとう精神的な再生を果たす。
この、大詰めの決定的な転機は文庫版でせいぜい3頁ほどの分量なのだが、そこから引用してみたい。

中の海の彼方(むこう)から海へ突出(つきだ)した連山の頂が色づくと、美保の関の白い燈台も陽(ひ)を受け、はっきりと浮び出した。間もなく、中の海の大根島(だいこんじま)にも陽が当り、それが赤鱏(あかえい)を伏せたように平たく、大きく見えた。村々の電燈は消え、その代りに白い烟(けむり)が所々に見え始めた。然し麓の村は未だ山の陰で、遠い所より却(かえ)って暗く、沈んでいた。謙作は不図、今見ている景色に、自分のいるこの大山(だいせん)がはっきりと影を映している事に気がついた。影の輪郭が中の海から陸へ上って来ると、米子の町が急に明るく見えだしたので初めて気付いたが、それは停止することなく、恰度(ちょうど)地引網(じびきあみ)のように手繰(たぐ)られて来た。地を嘗(な)めて過ぎる雲の影にも似ていた。中国一の高山で、輪郭に張切った強い線を持つこの山の影を、その儘、平地に眺められるのを稀有(けう)の事とし、それから謙作は或る感動を受けた。(注3)

高名なこの一節が、それ自体として美しいという点でも、綿密な観察にもとづく実景の忠実な描写という点でも、「小説の神様」の名に恥じぬ逸品であるのは確かだろう。しかしながら、表題通り「暗い路(みち)をたどって来た自分から」脱して、「新しいもっと明るい生活に」(注4)赴こうとしてあがく主人公の精神的な転生にとって本当にこの場面が不可欠なのだとしたら、それは一体いかなる意味においてなのか。
まず、ここで解決をもたらすのは徹頭徹尾人為を離れた原理なのだということを確認しておこう。せっかく心の落ち着きを欲して霊場を訪れたのに、奥歯にものの挟まったような物言いでやんわりと部屋の明け渡しを要求する僧侶がいたり(小学教員向けの禅の講習に使いたいらしい)、屋根葺き職人の「竹さん」の妻の多情が原因で刃傷沙汰が発生したりと、謙作の身辺では人事にまつわる不快ないざこざが後を絶たない。高邁な宗教といえども人間の営みに違いない以上、人の世のしがらみが悩みの種である場合に個人を完全に解放することはできないのだ。
ゆえに「大きな自然の中に溶込(とけこ)んで行く」(注5)ことがどうしても必要になるわけであり、この点で非常に示唆的なのは、いざ登山という日になって謙作が腹を壊してしまい、結局山頂まで行き着くことなく、連れの人々(大阪の会社員たち)からも離脱し、山腹(どうやら五合目の少し下あたりらしい)で座り込んで夜明けを待つことになるという事態である。予定通りにいけば仲間と一緒に山頂を占拠するはずだった彼は、実際にはただ一人きりで山の懐に抱かれ、肉体的には衰弱しつつある、すなわち自立的な個として環境に対峙することが難しくなっている。人間関係からの離脱と自然との融合という状況は、謙作の自覚よりも先に運命の手によって着々と準備されつつあるのだ。
その融合がいよいよ最終的な達成をみるのが先の引用文においてである。これを読んで気になるのは、末尾で言及されている、大山が麓に落とす影である。それに気づいた瞬間、謙作は「中国一の高山で、輪郭に張切った強い線を持つこの山の影を、その儘、平地に眺められる」という理由で「感動」を覚えているが、これは正確には、一体いかなる感動なのか。
自分よりもはるかに巨大な対象をいわば手中に収めることによる征服の快感、という説明は成り立たない。志賀直哉の自我の強烈さは謙作の性格の中にも当然反映しているものの、むしろそのように肥大した自我への執着を何らかの仕方で捨て去ることこそが『暗夜行路』の目標であることは、直子の不貞を一時の過失として許せる境地に到達したいと思いながらもなかなか感情の整理がつかない彼の、「時が自然に僕の気持を其処まで持って行って呉(く)れる」(注6)のを待つほかないという発言からも明らかだからだ。
第一すでに書いたように、山頂ではなく中腹に、体調の悪化のせいでやむなくただ一人居残った病人の謙作は、位置関係からも健康状態からも、到底自然を征服する英雄的な立場にあるとは判定しがたい。彼はあくまでも、いまだけは好むと好まざるとにかかわらず山と一体であらざるをえないのである。しかしそうだとすれば、麓に落ちる大山の影は、即謙作その人の影でもあるのではないか。こう考えた場合いかにも興味深いのは、「謙作は不図、今見ている景色に、自分のいるこの大山(だいせん)がはっきりと影を映している事に気がついた」という文である。眼前の景色をすっかり覆い尽くすほどの法外な大きさのせいでそれまでは注意の的になりえなかった山の影が、日が昇るにつれて縮小してくることで初めて視界に入ってくる。これが同時に私(謙作自身)の影でもあるのだとすれば、例えば、思い悩む私の肥大した主観こそが、これまで私が見る世界に暗い陰りをもたらしていたのだという認識の到来とともに、ほかならぬその主観が急速に死に絶えてゆく過程をこのくだりから読み取ることも十分可能なのではないか。
志賀の自我と同様、「張切った強い線」を持つこの影は、しかしいまや「恰度(ちょうど)地引網(じびきあみ)のように」手前へ手前へと巻き取られつつある。ここに象徴的な自殺への暗示があると感じることにおそらく無理はなく、その感じには一面拒みがたい正しさが具わっている。しかしながら他面、己の従来の生き方に対する志賀(謙作)の底抜けに肯定的な自負は、ことさら「強い」と表現される影の輪郭からもうかがえるように消失のまぎわに至るまで健在であるし、のみならずある意味では、ついに直接的に描写されないままである消失の瞬間にあってすら損なわれることがない。周到なことに、少なくとも謙作自身は自然との融合が死に等しいとは考えていないし(注7)、あたかも身を以てそのことを立証するかのように、次の章(後篇第四の二十)に入るともう、一応無事に下山を遂げているからだ。
おそらく大山の影の最終的な消滅は、それが一面自我の死であることによって、必然的に自我の意識が届きえぬところに位置しているばかりでなく、他面それでいて謙作の存在を跡形もなくこの世から一掃する本当の死とは違い、あくまでも死の儀式的上演ないし象徴的な死にとどまるという、相反する二面性から発せられる二重の要求の結果として、決して描写されることがありえず、また描写されてはならないのであり、ゆえにこの章(後篇第四の十九)は慎み深くもその直前で歩みを止めるのである。私は私の死を描写できない、なぜならば私は非力すぎて私の死を自ら体験し抜くことができないからである。私に可能なのはせいぜい成就の見込みを欠いた無力な死、つまりまがいものの死に描写を通じて近づくことくらいだ。しかし見方を変えれば、私の死はさほど恐るべきものでない、なんとなればまがいものの死ですら最後まで描写されることがありえない間は、ましてや本格的な死そのものが私に到来するはずはないからだ。こうして暁の光とともに拡大してくる空白の中で、描写の不在は死を体験することの不可能性を、死が実現することの不可能性へと、ひいては死のやりすごし、死の脅威の除去へと転換する。この一連の過程において虚構がいわば梃子として、いかほど大きな役割を果たしているかは一目瞭然であるが、それどころかまがいものの死の無力さは、自然の無害さの源泉ですらあるようだ。考えてみれば、そもそも描写されてすらいないこの最終的な影の消滅は実際のところ少しも劇的な非常事態ではなく、有史以前から日の出のたびに毎朝繰り返されてきたありきたりの現象(まさしく自然現象)にすぎない。それゆえ山と一体化した謙作もまた、どこまでも無傷のままで、誰か他人に敗北を喫しているわけでも、屈伏しているわけでもないという理屈が成り立つ。
単に自我の消滅が望ましいというだけであれば、乱暴な仮定ではあるが気絶するまで誰かに殴られるとか、あるいは会社や軍隊に入ってひたすら他人の命令に従わされるという形でも結果は変わらないはずだ。『暗夜行路』はあえてそれを避け、自然との融合という解決を目指すことで実存の消滅から一切の人間的な混沌や衝突を排除し、結末において終始肯定的な調子を貫くことに成功した。だから下山後の謙作は急性腸カタルで危篤に陥りながらも、心の底から「私は今、実にいい気持なのだよ」(注8)と言うことができる。これが、自我の問題を自然へと転調したことの最大の成果であろう。幾分はぐらかしの気味がなくもないが、ともあれ自我の肥大は象徴的な自殺を経て、いまや世界大の客観的な視点―世界全体を曇りなくあるがままに見て受け入れることのできる視点―へと生まれ変わっている。限りなく一人称に近い三人称で進められてきた小説の締めくくりで、いささか唐突に直子の内心の思いが介入してくる(注9)ことはその証拠である。この移行は、純然たる一人称の採用が招いたはずのわざとらしい不自然さを未然に防ぎえているというまさにその点で、非常に巧みにできている(仮に一貫して謙作自身が話者であった場合、直子の決意が活字化されうるかどうかは、ひとえに両者いずれとも違う、超越的な監督者たる作者の手腕にかかっていたはずである)。

この解決の選択が藝術的に正解だったか否かは、その後の志賀が随筆風の掌編しか書けなくなったという事実が端的に示していると思うのだが、そもそも父との不和が代表するような家庭的葛藤を最大の原動力にするという、彼の執筆方針自体にいっそう根本的なまずさがあったのかもしれない。しかし「方針」というのは傍から見るとそう思えるというだけのことで、志賀が自分の人生にとって一番気がかりな問題を生業の中心に据えて検討し続けずにはいられなかったことも、とうとう畢生の大作(唯一の長編小説)の中で大掛かりな虚構による誇張を駆使してまで―もとより出生の秘密にせよ妻の不貞にせよ、志賀自身とは無縁の悩みである―円満な象徴的解決を強引に実現してのけたことも、本来は他人からとやかく論評されるべき筋合いのものではなく、やむにやまれぬ自然の成行としてきれいに自己完結しているのかもしれない。
上記の「家庭的葛藤」を自我と周囲との衝突という風に一般化して考えてみれば、藝術作品すらも究極的には人生上の問題を解消するための一手段以上のものではないという点で、やはり、つくづく志賀直哉の自我は怪物的なのである。


(1)志賀直哉『暗夜行路』(新潮文庫、2004年第32刷)57頁。
(2)同書471頁。
(3)同書505頁。もちろんここの「中国一」とは、「中国地方一」という意味である。
(4)同書393頁。
(5)同書503頁。
(6)同書433頁。
(7)同書504頁、「彼は少しも死の恐怖を感じなかった。然(しか)し、若し死ぬならこの儘(まま)死んでも少しも憾(うら)むところはないと思った。然し永遠に通ずるとは死ぬ事だという風にも考えていなかった」。
(8)同書513頁。
(9)同書513-514頁。
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category: 志賀直哉

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日日日『のばらセックス』9 

虚構とは誰のためのものか。

例えば西尾維新の『少女不十分』(講談社、2011年)からは、虚構とは一人称(私)から二人称(あなた)への贈り物だという回答が導き出せそうだ。
この小説は「僕」こと柿本(かきもと)―この名の由来は「本書き」だろうか―が、作家としての自己の原点とも呼ぶべき10年前のある経験を綴る、という体裁になっている。
当時20歳の大学生だった彼はあるとき、一人の小学生の少女の奇妙に非人間的な振舞を目撃してしまう。
彼女は友人の事故死に立ち会いながらやっていたゲームを途中で投げ出さず、こともあろうに律儀に規定箇所でセーブしてから遺体に駆け寄ったのだ。
それから一週間後、「U・U」と名乗るその少女は自身の「正体」が露見するのを恐れるあまり、彼を刃物で脅して誘拐し、自宅に軟禁するという挙に出る。
その手口たるや隙だらけの稚拙なもので、「僕」は何度か(何度も)脱出の機会を見つけるが、そのたびにあれこれ理由を案出してだらだらと彼女の家に居座ってしまう。
両親の気配がしない家庭、ひどく礼儀正しい一方で挨拶の履行に尋常でない執着を見せるU、料理の形跡のない台所、そして少女の傷だらけの身体…徐々に募る不自然さに促された「僕」はついに、監禁生活6日目にして事件の背後に潜む事情を知る。
Uが学校にいる間に二階で「僕」が発見したのは、娘が日々守るべき膨大な規則が書きこまれたノート(挨拶に関する規定から始まって延々と続く条項の中には、「ゲームをやりっぱなしにしないこと。」や「自分の正体を知られないこと。」もある)を残し、いがみあいの果てに互いの首を絞めて絶命に至った両親の死体だったのだ。
自由帳ならぬ「不自由帳」によってがんじがらめに心を縛られ、虐待されながら育ったあげく小学四年生にして孤児となったUは、もはや人並みの人生を送れる望みは薄い。疲れ切った彼女が「僕」から望んだのはたった一つ、物語を聞くことだった。
求められるまま、懸命になって一晩中「僕」は語り続けた。「道を外れた奴らでも、間違ってしまい、社会から脱落してしまった奴らでも、ちゃんと、いや、ちゃんとではないかもしれないけれど、そこそこ楽しく、面白おかしく生きていくことはできる」(注1)というメッセージを詰め込んだ、数々の即興の物語を。
茶番じみた一週間の誘拐劇は警察の介入であっさりと幕切れを迎え、それ以来「僕」は少女と会っていない。だが、10年後の今日まで彼が作家として書き続けてきたのは、この夜に語った「たわいないおとぎ話」の延長以外の何ものでもないのだ…。
そして小説は最後に、新人の担当編集者として現れた彼女、「夕暮誘(ゆうぐれ・ゆう)」との再会を描いて終わる。

ところで。
当たり前だが、ひらがな五十音をローマ字表記に置換した場合にUというアルファベットが表わすのは「ゆ」ではなくて「う」であり、したがって「U・U」(ユウ・ユウ)と略されるべき女性の名前も例えば「内田(Uchida)梅子(Umeko)」とか「上野(Ueno)歌子(Utako)」とかでなくてはならない。逆に本名が「夕暮(Yugure)誘(Yu)」ならば、ローマ字によるイニシャル表記は「Y・Y」(ワイ・ワイ)のはずである。
ここから何が分かるか。
著者にとっては「ユウ(U=夕=誘)」という音をこの少女の名に盛り込むことが何よりも大切だったのである。
そして「ユウ」は英語の二人称である"YOU"(きみ、あなた)に通じる。
たとえ彼女ほど極端な境遇ではないにせよ、我々は誰しも家庭や学校や会社で、あるときは理不尽な規則に拘束され、あるときは人間関係の重圧に悩み、しばしば窒息しそうな思いをしている。そんな我々読者に向かって、物語の、つまりは虚構の自由さというとっておきの贈り物の存在を知らせるべく、西尾が二人称の喚起力に訴え、かつてないほど率直な声で呼びかけているのだ、と、そう読むことに、とりあえず無理はない。
ただし、過度の単純化は禁物である。たしかに話者である「僕」(柿本)自身は、これが(『少女不十分』の筋書本体が)「実際にあった出来事」であり、自分は「現実にあったことを、そのまま書くだけ」で、だから「これは物語ではない」とたびたび念を押している(注2)。だがもちろん、出来事自体の異常さからも、そもそも彼の名が西尾でなくて柿本であることからも、ここに書かれているのが西尾氏自身の体験そのままであるという意味で事実だとは信じるべきでない。かかる入念な工作は、一方では現実との対比を通じて非現実たる虚構の地位を鋭く浮き彫りにしつつ、他方では虚構というものがその非現実性ゆえに、ほかならぬ現実のただなかで、いかに我々にとって切実な必需品でありうるかを強調するためのものとでも考えておけばよいのではないか。
かつて「書くこと」の本質への問いをめぐってモーリス・ブランショが繰り広げた執拗な思索によれば、文学作品の執筆とは言語そのものの存在を解放する非人称的な営みであり、そのかぎりにおいて作家たる「私」が何らかの二人称(「汝」)と交流するという構図は認めがたいという。

書くとは、終りなきもの、止まざるものだ。作家は、「私は」と言うのを断念する、と言われる。カフカは、自分は「私は」を「彼は」に置きかえ得た時から文学に入ったと、驚きながら、ある恍惚たるよろこびをもって語っている。これは本当だが、この場合の変容は、もっとはるかに奥深いものなのだ。作家は、誰ひとり語らぬ言語に、誰にも向けられず、中心も持たず、何ものも明さぬ言語に属している。彼は、この言語のなかで自己を主張していると思っているかも知れないが、彼が主張するものは、まったく、自己を奪い去られている。彼が、作家として、書かれるものを正当に扱うかぎり、もはや決して、自己表現など出来ぬ。その上更に、汝に呼びかけることも、他人に語らせることも出来ぬ。作家が存在しているところでは、ただ、存在だけが語っている―という意味は、言語がもはや語ってはおらず存在しており、存在の純粋な受動性に委ねられているということだ。(注3)

我々としては、どう考えるべきか。ブランショがこう看破している以上、西尾は作家として不徹底なのだと断じればよいのか、それとも両者を比べること自体が無意味だと結論づければよいのか(ブランショは1907年に生まれ、2003年に没したフランスの作家・批評家である)。だが上記のごとく『少女不十分』は、一方で内容の真実性をくどいほど何度も保証しつつ、しかも他方では「僕」の姓が西尾でなく柿本であり、物語の聞き手は漠然たる"YOU"ではなくあくまでも「U・U」こと夕暮誘であるという両極性に由来する緊張を抱え込んでおり、かつその緊張はどこまでも消去しがたいように思える。そもそも「僕」が少女に話した物語はいずれも、内容に関してはごく簡潔な(二、三行程度の)要約以上の情報がないものの、この梗概から判断するかぎりどうやらこれまで西尾維新が発表してきた小説群そのままであり、したがってその主語(主役)は―たとえ話者を兼ねる一人称であろうと―「僕」(柿本)自身とは一致しないし、ましてや少女(夕暮誘)でもありえない。
思うにほかならぬこの緊張を抱えた両極性にこそ、虚構というものの解放力が存するのである。それを語る声は、もはや素朴な一人称の境地にとどまっていることができない。

緊張で上擦っていた僕の声も、いつしかニュートラルなものになっていた。意識するまでもなく。それはきっと語るのが、僕の言葉ではない『お話』だったからだろう。僕という個人は消失し、僕はただの語り部になる。(注4)

この声の変貌、「ニュートラルな」、つまり中立的で中性的なものの出現こそ、ブランショによれば文学の成立にとって決定的な瞬間を画するものである。

書くとは、時間の不在の眩惑に身を委ねることだ。われわれは、おそらく、ここで、孤独の本質に近づいている。時間の不在とは、純粋に否定的な様態ではない。〔…〕純粋に否定的な様態どころか、むしろ逆に、それは、否定も決定もない時間であり、そこでは、今ここに(ici)が、どこでもない(nulle part)でもあり、あらゆる物が、おのれのイマージュのうちに身を潜め、われわれが現にそうである「私は」は、姿なき「彼は」の中性的性質のうちに沈みつつ自己を再認するのだ。(注5)

おそらくは虚構が一人称から二人称への贈り物でありうる(すなわち、両者いずれの占有物でもない)ゆえんもまたここに求めるべきではないか。むしろ我々は『少女不十分』から出発することで、ブランショに対して、こう問い返すことが可能なのかもしれない。あなたは、文学の非人称性を確立することにあまりにも性急ではなかったか、「誰のために」という宛先の問題を、あまりにも早く視野から追い払ってしまったのではないか、と。たぶん、人称代名詞それ自体を人名化するという意味での脱人称化は、端的な非人称性への加担より、少なくとも複雑な(高度な、とまでは断定しかねるが)操作であるからだ。

同じく人称代名詞を人名に改作しているといっても、日日日の『のばらセックス』(講談社、2011年)における坂本三兄弟、逢(あい)・緒礼(おれ)・綿志(わたし)の場合は方向性が逆である。というのも、単に二人称と一人称との差異があるだけではないからだ。仮に『少女不十分』が、現実から虚構へという方針に沿って、「僕」が脱人称化された二人称に向けて発する架空の(この限定は欠かせない)呼びかけだとすれば、『のばらセックス』は虚構から現実へという反対の方針がうかがえることのみならず、「あたしの人生はあたしのものじゃない」(注6)という苛立ちを抱えたおちば様が―彼女の存在論的な地位が不安定であることは、例えばときに純然たる一人称を占拠し(I、II、III章)、ときに三人称で対象化される(i、ii章)ことにも現れている―、脱人称化(固有名詞化)した一人称にほかならぬ緒礼、すなわち自身にとっての造物主たる父親の所行を遡及的に発見するまでの探究の過程であるという点でも、その好一対たりうるのである(注7)。彼がどうしようもなく作家の生態を連想させる点についてはすでに以前の記事でも触れた(日日日『のばらセックス』7)。
したがってこの過程はまた、おちば様が作家の仕事、要するに虚構の創造という営みの価値への理解を深めていく過程でもあるのではないか。たしかに彼女は架空の母親(のばら様)に扮し、我が身を賭してこの「世界で一番目の女性」に人々が寄せる思慕の念を断ち切っているが(ii章)、祭日に公衆の面前で斬首されるという、このそれ自体演劇的な行為に神話化の反面があることも明らかであるし(注8)、何よりI章およびII章で彼女自身を襲う危機から脱出することも、彼女が正直者であれば到底不可能だったはずだ。
虚構への同調の最もめざましい例は間違いなく、III章「いつかは散る薔薇」に出てくる、女性化した緒礼と綿志の近親相姦の場面である。ざっとその特徴を列挙してみよう。
(一)さながら読書をするときのように(注9)、怪しげな機械装置を介して綿志の知覚をおちば様が追体験していること
(二)生まれながらの女性ではなく、女性化した元男性とその弟との性交であること
(三)緒礼の過剰な女性化は、彼自身が兄弟と協力して演じ続けてきたのばら様への懸想の結果であること
(四)男性器を持たぬおちば様が未知なる射精の感覚のみを与えられ、戸惑いながら手持ちの知識の流用による説明を余儀なくされること(そしてその一部始終を想像しつつ叙述する作者は男性であること)
(五)おちば様の傍らでは綿志が勝手に彼女の恋人(ソプラノ君)に淫らな奉仕を強要しており、三人の性的興奮は並行しつつも全くの同床異夢であること
とまあ便宜的に五つに区切ったが、数はどうあれ、いずれにしても確実なのは、この場面が何重にも虚構性の刻印を受けていることである。
その周到さはやや度を越している観もあり、生身の異性と現実に性交することとは甚だしい径庭があるのは否みがたい。ともすれば男性の性愛が己一人の肉体的器官の満足に特化しがちなことに対する痛烈な皮肉のようでもある(というか、その要素は確実にあると思う)が、それだけでもなさそうだ。いましがたまとめた五点のうちの第四に相当する箇所を引用しよう。

 あたしは全身を痙攣させて、達する。同時に夢のなかで、綿志さんが射精した。その奇妙な感覚を何と表現しよう。あえて似ているものをあげるなら、出血だった。どろどろと、体内から液体が、大事なものが溢れて流れていく。
 強い快楽をともなう喪失感だ。
 このまま、溶けてなくなっちゃいそうだ。(注10)

男性の性欲は一見して明らかなとおり、暴力的な征服という局面からではなく、一種の解放性を伴う、強いられた自己放棄という文脈の中で把握されている(第一ここでは嫌がる綿志を偽物の女性である緒礼こそが強姦しているのであって、その逆ではない)。
しかしそれは消極的な自己放棄にとどまらず、加えて他者の積極的な放任―ハイデガーならば「存在せしめる(sein lassen)」とでも呼びそうな態度―でもある。おちば様が父親(綿志)の立場から一人称の体験として回想しつつあるこの場面は、ほかならぬ彼女自身の懐妊の瞬間にほかならない上に、緒礼(伯父にして母!)の動機はひとえに現実の女性に会いたいという狂気じみた愛欲の念だからだ。にわかに彼への興味が高まるのも無理はない。
作品の終盤に至って瀕死の緒礼を前に、日頃の彼の振舞を思い出したおちば様が「あたしのぜんぶを受けいれて、肯定をしてよ」という台詞を口にすることからも分かるように、彼の長所(三兄弟の中で唯一無二の長所)は他者の実存をありのままそれ自体として肯定することができる愛の横溢であり、あるいはそうせずにいられない無比の優しさである。
その優しさを徹底するところに、上記の第五点のごとき各自の孤立は半ば必然的に到来する。表向き緒礼本人が居合わせるわけではないとはいえ、強度の点ではある物足りなさを読者に感じさせかねないこの場面が(日日日『のばらセックス』5)、それでも露骨な性交渉の描写としては作中最後の位置を占めなくてはならなかったとすれば、相応の理由が必要であるはずだからだ。女性たちがただ生きていられる状況の創出を目指す、おちば様の大詰めでの決意が緒礼を手本としていることは、ほぼ疑いない。
作家の仕事が究極的には他者(作家個人とは違うもの、自分でないもの)の実存の端的な肯定であり、まさにその点で作品は作家にとって、またひいては読者にとっても原理的にある孤独の相貌を帯びずにはいない自律的な何ものかなのだということ、この事態を指してブランショは「本質的孤独」と名づけた。

ところで、作品―芸術作品、文学作品―は完結してもおらず、未完結でもない。作品は、存在している。作品が語るのは、もっぱらそのこと、つまり、それが存在しているということであり、―それ以上の何ごとでもない。このことを別にしては、作品とは何ものでもない。作品にそれ以上を表現させようとする者は、何ものも見出さぬ。または、作品が何ものも表現せぬことを見出す。作品を書くとか読むとかして、作品に依存して生きる者は、存在(エートル)するという語しか表現せぬものの持つ孤独に属する。〔…〕作品の孤独を形づくる第一の骨組は、かかる、要求の不在であり、この不在が、作品が完結しているとか未完結だとか言うことを許さない。作品は、何の証拠もなく存在し、また、何の用途もなく存在する。〔…〕作品は孤独である。これは、作品が伝達不可能だとか、読者が欠けているとかいう意味ではない。そうではなくて、作品を読む者は、作品を書く者が作品の孤独の冒険に属しているように、作品の孤独のかかる断言のうちに入りこむのである。(注11)

記憶を失い別人(「ななちゃん」こと綿志)と化した姿で小説の開幕以来おちば様の身辺に寄り添い(その数年前には「母親」であるのばら様を演じて彼女と暮らしたこともある)、突然いなくなったかと思えば上記の近親相姦の回想の中では女性として主役を務め、最後は異性の量産という大事業に心身を捧げ尽くしたあげく意識不明の重体となって再登場する坂本緒礼が、ある意味で『のばらセックス』の真の黒幕であることは異論の余地がない。その彼がついにただの一度も、念願の娘であるはずのおちば様を相手に胸襟を開いて本音を交換することができないままであるのは(注12)、ブランショの唱える「本質的孤独」、すなわち作品からの作者の隔離という原理を考えるとき、まことに暗示的である。作品から拒絶され、ひたすら書き続けるほかないことが作家たる者の運命である以上、一人称による率直な告白(「実は私は…」)の手立ては初めから奪われているのだ(注13)。
しかし、修正が全く不必要というわけではない。というのも、ブランショがこの本質的孤独を存在の不在、あるいは隠蔽の出現として再定義し(注14)、ついで外見の優位というこの境地からさらに進んで、イマージュ(像)と、「ここにあるにもかかわらずやはりこの世のものではない」死体には、それ自身との類似という性格が共通していることを指摘し、この休息を知らぬしぶとい類似性の回帰のせいで両者が周囲のもの一切を崩落に巻き込む不吉な磁場と化すゆえんを力説する頁(注15)を読むとき、元来文学作品のためだったはずの彼の省察は、にもかかわらず作家にこそ、すなわちのばら様の顔を持ち、全身の「七分の一」(頭部から胸部まで)だけが残った瀕死の重体で、大勢のクローン―「坂本のばら様の量産品」(注16)―と一緒に発見された坂本緒礼にこそ、最もうまく妥当するように思えてしまうからだ。とりわけ、そもそも実在しない「世界で一番目の女性」坂本のばらは三兄弟の合作だったとはいえ、人前に登場する必要があるときはつねに緒礼が持ち前の変身能力を活かして彼女を演じていたという経緯を振り返るならなおのこと(注17)、イマージュ(像)も死体もただただそれ自身との類似でしかない点で中性的存在なのだというブランショの文章の、およそ考えうるかぎり最も過不足のない文学的実例が彼の内に具現化しているという印象は抑えがたい。
そしてこのことはおそらく、すでに坂本三兄弟の名前が示唆していた事実、すなわち全てを一から創造しなくてはならぬ虚構の作者にとっては自分自身を指すものである一人称(I・俺・私)もまた、固有名詞化し、つまりは脱人称化して作中に織り込むことが可能なのだという事実をより強力に支持してくれる根拠でもある。したがってまたしてもブランショに問いかけることが許されよう。あなたは、作品を作者から切り離すことにあまりにも性急ではなかったか、虚構の創造という行為に潜む倫理的な問題系をあまりにも早く厄介払いしてしまったのではないか、と。

ここに至って我々は再び、虚構とは誰のためのものかという冒頭の問いに連れ戻される。『少女不十分』が固有名詞化した二人称という宛先を持っているように、『のばらセックス』の宛先は固有名詞化した一人称(坂本緒礼)ではないのか。そうだとすればくだんの問いに答えることはいともたやすい。ただしここに通常の意味での目的論の余地はない。単に、ただ生きてあることという最小限の実存を肯定してもらえた経験を持つ者にとっては、同様の態度で相手を愛し返すことが最も自然であり、その機構は登場人物と作者との間でも変わらないというすこぶる明快な因果関係があるだけだ。緒礼の狂気の愛に対するおちば様の惜しみない讃仰に耳を傾けよう。

 偶像に恋し、病みついた彼の夢が、あたしたちを生み―この世界を変えた。
 せめて、彼に笑っていてほしい。
 そして、いつか神様が彼の心を返してくれたときに、幻滅しないように。(注18)

己を殺し、我が身を空っぽになるまで削って創造の荒行に励む者だけに、いずれ虚構から、虚構の中で報いてもらえる日が思いがけなく訪れる。それは何たる贅沢であることか。


(1)西尾維新『少女不十分』(講談社、2011年)210頁。
(2)同書17-20頁。
(3)モーリス・ブランショ『文学空間』(粟津則雄・出口裕弘訳、現代思潮新社、2000年第17刷)17-18頁。
(4)西尾維新『少女不十分』(前掲書)209頁。
(5)モーリス・ブランショ『文学空間』(前掲書)22-23頁。
(6)日日日『のばらセックス』(講談社、2011年)8頁。
(7)もちろん、これはあくまでも好一対たりうるというだけのことで、それが『のばらセックス』にとっての最良のあり方だという意味でも、ましてや他のあり方が不可能だという意味でもない。
(8)日日日『のばらセックス』(前掲書)317頁。
(9)同書320頁、「夢を見ているような。/自我がとろけて、あたしは『あたし』を喪失し―他人の物語の中に没入する。世界観に絡めとられ、感情移入して、集中して読書してるときのように」。
(10)同書338頁。
(11)モーリス・ブランショ『文学空間』(前掲書)11頁。
(12)日日日『のばらセックス』(前掲書)63頁、「愛するひとたちにすら理解されないのは、つらいのだ……」。のばら様(=緒礼)があるときふと漏らしたこの寂しげな台詞はそれ自体として貴重だが、いっそう興味深いのはむしろ、実の娘であるおちば様も、聞いた当時は「あまりにも堂々と語られたから、それが弱音だとは気づかなかった」という事実のほうだろう。
(13)モーリス・ブランショ『文学空間』(前掲書)20頁、「『私は』に置きかえられた『彼は』、これこそ、作品によって作家に到来する孤独である。〔…〕『彼は』とは、誰でもない人間(personne)であり、他者(l'autre)となった他人(autrui)である」。
(14)同書360頁。詳しくは以下のとおり、ブランショは述べている。

 おそらくここでわれわれは、われわれの探求するものに向って更に一歩を踏み出したのだ。日常の生の静謐さの中では、隠蔽は隠蔽されている。行為の中では、真の行為、すなわち歴史の作業である行為の中では、隠蔽は否定と化そうとする(否定的なものがわれわれの任務であり、そしてこの任務は真理の任務である)。しかし、われわれが本質的孤独と呼んでいるものの中では、隠蔽は出現しようとするのだ。
 諸存在が欠如する時、存在は隠蔽の深部―その中で存在は欠如となる―として出現する。隠蔽が出現する時、外見となった隠蔽は「すべてを消滅」させる、だがこの「すべては消え去った」が更にひとつの外見を作るのであり、外見がその後は「すべては消え去った」の中にその出発点を持つようにするのである。「すべては消え去った」が出現する。出現と呼ばれるものがまさにこれなのだ、それ自身外見と化した「すべては消え去った」なのだ。そして出現はまさしく、すべてが消え去った時、なおかつ何ものかが存在するということを、すなわち、すべてが欠如する時、この欠如とは、存在が欠如しているその場所になおかつ存在するという存在の本質を、隠蔽されてある限りに於て存在するという存在の本質を、出現せしめるものであるのだ。

(15)同書364-370頁。
(16)日日日『のばらセックス』(前掲書)375頁。
(17)同書261-265頁。
(18)同書383-384頁。

category: 『のばらセックス』

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