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一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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日日日『のばらセックス』6 

日日日の『のばらセックス』における人称の問題について、すこし考えてみたい。

まず、下記の引用をお読みいただこう。

 会わなくちゃ。
 あたしを異性として愛し、同時に子供として見てくれた、あのひとに。
 ―何で生まれてきたのだ。
 ねぇ、あたし今なら応えられる気がするの。(348頁)

おそらく、最後の二行はこの作品の中で最もまばゆく、詩的な美しさに輝く部分である。
その理由は一体なぜか。

この引用文を含む章(「いつかは散る薔薇」)は基本的におちば様の視点から、一人称(「あたし」)でつづられている。そうである以上、「―何で生まれてきたのだ」という文章は露骨に浮いており、本来ならば例外であり、統一を乱す異分子であろう。
もちろん、かつて実際に母親であるのばら様(正体は緒礼だが)から発せられた「おまえ、何で生まれてきたのだ―」(45頁)という問いかけのことをここで話者(おちば様)が思い出しているのは間違いない。しかし少なくとも意味内容に関するかぎり、「何で生まれてきたのか、あたしはずっと疑問だった。/でも、今なら答えられる気がする」と書いたところで等価なはずだ。にもかかわらず、このように書き換えてしまえば原文の精彩は著しく損なわれ、数段見劣りするように思える。

考えてみれば虚構におけるキャラクターの生というものは、それ自体としては現実世界にとって、全く余計な存在でしかない。
とはいえただ漫然と生きているのではなく、何かのために、極力その何かのためだけに生きるということ、そのような凛然たる姿勢を一生にわたって貫ける人物などじつは現実においても稀なのだけれど、その反動でか往々にして虚構のキャラクターはただ生きているということを許されず、筋書の中でなにがしかの役割を果たすことを強いられる。いや、反動ではなくて、漫然と生きるしかない現実の我々がせめてもの指針を虚構に期待しているということなのかもしれない。そこらへんは場合次第だと思う。
まあいずれにしても、放っておいても勝手に殖える現実の動物たちと違って虚構のキャラクターは作者の脳髄から生まれてきた素性の怪しい連中なので、そのぶん自らの身分について釈明を求められる程度が強い、ということは一般論として成り立ちそうな気がする。
だからこそ、一個の個人として「ただ生きている」ことをよしとしてもらえる状況が、逆説的にも虚構のキャラクターにとっては一種の贅沢たりうるのであり、近年の虚構作品はそのような状況の達成をわりと風潮として目指しているのではないか。その意味ではこの逆説は、もはや定番と呼んでよい逆説だ(形容矛盾だけど)。
『のばらセックス』においてはこの問題(キャラクターの実存の根拠という問題)は、周囲の男性たちがおちば様(あるいは、女性一般)に期待する役割をことごとくはねつけつつ、彼女が最終的に自身の意志で、女性が「ただ生きていられる」状況を創設する、という風に落ち着く。
虚構内のキャラクターならではの強い使命感を「ただ生きている」境地と両立させる、手堅い解決であろう。
むしろ、どうあがいてもキャラクターは「ただ生きている」だけの存在でもありえなければ(連中は二次元の外で自由意思を行使できない!)、役割に終始する存在でもありえない(いわゆるリアリティの必要とか、「日常パート」というやつだ)ことを思えば、この両立それ自体、すなわち二つの立場の間の緊張それ自体を虚構というものの本性として素直に受け入れるべきなのかもしれない。

で、だ。
引用文の末尾の二行は、この緊張関係を、人称の操作を通じて紙面にみごとに定着させていると思えるのだ。
「―何で生まれてきたのだ」は一見して明らかなとおり実存の根拠についての、普遍的な、ゆえに非人称的な、誰のものともしれぬ詰問であり、とはいえその響きは「あたし」の一人称に取り囲まれた中ではかなりこわもての、日本語の慣用として権力を持つ成人男性のそれと判断してよさそうな趣がある。これに対して少女である「あたし」が答える、いや正確には「応えられる気がする」と言っているわけで、要するにただ返事をしているだけである。正答の提出ではなく、単なる応答なのだ。「ねぇ(…)気がするの」という語り口にしてからが、聞き手を強く意識しており、相手あっての口調であることは明らかだろう。
たとえ外部から押しつけられる役割をしゃにむに拒否っても、我々は「自分は一体何のために生まれてきたのか」という問いに無視を決め込むことはできなくて日々もがき、日々あがく。この忌々しくも普遍的な詰問に対して、一人一人が自分の生涯を通じて自分なりの応答を試みなくてはならない。そして少なくともそのあいだだけは、虚構内のキャラクターと我々とは同じ平面上にいて、同じ悩みや予感を共有している。
結局、上記の引用文の美しさとは、実存の根拠に対する普遍的な問いかけと、それへの単独的な応答の試みというこの構図、虚構の原理にしてしかも人生そのもののような構図を非常に的確に可視化しているところに起因するのだろう。そう考えた上でさらにもう一歩踏み込むと、キャラクター(作者の娘にして恋人)が作者に会いたいと言っているようにも読めてしまうのだ、おもしろいことに。
まあ、一人称でならしちゃうと問答っぽくないし、この時点でおちば様に自分の人生の「答え」がはっきり見えちゃうとネタバレになってまずい、というもっと即物的な説明もできるけど。

ともあれ『のばらセックス』の読者は「人生はまるでこの小説のように大変だ」と言い、あるいは「人生はこの小説のように美しい」と言うことができる。
こんなにすばらしい小説は、めったにない。
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category: 『のばらセックス』

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古井由吉訳『ドゥイノの悲歌』への疑問 

リルケ(Rainer Maria Rilke, 1875-1926)の『ドゥイノの悲歌』〔Duineser Elegien〕(1923年)第9歌の中に、次のようなくだりがある。

Sind wir vielleicht hier, um zu sagen: Haus,
Brücke, Brunnen, Tor, Krug, Obstbaum, Fenster, ―
höchstens: Säule, Turn...aber zu sagen, verstehs,
oh zu sagen so, wie selber die Dinge niemals
innig meinten zu sein. Ist nicht die heimliche List
dieser verschwiegenen Erde, wenn sie die Liebenden drängt,
daß sich in ihrem Gefühl jedes und jedes entzückt?
Schwelle: was ists für zwei
Liebende, daß sie die eigne ältere Schwelle der Tür
ein wenig verbrauchen, auch sie, nach den vielen vorher
und vor den Künftigen..., leicht.(注1)

なるべく行の順序を崩さず我流に訳出すると、こうなった。

我々がこの世にいるのはことによると、言うためなのだ。家、
橋、泉、門、甕、果樹、窓と、―
せいぜいのところ、円柱、塔と…しかし言うためなのだ、理解せよ、
おお言うためなのだ、諸々の物自身は決してそのように
有るつもりで心底いたわけではない有様を。ひそかな策略ではないのか
この無口な大地の、それ〔大地〕が恋人たちを駆り立てるとき、
彼らの感情の中で一つ一つの物が恍惚となるのは。
敷居。一体何事であるのか二人の
恋人たちにとって、彼らが自家の扉の年古りた敷居を
少しばかりすり減らすということは、彼らもまた、以前の大勢の後で
また将来の者らに先立ってだが…、軽々となのだ。

高安国世訳は、岩波文庫版『リルケ詩集』によればこうだ。

私たちがこの世に在るのは、おそらく言うためなのだ、
家、橋、泉、門、水差し、果樹、窓、―
たかだか円柱、塔と……だが、言うためなのだ、
おお、物ら自身、かつてそのように存在したと
しみじみと考えたこともないほどに言うためなのだ。寡黙(かもく)な
大地のひそかな策略ではないのか、愛する者たちをうながし、
その感情の中でどの物も歓喜にふるえるようにするのは。
たとえば敷居、愛し合う二人が自分の家の戸口の、やや古びた敷居を、
以前の多くの人々や、のちにくる人々と同じように
ほんのわずか磨(す)り減らすこと……ああ、かろやかに、
二人にとってそれはなんという意味を持つことだろう。(注2)

さらに手塚富雄訳を、やはり岩波文庫版の『ドゥイノの悲歌』から引用する。

だから、たぶんわれわれが地上に存在するのは、言うためなのだ。家、
橋、泉、門、壺(つぼ)、果樹、窓―と、
もしくはせいぜい円柱、塔と……。しかし理解せよ、そう言うのは
物たち自身もけっして自分たちがそうであるとは
つきつめて思っていなかったそのように言うためなのだ。恋するものどうしが大地の力にうながされて
心に情感のみなぎるとき、そのいぶきをあびて、物たちの一つ一つが歓喜にみちて躍動するのは
言葉を発するすべをもたないこの大地のひそかなたくらみなのではなかろうか。
たとえば閾(しきい)。愛しあう二人は、昔からある扉口(とぐち)の閾を
かれら以前の多くの人、またかれらより後の人々と同様に
すこしばかり踏みくぼめるが、それは二人にとって
通常の閾だろうか……、いや、かろやかに越える閾なのだ、(注3)

なお、最後の読点(、)は句点(。)に改めるべきかとも思うが、一応原文の体裁を尊重しておく。
いかがだろうか。巧拙や読みやすさの違いはお感じになることだろうが、内容上はいずれもそう変わらないと思う。
しかし同じ箇所が、古井由吉の手にかかるとこうなる。『詩への小路』(書肆山田)所収の、「ドゥイノ・エレギー訳文 9」と題された散文訳からの引用である。

われわれがこの世にあるのは、おそらく、言葉によって語る為だ。家があった、橋があった、泉があった、門が、壺が、果樹が、窓があった……と。せいぜいが、円柱があった、塔があった、と。しかし心得てほしい。われわれの語るところは、物たち自身が内々、おのれのことをそう思っているだろうところとは、けっして同じではないのだ。恋人たちの心に迫って、その情感の中で何もかもがこの世ならぬ恍惚の相をあらわすように仕向けるのも、滅多には語らぬ現世の、ひそかなたくらみではないのか。敷居はある。たとえ恋人たちがそれぞれ昔からある自家(いえ)の戸口の敷居をいささか、踰えることによって擦り減らしたところで、二人にとって何ほどのことになる。以前の大勢の恋人たちに後(おく)れて、以後の恋人たちに先立って、自身も痕跡を遺すだけのことではないのか……かすかに。(注4)

おそらく誰しも、これを上記三つの訳文と読み比べれば相当異なる印象を受けるはずである。
古井の翻訳を経由した結果、「我々は物たちの真実を、物たち自身には思いも及ばぬほど深くきわめて歌わなくてはならぬ」という趣旨の―私にはそうとしか思えないし、手塚も訳注でそう判断している(注5)―詩句は反転し、「我々が物たちについて何を歌おうと、それは物たちが物たち自身について思っているところとは似ても似つかぬ空論にすぎぬ」という悲観的な断念に変わる。
そしてそのため、詩人が言葉によって遂行すべきわざを大地は恋人たちの感情を通じて実現している、とでも表現できそうな等式に立脚する、「恋人たちにとって、自分たちが踏み越える敷居は何たる(すばらしい)意味を持つことか。彼らは(余人とは心がまえが違うので)敷居をかろやかに踏む」という趣旨の、例外的な感激に満ちた瞬間を表す詩句―私にはそうとしか思えないし、これまた手塚も訳注でそう判断している(注6)―も、「恋人たちが敷居を踏んだところで何の意味があるのか(何の意味もない)。彼らも(やることといえば余人と同様に)敷居をかすかに踏みしめるのみ」という、何ら特別なところのない月並みの生と、それゆえの倦怠や諦念を表す詩句に変わってしまう。
たしかに個々の詩句に関しては両義的な性格が強く、天秤のようにどちらに傾けて読むことも可能かもしれないが、それでも全体の続き具合を考えればやはり、リルケ自身は詩人が歌うための肯定的な根拠を、逆説を通じて模索しているのであって、ともすれば甘美な頽廃を夢見てしまう古井の訳だと意味が通りにくい箇所が頻出してしまう。
それともこれはわざとだろうか。だとすればかなりひねくれているが、詩人の務めを啓示するはずの「……言うためなのだ」という表現を「われわれの語るところは……」と訳して現状の解説に改変したり、そもそも原文にない「痕跡を遺すだけのことではないのか」という問いかけを追加してまで詩行を諦念一色で塗りつぶそうとするのは、そうとでも考えないとあまりに不可解だ。

もう少しあとのくだりを読めば、そのあたりの事情はいっそうはっきりするかもしれない。

Zeig ihm, wie glücklich ein Ding sein kann, wie schuldlos und unser,
wie selbst das klagende Leid rein zur Gestalt sich entschließt,
dient als ein Ding, oder stirbt in ein Ding, ― und jenseits
selig der Geige entgeht. ― Und diese, von Hingang
lebenden Dinge verstehn, daß du sie rühmst; (注7)

これも、まずは我流に直訳してみよう。なお、「彼の者」とは天使を指す。

彼の者に示せ、いかに一つの物が幸福でありうるかを、いかに負い目なくしかも我々のものでありうるかを、
いかに嘆き訴える苦悩すらも純粋に形象たらんと決意し、
一つの物として仕え、あるいは一つの物の中へと死ぬかを、―そして彼岸で
浄福に与りつつヴァイオリンから流れ出るかを。―そしてこれら、逝くことによって
生きる物たちは理解する、おまえがそれらを褒めたたえることを。

ついで、再び高安国世訳を参照する。

彼に示すがいい、どんなに物らが幸福になり得るかを、どんなに無邪気に、そして私たちのものとなり得るかを。
嘆き訴える悩みすらどんなに純粋に形姿へと決意するかを、
物として仕え、あるいは物の中へはいって死ぬかを―、そして彼方(かなた)で
浄福に満ちた音色として提琴から流れ出るかを。そして、これら滅びゆくことによって
生きている物らは理解する、おまえが彼らをほめたたえることを。(注8)

さらに、手塚富雄訳はこうである。

天使に示せ、ひとつの物がいかに幸福に、いかに無垢(むく)に、そしていかにわれわれの所有になりうるかを。
歎きうったえる苦悩さえ、いかにそれが形姿(けいし)たらんと至純の決意をし、
一つの物として仕えるか、または死んで一つの物に入り込むか―そして、その死ののちに
いかに至福のひびきをもって提琴から流れ出るかを。そして移ろいを糧(かて)として生きている
これらの物は理解するのだ、おまえがかれらをたたえていることを。(注9)

同じドイツ語の詩句を訳しているのだから当然といえば当然だが、やはり、どれも内容上はそう大きく違ってはいない。
ところが、古井訳を以上三種類の訳文と読み比べると、そもそも内容の次元で著しい違いが認められる。

天使に示せ、ひとつの物がいかに幸いになりうるか、汚濁をのがれてわれわれのものになりうるかを。悲嘆してやまぬ苦悩すらいかに澄んで形態(かたち)に服することに意を決し、物として仕える、あるいは物の内へ歿することか。その時、彼方から伴う楽の音も陶然として引いて行く。この亡びることからして生きる物たちのことをつぶさに知り、これを称(たた)えることだ。(注10)

前半(「歿することか」まで)についてはよい。問題は後半で、原文を読むかぎり、ここは依然として「嘆き訴える苦悩(das klagende Leid)」が主語だと思えるし、現に高安・手塚どちらの訳文でもそうなっている。そのような苦悩が、ひとたび死に、それから「彼岸で(jenseits)」、元来苦悩だったとは思えぬ浄福のものと化し―手元の『クラウン独和辞典』(三省堂)によると、« selig »は「天国の喜びに与っている」とか「列福された」、ひいては「今は亡き」を意味する形容詞であり、古井流にただ「陶然として」と訳したのでは、こうした、いわば抹香臭い含意を十分に反映することは難しい―、そして「ヴァイオリン(提琴)から流れ出る(der Geige entgeht)」のである。ここは私も迷ったが、この場合« entgehen »は「免れる」とか「逃れる」というよりも、流出に近い意味なのであろう。もちろん、それに伴う« der Geige »は3格なのだから(あるいは2格かもしれないが、いずれにせよ)、起源を意味するのであって、自ら動作する主語ではありえない。こう考えてこそ、苦悩がひとたび死んだのちに天上的な至福の中で麗しい音楽(詩歌)として生まれ変わる、という、起伏のはっきりした整合的な読み方が可能になるはずである。しかるに、「その時、彼方から伴う楽の音も陶然として引いて行く」という古井の訳では、原文の文法的な骨格が無視され、主語すら変更されているので、結局この部分が先立つ文脈とどうつながるのかが一向に明瞭でないし、まるで詩歌の誕生ではなくてその衰滅を説き明かしているようにしか読めない。「陶然として引いて行く」、この消極的で後ろ向きの動詞(「引いて行く」)と妙に愉悦的な副詞句(「陶然として」)との組合せは、よしんば古井文学の世界では珍しくないにせよ、はたしてリルケにとっても不自然でないかどうか。
その次も、古井訳ではあたかも« verstehen »、つまり「つぶさに知り」が原形(不定詞)、そして« diese, von Hingang/lebenden Dinge »、つまり「この亡びることからして生きる物たち」がその目的語であるかのようだし、したがって« daß »は独立的な用法で以下のことを命令している―ということになりそうだが、しかしここはやはり、« diese, von Hingang/lebenden Dinge »が主語、したがって« verstehen »は三人称複数現在形であり、それが« daß »以下を目的語として、理解すべき事態として従えている、と読むべきではないか。滅びゆく物たちを前にして、我々がそれらをただ滅びゆくままに任せるのではなくて言葉を用いて称える、つまりそれらを詩に歌うということは、単に我々から物たちへの一方的な思い入れなのではなく、同時に物たちから我々に託された使命を果たすことでもある―そのようにかたく信じることは詩人リルケの核にある発想だと私は思うし、またそう考えてこそ『ドゥイノの悲歌』の詩学は深みが増すはずだが、小説家古井由吉にとっては、それではあまりに楽観的すぎるのか(注11)。
見方を変えれば、古井にとってはリルケですら、衰弱や解体の理想を描くための方便にすぎないということである。
古井由吉、恐るべし。


(1)Rainer Maria Rilke, Duineser Elegien, Suhrkamp Verlag, 1975, p.56.
(2)高安国世訳『リルケ詩集』(岩波文庫、2010年)114-115頁。引用に際して、原文中の傍点が付してある箇所を太字の表記に改めた。次の引用文についても同様である。
(3)リルケ『ドゥイノの悲歌』(手塚富雄訳、岩波文庫、2010年改版第1刷)71-72頁。
(4)古井由吉『詩への小路』(書肆山田、2005年)236頁。
(5)リルケ『ドゥイノの悲歌』(前掲書)188頁。
(6)同書188-189頁。
(7)Rainer Maria Rilke, Duineser Elegien, op. cit., p57.
(8)高安国世訳『リルケ詩集』(前掲書)116-117頁。
(9)リルケ『ドゥイノの悲歌』(前掲書)74頁。
(10)古井由吉『詩への小路』(前掲書)238頁。
(11)その割には、直後に「無常の者として物たちは救いをわれわれに憑(たの)むのだ、無常も無常のわれわれに」という訳文が続いているので、一貫性という点で疑問も残る。

category: 古井由吉

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日日日『のばらセックス』5 

今回は日日日『のばらセックス』にいちゃもんをつけようと思う。
以下六点。

(1)おちば様の所属する組織の名は「S・A・S」(21頁)で、「セックス・アンダー・ソサエティ」というルビが振ってあるのだが、「アンダー」が前置詞の"under"のつもりなら、言うまでもなく略称は「S・U・S」でないといけない。

(2)「あたしの縮尺七割の、文弱な身体」(38頁)は、「文弱な」という形容詞が引っかかる。加工種(エルフ)の知能は本来ならば人間に引けを取らぬとはいえ、ソプラノ個人はおよそ文化的なものとは無縁な環境で育ち、まともな教育を受けてこなかったからだ。「繊弱な」とか「華奢な」のほうが適切だろう。実際には人間以上の身体能力を有することまで考慮すれば、「繊弱そうな」とか「一見華奢な」とでもすべきか。

(3)「じゃあ、丁重に扱いなさいよ―崇めたてまつりなさい、皮下脂肪をたくわえなさい、虫んこども!何百回も子供生むなんて、健康で図太いのばら様ぐらいじゃないと堪えらんないんだから!」という台詞(54頁)は、ちょっと不可解だ。
ここの「皮下脂肪」云々は一体誰の身体に言及しているのだろうか。先行する「崇めたてまつりなさい」からの続き具合を考慮するなら、喋っているおちば様自身の身体と判断すべきかもしれず、だとすれば「たくわえなさい」を「たくわえさせなさい」に改める必要がありそうだが、「虫ん子ども」以下に続く部分を読むとやはり聞き手の、ということはつまり加工種(エルフ)の身体のような気がする。しかしそれではまるで、犯されるおちば様ではなく、彼女を犯す加工種(エルフ)たち自身が腹を痛めて子供を生むかのようではないか。十分な説明のない加工種(エルフ)の繁殖事情が人間に準じると仮定しての話ではあるが、男性でも出産ができるようにする技術自体はこの小説内で確立されているとはいえ、奴隷同然で文明の恩恵に与れない加工種(エルフ)がそんなものを反政府的な目的のために私用することが可能なのか。大体、この台詞を向けられた加工種(エルフ)のアルト自身が、数行先では「それこそ女の子を産ませたあと」と言っているのだ。
結局、おちば様のこの台詞は、ろくなものを食ってなさそうな種族としての加工種(エルフ)全体に対する罵倒であり、「あたしを監禁して何度も出産させるつもりか。それなら、まずあんたらの暮らしぶりを種族単位で向上させて、皮下脂肪がたくわえやすい環境を整えてみせろ。でないとあたしの貧弱な身体はそんな重労働にすぐ音を上げてしまうぞ」という脅しではないか。こう考えれば一応理屈は通るようだが、それにしてもまわりくどい。

(4)セノン(妹音)ははっきり「隻腕」と書いてあるのだから、挿絵が彼の左手を義手として描いているのはおかしい。長めの袖で隠せばよかったろう。

(5)「先端の乳首は薔薇のようだ」(333頁)はいただけない。「薔薇のように鮮やかなピンク色だ」ないし単に「薔薇色だ」とでもするか、せめて「薔薇の蕾のようだ」と書くべきだろう。

(6)以前の記事でもおちば様が無力さゆえに何度か「子犬」になぞらえられるという事実に注目したが(日日日『のばらセックス』(続き))、この比喩を終わり近くまで使い倒しつつその価値を負から正へと転換する処置があると、たぶんなおよい。それにはどうするか。
終章「いつかは散る薔薇」では開始早々に後背位、いわゆる「ドッグスタイル」の幸福そうなまぐわいが出てくる。
これの位置をもっと後にまわすのだ。
具体的には、自らの出生の秘密に関わる綿志の記憶をおちば様が追体験する場面の直後、すなわち大詰めの敵地潜入の直前に。
要するに、「ソプラノの男性器は、見慣れないうちは異様だった」というきわめて魅力的な(したがって変更しがたい)書き出しから敵地潜入の直前まで現在時制では一貫して性交が続いているということにして、その途中に上記追体験についての回想を丸ごと押し込んでしまってから(これは回想の二重化という、それ自体として面白い結果につながる。どうせこの章は一人称なんだから、時制が少々ごちゃついても問題ない)ドッグスタイルでの挿入に移るか、または時間の流れはとどこおりなく通常通りということにしつつ、章の冒頭での性交の体位は変更して敵地潜入の直前にいま一度ドッグスタイルでのまぐわいを設けるか、すべきなのである。
いずれの処置を選ぶにしても、「犬」の比喩の価値転換によって伏線のこぎれいな回収が実現するし、加えて「ペニスからヴァギナへ」という作品全体の主題も明瞭になることが期待できる。
現行の叙述の順序だと敵地潜入の直前に上記の追体験がくるわけだから、作中最後のおちば様の性的経験は結局綿志の感覚を介した疑似射精ということになってしまう。たしかに、ファロセントリズム(男根中心主義)の相対化(なにしろ対象に言及しないと相対化はできないのだ)、および動機から行動への滑らかな連続という点でこの順序にも長所があることは否定できないし、なによりも二人目以降の女性の出現に先立って一人目(しかもそれは話者自身である!)が生まれるに至ったいきさつが回顧されるのは合理的だ。だが、恋人同士の性器結合に比べると明らかに不完全燃焼気味なプレイ内容のもたらす少々散漫な印象が、あとに続く戦闘の場面にまで波及してしまうのは惜しい。
再版というか書き直しの機会があれば、そのあたりの事情は再考を願いたいところである。

まあ、以上はしょせん難癖の類で、脳内補正すればよい程度の事柄ではあるのだが。
これも作品分析のいちぶ(あっ、日日日の書き癖が移った)ということで勘弁してくだされ。

category: 『のばらセックス』

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日日日『のばらセックス』4 

今日も今日とて日日日『のばらセックス』のお話。

この作品は一応遠い未来が舞台ということになっていて、現在では到底考えられないことが科学技術の発展によりいろいろ可能となっている。
で、その種のSF的な細工は、悪くすると「何でもあり」という状況につながりかねない両刃の剣だが、『のばらセックス』での使用法はつねに機能本位に徹した模範的なものなのだ。

遺伝子工学が生み出した人類もどきの「加工種」(「エルフ」というルビが振ってある)の設定を例にとる。
加工種の恋人であるソプラノ君に対して、おちば様が不承不承男性的な性行動をとる場面に注目しよう。
「じっとりと汗ばんだ鎖骨のあたりにいやらしい桃色の、呼吸器官」(38-39頁)とある。
これは、肉体的には健全な男性だが不能に近いこの時点でのソプラノ君の、性的な受動性をほのめかすのにうってつけの描写だ(ただしあくまでも「えら」にすぎないので、それ自体は性器とは無関係)。
対して二人の関係がもっと一般的な男女のそれに近くなり、ソプラノ君が旺盛な性欲を発揮するようになると、こんな記述が出てくる。「加工種(エルフ)の精液は多い。遺伝子を改造された彼らは弱い種族保存能力を補うため、そういう機能を後付けされた。加工種(エルフ)同士の性交は一晩中つづくという」(302頁)。そのわけはほかでもない、今度は彼の性的な能動性を、人格とは無縁な形で強調する必要があるからだ。
いずれのくだりも、人間のキャラクターではこうはいかない。

この加工種の設定と並んでもう一つ見落とせないのが、整形を含めた医療技術の発達だろう。
最終的には女性の誕生(量産?)につながる以上これが作中で最も重要な要素であることは疑いないが、
そこに至るまでの経緯にかんがみても、鼻や顔面の損傷がきちんと修復されることで陰惨な雰囲気が払拭されているのは素直に喜ばしい(余談だが、このソプラノが少年の鼻をかみちぎるという行為は、「蟲と眼球シリーズ」に出てきた眼球抉子さんの所業を彷彿させるものだ。どちらも明らかに去勢を連想させるが、それでいて去勢への防衛反応という印象が希薄なのはなぜなのか。このあたり、日日日の作家としての特質に踏み込む話題になりそうだが、むしろそうなりそうだからこそここでは深く問わずにおきたい)。
しかしこの荒唐無稽なほど高度な医療技術の恩恵はそれだけではない。まさしくこれあるがゆえに『のばらセックス』は、限りなく完全に近い性転換を可能ならしめる点でクロソウスキーの『歓待の掟』を凌駕し、また致死傷からの復活を可能ならしめる点でバタイユの『眼球譚』を凌駕するからだ。
妻を客人に提供せんとする歓待の理想に憑かれたクロソウスキーには、自分自身が女として男に抱かれるという状況は想像できまい(『バフォメット』は以前読んだけど、いま内容を忘れているから検討できない…)。また人身供儀や破壊的な蕩尽の瞬間に強く魅せられて、その瞬間にまばゆく炸裂する至高性の輝きを絶対視する唯物論者バタイユにとって、斬首からの科学的蘇生などという空想は絵空事のはずである。しかしながら、登場人物は作者の性別と無関係に創造できるということ、また作中での死は真の死でなくしたがって一回きりとは限らないということが、フィクションの教訓(の一部)でなくてはならないはずだ。
してみれば荒っぽい論になるが、少なくともこの二点にかけては、『のばらセックス』のほうが両人よりも虚構というものの普遍的真理に忠実な気がする。

ちなみに上で言及した致死傷というのは「謝肉祭のハーモニー」の章のいわゆる「ぶっかけ」の場面(うろたんとか、エレクトさわるみたいなの)の締めくくりにあるものだが、オタク向けのエロティシズムへの痛烈な皮肉になっているのが面白い。
「世界でたった一人の女性」のばら様の痴態を目の当たりにして興奮を抑えきれない男性たちの自慰を、「これが、架空の母親へ捧げる、彼らの信仰心」(290頁)などという修辞を用いることで、母親への恋慕の念として規定すると同時に宗教的な文脈の中に位置づけてから(むろん、精神分析的にはこの説明で完全に正しかろう)、チェーンソーで切り落とされた彼女の生首(中身はおちば様だ)をごろりと転がしてみせるのだから、これはもうオタクへの悪意以外の何ものでもない。まがうかたなきポルノグラフィでありながら、この種の辛辣な多義性があちこちに見出せることも、『のばらセックス』を読むことの楽しさの一つだ。

category: 『のばらセックス』

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日日日『のばらセックス』3 

また日日日『のばらセックス』について。
ちょっとしつこいかな。
でも、と思う。
同時刊行の『平安残酷物語』のほうが、どこの書店でも店頭での減りはこころもち早いのだ。
未読の小説同士を比較して優劣、というか自分との相性をみきわめる技術を心得た人は稀だろうから、
要はみなさん恥ずかしがってらっしゃるのである。
エロい小説を買うのをためらっているのである(一方的な決めつけ)!
こんなことで良い本が読まれないようでは困る。
購入を迷っている人は、我々無名の読者が作者以上に恥ずかしがるいわれはないことを知るべきだと思います。

なんとなく、西尾維新の『ネコソギラジカル』とかとの比較を思いついた。
いやまあ、男性がどうにかして人為的に女性を創造する、というだけの共通点なんだけど。
でも、これ(女性の創造)を一種のフィクション論として、
虚構というものの隠喩として読んでみたらどうだろう。
西尾維新は形而上学的な概念にあれこれ肉付けしてキャラクターや筋書をこしらえているのに対して、
日日日の小説は血と肉と精液と愛と憎しみが原料で、できあがった筋書そのものが形而上学だ
(もろに私の偏見だけど、偏見をもっともらしく立証してみせるのが批評だから致し方ない。
どうせご本人たちもこんな辺境ブログ見てるわけないし、好き勝手言わせてもらう)。
だからくせものだ、とも言える。概念的な整理を施せないわけではない。
むしろ施しやすいのだが、そこに収まりきらない要素がどうしても残ってしまう気がする。
『狂乱家族日記』にしても、設定自体は西尾が零崎一賊を通じて提示した、
「見ず知らずだった者同士が寄せ集めの疑似家族を形成する」という状況とかぶっているのだが、
その結果何が起きるのか、を踏み込んで追究しえている点が違う。

たしかにどの作品をとっても西尾維新の着眼点はたぐいまれなモラリスト(人間通)ならではのそれだし、
サスペンスを整然と組織しつつ決まって結末近くで大きな盛り上がりを設けているのだから、
小説としての姿かたちはいたって端正なのだ。
にもかかわらず、である。
もっぱらキャラクター同士の関係という具体的状況の中で倫理の問題を探究していることに由来する、
わりきれない、もてあますほかないような生々しさは日日日のものだ。
是非は別にして、これはこれで大変に小説らしい特徴ではないか。
何が何でも女性を創造したいという「馬鹿みたい」(378頁)な願いが、
本物の奇跡を起こせるほどの切実さで読者の心臓に引火する。
この唯一無二の情動的な強度こそ、我々が『のばらセックス』を『ネコソギラジカル』なり、
ヴィリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』なりピグマリオン神話なりの亜流と断じることを禁じるもの、
あるいは少なくともその一要因である。
それだけにキャラクターの性格は、たとえ奇抜な口調や服装を伴おうと、じつはさほど明確でない。
「こいつはいつだってこういう奴だ」と断定できるほどの材料がないのだ。
どいつもこいつも実在の少年少女そのもののように不安定でつかみどころがなく、
刻々と移ろう状況の中で言動が変化していく。
この点はたぶんどの日日日の小説でもそうだ(とはいえ欺瞞や演技や変装がはびこる『のばらセックス』の世界こそが、かかる不安定性を抜きん出て誇大に、したがって巧みに可視化しているようだが)。
私はなにも揚げ足をとっているのではない。
各キャラクターの性格をあらかじめぎちぎちに詰めておかなくても話が進む小説とはいかなるものか、
という問いを提起しているのだ。
あるいは『涼宮ハルヒの憂鬱』が問わなかった、「己の全能性を自覚する全能者」の苦悩を
『ささみさん@がんばらない』が描いていることを挙げてもよい。
この点で示唆的なのが、『のばらセックス』の一応の大団円では、今後は平和な日々が続きますように、
という祈りの場面だからかあえて「気が抜ける雰囲気」(379頁)が演出されていることだろう。
静かな充実感があってとても感動的な場面だが、その美しさの幾分かは、
「ここらで盛り上がるべし」という物語の要請に登場人物を完全には従わせていないところに生じるものだ。
この肩透かし的な生動感の正体は、一体何なのか。

とりあえずここまで。
気が向いたら続ける。

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日日日『のばらセックス』(続き) 

いきなり前回の記事から間があいてしまい、
みじんもブログらしさを目指す気配が感じられないのは我ながらあきれる。
が、まあ思いついたので書く。
日日日『のばらセックス』(講談社)についてもう少し。

個々のエロい場面についてだ。
特色として抽出できるのは
(1)男の娘(少女っぽい美少年)
(2)交合そのものに続く、妊娠・出産等「その後の経緯」への暗示
(3)くどいフェラチオ
(4)包茎へのフェティシズム
(5)性的パートナーを「犬」になぞらえる
この五点くらいか。
いずれも最近のオタク向けエロコンテンツでは定番だろう。

で、(1)(2)(3)はまあ偶然の一致として説明できるけど、
(4)と(5)については熱心かつ冷徹な事前調査を経ないかぎり出てこない結果ではないか。

なかでも(5)は興味深い。
エロマンガのヒロインの典型は一昔前は猫だったが、
現在では関谷あさみ『Your Dog』とかあるし、
もはや犬に移行しているのではないか、というのが私の持論だ
(似たことをすでに言ってる人がいたらごめんなさい)。
犬星やいぬぶろに至ってはペンネームにすら「犬」が入っているし、
藤ますやアシオミマサトも犬関係の作品を描いていたはず。
男が女を「このいやらしい雌犬め!」と罵倒したり、
逆に女が男に「あなた私の犬になりなさい」と命じたりする場面に見覚えのある諸氏も多かろう。

ではなぜ、エロマンガのヒロイン像は猫から犬にパラダイムシフトを遂げたのか。
両者の特徴を列挙すると、
猫は気まぐれで誇り高い、でも見方によってはその小生意気なところが魅力的なのに対し、
犬は頑固一徹で主人への忠誠心が強く、人間に振り回される側ということになると思う。
要するに、二人登場人物が出てくれば必ずセックスしなくてはならない、
エロマンガというジャンルの掟を考慮した場合、
どちらかのパートナーを犬扱いしたほうが頁の無駄が省けて効率がよいのだ、たぶん。

この変化は強姦ではなく同意の上での性交と、
それにまつわるキャラクター同士の信頼を濃く描けるという意味では進化かもしれない。
しかし性行為が元来抜きがたく持っているはずの暗い暴力性を表現しようとせず、
単にそれから目を背けているという意味では後退かもしれない。

いずれにせよ、小説では西尾維新の『猫物語』やら『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の黒猫やら、
まだまだ猫の時代は続きそうだ。
日日日の『狂乱家族日記』でも、自称「全知全能」の凶華様は猫娘だし。
キャラクターの内面に入り込んで独白をやらせるにしろ、
性交ほど直接的でない微妙な人間関係がもたらす葛藤を描くにしろ、
猫的な独立不羈(あるいは孤独)は小説というジャンルと相性が良いのかもしれない。
小説は他の藝術と比べると、人間(登場人物)を個として確立しようとする側面が強いからだ。
そうあらざるをえない。
何と言っても長々とつづられた言葉だもの。

ただ、小説であっても『のばらセックス』のように性行為を正面切って描くということになると話は別だ。
「子犬みたいと形容される、さほど面白味のない自分のツラ」(8頁)。
「いくら願ってもあたしはちびすけな子犬」(14頁)。
「どれだけ強がっても、あたしは十四歳の子犬」(57頁)。
「どんな狂犬も足を掴まれたらどうしようもないのだ、無力だ」(132頁)。
「君にはこれから犬のようにたくさん子供を産んでもらわなくちゃいけない」(154頁)。
「無力な子犬」(165頁)。
「いつも子犬の耳のかたちに結わえている髪の毛」(174頁)。
「飼い主の手を噛む馬鹿犬」(184頁)。
「ところ構わず粗相をするような犬っころ」(189頁)。
「何だこのひと、あたしを子犬とでも思ってるのか」(358頁)。
「捨て犬みたいだったあたしの心」(365頁)。
まだほかにもあるかもしれんがとりあえずこれだけ引用してみた。
まあ、おちば様が自分の無力さを予感するか、思い知らされる場面かな。

強引にまとめると「犬」の比喩はまさに、
犬的な一途さが裏切られ役として小説の内容上必要だから出てくるのだ。
おちば様が猫っぽかったら、たぶんどんな事件が起きてもなんだか平気そうで、
けなげさが足りなくてしまらないと思う。つまり『のばらセックス』によって、
「猫が魅惑的な個性を振りまく小説」と「犬が一方的な性的服従を見せるエロマンガ」との中間に、
「犬(っぽい少女)が降りかかる性的な災難をくぐり抜けて個人として成長する小説」が力強くも誕生したのだ。

そういえば日日日の原作で『ぽち軍曹』という漫画もあった
(犬が人間のように見えて困る軍人さんのお話)。
『ギロチンマシン中村奈々子 輪廻転生編』でも、「犬耳が生えて語尾がワンになる」という、
どう考えても小説の本筋とは無縁な機能がロリエに搭載されてたし。
「愛の人」である日日日の作品は、それゆえに犬と親和性が高い。
…のかもしれない。

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