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一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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アリストテレス『魂について』2 

前回は『形而上学』の検討を通じて、「生きること」は即「生きていたこと」でもあるがゆえに、いわばエネルゲイア化したエンテレケイアとして―エンテレケイア化したエネルゲイア(特に学問的研究)を高く評価するアリストテレスの個人的な好みとは独立に―、両者の一致の特権的な事例たりえているのではないかと考えた。
今回はその続きということで、アリストテレスの霊魂論そのものをのぞいてみたいと思う。

中畑正志訳『魂について』第2章からの引用だ。アリストテレスはまず、実体には三つの意味があり、それは第一に素材もしくは質料、第二に形もしくは形相、第三に両者の結合であるという。

ところでわれわれは、実体[さまざまな「ある」ということの根拠となるもの]をある[存在する]もののうちの一つの類であると語っているが、その実体を、一方では素材[質料]―それ自体では〈あるこれ〉ではないもの―の意味で、他方ではそれとは異なり形すなわち形相―それによって素材がただちに〈あるこれ〉と言い表わされるもの―の意味で語り、そして第三にはこの二つのものが結合されたものの意味で語りもする。

その上で、質料はデュナミス(可能態)、形相はエンテレケイア(完全現実態)と考えることができるが、一般に後者すなわちエンテレケイアには二つの意味を区別できるという。

しかるに、素材とはデュナミスであり、形相はエンテレケイアであるが、しかしこのエンテレケイアにも二通りの意味があって、その一つは「知識の所有」に相当するものであり、もう一つは「知識を行使する[観想する]こと」に相当する。(注1)

エンテレケイアに二種類あるというこの注意書きは後で大切になってくる。
ついでアリストテレスは、実体に関する通念によれば、主たる実体は「物体」、それも人工物ではない「自然的物体」であることに注目し、それをさらに生命のあるものとないものとに大別する。

さて、何よりも実体であると一般に思われているのは物体であり、そのなかでも自然的物体である。なぜなら、それら自然的物体がそれ以外の物体の始原[原理]だからである。だが自然的物体のうちでも、生命をもっているものと、もっていないものとがある。この場合[生命]によってわれわれが意味しているのは、「自分自身による、栄養摂取と成長・衰微」である。したがって生命に与る自然的物体はすべて、実体であり、ただし素材と形相とが結合されたものという意味での実体であるということになろう。(注2)

「したがって」以下の末尾に至って「素材と形相とが結合された意味での実体」という文句が出てくるのは唐突なようだが、これはつまり、「生命に与る自然的物体」という表現が、「生命に与る自然的(=形相)/物体(=質料)」と分解できることから、ここに質料と形相の合成を見出しているらしい。「質料と形相」といえば何やらいかめしい概念装置のようでもあるが、ここだけ取り出せば要は、分析の手がかりとして「主語(質料)と述語(形相)」、あるいは「名詞(質料)と形容詞(形相)」という言語的慣習に訴えているにすぎない。
ここからアリストテレスは、いよいよ「魂」の定義へと進む。

そして、これがまさに一定の性格をそなえた物体、つまり生命をもつ物体である以上は、物体がすなわち魂であるということはないだろう。なぜなら、物体は基体について述語づけられるものに属するのではなく、むしろ基体として、つまり素材として存在するからである。

このとおり、「基体について述語づけられるもの」、すなわち「生命に与る自然的」という形容は、「基体」ないし「素材」、すなわち主語である「物体」とは別ものである。

したがって必然的に、魂とは「可能的に[デュナミスにおいて]生命をもつ自然的物体の、形相としての実体」である。ところで、このような形相としての実体はエンテレケイアである。それゆえ、魂とは以上のように規定された物体[可能的に生命をもつ自然的物体]のエンテレケイアである。(注3)

なお補足の余地はあるものの、これが一応アリストテレスによる魂の最初の定義である。素材もしくは質料はデュナミスに相当するのであったから、「可能的に」という制限が付く。「生命をもちうる」・「生命を(もってはいなくても)もつことが無理でない」ということだろう。
では、「魂」がエンテレケイアであるとして、一体二種類のエンテレケイアのどちらに該当するのか。

ただし、エンテレケイアは二通りの意味で語られる。すなわち一方は「知識の所有」という意味であり、他方は、「知識を行使する[観想する]」という意味である。すると、魂が現実態であるというのは、明らかに、「知識の所有」という意味に相当する。

非常に興味深い考察である。一体なにゆえなのか。

なぜなら、睡眠も覚醒も、ともに魂が存在することを含意しているが、覚醒は「知識を行使する[観想する]こと」に類比的であるのに対して、睡眠は知識を所持してはいるが現に行使してはいない状態に類比的だからである。また、同一の個人においては、知識を所持していることの方が知識の現実の行使よりも生成の順序としてはより先である。それゆえ魂とは、「可能的に生命をもつ自然的物体の、第一次のエンテレケイア」と規定される。(注4)

二種類の「エンテレケイア」の間には、生成の順序、つまり時間的な順序に即した前後関係が成り立つ。そして、知識なら知識の、単なる「所持」に相当するエンテレケイアのほうが、その現実的な「行使」に相当するエンテレケイアよりも先なのだという。この前後関係は、背理法によって証明される。もし後者、つまり知識なら知識の「行使」に相当するエンテレケイアのほうが基本的だと仮定すると、睡眠中の人は皆死人だという不条理な帰結を導き出せるのである。すると「第一次の」とは、他方よりも尊くて優先すべきという意味ではなく、「原初的な」・「基本的な」・「駆け出しの」という意味だろう。

しかし、このように行使に先立つ所持という類比で説明された「第一次のエンテレケイア」なるものには、むしろ「デュナミス」ないし可能態の概念を思わせる性格がありはしないか。にもかかわらずアリストテレスにとっては、「エンテレケイア」の概念を二分してでも、生命ある自然的物体、すなわち生物一般は、質料(デュナミスの側面)と形相(エンテレケイアの側面)との合成でなくてはならなかった。単に自説の体系的整合性を崩したくなかっただけ、という意地の悪い読み方もできるのかもしれないが、ここではもう少しまっとうな理由を考えてもよいのではないか。
アリストテレスが提示した枠組の中で「生命」について考えようとするとエンテレケイアがエネルゲイア化する、あるいはエンテレケイアがエネルゲイアにいわば歩み寄ることになるというのが前回(アリストテレス『魂について』)の結論だったが、これを敷衍してみよう。すると、こと生命に関しては、デュナミスの直後に間断なくエンテレケイアが続く、とも考えうるのではないか。すでにエンテレケイアがエネルゲイア化している以上、デュナミス(可能態)から「エネルゲイア(現実態)を経て」エンテレケイア(完全現実態)に至る、という過程についても、中間の段階を省略することによる圧縮が許される、ということだ。
ゆえに、たとえうわべは睡眠中のように不活発であっても、生物はただ生物であるというだけで皆、欠けるところのない完全現実態(エンテレケイア)にある。いかに小さな生き物も、いかに短い生涯も例外ではない。我々人間と比べればやっとデュナミスから抜け出したばかりに見え、大してエネルゲイアを感じさせない「生命に与る自然的物体」、例えば細菌や昆虫も、すでにデュナミスから抜け出している以上はエンテレケイアに、ほとんどデュナミスと境を接するような第一次のエンテレケイア、最も基本的なエンテレケイアに等しく関与している(そこから第二次のエンテレケイア、本格的な完成にどの程度進めるかはまだ分からない)…何とも基本的な、貧相なまでに基本的な「エンテレケイア」もあったものだ。
この貧相ぶりはもとより何か特定の生き物の体質等に由来するものではなく、だから例えば第一次のエンテレケイアが細菌と人間に共通だからといって、前者が後者の足を引っ張っている(完成度を薄めている)わけではない。むしろ「生命に与る自然的物体」を「生命に与る自然的(=形相)/物体(=質料)」と読み替える、『魂について』の叙述の様式そのものに由来するはずだ。だとすれば「デュナミスから抜け出したばかりの『生命に与る自然的物体』」という表現は、正確には問題含みだったかもしれない。なぜならばもし我々が「生物」というものを包括的に理解したければ、まさに生物として、すなわち「生命に与る自然的物体」として理解するほかないからである。質料抜きの形相を考えることも、形相抜きの質料を考えることも、事実上はほとんど無意味だ。前回すでに分かったように、「生きること」は即「生きていたこと」であるからして、それに先立つはずの「未だ生きていない状態」は生物論の領分には属さないのである。つまりこのかぎりで、魂なき身体とか、身体なき魂とかは、生物論の主題ではありえないのだ。
すでに引用した記述に続けて、アリストテレス自身が生物の器官を検討した結果これと同じ判断を下している。

そこで、魂のすべてにわたって何らかの共通する事柄を語らなければならないとすれば、それは「器官をそなえた自然的物体の、第一次のエンテレケイア」ということになるだろう。したがってまた、魂と身体とが一つであるかどうかを探究する必要もないのであって、それはちょうど、封蠟とそこに刻まれた印形とが一つであるかどうか、また一般的にそれぞれのものの素材とその素材がそれの素材であるところのものとが一つであるかどうかを探究する必要がないのと同様である。なぜなら、〈一〉と〈ある〉とはさまざまな仕方で語られるが、その中心的な意味は、エンテレケイアがそうであるということだからである。(注5)

このいっそう入念な定義を経て、『魂について』の叙述は、ゆえに魂とは斧にとっての「斧であること」そのもの(本質)に、あるいは眼にとっての視覚に相当する、という類比によってその形相としてのあり方を説明しようとしている。この際の眼目は、第一次のエンテレケイアという概念のいわば「デュナミス」的な性格の画定にほかならない。次の引用文によれば、魂という「第一次のエンテレケイア」の喪失は、生きることの可能性(デュナミス)そのものの根底的な喪失に直結するからである。

そこで、部分について成り立つことを、生きている身体の全体に当てはめて理解しなくてはならない。というのも、視覚という感覚の部分と眼という身体の部分との関係は、感覚全体と感覚する能力をそなえた―そのように特定されるかぎりでの―身体全部との関係に対して類比的だからである。ただし魂を失ってしまったものは、生きることへのデュナミスにあるもの[生きることが可能なもの]ではなく、むしろ魂をもっているものがそうなのである。また、種子や果実は、可能的にそのような物体なのである。(注6)

こうして、そもそも遡行することが無意味で無駄な局面であるにもかかわらず、質料と形相の対という遡行用の概念が与えられた結果、あらゆる種の生物がただ生きているだけで、つまりはそれ自身であるだけで、すでに何がしかの完成を成就していると主張する資格を得る。その程度に関してはおそらく、複数の種を比較したところで差はない(昆虫は人間と比べて半分の生命に、細菌は同じく四分の一の生命に与っている…などと考えるのは馬鹿げている)。魂があるものとしての生物の秩序の外には、せいぜい種子や果実があるだけで、これらを生物として劣等だとは呼べない。
第一次のエンテレケイアは、共通だから最小限なのではなく、最小限だから共通なのだ。「生命に与る・器官をそなえた自然的物体」、すなわち生物が存在するという端的な事実が、それ以前の諸段階、すなわち身体なき魂あるいは魂なき身体という仮定から、生物学者が真剣な考慮を払うに値するだけの現実性を即座に排除する。この意味でそれは最初から絶対的な完成であり、比類のない奇蹟である。アリストテレスの霊魂論が設けた二種類のエンテレケイアの区別は、生命というものの手の付けようのない単純さを、まさしく還元不可能な眩さの中で肯定するのに役立つ。生物が存在するや否や、そこには行使なきエンテレケイアが成り立っており、すでに無条件の完成があるのだ。

こうして、一方では切断作用や見る活動がエンテレケイアであるのと対応する意味において、覚醒していることもまたエンテレケイアであるが、他方では視覚能力や道具の能力がそうであるのと対応した意味において、魂はエンテレケイアなのである。これに対して、身体はデュナミスにあるものである。しかしながら、瞳と視覚能力とで眼が成立するように、先の場合でも、魂と身体とで生物が成立するのである。(注7)



リルケは『ドゥイノの悲歌』の「第九の悲歌」で、「なぜに人間の生を負いつづけねばならないのか」と問うて「この地上に存在するということはたいしたことであるからだ」と自ら答え、「それゆえわれわれはひたむきにこの存在を成就しようとする」と歌った(注8)。
こんな詩句のことも念頭に置きつつ、引き続き『魂について』におけるエンテレケイアとエネルゲイアの関係を素人なりに考えていきたい。


(1)アリストテレス『魂について』(中畑正志訳、京都大学学術出版会、2001年)60頁。なおこの翻訳では、「デュナミス」、「エネルゲイア」、「エンテレケイア」の訳語は、順に「可能態」、「現実活動態」、「現実態」なのであるが、引用に際して改めさせていただいた。
(2)同書60-61頁。
(3)同書61-62頁。
(4)同書62頁。
(5)同書62-63頁。
(6)同書64頁。
(7)同上。
(8)リルケ『ドゥイノの悲歌』(手塚富雄訳、岩波文庫、2010年改版第1刷)69-70頁。
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category: アリストテレス

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アリストテレス『魂について』 

突然ですがアリストテレスの霊魂論におけるエネルゲイアとエンテレケイアについて、無知をかえりみず思いつきで連載をしてみます。
うまくいけば、たぶん虚構について考える上で何らかの手がかりになるはず。

哲学の世界には、かのアリストテレスが愛用したことで名高い「デュナミス」と「エネルゲイア」との概念的区別というものがある。デュナミスは「可能態」、エネルゲイアは「現実態」と訳されることがある。さらにこの両者に加えて「エンテレケイア」なる概念もあり、こちらは「完全現実態」などと訳される。
碩学今道友信の説明を拝借すると、まず前二者に関してはこうある。

アリストテレスは、前にも度々述べたごとく、生物学特に動物学の領域において広く研究を重ねた学者である。ところで、動物とは生の動態を抜いて考えることのできない存在者である。それゆえ、動物学で鍛えた彼の眼力には、物の動的な見方、ダイナミックな把握がある。従って、アリストテレスは、事物一般に対して、その誕生や成長や衰退や死滅、要するに生成消滅の変化という動的な状態を見落とすことがない。赤子は子供となり、そこで赤子のときに潜在的に持っていた言語能力や歩行能力がその可能的な状態から現実化されてくる。そのような子供が成人となり、そこで子供のときに潜在的に持っていた生殖能力や思索能力が、その可能的な状態から現実化されてくる。このようなことを考えてみると、宇宙はさまざまの変化に満ちているが、その変化は、いずれも変化する可能性のないものから現在の姿に変化しているのではなく、変化する可能性(dynamis)のあるものが現在の姿に現実(energeia)化しているのであると見なければならない。それゆえに、アリストテレスは、個体の状況につき、デュナミス(力すなわち可能態)からエネルゲイア(働きすなわち現実態)へという動的な図式を考えたのである。(注1)

アリストテレス自身は、デュナミスに関しては木材の中に神像が、線全体の中にその半分の長さの線があると言われ、また研究の能力がある者は現に研究活動中でなくても学者と呼ばれるような事例を挙げており、対してエネルゲイアに関しては、この場合だと像そのもの、半分の長さの線そのもの、現に研究活動中の学者等を例に挙げている。デュナミスとの対比におけるエネルゲイアは現在進行形と現在完了形とを同時に含む。
しかしエンテレケイアは、もはやデュナミスのように未発達でもなければ、エネルゲイアのように道半ばでもない、究極的な完成に達した状態を指すらしい。

尚、アリストテレスは、完全な現実態としてエンテレケイア(entelecheia)という概念を構成した。それはギリシア語で“テロス(telos)において(en)ある(echein)”ことであり、テロスとは目的ないし終局であるから、エンテレケイアとは完全な目的論的終局に到達している状態ということである。これは、動物に即して言うならば、子供を生む能力、すなわち雌雄それぞれの仕方で生殖の能力が備わった段階を成長の一応の完結とみなし、その個体の生物としての成長目的を達した状態と考えている。そして、これに類比的に生物現象以外にも、生成の完結、生成の頂点をエンテレケイアという言葉で表わしている。前に述べた現実態、可能態の対立が、類比的、便宜的、相対的であるのに対して、エンテレケイア(完全現実態、円現)はいわば絶対的であって、そこからはそれ以上の展開があり得ないようなそういう状態のことである。(注2)

ということで、一見すると三つの概念はごく整然と区別されており、何も問題はないかのように思える。
だが実は、必ずしもそうではないらしいのだ。デュナミスについてはさておくとして、エネルゲイアとエンテレケイアを、アリストテレス自身がまるで同一視しているかのような記述が散見されるからである。例えば「エンテレケイア」という語そのものこそ出てこないが、『形而上学』第9巻第6章には、こんな文章がある。

諸々の行為のうち、限りのある行為は、(1)いずれの一つも目的〔終り〕そのものではなくて、すべてその目的に関するものである、たとえば、痩身にすることの目的は痩身である、しかるに、(2)痩せる身体部分そのものは、痩身にする過程においてあるかぎり、運動のうちにあって、この運動の目的を含んではいない、それゆえに、(3)痩身にすることは行為ではない、あるいはすくなくも完全な(テレイア)行為ではない(なぜなら、それは終り(テロス)ではないから);ところが、行為〔すくなくも完全な行為〕は、それ自らのうちにその終り〔目的〕を含んでいるところの運動である。

では、完全な行為、つまり「テロス(目的・終り)」をそれ自身の内に含む行為とは、具体的にはいったいいかなるものか。

たとえば、ひとは、ものを見ているときに同時にまた見ておったのであり、思慮しているときに同時に思慮しておったのであり、思惟しているときに同時に思惟していたのである。これに反して、なにかを学習しているときにはいまだそれを学習し終ってはおらず、健康にされつつあるときには健康にされ終ってはいない。よく生きているときに、かれは同時にまたよく生きていたのであり、幸福に暮らしているときに、かれは同時にまた幸福に暮らしていたのである。そうでないなら、この生きる過程は、痩身への過程と同様に、いつかすでに終止していたはずである。だが、実際にはそうではなくて、かれは生きておりまた生きておった。そこで、これらの過程のうち、一方は運動と言われ、他方は現実態と言わるべきである。(注3)

つまり、「テロス(目的・終り)」をそれ自身の内に含み、それゆえに完全な行為とは、「見る(見ていた)こと」、「思慮する(思慮していた)こと」、「思惟する(思惟していた)こと」、さらには「よく生きる(よく生きていた)こと」、「幸福に暮らす(幸福に暮らしていた)こと」等であり、これらが「エネルゲイア(現実態)」として、「運動(kinesis)」つまり健康になることや学習することや痩せることに対立するのである。
ここで気になるのは列挙の順番だ。仮にいましがた整理したとおりの順番で五つの「エネルゲイア」と三つの「運動」が列挙されていれば、叙述はずいぶんすっきりしたものになっていたはずである。にもかかわらず実際には、三つの「エネルゲイア(現実態)」、つまり「見る(見ていた)こと」、「思慮する(思慮していた)こと」、「思惟する(思惟していた)こと」の列挙の後、「これに反して」という表現とともに対照的な「運動」の具体例が二つ(「健康になること」と「学習すること」)割り込んできてから、改めて「よく生きる(よく生きていた)こと」、「幸福に暮らす(幸福に暮らしていた)こと」が「エネルゲイア(現実態)」の例として続き、かつ「痩せること」という「運動」との対比を形作るのである。
このような順番になっていることには、何か理由があるのだろうか。ひょっとすると何の意味もないのかもしれない。それにそもそも、現在あるようなアリストテレス著作集は後世の編纂者の尽力で成立したものである。それでもあえて、著者の意図が何がしかこの順番に反映していると考えるとすればどうなるか。思うにここには、エネルゲイアを運動との対比で定義していく中で、ことさら「よく生きる(よく生きていた)こと」と「幸福に暮らす(幸福に暮らしていた)こと」を強調するという狙いがあるのではないか。
事実、引用文の末尾の「一方は運動と言われ、他方は現実態と言わるべきである」の後には、「けだし、およそ運動は未完了形(アテレース)である」という断定とともに、歩行や建築、生成や動きなどさらなる事例が続き、結局、「見る(見ていた)こと」や「思惟する(思惟していた)こと」のように、現在進行形と現在完了形とを同時的に含むのがエネルゲイアで、そうでないのが運動だ、という区別の確認をもってこの章は終わるのである。叙述の一番肝心な部分は、先の引用文の末尾までで尽きている、という印象だ。

ところで、以上のように考えられた場合のエネルゲイアは、ほとんどエンテレケイアと異ならないのではないか。というのも、すでに今道さんによる説明にもあったように「エンテレケイア」の語源は「テロス(目的)においてあること」であり、かつさきほど引用した文章の中でアリストテレスは、「運動」と比べたときの「エネルゲイア」の特長として、まさしく「それ自らのうちにそのテロス(目的・終り)を含んでいる」ことを考えているからだ。
もちろん、両者の意味内容が初めから同じであるわけはなく、例えばやはり『形而上学』によれば「現実態(エネルゲイア)という語も、働き(エルゴン)という語から派生し、完全現実態(エンテレケイア)を目指しているのである」(注4)ということだが、しかしすでにこの説明からも明らかなように、エンテレケイアはエネルゲイアの果てに待ちかまえる境地なのである。してみれば両者が一致するような状況を考えることに何ら無理はない。この点につき、『形而上学』の翻訳者である出隆は次のような説明を訳注で与えている。

「完全現実態」または「完現態」と訳されるアリストテレスの用語‘entelecheia’は、語源的には、‘telos’(終り・目的)、‘en telei echein’(目的においてある)、‘enteles’(完了・完成・完全)などと関連した意味をもつものとみられ、これに対して、「現実活動」「現実性」または「現実態」と訳される‘energeia’は、‘energein’(活動する)、‘ergein’(働く)、‘ergon’(働き)などと関連した意味の語とみられる。このかぎりでは、前者「エンテレケイア」が、或る転化過程の完了した状態、その転化の終り(テロス)に達してその目的を完成している状態を表わすのに対し、後者「エネルゲイア」は、より多くその転化の過程、転化する現実の働き、現実活動の側を表わすものと言えよう(そしてこの意味で用いられている場合には「現実活動」という訳語がふさわしい)。しかし、実際には、多くの場合、エネルゲイアはエンテレケイアと同義的に用いられ、また逆にエンテレケイアもエネルゲイアと同義的に用いられている。けだし、「働き」という日本語でも(またドイツ語のWirkung, Wirklichkeitでも)そうであるように、その活動過程の側と活動結果の側とは、実際にはそう簡単に区別されないからでもあろう。(注5)

非常にもっともな指摘である。ただし出さんは続けて、「その現実の活動が常に同時にその完成態であり、その動詞の現在形(現在進行形)が現在完了形でもあるような活動」、すなわち「活動それ自らがその終り・目的でもあるような活動(活動というよりもむしろ全くの静止)―を優位に置くアリストテレスの立場」がこの傾向をいっそう助長したという旨のことを述べ、さらに別の訳注でもこのような、学問的研究を典型とする自己完結的・自己充足的な活動に関して、「もはや活動とも行為(実践)とも呼びえない全く非現実的・非実践的な静止ではないか」という疑問を突きつけている(注6)。書き手の政治的な信念が露骨すぎるかもしれないが、これはこれで一種の卓見であろう。

しかし、さきほどの『形而上学』第9巻第6章からの引用文は、「よく生きる(よく生きていた)こと」と「幸福に暮らす(幸福に暮らしていた)こと」とを、何やら妙な位置に並べて特別扱いしていた。ここを読むかぎりではどうも、単なる実践嫌いの貴族趣味とは別の原理が働いた結果として、アリストテレスにとってこの両者が特権的な「エネルゲイア」の事例たりえているのではないか、とも思えてくるのである。
私の疑問は、同じく「エネルゲイア」と「エンテレケイア」とが一致するといっても、そのあり方が一様とは限らないのではあるまいか、というものだ。つまり「見る(見ていた)こと」、「思慮する(思慮していた)こと」、「思惟する(思惟していた)こと」であれば、いずれもいわば理論的・学究的な活動の一種と呼べそうだから、出さんが批判したような意味で「エネルゲイア」が「エンテレケイア」の色に染まるというか、両者が重なることは納得がゆく。しかし、「よく生きる(よく生きていた)こと」や「幸福に暮らす(幸福に暮らしていた)こと」の場合でも、事情は変わらないのか。この種の「活動」をも実践的でなく理論的と呼ぶことは妥当でなさそうだし、「そうでないなら、この生きる過程は、痩身への過程と同様に、いつかすでに終止していたはずである。だが、実際にはそうではなくて、かれは生きておりまた生きておった」という注意書きも気になる。
というのもこの注意書きに至ってとうとう、「よく」とか「幸福に」とかの限定的な副詞すらも脱落して、ただ「生きること」が、それ自身の内に「目的・終り」を含んでいるからこそ、いかなる外的な目的をも達成することがなく、いかなる外的な終点にも到達することのない、そのかぎりで無制限な(制約を受けぬ)過程として切り出されてくるからだ。自己充足性・自己完結性という点では同じでも、このようにいかなる外的な目的をも達成せず、いかなる外的な終点にも到達しないという観点から把握された場合の「エネルゲイア」(エンテレケイアを兼ねるものとしてのエネルゲイア)は学問的研究の豊かさとはおよそ無縁で、むしろそれとは正反対の極限的な貧しさを感じさせる。あるいは、これ以上もはや何ものにも還元できない、単純にして精悍な生命そのものの輝きを。
してみれば「エネルゲイア」と「エンテレケイア」との一致には少なくとも二通りあって、「よく生きる(よく生きていた)こと」や「幸福に暮らす(幸福に暮らしていた)こと」という事例では、むしろ「エンテレケイア」のほうが「エネルゲイア」化しているのではあるまいか。元来は究極的な、完全なる現実態であるはずの前者が、元来は道中にすぎぬはずの後者に自らの特性を授け、こうしてどんなに短い生涯にも、その中のどんなに短い瞬間にも、成就という性格を不断に与えるのである。
ここには「生命」というものの不思議さが潜んでいるように感じられてならない。きっと、良くも悪くも骨の髄まで学究肌だったアリストテレスの基本的な姿勢は、出さんの批判するとおり高踏的な貴族趣味だったのだろう(専門家の意見は聞くものだ)。ゆえに現在完了形を兼ねる現在進行形としてのエネルゲイアの典型は、学問的研究でなくてはならなかったのだろう。だがそれにしても、『形而上学』のこのくだりでは、そのような基本的な姿勢から紡ぎ出されてくる文の運びの中に、生命それ自体の本質に根ざす別種の事情、「生きること」が即「生きていたこと」でもあるという事情が入り混じることでそこはかとない乱調(列挙の奇妙な順番)を招いているように思えるのだ。

少し長くなったようだから今回はここまでにしたい。
以上を前提に、次回は『魂について』の本文の検討に入る予定であります。


(1)今道友信『アリストテレス』(講談社学術文庫、2004年)130-131頁。
(2)同書132-133頁。
(3)アリストテレス『形而上学(下)』(出隆訳、岩波文庫、2004年第41刷)34頁。
(4)同書42頁。
(5)同書251頁。
(6)同書257頁。

category: アリストテレス

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鬼頭莫宏サイン会(2012年1月22日) 

漫画家・鬼頭莫宏さんのサイン会が、横浜市内の某T書房にて午後1時より粛々と行われた。
同書房で去る1月6日刊行の『なにかもちがってますか』第2巻か『のりりん』第4巻(ともに講談社)いずれかを購入した人に、先着100名限定で整理券が配られていた。
今日はその当日ということで、ちょうど50番の私も出かけたのだった。

50番までの人は午後1時から2時の間、と来場時間の枠が決まっていたので、12時50分頃に到着。
あとは整理券の番号順に行列を作って、購入したどちらかの単行本の表紙裏に順次サインをいただく、という段取だ。
ちなみに男女比は、もっと女性が多いかと思ったが八割方男性だった気がする。

サインそのものに先立ち特典として、原画…と断定してよいものか、ともかくボツ原稿やラフスケッチなどの絵を一人一枚もらえる(数冊のアルバムにまとめてあって、割とゆっくり選べた。もっとも順番が後になるにしたがって、当然ながら枚数自体が減ってゆくのだが)。それに、『ぼくらの』などのグッズ類も一人一点もらえる。
私は、『なるたる』の佐倉明がきわどいバニーガールの恰好をした年賀状用イラスト(なんと年賀状本体付き)と、あと『ぼくらの』の全員集合!みたいなテレフォンカードサイズのイラストがあったのでそれを頂戴した。

サインは『のりりん』第4巻のほうに、為書き(「…さんへ」)とともに入れてもらった。どちらの単行本も購入していたのだが、『なにかもちがってますか』のカヴァーには槌のような凸形の「窓」がくりぬいてある。だから、何かに引っかかって破けたりしないか心配なのだ。
草色のインクのマーカーで、「きとうもひろ」の六文字が飾り文字風に踊るサインをいただく。
「と」「う」「も」の三文字が変な生き物のような丸っこい形になっているのが面白い。「ろ」の尻尾が長く伸びて、上に「2012.1.22」という年月日を載せている。

書いてもらっている間、ちょっとだけ会話もできた。
(私)「こういうときの筆記用具って、何かこだわりを持っていらっしゃるんですか?」
(鬼)「いや、特に。でも、にじむといけないので、すぐ乾く水性ペンを使ってます。まあ、こういう紙だとあまり関係ないけど…(私の手元のイラストを見て)いいの選びましたね…(サイン中)」
(私)「年賀状本体も付いてますからね…(サイン終了)ありがとうございました。子育ても頑張ってください」
(鬼)「ありがとうございます」
記録するほどの会話かよ、と言われそうだが、こっちは本当に緊張してました(だから不正確な記憶かもしれない)。

愛読者でないとこの種の催しに足を運ばないのは当然かもしれないが、頼んだキャラクターを一緒に描いてくれるサーヴィスがあって、皆余計に嬉々としていた観がある。こちらは黒インクの極細ペンで、写実的ではなく可愛らしい絵柄。私の前の前の人は「豚食い」、前の人は「白ヴァンデ」だった。鬼頭さんも希望を聞くたびに「どんな顔だったかなー?似てなかったら兄弟だと思ってください」、「ああ、ラフスケッチのこいつね。『こいつ』なんて言っちゃまずいか」とお茶目なことを口走っていた。私は古賀のり夫を所望したが、ざっと五人目くらいだそうで(編集者なのか、隣に立っていた方の発言)手慣れたもの。(その割にピアスを描いてないのはどういうことですか先生!)
自転車も脇に鎮座していて、「40くらいだよ(40万円)」とのことだった。こともなげだったが、十分高価だと思うのですよ(『のりりん』で輪ちゃんが乗ってるのと同じ型だそう)。
第一群の最後の一人なので、私が終わったときは午後2時を20分ほど過ぎていたのではないか。

とまあ、家宝ができて実に貴重な体験だった。
しかしこのブログは一応備忘録的な本の批評という建前なわけで、こんな個人的な日記に使ってよいのだろうか。
ブログの用途としては一般的かもしれないが、余人はともかく私の日常生活なんてどう考えてもつねに公表する値打ちはない。今後の運営方針にも関わる問題だ。また、環境が整っていないから仕方ないのだが、これだけ書いておいて写真を掲載できないのも不親切ではないか。
今回はあくまでも、自慢したい気持ちを抑えきれなかったがゆえの突発的な例外ということにしておきたい。そしてもし不満を覚えた閲覧者様がいらっしゃったら、どうか勘弁していただきたい。

鬼頭先生、お疲れ様でした。これからも素敵な作品を描き続けてください。


category: 鬼頭莫宏

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日日日『ビスケット・フランケンシュタイン』 

日日日(あきら)は現代のスピノザである。

もちろん、17世紀のオランダの哲学者であるスピノザ(Benedictus de Spinoza, 1632-1677)と、21世紀の日本の小説家である日日日との間には、地理的・時間的・言語的に大きな隔たりがある。にもかかわらず、例えば前回の記事(日日日『のばらセックス』8)でも言及した、自己満足としての愛という概念などは、スピノザの主著である『エチカ(倫理学)』〔Ethica〕(1677年)の第五部定理36(注1)と響きあうものであろう。
あるいは、このように相互理解というものの根本的な無効性を重々承知しながらも、「人間にとっては人間ほど有益なものはない」(注2)ことを片時も疑おうとはしない、溌剌たる信念が二人に共通していると考えてみるのもよいかもしれない。
だが、今回は『ビスケット・フランケンシュタイン』を取り上げよう。

ジル・ドゥルーズが的確に要約しているように、スピノザによれば「意識」とは「観念の観念」である。
ドゥルーズがこの定義において注目するのは、「反照」、「派生」、「相関」という三点である(注3)。第一に、意識とは観念の物理的な特質、精神内での観念の反照にすぎない。第二に派生とは、意識は観念に比べて二次的であり、出発点である観念以上の価値があるわけではないという意味だ。そして第三の相関とは、意識と観念との関係が、観念と対象との関係に等しいということを指す(これは意識が与する思惟の極と、対象が与する存在の極との対等性に通じる)。
しかるにスピノザによれば、「人間精神を構成する観念の対象は身体である」(『エチカ』第二部定理13)(注4)のみならず、「精神は身体の変状〔刺激状態〕の観念を知覚する限りにおいてのみ自己自身を認識する」(『エチカ』第二部定理23)(注5)。
このような考え方からドゥルーズが引き出してくるのは意識の評価の切り下げ、ないし相対化という事態である。というのも素のままの意識は無力で、到底物事の真の原因も、自身の本性も理解するだけの能力がないからだ。
我々の意識は、ある物体が我々の身体に及ぼした結果を、その物体の目的だったのだと思い込む。同様にその結果の観念をも、我々の目的だったのだと思い込んでしまい、こうして意識は己を身体の主人であると信じるようになる。そしてこれだけでは納得のゆく説明が無理な場合は、やはり目的因や自由裁量を具え、人間に裁きを下す神の姿を思い描くに至る。
この三者、すなわち「目的因の錯覚」と「自由裁量の錯覚」と「神学的錯覚」は、単に人間の意識が何かの間違いでたまたま抱くこともある錯覚ではなく、そもそも意識が成り立つための土台である。「意識は、文字どおり目を見開いたまま見ている夢にすぎない」(注6)。
したがってスピノザ的な倫理は、目的や自由裁量や、キリスト教的な人格を具えた超越神などの概念に訴えることなく、あくまでも「おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める」(『エチカ』第三部定理6)(注7)という赤裸々な事実から出発して、心身両面にまたがるこの自己保存の努力、すなわち「衝動」(注8)こそが通常目的という名で呼ばれるものの正体にほかならぬことを証明しなくてはならない。少し長くなるが『エチカ』第四部の序言から引用しよう。

ところで目的原因と呼ばれている原因は、人間の衝動が何らかの物の原理ないし第一原因と見られる限りにおいて人間の衝動そのものにほかならない。例えば「居住する」ということがこれこれの家屋の目的原因であったと我々が言うなら、たしかにそれは、人間が屋内居住の快適さを表象した結果、家屋を建築しようとする衝動を有した、という意味にほかならない。ゆえにここに目的原因として見られている「居住する」ということはこの特定の衝動にほかならないのであり、そしてこの衝動は実際に起生原因なのである。この原因が同時にまた第一原因と見られるのは、人間というものが一般に自己の衝動の原因を知らないからである。すなわち、すでにしばしば述べたように、人間は自己の行為および衝動を意識しているが、自分をある物に衝動を感ずるように決定する諸原因は知らないからである。(注9)

こうしてスピノザによれば、「徳」とは何らかの外的な規範に自己を合わせようとする修身ではなく、逆に「人間が自己の本性の法則のみによって理解されるようなあることをなす能力を有する限りにおいて、人間の本質ないし本性そのもの」(『エチカ』第四部定義8)(注10)でなくてはならず、ゆえに「徳の基礎は自己固有の有を維持しようとする努力そのものであり、また幸福は人間が自己の有を維持しうることに存する」(『エチカ』第四部定理18備考)(注11)。そこで彼の倫理学において非常に尊ばれるのは「各人が単に理性の指図に従って」発揮する二通りの精神の強さであり、その内実は「自己の有を維持しようと努める欲望」と「他の人間を援助しかつこれと交わりを結ぼうと努める欲望」、すなわち「勇気」と「寛仁」である(『エチカ』第三部定理59備考、第五部定理41証明)(注12)。人間が人間とともにただ生きる、という考えうるかぎり最も単純で基礎的な、ほとんど生物学的な局面の水準から倫理が構想されていることは明白だ。

さて、日日日の『ビスケット・フランケンシュタイン』(学習研究社、メガミ文庫、2009年)である。
この小説における意識談義は、当初は「人間同士の間で発生する感情も、相互通行なのか疑わしくなります」といった独我論的な調子を持っている。この場合、不可解なのはあくまでも他人の心だ。「他人に感情があるかどうかを、確かめる術はありませんからね。他人の痛みや思考を、ほんとうに実感できることはない。すべては想像であり、高度に発達した人工知能は人間と見分けがつきません」(注13)。もちろん、これはこれで深刻な悩みに違いない。
だが、奇病で亡くなった少女たちの、人体とは似て非なる奇怪な物質に変わった患部を継ぎ接ぎにしてできた主人公格の怪物「ビスケ」が抱くこの問いは、終盤に至ってはっきりと向きを変え、今度は彼女自身に打ち掛かってくる。「おまえが意識だと、自我だと思っているそれは、プログラムだ!!」と(注14)…製作者である花水日景(はなみ・ひかげ)は、遺体の寄せ集めにすぎなかったはずのビスケに、あたかも生身の人間に対するがごとく日々語りかけ、「おまえが生きていたらな」と呼びかけた。その繰り返しがたまたま実を結んで、彼女はとうとう「自我」らしきものを持つに至ったというわけである。たしかに意図的な計画ではなく偶然の産物である点は忘れてはならないが、それにしても「この自我は、機能を残していた脳に、反復と経験、日景の言葉の蓄積によって発生した『意識に見えるもの』―きわめて生物的な、けれど人工知能に過ぎない」(注15)。
どうせビスケは不老不死の怪物なんだから、我々人間には関係ないと早合点してはいけない。なぜならばこの罵倒は、「人間と関わりすぎて、人間じみてしまった」(注16)彼女の明かすある「目的」を聞いて驚愕し、狼狽する同族の口から発せられているからである。となれば「人間の思考も感情も、所詮はよくできたプログラムだ」(注17)という認識まではあと一歩だろう。これは、我々の「意識」を身体的刺激の観念に帰着せしめることで、その地位の大幅な相対化を進めるスピノザの姿勢にそっくりではないか。
ところでビスケの「目的」とは一体何か。それは、遺伝子の暴走のせいで滅亡寸前にある人類の存在を何とかして次代に継続させようとする試みである。急激な進化の負荷に耐え切れず、病んで死に絶えようとしている人間たちを、死体の患部を食すことで遺伝情報として体内に取り込み、保存し、いずれは同族との生殖によって復活させることである(その数は結末の時点で五千人程度とあまり多くはないし、生まれてくる子供が「人間」と呼べるかも怪しいが)。
このことは、一方では自己保存の衝動に立脚して「目的」概念の内実を組み替えようとしつつ、他方では「勇気」と「寛仁」という二通りの精神の強さの重要性を強調する『エチカ』の、いわば生物学的な傾向と相性が良いばかりか、さらにその結論とも重なる。というのもスピノザは、「絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体」(『エチカ』第一部定義6)(注18)を「神」と呼び、このように定義された以上およそキリスト教的な人格神とは異なる、ほとんど「自然」そのものと同義の神の中に人間を一部分として服属せしめながら(『エチカ』第四部定理4)(注19)、「人間精神は身体とともに完全には破壊されえずに、その中の永遠なるあるものが残存する」(『エチカ』第五部定理23)ことを力説するからである(この「あるもの」とは人間身体の本質を表現する観念のことであり、したがってスピノザ的な不死性は決して身体をなおざりにしているわけではない。それどころか「身体の本質を永遠の相のもとに含む限りにおいて」のみ我々の精神は永遠でありうる)(注20)。「集合体」であり「生まれついての群体」であるビスケが超個人的な「遺伝子の意識」を代表して、「わたくしはね、人間が好き。けれど、人間が絶対とは思わない」(注21)という台詞を、それまでは彼女を解剖する側だった話者をも捕食する寸前に口にしていることは、それゆえ実にスピノザ的な成り行きなのだ。

以上がいわば核である。残るは、この小説の各章をスピノザ的に考えることができるか検討することだ。
主観的な性別と生物学的な性別との不一致に悩んだあげく、病に侵された脳で忘却してしまった殺人の罪を自分の命で贖うはめになった古月蝶(ふるつき・あげは)、「細胞が理解しているはず」(注22)の母の死を頭では受け容れることができないまま新鮮な肉体を求めて凶行を重ねる小宮山楽園(こみやま・えでん)、電脳ネットワークの中で仮想世界に浸り続ける人生を選びながら停電に見舞われてあえなく植物状態に陥った南雷多(みなみ・らいた)…こう列挙してみると明らかに、「candy : 初恋あげは蝶」「pudding : ひとごろしはママの味」「chocolate : 泥雪姫」の各章を、身体からの精神の乖離がもたらす悲劇、として総括できそうだ(ただし南の末路は「biscuit-D」と題された幕間風の、だが実は三つの章の枠組に相当し、巻頭以来の現在時制に属する章に入ってから判明するので、「chocolate : 泥雪姫」だけからはわからない)。
さて既述のとおり、スピノザにとっては、「人間精神を構成する観念の対象は身体である」(『エチカ』第二部定理13)。ゆえに「ある身体が同時に多くの働きをなし・あるいは多くの働きを受けることに対して他の身体よりもより有能であるに従って、その精神もまた多くのものを同時に知覚することに対して他の精神よりそれだけ有能である。またある身体の活動がその身体のみに依存することがより多く・他の物体に共同して働いてもらうことがより少ないのに従って、その精神もまた判然たる認識に対してそれだけ有能である」(『エチカ』第二部定理13備考)(注23)。すなわち『エチカ』の体系の中では、精神と身体は決して分離されてあることを許されず、一方の強さはそのまま他方の強さに、同じく一方の弱さはそのまま他方の弱さに直結しているのだ。これは「心身並行論」と呼ばれる説で、当時他にも心身相関の発想を唱える者が多くいたことと無関係ではなかろう。とはいえドゥルーズが注目するように、他の哲学者の場合と違って、スピノザの並行論では精神と身体との等価性がきわめて顕著であり、前者が後者に対して優越性を主張することができない(注24)。
ゆえに我々はおそらく、『ビスケット・フランケンシュタイン』を、この並行論の背理法による証明として、すなわち「何らかの形で心身並行論が成り立たない状況では、いかなる問題が我々に生じるのか」を教える虚構作品として読むことができるのではないか。三つの章はそれぞれこの教えを表現しており、ただしそこには三者三様の違いがある。もともと身体から遊離気味だった精神が誘発する、自他の身体への暴力が精神をも破滅に追い込むか(古月蝶)、他者の身体を我流の理屈に従わせようとするばかりで、一向に身体の教えに耳を傾ける気のない精神がついに挫折を強いられるか(小宮山楽園)、断固たる決意で身体から離脱したつもりの精神が、それでもしがらみを断ち切れない身体の側から手ひどいしっぺ返しを食らうか(南雷多)、という違いが。
それぞれの章でビスケが一体何を願い、何に怒り、何に悩んでいるのかを詳しく検討するのは、長引きそうなので省く。とはいえいずれの場合でも、患部を食べることでその奇怪な特性を自家薬籠中のものにできるばかりか、相手の記憶や知識や人格を瞬時に理解することもできる、という彼女の能力(正確にはむしろ、「性質」だろう)が小説の構成上不可欠の要素となっていることは事実だ。ところで『エチカ』第四部定理18備考には、「すべての人間の精神と身体が一緒になってあたかも一精神一身体を構成し、すべての人間がともどもにできるだけ自己の有の維持に努め、すべての人間がともどもにすべての人間に共通な利益を求めること」という空想が出てくる(注25)。夢のような絵空事かもしれない。けれどもビスケは、一つ一つの細胞に宿る大勢の人々の経験を存分に活用しつつ、ときには取り込んだ患者の症状を再現することで自由自在に我が身を変形させて戦いながら、ひたすら例の目的のために生き続けようとする―「保存と増殖こそが、遺伝子の宿命」(注26)である以上、十数人の少女の継ぎ接ぎ細工として生まれた自分は誰よりもこの原理に忠実でなくてはならないと思い定めて。どこまでも真剣なその生き方を目の当たりにする読者にとって、スピノザの遠慮がちな「あたかも」は、必ずしも除去しえぬ制限ではない。
終章「dried fruit : あなたの化石を」には、ビスケを参考にさる外国で製造された、カンダタと名乗る生物兵器が登場する。さきほどビスケの「同族」と呼んだのがこいつだ。カンダタは精神と肉体の分離という原理に則っている。筋骨隆々たるのっぺらぼうの巨人を、ひ弱そうな頭脳役の男の子が音波を飛ばして思い通りに操るのである。心身並行論への挑戦以外の何ものでもない。しかし、生まれて初めて同族の異性に巡り合えたのをこれ幸いとばかり、死闘の末に奇策を用いてカンダタの邪魔な「肉体」を追い払ったビスケは嫌がる彼を首尾よく強姦し、「かくしてビスケと、遺伝子の目的は果たされた」(注27)…。この結末はひとまず、「身体が何をなしうるかまた身体の本性の単なる考察だけから何が導き出されうるかを全然知らない」(『エチカ』第三部定理2備考)(注28)ばかりに精神を偏重し、身体を侮る輩の軽率を戒める並行論者スピノザの勝利、ということにもなりそうだ。

だが、一つ指摘しておきたい相違点がある。この小説の、終幕の光景についてだ。

人類は滅ぶだろう。
だが、この温もりを忘れない。
その遺伝子を、受け継いでいく。
あぁ生きていて良かったと、継ぎ接ぎの少女は微笑んだ。(注29)

以前の記事(日日日『のばらセックス』6)で私は、『のばらセックス』の終わりのほうで、女性たちが「ただ生きていられる」状況をおちば様が自分の意志で創設する、ということに注目した。これは虚構世界の登場人物らしい強い使命感と、虚構内の登場人物にとっての贅沢である「ただ生きている」という境地とを両立させる手法の、興味深い実例と思えたからである。いましがた引用した『ビスケット・フランケンシュタイン』の終幕の光景もやはり、これと同じように読まなくてはなるまい。
「ただ生きている」、というより正確には遺伝情報というそれ以下の形で、最小限の実存を次代に受け継いでもらう人々の立場がすこぶる貧しく、慎ましいものであることは論を待たない。だが、そもそも人類とは別種の生き物であるのに、「地球の癌細胞」(注30)としか思えない人類の遺伝子を生き延びさせることだけに己の生涯を捧げたビスケの立場も、お人好しで、劣らず慎ましやかではないか(行為だけを見れば恐ろしく気宇壮大だが、誰に頼まれたわけでもなし、この野心が実現したところで彼女自身に何の報酬があるわけでもない)。それこそ人間離れした無私である。こんな「目的」を、「物語」を己に課すことが果たして本当に正しいのか、彼女自身いまいち確信が持てないほどだ(注31)。スピノザの神がいかなる受動性とも無縁なるがゆえに、いかなる喜びにも悲しみにも動かされず、したがって何者をも愛さず、何者をも憎まない(『エチカ』第五部定理17)(注32)のと比べれば、ずいぶん趣が違う。
思うにこれこそ、スピノザ哲学が日日日の小説の中で復活する際に受け容れなくてはならなかった秘密の条件である。「絶対に無限なる実有」だった神はビスケという一人の少女の慎ましやかな姿へと、変貌を遂げる必要があったのだ。自ら誰かを愛するために、悲しむために、孤独を感じて寂しがるために。


(1)スピノザ『エチカ(下)』(畠中尚志訳、岩波文庫、2005年第45刷)129-130頁。
(2)同書30頁(第四部定理18備考)。
(3)ジル・ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』(鈴木雅大訳、平凡社ライブラリー、2004年初版第2刷)85-86頁。
(4)スピノザ『エチカ(上)』(畠中尚志訳、岩波文庫、2005年第50刷)108頁。
(5)同書127頁。
(6)ジル・ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』(前掲書)38頁。
(7)スピノザ『エチカ(上)』(前掲書)177頁。
(8)同書179頁。
(9)スピノザ『エチカ(下)』(前掲書)9頁。
(10)同書13頁。
(11)同書29頁。
(12)スピノザ『エチカ(上)』(前掲書)234頁、『エチカ(下)』(前掲書)135頁。
(13)日日日『ビスケット・フランケンシュタイン』(学習研究社、メガミ文庫、2009年)186-187頁。
(14)同書246頁。
(15)同書247頁。
(16)同書238頁。
(17)同書247頁。もっとも83頁ではすでに、話者がビスケと言葉を交わしながらこんなことを考えている。「会話はコミュニケーション。言葉を発し、相手から反応が返ってくることで、『自分』は輪郭をつくられる。生きているという実感が与えられる。我思うゆえに我在り。けれど他者がいないと、それを証明してくれる外的理由が存在せず、自意識は不安をおぼえる。個人では、人間の自我は存在できない。自我はそもそも、他者との比較の中で形成されるものであり、個性なんていうものは、すべて他者との対比によって彫刻される錯覚である。/孤独に生まれた少女は、それを自覚しているのかもしれない」。
ちなみに「我思うゆえに我在り(Cogito, ergo sum)」という命題はもちろんデカルトに由来するものだが、スピノザはデカルト哲学の手引書の中でこの命題を、これ自体が学問の基礎なのだからいっそう基礎的な前提を必要とする三段論法であってはまずいという理由で、「我は思惟しつつ存在す(Ego sum cogitans)」と書き改めている。日日日とは方向が異なるものの、ここでもやはり「我思う」という意識の地位には制限が課せられるのだ。参照箇所は、『デカルトの哲学原理 附 形而上学的思想』(畠中尚志訳、岩波文庫、2004年第13刷)25-26頁である。
それにしても、「個性なんていうものは、すべて他者との対比によって彫刻される錯覚である」とまで断定しながら、なおも己が小説家であることを、虚無主義の対極に立って全身で肯定し続ける日日日の図太さは、何と力強く我々を鼓舞してくれることか。
(18)スピノザ『エチカ(上)』(前掲書)38頁。
(19)スピノザ『エチカ(下)』(前掲書)16-18頁。
(20)同書120頁。
(21)日日日『ビスケット・フランケンシュタイン』(前掲書)132、203-204頁。
(22)同書128頁。
(23)スピノザ『エチカ(上)』(前掲書)110頁。
(24)ジル・ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』(前掲書)135-136頁。
(25)スピノザ『エチカ(下)』(前掲書)30頁。
(26)日日日『ビスケット・フランケンシュタイン』(前掲書)236-237頁。
(27)同書250頁。
(28)スピノザ『エチカ(上)』(前掲書)172頁。
(29)日日日『ビスケット・フランケンシュタイン』(前掲書)253頁。
(30)同書201頁。
(31)同書207頁。以下の引用文において、ビスケの思考は殺人に対する拭いがたい嫌悪感を、自身の「目的」への懐疑を圧殺するために転用している。「それを、ビスケは実感する。遺伝子の罪悪感が、自分を生みだしたのだと、そんな物語を築きあげ、己の肝に据えている。何者にも望まれずに生まれたビスケには、『目的』が必要だった。知性を有しているなら誰しも、ただ生きることはできない。お金のため。種の保存のため。幸福のため。目的地がなければ、歩きつづけることはできない。/ビスケは、己にひとつの『目的』を、『物語』を課した。それを果たすことが、生きる活力となり、理由となった。その『目的』が正しいのか、自分の生きる意味は、ほんとうにあるのか、疑うとお終いだ。不安で死にそうになる。誰も正解と間違いを区別してくれない。神は死んだ。人間も滅ぶだろう。己の自意識を肯定することは、己にしかできない」。
(32)スピノザ『エチカ(下)』(前掲書)114-115頁。

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日日日『のばらセックス』8 

日日日の作品におけるキャラクター同士の相互理解の(不)可能性について考えてみましょう。

『のばらセックス』での人間関係、あるいはむしろ「加工種(エルフ)」をも含む個体間の関係は、つねに変装や演技や背信に満ちており、当然錯覚や勘違いや幻滅も途絶えることがない。
もっともこの作品が特にこの点で過剰なだけで、日日日の他の小説においても人間同士の相互理解というものは、しばしば原理的な次元で無効性を宣告されている観がある。
例えば、『ギロチンマシン中村奈々子』は、言語を介した交流というものについてとても懐疑的だ。この作品から読み取れるかぎりでの言語活動というものは、固有名詞すら欺瞞と無縁でなく(注1)、共感を正確に反映することができず(注2)、不便この上ないどころか人類の進化の阻害要因であり(注3)、結局その根底に横たわる大前提、つまり人間は人間と「絶対にわかりあえない」という前提をついに克服できない(注4)。かかる不完全性に思いを致すとき、主として藝術的な感興にもとづく言語活動であるはずの小説にも絶滅が待ちかまえているという暴論さえ、あながち一笑に付すわけにはいかないかもしれない(注5)。

そのような、根本的な相互理解の不可能性というものを、『ビスケット・フランケンシュタイン』(注6)についでうんと誇張してみせたのが『のばらセックス』の世界、ということになるのだろう。
しかし、ここでご注意願いたいのは、この不可能性はどうやらそれ自体としては日日日にとって全く自明の中立的な事実にすぎず、何ら絶望的な色調を帯びてはいないらしい、という点だ。
この点は『ギロチンマシン中村奈々子 大人社会編』から明瞭にうかがえる。中村奈々子は一方で「恋愛なんて宗教がいつまでも淘汰されない」のは「ほんとうに不思議」と言い、「人間なんて不安定な存在に神性を見出す感性がわからないよ」とも言いながら、他方ではしゃあしゃあとこんなことをのたまうからだ。
「あと僕だって恋愛はするよ、人間だからね。歪んでいても病んでいても、僕は人間っていう生き物だからね。それを否定するのは僕の魂が許さない」(注7)
ずっとあとの頁でより個人的な思い入れをこめて、かつ「個人的に」ということわりに最大限の重みを持たせつつ繰り返されるこの主張は(注8)、単にその内容だけではなく、何よりも矛盾を平気で犯すその形式上の理不尽さにおいて尊い。
つまりはそれほどまでに、日日日においては情動一般、なかんずく愛は、伝達上の都合に合わせた妥協などあずかり知らぬ経験であり、個々人の実存そのものに深く根ざす一方的な奔流なのだ。なんならこう言ってもよい。相互理解が不可能なのは、我々の本性の弱さではなくて逆に強さのゆえであると(注9)。

『のばらセックス』の「いつかは散る薔薇」の章で描かれる、おちば様とソプラノ君の信じがたいほど美しい交合の情景は、いまのところ、いかなる日日日の作品よりも雄弁にこの間の事情を教えてくれる。

ソプラノとのいやらしい行為は、気持ちいいというよりも、むしろ戦いだ。どう死なずに乗り越えるかが肝心だ。
 何でそんな酷い目にあってまでソプラノを選ぶのか。疑問に思われるかもしれない。でも、これがあたしの愛したひと。あたしの愛すべきすべて。
 ならば、痛みを堪え、あるいは慣れて、快楽さえ得て、あたしは自らを調教する。ひとりよがりじゃない、ソプラノも努力してあたしに歩み寄ってくれている。以前はよりあたしを苦しめるために眼球とかに射精したし。(303頁)

この「刀の鍔迫り合い」にも似た戦闘的なまぐわいにおいては、「人類は肉でできてる」(注10)という真理すら突き破る親密さが骨と骨との衝突として実現するのだが、これほどの親密さの最中でも決して二人の相互理解は、少なくとも同時的には生じることがない。それどころか「暗闇で、お互いを探すみたいに」相手の名前を呼び続けること、そして相手の「存在を魂の奥底まで刻みつけられる」ことこそが「この世の幸福」である以上、安直なポルノグラフィならうっかり使いかねない融合ないし合一に関する修辞も、天上的な超越性に訴える修辞も到底出番はなさそうである。あくまでも、人間と人間が完全に分かり合い、あらゆる意味で一体化するという神秘的な状況は慎重に避けられているのだ。
そしてまさにこのことのゆえに、『のばらセックス』は最高に優れた倫理の書たりえているのではないか。我々が完全には理解しあえない誰かが、すなわち他者というものが頑として実存しており、しかもそのような他者を我々はどういうわけか遮二無二求めずにはいられないということ、および我々が我々自身の生を濃く生きるとは、実はそのような狂おしい愛の情動の奔流に抗いがたく貫かれるという経験以外ではありえないということ。このような教えを無理なく、美しく人々に納得させることは、卓越した文学作品だけが果たせる倫理的責務のうちでも、疑いなく最も高貴なものに属するからである。いや、美しいばかりではない。「あいちゃん」こと坂本逢に化けたおちば様の祖父の救いがたく滑稽で醜悪な死に様からは、この抗いがたさが、ときとして我々に悲惨な破滅をもたらすという教訓すら引き出せるのだ(注11)。
だからこそ、作品が最後の頁へと近づくにつれて相互理解の不可能性が徐々に明るい性質のものへと転じ、ほかならぬ意外さそのものが、あるときは「セノンとシオンの情報コーナー」(注12)の場合のごとく朗らかな笑いを、またあるときは恋人の勇姿に対する「男の子は、何でいつの間にか、こんなに強くなっちゃうんだろう」(注13)という感嘆の念を呼び起こすのを見るとき、我々読者はひとしお大きな幸福を覚えることになるのである。


(1)『ギロチンマシン中村奈々子 義務教育編』(徳間デュアル文庫、2006年)259頁。
(2)『ギロチンマシン中村奈々子 学級崩壊篇』(徳間デュアル文庫、2007年)207頁。
(3)『ギロチンマシン中村奈々子 高等教育編』(徳間デュアル文庫、2007年)207頁。
(4)『ギロチンマシン中村奈々子 大人社会編』(徳間デュアル文庫、2008年)42頁。
(5)『ギロチンマシン中村奈々子 輪廻転生編』(徳間デュアル文庫、2009年)5-8頁。
(6)『ビスケット・フランケンシュタイン』(学習研究社、メガミ文庫、2009年)169頁。
(7)『ギロチンマシン中村奈々子 大人社会編』(前掲書)26-27頁。
(8)同書211-212頁、「『僕はね、たぶん昔ね、空海さんのことを愛していた。まだ人類に未来があったころ。僕の髪が長かったころ。十五歳だったころ。小娘だったから、ふつうにひとを愛した』/奈々子の人間の片目から、温かな液体が零れた。/『だから僕は、君たちのしたことを個人的に許さない。人間の言う『個人的に』っていうのは、君たちにとっての総体すべての意思と同じ重さだよ。僕は命に代えても君たちを許さないって言ったんだ。僕の好きなひとにあんな真似をした、君たちを許さないって言ったんだよ!』/奈々子は立ちあがった。/怒れる女の双眸は、燃えるようだった。/『僕は人間だよ。歪んでいても間違っても、それが人間だ。僕は人間だから愛した。その愛を否定しない。僕の魂は否定しない。それが僕の自我だ!』」(『個人的に』の二重鍵括弧は原文のまま)
なおこの引用文の冒頭の台詞は、大出長介のすこぶる魅力的な口絵とともに文庫本そのものの巻頭を飾っている(大出さんの東方系同人誌は絵が素敵すぎて正直物語が記憶に残らない…のだがたぶん私はあまり上質な読者じゃないですごめんなさい)。
(9)『ギロチンマシン中村奈々子 義務教育編』(前掲書)128頁、「自分のために行動するのが人間で、他人のために行動するのがロボットだ」(原文では傍点つき)。この定義にしたがえば、人間は人間であるかぎり究極的には自分のために生きるほかない、あるいはある個体は自分のために生きている間にかぎり人間の名に値する、ということになる。
(10)『のばらセックス』(講談社BOX、2011年)36頁。
(11)同書227-228頁、「実の娘を犯したいと思う親がいるわけがなかった。/生物学的にも不合理で、他人と交わる遺伝的多様性を獲得することが生殖の最大の目的ならば、性交をしようとした瞬間、彼はあたしを『他人』と見たということ。/縁を切ったのは、選んだのはそっちだ」。このそれ自体としてはしごく当たり前な、けれども場合が場合だけに戦慄すべき冷徹な洞察をも(なにしろおちば様は目前の「あいちゃん」を誘惑し、返答次第では殺害するつもりでいるのだ)、337-340頁で笑い飛ばし、茶化すことができているのは『のばらセックス』の破天荒な活力の証であって、単に不注意から生じた矛盾ではないと信じたい。なんならこれを、前回の記事(日日日『のばらセックス』7)で論及した「反転」の一例に数えてもよいかもしれない。
(12)同書349頁。
(13)同書372頁。

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日日日『のばらセックス』7 

『のばらセックス』から出発して、日日日の執筆作法について少々。
なんだかブログ開設以来この作品ばかり相手にしているが、要はそれだけ引っかかるものを感じる、ということだ。

誰しも一読して思うことではあろうが、『のばらセックス』ではめまぐるしくなるほどあちらこちらに、状況の反復や対称や反転がはりめぐらしてある。例えば、ちょうどかつて「母」から受けた銃弾がおちば様の腹部に「身体が書き換えられるような激痛」(46頁)を与えたのと同じく、「父」が膣内に挿入する器具は「お腹の奥で何かが書き換えられている」(156頁)かのような堪えがたい刺激をもたらす。これは「反復」と呼んでよい事態だろう。
また、快感とともに性器に侵入してくる「父」(義父)の指は敵であり(152頁)、苦痛とともに食道から吐き出される「母」の指は味方であり(238頁)、その「父」は実は本人でなく(義父に化けた祖父であり)、その「母」は実の母でなく(伯父のふりをした父であり)…という具合に、「対称」に関する実例にも事欠きはしない。
さらに、当初はひたすら不愉快でしかなかった「あたしの人生はあたしのものじゃない」(8頁)というおちば様の認識は、終盤に至って思いがけず幼い女性たちの姿を目にしたとき、「外はきっと、あんたたちが胸を張って暮らせる世界だから」という利他的な約束に変質し、あまつさえ「あたしは―そのために生まれたんだ」とまで言わしめている(379頁)。自己中心的な苛立ちから献身的な決意への、価値の「反転」が起きていることは明らかだろう。

書いた端から整った活字の画面を目にすることができ、検索やコピー&ペーストも容易なパソコン(ワープロ)による執筆という条件の下では、この手の伏線(大部分は簡易な、肩肘張って「解読」するまでもない程度のもの)を息の短いものも長いものも、長短取り混ぜて盛り込むことは、たとえ手放しで歓迎はできないにしても頭から忌避すべき技法ではなく、いくらかは環境が強いる必然的な結果のはずだ。
アナログ的な深さからデジタル的な広さへ、などという宣言に要約してしまうと途端にいかがわしくなるものの、この種の遊びには少なくとも、どんな読者にとっても否定しがたい形式的な美観がある。その最たるものはもちろん、あたかも「ペニスからヴァギナへ(I字からV字へ)」という推移を匂わせるかのような、冒頭の「ファック。ファック。ファック。」(8頁)と結末の「みんな満面の笑顔で、ピース!」(386頁)との対照にほかならない(ついでに触れておきたいのは、後者において「満面の」という、明らかに視覚的な、それも未見の映像には使いにくい形容詞が出てくることである。直前の台詞では「いちばんの笑顔だよ!」というもっと抽象的な言い回しであることを考え合わせると、ここでの写真撮影という行為自体が、志賀直哉の『暗夜行路』の末尾で起きる視点の転換と同様の機能を果たしていることが推定できる。事実この末尾の一文に向けて単数の一人称は「あたしたち家族」に座を明け渡しつつ、「満面の」や感嘆符が帯びる現前性と、現像にかかるはずの時間という、互いに矛盾する条件の間で板挟みになって消え去るのであり、こうして誰がいつどこから見ているのか不明になった写真への言及を、すみやかに次頁の挿絵が引き継ぐことになる。映像機具を活用した一人称の拡張、ないし三人称化は、『ささみさん@がんばらない』でも何度か企てられているが、写真をはじめとする映像技術の欺瞞的性格について作中で十分な省察の機会を設けつつ、挿絵の協力を得ることができた分だけ『のばらセックス』のほうが高度かもしれない)。

通常の比喩、すなわちある外見的特徴が何らかの性格を、ある人物が何らかの観念を連想させる比喩とは異なる、日日日がおそらくは文学的伝統からの隔絶の中で矢継ぎ早に執筆することを要求されたゆえに編み出さざるをえなかった仕掛けも、この延長線上に位置する。
それは筋書の水準での隠喩、あるいは底抜けの寓意の連鎖とでも称すべきもので、ある状況が相似形だったもう一つの状況を連想させるような、というよりも前者があくまでも、それ自身の上に折り重なった後者の拡大版として呼び起されるような構造だ。
『ギロチンマシン中村奈々子』(徳間書店、徳間デュアル文庫、全5巻)の場合だと、「人間と機械の戦争」という主題が、個体同士の関係の水準から(第1巻『義務教育編』)、一つの島(〈学園〉)全体へ(第2巻『学級崩壊編』)、さらに都市国家(〈王国〉)へと(第3巻『高等教育編』)順次拡大を続けたのち、ついにそれまでの図式を根底から覆すような新たな認識の到来と同時に惑星規模の文脈に転調され(これが第4巻『大人社会編』で、ここに至って舞台がじつは地球ではなく「第七地球」と呼ばれるスペースコロニーであること、当地での「戦争」は本来の地球で冬眠し続ける人類のために最善の未来図を模索するシミュレーション実験の一環にすぎず、両陣営ともロボットの集団であること、そしてその背後では、人間に取って代わらんとする機械が、コロニーの生き残りの人類を探し出して抹殺するという計画を進めていることが明らかになる)、最後には機械の自我を消滅に追い込んだ主人公たち自身が、その同胞であった可能性が示唆される(第5巻『輪廻転生編』の288-289頁、300-301頁、312-313頁を参照のこと。主人公たちは皆まぎれもない人間だが、機械が有するに至った自我の原型である中村莓という少女の存在を何らかの形で肉体的に継承している)。もはや「戦争」の実態は個体同士の倫理的な世代間問答にまで還元ないし凝縮され(注1)、一切は人間の側の自業自得、もしくは機械の緩慢な自殺の過程にほかならなかったという観点が浮上してくるのである(注2)。
このような蟻地獄めいた、あるいはブラックホールじみた構造は、ときにはフィクションの現実化(「瓢箪から駒」)という原理の併用によって複雑化を遂げつつ(『のばらセックス』では、「2000年ぶりの女性の誕生」という出来事が一度目は虚構として、二度目は現実として起こり、両者の関係が筋書の主軸を形成する)、しばしば「作者(創造者)と作品(被造物)との関係」という問題系と一緒になり(注3)、ローティーン向けの薄味の怪奇小説(『ひなあられ』)にすら姿を見せる日日日の恒常的な主題で、マラルメやヌーヴォー・ロマンと同等の射程を具えているか、少なくとも同質の問いに後押しされている(そしてたぶん、数多くの相違点があるにもかかわらずプルーストにはいっそう近いはずである)(注4)。
ことに『のばらセックス』のごとき中編小説の場合は、短編小説と違って前半の紛糾ぶりが後半のあわただしい種明かしとの対比で際立つ恐れもなく、長編小説と違って前半の完結性との対比で後半が冗長に見える恐れもないだけに、いっそうこの構造の鮮やかさを堪能できる。

私は『のばらセックス』は言うに及ばず、『狂乱家族日記』や『ビスケット・フランケンシュタイン』等ほかの作品に照らしても、つくづく日日日の長所として生まれついての性別に囚われぬ強靭な「女性性」を感じるのだが、このように考えてくると事情は少し違うのかもしれない。
顔立ちを同じくする三人の「中村奈々子」(『ギロチンマシン中村奈々子』)に張り合おうとでもするかのように、『のばらセックス』の坂本三兄弟があれほどの存在感を放ち、とりわけ下の二人の近親相姦の場面(これをその場面の所産にほかならぬおちば様が男性側の立場から追体験するわけで、こうなると何と呼べばよいものか…。フロイトの言う「原光景」にならえば「超原光景」か?)が、おちば様とソプラノ君の性交をかすめてしまうほどの切実さを伴ってそのあとに召喚されているという事実は、むしろ単為生殖とか、あるいはアメーバの分裂のような概念を要求するのではないか。現におちば様だって自分以外の本物の女性を目撃する直前に、「こんにちは、あたしの人生。/今から会いにいくよ」(374頁)という独白を漏らしている。つまり日日日の「女性性」自体はもとより否定しがたいが、あくまでも帰結であって根本的な原因は別にある、ということだ。

むろん、「性差がなければ人類はきっと衰退していくよー、困りましたねー?」、というのが『のばらセックス』の投げかける教訓の一つなのは分かりきっているが、古今東西例外なく作家というものは、己自身とは異なる者、つまりキャラクターたちを日々創造的に想像し続けなくてはならなかったわけで、何というかこれは立場上単為生殖を免れがたい職業なのである、たぶん。
してみれば申し分なく他者的であってくれる非の打ちどころのない「他者」を産出できるほどの高度な自律性の獲得こそ、あらゆる作家にとっての究極の夢であるに違いない。それこそ、作者の生涯の伴侶を務めることすらできるほどに「申し分のない」他者、愛憎を思い切りぶつけることのできる相手を。
自らが演じる架空の女性(のばら様)に恋い焦がれ、同じ顔をした弟と交わって正真正銘の女性(おちば様)を出産してしまったばかりか年端もゆかぬ彼女を我慢できずに犯し、その癖とことん面倒を引き受ける甲斐性もなくて銃撃を見舞ったあげく、文字通り身を削って女性の創造という奇跡の再現に挑んだ次兄坂本緒礼の姿は、この意味で小説家の英雄的な理想なのだ。


(1)『ギロチンマシン中村奈々子 輪廻転生編』(徳間デュアル文庫、2009年)305頁、「中村莓は問いかける。/『壊してしまうぐらいなら、どうして、わたしたちを創ったのですか?』/『創ったんじゃない』/中村奈々子が、応えた。/『君は生まれてしまったんだ』/人類と機械の本音。最後になるだろう、問答。〔…〕中村莓が、世界に怯える赤子のように。/『生まれてしまった―わたしたちを、どうして愛してくれなかったのですか?』/『愛さなかったんじゃない』/それが別れの言葉だった。/『憎みあってしまっただけだ』」。なお、中村莓の台詞はもとから二重鍵括弧でくくってあり、中村奈々子の台詞とは趣が異なるのだが、この引用では原文の体裁を再現できなかった。
(2)同書313頁、「ねぇ、誰が勝ったんだろうね?誰が負けたんだろうね?誰の思いどおりになったんだろうね?誰が創られた存在で、誰が創造主で、誰が主人公で、誰が神様だったんだろう?誰が人間で、誰が機械で、誰が何を手にいれたんだろう?」
(3)『ギロチンマシン中村奈々子』はこの点で好例と考えてよい。「蟻地獄」という語自体、第4巻『大人社会編』(徳間デュアル文庫、2008年、172頁)から筆者が拝借したものである。
もっとも、執筆が長期間にわたった長編小説であるためか、この作品に仕掛けられた蟻地獄構造は『のばらセックス』と比べるとやや散漫な気もする。余談ながら『ギロチンマシン中村奈々子』の全篇を通じて最も美しい文章は『輪廻転生編』(前掲書)の160頁以下、すなわち主人公たちが第七地球で繰り広げる決戦に先立ち、前触れとして本来の地球での中村奈々子の暗躍を述べる「IV 中村珊瑚」の章の冒頭ではないか。一番印象深い文章が一番重要な頁以外の頁に見つかるというのは、一般論としては少し問題かもしれない。さらに余談になるけど、奈々子の両腕の武器には「地面は切り裂けない」という制約があると『義務教育編』(徳間デュアル文庫、2006年、243頁)や『輪廻転生編』(前掲書、73頁)で説明されているにもかかわらず、『学級崩壊編』(徳間デュアル文庫、2007年、64頁)ではちゃっかり砂浜を「でたらめに粉砕し八つ裂き」にしてるとか、細かい矛盾らしきものもたまにあったりする。他にも見どころ(読みどころ、かな)はいくらでもあるから別にいいけど。
(4)ついでながら『ピーターパン・エンドロール』(新風舎文庫、2006年)には「虚構の世界で、私は私を何度でも殺せます」(26頁)という、ブランショばりの洞察が顔を見せている。

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ダーウィン『種の起原』より 

『種の起原』に書いてある説(自然選択による生物の進化)は、今日ではもはや発表当初の衝撃力を持っておらず、わざわざひもとく必要は乏しいかもしれない。それに私のような門外漢にとって、名も知らぬ動植物の習性や地質学に関する細々した具体例が、擁護されるべき主張そのものを覆い隠さんばかりの勢いで延々と続く文章はいささか読みづらい。
だがそれでも、自然界の全体に惜しみなく公平にそそがれる愛のまなざしが描き出す明暗法には、おそらくダーウィンの方法の秘密が潜んでいるばかりか、固有の鮮烈な魅力があって無視しがたいのである。

生活のための普遍的な闘争が真理であるのを言葉の上でみとめることほど容易なことはないが、同時に、この結論をつねに心にとどめておくこと以上に困難なことはない―少なくとも私は、そうであることを知った。だが、この結論が徹底的に心にしみこんでいるのでなければ、自然の経済〔原義は自然界の秩序〕全体や、それにふくまれる分布、稀少、豊富、絶滅、変異などのあらゆる事実は、おぼろげに認められるにすぎないか、あるいはまったく誤解されてしまうであろうと、私は信じる。われわれは〈自然〉の顔が喜びにかがやいているのをみる。われわれはしばしば、食物がありあまっているのをみる。だがわれわれは、われわれの周囲でのんきにさえずっている鳥がたいてい昆虫や種子をたべて生きており、こうしてたえず生命をほろぼしていることをみない。あるいは、それをわすれている。われわれは、これらの鳴鳥や、その卵や、ひな鳥が、肉食鳥や肉食獣によっていかに多くほろぼされているかを、わすれている。われわれは、いまは食物がありあまるほどでも、めぐりくる年ごとのどの季節でも、そうであるとはきまらないことを、いつも心にとめてはいない。(注1)

自然の酷薄さを選別の篩と同一視することが、必ずしも観察者自身の酷薄さに直結せず、それどころか生命の複雑性や多様性への最大限の敬意と驚嘆の念に通じていること―そのような事態を可能ならしめた理由を、私は学びたい。今ここで永遠を見ることのできる無私の視線は、どんな分野でも役に立たないことはあるまい。

いろいろな種類の多数の植物によっておおわれ、茂みに鳥は歌い、さまざまな昆虫がひらひら舞い、湿った土中を蠕虫ははいまわる、そのような雑踏した堤を熟視し、相互にかくも異なり、相互にかくも複雑にもたれあった、これらの精妙につくられた生物たちが、すべて、われわれの周囲で作用しつつある法則によって生みだされたものであることを熟考するのは、興味ふかい。これらの法則は、もっともひろい意味にとれば〈生殖〉をともなう〈成長〉、ほとんど生殖のなかに含まれるとしてもよい〈遺伝〉、生活の外的条件の間接および直接の作用によって生じる、また用不用によって生じる〈変異性〉、〈生存闘争〉を生じさせまたその結果として〈自然選択〉をおこさせ、〈形質の分岐〉と改良の劣った種類の〈絶滅〉とを随伴する、高い〈増加率〉である。このようにして、自然のたたかいから、すなわち飢餓と死から、われわれの考えうる最高のことがら、つまり高等動物の産出ということが、直接結果されるのである。生命はそのあまたの力とともに、最初わずかのものあるいはただ一個のものに、吹きこまれたとするこの見かた、そして、この惑星が確固たる重力法則に従って回転するあいだに、かくも単純な発端からきわめて美しくきわめて驚嘆すべき無限の形態が生じ、いまも生じつつあるというこの見かたのなかには、壮大なものがある。(注2)


(1)ダーウィン『種の起原(上)』(八杉龍一訳、岩波文庫、2009年第28刷)87-88頁(亀甲括弧〔〕内は訳者による補足である)。
(2)ダーウィン『種の起原(下)』(八杉龍一訳、岩波文庫、2009年第26刷)261-262頁。

category: ダーウィン

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