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一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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ヴェルフリン『美術史の基礎概念』 

美術史家ハインリヒ・ヴェルフリン(Heinrich Wölfflin, 1864-1945)は、主著『美術史の基礎概念』〔Kunstgeschichtliche Grundbegriffe. Das Problem der Stilentwicklung in der neueren Kunst〕(1915年)で、以下の五つの対概念にもとづくクラシック様式とバロック様式の区別を提唱した。

(1)線的なものと絵画的なもの
(2)平面と深奥
(3)閉じられた形式と開かれた形式
(4)多数性と統一性
(5)明瞭性と不明瞭性

いずれの場合も前者がクラシック様式に、後者がバロック様式に対応する。ヴェルフリンは絵画に多くの頁を割いてはいるものの、この五つの標識による判定は、彫刻や建築に関しても有効であるとされる。クラシック様式の典型例は16世紀、ルネサンス期のイタリア美術であるのに対して、バロック様式の典型例は続く17世紀の北方美術(ドイツやオランダ)に求めることができる。また、クラシックに先行する時期をヴェルフリンは「原始期」と呼んでいる。
このうちで一見して奇異な印象を読む者に与えそうなのはおそらく第四の、「多数性と統一性」ではないか。というのも、もし「多数性」がクラシックの指標であるべきだとすれば、それと「閉じられた形式」や「明瞭性」等の概念との関係がいかなるものでありうるかも、また逆にバロックの指標であるべき「統一性」がどの程度「開かれた形式」や「不明瞭性」と相性がよいかも、さほど自明ではないからである。

こうした疑問を解消したければ、何はともあれ著者の文章をじかに検討してみることが必要であろう。
事実、ヴェルフリンはいましがた私が述べた曖昧さに無自覚ではなく、原始期と比べればクラシック期(イタリア・ルネサンス)の美術自体に強固な統一性があることを認めている。

 「閉じられた形式」の原理は、すでに絵画作品を一つの統一体として捉えることを前提にしている。もろもろの形の総和が一つの全体として感じられる時、初めてこの全体を合法則的に秩序づけられたものと考えることができる。(注1)

この観点からは当然、バロック期との比較の中でクラシック期を「多数性」の時代として規定することは、いささか無理のある措置であるほかない。

しかし、ここで今ただちに類別する言葉の欠如がきわめて痛切に感じられる。構成の統一性が一五〇〇年代(チンクエチェント)の美術の本質的な表徴だと言った、舌の根の乾かぬうちに言わなければならないのは、われわれはまさにラファエッロの時代を多数性の時代として、統一性への傾向をもった後世の美術に対立させようということである。(注2)

彼がクラシックとバロックの区別を、多数性と統一性との区別として説明することに固執するのは、相応の理由があってのことなのであり、そしてその理由は、バロックにおいては統一性の原理がクラシック期よりもさらに強まる、ということのうちに見出せる。その程度たるや、「人物たちが溶け合って統一的な塊をなし、一人一人の人物はその塊からもはやほとんど解き離せない」ほどであり、「バロックは基本的には、もはや調和的に協力し合う多数の独立した部分に頼るのではなく、その中で個々の部分がその固有の権利を失ってしまう絶対的統一に頼っているのである」(注3)。
この違いはさらに、クラシック様式においては各部分が「一個の有機体の自由な肢体」としてなお独立性を保っているのに対し、バロックにおいてはもはや水平線と垂直線が露骨に際立つことがなく、幾何学的な対照性も目立たないという違いに通じる(注4)。
たとえ画題は前代と同じ(「マリアの被昇天」や「キリストの十字架負い」など)であっても、リューベンスの場合はティツィアーノやラファエロと異なり、大掛かりな運動の連鎖が画面を満たしており、全ての登場人物はその中に巻き込まれ、呑み込まれてしまって、単独で鑑賞することを見る者に許さない。強調点を誰に置くかはひとえに「形と光の複合体の全体」(注5)が決めることである。しかしすでにこのあたりの叙述からわかるのは、むしろ画題をそっちのけにして独自に統一性を追求し始める画面そのものの独走ぶりであり、換言すれば画題と画面との乖離現象である。ヴェルフリンが直接そう述べているわけではないが、リューベンスに関する彼の叙述を読むかぎり(かつ、その叙述にしたがって挿図を眺めるかぎり)、「マリアの被昇天」では一番重要なはずの聖母の姿が対角線上の全体的運動の中に埋没してしまう一方で、「キリストの十字架負い」では手前の名もない刑吏の肉体がキリスト以上に強烈な存在感を発揮してしまう。
この種の奇妙さがいよいよはっきりするのは、採光の技法に彼が言及するときだ。これこそ、運動以上に手軽でしかもいっそう一般的な、バロックに固有の技法なのである。

閉じられた部屋の中に光が一つの光源だけから流れ込む時、それはまさしく本来的にバロック的テーマにちがいない。(注6)

もちろん、このような状況は同時に背景としての闇と不可分なのであり、やがてドゥルーズがヴェルフリンの名を挙げつつ書くように、「明るみはたえず暗がりに潜っていく」(注7)。縦横無尽に画中を駆け巡りながら、しかも手でつかまえることはできず、闇を駆逐するにも至らない光は、一体何をもたらすのか。

それは何らかの彫塑的な形と一致することもない。逆に光は形を無視して、事物をもてあそぶ。このことによって、すべての構築的なものは目立たなくなり、舞台上の形象はきわめて奇妙な仕方で引き離されたかと思うと、また一緒にされ、あたかも形象ではなく光が、画中で真に実在的なものであるかのように思わされる。〔中略〕この光のリズムをもってレンブラントは他のだれもしなかったように、場面に強制的な統一的生命を与えるのである。(注8)

「統一的生命」、なるほどそうかもしれない。しかしながらそれは「強制的」なのであり、画中のいかなる登場人物からも遊離しているような統一性なのだ。
画中の諸要素に拘束されることなく、画面上を浮遊する統一性というこの不思議な概念は、バロック美術における色彩の扱いに注目すればいよいよ顕著になる。体系的関連性を顧慮した「多数的色彩効果」を捨てて「色調的結びつき」を目指すようになった結果、バロックの画家は完全に近い単色に到達し、ついで画面を一定の色調で整えるため、限られた数の色彩で和音を構成することを試みるようになる。鈍い地色の中から徐々に純粋な色彩が輝き出るとともに、色彩の生成や去来が「一貫した統一的運動の表象」を不可避にする(注9)。
つまり、ルネサンスの場合とは違い、バロックにおける統一性とは単なる均等性のことではなく、反対に強調の産物なのだ。「もはや協調も均衡ももくろまれず、色彩は孤独に作用することを命じられる」ことに気づくとき、ヴェルフリンはまるでついでのように素描における並行現象に言及して、「孤独な形―一本の樹木、一基の塔、一人の人というように―の魅力に対しても、バロックが初めて心を開いたのである」と指摘するが(注10)、ここに至ってなお「統一性」の語を使い続けることを正当化するものがあるとすれば、それはおそらく「直接感動を与えるもの」への集中、「瞬間的なものの概念」であり、「最も一般的な意味での要約や切りつめ」であろう(注11)。

以上の観察は肖像画―顔の各部分の形はクラシックでは等価だが、バロックでは独立性を失って、主たる部分に従属する―にも、さらには裸体画にも妥当する。クラシック期の作例であるティツィアーノの「ウルビーノのウェヌス」ではまとまりのある各部分を関節がつなげているのに対して、バロック期に属するベラスケスの「横たわるウェヌス」は、同じく寝台に横たわる女性を描きながらも「運動の情景」に近づいており、ほんの数個の強調点に分解された形が単一の全体を作る。クラシックの人体把握は「体系的」だがバロックのそれは非体系的なのであり、その結果として前者は画中の他の要素から孤立させることができるが、後者の場合そのようなことはおよそ想像できない。ベラスケスのウェヌスは後ろ向きで、鏡にぼんやりと顔が写っている。ヴェルフリンが「画中の付加物」という曖昧な表現で暗示しているのは、おそらくこの鏡であろう(注12)。
ところで、寝台に横たわる女性の像がよりによって運動の印象をもたらさねばならないということは必ずしもわかりきった約束事ではないし、関節の明瞭性を犠牲にするのも、小道具の活用(鏡の詭計)に訴えて人物を画中に根づかせるのも、相当手の込んだ工夫だ。この種の工夫を「統一性」と呼んで済ませることは間違った命名ではないにせよ、やや消極的すぎはしないか。
バロック期の集団肖像画(レンブラント「布地組合見本検査官たち」)からは「色彩と光と形の総和」の中の統一性が、風俗画(オスターデ「農民の居酒屋」)からは集団の中の特定の人物群の強調という原理が、歴史画(ティエーポロ「最後の晩餐」)からは「純粋に瞬間的なものの一層鋭い把握」が、それぞれ確認できるという(注13)。こういった多種多様な事例を見ていて気づくのはむしろ、統一性がつねに同時に、統一される側を対応物として要求するということである。この一見すると陳腐きわまりない事実も、全てが画家の手で一から創造されなくてはならない絵画制作の場では、発見の新鮮な価値を回復する。何をどのように描こうとそれは画家の筆先次第だと考えることはあながち的外れではないにせよ、ひとたび何かを描くと決めたならそれなりにそれらしく完成させないといけないし、ましてや同時に他のものを描くことはできない(ベラスケスのウェヌスはもちろん抽象画ではなく、筆致の奔放さにはおのずと限界がある)。世界は何らかの観点から見られることなしには存在しないが、しかも世界を見る者が占める観点を制約する所与でもある。再びドゥルーズを参照すると、「主体が世界にとって存在するためには、世界を主体の中におかなくてはならない」という(注14)。バロック的な統一性への志向が掘り当てたものは、このねじれではなかったか。

この奇妙なねじれは、ヴェルフリンの叙述が風景画に及ぶときにいよいよはっきりする。典型的なバロック期の画家、例えばリューベンスの描く風景画(「メヘレンの干し草刈り」)では、もはや「絵の全般的な形と光の運動のほかに、独立したものとして捉えられる樹木が一本もない」(注15)。そしてまさにこのことが、広々とした奥行の印象をもたらすのである。いっそう地上に近い視点を採用していることからも、各部分(山川草木)の確固たる明瞭な描き分けをしていないことからも、結果はむしろ反対になりそうなものだが、曲がりくねった道や、荷車や動物や雲の配置は鑑賞者の視線をひたすら画面の奥へと誘ってやまない。クラシック期の風景画が、はるかに高い俯瞰的な視点から無造作に前景・中景・後景を積み上げ、この三つの層の間に軽重の差を設けたがらなかったのとはずいぶん対照的である。
他方、レンブラントの「三本の樫の木のある風景」(エッチング)は極端な強調の実例である。

一つのモティーフがこれほどまでに画中の支配的モティーフになるのは、これまで体験されたことがない。もちろん、樹木だけがモティーフなのではなく、屹立(きつりつ)するものと、平原の平坦な広がりという隠れた対比もある。とはいえ樹木が優位に立つ。すべてのものは大気の動きにいたるまで樹木の支配下にある。空は樫の木の周囲で光輪を織り上げ、樫の木は勝利者のように立つ。〔中略〕遠望される平坦な風景と、その上の高い空のほかにまったく何もないとしても、地平線の一本の線の力があれば、この風景画にバロック的特質を与えることができるのである。あるいは、どっしりした大気の塊が抑えつけるような力をもって画面を満たす時、空と大地の空間的比率が、そういうはたらきをするのである。(注16)

この引用文に続く文章はじつに興味深い。「これが単一的統一性という範疇のもとでの捉え方である。この捉え方が可能にしたものに、今、そして今初めて大洋の広大ささえもが表現され得たという事実がある」。
単に樹木を目立たせたいのであれば、白地に樫の木だけを描けば十分だったはずではないかとも思える。だが、もちろん実際にはそうなっていない。このあたりヴェルフリンの文章は若干不親切にも思えるのだが、考えてみれば本来いかなる「強調」も何かとの対比においてしか強調でありえないし、既述のとおりバロック美術においてはいかなる形象も単独で切り抜かれるわけにいかないということが本当だとすればなおさらである。この場合は非常に低く設定された地平線と空との拮抗を考慮に入れるべきなのであろう。この種の壮大な拮抗に遠くからかしずかれてこそ、樫の木は現に我々が見るとおりの威厳を保てるのである。
すでにヴェルフリンは、クラシックの風景画においては、例えば画面の端かほぼ中央に立つ樹木が垂直性を、積み重なった前景・中景・後景という三つの層が水平性を体現するというように、額縁を基準とする縦軸と横軸に従いながらそれらを強化するように働く諸要素が認められるのに対して、バロックの風景画ではもはやそのような構築性への志向は見当たらず、よしんばただ一本の地平線が例外として残るかのように思える場合でも、他の諸要素の協力を欠く中でその効果はかえって構築性の放棄に通じるという逆説を、ロイスダールの「ハールレムの遠望」を例に挙げつつ述べていた。

もろもろの形は額縁に逆らい、風景の切断は偶然的なもののように見え、軸体系は強調されない。〔中略〕ロイスダールは静かに低く置かれた地平線によって平坦な地形の感じを出す。この一本の強く語る線が、構築的な価値としてはたらくことは避けがたいように思われる。ところが、印象はまったくそうではない。(注17)

そしてまさにこのことが、つまり地平線が必然的な根拠に支えられてあるべき位置にあるとは到底見えないことが、「空間の際限のない広がり」に、ひいては「無限なものの美」に通じるのである(注18)。だからといって地平線が単独でこの結果をもたらすわけではなく、考えるべきはあくまでも額縁と地平線との相関関係、あるいはむしろ非‐関係である。
描く空間の範囲にかけては勝っているはずのクラシックの俯瞰的な風景画よりも、バロックの風景画のほうが、鑑賞者の視線の反応を誘発することによって(リューベンス)、あるいはたまたまそこに横たわるだけで額縁の要求する構築的な役割を担えない最低限の地平線を設けることによって(ロイスダール)、さらにはあまりにも弱々しい地平線と堂々たる樹木との直接的で(中景を欠く)急激な対比が遠近法的な錯覚を生じさせることによって(レンブラント)、広さや深さを巧みに喚起できる。もちろん、我々が自分の足でリューベンスの描いた道を歩んだところで奥行の印象は増大するどころかむしろ減少するはずだし、ロイスダールが地平線として描いた地点に実際に立ってみても、彼方に新たな地平線を見つけるのが関の山だろう。視覚が無限を実感するには、たどるべき道や、乗り越えうる地平線と感じられるものが目前にあることが必要なのであり、かつそれで十分なのである。
もとよりクラシックの風景画でも遠近法の法則自体は守られているのだから、鑑賞者が好き勝手に奥に向かって視線を走らせることもできそうなものだが、実際にはリューベンスがたった一本の道筋を選択し、したがって無数にある他の可能な道筋を切り捨てた結果として、かえって画面はよりいっそうのびやかな奥行を獲得する。レンブラントの巨大な樫の木は右半分の中央をでかでかと占拠することで、かえって本来の寸法への推測を呼び起こして、画面の残りに「大洋の広大さ」に比すべき「無限なものの美」を招き入れる。藝術における自由と制約の関係は、かくのごとく逆説的である。
このように見てくると、ヴェルフリンがバロック様式の「統一性」と名づけたものは、むしろ統一されるべきものを前提とし、それとの遭遇の中でのみ作用しうる、相対的な「牽引力」とか「凝集力」と呼んだほうが適切だったような気がしないでもない。あるいは、すでに引用した文章―(注3)を参照のこと―には「絶対的統一」とある点に考慮するなら、画中の諸要素と同居しつつも概念的には独立な、画家の人為的工夫を強く刻印された統一性それ自体とでも呼ぶべきか。画面全体を奥に向かう単一の運動に従属させるリューベンスと、手前の樹木を極端に強調するレンブラントとの間に、本当に何らかの手法が共通しているのだとすれば、それは何よりも、まるで額縁を無視したかのように偶然を装ったさりげない手つきで景色を切り取って見せるロイスダールの狙いをいっそう積極的に追求することでしかありえず、つまりはいかにして有限な人為的枠組の中に世界の無限性が宿りうるかという問いかけへの緊迫した応答の試みだったのではないか。

本当はここから、チェーホフの『六号病室』や大西巨人の『神聖喜劇』、西尾維新の『クビシメロマンチスト』などの「殴られる主人公」に注目して、小説における暴力と被害者の倫理的主体性との関係を問題にしつつ、例えば中上健次が「たちまち体はがらんどうになった。その中に蝉の鳴き交う声がひびく。秋幸は草の葉だった」(注19)と書いて世界そのものを平然と主人公の内部に侵入させてしまうときのような、登場人物のいわば透過性について多少原理的な方向で考えてみたかったのだが、あまり長くなってもよろしくないのでこのあたりで切り上げることにする。
ともかく、藝術作品における開放性というものは単なる空無性とは違う。全てがすでに与えられている(かのような)現実とは違い、何もないところで一から何かを描き、誰かを書くという作業が不可欠なのだ。ただし小説は絵画でなく、いかに写実的な描写であっても厳密な意味での視覚性は皆無であるし(挿絵と本文は違う)、何らかの仕方で登場人物の内面に踏み入らざるをえない(風景を叙述してそれで終わりというわけにはいかない)以上、もともと登場人物の受動性は避けがたいはずであること、および主人公が話者を兼ねる一人称小説は、この受動性をしばしば透過性にまで推し進めうること、この二点はとりあえず記しておきたい。


(1)ハインリヒ・ヴェルフリン『美術史の基礎概念』(海津忠雄訳、慶應義塾大学出版会、2009年初版第4刷)227頁。
(2)同書228頁。
(3)同書229-230頁。
(4)同書233-235頁。
(5)同書237頁。
(6)同書238頁。引用に際して、原文中の傍点が付してある箇所(「一つ」)を太字の表記に改めた。
(7)ジル・ドゥルーズ『襞―ライプニッツとバロック』(宇野邦一訳、河出書房新社、1998年)58頁。
(8)ハインリヒ・ヴェルフリン『美術史の基礎概念』(前掲書)238-239頁。
(9)同書240-241頁。
(10)同書241頁。
(11)同書243頁。
(12)同書245-248頁。
(13)同書248-253頁。
(14)ジル・ドゥルーズ『襞―ライプニッツとバロック』(前掲書)47頁。
(15)ハインリヒ・ヴェルフリン『美術史の基礎概念』(前掲書)256頁。
(16)同書256-257頁。
(17)同書211-212頁。
(18)同書212頁。
(19)中上健次『中上健次選集1 枯木灘|覇王の七日』(小学館文庫、1998年)65頁。
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category: ヴェルフリン

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日日日『ささみさん@がんばらない7』 

『ささみさん@がんばらない』(小学館、ガガガ文庫)はまだ完結していない作品であるから、あまり軽はずみな断定は書くべきでない。だが、「平成」に次ぐ元号であるという「平安」時代(当然ながら今上天皇の崩御後である)を描くディストピア小説である『平安残酷物語』と並んで、天皇家のことを考える上で興味深い小説たりえているような気がするので、他日参考にするための覚書みたいなものを残しておくことにした。

とりわけ初期の『ささみさん@がんばらない』は、「好むと好まざるとに関わらず他者の自由意志を侵害してしまう己の全能性を自覚して悩む、全能者の孤独」と「祭司職の重荷を単一の家系に押しつけ、背負わせることの道徳的な是非」をいやでも読者に考えさせるような仕組みになっており、暗に天皇家のことが意識されていると考えて差し支えない内容だった(ような気がする)。しかしその後徐々に作品の主題は膨れ上がってゆき、ギリシャ神話やインド神話の換骨奪胎を経て、この第7巻ではラヴクラフトに淵源するクトゥルー神話が料理される。といってもそれはあくまでも枠組にすぎず、内実は以前から何かと主人公たちとの間で揉めていた悪徳オカルト結社「アラハバキ」の首領が企んだ陰謀である。幸い簡にして要を得た説明があるので引用しよう。

たしかに、こうして見ると単純明快だ。
邪神(やがみ)たま=『氾卵の邪神シュブ=ニグラス』が膨大な『霊力』を集め↓
弥火(みか)ちゃん&淡島(あわしま)さま=『魔海の邪神クトゥルー』がそれを強奪し↓
情雨ちゃん=『大抗の邪神ハスター』が最終的に、そのすべてを捕食し、得る。
膨大な『霊力』を集めて、そして首領が何を目論んでるのかわからないが―情雨ちゃんの『まつろわぬものアラハバキ』はあらゆる神仏を吸収し、強くなる。(注1)

あいにく固有名詞が氾濫していてあまり引用の意味がないことに気づいたが、その点はご容赦いただくとして…とにかく、登場人物が正面からぶつかりあい、白黒をはっきりさせるために腕っぷしの強さを競うような物語とは違い、資源(霊力)を「集め」、「強奪」し、「捕食」し、「アラハバキ」なる霊的存在(これが組織名の由来)の神格を強化するという陰謀が本巻の中心にあることは難なくご理解いただけるものと思う。そしてこの筋書はクトゥルー神話の借景によって成り立っているのみならず、ギリシャ神話にもとづく以前の事件の「醜悪なパロディ」(注2)でもある。
カントは、『実践理性批判』の第一部第一篇第3章「純粋実践理性の動機について」で、人間は理性的存在者である以上「決して単に手段としてのみ使用せられるものではなく、同時にそれ自身目的として使用せられねばならない」と説いた(注3)。知らぬ間に悪巧みの要の位置に据えられていたことに良心のためらいを覚え、尻込みする娘の蝦怒川情雨(えどがわ・じょう)に向かって、「あんたが、失敗してきた―これまでの『陰謀』を、忠実になぞったのよ。正しいやりかたを教えてあげるために」と言い放ち、なおも抗弁する彼女の肉体を平然とえぐって「アラハバキ」を回収する首領の姿は、肉親を含む他人を全員手段としてのみ扱う点で、非常にわかりやすくカント的な悪の原理を体現している。
一神教を奉じる「アラハバキ」の連中は、月読鎖々美(つくよみ・ささみ)たち主人公が代表する日本神話の正統派とは対立関係にある。「悪の行きつく果ては、独りぼっちの頂点」(注4)と言ってはばからない首領は、ことによると一神教の負の側面を凝縮しているのかもしれない。しかしそのような明快すぎる整理は、たとえできるとしても少々危険だろう(もっとも私自身は、「宗教」ではなく「神話」を扱う本作が、高度な政治性を帯びそうで帯びず、結局その周りをめぐるにとどまっていることに個人的には煮え切らなさを覚えることもあるのだが、これはまた別の問題である)。他者をもっぱら自己の目的のための手段として使役することがそれ自体罪悪であるという事情は、情雨やアポロンの挫折に終わった陰謀と同種の陰謀が、今回はクトゥルー神話という器を借りて限りなく成就に近づく中で(注5)、何重もの模倣や相継ぐ重複によっていわば濾過され、あるいは煮つめられ純化されているのだ。この濾過の過程を見落としてはならない。そしてすでに挙げた二つの問題、すなわち「好むと好まざるとに関わらず他者の自由意志を侵害してしまう己の全能性を自覚して悩む、全能者の孤独」と「祭司職の重荷を単一の家系に押しつけ、背負わせることの道徳的な是非」は、どちらもこの第三の問題のもとに、下位区分として自然に収めることが可能なはずだ。
つまり、『ささみさん@がんばらない7』が読者に迫る選択というものがもしあるとすれば、それは「一神教か多神教か」である以前に、「他者を人格として尊重するか、単なる手段へと貶めるか」といういっそう根源的な選択なのではないか。最終的に首領を破滅させたものは、外敵の攻撃を無限に先延ばしすることで彼の身を守ってきた「這いよる混沌アバオ・アクー」に対してヴィシュヌ神が元の上司として離脱を命じた後、「死の神」イザナミが千回分の死を叩きこんだことだった。つまり、少なくともこの巻においては、勝利は日本神話の現役世代である鎖々美たちだけの手柄ではないし(彼女らにできたのは、たかだか首領が作り出した異界に裂け目を入れ、外界への通路を切り開くことくらいのものだ)、かつ、高位の神々はそれぞれ己の管轄内では絶対的な権限を誇るために単純な腕力の強弱は問題にならず、然るべき機会さえ与えられればあっという間に、いわば論理的に決着がついてしまう。したがって、「アラハバキ」流の―唯我独尊的な―一神教にまずいところがあるとすれば、それはなにも価値や戦力の点で多神教に劣るからではなく、単に対処すべき不測の事態が生じた場合に人脈の豊富さで引けを取ってしまうという、もっとずっと即物的で実際的な理由によるのだ。仮にこの首領に家族愛があったとしても、それは敵意を一身に集めて殺されることで結果的に妻子の立場を自由にしてやる、という、余裕のない、どうしようもなく屈折した形の善意でしかありえない(注6)。
このようないっそう広い視野の中に日本神話を置いて眺めることができるのが、『ささみさん@がんばらない』の読者の醍醐味の一つだろう。世論に加えて憲法の規定がある以上、皇室を今日明日中に解体するなどという乱暴な措置は無理難題に決まっているが、華族(貴族)制度の廃止後もなお象徴として国民の注視を浴びながら、生涯にわたって黙々と公務をこなし続けるというのはなかなか神経の疲れる生活ではないかと拝察する。その種の重荷をたった一つの家系(の、たった一人の家長)に負わせることが、果たして多神教的な意味で真の敬意の表現でありうるか、他の方途はありえないのかという疑問は、たとえ直接的にではないにせよ、この小説からさしたる困難なしに導き出すことができるはずだ。一見すると先立つ巻の焼き直しのように思えなくもない第7巻は、この問いに原理的な背景を付与するものとして、独特の存在意義を有している。

以下は少しだけ関係のある余談。
同人シューティングゲームの東方Projectは能楽(夢幻能)の延長線上で考えるべきではないかと私は思う。抽象的な舞台装置(限られた空間)が設けられ、何かしら古典に由緒のある身の上話を語る登場人物がそこに敵方として現れて、音楽につれて舞、というほどでもないが象徴的な仕草を繰り広げるとともに華麗な弾幕がプレイヤーの目を魅了する。往々にして亡霊や神々である彼女らがプレイヤー側の美的な関心を引き寄せる「シテ」に相当するとすれば、いわばその引き立て役であり、相対的に普通の人間に近い主人公たちは「ワキ」に相当する。特に『東方永夜抄』や『東方星蓮船』では、平安時代が主たる参照先となっていることを思えば、なおさら能楽との親近性は否定しがたい。ところが『東方神霊廟』(2011年発表)はさらに時代をさかのぼって飛鳥時代に典拠を求め、いささか入り組んだ手法でついに皇族を登場させるに至った(全く初めてというわけではないが、知名度とゲーム内での地位を考慮すると、やはり「ついに」だろう)。
『東方神霊廟』の6thステージのボスである豊聡耳神子(とよさとみみのみこ)―明らかに聖徳太子を連想させるが、ひそかに道教に帰依して仙人となり、仮死状態(?)から復活を遂げている―の弾幕は、露骨な攻撃性が乏しく、プレイヤー側を不手際・不注意ゆえの事故死に追いこむ型のものが多い。最後のスペルカード(必殺技に相当するもの)である「生まれたばかりの神霊」(注7)などはその最たるもので、光り輝く球形の霊たちが次々と降ってきて画面を埋め尽くす光景は殺傷力どころか、反対に生命の豊穣さすら感じさせるほどだ。誰しも気づくことではあろうが、神子自身が「矢」や「刀」を武器として用いるのはスペルカードを使わぬ通常攻撃のときだけで、「豪族乱舞」(第三のスペルカードである)ではわざわざ5thステージに登場した部下たちを召喚して射手を務めさせている。天皇(皇族)が伝統的に、自身は武力を振るうことなく武力の上に立ち、生きとし生けるものを慈しむ威徳ある仁君として表象されてきた―実態はどうであれ―経緯を思えば、まことに的確な設定であろう。そもそも彼女が東方Projectの舞台である幻想郷にいるのは、歴史学の進展につれて聖徳太子にまつわる言い伝えの信憑性が低下し、その実在に疑問符が付けられるようになったためだ(幻想郷は現世で顧みられなくなったものが流れ着く世界だという)。「人間が私の存在を否定し、/伝説となる時を待っていたわ!」・「さあ私を倒して見せよ/そして私は生ける伝説となる!」と言いながら挑んでくるその姿は、不在と境を接する己の虚構性・非現実性に寄せる奇妙な自負をうかがわせるとともに、ある意味では彼女が従来の6thステージのボスたちと比べて格段に弱いという事実を合理化するものである。一頭地を抜く充実した現前性ではなく、逆に実質的な権力の中枢から遠ざけられたがゆえの一種のか弱さ・奥ゆかしさこそが、天皇家をときには風前の灯に近づけながらも今日まで長続きさせてきた要因の一つであることは、良し悪しの評価とは別に多くの人が認めざるをえまい。豊聡耳神子は、いわば我々プレイヤーが気づかわざるをえない相手(目上の弱者)なのであり、彼女の弾幕にぶつかって死ぬのは我々(臣民)の側の配慮が足らなかったことの報いなのだ。天皇的なるものに対する作者(ZUN)の洞察の深さを、推して知るべしである。
福嶋亮大は一方で東方Projectを民俗学的な文脈の中に位置づけつつ、他方で作り手による意図的な無意味化の操作を特徴として挙げているが(注8)、『東方神霊廟』を遊ぶことができる現在、この見立ては必ずしも十分ではないように思える。先に能楽になぞらえた高度の様式化はもとより本作でも健在な上、東方Projectの典拠が狭義の民俗学的な「コモンセンス(常識=共通の意味)」(この用語は福嶋氏による)を超えて、いっそう広範囲に拡大しうることが―平安時代への暗示によって従来から片鱗はあったものの―ほとんど記紀神話の世界と地続きになった上古の時代を参照先とする本作に至ってはっきり確認できたこと、また豊聡耳神子の存在そのものが、あたかも「橋掛かり」や「作り物」を出入りする能役者のごとく、端的な現前(出ずっぱり)とは違って不在の混入による律動を伴っており、その結果一種の価値もしくは事件性を現前に付与しえていること(したがって無意味化の契機は作者やプレイヤーの主観的意図を離れてもなお、作品の構造それ自体によって登場人物の身柄の中に脈々と働いており、そのかぎりむしろ同時に意味の発生に寄与してもいること)、この二点はとりあえず指摘しておきたい。


(1)日日日『ささみさん@がんばらない7』(小学館、ガガガ文庫、2011年)262頁。なお、2行目と3行目の末尾の矢印は原文通りである(ただし左向きだったのを引用に際して下向きに改めた)。
(2)同書264-265頁。
(3)カント『実践理性批判』(波多野精一・宮本和吉・篠田英雄訳、岩波文庫、2003年第29刷)181頁。
(4)日日日『ささみさん@がんばらない7』(前掲書)272頁。
(5)同書259頁、「『異界』を、クトゥルー神話に基づいた世界観に構築させたのは、便利だったから。人工の、新しい神話―余計な歴史がないぶん、アタシの思惑どおりに歪めやすい」。
(6)同書301-302頁。
(7)ただしこれはハードモードおよびその上のルナティックモードでの名称であり、イージーモードおよびノーマルモードでは、「星降る神霊廟」という名でより難易度の低い同種のスペルカードが出てくる。
(8)福嶋亮大『神話が考える』(青土社、2010年)246-253頁。なお、福嶋氏は「無意味化」の実例として『東方地霊殿』の6thステージの「人工太陽」を挙げ、「地下深くまで潜り込んでいくことは、そのまま天空に垂直的に上昇していくことと一致していたのである」と述べているが、主人公(プレイヤー)が続くExtraステージでは、事件の元凶を求めて山上の神社に挑まなくてはならないという事実をなぜか黙殺している。下降と上昇の連続性は、福嶋氏が事新しく指摘するまでもなくゲーム内ですでに可視化されているのだ。第一、三本足の八咫烏(やたがらす)と太陽との関連自体は既存の伝承を『東方地霊殿』が借用した結果にすぎず、新発明からは程遠い。
もとより藝術作品の秘訣が容易に単一の意味に回収されえない「ノンセンス」性にこそあるという説それ自体には、私とて別に異存はない。だが、氏が援用しているフロイトの機知論に依拠するかぎり、そのような説は結局ありとあらゆる藝術作品に妥当してしまうのであって、東方Projectを東方Projectたらしめているもの、いわば「東方らしさ」の核心には届かないのではないか。何が「東方らしさ」か、という積極的な問いの立て方につきまといがちな数々の陥穽は重々承知した上で、それでもあまりに一般的・図式的な規定以上の何かがやはり欲しいと願うのは、果たしてわがままだろうか。

category: 『ささみさん@がんばらない』

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えすのサカエ『未来日記』 

えすのサカエの『未来日記』(角川書店、全12巻、2006-2011年)は難解な漫画だ。
筋書自体にさほど込み入ったところはない。要約すると―人生の「傍観者」にすぎなかった内気な中学生・天野雪輝(1st)は、日頃からつけていた携帯電話の日記に未来の出来事が書かれていることに気づく。それは時空王「デウス・エクス・マキナ」が桜見市の人々に与えた12種類の「未来日記」の一つで、公平無私な予知を可能にする「無差別日記」だった。有頂天になる雪輝だったが、やがて彼を慕うストーカーの少女・我妻由乃(2nd)が現れ、彼女の「雪輝日記」の助けで辛くも死地を脱するに及んで、デウスの狙いに疑問を抱くようになる。実は、寿命の尽きかけたデウスは未来日記の所有者たちに「サバイバルゲーム」をやらせ、最後まで生き残った者に神の座を譲ろうとしていたのだ。否応なくゲームに巻き込まれた雪輝は、自身の安否に関わる予知は由乃に頼りつつ、徐々に当初の戸惑いを振り捨て、家族や友人を失いながらも必死で優勝を目指すようになる。「神」になれば全てを取り戻せると信じて―といったところか。
また、予知に抗うことによる未来の改変や、平行世界への移動などがややこしいのでもない。そういった事象に関しては作中に十分な説明がある。
『未来日記』の複雑さは、もう少し違う次元に存在している。

この作品においては、空虚の確保が「生」や「希望」や「正義」に通じ、逆に充満の強制が「死」や「絶望」や「悪」に通じるという構図が一貫して成り立っているようだ。
試みに、概要を以下に示す。

まずは「空虚=生・希望・正義」の等式の実例から。
第1巻68-69頁:3rd(火山高夫)の追撃からの戦術的な一時撤退(雪輝と由乃は屋上の壁面にはりついて身をひそめ、二人を追ってきた火山は無人の光景に驚いて隙を突かれる)
第3巻16頁:「こんな世界は/無くていい……」
同187-189頁:口移しによる空気の補給(雪輝→由乃)
第4巻56頁以下:展望台への籠城、犬たちの侵入の阻止
第5巻78-82頁:投身自殺めいた逃避行
同88-90、119-122頁:ドーナツ(「………/昔父さんが」「よくドーナツを/あげてくれたっけ」)
同114-117頁:穴の縁で結ばれる「雪輝‐由乃‐みねね」同盟
第6巻153頁:「とにかくこの作戦には/敷地の広さが/必要になる」
第7巻16-17頁:「こうなりゃ」「奥の手!」「退っ」「却っ!」
同71頁:ドーナツ
同132-143頁:雪輝はあえて由乃一人をマルコ‐愛の二人組(7th)に立ち向かわせた上で二人を分断し、一人きりになった愛に改めて二対一の有利な戦いを挑む。この作戦の成否は、偽の情報でマルコを騙し、彼を無人の放送室に誘導する一手にかかっている。空虚を制御できる者が勝利するのだ。逆にこれをマルコたちの側から見れば、てっきり放送室に隠れているとばかり思っていた雪輝が突如衝立の背後から現れて由乃に加勢するせいで、勝てるはずだった二対一の戦いの形勢が逆転するまでの過程ということになる。充満は脅威なのである。
同154-156、181頁:パラシュート
同172-177頁:瓦礫からの脱出
第9巻65-66頁:桜見中央大学のドームに爆弾が開けた風穴
同131-132頁:「ムクドリ作戦」が功を奏し、無人のまま敵の包囲網に到着したエレヴェーター
同162頁:雨流みねねをかばい、蜂の巣になって死んだ西島
第10巻20-22頁:我妻銀行大金庫への11th(桜見市長ジョン・バックス)の籠城
同103-105頁:大金庫の扉を開けるためのみねねの自爆
同130-131頁:「全てを“0”(チャラ)に」「それがユッキーの/目的でしょう?」
第11巻102-107頁:大空を背景に、首をはねられながら雪輝に貴重な真実を伝達する秋瀬或

続いて「充満=死・絶望・悪」の等式の実例。
第1巻118-119、166頁:校舎を満たす爆風
同156-157頁:雨流みねね(9th)の要求に屈し、雪輝をよってたかって組み伏せる生徒と教師たち
同188頁以下:地雷原
第2巻42-43、89-90頁:ふすまの向こうの三体の死体(第6巻64-65頁に至って「多すぎる」ことが判明する)
同110-113頁:巻物を埋め尽くし、正確な予知を妨げる大量の攪乱情報
同132-133頁:「死体が死んでないわっ!!!」=「『死体のフリ』をする催眠術」
同161-163頁:5人の12th(4人は催眠術で調達した影武者)
第3巻36-37頁:巻物を埋め尽くし、新規の予知を妨げる大量の攪乱情報
同58-63頁:押し入れから出てこようとする由乃
同106-107頁:毒薬分だけ「重い」トマト
同155頁以下:家の中に満ちる青酸ガス
第5巻52-58頁:ロシアンルーレット(「さて雪輝」「5発中4発撃って/いずれもハズレ」「次はお前の番な/わけだが―」)
第6巻40頁以下:部屋に流れ込むコンクリート
同146-149頁:一膳分余計な皿
第9巻72頁以下:全市民への「未来日記」の普及
第10巻5-6頁:肩まで地面に埋まった雪輝の父の遺体(雪輝が穴を「掘る」場面は省略され、埋葬はすでに完了しかかっている)
同111-114頁:11thの予想を裏切り、我妻銀行大金庫に由乃が潜入して彼を殺害する
第11巻178-180頁:由乃が平行世界の彼女自身のもとを訪れ、直後に殺害する

以上は網羅的なものではないし(特に第12巻の検討は論述の都合上後回しにせざるをえない)、そもそも誰の視点に立つかによっても結果は違ってくるはずである。
とはいえごくおおざっぱな傾向としては、空虚が「生・希望・正義」の原理であり、充満が「死・絶望・悪」の原理であるという対照関係を認めてよいのではないか。
なるほど一見すると、後者の事例は前者のと比べてやや生彩を欠くようにも思える。
しかしその理由は、我妻由乃一人だけがこの対照関係の例外であり、かつ彼女が作品の終盤でしだいに存在感を強めてくるからだ。養父母の死体を隠蔽すべく「底が見えない」ほどの深い穴を自宅の中庭に掘り(第5巻1、30-32頁)、食欲のわかない雪輝の口に無理やり食べ物を詰め込む(第6巻53-55頁、第10巻130-131頁、第11巻5頁)由乃にとっては、空虚こそが死の原理であるように、充満こそが生の原理である。たしかに、雪輝を慕うあまり彼の恋路を邪魔し、養父母の折檻に耐えかねて彼らを殺すという彼女の行動は、十分それ自体として理解することが可能であろう。だが、その際正体を隠そうとわざわざ着ぐるみに身を包んだり(しかも私物らしく、そのままの格好で帰宅している)、檻に養父母を閉じ込めて餓死させるという殺し方を選んでいるあたり(第8巻18-37頁)、どうもさらなる説明が必要ではないかと思えてくるのだ。ことによると、着ぐるみを己の四肢で隙間なく満たすことはそれ自体が成功の保証(あるいはまじない)として機能しているのかもしれないし、また養父母の殺害手段が加算的(刺殺や毒殺など)ではなく減算的(食料と自由を奪い、空気のみを与える)であることにも―単に自分が受けたとおりの仕打ちをやり返すという以上に―おそらく彼女なりの必然性があるのである。しかも彼女は、一見して怪しい巨大な穴を埋め直さず、底に寝かせた死体に申し訳程度に土をかぶせるだけで済ませるという異様な処置を採用しているらしい(第6巻59-61頁)。これではまるで隠蔽になっていない。雪輝の父親の遺体が穴掘りの段階を省略した迅速な埋葬の描写に与る(第10巻5-6頁)のとは対照的に、由乃の養父母の墓穴はぽっかりと口を開けたままで、決して蓋をする者がいないばかりか、後述するように由乃がかつて犯した罪深い所行を明かす「過去から未来への映像(ビジョン)」(第11巻155-188頁)に通じているのだ。
このような観点を念頭に置いた場合興味深いのは、同じく口づけを介した伝達でありながら、雪輝が由乃に与えるものは空気であるのに対して、由乃が雪輝に与えるのは水であるという事実だろう(第3巻187-189頁、第8巻92-93頁)。いやそれどころか、「台本」を準備して11thを追いつめる雪輝の勇姿を演出したのも(第8巻118-119頁)、彼に「おかしな事を吹き込む」策略を弄して友人を銃撃させたのも(第11巻62頁)彼女にほかならない。たとえ全面的にではないにせよ、雪輝の内面はかなりの程度まで由乃による充填作業のたまものなのだ。
由乃の一連の行動を導く動機は、雪輝に対する狂気のような愛情であり、ひいては未来日記所有者たちの「サバイバルゲーム」を制し(したがって最終的には雪輝をも殺し)、なおかつ「神」の地位には就くことなく新たな平行世界に移動して、再び彼と束の間の共闘を生きることである。それができるだけの膂力と冷酷さが、中学生、それも女性とは思えぬほどの強度で彼女には具わっており(片手に持った携帯電話で通話しながら、歩度を緩めずに成人男性を一刀両断する描写さえある)、戦闘の場面はしばしば彼女の独壇場の観を呈するほどだ。したがって由乃の活躍が作品の終盤に近づくにつれて増えてくるということはそのまま、充満の原理が殺伐とした血生臭さに通じることの証明たりえている。
おそらく由乃が迷いなく残酷な行動に踏み切れるのは、すでに一度同様の体験を経ていることとも無縁ではない。すなわち作品の開始の時点で、実は彼女は一回目の「サバイバルゲーム」を勝ち抜いて「神」になりかけながらも雪輝の復活が不可能事であることを知り、窮余の一策として新たな平行世界(本作の舞台)に移動した上で、そこにいた由乃自身を―「『私』は二人もいらない」という信念にもとづいて―殺害し(第11巻178-180頁)、まんまと入れ替わっていたのである。これが、我妻邸の巨大な穴に養父母の死体とともに横たわる、三体目の死体の正体である。「充満」こそが善であるという価値観から、恩恵の独占・飽くなき追求という欲望まではほんの一歩なのだ。そして我執の空転には、逆説的にも個体性の価値の下落という代償が伴っている。

じゃあ/私が「神」になっても/いいじゃない
そうすれば私は/“三周目の世界”のユッキーと/また「ゲーム」が出来る〔…〕
―どうせ皆/世界と一緒に/回り続ける
「駒」じゃない(第11巻204-205頁)

由乃は雪輝を愛するあまり、新たな雪輝に会いたいあまり、唯一無二の恋人であるはずの目前の彼を是が非でも「駒」とみなして殺さなくてはならない。ここには悲劇的な逆説がある。
おぞましい真相を知った雪輝に狂人呼ばわりされても、「狂ってるのは/私とユッキーが/結ばれないっ/この世界の方だよっっ!!!」と言い放つ由乃の狂気は、ただ単に、雪輝への愛着が常軌を逸していることや、躊躇なく邪魔者を排除できる殺人への忌避感の薄さだけに由来するものではない。彼女が「狂っている」理由はたぶんもっと根深いところにあり、空虚と充満の帯びる価値が、他人と彼女とでは正反対になっているからにほかならない。別世界からやって来た(そして、養父母を殺した自分自身を殺した)という経歴のためばかりでなく、このようにもっと本質的な水準で、由乃は身寄りのない異邦人なのである。ゆえに彼女はいかなる喪失をも恐れることなく、一目散に前途の獲物に向かってゆくことができる。平然と「皆」を「駒」と呼んではばからない(あるいは、そのようなふりをせざるをえない)由乃にとっては、「もうっ“天野雪輝”を/追いかけるなっ!」(第12巻70頁)という雪輝自身の叫びからも分かるように、固有名が個体性を失い、いわば普通名詞化しているのだ(しかし普通名詞でしかない恋人の名に、はたしてどんな値打ちがあるというのか)。
問題は、ここまで割り切った考え方を貫き通すのは、由乃といえども至難のわざだという点である。彼女の「雪輝日記」をもってすれば雪輝を追いつめること自体はたやすいのだが、日記の文面はつねに彼の身に迫る間近な危機を心配するという体裁になっており、そのことが由乃を悩ませる。他方で雪輝も、「由乃と同じじゃ/ないか―…」「僕は自分のために/皆を殺した……!」(第11巻212頁)という反省を経てなお、「三周目」への執念を燃やす由乃を止めようとしてあがく。個体性の閑却は、たとえ全くの無理難題ではないにせよ、我々にとって容易なことではないのだ。

君にとって
僕はいくつもある/「駒」の一つかも/しれない……〔…〕
でもっ
僕にとって君は/大切なただ一人の人/なんだ……!(第11巻218-219頁)

雪輝は決して、由乃の目的が邪悪だから彼女を憎んでいる、というわけではない。「僕は君を救う!」という決意(第11巻220頁)からこの上なく明瞭にうかがえるように、彼女が個体性の抹消(雪輝自身と平行世界の由乃の殺害)という罪を重ねるのを何とかして防ごうとしているのだ。あくまでもそれに反論し続けようとすれば、由乃は必然的に己の恋愛を否定することを余儀なくされる。

私は依存出来る人間なら/誰でも良かった
あなただって/守ってくれる人間なら/誰でも良かったはずよ(第12巻102-103頁)

このような恐るべき台詞を、誰に命じられたわけでもないのにほかならぬ自分の口から言わざるをえないということが、由乃の真の悲劇性であろう。あらゆるものを犠牲にして未来の充満を追い求めた結果、過去は一切の意味を失って空虚になる。

ところでグレゴリー・ベイトソン(この人はなまなかな分類を受けつけない曲者だが、強いて肩書を決めるなら文化人類学者だろうか)によると、「意味」とは「冗長性(redundancy)」にもとづいて考えるべき概念であるという。

音素の連なりでもいい、一枚の絵でもいい、一匹のカエルでも、一つの文化でもいいが、なんらかの出来事または物の集合体に、とにかくなんらかの方法で「切れ目」を入れることができ、かつ、そうやって分割された一方だけの知覚から、残りの部分のありさまをランダムな確率より高い確率で推測することができるとき、そこには冗長性またはパターンが含まれることになる。これを、切れ目の片側にあるものが、もう一方の側にあるものについての情報を含む、あるいは意味を持つと言ってもいいだろう。(注1)

英文中に現れるアルファベットのTは直後にHやRが続くことを推測させ、地上に現れた樹木は地下の根を推測させ、円弧は円周全体の姿を推測させる。このように、冗長性としての意味はいたるところに遍在しており、なかんずく人間同士のコミュニケーションのあり方から如実にうかがえる。「雨が降っている」という発言は、聞き手に窓の外の雨粒の存在を推測させるのみならず、窓外に雨粒を認めて発言の正しさを確かめた人は、同時に自分と話し手との信頼関係についても再確認することになるのだ。このことをベイトソンは、コミュニケーションにおいては「部分によって全体をあらわす」コード化の作用が成立している、と表現する(注2)。
さて、作中に登場する未来日記には、雪輝の「無差別日記」や由乃の「雪輝日記」以外にも、持主の性向に応じたさまざまな種類のものがあるが、いずれも近い未来の出来事をあらかじめ持主に知らせ、場合によっては回避すべき危険な運命―その最たるものは「DEAD END」、すなわち迫りくる他の日記所有者の脅威を反映した殺害予告である―を教えてくれるという機能を有する点は変わらない。これがベイトソンの語彙を借りれば、「冗長性」を増やし、個人の生涯における予測可能性を飛躍的に向上させる道具であることは一目瞭然だろう。この点で示唆的なことに、全市民に予知能力を授けんとするジョン・バックス(11th)が利用した「HOLONIII(ホロンスリー)」(桜見中央大学にあるスーパーコンピュータで、演算能力は国内第三位らしい)は、一部の破壊が全体の機能不全に直結しないで済むよう、名前通り「部分が全体を兼ねる」構造になっている。
しかし、「未来日記」の所有者たちにデウスがやらせようとしているのは、生き残りを賭けた「サバイバルゲーム」であった。この場合、いたずらに予測可能性だけが増しても、単に座して死を待つ恐怖がその分大きくなるにすぎない。このゲームがゲームたるゆえん(あるいは、読者にとっての醍醐味)はむしろ、いかに死力を尽くして「DEAD END」の予告を覆すか、いかに情報戦を制して他の日記所有者の予知を欺くかにある。もし上述のごとく「空虚」が「生・希望・正義」の原理に等しいのだとしたら、その理由はおそらく、空虚(何らかの出来事が起きないこと)が予知の端的な失敗の、最も分かりやすい実例であるからに違いない。空虚の発生は、それまで敵が掌握していた冗長性(予測可能性)を首尾よく奪回できたことの、動かぬ証拠なのだ。
もっとも第10巻では、各地に名状しがたい「穴」(強いて似ているものを挙げるとすれば小型のブラックホールだろうか)が大量に発生して建物や人を呑み込むさまが描かれているが、これとて別に反証ではなく、デウスの衰弱を反映して空虚と充満との概念的な境目が乱れたと判断すべきであろう。球体状にまとまって回転しながら家屋をすりつぶす黒々とした「穴」は、いわば「空虚の」充実(空虚からなる一様な集合)なのである。ベイトソンは"inform"(情報を与える)という語の「形づける」という意味に注目している(注3)。全てが穴(空虚)であれば世界は文字通り形を欠き、無意味な混沌へと溶解してしまうはずだ(球は最も単純な立体である)。
しかし、自分一人が「二周目」のゲームを生きていることも、最終的には雪輝を殺すつもりでいることもひた隠しにする由乃の場合のように、世界そのものがいわば巨大な冗長性であっても事情は同様のはずである。「分割された一方だけの知覚から、残りの部分のありさまをランダムな確率より高い確率で推測することができる」どころではなく、彼女はゲームがたどりそうな成行を「すでに」知っているのだ(「サバイバルゲーム」の参加者の顔ぶれも、一回目と二回目で全く同じらしい。ただし勝負の細目には違いがある)。由乃が充満にこだわるのは、彼女に空虚が不足しているからであり、いわば「後がない」からである。
ベイトソンによれば、情報とは「違いを生む違い(a difference which makes a difference)」である(注4)。だとすれば充満の極致であれ空虚の極致であれ、完全な一様性は情報量の点ではこの上なく貧しく、無意味な状態であろう。しかし、空虚の中では新たに何事かが起きるかもしれないが、充満に対してはそれも期待できない。あえて上記の一覧表からは外した第12巻をひもといてみよう。雪輝の殺害をついに果たせないまま彼を球体状の幻覚空間―これに関して見落とせないのは「ユッキーの望むものは/全て手に入る/『夢の国』よ」という説明があることで(第12巻97頁)、例えば「まやかしの充満」という定義をこの説明から引き出してもさほど的外れにはなるまい―に幽閉し、もう一人の彼女自身をかばう養父母に襲いかかる由乃を狙って刑事が撃った弾丸は、奇妙に大きな黒い真円として(底面から、遠近法を誇張して)表現されており、頁をめくると今度は大きく引いた俯瞰的な構図で、さながら卵の殻を破るように幻覚空間から脱出した雪輝のおかげで彼女が一命を取り留めた様子が描かれている(第12巻152-155頁)。由乃単独ではまがまがしい金属の充実に抗うすべはなく、雪輝がまやかしの充満を拒絶して空の球体にひびを入れ、広々とした外界の空間に復活を遂げることが必要なのだ。単なる作者の気まぐれと呼んで片付けるには、このあたりの形象の振舞(死をもたらす充満した円と、破裂して生をもたらす球体)は少々整然としすぎているように思える。
ここに至って由乃は、驚きのあまり「嘘……」「夢より私を/選んだって事!?」と問い、雪輝の信じがたい行動の意味を解釈しようと努めざるをえなくなる。もとより彼が自分を愛しているということ自体は、由乃は先刻承知している。ここで改めて推測の対象となるのは、その愛情がいかほどのものかという強度である。一切の進展や変化の余地が失われたかに見えた充満の極致に空虚が生じ、未知の冗長性を新たに呼び起こす。再びベイトソンを参照すると、目前の相手と自己との関係に関わる事柄(愛情もその一例だ)は、非言語的な身体的行動によってこそ十全に伝わり、しかもその伝達行為には帰謬法的な性格がつきものだという(注5)。いわば「雪輝は由乃よりも夢(幻覚)を選ぶ」という暗黙の命題に対して、彼の行動が口頭では到底達しえないほどの自明さを伴う反証を突きつけたのだ。もしも、由乃の決定的な改心に通じるこの場面が、小さからぬ喜びを読者に(そして由乃に)覚えさせるのだとすれば、その理由は、登場人物による有意味な行動(あるいはむしろ行動による意味の創造)という芸術作品の原理そのものが凝縮されて主題と化し、具象的に実演されているからではないかと思える。

充満と空虚の微妙な均衡に潜む逆説的な調子は、雪輝と由乃の大詰めでの台詞に、どこよりも顕著に露呈している。他人を「駒」としかみなさない由乃の非情さが、そもそもの動機だったはずの自己の恋愛を否定せざるをえなくなる一方で、雪輝はなぜ自分は由乃が好きなのかを自問した果てに、彼女が「ずっと側にいて/くれたから……」(第12巻118頁)という一見ひどく空疎な答えを見つける。肝心なのは、これが彼にとっては「僕が父さんと/母さんを好きな/理由と一緒」(第12巻117頁)だということだ。愛情というものを一般的に定義しようと試みるならば、我々は習慣が血縁をしのぐと考えなくてはならないのである(だからこそ、元来孤児だった由乃による養父母の殺害も、深刻な事件でありうる)。たとえ血縁関係はおろか、相手の何らかの特長(容姿や性格など)という根拠すらあやふやだとしても、それは愛情が無価値であるということと同じではない。他人を「駒」と考えるか自分と対等の人格と考えるかは、事実我々の裁量に任されているのだが、それでいてそのような主観的選択は決して些細なものではなく、はっきりと客観的な結果をもたらすような、換言すれば我々を取り巻く世界の表情にはね返ってくる選択である。偶然が敷いた関係を、因果の蓄積が時間の経過につれて必然へと熟成させるのだ。
この理を知るとき、雪輝はごく自然に、「僕が死んで/君の居場所を作る」(第12巻170頁)という倫理的な決断を発することができるし、由乃もまた彼の代わりに自殺することでゲームを終わらせることができる。もはや発端の偶然が唯一無二の相手への愛情を懐疑で蝕む恐れはなく、しかも自己の進退と相手の運命との間に収支の釣合いが成り立つことが判明しているからだ。
つねに全体的な回路を見失わぬことを重んじ、惑星の生態系そのものを一つの「精神」として考えることさえ提唱したベイトソンは、人間が一方的に環境を支配できると信じることの愚かさを指摘し、自己よりも大きな「システム」を自覚しつつ謙虚に振る舞うことの大切さを説いた。我々自身による主観的選択が環境のあり方となって我々に反射してくるような事態は、少なくとも正負二通りの場合を含んでおり、したがって必ずしも破壊的とは限らない。例えば「全体対部分の関係が与えられんことを祈るとき、その祈りはすでに実現されている」(注6)。彼の信念を支えていたのは、次のごとき予感である。

人間とは何なのか?わたしが「わたし」というとき、わたしは何を意味しているのか?―おそらく、われわれが「自己(セルフ)」と呼ぶものは、われわれの知覚と適応的行為の習慣の集体に、その瞬間瞬間の「行為に内在する状態」をプラスしたものなのではないでしょうか。(注7)

このように問うベイトソンは、なにも自我の輪郭を希薄にしようともくろんでいるわけではなく、自我を何らかの所与の文脈から孤立させて把握してしまうことの危険性に注意を促しているのだ。

自分の関心は自分であり、自分の会社であり、自分の種だという偏狭な認識論的前提に立つとき、システムを支えている、他のループはみな考慮の“外側”に切り落とされることになります。〔…〕精神を内在させている構造から精神を切り離す―つまり、人間関係、人間社会、エコシステムの全体から精神を抜き取る―ことは、非常に深い誤謬にさまよい込むことであり、この誤りに陥ったものは、いずれ深い痛手を負うことは避けられない、とわたしは信じるものです。(注8)

自我は周囲の環境や人間関係から孤立しては平常心を保てず、両者がともども相まって初めて真に精神の名で呼ばれるに値する尊厳が生まれること、このことをいまや心ならずもただ一人生き残ってしまった雪輝も、自分一人では解決できない孤独という難問に直面して、痛感しているはずである。
だからこそ、「神」の座を手に入れながら恋人の不在を嘆き、一万年間の無為を過ごしてきた雪輝のもとに、由乃(「三周目」の世界の由乃)が「時空の壁を壊して会いに来た」(第12巻202-207頁)瞬間の、一様な暗黒の中に亀裂が走る光景は非常に感動的なのだ。誰よりも充満に執着していたはずのほかならぬ由乃の手で、空虚(暗黒)に空虚(亀裂)が到来するという奇蹟が実現せしめられる。そしてこれは、いかに読者にとっては意外であろうとも、由乃の行動原理を熟知している雪輝にとっては、ハンマーが振り下ろされるたびに拡大する亀裂を認めた瞬間に自然と予感できた展開である。「なんらかの方法で『切れ目』を入れることができ、かつ、そうやって分割された一方だけの知覚から、残りの部分のありさまをランダムな確率より高い確率で推測することができる」という、意味の生成の条件が忠実に守られていることはわざわざ指摘するまでもあるまい。


(1)G. ベイトソン『精神の生態学 改訂第2版』(佐藤良明訳、新思索社、2008年第4刷)203頁。
(2)同書554頁。
(3)同書543頁。
(4)同書602頁。
(5)同書551、565-566頁。
(6)同書450頁。
(7)同書337頁。
(8)同書640-641頁。

category: えすのサカエ

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