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一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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カンギレム『正常と病理』…の誤訳 

フランスの科学史家ジョルジュ・カンギレムの主著である『正常と病理』は、法政大学出版局から翻訳が出ている(滝沢武久訳、1987年初版第1刷刊)。
それの中で、読んでいて特に気になった箇所を原文と照らし合わせ、見つかった齟齬を書き留めておくことにした。
なお、使用した原著は第四版(Georges Canguilhem, Le normal et le pathologique, 4e édition, Paris, P.U.F., 1979)である。また、原文中に割注で挿入される文献への参照指示は引用時に略した。

(1)115-116頁から

異常は、二つのものが相互に完全に入れ代わることのできない、個体変異の事実である。異常は、ライプニッツの「区別しがたきもの」(indiscernables)の原理を、生物学的次元で例証している。しかし多様性は病気ではない。「異常なもの」は病理的なものではない。病理的なもの(Pathologique)は、「哀愁」(Pathos)を意味する。すなわち、苦痛と無力の直接的具体的感情や、妨害を受けている生命の感情を含んでいる。しかし、病理的なものはまさしく異常なものである。ラボー(E.Rabaud)は、最近のまちがった用法に従って、異常な(anormal)を異常(anomalie)の形容詞にしているために、「異常であること」と「病気であること」とを区別している。そしてこの意味で、病気の異常者たちについて語っている。しかし、彼が別のところで非常にはっきりと、適応および生活力という基準で、病気と異常とを区別しているので、わたくしは、語と意味についてのわたくしの区別を変える理由を持たない。

おそらくここが、この訳書全体を通じて最も問題含みの部分ではないかと私は想像する。というのも、まさしく原文が二つの概念の決定的な区別を提案しているくだりで、訳文が両者を混同しているからだ。その二つとは、"anomalie"(名詞)と"anormal"(形容詞)である。著者の語源学的な説明によれば、前者(「アノマリー」)は土地に関して「不均等な、でこぼこした、不規則な(inégal, rugueux, irrégulier)」を意味していたのに対し、後者(「アノルマル」)は規範にかなっていないことを意味していたという。つまり、前者は事実を指示するだけの記述的な用語だが、後者は価値への参照を暗に含む、評価的・規範的な用語なのである。しかるに訳書においてはどちらも「異常(な)」という日本語で表されるので、必然的に両者の違いが見えにくくなる。
原文は以下のとおりである。

L'anomalie c'est le fait de variation individuelle qui empêche deux êtres de pouvoir se substituer l'un à l'autre de façon complète. Elle illustre dans l'ordre biologique le principe leibnizien des indiscernables. Mais diversité n'est pas maladie. L'anomal ce n'est pas le pathologique. Pathologique implique pathos, sentiment direct et concret de souffrance et d'impuissance, sentiment de vie contrariée. Mais le pathologique c'est bien l'anormal. Rabaud distingue anormal et malade, parce qu'il fait de anormal, selon l'usage récent et incorrect, l'adjectif de anomalie, et en ce sens il parle d'anormaux malades; mais comme il distingue par ailleurs très nettement, selon le critère donné par l'adaptation et la viabilité, la maladie de l'anomalie, nous ne voyons aucune raison de modifier nos distinctions de vocables et de sens.(注1)

上記の訳文への疑問点を意識しつつ訳すと、次のようになった。直訳調で不格好だが、明晰にはなっているはずだ。

異例性(アノマリー)とは、二つの存在者が互いに完全な仕方で置き換わりうるのを妨げる個体的変異の事実である。それは生物学的秩序の中で、識別不可能なものらに関するライプニッツの原理を例示している。しかし多様性は病(マラディー)ではない。異例なものとは病理的なもののことではない。病理的(パトロジック)〔という語〕は受苦(パトス)を、苦悩と無力との直接的かつ具体的な感じを、阻止された生命の感じを含意する。しかし病理的なものとはまさしく異常な(アノルマル)ものである。ラボーは「異常な(アノルマル)」と「病める(マラード)」を区別する、なぜならば彼は異常(アノルマル)を、最近のしかも不正確な用法にしたがって、異例性(アノマリー)の形容詞に仕立て上げるからであり、そしてこの意味で彼は病める異常者たちに関して語るのだ。しかし彼は別の箇所で非常にはっきりと、適応と生存力とによって与えられる基準にしたがって、病(マラディー)を異例性(アノマリー)から区別しているのだから、我々は語彙と意味とに関する自分たちの区別を変更すべきいかなる理由も見ない。

蛇足かもしれないが一応原文の趣旨を要約しておく。まず、「異例性(アノマリー)」は単なる個体間の多様性の事実にすぎないので「病(マラディー)」ではなく、したがって「病理的(パトロジック)」ではないのに対して、「病理的(パトロジック)」はそのまま「異常(アノルマル)」に通じるというのが第一点。ついで明文化されていないものの、このように「異例性(アノマリー)」は「病理的(パトロジック)」ではないが「異常(アノルマル)」は「病理的(パトロジック)」なので、結局「異例性(アノマリー)」は「異常(アノルマル)」とは違うというのが第二点。最後に、ラボーが「異例性(アノマリー)」と「病(マラディー)」を区別しているのは結構だが、「異例性(アノマリー)」と「異常(アノルマル)」を同一視しているのは感心できないというのが第三点。こんな風に、三段階に分けると見通しがよくなりそうである。
いずれにせよ一番の要点は、「アノマリー(anomalie)」(名詞)には「アノルマル(anormal)」(形容詞)が対応する、という通念を見直し、二つの概念を切り離すことなのであって、そうである以上邦訳がこの区別をぼかしてしまう結果になっているのは惜しい。もっとも、「アノマリー」は今日では「異例性」や「変則性」と訳すなり、なんならカタカナで音写するなりしてもよさそうで、その分この訳書の出版時(1987年)よりは状況が楽になっているという違いはある。それにしても意味を通りやすくするために、せめてルビなりと振っておくべきではなかったか。また、ライプニッツの唱えた"principe d'identité des indiscernables"が一般に「不可識別者同一律」と訳されることや、「パトス」は語源的にも現在の文脈でも、単なる「哀愁」の情感よりは広く、いわば不幸としての受動状態を指すと思えることなどにかんがみ、他にもいくつか訳語を改めざるをえなかった。

(2)116頁から

たえず完全である健康は異常だといわれるとき、生物の経験に事実上病気がふくまれるという事実が、言い表わされているわけである。異常だということは、まさに、存在しえないし観察されることもできないということを、意味している。だから、いいかえれば、健康の持続は一つの規範であり、規範は実在しないということにほかならない。こういう不当な意味では、明らかに、病理的なものが異常でないことになる。病気に対して防衛したり病気と戦ったりする有機体の正常な機能を、少しでも語ることができるとしたら、それこそ異常である。

ここの訳文は、それ自体として意味が通らないわけではない。が、原文は次のようになっている。

Quand on dit qu'une santé continuellement parfaite c'est anormal, on traduit ce fait que l'expérience du vivant inclut en fait la maladie. Anormal veut dire précisément inexistant, inobservable. Ce n'est donc qu'une autre façon de dire que la santé continue c'est une norme et qu'une norme n'existe pas. En ce sens abusif, il est évident que le pathologique n'est pas anormal. Il l'est même si peu qu'on peut parler de fonctions normales de défense organique et de lutte contre la maladie.(注2)

この原文を私なりに訳してみるとこうなった。

絶えず完全な健康というものは異常(アノルマル)だと言うとき、人は生物の経験が事実上は病を包摂するものであるというこの事実を言い直しているのである。異常とは正確なところ、実存しないとか、観察不可能という意味だ。ゆえにそれは、連続的な健康とは一つの規範であること、そして一つの規範は実存するものではないことを言う、別の仕方にすぎない。この不当な意味でなら、病理的な(パトロジック)ものが異常(アノルマル)ではないことは明らかである。たとえ有機体の防衛とか病に対する闘争とかの標準的な(ノルマル)機能に関しては少ししか語ることができないとしてもそうなのである。

注目していただきたいのは特に末尾の一文である。訳書では、「少しでも語ることができるとしたら、それこそ異常である」と、仮定の順接になっている。しかし原文の"Il l'est"はこの場合、前文の非人称構文"Il est évident"(「…は明らかである」)を、重複を避けて書き換えただけではないか。つまり、この書き出しは前文が主張する、「…は明らかである」という事実を再確認しているにすぎない。そしてその後に、"même si"(「たとえ…だとしても」)という譲歩が続くわけである。
ここで「明らか」と称される内容自体は、「不当な意味」のもとで初めて可能になるという記述からもうかがえるように、本来著者が承知しそうにない、「病理的なものが異常ではない」という主張である。著者カンギレムが本書を通じて証明しようとしているのは、生命活動それ自体が、環境の変化に応じて自分自身の規範を再設定できる柔軟性を持つという事実だからだ。したがって著者にとって、有機体自身の規範的な、あるいは標準的な―形容詞の"normal"を何と訳すかは本書においてつねに問題となる点だと思うが、ここは「正常な」では強すぎる気もする―機能について語る、ということは、本来ならば大いにできるし、またすべき事柄のはずである。それが「たとえ少ししかできないとしても(même si peu qu'on peut)」と述べているのだから、たぶんこの譲歩は文脈の上では、「不当な意味」の採用が招く困った結論(「病理的なものが異常ではない」という誤った結論)に伴う、副産物としての不条理なのであろう。かなり皮肉の利いた、もってまわった書き方だと思う。

(3)124頁から

正常だとされているから、その正常だといわれているどんな事実も、規範に照らし合わされる条件がもはや与えられなくなる瞬間から、規範―正常だといわれる事実は、その表現だ―の威光を、横領することはできない。

ここは日本語としてやや無理が生じている箇所である。原文は次の通り。

Aucun fait dit normal, parce que rendu tel, ne peut usurper le prestige de la norme dont il est l'expression, à partir du moment où les conditions dans lesquelles il a été référé à la norme ne sont plus données.(注3)

だいぶ生硬になるのを覚悟で直訳してみる。

正常とされたがゆえに、正常(ノルマル)と言われるようないかなる事実も、それが表現している当の規範(ノルム)の威光を横領することは、それがくだんの規範(ノルム)に準拠せしめられた際の諸条件がもはや与えられなくなる瞬間からはできない。

語順に関しては訳書のままのほうが適切かもしれない。しかしいずれにせよ、冒頭は改める必要があるはずだし、"normal"(「ノルマル」)と"norme"(「ノルム」)の関係も、例えばルビの使用によって明示すべきだろう。それに、"il a été référé"はもちろん受動態の複合過去なのだから、どんな日本語の動詞を訳語として選ぶにしても現在時制(「照らし合わされる」)であってはまずい。

(4)183頁から

「病を治す自然」の役割は、多かれ少なかれ全面的にすべてが保守的で防衛的である有機体の正常な機能の役割と、混同されている。ところが生理学が研究するのは、もっぱら生物の機能である。いいかえれば、生きた蛋白質つまり「生物蛋白質」(bioproteon)の正常な現象なのである。

これはラファエル・デュボワからの引用で、彼がヒポクラテスの自然治癒力の概念を生理学から派生せしめたという文脈の中で紹介されている。しかし、訳文の通りだとラファエル・デュボワは反対に、医学と生理学の分離を主張しているかのようだ。原文の趣はいささか異なる。

Le rôle de la natura medicatrix se confond avec celui des fonctions normales de l'organisme qui toutes, plus ou moins directement, sont conservatrices et défensives. Or la physiologie n'étudie pas autre chose que les fonctions des êtres vivants ou, en d'autres termes, les phénomènes normaux du proteon vivant ou bioproteon.(注4)

これを私の手で訳すと、以下のようになった。

病を治す自然の役割は有機体の標準的な諸機能の役割と混じり合っていてそれらはどれも、多少の差はあれ直接的に、保守的かつ防衛的である。さて生理学というものは生き物の諸機能ないし、別の用語で述べると、生きた蛋白質ないし生物蛋白質の正常な諸現象以外のものを研究しているわけではない。

つまり、"se confondre"は「(混同されるべきでないもの同士が不当に)混同されている」のではなく「(似たもの同士が自然に)混じり合っている」と読み、また"Or"も「ところが」でなく「さて」と読むべきなのではないか。そうすれば、二領域の近さを演出するはずの「…以外のものを…ではない(ne…pas autre chose que…)」を「もっぱら」と訳すような無理も回避できる。
また訳書が、"directement"に相当する副詞として「直接的に」でなく「全面的に」を選んだ結果、「多かれ少なかれ全面的に」という妙な表現が生まれているのも気にかかる。

(5)189頁から

この『正常・異常生理学概説』の中で、トゥールナード(A. Tournade)、ブラウン=セカールとアディソンとの関係を正当にもはっきりと指示し、認識論上きわめて価値のある次のような逸話を報告している。

ここはトゥールナードが主語なので、「トゥールナードは」に改める必要がある(注5)。助詞の脱落にすぎないから誤訳とは違うが、人名が連続する文だけにもっと気をつけていただきたかった。

(6)190頁から

このように、人為的手段は、前もって熟慮しなくても、明瞭に見通すことができるのである。

この箇所で気になるのは、「明瞭に見通すことができるのである」の位置と、この訳し方がそれ自体として適切かどうかの二点である。原文と比較してみよう。

Ainsi l'artifice permit la lucidité, mais sans préméditation.(注6)

見てのとおり、動詞は「許す、可能にする」という意味の"permettre"である。主語は人でなく物("l'artifice")であるし、そもそも動物の特定の器官を使った実験によって、予想だにしなかったその器官の未知の機能が明らかになることがあるという文脈の中にこの文は現れる。意図的な行動を匂わせることのない動詞が選ばれているのはそのためだろう。また活用形に注目すると、三人称単数なのはよいとして、時制が科学史上の事例への言及に応じてか単純過去("permit")であるから、あたかも現在形であるかのように訳してはならない。したがって「明瞭に見通すことができるのである」は、それ自体として問題のある訳語である。以下が私の提案する訳文だ。

このように技巧は明晰性を可能ならしめたが、ただしあらかじめ熟慮があったわけではないのだ。

「ただし」以下の制限条件は、文の途中にまわさないほうが原文の姿に忠実であるし、上記の文脈を考慮すれば、意外性を減殺しないという意味で内容上も望ましいと思う。

(7)198頁から

感覚と目的とは、認識と生成の二つの領域での機能と類似した機能をもっている。したがってそれらは共通の特性をひき出す。

なぜ「したがって」なのかが、このままでは不明瞭だろう。原文は次の通り。

Mais elles ont des fonctions analogues dans les deux domaines de la connaissance et du devenir, d'où elles tirent des qualités communes.(注7)

主語の人称代名詞女性複数形は、前文に出てきた二つの「概念」、すなわち「感覚の概念(la notion de sens)」と「目的のそれ(celle de but)」を指しており、この両者の間に機能上の類比が存在するからこそ共通性が成り立つのである。ゆえに訳文は、例えば次のように改めるべきではないか。

しかしそれらは認識と生成という二つの領域において数々の類比的な機能を持っており、そこからそれらは共通の性質を引き出すのである。

付け加えると、訳書が文頭の「しかし」を脱落させているのも解せない。

(8)201頁から

しかし、生命がその諸状態の間で差異をつくらないということを、生物学の見地からは認めようとしないのは、食物と排泄物とを区別することすらもできないのかと、責められるからである。

この訳文は以下の原文と比べると、原因と結果が逆である。

Mais ne pas vouloir admettre d'un point de vue biologique que la vie ne fait pas de différence entre ses états, c'est se condamner à ne pas même pouvoir distinguer un aliment d'un excrément.(注8)

ここの"se condamner"は「責められる」ではなく、「何々することを余儀なくされる」という慣用表現だろう。また、著者が重点を置いている区別は「認めるか/認めないか」ではない。そのことは、若干意訳を交えて原文を次のような日本語に移し替えれば明らかだろう。

しかし生命は己の諸状態の間で差別を設けないということを認めるにしても生物論的観点からするのでないと、食物を排泄物から区別することすらもできないはめになる。

つまり決定的なのは、「生物論的観点から認めるか/生物論的でない観点から認めるか」の区別である。生命が己の諸状態の間で差別を設けないとは、己自身の状態を一定不変に維持したがる傾向が生命に具わっているということ(生体の恒常性)と同義であって、単なる無差別性とは違うのだ。また、この場合の"biologique"は生命それ自身にとっての価値と無縁でないようなので、「生物学的」では客観的すぎるかもしれない。

(9)204頁から

全生物にとっても、病気は器官全体についてのみ存在する。犬の病気が存在し、蜂の病気が存在する。

原文には"tout organique"とあるから(注9)、「器官全体」でなく、例えば「有機的全体」のほうがよい。でないと、「犬の病気」や「蜂の病気」という表現とのつながりが不可解になる。

(10)211頁から

病気についての経験的概念のすべては、病気についての公理的概念との関係を保存している。

原文中の"axiologique"という形容詞(注10)の意味は、「公理的」でなく「価値論的」である。

(11)217頁から

しかし、「規範と正常」について二つの講義は、「試論」で扱った医学哲学の主題と、次の頁からおこなおうとしている再検討のさい扱われる医学的哲学の主題とを、拡張する方向にはみ出していた。

これだと、まるで二つの「医学哲学の主題」が存在しているかのようだが、本当にそうなのか。また、この文はそもそも、第一部「正常と病理に関するいくつかの問題についての試論」に続く第二部「正常と病理に関する新考」の巻頭を飾る序文の一部であるのに、本書とは別の講義の性格への言及で終わるのは釈然としない。「はみ出していた」からといって、それがどうしたのかという疑問がぬぐえないのである。いずれの疑問も、原文を参照すれば解消する。

Mais les deux cours sur Les normes et le normal débordaient en extension le sujet de philosophie médicale traité par l'Essai et au réexamen duquel j'entends encore, dans les pages qui suivent, m'attacher.(注11)

私なりに訳出してみると、次のようになった。

しかし「諸規範と正常」についての二つの講義は『試論』で扱われた医学哲学上の主題をはみ出し、拡張する体のものであったが、その主題の再検討に私はなおも、以下に続く頁で、専心するつもりでいるのだ。

つまりこの文は"le sujet de philosophie médicale traité par l'Essai"まででいったん切れる、と読むべきで、"et au réexamen duquel"の"au"は、文末に位置する"m'attacher"(「私を結びつける、専心する」)と一体になっているはずである。

(12)223-224頁から

規範がその役目を果たすのを必要とせずに規範にかなっている体験をこのように消極的な用語で表現すること―したがって、規則がないのに規律正しいといういわゆる素朴なこの夢―は、実際には、正常という概念がそれ自体規範的だという意味である。正常という概念は、規範の欠如を物語る神話の世界さえも、規範としているのである。

原文とのおもな相違点を確かめるため、読み比べていただこう。

Cette formulation en termes négatifs d'une expérience conforme à la norme sans que la norme ait eu à se montrer dans sa fonction et par elle, ce rêve proprement naïf de régularité en l'absence de règle signifie au fond que le concept de normal est lui-même normatif, il norme même l'univers du discours mythique qui fait le récit de son absence.(注12)

若干形を崩して、次のように訳出してみた。

規範(ノルム)にかなっている経験を、このように消極的な用語で定式化するならば、規範(ノルム)はその機能の中に、それも自力で姿を見せなくても済んだわけである。規則の不在の内での規則性に関するこの文字通り素朴な夢は、結局のところ正常(ノルマル)という概念はそれ自体が規範的(ノルマティフ)であるということを意味している、それはそれの不在を物語る神話的言説の宇宙すらも正規化するのだ。

まず、"en termes négatifs"(「消極的な用語で」)は具体的には前文中の「労働もなく、文化もなく(Ni travail, ni culture)」を指すのだが、これと"sans que"(「…ことなしに」)は、内容上は等値というか、前者を敷衍すれば後者が出てくるという関係にあるように思う。したがって訳書のように原文の語順を逆にして「必要とせずに…消極的な用語で」とすると、この関係が分かりにくくなる。また「役目を果たす」も、"se montrer dans sa fonction et par elle"の訳としては、やや大胆すぎよう。
それと"ait eu à se montrer"は接続法過去形なので、「姿を見せなくても済んだ」と過去時制で訳しておいた。いわゆる未開の黄金時代や自然状態の理想化を過去(特に18世紀)の遺物として皮肉っているのか、あるいは定式化が首尾よく果たされた時点から振り返って、「結局一度も規範それ自体は姿を現さなかった」というその利点を確認しているからか。
そのほか、訳書では"proprement"が「本来的に」とか「文字通り」ではなく「いわゆる」になっているせいで、著者がこの副詞にこめたはずの皮肉―煩雑な規則がなくても規則正しい「素朴な」社会に対する文明人の憧れは、それ自体が「素朴な」、おめでたい夢想である―が読みとりにくいこと、また"normer"という動詞の訳語が「規範としている」なので、さながら「模範として仰ぐ」かのように読めてしまう(「正常という概念」と「神話的言説の宇宙」との影響関係が原文とは逆になる)ことなども気になる。

(13)226-227頁から
"ὀρθοδ"ではなく、正しくは"ὀρθός"だろう。語源の説明をしている箇所なのだから、綴りの間違いはいただけない。また、227頁11行目、「強制執行の命令法ではない」の結びが読点(、)だが、原文はポワン(.)だし、意味の上からも句点(。)でなくてはまずい(注13)。この二つは誤訳とは別の問題である。

(14)229頁から

正常(normal)という言葉の出現した一七五九年と、規格(正常)化された(normalisé)という言葉の出現した一八三四年との間に、規範的な階級が、社会規範の機能と慣用とを同一視する力をかち取った。これは、イデオロギー的幻想のよい例である。実は、社会規範の機能そのものが、社会規範の慣用をつくっていたし、その機能が社会規範の内容をきめていたわけなのだが。

ここも論旨の読み取りにくい訳文であり、原文の意味からずれているようだ。

Entre 1759, date d'apparition du mot normal, et 1834, date d'apparition du mot normalisé, une classe normative a conquis le pouvoir d'identifier ― bel exemple d'illusion idéologique ― la fonction des normes sociales avec l'usage qu'elle-même faisait de celles dont elle déterminait le contenu.(注14)

問題は"elle-même"および"elle"が具体的には何を指すかだろう。訳書では前者が「機能そのもの」で、後者も「その機能」だが、「社会規範の機能」と書いたそばからまたもそれ(当の機能)が主語となる関係節が続くのは見るからにくどいし、第一「社会規範の機能そのものが、社会規範の慣用をつくっていた」のなら、両者(機能と慣用)を同一視することは幻想でも何でもなく、しごく健全な見方のはずではないか。おそらく訳者は、「イデオロギー的幻想」の欺瞞性を今日から振り返って暴くという著者の視点に肩入れしているつもりなのだが、ここの「イデオロギー的幻想」は、動詞が半過去形(faisait, déterminait)であることからも、当時の当事者が自分たちの振舞とその結果をどのように誤認していたかという歴史性に重点を置いて読むべき語だろう。私は、"elle-même"も"elle"も、その当事者であるブルジョワたちの"classe"(「階級」)を指すのだと思う。したがってこの文はむしろ、次のように訳すべきである。

正常(ノルマル)という語が出現した日付である、1759年と、規格化された(ノルマリゼ)という語が出現した日付である、1834年との間に、一つの規範的な(ノルマティヴ)階級が―イデオロギー的幻想の好例だ―社会的諸規範の機能を、その階級自身が常日頃実行し、その階級が内容を規定していたそれら諸規範に関する慣わしと同一視する能力を獲得した。

「18世紀後半から19世紀初頭にかけて擡頭してきたブルジョワ階級は、農民とも王侯貴族とも違う、自分たちが慣習的に遵奉してきた規範があたかも普遍的な規範であるかのように社会全体に広がるのを目の当たりにするという幸運を引き当てたが、依然としてその内容はほかならぬブルジョワ階級自身が決めたものにすぎなかった」―原文の趣旨はおおよそこんなところだろう。単にある階級の"usage"(「慣わし」・「慣用」)にすぎなかったものが、実行者が日々勢力を拡大するにつれて"norme"(「規範」)の権威を帯びてくるというのであるから、訳書のように原文にない「実は」を追加してまで、二つの概念の対照性を消し去り、あらかじめ前者を後者の一部に含めてしまうのは賛同しがたい処置である。

(15)235頁から
「この非自発的な自然的秩序」の「非自発的な」は"involontaire"の訳語であるが、まるで「当事者の意志を無視して強制的に課せられる」という意味のようで、「自然的(naturel)」との相性はよくない。直前の"volontaire"が「自由意志により」と訳されていることとの兼ね合いからも、例えば「無意志的な」に改めるべきだろう(注15)。この形容詞は社会というものが「個人の意志に依存せず自然発生的である」ことを意味しており、したがって少し前に出てくる、「共通な自然発生的行為」("l'action commune spontanée")や「明白な自然発生的調和」("l'évidente harmonie spontanée")の延長線上にある。「非自発的」(=「非・自然発生的」?)という訳語を選ぶことは、この関係にかんがみても混乱のもとでしかない。

(16)243頁から

遺伝学のような遺伝理論にもとづく社会的理想は、一つの階級社会にふさわしいものでありえなかった。遺伝学は、人間不平等の事実を示して、不平等を修正する技術を生み出す学問だからである。

この訳文はそれ自体としてはすんなりと読めるが、優生学思想がソ連で不興を買ったという文脈の中では不可解である。原文は次の通り。

Un idéal social fondé sur une théorie de l'hérédité comme la génétique, qui avère le fait de l'inégalité humaine en suscitant les techniques qui la corrigeraient, ne saurait convenir à une société dans classe.(注16)

私は、ここの"une société dans classe"(「階級の中にある社会」)は、"une société sans classe"(「階級なき社会」)の誤記ないし誤植だと判断する。だとすれば、訳文は例えば次のように改めるべきだ。

遺伝学のごとき遺伝〔相続〕の理論の上に基礎づけられた社会的理想は、人間の不平等という事実を、その不平等を修正するはずの諸技術を喚起する中で明らかにしてしまうのであるから、階級なき社会にとって適当でありうるはずがない。

要するに、個人間の生得的な能力差を否応なしに証明してしまう遺伝学の研究は、あらゆる意味で「階級なき社会」を目指すソ連の高官から見れば、藪をつついて蛇を出すようなけしからぬ真似としか思えなかった、ということだろう。

(17)256頁から

要するに驚愕は、火急のばあい、有機体に不確定な誇示をさせることである。

この訳文は、それ自体として意味が通りにくいと思う。「不確定な誇示」とは一体何か。

L'alarme met en somme l'organisme en état d'urgence, de parade indéterminée.(注17)

この原文を読むかぎり、"parade"の意味は「誇示」でなく「停止」あるいは「受け答え」だと思える。だから、例えば次のように訳したほうが、分かりやすいはずだ。

驚愕はつまるところ有機体を緊急の、不確定な防御の状態に置くのである。



(18)261頁から

実際には、多分、あたかも生化学者と遺伝学者が彼らの知識を、化学者と遺伝学者から相続した世襲財産の資料のせいにしているかのように、また、あたかも酵素が反応―この反応に従って、化学は酵素の働きを分析する―を知っているとみなされるか、知るべきだとみなされるかしているかのように、しかもあるばあいには、あるいはある時点では、酵素がそれらの反応の一つを無視したりその陳述をうまく読みとれなかったりすることがあるかのように、万事が進行している。

少し長い文だが、フランス語の原文は次の通りである。

Apparemment, tout se passe en effet comme si le biochimiste et le généticien prêtaient aux éléments du patrimoine héréditaire leur savoir de chimiste et de généticien, comme si les enzymes étaient censés connaître ou devoir connaître les réactions selon lesquelles la chimie analyse leur action et pouvaient, dans certains cas ou à certains moments, ignorer l'une d'elles ou en mal lire l'énoncé.(注18)

例によって私の試訳を示しておこう。

見たところ、あたかも生化学者と遺伝学者が全遺伝形質〔遺伝的な世襲財産〕の諸要素に、彼らの化学者ならびに遺伝学者としての知を貸与しているかのように、あたかも諸酵素が、それらの作用を化学が分析する際のよりどころとなる諸反応を認識しているかまたは認識すべきであるとみなされているかのように、かついくつかの事例においてあるいはいくつかの瞬間にあっては、それらの内の一つに無知であるかその言表内容を読み間違うかしうるかのように、一切が実際には進行する。

このくだりの趣旨は、単なる物質にすぎないはずの酵素が、遺伝学や生化学の分野ではほとんど知的生命体のような振舞を見せることの不思議さだと思う。学問が酵素を擬人化している、という批判かもしれないが、結局のところこの不思議さは外見上のものでしかなく、こういう分野では、酵素の振舞が一見人間じみていても別に問題はないのだ、というのが、前後の文脈から読み取れるカンギレム自身の見解である。
したがって、「化学者と遺伝学者から相続した世襲財産の資料のせいにしている」は誤訳であろう。たしかに"prêter"は「せいにする」という意味もあるが、この場合は「貸す」のほうが適切であるし、"patrimoine héréditaire"は個体の持つ「全遺伝形質」という意味であると、手元の仏和辞典(大修館書店の『新スタンダード仏和辞典』)に書いてあった。このほか、"apparemment"(「見たところ」)を「多分」と訳したり、"ignorer"(「知らない」)をまるで英語の"ignore"のように「無視する」と訳していることなども、看過できない問題点である。

(19)265頁から
3行目の「代謝誤診」は妙な語だが、原文が"une erreur de métabolisme"であるから(注19)「代謝誤謬」の誤記ないし誤植だろう。私にとって見慣れない語感なのは変わらないが、「誤診」よりはしっくりくる。誤訳とは違うが読んでいて引っかかった。

(20)282頁から
原註(98)は「同書、二〇二ページ」と訳してあるが、原著では"Op. cit., p.202"だから(注20)「前掲書」が正しい。著者名(Bacq)が省略されているのは本文中に書いてあるからだろう。

以上挙げた都合20か所の問題点は後半に集中しているようだが、これは訳書を読み進むにつれて原文と比較したくなる箇所が多くなったというまでのことで、その気で調べれば前半にも誤訳らしきものが見つかるかもしれない。
最後に一言。
ここまで色々と書いてきたが、私は何もこの法政大学出版局版『正常と病理』をおとしめたいわけではない。ただ、自分なりに読んで気になった点・疑問点を明らかにし、また今後この訳書を手に取る方が、少しでも効率の良い読書ができるように、という思いで筆を執ったまでである。それほど長くはないとはいえずいぶん中身の詰まった本で、訳者である滝沢さんのご苦労を思うとつくづく頭が下がる。こういう学術書を日本に紹介しようという立派な志に比べれば、誤訳が多少見つかったところで致命的な欠点ではない。


(1)Georges Canguilhem, Le normal et le pathologique, 4e édition, Paris, P.U.F., 1979, p.85.
(2)Ibid., p.86.
(3)Ibid., p.91.
(4)Ibid., p.136.
(5)Ibid., p.140.
(6)Ibid.
(7)Ibid., p.146.
(8)Ibid., p.148.
(9)Ibid., p.150.
(10)Ibid., p.156.
(11)Ibid., p.173.
(12)Ibid., p.178.
(13)Ibid., p.180-181.
(14)Ibid., p.182-183.
(15)Ibid., p.187.
(16)Ibid., p.194.
(17)Ibid., p.204.
(18)Ibid., p.209.
(19)Ibid., p.211.
(20)Ibid., p.206, note(2).
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アリストテレス『魂について』3 

連載とか偉そうにほざいておきながらちっとも有言実行できてないのは我ながらいかがなものか。

一応、『魂について』における二種類のエンテレケイアの区別に着目した前回の検討では(アリストテレス『魂について』2)、アリストテレスの霊魂論においてはエンテレケイアがいわばエネルゲイア化を遂げ、その分デュナミスに近くなる、ということが確認できたはずだ。
今回はそこから何が派生するのかを若干展望してみたい。第2巻第2章からの引用である。

さて、「それによってわれわれが生き、また感覚するところのもの」は二通りの意味で語られるのであり、それはちょうど「それによってわれわれが何かを知るところのもの」が二通りの意味をもつのに相当する(われわれは後者の場合一方では知識を意味し、他方では魂を意味するのであり、実際、われわれが「知っている」と主張するのはこのうちのいずれかによってである)。これと同様に、「それによってわれわれが健康であるところのもの」も、一方では健康を意味し、他方では身体のある部分、あるいは身体全体を意味する。そしてこのうちで知識と健康は形態や一種の形相や説明規定であり、言ってみればそれらを受け入れるもののエネルゲイアであって、知識の方は知を獲得しうるものの、健康の方は健康になりうるもののエネルゲイアである(なぜなら、作用しうるもののエネルゲイアは、作用を受けて特定の状態にあるものにおいて成立すると考えられるからである)。(注1)

書いてあることの内容自体はそれほど複雑でもないが、なにぶん古代人のこととて語彙不足の感がなくもない。注意すべき点は二つあると思う。第一に、この文脈では、知る主体としての「魂」と健康になる主体としての「身体」はともに、形相(「知識」そのもの、もしくは「健康」そのもの)に対する質料の地位にあることである(注2)。アリストテレスがはっきりそうことわっていないのは、あくまでも形相としての地位を魂に付与することが彼の最終的な狙いだからだろう(つまり不用意に説明を詳しくすると質料への言及が増えて混乱を招く上、特に前者の類比の場合は一時的に魂を質料扱いせざるをえなくなるのだ)。
第二に注意すべきは、だからといって質料側が無視ないし軽視されているわけではないということである。「それらを受け入れるもののエネルゲイア」という表現に端的に現れているように、「質料」側は「形相」側を支配しているわけではなく、むしろ上下関係はその逆であるにもかかわらず、後者は前者「のもの」なのだ。所有と呼んで呼べないこともないが、やはり受け容れるとか迎え入れるといった言葉がしっくりくる。哲学用語では「分有」ということになる。一切の所有関係の始点にある所有、というよりも狭義の所有以前の所有である。健康そのものとか知識そのものを単独で考察すればあらかじめ誰かのものと決まってはいない。魂が知ることも、身体が健康になることも、決して自力で成し遂げられることではなく、普遍的な何か(知識そのものや健康そのもの)を授かるという贈与の経験であり、あるいはもしかすると、そのようなものを自分用に切り分けるという略奪の経験であらざるをえないのかもしれない。とにかく、純然たる形相がエネルゲイアとしての性格をあらわにするのは、つねに形相の対極、すなわち個体(知る個人や健康になる個人)のもとにおいてだ。
こう考えてくると、質料と形相の二元論をありとあらゆる分野に及ぼすことでアリストテレスが切り開いた視野の射程がおぼろげに感じ取れるようでもある。
もう少し現代風の発想でそれを整理した試みとして、トマス・アクィナスの注釈を、ラテン語から訳してみる。「アークトゥス」はご覧のとおり音写するにとどめたが、これが一応「現実態(エネルゲイア)」に相当する概念だろう。「能動」も「作用」も同系統の語である(なお「諸能動作用を」は見るからにくどいが、原語の"actiones agentis"がすでにくどいのだから仕方ない)。

例えば〈それによって我々が知る当のもの〉も二重に言われる。というのも二つのものによって我々は知ると言われるからである。それらのうちの一方は学知であり、そして他方は魂である。また同様に〈それによって我々が健康になる当のもの〉も二通りに言われる。それらのうちの一方は健康であり、そして他方は身体のある部分、ないしひいては全身である。ところでいずれの場合でも一方は形相同然であり、そして他方は質料同然である。なぜならば学知と健康は受容者側の形相にしてかつアークトゥス同然だからである。ちょうど学知が学問的なものの形相、すなわち学知のありかであるような、魂の部分の形相であるように、たしかに健康とは健康でありうる身体の形相である。ところで「健康でありうる」・「学問的な」と彼が言うのはそれゆえ、基体におけるしかじかの形相への性向を示して見せるためである。というのも一般に能動者側のアークトゥス、すなわち諸形相は、作用者から質料の中に導入されると、持久するもの・素質あるものの中にあるように見える、これはすなわち〈しかじかの作用者からしかじかの諸能動作用を受容すべく生まれついたようなもの〉の中に、ということであってそのものはまた受動の目的を、つまり〈そこへとそれが―受容することによって―いざなわれていく当の形相〉を達成することへの素質があるものでもあるのだ。(注3)

『魂について』の本文への注釈ということで、内容上は目新しいことが述べられているわけではないのだが、「性向」・「持久」・「素質」等の語彙がありがたい。アリストテレスが使う「第一次のエンテレケイア」よりはこのほうがよほどなじみやすいのではないか。質料側、つまり知る個人や健康になる個人の側は、一方では形相の対極なのだから形相そのものではなく、形相を持ちこたえる立場にあるが(「持久」の側面)、他方で形相はすでに目的として見えてもおり、一貫して質料側を導く(「素質」の側面)。ゆえにここには「エネルゲイア」の過程が成り立つ。個人を超えたものが個人の内に、恣意とは無関係に穿つこの幅ないし奥行を指すのに、素質なり性向なりといった語彙はうってつけだ。
それどころか、この枠組を文字通り個人の生活の域を超えて拡張することで、まがりなりにも生を外部から限定してみせるという離れ業をすらやってのけるのが『魂について』の筆者なのだ。

さて魂とは、第一義的な意味において、「それによってわれわれが生き、感覚し、思考するところのもの」である。したがってそれは、一種の説明規定であり形相であって、素材[質料]でも基体でもないということになるだろう。というのは、われわれがすでに述べたように、「実体[あることの主体]」は三通りの意味で語られるのであり、そのうちの一つは形相であり、もう一つは素材[質料]、そしてもう一つは両者から成る合成体である。そしてこのうち、素材はデュナミスであり、形相はエンテレケイアであるが、両者から成る合成体が魂をもつものであるのだから、物体[身体]が魂のエンテレケイアなのではなく、魂がある種の物体[身体]のエンテレケイアなのである。またしたがって、魂は身体を抜きにしては存在しないが、しかしけっして身体の一種と同一ではないと考えるひとびとの判断は正しいのである。つまり魂は身体そのものではなく、身体に属する何かなのであり、そしてこのゆえに、魂は物体のうちに、しかもある特定のあり方の物体[身体]のうちに存在するのである。(注4)

質料と形相の二元論の一つの帰結が、形相へと向かう質料の素質もまた形相が整えるというところに落ち着くとしても、無条件にそれを霊魂論に当てはめてよいものだろうか。この問いはもちろん不当ではない。だがここでのアリストテレスは、知識や健康の場合にはためらいなく使えた「エネルゲイア」という語を避け、やはり「エンテレケイア」という語を使っている。以前から我々が確認しているように、こと生命論の文脈では、「生きること」と「生きていたこと」との重なり合いゆえにエンテレケイアはエネルゲイアに近づくからである。たとえ簡明な命題の形ではないにせよ、アリストテレスによる叙述の順序そのものが、この我々の憶測を裏づけているように思える。
「生きること」がつねにすでに「生きていたこと」である以上、以前「生きていたこと」はいずれは現在「生きること」に至るはずだったのだから、生は定義上それ自身の内に中途半端な奥行を抱えている。これはまた生物というものが、あらゆる自覚に先立って命の贈与を受け容れてしまっている以上、つねに遅れてしかその事実に気づく見込みがないのだから、本来は自分一人のものでありえないはずの形相の世界を我が物として切り分ける原始的な暴力性を引きずらざるをえないということでもある。
しかし、知識の形相を魂が受け容れ、健康の形相を身体が受け容れる場合と、魂という形相を身体(物体―より正確には「可能的に生命に与りうる」種子や果実の類であろう(注5))が受け容れる場合とでは、何かが決定的に違う。それは結局、我々自身が生物(人間)としてこの世に生を享けていることを前提とする文脈と、その前提自体の成立を解明するという文脈との違いだろう。
アリストテレスの筆致は、厳密な意味での素質に関しては第一の引用文の末尾―「なぜなら、作用しうるもののエネルゲイアは、作用を受けて特定の状態にあるものにおいて成立すると考えられるからである」―で済ませてしまい、それに続くいましがたの引用文ではむしろ魂と、魂を宿す身体との紐帯の緊密性をいっそう強調しているかのようだ。身体に対する魂の関係がエネルゲイアじみてはいるが違うように、たぶん魂に対する身体の関係も通常の素質に似てはいるがいささか特殊である。前者の関係が結局エネルゲイアじみたエンテレケイアであり、その意味は生の端的な事実が遡行を許さないにもかかわらず完成であるという逆説に落ち着くとすれば、後者の関係は一体どうなるのか。おそらくアリストテレスは、知識が魂から脱落したり、健康が身体を見放したりすることはあっても、身体と魂との関係はずっと強固で、ちょっとやそっとのことでは断ち切れないと考えているのだ。ゆえに「魂は身体を抜きにしては存在しない」…その代り、身体の懐に穿たれた身体ならざるものの異質性は、こうなれば知識と魂の間、または健康と身体の間の隔たりの比ではない。身体がどれほど己の魂を身近に感じようとも、後者についてアリストテレスは「しかしけっして身体の一種と同一ではない」と注記するからだ…こうして、魂に対する身体の関係は、滅多なことでは解体しない原始的な素質、むしろ狭義の素質以前の素質である、ということになる。
身体は己を完成してくれる魂に慣れなくてはならない。身体にとって己自身(生物の身体)であることを全うするとは、己とは異質な普遍的形相の、己が選んだわけではない己の分け前、すなわち魂に対して「持久するもの・素質あるもの」としてのあり方を磨くということ以外ではないのだ。生の輪郭を超えて質料・形相論が広がった結果、あらゆる生物の生涯には身体の習練という根本的な性格が見出されることになる。


(1)『魂について』(中畑正志訳、京都大学学術出版会、2001年)70頁。ただし訳文中の「現実活動態」を「エネルゲイア」に改めた。
(2)水地宗明『アリストテレス『デ・アニマ』注解』(晃洋書房、2002年)228-229頁。
(3)S. Thomae Aquinatis, In Aristoteles Librum De Anima Commentarium, Turin, Marietti, 1948, p.71: "Sicut et quo scimus dicitur dupliciter. Duobus enim dicimur scire: quorum unum est scientia, et aliud est anima. Et similiter quo sanamur dicitur de duobus: quorum unum est sanitas, et aliud est aliqua pars corporis, vel etiam totum corpus. Utrobique autem unum est quasi forma, et aliud quasi materia. Nam scientia et sanitas sunt formae et quasi actus susceptivorum: scientia quidem forma scientifici, idest partis animae, in qua est scientia; sanitas vero est forma corporis sanabilis. Ideo autem dicit 'sanabile et scientificum,' ut ostendat aptitudinem in subiecto ad tales formas. Semper enim activorum actus, idest formae, quae inducuntur ab agentibus in materia, videntur esse in patiente et disposito, idest in eo quod est natum pati actiones agentis a tali agente, et quod est dispositum ad consequendum finem passionis, scilicet formam ad quam patiendo perducitur."
(4)『魂について』(前掲書)70-71頁。訳文中の「可能態」を「デュナミス」、「現実態」を「エンテレケイア」に改めた。
(5)同書64頁。

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トルストイ『アンナ・カレーニナ』 

『アンナ・カレーニナ』とは、一体いかなる小説か。

有名な作品だが一応、必要な範囲で筋書を追ってみよう。
有能な官吏であるカレーニンのもとに嫁いで八年になるアンナは、浮気で亀裂が走った兄夫婦の仲を調停するためにモスクワを訪れた。おりしもシチェルバーツキイ公爵家の令嬢キティは美男のヴロンスキイ伯爵に惹かれており、彼との婚約を夢見て無骨なレーウィンからの求愛を断ってしまう。が、万全の準備を整えてのぞんだ舞踏会で目撃したものは、アンナの魅力にすっかり心を奪われたヴロンスキイの姿だった…。
レーウィンは農地経営に打ち込むことで、キティは転地療養に赴くことで自己を見つめなおし、徐々に傷心から癒えていく。一方アンナは、競馬場でヴロンスキイの落馬に動揺したことがきっかけで彼との不倫が決定的に夫の目にも露見してしまい、窮地に陥る。憤慨するカレーニンは、いったんは世間体を重んじてアンナへの譲歩を重ねるものの、彼女がヴロンスキイの子(娘)を身ごもったことを知るに及んで離婚の方途を模索し始める。しかし、産褥で苦しむ瀕死の妻を見て気が変わり、全てを許そうと決心する。ところがアンナは回復するや否や家庭を捨ててしまい、世間の冷たい目に抗ってヴロンスキイと各地を転々としながら、夫婦同然の暮らしを送るようになる。
レーウィンの再度の求愛は承諾され、キティとの結婚、兄の病死、狩猟、社交、さらに長男の誕生と、苦労が多い中にも充実した日々が続く。対してアンナは、いまや離婚に踏み切った上でヴロンスキイと再婚したほうがよいと思うようになるが、みじめな立場を忘れたい一心でキリスト教徒としての自覚を深める一方のカレーニンは同意せず、息子のセリョージャを手元に引き留めてアンナを逡巡させる。やがてヴロンスキイの愛情すらも信じきれなくなり、疑心暗鬼が高じた彼女は、ついに進退窮まって貨物列車に飛び込み自殺を遂げる。
アンナの娘はカレーニンが引き取り、ヴロンスキイはセルビア・トルコ戦争(1876年勃発)に義勇兵として出征した。作品は最後に、人生の意味を求めて煩悶するレーウィンが、使用人とのふとした会話がきっかけで無神論を脱却し、素朴な信仰の真理に目覚めるまでの過程を描いている。

…というわけである。
こう筋書だけを抽出してみると、この小説は真実の愛を求めるアンナが、正式の結婚以外の恋愛関係に対しては冷淡な上流社会の偽善や形式主義に反発しようとしてあがき、軋轢の果てに破滅する物語、として読めないこともない。
しかし、実態はどうも違うのではないか。アンナは自分がつい出来心でキティの恋を台無しにしてしまったことに気づいているが、あえてその責任を自分の口から、しかも控えめに告白することで追及を免れようとする狡猾さを持ち合わせており、おまけにそのような狡猾さを自覚している(注1)。このような彼女の心理の機微に注目すると、アンナという女性はむしろ自己欺瞞の塊のように思えてくるのだ。
そう思って読めば、例は数えきれないほどたくさんある。カレーニンが精一杯の寛大さで、不倫は黙認するがせめて愛人を家に引き入れるのはやめてくれ、と頼んだにもかかわらず、その取り決めを破ってしまったアンナは、決闘を申し込まれなかったことを不思議がるヴロンスキイに向かってぬけぬけと、「何らかの感情をそなえた人間だったら、罪を犯した妻と一つ家に暮らすなんてこと、できないはずでしょう?」と問いかけ、あまつさえ夫を「お役所の機械」呼ばわりする。しかし威勢がいいのはその場だけで、カレーニンの詰問を受けるととたんにへどもどして泣き落としを試みる始末だ。

彼女はうなだれた。きのう恋人に言った、あなたこそ本当の夫で、主人なぞ余計者なのです、というあの言葉を、口にするどころではなく、そんなことなぞ考えてもみなかった。

「彼女は夫の言葉の正しさをことごとく感じ」、せいぜい自分の立場はただでさえ苦しいのだから追い打ちをかけてくれるな、と哀願するくらいのことしかできない(注2)。いかにカレーニンが魅力の乏しい男性であろうと、自分で約束したことを守れなかったというアンナの落ち度がそれで帳消しになるはずはないからだ。
脱線を承知でカレーニンの名誉のために少し弁じておくと、そもそも彼の欠点はつまらない男だということくらいで、これといって致命的な悪徳があるわけではない。彼がヴロンスキイに決闘を申し込まなかったのは臆病風に吹かれたからというより、必ずや友人一同が割って入って邪魔をするに違いないと予想できたからだ。国家にとって有用な人材である自分にみすみす死なれては困るはずだ、というのがその理由である(注3)。前半と打って変わって後半では離婚に踏み切らないのも、彼なりに息子の将来やアンナの評判に配慮した結果であって、単なる意地悪ではない(注4)。もちろん、このような考え方の中にもうぬぼれとか、事なかれ主義とかを指摘することは可能だし、特に彼の信仰に関してはかなり評価が難しく、色々と不純な要素も混じっているようだ(怪しげな心霊術師に入れ込んでいることなど好例であろう)。それでいてなおカレーニンが自身の恥辱を的確に認識できるだけの聡明さを有していることは疑いないし、彼の運命はそれだけにいっそう悲劇的なものに思えてくる。孤児同然の身でありながら、叔父の援助で官界に入れたという特殊な経歴ゆえか出世主義者にならざるをえなかったこと、また脅迫じみた強引な手口でアンナと結婚させられたにもかかわらず、できるかぎりの愛情を彼女に注いできたことなども考慮に入れるならなおさらだ(注5)。うまく書けているという点では作中随一の登場人物であろう。大きな耳、甲高い声、指を鳴らす癖など、滑稽な肉体的特徴がやたらと強調される様は実に秀逸だ。
脱線はさておき、もう一つ別の例を挙げよう。セリョージャに会いたい一心でこっそりと我が家を訪ねたあと、ホテルに帰ったアンナはなかなか顔を見せないヴロンスキイに対して、「自分が息子に関するいっさいを彼に隠していたことなど忘れて」苛立ち、ついで「あたしここの生活には疲れはてたわ」と自分から言っておきながら彼がこの意見に同調するとますます苛立つ。アンナの気持ちは明瞭である。愛する息子と久しぶりに短い対面を果たしてから一人きりに戻れば、ひとしお寂しさがつのるのは当たり前だし、またいまやヴロンスキイとの恋愛以外によりどころのない彼女にしてみれば、自分との共同生活にうんざりしているように聞こえる恋人の発言が許せないのだろう(注6)。それにしてもいかにも唐突な苛立ちで、ヴロンスキイにとってはとばっちりのようなものだ。ましてや、社交界が二人の不倫関係に眉をひそめているのは承知しているはずなのに、彼の制止を振り切って劇場に出かけ、案の定嘲笑を浴びて傷つくという直後のアンナの振舞は、完全に自業自得である。なぜこんなことをしたのかと尋ねられた彼女の返事はこうだ。

「あなたの落ちつき払ってるのが、憎らしくって。あたしをあんな目に会わせなくたって、いいはずじゃないの。もし、あたしを愛してくれてるんなら……」
「アンナ! この場合、僕の愛情の問題に何の関係があるんだい……」
「そうよ、あなたがあたしと同じくらい愛してくれているんなら、あたしと同じくらい苦しんでいるんだったら……」おびえたような表情をうかべて彼を見つめながら、アンナは言った。(注7)

要するに、自分はヴロンスキイとの恋愛のために家庭も息子も犠牲にしたのに、彼は自分を全身全霊で四六時中愛してくれない、という不満を抱いて、アンナは駄々をこねているのだ。しかし「愛してくれている」ことと「苦しんでいる」ことが一つであるような生活が、どう考えても居心地のよいものであるはずはない。実際の順序はたぶんアンナの考えとは逆で、家庭や息子を捨てたからこそ、四六時中ヴロンスキイの全身全霊の愛情を確認し続けていなくては安心できないという重荷が彼女にのしかかるのである。
おそらく読者は、アンナがよく口にする「感情」だの「心」だのという語の用法に注目しなくてはなるまい。結婚という制度の外に飛び出したアンナが頼れるものはヴロンスキイとの感情的なつながりだけだ。しかし内面的な感情というものはもともと他人と共有しにくいし、自分の内部ですら常時安定しているわけではない。その意味ではこれは非常に便利な語で、事実、アンナは自分の落ち度を棚に上げ、もっぱら他人を非難するという場面で決まって「感情」とか「心」に訴えていることが確認できる。そして他人の内面に対する我々の疑いは、言葉であれ行為であれ、何らかの外的な形式によって払拭されるまで、好きなだけ長引かせることができてしまう。あれほど内なる感情とやらを重んじながら、「愛情の証」としてたっぷりと甘い台詞を聞かされてようやく心の落ち着きを取り戻すアンナの姿は、哀れでもあれば滑稽でもある(注8)。自分の愛情の真剣さが相手に届いていないという主張は別に彼女の専売特許ではなく、ヴロンスキイはおろか誰もがいつでも口にすることのできる安直な理屈だということばかりか、こう主張するときに自分が欲しているのが実は愛情そのものではなくて愛情の証拠(らしき言動)にほかならず、したがって自分が払う以上の骨折りを相手に要求していることも、理解していないからだ。
なにも彼女一人が自己欺瞞の塊というわけではない。アンナとは比べものにならぬほど純真で裏表のないキティですら、転地療養の期間中に知り合って親友になったワーレニカの縁組が決まりそうだとみてとるや、こんなことを言う。

「一つだけまずいのは……ワーレニカの昔の恋愛のことなのよ」ごく自然な連想でそれを思いだして、彼女は言った。「あたし、そのうちにセルゲイ・イワーノウィチにお話しして、了解していただこうと思っているんだけど。ほんとに、男の人ってみんな」彼女は言い添えた。「あたしたち女性の過去には、ひどく嫉妬深いんですもの」
「みんなとは限らないわ」ドリイが言った。「自分の旦那さんの例で考えるから、そんな判断をするのよ。あの人、今でもヴロンスキイの思い出に悩まされているもの。でしょ? そうじゃない?」
「そうなのよ」もの思わしげな微笑を目にうかべて、キティは答えた。(注9)

レーウィンが結婚後もなお、ヴロンスキイへのわだかまりを捨てられずにいるというのはたぶん本当だろう。だがワーレニカから、かつての恋人が諸事情のためにやむなく別の女性と結婚したが、自分は彼を恨んでいないという身の上話を聞かされたとき、ヴロンスキイに侮辱されたという思いでいっぱいだったキティが彼我の相似と相違に驚いたことも、劣らず真実なのだ(注10)。いわば上記の引用箇所でキティは、ワーレニカの名が媒介となってヴロンスキイに対するかつての恋心をつい思い出し(「自然な連想」とはこのことだろう)、その結果覚えた一抹のうしろめたさを、夫を含む男性一般に転嫁しているように思える。
だが、このような狡猾さはキティたちにあってはあくまでも例外である。対してアンナの場合、自己欺瞞が骨の髄まで浸透している。夫婦同然の生活にもかかわらず、彼女とヴロンスキイの間には娘が一人いるだけだ。アンナは、離婚をしていない以上ヴロンスキイとの間に生まれた子供にカレーニンの姓を名乗らせざるをえないという事情に悩み、結局今後は子供を作らない、という決意を固めたのである。そんなことでよいのか、と義姉のドリイに尋ねられても、これが一番合理的なのだという判断をアンナは撤回しない。

「不幸な子供たちをこの世に送りださないということに、理性を使わないとしたら、いったい何のために理性なんぞが与えられているのかしら?」
 彼女はドリイを見つめたが、返事を待たずに、言葉をつづけた。
「そういう不幸な子供たちがいたら、あたしはいつもその子たちに、申しわけない気持を感じていなけりゃならないでしょうけど」彼女は言った。「生まれてさえこなければ、少なくとも不幸ではないわけだし、仮りに不幸だとしても、それはあたし一人の罪ですものね」
 これは、ドリイが心のうちでひきだしたのと、まったく同じ論拠だった。しかし、今それを聞いても、彼女には理解できなかった。『存在もしていない者に対して、罪があるというのは、どういうことだろう?』彼女は思った。と、ふいにこんな考えが頭にうかんだ。彼女の秘蔵っ子のグリーシャにとって、この世に生まれてこなかった方が、幸せだったなどということが、どんな場合にせよ、ありうるだろうか? と、この考えがあまりにも奇異な、不思議なものに思われたため、彼女ははげしく渦巻く、狂った思考のもつれをふり払おうと、首をふった。(注11)

避妊は問答無用で自然に反する悪なのだというトルストイの価値観は、今日ではもはや通用すまい。が、それはさておきここで注意したいのは、おそらく作者の狙いは、「存在もしていない者に対して罪がある」という状態が一種の形而上学的な空想であると指摘すること自体ではなさそうだ、ということである。むしろ我々がこの引用文から読み取るべきなのは、本来は空想的でしかないはずのこの罪も、アンナのような立場にある女性にとっては、あべこべに非常な現実味を持っているという事実ではないのか。生殖活動という、生き物にとって最も本質的な、考えようによっては最も神聖なはずの分野にまで、何もしないうちからあらかじめ罪の色彩が入り込んできて経験の可能性を著しく狭めてしまう。この奇怪な形而上学的倒錯を、アンナは我が身のこととして生きざるをえない。その理由は、彼女が結婚生活という社会の掟を破っているからだ。
だからといって『アンナ・カレーニナ』を、一夫一婦制の家庭生活を礼賛する書として読む必要はない。家庭の内実自体は、夫婦の個性や運次第でいくらでも変動し、幸福にも不幸にもなりうる。ドリイ自身も夫の浮気に苦しめられているし、アンナや息子がカレーニンになつかないのは、やはりそれなりの理由があるのだ。しかしそのことは、自己欺瞞で塗り固めたアンナの不倫が、彼女自身の苦境となってはね返ってくることをいささかも妨げはしない。人間は本来誰しも社会的な存在であり、自分が暮らす社会の慣習や常識を完全に無視して生きることはできないからだ。この機構は、ほとんど物理的な因果関係に近い。たとえアンナが、都合が悪くなるたびに「あなたは私の感情を分かってくれない」だの「あなたには人間らしい心がない」だのと、根拠が曖昧なだけに論駁しがたい理屈を持ち出して駄々をこねようと、正式の夫婦なら到底頭に浮かびそうにない背理を抱え込んでしまう以上、皮肉なことにやはり彼女も、否彼女こそが人一倍社会の掟に支配されているのである。
もっとも『アンナ・カレーニナ』の作者に言わせれば、それは社会というよりも神の神聖なる掟だ、ということになりそうだが、なにも「神」が登場人物として姿を見せるわけではなし、我々としては単に、個人の内面に深く食い入る社会というものの、ゆめゆめ軽視すべからざる底力を読み取るだけで十分だろう。そのような恐るべき力、カレーニンのようなつまらない男がまがりなりにも一度は家庭を築くことを許した力が、はたしてどの程度正義にかなっているか、どの程度尊ぶべきものかは、また別の問題として考えればよい。
やがてアンナの自己欺瞞ぶりは、彼女自身は演技しているつもりでも、初対面のレーウィンにたぐいまれな真率さの印象を与える域にまで達する(注12)。この場合、勘違いは一体どちらの側にあるのか。案外、騙したと思ったアンナのほうが、ついつい真面目に真情を吐露してしまっていた可能性も否定できない。それと並んでますます顕著になってくるのが、内面への執着であり、さらには形式への蔑視、あるいはむしろ形式を適切に解釈する能力の欠落である。
離婚の実現を目指してカレーニンと交渉を重ねるオブロンスキイ(アンナの兄で、ドリイの夫)が打った電報を、ヴロンスキイがたまたまアンナに見せなかったときのことである(オブロンスキイはそそっかしい性格で、進展がなくてもしきりと電報を寄こすらしい)。いまや彼の愛情を確認すること以外に関心がなく、離婚に望みをつなぐこともやめてしまった彼女は、「どうして、隠さなければならないほど、この知らせがあたしの関心をひくとお思いになったの?」などと奇妙な理屈でヴロンスキイにくってかかり、こう続ける。

「はっきりしたことなんて、そんな形式じゃなく、愛情の中にあるものだわ」彼の言葉ではなく、それを口にするときの冷たく落ちついた口調に、ますます苛立ちながら、彼女は言った。「何のために、そんなものを望んだりなさるの?」

アンナの言うことは、彼女が感じていることと全くちぐはぐだ。というのも、愛情が、つまり内面だけが大事だという意見を吐きながらも、彼女は相手の口調、つまり形式によって心を乱されずにはいられないからである。

『やりきれないな、また恋愛論かい』彼は眉をひそめて思った。
「何のためかは、君だって知ってるはずじゃないか。君自身のためと、将来できる子供たちのためさ」彼は言った。
「子供なんて、もうできませんもの」
「それは実に残念だね」彼は言った。
「あなたは、子供のためにそれが必要なんで、あたしのことなんか考えてくださらないのね?」アンナは、彼が「君自身のためと、子供たちのため」と言ったのをすっかり忘れ、というより耳に入れなかったので、こう言った。(注13)

末尾の注釈は辛辣極まる。もはやアンナは、たった今目前の相手がどういう言葉を口にしたかすらも正確に把握できなくなっており、その結果形式への不注意が、無用の疑いを次から次へと増幅させるのだ。ヴロンスキイの口調やまなざし、ちょっとした一挙手一投足も、片時も疑いが頭を離れないアンナの目にはことごとく彼の変心を暗示するもののように見えてならない。あげくに彼女の世間的な立場がいつまでも曖昧なままではいけないという恋人の心配をはねつけて、自分の運命はヴロンスキイ次第なのだからどこにも曖昧なところはないと強弁するばかりか、唐突に彼の母親の無理解を批判し始める始末だ。

「自分の息子の幸福と名誉がどこにあるかを、心で察しとってくれないような女性は、心なんてはじめから持っていないんだわ」
「もう一度頼むけど、僕の尊敬している母について、失敬な口はきかないでもらいたいね」声を高めて、きびしく彼女を見すえながら、ヴロンスキイは言った。〔中略〕
「お母さまを愛してなんぞいないくせに。そんなのはみんな口先だけじゃないの、言葉よ、言葉の上だけ!」憎らしそうに彼を睨みつけながら、アンナは言った。(注14)

ここを読むと、外面的な「言葉」よりも内面的な「心」を重んじるという態度をアンナが取るのは一体どういうときかがよく分かる。それに、この種の態度が一見もっともらしいようでいて、いかにたちの悪いいさかいを惹き起こしうるものかも明らかだ(もっともヴロンスキイが母親のことをあまり大切に思っていないのは事実らしいが(注15)、そんなことをこの文脈でアンナに言われる筋合いはない)。
この疑心暗鬼が病的にひどくなり、ついに自殺に至るまでの鬼気迫る一部始終を詳細に検討する余裕はないが、少なくとも確かなのは、一般に他者との関係において内なる感情だけに賭けるという選択は決して賢明でなく、恋愛といえどもその点で例外ではないということだろう。我々は誰しも、他人が頭の中で感じていることが、それどころか自分が頭の中で感じていることすらも完全に見通せるわけではないからだ。ゆえに内なる感情を唯一の基準に据えるかぎり、際限なく疑いを再開することが可能になってしまう。結婚をはじめとする諸々の慣習的な制度は、ある意味ではこのような事態を予防するために存在しているのだ。徹底的に形式を拒否したつもりの者にとっては、もはやいかなる内容面での懐疑についても、適当な形式が救援に駆けつけて打ち切ってくれることは期待できない。
事実アンナは、猜疑心に苦しむ中で「記憶をおおい隠すこと」を自覚的に企てるが(注16)、その努力もむなしく「生存競争と憎悪だけが、人間を結びつける唯一のもの」だという絶望的な認識に達し、ヴロンスキイとの恋愛も、息子への愛情すらも嘘だらけだったという断定に追い込まれてしまう(注17)。最終的に彼女を自殺へと踏み切らせた直接のきっかけは、客観的に形式を判定する冷静な視点の欠如ゆえに、ヴロンスキイの手紙の何の変哲もない文面から過剰な意味を読み取ってしまったことだった(注18)。ひとたび形式と内容との全般的な乖離が生じた以上、もはや任意の形式から任意の内容を勝手気ままに引き出すことを妨げるものは何もないからだ。
制度を離れて内面はありえないこと、あるいは形式を離れて内容はありえないこと、これが『アンナ・カレーニナ』の最大の倫理的な教訓だ。
だからといって世論への付和雷同が推奨されているわけではない。そのことは結末近くで、セルビア・トルコ戦争(1877年よりロシアが参戦して露土戦争となる)への義勇軍の派遣を支持する知識人たちがまるで呪文のように唱える「民衆の意志」という切り札に対して、彼らよりもずっと民衆に近いはずのレーウィンが覚える違和感から十分にうかがえる。非日常性を求めるのではなく、ただただ善を念じて私欲を離れ、各自の持ち場で日々の義務を果たすべし、というあまりにも単純な彼の結論については、いささか物足りなく感じる読者もいそうだし、大地主の貴族だったトルストイが自身の保守主義を正当化しているだけという読み方も可能には違いない。しかしこれが戦時の高揚への醒めた批判で裏打ちされていることを忘れてはならないし、それ以上に、作者がアンナの死に様の後でこのような態度の中に神の掟の何よりの証拠を見出したことは、おそらく彼が、個人の良心にとって形式性は障害ではなく、かえってあらゆる社会的な大事件を度外視してもなおきっと残るもの、ほとんど良心の定義上の本質であると考えていたことを暗示しているのだ。


(1)『アンナ・カレーニナI』(原卓也訳、中央公論社、1994年)121頁。ただし奥付を見るかぎり「新装 世界の文学セレクション36」の第19巻『トルストイI』というのが正式な表題のようだ。
(2)同書432-433、438頁。
(3)同書336頁。もっとも自他の死を恐れる臆病さがカレーニンの中にあること自体はちゃんと書かれており、彼が案出した理由はそれとの関係ではいわば後付けということになるので、若干割り引いて読む必要がありそうだ。
(4)『アンナ・カレーニナII』(原卓也訳、中央公論社、1994年)31-32頁。ただし感情的な動機が全くないとは考えがたい。特に379頁には珍しく半泣きになって取り乱すカレーニンの様子が描かれており、それから判断すると離婚の提案を拒絶し続けることは、積極的な悪意でこそないが、恥辱にまみれた彼にとっての最後の意地でもあるのだろう。なおこの本も奥付によれば、注(1)で触れたのと同じ選集の第20巻『トルストイII』が正式な表題のはずである。
(5)同書119-120、136頁。
(6)同書157-161頁。
(7)同書172頁。
(8)同上。
(9)同書179頁。
(10)『アンナ・カレーニナI』(前掲書)266-268頁。
(11)『アンナ・カレーニナII』(前掲書)278頁。
(12)同書350、354頁。
(13)同書406頁。
(14)同書407頁。
(15)『アンナ・カレーニナI』(前掲書)75頁。
(16)『アンナ・カレーニナII』418頁。
(17)同書425-427頁。
(18)同書432頁。

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プルースト『ソドムとゴモラ』 

『失われた時を求めて』〔À la recherche du temps perdu〕を構成する七つの長編小説のうち、著者プルースト(Marcel Proust, 1871-1922)の生前に刊行を見たのは、第四篇に相当する『ソドムとゴモラ』〔Sodome et Gomorrhe〕までだった。
厳密な分量はともかく、数字の上では一、二、三と五、六、七のちょうど真ん中だし、集英社文庫版(鈴木道彦訳)でも全13巻中の第7、8巻(二分冊)と、ほぼ中間に位置している。
それだけに、プルースト自身が思い描いた作品全体の最終的な姿というものを推定する際、この第四篇の存在は軽視できないはずだ。
ここで作者が己に与えた最大の課題は一応―性的な放埓さのゆえに神の怒りを買って滅ぼされたという、旧約聖書の都市の名にあやかった表題が暗示する通り―、同性愛の主題の導入と考えてよい。
だが、もっと形式的な意味でも、『ソドムとゴモラ』は全篇の蝶番たりうる小説ではないかと思う。
以下に記すのは、集英社文庫版の第7巻、つまり『ソドムとゴモラ』の前半部に関する覚書である。

プルーストの繰り出す隠喩や直喩の多彩ぶりについては定評があり、人によってはややうるさいとすら思えよう。
この第7巻でものっけから、虫媒花の生殖作法がある種の同性愛者の恋愛模様と重ね合わされている。
しかし注意したいのは、ここで話者の「私」が、単なる空想でなく現実に、蘭か何かの花と飛来するマルハナバチとを目のあたりにしており、それの観察に引き続いて、偶然にもシャルリュス男爵と仕立屋ジュピアンとの邂逅を目撃する、ということだろう。
いかにもあざとい順序だという突っ込みはさておき、こういうのも無条件で隠喩や直喩の仲間に数えてよいものか、私は少々ためらいを覚える。以前の記事(日日日『のばらセックス』7)では「筋書の水準での隠喩、あるいは底抜けの寓意の連鎖」というけったいな新語を使ったが、あの場合もやはりプルーストへの連想がつい働いていた。まずは二つの相似的な状況が並列的に叙述され、さらに両者の具体的な細目に関する説明が続く。それが片付かないかぎり、「まるで」とか「あたかも」が両者を結び付ける余裕もない。そしてこの説明が済んでようやく、通常のもしくは狭義の比喩―「私は今しがた中庭で、ちょうど蘭の花がマルハナバチに言い寄るように、シャルリュス氏のまわりをうろうろするジュピアンの姿を見たけれども」(注1)―が、違和感なく登場することができるという次第だ。誰もが周知の動物や物体ならば、例えば「牛乳のように白い」とか「狐のように狡猾な」などという比喩を、何のためらいもなく使うことが作者には許される。その代り、こういう比喩は単独だと印象的な新味を欠いている。対して状況と状況との間の相似性の場合、作者が両方を叙述し終えるまで、何が成就されるのか完全には予測しえぬまま、読者はおとなしく待ち続けるほかない。
状況間に成立する、あるいはむしろ創造主たる作者の手で成立せしめられる相似性を存分に活用することで可能になるこの工夫は、詩とも短編とも違う、長編小説ならではのものだろう。
したがって世界有数の長編小説である『失われた時を求めて』には、最終巻における無意志的記憶の啓示に至るまで、実は一貫してこの種の伏線があふれかえっており、時の作用を可視的に実感させること、という作品の根本的な狙いの実現に貢献しているのだが、その中でも特に興味深いのが、全篇の中央を占める『ソドムとゴモラ』の場合なのだ。
そもそも上記のシャルリュスとジュピアンの出会いの光景にしてからが、話者自身も認めるように第一篇でヴァントゥイユ嬢が同性の恋人と戯れる場面の反復なのだが(注2)、これ以降も本巻はますます、状況と状況の相似性、およびそれを支える登場人物同士の重なり合いを執拗に追求していく。
シャルリュスの醸し出す雰囲気が「ひとりの女」(注3)としか思えないように、女々しい同性愛者の夫を持ったヴォーグ―ベール夫人は「ひとりの男性」(注4)である。親戚の危篤を知らされてもゲルマント大公夫人の夜会を欠席しようとしないばかりか、死亡通知を受け取ってなお仮装舞踏会(これもまた相似性の世界だ)にいそいそと出かけるゲルマント公爵夫妻が引き起こす悶着も、すでに前巻(『失われた時を求めて 6 第三篇 ゲルマントの方II』)の末尾に予兆があった(注5)。夜会の席でヴォーグ―ベール氏は、いかに多くの同類が外交官たちの中に勢力を広げているかをシャルリュスから教わってときめく。彼の同性愛はラシーヌ劇の詩句で飾られるが(注6)、この点はニシム・ベルナール氏の少年愛と同様であり(注7)、両者間の相似性はあたかも、社会的少数者としての同性愛者の境遇とユダヤ人のそれとの間の相似性へと読者をいざなうかのようだ。
やがて、同じ時代を生きる人々に身分の違いを超えて一律に及ぶ精神的な画一化についての話者の省察(注8)を経て、ゲルマント公爵夫人は何のつもりかモレ氏の「われわれ二人」という言葉づかいに注意を促し、ついで外見こそ違えどともに母の美貌を受け継ぐシュルジ夫人の二人の息子、ヴィクチュルニアンとアルニュルフが登場する(弟のアルニュルフは、「いつも兄の真似をしていて自分の考えを持てない」人間だという)(注9)。サン‐ルーは伯父のシャルリュスを女好きと思い込み、自分の恋愛関係に彼が口出しするのを笑うが、しかし話者に言わせれば、伯父と甥に同じ悪徳が共通しているとしても、遺伝を考慮するかぎりそれは致し方のないことだ……(注10)。たしかにシャルリュスはシュルジ夫人に見惚れているが、そのわけは別段互いにそっくりではない兄弟それぞれの美を、二つとも彼女の容貌の中に認めることができるからである(注11)。彼はバルザックを話題にし、いまどき珍しい文学通の貴族だという理由で兄のほうを称賛しつつ(もっともこれはただの勘違いなのだが)、あとはポリニャック家とモンテスキュー家に例外がいるくらいだという「二重の同化」の宣言で太鼓判を押したあと、ぜひとも秘蔵の『骨董室』をお見せして「二人のヴィクチュルニアン」を引き合わせたいものだと楽しげに言う(注12)。
夜会も終りに近づき、話者は知人であるシャルル・スワンから、自由間接話法でもってゲルマント大公との会話を長々と聞かされる。いわばスワンが一時的に大公になったつもりで「私は……」と語り続けるわけで、実に小説らしい変身の作法だ(映画や漫画では登場人物同士の視覚的な差異を消去できないのだからこうはいかない)。家柄に囚われぬ若き日の生き方の報いを受け、いまでは「生まれながらにして持っていたものを一つまた一つとふたたびとり戻すべく、営々とつとめる」シュルジ夫人の骨折り、換言すればかつての自分自身に精一杯似ようとする努力への(話者による)言及を挟み(注13)、スワンは大公がドレフュス支持派にまわったいきさつを明かすが、その山場はゲルマント大公夫人、つまり彼の妻が夫に先んじてドレフュスの無実を確信していたという事実の露見である(注14)。

以上のごとき相継ぐ相似性の演出には、まことに執拗なものがある。この世界では似ること、あるいは自分を相手に(ときには以前の自分自身に)似せることが、そのまま強さであり、美しさであり、正しさなのだ。ゲルマント公爵が実弟であるシャルリュスを相手に興じる思い出話はゲルマント公爵夫人を除け者にし(注15)、サガン大公の挨拶には大革命以前の貴族を思わせる風格がある(注16)。
ソドムとゴモラ、すなわち男女の同性愛は―プルーストは同性愛のことを、男同士なら「ソドム」、女同士なら「ゴモラ」という隠語で呼んでいた―、はたしてこのような事態の原因だろうか、それとも結果だろうか。いずれとも私には決めがたい。原因と考えておくほうが無難かもしれないが、案外真相はその逆ではないか。夜会の叙述に先立って詳細な検討に付されている男色者たちの過剰なまでの秘密主義は、当時の社会が同性愛に対して今日よりも不寛容だったから、というだけでは説明がつかないし、いわんやプルーストの誇張癖だけでも説明できない。おそらくは、「似ること」と美徳との合致という最も根源的な構図から、一方では異性ではなく同性が思慕の対象であるような恋愛、すなわち同性愛を中心とするさまざまな相似性の系列が、他方では世間一般の性愛の規則に違反しているという自覚を片時も忘れられず、「未だかつてみなと同じ好みを持ったことがない」(注17)と言うシャルリュスたちの小心翼々たる秘密主義が、ともに派生してくるのではないか。
話者一人が、この相似性の支配から免れている、あるいはそこから排除されている。彼は以前愛していたスワンの娘(ジルベルト)への恋心をもはや抱いていないし、仮装舞踏会にも出席しない(注18)。しかしそれも夜会の間だけのことで、帰宅するや彼は約束していたアルベルチーヌとの逢引が流れそうなのを感じて、かつて就寝前に母親からキスしてもらえなかったときに覚えたのと同質の不安を覚え(注19)、女中の不正確な(すなわち、規範に似ていない)フランス語にあたりちらす(注20)。初恋の人にもらった記念の品を、電話で呼びつけてようやく会えたアルベルチーヌにあっさり与えるという行為も、相似性の破壊というよりはむしろ歪曲であろう(注21)。
「似ること」と美徳との合致という原理はなおも、ゲルマント公爵が三人の才媛に感化されてあっさりとドレフュス支持派に鞍替えするという逸話に継承される。この逸話は前後の脈絡から浮いていて、何もこの位置になくてもよい気がするのだが、「歴史の重大な時期にさしかかるとかならず繰り返される現象」だから無視できないらしい(注22)。一連の相似性の系列の余波のせいで、心ならずも構成上の小さな強引さを導入せざるをえないという弁解のようにも読める。この果てしない系列を締めくくるには、変化に関する巨大な一般法則に訴えるしかない。だからこそ話者は章を改めるに先立ち、「社交界そのものは変化しない」と信じるのは誤りで、「サロンといえども不動の静止状態において描かれるわけにはいかない」ことを強調しつつ、スワン夫人のサロンに突如訪れる栄光の日々を手短に描いてみせるのだ(注23)。延々と続く夜会の情景、ついで逢引の場面と比べるとこの部分はいかにもとってつけたようだが、ある意味では内容、つまり社交界での彼女の地位の急上昇という出来事そのものの意外な速度に見合っている。こうなればさしもの相似性も、もはや話者個人の思い出に結びついたごく私的な支えを持つにすぎなくなってしまう(注24)。
しかし、状況と状況との照応関係にほかならぬ筋書の水準での隠喩の運動は、これで終わりを告げたわけではない。むしろその反対である。というのも、続いて描かれる二度目のバルベック滞在の日々―バルベックはノルマンディ海岸にあるとされる架空の保養地で、すでに第二篇『花咲く乙女たちのかげに』で話者は祖母とここを訪れている―には、名高い「心情の間歇(les intermittences du coeur)」が待ちかまえているからだ。
話者の「私」は、久しぶりに再び泊まったバルベックのホテルで、ふとした仕草をきっかけに生前の祖母の姿を思い出す。『失われた時を求めて』の代名詞ともなっている、いわゆる「無意志的記憶(mémoire involontaire)」だ。そして逆説的にもこのことが理由となって、彼は第三篇ですでに亡くなっている彼女の死を否応なく痛感し、深い悲しみに襲われるのである。ここで明らかになるのは相似性そのものというよりもむしろ、「私」が相似性の劣等生であるという残念な事実だ。

けれどもショートブーツの最初のボタンにふれたとたん、私の胸はある未知の神々しい存在に満たされてふくれあがり、嗚咽が身体を揺り動かし、涙がはらはらと目からあふれ出た。私を助けにかけつけて、魂の枯渇から救いだしてくれた存在、それは数年前、同じような悲嘆と孤独に襲われて自分をことごとく失ってしまった瞬間に、とつぜん入りこんできて私を私自身に返してくれた存在だった。なぜならそれは私であるとともに、私以上のものだったからだ(中身を上まわる容器、しかも私にその中身をもたらしてくれた容器である)。今しがた私は、記憶の中で認めたところだった、愛情のこもった、心配そうな、またがっかりした祖母の顔、はじめてここに着いた晩とそっくり同じような祖母の顔が、私の疲労の上に屈みこんでいるのを。(注25)

愛する人が自分の中で突然よみがえるのを感じることに由来する、疑いようのない歓喜は、同時に、ことによると自分は相手の尊さに値しないのではないかという疑惑(「中身を上まわる容器……」云々)をも伴っている。それかあらぬか、疑似的な再会の喜びは長続きせず、話者はただちに、もはや祖母が生者ではないことを思い出して「矛盾」に囚われてしまう。彼にできることといえばせいぜい、当の苦しい印象からいずれは知的な努力によって「真理」を引き出してやろうと決意するくらいのものだ(注26)。この残念な結末は、しかし決して意外なものではない。というのも、第一回目のバルベック滞在と比べて今回の滞在を違ったものにしている一番の要因が祖母の不在である以上、状況は厳密に相似的でないのはもちろん、むしろ対照的ですらあるのだから(しかし全く無関係ではなく、同じ土地で同じホテルに泊まって同じ動作をしているのだから)、ある意味ではこうなることは目に見えていたのだ。
話者の母、つまり祖母の娘は、もっと優秀である。遅れて到着した彼女を見たとたん、話者ですら祖母本人がそこにいると感じるからだ(注27)。こうして「中断された死者の生命の継承者」以外の何者でもなくなった彼女の姿に感銘を受けて、話者はいまや、生者が己の個性を犠牲にしても愛する死者に似ようとする衝動の、深い意味を実感するに至る。

愛するひとが生きているかぎり、私たちはたとえ相手に迷惑であっても、恐れることなくそのような個性を発揮する。それが、その相手からのみ私たちに伝わった性格と、うまく釣合いをとってくれるからだ。けれどもひとたび母が死んでしまうと、私たちは母と別な人間であることが気になりはじめる。私たちはもはや、かつて母がそうであったものしか讃美することはない。それはすでに私たちの存在そのものだが、何かに一体化した存在である。そしてそれこそ、私たちが今後ひたすらそうなろうとつとめるものなのだ。その意味においてこそ(けっして一般に人びとが理解しているような、あいまいで出たらめな意味においてではなく)死は無駄でないし、死者は依然として私たちに働きかけている。なぜなら、真の現実とは精神によって引き出されたものにすぎず、精神の作用の対象にほかならない以上、私たちが本当に知っているのは、思考によって再創造することを余儀なくされたもののみだからだ。(注28)

筋金入りのマザコンだったプルーストの面目躍如といった感じで(なぜ一般論のはずなのに、この話者はいきなり「母」のことを語り出すのか?)、若干気持ち悪いがまあそれはさておき、とにかく「似ること」が即美徳である、という事情は、ここに至って十分意識的に把握されると考えてよさそうだ。ホテルの支配人やエレヴェーターボーイの珍妙なフランス語が深刻な苛立ちではなくて笑いを誘うのも、話者の心に余裕が生まれていることの反映かもしれない。
しかし、よしんば一般原則を理解したところで、話者個人が相似性の分野では劣等生であることに変わりはない。祖母と一緒だった旅行の思い出がバルベックの街角から吹き寄せ、一足進むごとに惹き起こす耐え難い苦悩はもちろんだが、やっとのことでホテルに逃げ帰った彼を出迎えるドアボーイが抱く、名士の手で引き抜いてもらえた兄たちの境遇への羨望も、おそらくこのことと無縁ではあるまい(ドアボーイもまた、憧れの人物のようでありたいと願いながらそれがかなわないせいでやきもきしているのだ)(注29)。結局、悲嘆にくれる話者を慰めてくれるのは、季節の違いのせいで最初の滞在時には立ち会えなかった、満開の林檎の花だけである(注30)。これといってその理由が解明されているわけではないが、察しはつく。たぶん林檎の花には、祖母と過ごした日々を思い出させないという消極的な美点(バルベックの風物の中では例外的な、それゆえ貴重な取り柄)に加えて、以前見たときの、あとかたもなく散り終えた状態から例年のごとく再び咲き誇るに至った以上、なお積極的な長所が具わっているからだ。つまりそれは、再生を繰り返すことで間断なくそれ自身との相似性を更新し続ける、自然界の終わりなき生命力を確信させてくれるという長所である。
いまや彼を脅かし始めるのはアルベルチーヌの同性愛疑惑である(注31)。換言すれば、彼が男性同性愛者でないばかりに、あるいはアルベルチーヌのように女性であるわけではなく、ましてや彼女の好みそうな女性ではありえないばかりに味わわなくてはならぬ苦悩である。しかしながら、姑と嫁、二人のカンブルメール侯爵夫人(シュルジ夫人の息子たちやドアボーイの兄弟に続き、またしても同姓の二人だ。ちなみに若いほうの夫人はブルジョワの出身であり、カンブルメール家流の名門貴族の呼び名を真似ることに無上の快感を覚えている)との談話を経て、芸術の世界における「反動」作用、ないし揺り戻しの現象―ショパンの直弟子だった姑のカンブルメール夫人とは対照的に、嫁のカンブルメール夫人は流行に敏感なつもりで彼を軽蔑しているが、実は皮肉なことに彼女が崇拝するドビュッシー自身がショパンを愛好している……―に気づいた話者は、おそらくはそれを参考にしてか、アルベルチーヌに面と向かって、自分は以前彼女のことが好きだったが今ではもはや愛していない、と言い放つ(注32)。人間精神にはつきものの守勢と攻勢の交代を利用して、あえていったん引いてみせることで彼女の関心を誘発しよう、という腹だ(いかにもせこいしおまけにずるいが、この話者は一貫してこういう人である)。
どうやら彼は、一途に己を何かや誰かに似せる能力の欠如を自覚した結果かえって吹っ切れて、その場しのぎの利己的な演技が上達したらしく、まんまとこの作戦は功を奏する。アルベルチーヌは話者になびいたばかりか、きっぱりと同性愛疑惑を否定してくれたのだ(もっともこの疑惑自体は以後も末永く話者を苛み続け、彼女の死後になってとうとう確信に変貌するのだが)(注33)。
こうして第7巻は、早くも第1巻の時点で皿の絵という形で姿を見せていた『千一夜物語』の現物を、やがて最終巻でも話者が小説の執筆を志すときにその名が召喚されるのに先立って彼の読書体験に組み入れてから(注34)、姉妹の小間使いである、マリー・ジネストとセレスト・アルバレという新たな二人組を登場させつつ、なおも払拭しきれぬアルベルチーヌの同性愛に関する不安とともに次巻に続いていく。このあたりになってくると、物であれ人であれ、相似性以上に対照性が際立ってくるという印象だ。二種類の『千一夜物語』(ガラン訳とマルドリュス訳)の違いは話者の母を悩ませるし、シュルジ夫人の息子たち(ヴィクチュルニアンとアルニュルフ)や、ゲルマント公爵とシャルリュス男爵などの兄弟が息の合った立ち居振舞を見せていたのと引き換え、二人のカンブルメール夫人の芸術観がずいぶん違うように、マリーとセレストの姉妹も、話者への好意を競い合って彼の面前でほとんど喧嘩腰の粗暴なやりとりを繰り広げる(注35)。

以上のごとく『失われた時を求めて』全篇の結節点にあたる『ソドムとゴモラ』の前半(集英社文庫版の第7巻)は、ゲルマント大公邸での夜会における、話者の周囲での執拗な相似性の構築を経て、二度目のバルベック滞在をきっかけとする「心情の間歇」の章に入るとついに話者自身をもいったん相似性の運動の中に引き込みながら、ただちに資格不十分としてそこから追い出してしまい、これ以後は巻末に至るまで、ひたすら他人の相似性を詮索するか(母は祖母へと非の打ちどころのない変身を遂げ、アルベルチーヌには同性愛の疑惑がつきまとう)、それとも対照性の混迷の中をさすらうかが彼の運命となるわけである。対照性の概念をことさら「混迷」と呼びたくなるのは、バルベックの街角に染みついた祖母の思い出と満開の林檎の花との間の対照性は、実際には人間にまつわる不完全な相似性―街路が掻き立てる思い出は活発であればあるほど、祖母の不在を痛感させる―と自然界の完全な相似性とが作り出す対照性であるから、また芸術における反動の現象を応用することで話者がアルベルチーヌの気を引こうとする場合には、偽の対照性―「僕は、以前は君のことが好きだったが現在ではもはや愛していない」という告白はもとより嘘である―にもとづき人為的な相似性が作り出されるからだ(ちょうどドビュッシーによる再評価がショパンを復活させたように、話者の演技はアルベルチーヌの好意を取り戻す)。つまり相似性が理想的な状態であることに変わりはないわけで、あとはいかに、そしてどこまで絶対的な相似性に迫れるかで微妙な差異がさまざまに生じてくるわけである。
状況と状況との隠喩的な関係を全篇の中でいかに組織すべきか、という長編小説の構成にまつわる問題を考えたとき、プルーストが試みたこのような手法は、いささか図式的なきらいはあるかもしれないが、かなり示唆的なものではなかろうか。
諸状況の相似性は、縦横無尽に張り巡らされた前後の巻への参照や伏線を介して成立する。中でも最も模範的な事例が、まずは虫媒花の生殖とヴァントゥイユ嬢の戯れとを連想させる、シャルリュスとジュピアンの出会いとして、やがては話者の知性を試みるかのように、意志とは無縁な記憶の自動作用がもたらす間歇的な祖母の思い出として、二度にわたって到来する教訓的な反復であろう(おそらく両者は話者個人にとってのみならず、『失われた時を求めて』の全体像を探し求める批評家にとっても模範的だからである)。この二つの、特別に大がかりな反復のうち、前者は他人が話者に対して演じる手本であり、後者は話者に己の無力さを思い知らせる暴力的でしかも儚い啓示である。ここに働いている筋書そのものの厳然たる掟に比べると、同性愛や亡き祖母への思慕といった内容は、重要度という観点からすれば結局は交換可能なもの、あるいはそこまでいかないにしても形式に従属的なものかもしれない。むろん、普通に読めば最初に目に入ってくるのは内容のほうで、それを包む形式である状況間の関係のほうは背後に隠れている。だが、執筆者の気持ちになってみれば、というよりも無から創造された言語的虚構という小説の定義そのものに立ち戻ってみれば、形式的な自律性を確保すべしという規則こそ第一に考慮すべきであって、具体的な内容は二の次ではないのか。そんな疑問を我々読者に抱かせてしまう点で、『ソドムとゴモラ』は全篇の折り返し地点を占めるにふさわしいかなり特異な作品であり、何にもまして方法論の書なのである。このようにして新たな数頁が産出される決定的な瞬間とは、ある所与の状況の記述がそれ自体の上に折り重なるときにほかならない、ということになる。
乱暴に要約すれば『失われた時を求めて』とは、「作家志望の『私』がさまざまな体験を積んだ果てに『時間』という主題を見出し、書くべき小説の姿を悟るに至る」までの過程を追った架空の自伝であるからして、元来小説についての小説という自己言及的な雰囲気をたたえているのだが、ほかならぬその過程の真ん中に、私が「筋書の水準での隠喩、あるいは底抜けの寓意の連鎖」と呼んだものの原理が埋め込まれているわけである。位置的に中間であるというだけでは飽き足らず、役柄の上でも中間(蝶番)らしくなろうと努める奇妙に意欲的な中間、それがこの『ソドムとゴモラ』と題された、めくるめく相似性の世界の正体なのだ。
いずれにしても話者は、シャルリュスとジュピアンの出会いの場合には虫媒花の生殖に関する知識を参考にすることで、つまりは状況間の形式的な相似性を抽出することで同性愛についての理論的考察を深めているし、祖母の回想の場合には形式の恩恵にただただ圧倒されるばかりで、内容の立場からこれに応えようとして力尽きている。まさしく引用文にあったとおり、「中身を上まわる容器、しかも私にその中身をもたらしてくれた容器」というわけだ。この「中身」は話者である「私」自身のことで、「容器」は回想の中の祖母を指すと考えておくのがとりあえず無難に思えるが、あるいはむしろ回想の祖母―話者自身の内部によみがえり、瞬時に彼と一体化した祖母―こそが「中身」であるのかもしれない。そして真の「容器」とは祖母本人のことではなく、彼女に関する無意志的記憶の機構(同じ土地で同じホテルに泊まり、同じ動作を行ったことで勝手に作動し始めた自律性の記憶)なのかもしれない。
この上なく生々しい感情の横溢を透かして、ふと非人間的で超個人的な骨太の構造が垣間見える。これもまた文学の醍醐味の一つ、か。


(1)『失われた時を求めて 7 第四篇 ソドムとゴモラI』(鈴木道彦訳、集英社文庫、2006年)76頁。ただし「ジュピヤン」を「ジュピアン」に改めた。どちらのカタカナ表記もJupienでないという点では大差ないわけだが、個人的にはenを弱く読むほうが楽でよい。
(2)同書30頁。
(3)同書23頁。
(4)同書108頁。
(5)同書140-141、274-275頁。『失われた時を求めて 6 第三篇 ゲルマントの方II』(鈴木道彦訳、集英社文庫、2006年)559-560、588-589頁をも参照のこと。なおゲルマント公爵夫妻は、やはり死病に侵された親友のシャルル・スワンに対しても心無い言動を見せている。
(6)同書147-150頁。
(7)同書518-520頁。
(8)同書181-184頁。
(9)同書192頁。ただし「ヴィクチュルニヤン」を「ヴィクチュルニアン」に改めた。
(10)同書203-204頁。
(11)同書209頁。
(12)同書217-218頁。要するに、バルザックの『骨董室』にもヴィクチュルニアンという名の人物が登場するのである(シャルリュスは作者自身の手で訂正が施された同書の貴重な版を所有しているという)。なお、集英社文庫版では原文の"cette double assimilation"が「このような二つの名前と同格に扱われれば」と訳してあるが、論旨の都合上直訳に改めさせていただいた。
(13)同書235頁。
(14)同書244頁。
(15)同書257頁。
(16)同書263頁。
(17)同書260頁。
(18)同書249、273頁。
(19)同書290頁。
(20)同書297-298頁。
(21)同書301頁。
(22)同書304頁。
(23)同書309-310頁。
(24)同書327頁。
(25)同書338-339頁。
(26)同書346頁。
(27)同書365頁、「だがとりわけ、クレープのコートに身を包んで入ってきた母を見たとたんに、私は気がついた―パリにいたときは分からなかったのだが―私が目の前にしているのは、もはや母ではなくて祖母だった」。
(28)同書366-367頁。
(29)同書371-374頁。
(30)同書390-392頁。
(31)同書418-422頁。
(32)同書488-491頁。
(33)同書492-501頁。
(34)同書503-504頁。『失われた時を求めて 1 第一篇 スワン家の方へI』(鈴木道彦訳、集英社文庫版、2006年)133頁、『失われた時を求めて 13 第七篇 見出された時II』(鈴木道彦訳、集英社文庫版、2007年)270-271頁。
(35)同書524-531頁。

category: プルースト

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